帝政ローマのガリア統治
帝政ローマ期、ヨーロッパ中央に住む鉄器文明人、ケルト民族が不意打ちでローマ帝国領内に侵入していた。とくに黒海やカスピ海周辺で五賢帝あたりまで続く。トイトブルク森の敗戦で、ドイツ・ゲルマン民族の国境警備は困難を極めた。ゲルマンとケルトを同時に撃退はできない。そこでフランス方面のガリアに住むケルト民族をまずは制圧にかかる。
人身供犠(じんしんくぎ)を風習とした野蛮なケルト民族支配層をドルイドと呼んだ。アウグスティヌス帝、ティベリウス帝、クラウディウス帝の三代はドルイドを徹底的に弾圧。初期キリスト教は律法を遵守する生活共同体=ユダヤ教ナザレ派とみなされ、当初、捨て置かれていた。ユダヤ人ナザレ派は律法を守っても、ギリシア人ナザレ派は律法なんて守らない。なにそれおいしいの?イエスあるのみ。ローマの神々に供物をささげるだけで許された。仲間内から、「棄教者」と蔑まれたが。ユダヤ人がケルト民族なきあと、ガリア方面に入り込んできた。
シリア商人が、シリアの高度に発達した工業をバックに、絹・羊毛・リネンといった高級繊維品、靴など皮革製品、ガラス製品・模造宝石をローマにもたらした。その活動範囲はローマまでで、ローマからガリアにはガリア商人がもたらした。
ところが、3世紀以来、次第に下降線をたどりつつあったガリアの経済生活は困難を極め、匪賊が横行し、工業は消滅し、商業活動が見られなくなった。都市は荒廃衰微し、都市生活から田園生活へもどり、自給自足経済に退歩した。4世紀後半のゲルマン民族侵入を最底辺とし、5世紀になるとシリア商人やユダヤ商人がガリアになだれ込んだ。東ローマ帝国が厳重な統制経済と重税を課したため、有利な市場でなくなったこともあり、西のゲルマン民族が打ち立てた諸国家で、自由な商業活動を展開できた。ゲルマン王にとって、シリア商人やユダヤ商人は必須の金融機関であり、経済政策の顧問だった。
フランク王国の大都市にシリア商人の大きな居留地が出現。ゲルマン民族がオリーブ樹木を切り倒し、ブドウ畑を荒らしたため、ガリアの名産だったぶどう酒とオリーブ油が衰退し、シリア産、とくにガザ・サレプタ・アスカロンのぶどう酒が珍重・輸入された。ぜいたく品だった絹織物も普及し、清貧を説く聖ヒエロニムスを嘆かせた。さらにシリア商人は、シリア方面で死んだ聖人たちの聖遺物をたくさん販売した。聖人や殉教者に乏しいガリアのフランク人は、シリア方面の聖人の遺骨や聖遺物を珍重し、多額の資金を注ぎ込んで購入し、聖遺物を得た聖人に聖堂を建設して崇め奉った。
7世紀、ササン朝ペルシアが東ローマ帝国領シリアを征服、荒廃させたため、シリア人やギリシア人が大量にフランク王国に亡命。ギリシア語や一般教養が非常に深かったため、ギリシア人の教皇や、シリア人の教皇が輩出されるまでに至った。多くのギリシア人やシリア人が、ガリア・フランク王国の修道院長や司教に就任していった。こうしてカロリング・ルネサンスに大きく寄与した。
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