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2026年5月25日 (月)

古代ギリシアの面白さ

拝金主義で貪欲に植民活動に勤しむコリントス、奴隷をいっぱい抱えた暇人集団のアテネ、修行僧のごとき禁欲主義のスパルタは極端なポリスである。ポリスは1500あると言われ、エーゲ海の島の数たるや6000。島人も半島人もあっちになびいたり、こっちになびいたり、中途半端なポリスが大部分だ。中部ギリシアのちっこいポリス、隣接したフェライとラリサがずーっと喧嘩し続けて、周囲を巻き込む。なぜそこまで仲が悪いのか。コリントスからアテネに行くには、嵐で沈没するリスクを背負いながら半島をグルーっと周回しないといけない。運河を掘るには大工事すぎて無理。そこでディオシコス(船の陸上輸送路)を独占して儲けに儲けまくったコリントス。ディオシコスのアテネ側にメガラがあり、海側はアテネの顔を立て、陸側はコリントスの顔を立てる。スパルタは土地が豊かで自給自足できるわさ。土地が痩せて食物が獲れないコリントスやメガラはスペイン、南フランス、イタリア、シチリア、黒海北岸に植民市を築いて穀物を持ってくる。黒海を通過するには、トラキアの王国オドリュサイやゲタイのご機嫌をうかがいながらやらないといけない。プロ戦争屋のスパルタの気を引くため、デルフォイを乗っ取って巫女さんの神託を自分に有利なように操作する。巫女さんの神託をめぐって周囲のポリスが戦争を続ける。スパルタはやっぱり頼りになる。スパルタのおかげで勝ったものの、やっぱりスパルタは付き合え切れないヤツ。寝返る、あやまる、寝返る、あやまる。他人がやっと育て上げたポリスをアテネが横からパクる。パクった後は偉そうに先輩風を吹かせる。そりゃ嫌われるわな。本国は民主政でも植民市では王政のごときふるまい。自治を認めても言うことを聞かなければお仕置きが待ってる。帝国主義者ペリクレスと言われた所以。

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2026年5月21日 (木)

「宝塚GRAPH」アクリルスタンド購入

昨日、発売されていたんですね。華純沙那ちゃん、白河りりちゃん、きよら羽龍ちゃんが、「在庫がありません」状態。買いたかったのに残念。先日買った、詩ちづるちゃんも「在庫がありません」になっている。買っておいてよかった。

さっそく残っている、花妃舞音ちゃん、美羽愛ちゃん、山吹ひばりちゃんをこんな深夜に急いで購入。あと、白綺華ちゃん、三空凜花ちゃん、妃華ゆきのちゃんが出れば買いたい。

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2026年5月16日 (土)

カロリング朝フランク王国とイングランド王国

768年 父王ピピン3世死去。兄カールと弟カールマンが相続。

769年 アキテーヌ大公ウナールの反乱。バスク人酋長ルプスに援軍を拒否されて、ウナール敗死。

770~771年 ランゴバルト王デジデリウスの娘と結婚したがすぐ離婚。

771年 カールマン急死。妻ゲルベルガは二人の子供を連れて、ランゴバルト王デジデリウスのもとに亡命。ローマ教皇ハドリアヌス1世に接近して、カールマンの遺児をフランク王として聖別。

772年 カール大帝がザクセン侵攻。

773年 教皇ハドリアヌス1世が、ランゴバルト遠征をカールに依頼。ヴェローナ占領、カールマンの遺児と未亡人を幽閉。

774年 ローマで「パトリキウス」の称号を得て、ランゴバルト王降伏。

775年 カール大帝がザクセン遠征。

776年 ランゴバルト王アダルギスを担いだフリウーリ大公フロドガウドゥスの乱を鎮圧。

777年 バルセロナ知事イブン・アル・アラビが、コルドバ太守に対する戦いに援軍を送ってほしいとカールに要請。

778年 スペイン遠征。サラゴサに進軍したが、裏切られたため、パンプローナ要塞を破壊して帰還。ロンセスバレス峠でしんがりを務めたローランが戦死。アキテーヌ住民にカールへの不信感が募る。「あいつ、俺たちを守れるのか?」カール大帝はアキテーヌ全土にわたり、伯、修道院長、従士をフランク人の中から任命した。

アキテーヌ下位王国に9つの伯領を設置した。

ブールジュ、ポワティエ、ペリゴール、オーヴェルニュ、ヴレ、トゥルーズ、ボルドー、アルビ、リモージュ

ポワティエ離宮で、妻ヒルデガルドが双子男子を出産。兄フルドヴィクス、弟クロタリウス。弟クロタリウス急死。兄はのちのルイ1世(ルートヴィヒ1世・敬虔王)となる。

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778年 ヴェストファーレン豪族ヴィドキントの反乱。スペイン遠征失敗に間髪を入れずにザクセンに転戦。

780年 リップシュプリンゲ軍会で、宣教管区制を導入。

781年 妻ヒルデガルドが産んだカールマンを教皇ハドリアヌス1世が洗礼。長男ピピンはくる病で国王不適格とされ、教皇の独断でカールマンをピピンと改名。

カールマン(ピピン) イタリア王に即位

ルートヴィヒ アキテーヌ王に即位

長男ピピン 789年に廃嫡、792年に反乱、810年死去まで幽閉

781年 アングロ・サクソン人アルクイヌスがヨーク大司教に叙任。アーヘン宮廷に、知識人を集めて、カロリング・ルネサンスが開花。アーヘンには温泉が湧き出ており、カール大帝は大の入浴好きだった。ラヴェンナの東ゴート族テオドリック大王の宮殿をアーヘンに移築した。

782年 伯制度(グラーフシャフト)創設。手始めにザクセン伯を設置。

785年 ヴィドキント降伏し、キリスト教に改宗。

786~787年 ベネヴェント大公アレキス2世のベネヴェント侵攻。ビザンツ帝国コンスタンティノス6世(771~797)激怒。

787年 バイエルン大公タッシロ3世のバイエルン侵攻。

788年 アヴァール族と共謀を図ったタッシロ3世幽閉。

789年 カール若王がネウストリア王に即位。

789年 トゥルーズ大公コルソンが、バスク人アデレリクスに捕囚。アキテーヌ国王ルートヴィヒはアデレリクスの言いなりになったことにカール大帝が大激怒。

790年 ヴォルムス王国会議で、アデレリクスは国外追放、コルソン解任。聖ギヨームをトゥルーズ大公に任命して、バスク人制圧。

カール大帝は、アヴァール遠征。

アキテーヌ王ルートヴィヒはイタリア遠征。

793年 後ウマイヤ朝ヒシャム1世(788~796)の治世、長男将軍アブド・アルマリクがヘローナ、ナルボンヌを劫凉。

オルビエル河畔の戦い

後ウマイヤ朝アブド・アルマリク 勝ち

vs トゥルーズ大公ギヨーム 負け

793年 パンノニア侵攻して、ライン水系とドナウ水系をつなぐ運河掘削計画が頓挫。

794年 タッシロ3世が大公権放棄、アレマン人ゲロルドをバイエルン大公に任命。

799年 バイエルン大公ゲロルドとフリウーリ大公エリクがアヴァール遠征で戦死。

*カロリング朝の農業

「御料地令」

修道院「所領明細帳」

*カロリング朝の神学論争

780年 西ゴート貴族ベネディクトゥスがアニアーヌ修道院を建設。「聖ベネディクトゥス戒律」をフランク教会に普及させた。カールマルテルの俗人修道院長制によって損なわれた修道規律を再建した。

787年 イレーネの熱意で第2回ニケーア公会議開催。ビザンツ帝国は聖画像崇拝に復帰した。教皇ハドリアヌス1世は、フランク王国欠席のもとで決議された議事録を謝りの多いラテン語に訳してフランク教会に送り付けた。オルレアン司教テオドルフスは、ビザンツ帝国を非難。教皇ハドリアヌス1世は、ビザンツ皇帝コンスタンティノス6世を破門にすることで、カール大帝の矛をおさめさせた。

794年 カール大帝がフランクフルト公会議開催。聖画像崇拝を拒絶した。

797年 コンスタンティノス6世が母イレーネによって盲目刑。

798年 ビザンツ帝国使節がカール大帝に訪問。皇帝権をカールに引き渡した。

800年 教皇レオ3世がカール大帝に帝冠を授与。正式にフランク皇帝カールが誕生した。ネウストリア王カール若王がフランク王に即位。

800年 デーン人海賊劫凉に対し、カール大帝が大西洋艦隊を創設

802年 カール大帝がフランク使節団をコンスタンティノープルに派遣。イレーネとカール大帝の結婚を提案した。ほどなくイレーネ失脚、新皇帝ニケファロス1世が即位。

 

796年 ヒシャム1世死去。長男アブド・アルマリクと次男アル・ハカムがアミール位継承問題で内戦。バルセロナ知事ザドとアル・ハカムの叔父アブダラーが、アーヘンのカール大帝訪問、アル・ハカム討伐の援軍を要請した。

コルドバ太守アル・ハカム1世(796~822)

vs バルセロナ知事ザド&アストゥリアス王国アルフォンソ2世

ザドがコルドバ太守アル・ハカム1世に寝返る。

801年 カタルーニャ地方のバルセロナ征服。ヒスパニア辺境領を設置。ヒスパニア人難民に対しアプリシオ制を施行。

1.無主の荒撫地を30年間継続して耕作すれば、所有権を得る。

2.軍役義務を課すが、出軍はヒスパニア辺境領に限る。

3.すべての公租公課を免除する。

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751年 タラス河畔の戦い アッバース朝が大唐帝国に勝利。

クーファで絹織物の生産、サマルカンドで製紙。

762年 バクダード着工

766年 バクダード完成

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シーラーフ インド西海岸産チーク材も用いて、大型商船を造船。

ビラード・アス・アカーリバ ハザール王国支配下のイティルから、キーウ・ルーシ支配下のドニエプル川をさかのぼる。交易品は、奴隷、黒狐毛皮、騎兵軍靴素材の鞣革(なめしがわ)。ルーシ商人、スラヴ商人、スカンジナヴィア商人が担当。

ビルカハイタブ スカンジナヴィア人とフリーセン人が交易。

吐蕃人が劫凉するので、シルクロードより海の道が重用された。ポンディシェリ近郊のアリカメドゥに寄港。

 

811年 最優先後継者カール若王が死去。

812年 カールマン(改名ピピン)の息子ベルンハルトがイタリア王即位。

813年 アキテーヌ王ルートヴィヒ1世(敬虔王)がフランク皇帝即位。

814年 カール大帝死去。

816年 教皇レオ3世死去、教皇ステファヌス4世(816~817)即位したが、急死。教皇パスカリス1世(817~824)が即位。

817年 ルートヴィヒ1世(813~840)が帝国措置令を発布。各国の後継相続者を決定した。

818年 イタリア王ベルンハルトの反乱。ベルンハルト、盲目刑で死去。

826年 スペイン辺境領でアイゾの反乱。コルドバ太守アブー・ダル・ラーマン2世(822~852)に援軍要請、将軍ウバイド・アッラーがスペイン辺境領を劫凉。

827~828年 ブルガル人が上パンノニア侵略。

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2026年5月13日 (水)

中世イングランドと中世フランクの関係

カロリング朝王家血統の女系がウェールズ系(ケルト系)王族であり、男系がフランク新興貴族だということがわかった。メロヴィング朝フランク王国で宮宰として王権を簒奪できるまで強大になれたのは、欧州王族としての血筋の良さの上、イングランド王国との交易で得られた莫大な資金が原動力だった。

カール大帝とアッバース朝のハルン・アル・ラシードとの親しい関係が、イスラム・グローバル経済圏加盟によってカロリング朝財政の安定化と、カロリング・ルネサンスをもたらしたことは十分知られている事実だ。

では、カロリング期にもイングランド王国とどのような関係がもたれていたのか、東だけでなく北に目を向ける必要を、私は今、感じている。西は大航海時代以前の大西洋、南はアッバース朝と対立をなした後ウマイヤ朝なので、交易にも限界はあろう。南はイスラムを嫌って逃れてきたヒスパニア難民問題があった。受け入れ先は南仏のプロヴァンスとアクイタニアだが、ちゃんと言うことを聞くかどうか。ローマ教皇とビザンツ帝国の背後の動きが非常に気になる。

アングロサクソン系イングランド七王国(ヘプターキ)はノルマン人ヴァイキング来襲を受けており、南のフランク王国との交易が平時のようにはいかなかっただろうと予想はできる。この領域の研究は大変興味深い。

のちのカペー朝は十字軍派遣に端を発し、アンジュー帝国をめぐって、ノルマン系イングランド王国と揉める。ヴァロア朝は英仏百年戦争で真のフランス王としての覇権を争い、勝った勢いで親英ブルゴーニュ公国を倒して西フランク統一。ビザンツ帝国無きあと、イタリアまで触手を伸ばし、ハプスブルク家と争う。ブルボン朝は三十年戦争で荒廃したドイツを乗っ取り東西フランク再統一をめざす。

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2026年5月11日 (月)

白河りりちゃん4

白河りりちゃん、東上公演、波上ヒロイン獲得、おめでとう。

来年、新トップコンビが誕生すると強く予想される月組は、花組、雪組と並んで、実力満点のトップコンビ率いる美人娘役王国になるだろう。

トップはやはり、二番手も座長も経験して、下級生の組子を引っ張っていくお手本にならないとね。とくに芝居の月組は。

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2026年5月10日 (日)

アングロサクソン七王国とメロヴィング朝フランク王国の交流

フランク族は、フランク同盟と言われ、雑多なゲルマン系部族の総称。フランク王国の始祖はキルデリクス、クローヴィス親子。出自はサリー族といった有名どころでなく、シカンブリ族。最初にテューリンゲン王国をつくった酋長・テューリンギ族から嫁をとってフランク人たちの信頼を勝ち取っていった。東ローマ帝国にもご挨拶。東西分裂後、西ローマ帝国が急激に衰退していくと、フランク人商人の国とローマ人将軍の国が隣接する。中途半端にイタリア本国からの命令に応えローマ人のトップが戦死すると、フランク王国が優勢に傾く。西ローマが滅亡したところで、ローマ人の国を倒してガリア遠征用の兵器をいただく。南には、黒海北岸から新天地求めてやってきた西ゴート族の国があり、目障り。ブルグント王国は滅ぼしたが、イタリアの東ゴート王国と西ゴート王国が連携し、分家のアクイタニア大公国がゴート族と組んでフランク王国に面従腹背、謀反を起こす。バスク人はゲリラ戦術で頑強に抵抗。東ゴート王国はランゴバルド族に滅ぼされて、西ゴート王国は孤立し、東ローマ帝国と対立。フランク王国はアウストラシアとネウストリアに2分裂してガリア南部のアクイタニア大公国、西ゴート王国を討伐できず、ガリア統一がなかなか果たせないでいた。

383年 ローマ将軍マクシムスがブリタニアを放棄して、ローマ進軍。マクシムス帝(383~388)即位。

ローマ正規軍が撤退したブリタニアは、ケルト人のアントニヌス長城&ハドリアヌス長城越え失地回復、アングロサクソン人の侵略を受けるようになった。

498年 アイルランドのスコット人がダルリアダ王国を建国

ブリタニアへキリスト教アタナシウス派布教活動とともに、イングランドのアングロサクソン人とフランク人との交易がさかんになってきた。文明未開国だったブリタニアの一次史料が乏しい。

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5世紀 ケルト系ブリトン人が、ケルト系ピクト人や、大陸から移住してきたザクセン人に追われて、大挙してブルターニュ半島に移住した。

マーシア王国の政権争いに負けた亡命王族がフランク王国マーストリヒトに亡命。ここは交通要所であり、アウストラシアとネウストリアの係争地で、外国人が入り込みやすい地だった。アウストラシア政権が、マーシア王統血族を厚遇、その子孫のピピン1世を宮宰として任じた。イングランド交易やブドウ荘園経営で財力を増す。ピピン1世の息子グリモアルドゥスはポワティエ司教ディドと示し合わせて、ダゴベルトゥス2世をアイルランド巡礼に連れ出して、自分の実の息子キルベルトゥスを養子に挿げ替えて即位させた。この手際の良さは、イングランドとピピニーデン一門との深くて広い人脈を証明する。グリモアルドゥスは陰謀発覚で処刑、男子継承者が断絶。妹ベッガが名門アルヌルフィンガー家に嫁ぎ、莫大な財産はアルヌルフィンガー・ピピニーデン一門に相続された。のち、ピピン2世は、フランク人宮宰エブロインから外国人とみなされ執拗に排除され、「冬の時代」を迎える。ピピン2世と、フランク貴族フゴベルトゥスの娘プレクトルディスとの結婚でアルヌルフィンガー・ピピニーデン一門が復権。ピピン2世が宿敵エブロインを暗殺した。ピピン2世の死後、庶子カールマルテルがプレクトルディスに幽閉状態。アウストラシア派のプレクトルディスが、ネウストリア派との戦闘に敗北した隙に、カールマルテルが脱獄。戦略に長けていたカールマルテルがネウストリアに連戦連勝でアウストラシア王国の実権を掌握した。

580年 パリ王カリベルトゥス1世の娘ベルタが、ケント王国エゼルベルト(585~616)に嫁ぐ。

エゼルベルト王「エゼルベルト法典」

597年 ローマ教皇グレゴリウス1世(590~604)がアウグスティヌスを伝道活動に派遣。エゼルベルト王がキリスト教アタナシウス派に改宗。

7世紀 アングロサクソン人ナンティルディスが、ダゴベルトゥス1世の2番目の王妃になる。

エルキノアルドゥスの娘エンマが、ケント王国エアドバルド(616~640)に嫁ぐ。エルキノアルドゥスは、ダゴベルトゥス1世の母ハルデトゥルディスの親戚で、のちにネウストリア宮宰に就任する。

マーシア王国ペンダ王(625~655)

642年 マサーフェルスの戦い

マーシア王国ペンダ&ウェールズ王国キンディラン 勝ち

vs ノーサンブリア王国オスワルド 負けて処刑

662年 ビザンツ帝国コンスタンス2世(641~668)がイスラムを恐れてシチリア島シラクサに避難。南イタリアから、フランク王国やイングランドに訪れる重要人物は、ビザンツ帝国のスパイとみなされるようになった。

ネウストリア王クローヴィス2世の早逝後、王妃バルティルディスと宮宰エルキノアルドゥスは、ビザンツ帝国と挟撃されることをとくに恐れていた。リヨン大司教アウムネンドゥスを処刑。カンタベリー大司教テオドルス(タルソス出身)が随行していたナポリ修道院長ハドリアヌスを逮捕したが、のち無罪で解放。

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2026年5月 9日 (土)

宝塚歌劇月組「呂布」「水晶宮殿」(6回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。キャトルレーヴで、「宝塚おとめ」を購入。座席は1階後方上手側でした。

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りっちゃん、上手側であみ君とふくれっ面したり、笑ったり、目線を合わせてずーっとイチャイチャしていました。いいコンビ。

そらちゃん、目力込めたキレキレダンス、上手側でめっちゃ目立ってた。

こありの相手男役は、りひと君かな。

私のオペラグラス見どころは、

1.ののこ、パル、みゅぅずの銀橋渡り「えい、ヤー!」

2.おだりりコンビ、銀橋ハーモニーデュエット

3.ちなつ、二刀流立ち回り

4.いちごちゃんの姑娘ソロ、エトワール

5.おだちん、まのんBLUFFコンビの2階センター歌と小芝居

6.りっちゃんのセンター・バックダンスとWトリオ入り

7.ゆららの妊婦芝居とOLダンス

8.何度も登場、歌える、こありのバックダンス

9.ローリア&みかこ103大阪コンビの退団銀橋渡り

10. いちりんの激唱、ほたるのソロ、ときちゃんのカゲソロ

11. ののこ、すずらん、やえひめのロケット

12. イケメンコンビあみ、雅耀

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2026年5月 4日 (月)

白河りりちゃん3

風間柚乃くん、トッププレお披露目芸文主演、白河りりちゃんが共演。花妃舞音ちゃんは、現トップコンビと共演。新公娘役主演経験者は今月の薫乃咲月ちゃんだけ。今回は、勝負あったかな。正式発表を期待して待っていたい。さっそく関目君にも事情を説明。りっちゃんも芸文、豊中小児科先生にチケット依頼しようかな。

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2026年5月 3日 (日)

西ゴート王国・メロヴィング朝フランク王国・後ウマイヤ朝

378年 アドリアノープルの戦い

ローマ帝国ウァレンス帝(364~378) 敗死

vs 西ゴート族テルウィンギ族 勝ち

409年 スエヴィ族ヘルメリックがスエヴィ王国(409~585)を建国。都ブラカラ・アウグスタ

410年 西ゴート王アラリック、ローマ劫略。

414年 西ゴート王アタウルフ、アッタルスを僭称皇帝に据える。

415年 西ゴート王アタウルフ、コンスタンティウス3世に敗れ、ガリアからヒスパニアへ撤退。

416年 西ゴート王ウァリア、ホノリウス帝と和平協定。

418年 ウァリア、ホノリウス帝から属州アクイタニアを与えられ、西ゴート王国を建国。都トロサ(現トゥールーズ)アリウス派を信仰。スエヴィ族、ヴァンダル族、アラン族を撃退。

419年 スエヴィ王ヘルメリックがヴァンダル王グンデリックを撃破し、ハスディンギ王国を滅ぼした。

428年 ヴァンダル族ガイセリックがアラン族を連れてジブラルタル海峡を渡った。スエヴィ族の背後射撃は免れた。

435年 ガイセリック(435~477)がカルタゴを占領し、ヴァンダル王国を建国。アリウス派を信仰。

435~437年 バガウダエ族の反乱。ローマ軍アエティウスが鎮圧。

438年 スエヴィ王ヘルメリック死去、レキラに譲位。

439~441年 スエヴィ王レキラが、イベリア半島メリダ、セビーリャ、バエティカ、カルタゴ・ノヴァを占領。

455年 ガイセリックがローマ劫略。

 

*東ローマ帝国末期のおさらい

テオドシウス帝(379~395) 東方帝

コンスタンティノープルは、多数のアリウス派と、少数のニカイア派が争っていた。アリウス派は皇帝への協力を拒んで市外撤去。ニカイア派から司教を抜擢し、皇帝が臨席する祭儀に臨んだ。

帝国西部と対抗するために、帝国東部を自らの支持基盤にする必要に駆られていた。さらにウァレンス帝の敗北によって大きく傷ついた軍隊を立て直す必要にも駆られていた。ローマ元老院に対抗すべく、コンスタンティノープル市民に、コンスタンティノープル元老院の門戸を大きく開いた。

内紛は親征したが、自分で対外戦地に赴かなかった。「惰弱な皇帝」であった。

西ゴート人をトラキアに定住させて自治と独自の軍指揮権を認めた。パンノニアにヴァンダル人とゴート人を定住させた。ライン地方はフランク族に防衛を委ねた。

380年 テッサロニキ勅令。三位一体説を信じないものを異端として罰した。これによってアリウス派が排斥された。

381年 コンスタンティノープル教会会議を開催。アリウス派を排斥し、ニカイア公会議で採択されたニカイア信条を正統とあらためて定義した。同じニカイア派でも、帝国東西で主張が異なっていた。アレクサンドリア教会、アンティオキア教会をすっ飛ばして、コンスタンティノープル教会がローマに次ぐ地位に登った。コンスタンティノープル総主教ネクタリオス(381~397)は、テオドシウス帝傀儡と言える。

382年 フォエドゥス条約。ゴート人をドナウ川下流の第二モエシア属州内に定住させた。ゴート人に土地と自治権が与えられる代わりに軍役が課せられ、同盟部族軍(フォエデラティ)と呼ばれた。指揮権はローマ軍人ではなく部族指導者に帰した。

388年 ゴート人、フン人、アラン人など異民族の同盟部族軍を用いてブリタニア簒奪帝マクシムス(383~388)を破り処刑。

*フン人は北匈奴、アラン人はイラン系騎馬遊牧民で、フン人の西進に伴って真っ先に服属し、フン人とともに帝国内に侵入していた。

390年 テッサロニキのキリスト教徒が暴動、これを軍隊が弾圧(テッサロニキの虐殺)。メディオラヌム(ミラノ)司教アンブロジウスがテオドシウス1世を非難・破門。

392年 異教禁止令を発布。キリスト教国教化。

393年 古代オリンピック廃止。

394年 フリギドゥスの戦い

エウゲニウス帝・アルボガスト 負け 

vs テオドシウス帝 ゴート人、アラン人、イベリア人を用いて勝ち

395年 長男アルカディウスを東方帝、次男ホノリウスを西方帝とした。

 

グラティアヌス帝(367~383) 西方帝

379年 ウァレンス帝敗死を受け、小テオドシウスを皇帝に据え、テオドシウス1世即位。

381年 アクイレイア教会会議を開催。ミラノ司教アンブロシウス(374~397)主宰のもと、ドナウ方面のアリウス派司教を追及した。

382年 ミラノ司教アンブロシウスが、ミラノに立ち寄ったグラティアヌス帝にローマ伝統宗教を弾圧するように諭した。

383年 ブリタニア駐屯軍マクシムスが反乱、グラティアヌス帝が殺害された。

マクシムス帝(383~388) 西方帝

テオドシウス帝がマクシムスを支持、ウァレンティアヌス2世に対し、マクシムスを共同皇帝として認めるよう説得。ブリタニア、ヒスパニア、ガリア、アフリカを統治。

387年 ウァレンティアヌス2世をイタリアから追放。テッサロニキのテオドシウス1世のもとに亡命。

388年 シスキアの戦い、ポエトウィオの戦い。テオドシウス帝が派遣したアルボガストに負けて敗走、アクイレイアで逮捕され刑死。

ウァレンティアヌス2世(375~392) 西方帝

アリウス派のゴート人部隊が皇帝を護衛、アリウス派の聖職者も政治的発言権が強かった。

384年 ミラノ司教アンブロシウスが、ウァレンティアヌス2世の異教祭典の挙行を妨害した。別の町で祭儀敢行。

エウゲニウス帝(392~394) 西方帝

フランク族軍人アルボガストが擁立。ライン川のフランク族やアラマンニ族を鎮撫した。

394年 フリギドゥスの戦い

エウゲニウス帝・アルボガスト 負け vs テオドシウス帝 勝ち

 

アルカディウス帝(383~408) 東方帝

388~392年 ガリア出身の佞臣ルフィヌスを書記長官に任じた。

392年 ルフィヌスをコンスルに任じた。

392~395年 ルフィヌスをオリエンス道長官に任じた。ルフィヌスは、西方帝国の武官スティリコに、マケドニア・ダキアから撤退を命じ、その隙をついてゴート族アラリックがギリシアを荒らしまわった。スティリコは東方帝国侍従長・奴隷出身の宦官エウトロピウスと共謀して、ルフィヌスを殺害。スティリコはギリシア失地回復を図るが、今度はエウトロピウスがスティリコに撤退を命じ、コンスタンティノープル元老院は、スティリコを「国家の敵」と認定し、アラリックを「イリュリクム総司令官」に任じ、東西ローマがイリュリクム領有をめぐって争っていたが、アラリックにイリュリクム奪取の任務につかせた。

399年 アルカディウス帝はエウトロピウスをコンスルに任じたが、ゴート人トリビギルドが反乱。ゴート人将軍ガイナスと皇后エウドクシアは、反乱鎮圧にはエウトロピウス罷免が必要とアルカディウス帝に訴え、エウトロピウスを罷免。ガイナスはエウトロピウスを処刑。

ガイナスがコンスタンティノープルにアリウス派の聖堂を建設しようとして民衆が暴動。アルカディウス帝はアウレリアヌスをオリエント道長官に任じて、ゴート人フラウィッタにガイナスを討伐させた。ガイナスはトラキアに居座るフン族ウルディンに身を寄せたが斬首された。

401年 ガイナス討伐勝利を記念して「アルカディウスの記念柱」を建設。

405年 フラウィウス族アンテミウス(405~414)を執政官にした。

テオドシウス2世(408~450) 東方帝

「テオドシウス法典」を編纂。

「テオドシウスの城壁」を建設。フン族アッティラの攻撃からコンスタンティノープルが守られた。アッティラに毎年貢納。

マルキアヌス帝(450~457) 東方帝

テオドシウス2世が乗馬事故死。テオドシウス2世の姉プルケリアと結婚。宦官の侍従長クリュサフィウスを処刑。

アッティラとの講和条約を破棄して対立。

451年 カルケドン公会議

レオ1世(457~474) 東方帝

ゲルマン人アスパルに仕えたトラキア出身の軍人。アスパルは東ゴート族テオドリックの師匠だった。

即位後、アスパルの傀儡になることを拒み、大量のイサウリア人を雇用した。

469年 トラキア軍指揮官アナガステスがフン族デンツィク(アッティラ次男)を敗死させた。

471年 レオ1世とイサウリア族長ゼノンがアスパルを殺害。

マルキアヌス帝の息子・アンテミウス帝(467~472)を西方帝に送り込んだ。

ユリウス・ネポス帝(474~475)を西方帝に送り込んだ。

ゼノン帝(474~491) 東方帝

レオ1世が大量雇用した蛮族イサウリア人の族長。レオ1世娘アリアドネとゼノンが結婚。イサウリア人を重用、重税、汚職で不評。

475年 単性論者バシリスクスの反乱。蛮族イサウリア人皇帝に反発したが鎮圧された。

476年 ローマ元老院が皇帝不要と決議して、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣をゼノン帝に返還した。オドアケルをパトリキに任じた。488年まで、オドアケルとゼノン帝は蜜月だった。

484年 レオンティウスの反乱

486~487年 テオドリックの反乱

488年 東ゴート王テオドリックを副帝に任じて、レオンティウスの反乱に加担したオドアケル討伐を命じた。

アナスタシウス1世(491~518) 東方帝

ゼノン皇后アリアドネと、グレコ・ローマ人の枢密院警護長アナスタシウスが結婚。財政を再建した。

金(クリュソス)と銀(アルギュロス)で納税しなければならなかったクリュサルギュロン税制を廃止。銅銭復活。

「アナスタシウスの城壁」を築いた。

単性論者だったので、ローマ教皇と対立した。

493年 東ゴート王国テオドリックがオドアケルを殺害。

497年 アリウス派のテオドリックに帝冠と帝衣を与え、西ローマ帝国を支配する皇帝大権を与えた。

498年 フランク王国クローヴィスがアリウス派からアタナシウス派に改宗。

508年 フランク王国クローヴィスに「アウグストゥス」の称号を贈り、西ローマ帝国のコンスルに任命した。

ユスティヌス1世(518~527) 東方帝

アリウス派弾圧により、ローマ教皇ヨハネス1世と関係修復した。ヨハネス1世はアリウス派のテオドリックによって幽閉・獄死。

 

*西ローマ帝国末期のおさらい

ホノリウス帝(393~423) 西方帝

幼帝だったので、ヴァンダル族スティリコ(395~408)を執政官にした。

401年 西ゴート族アラリックがホノリウス帝居住のメディオラヌム侵攻。

402年 ポレンティアの戦い、ヴァローナの戦い

スティリコ 勝ち vs 西ゴート族アラリック 負け

403年 ホノリウス帝がミラノからラヴェンナに遷都。

405年 ゴート族ラダガイススがイタリア侵攻

406年 ヴァンダル人、スエビ人、アラン人がライン川渡河。さらにブルグンド人、アラマンニ人がライン川渡河。

407年 ブリタニアに僭称帝コンスタンティヌス3世(407~411)即位。ブリタニアを見捨ててガリア制覇に専念した。強い軍団が去ってしまったブリタニアは、アングロサクソン人によって支配されていった。

408年 スティリコはゴート人将軍サルスをコンスタンティヌス3世討伐に向わせたが、ホノリウス帝によってスティリコ失脚・刑死。同盟部族軍がアラリック軍に合流。

409年 ホロリウス帝は、コンスタンティヌス3世と共同統治することで和解した。ヒスパニア軍団がこの和解に失望、マクシムス(409~417)を皇帝として担ぎ上げた。ガリア軍団はブルグンド王グンダハール、アラン王ゴアの支援の下、ヨウィヌス(411~413)を皇帝として担ぎ上げた。西ゴート王アラリックは、元老院議員プリスクス・アッタルス(409~410)を対立皇帝に推挙。ホノリウス帝はローマの惨状を見捨ててヴェローナに引きこもっていた。

410年 交渉相手プリスクス・アッタルスを失ったアラリックがローマ掠奪。

411年 ヒスパニア軍がコンスタンティヌス3世が籠城するアルルを包囲。コンスタンティウスはローマ軍団を率いて、ヒスパニア軍を破り、マクシムス逃亡。さらにコンスタンティヌス3世を処刑した。

415年 コンスタンティウスは西ゴート王アタウルフを破り、ガリアからヒスパニアへ駆逐。

416年 コンスタンティウスは、西ゴート王アタウルフが支持した対立皇帝プリスクス・アッタルス(414~415)を廃位。

418年 ガリア南西部のアクイタニアに西ゴート族が定住許可。

421年 ホノリウス帝は、コンスタンティウス3世を共同皇帝に任命。東ローマ皇帝テオドシウス2世がコンスタンティウス3世即位に反対したため、コンスタンティノープルへコンスタンティウス3世が侵攻する直前に死去。

ウァレンティニアヌス3世(425~455) 西方帝

フン人の人質・アラリックの親友だったアエティウス(433~454)を執政官にした。アエティウスは常にフン人に頼った。

429年 ヴァンダル族ガイセリック(429~477)がヴァンダル王国を建国。ヒスパニアから北アフリカへジブラルタル海峡を越境。

430年 ヴァンダル族ガイセリックがヒッポ=レギウス占領。

431年 ヴァンダル族ガイセリックがヒッポ=レギウスに遷都。

432年 リミニの戦い

アエティウス 負け vs アフリカ方面軍司令官ボニファティウス 勝ったが戦死

435年 ヴァンダル族ガイセリックがヴァンダル王国を建国。都ヒッポ=レギウス

436年 西ゴート族がガリア南部のナルボネンシス包囲。

437年 アエティウスは、フン人の加勢で、ブルグンド王国を滅ぼした。

439年 ヴァンダル族ガイセリックがカルタゴ占領。カルタゴに遷都。

439年 アエティウス部下のリトリウスが西ゴート相手に、トゥールーズの戦い。講和によって西ゴート族はガリア南部進出を断念。

451年 カタラウヌムの戦い。フン族アッティラを撃退。

455年 ヴァンダル族ガイセリックがローマ掠奪。西ローマ帝国皇女との婚姻が破棄されたから。

アウィトゥス帝(455~456) 西方帝

ピアチェンツァの戦いで、リキメルに敗れ、将軍リキメルと将軍マヨリアヌスによって廃位。

マヨリアヌス帝(457~461) 西方帝

ガリアのブルグント族、ヒスパニアの西ゴート族を撃破。

461年 小麦供給を再開させるため、ヴァンダル王国へ遠征したが敗北。リキメルによって処刑。

リウィウス・セウェルス帝(461~465) 西方帝

リキメルの傀儡皇帝。西ゴート族にナルボンヌ割譲。軍司令長官アエギディウス率いるガロ・ローマ軍人が反乱を起こし、西ゴート軍に鎮圧を依頼。

463年 オルレアンの戦い

ガリア軍アエギディウス&フランク同盟キルデリクス 勝ち

vs 西ゴート族フレデリック(テオドリック2世の弟) 負け

アンテミウス帝(467~472) 西方帝

リキメルと東方帝レオ1世の交渉で東方副帝アンテミウスを西方帝に擁立。

468年 ヴァンダル王国遠征。東帝国軍バシリスコスと西帝国軍マルケッリーヌスがガイセリックに惨敗。

469年 ボイラの戦い

東ゴート 勝ち

vs ローマ軍&スエヴィ王フニムンドゥス&スキール族&ヘルリ族 負け

西ゴート王エウリックが475年までに、ガリアとスペインの大半を征服。

リキメルと不仲になり、ブルグント族グンデバルドがアンテミウスを処刑。

オリウリブス帝(472) 西方帝

リキメルが亡命元老院貴族オリブリウスを擁立したが、リキメルもオリブリウスも死去。

グリケリウス帝(473) 西方帝

グントバトが宮内伯グリケリウスを擁立したが、ブルグント王国に帰国。

ユリウス・ネポス帝(474~475) 西方帝

474年、東方帝レオ1世の意向を汲んで、ダルマティア軍司令長官マルケッリーヌスの甥ユリウス・ネポスがグリケリウス帝を無血で廃位。

475年、ガリア軍務長官オレステスによって廃位、ダルマティアに亡命して対立皇帝を称した。

ロムルス・アウグストゥルス帝(475~476) 西方帝

オレステスが息子を帝位につかせた。オレステス直属指揮官オドアケルが蜂起。オドアケルの父はチューリンゲン族、母はスキール族だった。

476年 将軍オドアケルがオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルス帝を廃位した。

 

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451年 カタラウヌムの戦い。フン族アッティラを撃退。

ローマ軍アエティウス・西ゴート族テオドリック1世(戦死)・アラン族サンギバン・フランク同盟(弟王) 勝ち

vs フン族アッティラ・東ゴート族ヴァラミール・ゲピド族アルダリック・ヴァンダル王国ガイセリック・フランク同盟(兄王) 負け

452年 カタラウヌムの敗戦は西ローマ帝国の責任として、フン族アッティラがローマ進攻。ローマ元老院とローマ教皇レオ1世が示談。

453年 アッティラ急死。

456年 フン族での人質生活からフランクに帰還してキルデリクスが復位。フランク王キルデリクスがフン族風習の一夫多妻を強制したため、フランク人から殺害未遂。ガリア軍司令長官アエギディウスがフランク王に推戴された。

457年 フランク王キルデリクスが、東方帝マルキアヌスに謁見、後見役を依頼。

*キルデリクスは、シカンブリ族。フン族へ人質として供出されたテューリンゲン王室の婿養子。匈奴・フン族の伝統的印章である「蝉」を身にまとっていた!後世、汚点として、「蝉」から「蜂」に変更された。

463年 オルレアンの戦い

ガリア軍アエギディウス&フランク同盟キルデリクス 勝ち

vs 西ゴート族フレデリック(テオドリック2世の弟) 負け

465年 アエギディウス毒殺により、キルデリクスがフランク王国を建国。都トゥルネ

465年 アエギディウス息子のシャグリウスがシャグリウス王国を建国。都ソワソン

シャグリウスは「ローマ人の王」と呼ばれ、キルデリクスに庇護を受けていたが、オドアケルとキルデリクスが講和。次第に西ゴート王エウリックに接近した。

ランス、ソワソンには北ガリアのローマ帝国武器工房(ファブリーケ)が設置されており、アエギディウスとシャグリウスはこれを死守した

475年 西ゴート「エウリック法典」ゲルマン法をラテン語で成文化し、西ゴート人に適用した。

481年 キルデリクスが死去、クローヴィスが即位。

486年 ソワソンの戦い

フランク王国クローヴィス 勝ち

vs シャグリウス王国シャグリウス 負け

これは、ガロ・フランク人とガロ・ローマ人の戦いだった。クローヴィスは部下の兵士にソワソンの財宝を籤で平等に分配した。シャグリウスの軍を吸収合併した。当初はシャグリウス王国の北半分しか制圧できていなかったが、徐々に進攻。シャグリウスは、トゥールーズにいた西ゴート王アラリック2世のもとに亡命。

東ゴート王テオドリックは東ローマ帝国ゼノン帝に重用され、執政官にまで任ぜられていたが、薄給に不満だった。新天地をイタリアに求めて侵攻を開始した。ゼノン帝もこれを許可した。

489~490年 東ゴート王テオドリック大王(拠点パヴィア) vs オドアケル(拠点ラヴェンナ)

東ゴート王テオドリック軍は西ゴート王アラリック2世の援軍を得て、アッダ川でオドアケル軍を撃破。

ブルグンド王グンデバルドが東ゴート軍の拠点パヴィアを急襲したが、クローヴィスがブルグンド王国を攻撃したので、急遽帰国した。クローヴィスは、テオドリック大王に恩を売った形となり、急接近した。

493年 ラヴェンナ司教ヨハンネスの仲介で、テオドリック大王が和平講和中にオドアケルを謀殺。

493年 東ゴート王テオドリック大王とフランク王クローヴィスが政略結婚。アレマンニ族に対する共同戦線でもあった。テオドリック大王がとりなして、クローヴィスとアラリック2世の和平が実現。シャグリウスの身柄がクローヴィスに引き渡され、暗殺された。

494年 クローヴィス、ブルグント王女クロドティルディスと結婚。アタナシウス派。

496~497年 トルビアックの戦い。クローヴィス、アレマンニ族に滅亡寸前まで追い込まれたが、改宗後に逆転勝利。

496年 フランク王国クローヴィス(481~511)がランス司教レミギウスの洗礼で、アリウス派からアタナシウス派に改宗。

*当時の洗礼は、白衣を着て待ち、洗礼の直前に白衣を脱いで全裸で水を貯めた浴場に全身つかっていた。クローヴィスは改宗したら異教徒になってしまう部下の兵士たちから殺されることを恐れていたが、3000人くらいの兵士も一気に洗礼を受けた。全国から応援で駆け付けた司教たちも流れ作業、分業で、決まり文句をモゴモゴ唱えていた。冬だったから、めっちゃ寒かったやろう。クローヴィスにはランス司教レミギウス自らが洗礼を担当し、その際に唱えたことばが、「シカンブリ族よ、静かに頸を下げよ。」ランスで浴場遺跡が出土した。

西ゴート王国アラリック2世(484~507)と東ゴート王国テオドリック(497~526)が政略結婚で同盟

500年 ブルグント「グントバト法典」ブルグント王国グントバトは、東ローマ皇帝アナスタシウス1世からの信頼が厚かった。

506年 西ゴート「アラリック法典」ローマ人に適用した。

506年 ストラスブールの戦い。アレマンニ族に勝利。テオドリック大王の説得で、アレマンニ族は全滅を免れた。

507年 ヴイエの戦い。ガリアの領土の大半を失った。

西ゴート王国アラリック2世 敗死、ガイセリックが即位

vs フランク王国クローヴィス・ブルグント王国グンデバルド 勝ち

東ゴート王テオドリックの援軍を払いのけながら、クローヴィスが都トロサ(トゥールーズ)占領。財宝を持ち帰った。

西ゴート王ガイセリックは、ナルボンヌに遷都。グンデバルドがナルボンヌを包囲すると、バルセロナに遷都した。西ゴート軍は単独でアルルを包囲。

東ローマ軍が南イタリアを攻撃していたが、北上の意図がないと見るや、508年、イッバス率いる東ゴート援軍がアルルを解放し、509年、ナルボンヌを解放し、510年、バルセロナに進軍してガイセリックを廃位。テオドリックの外孫でもあるアマラリック(510~531)が即位した。

510~526年 東ゴート王国と西ゴート王国はテオドリックが治めており、同君連合であった。

クローヴィスとテオドリックの直接対決はこれで回避された。フランク王国クローヴィスは東ローマ帝国アナスタシウス1世と同盟を結んだ。

西ゴート王国は選挙王政を採用したため、かえって後継者問題で内紛が続いた。

507~511年 フランク「サリカ法典」

511年 クローヴィス死去。後世、シカンブリ族の出自を隠してサリー・フランク族になりすましたが、うまく(ガリア人と混血した)フランク人、さらに抵抗にあった(ガリア人と混血した)ローマ人をてなづけた。

スガンブリー族と表記が変わっているが、ここが祖地。

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テウデリクス(511~533)分王国 都ランス

クロドメルス(511~524)分王国 都オルレアン

キルデベルトゥス(511~558)分王国 都パリ

クロタリウス分王国(511~561) 都ソワソン

512~514年 各分国が東ゴート王国外交使節団を受け入れた。ナルボンヌ、ロデス、トロサ(トゥールーズ)は西ゴート王国に帰属、マルセイユは東ゴート王国に帰属するとした。クローヴィス末娘クロドティルディスが西ゴート王アマラリックと政略結婚。

ロデス司教クインティアヌスは、アリウス派西ゴートを追われ、アタナシウス派フランク王国のクレルモン司教エウフラシウスのもとに身を寄せた。515年エウフラシウス死去によりクインティアヌスが司教就任。ヴイエの戦い以前、クレルモンは西ゴート王国支配下にあったのだが、名門セナトール貴族のたっての願いで、敵方のアポッリナーリスに司教を譲り、数か月で死没。クインティアヌスが司教に再任した。

テウデリクスは、オーヴェルニュが短期間とはいえ、西ゴートの手に戻ったことを重視し、遠征。531年、テウデリクス戦死の噂が流れ、アポッリナーリスの息子アルカディウスが、キルデベルトゥス軍を招き入れた。生存していたテウデリクスはクレルモンに進軍、キルデベルトゥス軍はクレルモンを出て、ナルボンヌを侵攻し、西ゴート王アマラリックを殺害。アマラリック王に嫁いだクロドティルディス救出が大義名分だった。

西ゴート王テウディスはバルセロナに遷都。

キルデベルトゥスとクロタリウスからブルグント王国遠征を提案されたが、テウデリクスは拒否。すると財宝掠奪を欲していた従軍兵士たちが騒ぎ出したので、オーヴェルニュ劫略を許可し、悪徳施政官をクレルモンにおいた。

516年 ブルグント王国グントバト死去、息子ジギスムントが即位。

517年 「グントバト王法典」を増補した「立法の書」発布

522年 アタナシウス派のジギスムントが、アリウス派血統の息子シゲリウスを殺害。

523年 クロドメルスがブルグント王国へ侵攻。ジギスムント一族をオルレアンに捕囚・殺害した。

524年 ブルグント王ゴドマルス討伐にクロドメルス再遠征。同盟していた東ゴート王テオドリック軍が遅参、クロドメルス戦死。クロドメルス妃グンテウカはクロタリウスに嫁ぎ、3人の息子たちはクロドティルディスが引き取った。

526年 東ゴート王国テオドリック大王死去。アタラリック(526~534)が即位、アマルスウィンタ(526~535)が摂政。

西ゴート王国アマラリックは親政開始。テューリンゲン王国ビシヌス死去で3人の息子に分割、ランゴバルト王ワコを頼るが中立を決められた。

東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝は、フランク分王国に対する牽制目的で、ランゴバルト族のノリクム・パンノニア定住を許可した。

529~531年 テウデリクス、テューリンゲン王国を滅ぼした。

532年 オータン包囲戦。

キルデベルトゥス&クロタリウス 勝ち

vs ブルグント王ゴドマルス 負け

533年 テウデリクス病死、テウデベルトゥス(534~548)即位。テューリンゲン王国最後の王ヘルミナフリドをツュルピッピで暗殺。

534年 東ローマ皇帝ユスティニアヌス大帝(527~565)、ベリサリウスを派遣してヴァンダル王国を滅ぼした。

534年 フランク3分国王がブルグント王国を滅ぼした。テウデベルトゥス、キルデベルトゥス、クロタリウスで3分割。

535年 東ゴート王国テオダハト(534~536)が共同統治者だったアマルスウィンタを殺害。

536年 ベリサリウス、ローマ制圧。

536年 キルデベルトゥス、プロヴァンス進駐。

537年 アマルスウィンタの婿ウィティギスがテオダハトを殺害。

540年 ベリサリウス、ラヴェンナ制圧。

541年 ウィティギス降伏・捕囚を受けて残党の東ゴート王国トティラ(541~552)即位。

545年 3人の中で唯一対外進出に熱心だったフランク分国王テウデベルトゥスがヴェネツィア占領。

548年 ランゴバルトが持ち込んだ水牛狩りで、テウデベルトゥス事故死。テウデバルトゥス即位。

549年 残忍だった西ゴート王テウディクルス(548~549)の死後、アギス(549~551)とアタナギルド(551~567)のあいだで後継者争い。

551年 セビーリャ駐屯の将軍アタナギルドがビザンツ帝国と同盟してアギラ王を殺害。

552年 タギナエの戦い

東ゴート王トティラ 敗死

vs 東ローマ将軍ナルセス&ランゴバルト 勝ち

ノリクムをめぐって、テウデバルトゥスはランゴバルトと係争中だったので援軍拒否した。

553年 テウデバルトゥスはアレマン人将軍レウタリウスとブティリヌスに軍を託してイタリア遠征。

554年 ヴォルトゥルノ川の戦い。ヘルーリ人を援軍につけたナルセスが、アレマン・フランク軍を壊滅させた。

555年 テウデバルトゥスとランゴバルト王女ワルデトラダが政略結婚したが、テウデバルトゥス死去。

558年 男子後継者のないキルデベルトゥス死去。クロタリウスが全土統一。

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561年 クロタリウス急病死。長男クラムヌスは反乱を起こしており、父クロタリウスが絞殺し、妻子ともども火刑に処していた。

カリベルトゥス(561~567) パリ分王国(ネウストリア+アキテーヌ)

シギベルトゥス(561~575) ランス分王国(アウストラシア)

グントラムヌス(561~592) オルレアン分王国(ブルグント)

キルペリクス(561~584) ソワソン分王国

561年 アヴァール族が東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝と定住地について交渉。東ローマがヘルーリ族が居た下パンノニアを提示したが、アヴァール族が拒否。

562年 キルペリクスがランス侵入。アヴァール戦から帰国したシギベルトゥスがランス奪還。

西ゴート王アタナギルド(551~567)の娘ふたりが政略結婚。

 妹ブルンヒルディス ⇒ シギベルトゥス

 姉ガルスウィンタ ⇒ キルペリクス

562~566年 アヴァール族がアウストラシア攻撃、アウストラシア降伏。

567年 アヴァール族がランゴバルト族と提携してゲピド族を駆逐。

568年 アヴァール族がパンノニアと東ノリクムに定着していたランゴバルト族を攻撃。ランゴバルト王アルボイン(560~572)がイタリア侵入し、ランゴバルト王国を建国。都パヴィア。南イタリアまで制圧。

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567年 パリ分王国カリベルトゥス死去。遺領を3分割した。

567年 西ゴート王アタナギルド死去。

569年 キルペリクス、離婚を迫った妻ガルスウィンタを殺害。妾フレデグンディスと再婚。

569年 ランゴバルトが、グントラムヌスのブルグント分王国に侵入。パトリキウスのアマトゥス戦死。

571年 ランゴバルトが、グントラムヌスのプロヴァンスに侵入。パトリキウスのヌンニウス・ムンモルスが撃退。

572年 キルペリクス、息子クローヴィスにトゥール、ポワティエに侵攻させたが、シギベルトゥスとグントラムヌスの反撃にあい敗戦。クローヴィスはボルドーに撤退したが駆逐された。

575年 キルペルクス、妻フレデグンディスの奴隷刺客に命じてシギベルトゥスを殺害。アウストラシアで、キルデベルトゥス2世(575~596)即位。宮宰ゴゴ。579年、その姉イングンディスが西ゴート王レオウィギルドと政略結婚。

キルペリクス息子メロヴェクスが、シギベルトゥス元妻ブルンヒルディスと驚愕すべき結婚。怒り心頭のキルペリクスは、メロヴェクスを出家させて、ブルンヒルディスをアウストラシアに返した。

西ゴート王レオウィギルド次男レカレットと、キルペリクス娘リグンティスが政略結婚。

575年 グントラムヌス王とランゴバルト王が和平条約

579年 東ローマ帝国ティベリウス2世(578~582)が、キルデベルトゥス2世(アウストラシア)とキルペリクス(パリ・ソワソン分王国)とで、対ランゴバルト同盟を結んだ。

584年 東ローマ帝国マウリキウス帝(582~602)の催促で、アウストラシア軍がランゴバルト遠征。

584年 西ゴート王レオウィギルド次男レカレットと、キルペリクス娘リグンティスが政略結婚。ブルンヒルディスによってキルペリクスが暗殺された。

マウリキウス帝の計略では、グントウァルドゥスをフランク分国王に据えて、グントラムヌスを倒し、キルぺリウス、キルデベルトゥス2世の連携をとって、ランゴバルト遠征に向わせることだった。ブルンヒルディスは、自称クロタリウスの息子・グントウァルドゥスをアクイタニアに呼んだ。大公ムンモルスがアヴィニョンでグントウァルドゥスを迎え入れた。

586年 グントラムヌス王が簒奪王グントウァルドゥスを敗死させた。

三つ巴勢力は、

グントラムヌス王(561~592) *男子後継者なし

キルデベルトゥス2世(575~596) with ブルンヒルディス

クロタリウス2世(584~629) with フレデグンディス

592年 グントラムヌス王死去。

キルデベルトゥス2世 アウストラシアとブルグント併合

クロタリウス2世 ネウストリア

592年 ラッフォーの戦い

キルデベルトゥス2世 負け vs クロタリウス2世 with フレデグンディス

596年 キルデベルトゥス2世死去

597年 フレデグンディス死去。

テウデベルトゥス2世(596~612) アウストラシア 

 宮宰ワルナカリウス 都メス 

テウデリクス2世(596~612) ブルグント 

 宮宰ベルト・アルドゥス 都シャロン・スュル・ソーヌ⇒オルレアン 

クロタリウス2世(584~629) ネウストリア 

 都ルアン

600年 ドルメルの戦い

アウストラシア・ブルグント連合軍 with ブルンヒルディス 勝ち

vs ネウストリア軍 負け

602年 アウストラシア・ブルグント連合軍がバスク地方遠征。ガスコーニュ大公領を設置。バイエルン族出身ゲニアリスをガスコーニュ大公に任じた。

605年 エタンプの戦い

ブルグント軍 勝ち vs ネウストリア軍 負け、息子メロヴェクス処刑

アウストラシア軍は遅参・独自に和約・略奪しながら撤退。

607年 西ゴート王ウィッテリヒ(603~610)が反ブルグント連盟を結成。

ネウストリア クロタリウス2世

ランゴバルト アギルルフス

アウストラシア テウデベルトゥス2世

612年 ツュルピッピの戦い

ブルグント王テウデリクス2世 勝ったが赤痢で病死

vs アウストラシア王テウデベルトゥス2世 負けて一族処刑

612年 シャロン・スュル・マルヌの戦い

クロタリウス2世 大勝 vs シギベルトゥス2世 with ブルンヒルディス 負けて処刑

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クロタリウス2世統一政権 フランク王612~629

ルアンからパリに遷都。

アウストラシア宮宰 ラド⇒ククス(フゴー)

ブルグント宮宰 ワルナカリウス 626年死去でブルグント宮宰廃止

614年 パリ勅令 不輸不入権

 

ダゴベルトゥス1世

アウストラシア王 622~629

フランク王 629~639

622年 ダゴベルトゥス下位王国を設置。宮宰ピピン1世

623年 フランク人商人サモが、スラヴ系ヴェンド人のサモ王国を建国。

625年 ザクセン大公ベルトアルドゥスの乱

631年 ウォガスティスブルクの戦い

ダゴベルトゥス1世&ランゴバルト&アレマン人クロドベルトゥス 負け

vs サモ王国&ゾルベン大公デルヴァヌス 勝ち

サモ王国対策として、テューリンゲン大公ラドゥルフスを派遣。

633年 ヴェンド人テューリンゲン侵入。

639年 赤痢で病死。

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シギベルトゥス3世 

アウストラシア下位王 639~656 

テューリンゲン大公ラドゥルフスの反乱を鎮圧。640年に大ピピン死去。

宮宰大ピピン息子グリモアルドゥスがアレマン公レウタリウスに内府官ウロ息子オットーを殺害させた。

643年 宮宰グリモアルドゥス

646年 アレマン公グントイヌスの娘フリデブルガとの結婚破談。出自不明のキムネキルディスと結婚。ダゴベルトゥス(2世)を出産。

656年 ジギベルトゥス3世死去。グリモアルドゥスが、ダゴベルトゥス(2世)を剃髪してポワティエに連れ去り、ポワティエ司教ディドと協力して、ナント港からダゴベルトゥス2世(656~679)をアイルランド巡礼に伴い連れ去った。

656年 グリモアルドゥスの息子をシギベルトゥス3世の養子キルデベルトゥス(656~662)に仕立てて即位させた。

662年 キルデベルトゥス死去でグリモアルドゥスがパリに連行・投獄・処刑。

 

クローヴィス2世

ネウストリア・ブルグント王 639~657

639年 宮宰アエガ、摂政(母)ナンティルディス

641年 三つ巴の内紛になった。

ネウストリア宮宰エルキノアルドゥス

ナンティルディスが権力集中を避けるため復活させたブルグント宮宰フラオカドゥス

パトリキウスのウィレバトゥス

 

*ここまでのまとめ

偉いのはネウストリア、外国から侵略来たら、パシリのアウストラシアにまず行かせる。ブルグントは、上に王様が来ることを非常に嫌うからできるだけ置かない。これってハプスブルク家を叩き出したスイスの伝統やん!

662年 ビザンツ帝国コンスタンス2世(641~668)がイスラムを恐れてシチリア島シラクサに避難。

662年 ピピン一門の男子継承者は、グリモアルドゥス、キルデベルトゥス父子で断絶した。この門閥の遺産はグリモアルドゥスの妹ベッガに移り、アンセギゼルスと結婚しており、アルヌルフィンガーの手に渡った。アルヌルフィンガー・ピピニーデン一門は、グントイヌス門閥との闘争に敗れた。キルデリクス2世は、アルヌルフィンガー・ピピニーデン一門に対して厳しい態度をとり、マーストリヒト司教テオダルドゥスも好意的から冷淡な対応に変わった。ピピン2世にとって「冬の時代」がつづいた。門閥貴族フゴベルトゥスの娘プレクトルディスとの結婚で潮目が変わった。

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ピピン2世は、サモ王国から奴隷を購入し、ブドウ畑を耕作させ、葡萄酒醸造で儲けていった。

 

キルデリクス2世統一政権

アウストラシア下位王 662~673

フランク王 673~675

宮宰ウルフォアルドゥス

673年の政変。エブロインがテウデリクス3世をネウストリア・ブルグント分国王に担ぎ上げることに失敗、失脚した。

675年 アウストラシア人が森の中で待ち伏せて、キルデリクス2世夫婦・長男を暗殺した。宮宰ウルフォアルドゥスがアウストラシアに逃亡。

 

ダゴベルトゥス2世

アウストラシア分国王 656~660/676~679年

宮宰ピピン2世

679年 エブロインがダゴベルトゥス2世を殺害

 

テウデリクス3世

ネウストリア・ブルグント王 675~679年

フランク王 679~690年

宮宰レウデシウス(前宮宰エルキノアルドゥスの息子)⇒エブロイン⇒ワラットー⇒ギゼルマルス⇒ワラットー⇒ベルカリウス⇒ピピン2世

エブロインがレウデシウスを殺害。

679年 フェの森の戦い

エブロインがシャンパーニュ大公マルティヌスを破った。

680年 フランク人刺客エルメンフレドゥスがエブロインを殺害し、依頼者と思われるピピン2世のもとに逃げた。

681年 ピピン2世が新宮宰ワラットーと和平。ワラットーの息子ギゼルマルスがワラットーを辞職させ宮宰に就任。ピピン2世の長男ドロゴとギゼルマルス姉妹アンストルディスとの結婚を破談させた。

683年 ギゼルマルスは、アウストラシアに攻め、ピピンが滞在していたナミュール要塞を攻撃し、ピピン側の多くの貴族を殺害したが、戦死した。ワラットーが宮宰に復帰、反ピピニーデン派のネウストリア人ベルカリウスとアンストルディスを結婚させた。

686年 ワラットー死去。ベルカリウスが宮宰に就任。

687年 テルトリィの戦い

アウストラシア宮宰ピピン2世 勝ち

vs ネウストリア・ブルグント宮宰ベルカリウス with テウデリクス3世 負け

ピピン2世はテウデリクス3世を担いで宮宰となり、ネウストリアの財庫を鹵獲(ろかく)してアウストラシアに帰還。

その後、ピピン2世は「プリンケプス」に就任。国王と宮宰の中間位で、王宮外でも権力が持てた。長男ドロゴはシャンパーニュ大公に就任した。次男グリモアルドゥス2世をネウストリア宮宰に任命した。

ピピン2世がネウストリアに権力と勢力を浸透させるためには、軍事的な勝利だけでは不十分で、教会や修道院を懐柔していく必要があった。

ピピン2世は、修道院の保護権力の行使から着手した。教会の司教を動かすためには、外国イタリア・ローマの意向があってめんどくさいわな。アルヌルフィンガーのネウストリア進出は、ワラットー一族との連携であった。

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630年からイスラム経済圏がグローバルに拡大した。交易の爆発的進展の証拠に、流通税免除特権、徴収認可権が出現した。

670年代、イングランドとフランク王国は金貨造幣を中止、イスラム通貨に合わせて銀貨造幣を開始した。銀貨は農作物など安価な商品取引にも便利だった。

762年、アッバース朝首都バクダード建設開始。

766年、アッバース朝首都バクダード完成で最盛期を迎えた。

アルヌルフィンガー・ピピニーデンの拠点はマーストリヒト。ここはランスからケルンへ通じる交通拠点。イングランドから輸入した銅鉱や錫鉱を溶解したディナン、ユイ。その工房に原料を供給する商人が往来するウィクスが近くにあった。サモ王国から労働力として奴隷を輸入した。国王からもらったものではなく自腹で買ったブドウ畑荘園で働かせ、葡萄酒にして販売した。

ピピン2世が獲得を目指したフリースラントは、もともとダントラン大公領であって、アウストラシアとネウストリアの長い係争地だった。

 

クローヴィス3世(690~694)

キルデベルトゥス3世(694~711)

ダゴベルトゥス3世(711~715)

アウストラシア宮宰ピピン2世

ネウストリア宮宰グリモアルドゥス⇒テウドアルドゥス⇒ラガンフレドゥス

650年 フリーセン人がフリースラント王国(650~734)を建国。

690~695年 ドレスタットの戦い

フランク王国ピピン2世 勝ち vs フリースラント王国ラドボドゥス 負け

ユトレヒト、ドレスタットを獲得。ネウストリア宮宰のピピン2世次男グリモアルドゥスと、ラドボドゥス王女テウトシンダが政略結婚。

708年 ドロゴ死去。

714年 グリモアルドゥス2世死去。テウドアルドゥスが宮宰に就任。まもなくピピン2世死去。

715年 コンピエーニュの戦い

ラガンフレドゥスはフリースラント王ラドボドゥスと同盟。

アウストラシア軍(ダゴベルトゥス3世withテウドアルドゥス) 負け

vs ネウストリア軍(ラガンフレドゥス) 勝ち

テウドアルドゥス摂政かつ継母プレクトルディスの監視から、カールマルテルがリエージュにのがれた。

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キルペリクス2世(716~721)

ネウストリア宮宰ラガンフレドゥス

アウストラシア宮宰カールマルテル

717年 ヴァンシーの戦い

カールマルテル 勝ち

vs キルペリクス2世&ラガンフレドゥス 負け

カールマルテルが、クロタリウス4世(717~719)を擁立。

ラガンフレドゥスは、アクイタニア大公ウードと同盟。

718年 ソワソンの戦い

カールマルテル 勝ち

vs キルペリクス2世&ラガンフレドゥス 負け

アクイタニア大公ウードが、キルペリクス2世と財庫を連れ去った。クロタリウス4世死去。

720年 アクイタニア大公ウードが領土安堵を条件に、キルペリクス2世をカールマルテルに返還。

 

テウデリクス4世(721~737)

宮宰カールマルテル

しばしばザクセン遠征に出かけた。

721年 コルドバ太守ワリー・アッサムがトゥルーズ包囲。アクイタニア大公ウードが撃退。

732年 トゥール・ポワティエ間の戦い

カールマルテル 勝ち vs アルガフィキ 負け

734年 フリースラント王国ポポを滅ぼした。

735年 アクイタニア大公ウード死去、クノアルドゥスが即位。

736~740年 プロヴァンス遠征

プロヴァンス大公マウロントゥスとウマイヤ朝太守アルフィーリが、カールマルテルに抵抗。

ランゴバルト王リウトプランドの援軍で制圧。

741年 カールマルテル死去。長男カルロマヌス、次男ピピン3世

743年 キルデリクス3世を擁立するも、751年に廃位し、親子ともどもサン・ベルタン修道院へ幽閉。

745年 アクイタニア大公クノアルドゥスを征討。息子ワイオファリウスが継承。

746年 アレマニエンの反乱。カルロマヌスが激情して大虐殺。

747年 カルロマヌス、モンテ・カッシーノ修道院へ出家。

748年 バイエルン大公オディロ死去、末弟グリフォがバイエルン大公領を支配。

751年 ピピン3世、カロリング朝フランク王国を建国。

753年 末弟グリフォが謀反のため、ランゴバルト王アイストゥルフスの援軍を求める途中で、ピピン3世の刺客によって殺害された。

754年 ピピン3世が教皇ステファヌス2世(752~757)から塗油。ランゴバルト王アイストゥルフスから妨害の命を受けていたカルロマヌスが客死。

755年 ピピン3世がラヴェンナ総督領を奪い、教皇に返還。ランゴバルト王アイストゥルフスをパヴィアに幽閉。

762年 メス司教クロデガングスが十分の一税を開始。

763年 バイエルン大公タッシロ3世が、ランゴバルト王デジデリウスの娘リウトベルガと政略結婚。

765年 ピピン3世が、アッバース朝カリフのアル・マンスールに使節をバクダードに派遣。

*762年バクダード建設開始、766年バクダード完成。

760~768年 アクイタニア大公ワイファリウスを敗死させた。

768年 ピピン3世死去。長男カール、次男カールマン。

771年 カールマン急死。

773年 教皇ハドリアヌス1世(772~795)からランゴバルト遠征要請。ランゴバルト王のパヴィアに布陣。ヴェローナを攻略し、カールマンの未亡人と男子2人を捕囚・幽閉。

774年 ローマに進軍、「パトリキウス」の称号を賜る。ランゴバルト王デジデリウスを捕囚・幽閉。ランゴバルトが侵犯した土地をすべて教皇に返還した。ランゴバルト王の遺児アダルギススがコンスタンティノポリスに亡命。

776年 アダルギススを担いで、ランゴバルト人フロドガウドゥスが反乱。これを鎮圧。

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レオウィギルド1世(568~586)

569年 トレドに遷都。

577年 ローマ系住民のオロスペーダ支配。

579~584年 王子ヘルメネギルドの反乱。

580年 「レオウィギルド法典」エウリック法典を改定。

585年 スエヴィ王国併合。

レカレド1世(586~601)

587年 アタナシウス派に改宗。

589年 第3回トレド宗教会議で、西ゴート王国がアリウス派を放棄して、アタナシウス派に改宗した。ユダヤ教徒の奴隷所有を禁止。ユダヤ教徒のキリスト教徒との通婚禁止。

セビーリャ司教イシドルス(600~636)

「イシドルス・ルネサンス」「西ゴート・ルネサンス」

 

シセブート(612~621)

612年 ユダヤ教徒にキリスト教強制改宗。

南イタリア・ビザンティン帝国領征服

スィンティラ(621~631)

南イタリア・ビザンティン帝国領征服

シセナンド(631~636)

フランク王ダゴベルトゥス1世の援軍を得て、スィンティラを廃位、簒奪に成功した。

キンダスウィント(642~653) 法典編纂着手

レケスウィント(653~672) 法典完成

654年 「西ゴート法典」西ゴート人とローマ人が同一の法で扱われた。

エギカ(687~700)

694年 ユダヤ教徒の財産没収・奴隷化

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711年 グアダレーテ河畔の戦い

西ゴート王ロドリーゴ 負け 

vs ウマイヤ朝ベルベル人将軍ターリク 勝ち

714年 西ゴート系貴族カッシウス伯が、イスラム改宗。「バヌ・カスィ(カッシウスの息子)」を名乗り、カスィ家の始祖となった。

721年 トゥールーズの戦い

アキテーヌ公ウード 勝ち

vs ウマイヤ朝総督アル=ハウラニー 敗死

アキテーヌ公ウードはアル=ガーフィキーに敗れ、カール=マルテルに援軍を要請。

732年 トゥール・ポワティエ間の戦い

ウマイヤ朝総督アル=ガーフィキー 負け 

vs フランク王国宮宰カール・マルテル 勝ち

759年 後ウマイヤ朝、ナルボンヌ喪失。

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アブド・アッラフマーン1世(756~788)

750年 ウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされる。

756年 ウマイヤ王家虐殺を逃れたウマイヤ朝第10代カリフ・ヒシャームの孫、アブド・アッラフマーン1世はベルベル人の母を持ち、コルドバに進軍、アル・アンダルス総督(アミール)ユースフ・フィフリーを破って、アッバース朝カリフからの独立を宣言。カリフを名乗らず、アミール(総督)を名乗った。

後ウマイヤ朝 都コルドバ

778年 ロンスヴォーの戦い

ガスコーニュ公ルポ2世率いるバスク軍 勝ち

vs カール大帝&ブルターニュ辺境伯ローラン 負け

ハカム1世(796~822)

強権的で、トレド、サラゴーサ、メリダで反乱が勃発。コルドバでは、ムワッラド(イスラムに改宗したキリスト教徒)やキリスト教徒の反乱。北方のキリスト教徒やヨーロッパ系外人奴隷から成る軍隊を創設し、反乱を鎮圧した。

アブド・アッラフマーン2世(822~852)

中央集権化を進めた。司法・財務などの行政機構を整備。スンナ派マーリク派を採用。知識人(ウラマー)を養成して、各モスクに裁判官(カーディー)として配置した。アラビア語の普及・定着を意図して、アラブ文学やアラブ詩を振興した。

824年 イニーゴ・アリスタがパンプローナ王国(のちナバラ王国)を建国。都パンプローナ

イニーゴ・アリスタ&アラゴン伯ガルシア・ガリンド&カスィ家ムーサ・イブン・ムーサ 勝ち

vs フランク王国 負け、フランク王国のイベリア半島への影響が排除された。

842年 カスィ家ムーサ・イブン・ムーサがトゥデラ、サラゴーサを支配し、「スペイン第3の王」を自称して独立。

843年 アブド・アッラフマーン2世と王子ムハンマド1世の連合軍が、ナバラ王国とムーサの連合軍を破った。

850~859年 コルドバ殉教運動。

アブド・アッラフマーン3世(912~961)

880~928年 イブン・ハフスーンの乱

西ゴート貴族の子孫でムワッラドだった。ボバストロ城が陥落して降伏した。

929年 アブド・アッラフマーン3世が、カリフを宣言。アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝の3カリフ時代が到来。

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