佐保川にて花見2026
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図形や方程式は目に見えない。目に見えないものを目に見えるように変えるのが聖霊というらしい。プラトンの形而上学が神がかるのは納得できるが、ピタゴラスの数学やソクラテスの哲学は神とは全く無関係と思ってきたが、実は教団を成すくらい神がかっていた。みなさんゾロアスター教団に弟子入りしていたそうだ。
「魂は不滅である。」を大前提にして、理論が展開されていく。救世主、世界終末戦争、三位一体、三密(真言密教)といった概念がすべてゾロアスター教を起源としている。
ザラスシュトラ BC12C~9C? イラン高原
アフラ・マズダ神をイラン系アーリア人の最高神ミスラ神より上位の最高神に据え、原始ゾロアスター教を創始。
ゾロアスター BC7C イラン高原
ピタゴラス BC570~496 クロトン(南イタリア)
ソクラテス BC470~399 アテネ
ブッダ BC463~383 インド・マガダ国
プラトン BC427~347 アテネ・アカデメイア
アリストテレス BC388~322 アテネ・リュケイオン
アルキメデス BC287~212 シチリア島・アレクサンドリア
クレオパトラ7世 BC69~30 アレクサンドリア
香料・薬物・毒物調剤の権威。囚人を用いた実験。洗脳に頻用。
イエス BC4~AD28 ユダヤ
パウロ AD5~67 キリキア
超高価な書簡を各地に多数送り、貧富差が著しかったローマへ旅した。
ザザイ・ド・ガワズタ AD1C~2C
パレスチナからメソポタミアへ逃亡した、元ユダヤ教徒洗礼主義者。マンダ教の教祖。マンダ教文字を発明した。
マルキオン AD100~160 旧ポントス王国・シノペ
世界初の聖書(正典)を編纂。
支婁迦讖(しるかせん) AD147~? 月氏(クシャーナ朝)
後漢・洛陽にて大乗仏典漢訳。
ナーガールジュナ(龍樹) AD150~250 ガンダーラ
「空=量子」の「色即是空」を着想。
マニ AD216~277 メソポタミア
教祖本人が教義を文字で著し、後世に残した。
ムハンマド AD570~632 メッカ・クライシュ族
cf. アレクサンドリア
「エジプトはナイルのたまもの。」ナイル川が季節性に氾濫を繰り返して、ヌビアから肥沃な土砂を運んできて三角州を形成。小麦がたくさん収穫できた。その小麦をローマ帝国が大人口を養うために強奪し、皇帝の私有物とし、「皇帝のお恵み」によってローマ市民にパンが無料で配られた。コロッセオと大浴場を建設し「パンとサーカス」で市民や元老院議員の人気を得て、政権安定化を図った。
大型船は、ファロス島にしか着岸出来なかった。それはなぜか?
アレクサンドリア付近の海流は西から東へ流れており、海底に堆積した土砂を東へと運んでいた。三角州最西端のアレクサンドリアの水深は変わらなかったが、それより東の港の水深は浅くなる傾向にあり、大型船は座礁する危険が高く、その危険性の予測が難しかった。
アレクサンダー大王は、ファロス島とアレクサンドリア市街を結ぶ1本の細い土手道を造らせた。次第に幅広い土地に変わり、西から東へ押し流された海底の土砂が堰き止められて、アレクサンドリア以東の港にも大型船が安全に着岸できるようになった。
こうしてアレクサンドリアは大いに発展を遂げ、図書館やムセイオン(王立研究所)、さらにローマから逃げてきたキリスト教徒、ユダヤ教徒、マニ教徒の教会が乱立・密集した。
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予想と正解。まあまあ当たってたわ。ホークスがんばれ。ギータ調子がいいんだな。勇ちゃん、活躍楽しみ。
1 CF 周東 正解
2 LF 柳町→RF 近藤
3 RF 近藤→LF 柳町
4 1B 山川→DH 柳田
5 DH 柳田→1B 山川
6 3B 野村→SS 今宮
7 SS 今宮→3B 栗原
8 C 栗原→C 海野
9 2B 牧原 正解
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日の丸を背負って世界に羽ばたくための静かな教育現場。
淡々と読み書き聴き話す語学が養成され、淡々と歴史と経済が講義される。
年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず
淡々と自然科学が講義され、淡々と宇宙と生命の神秘が語られる。
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砂漠のアラビア半島は水がないと住めないので、沿岸地域中心に考察することになる。
ラクダ遊牧民による遊撃隊
ベドウィン
南アラビア諸王国
サバ アルマカー神(アッワーム神殿)
アウサーン 滅亡
カタバーン
ハドラマウト
新興 マイーン
新興 ヒムヤル 南アラビア統一。ユダヤ教徒(親ササン朝・反アクスム)とキリスト教徒(親ビザンツ・親アクスム)が対立・抗争。中央アラビアに進出、フジュル朝(キンダ族)を北方進出のための橋頭保とした。
*キリスト教宗派対立
ビザンツ アナスタシウス帝 非カルケドン派(合性論派)
ユスティニアヌス帝 カルケドン派(両性論派)
テオドラ皇妃 非カルケドン派(合性論派)
ヒムヤル 非カルケドン派(合性論派)
ソマリア諸王国
アクスム 非カルケドン派(合性論派)
ヒジャーズ王国
デダーン → リフヤーン
ヨルダン王国
ナバテア 都ペトラが砂漠の三大隊商都市
ジャフナ朝(ガッサーン族) 親ビザンツ
582年 ティベリウス帝(578~582)がジャフナ朝ムンズィルを捕縛、マウリキウス帝(582~602)がシチリア島へ流刑し、ジャフナ朝滅亡。
バハレーン諸王国
ディルムン アッシリアによって早々に滅亡
カラケーネー
北アラビア諸王国
パルミュラ 砂漠の三大隊商都市。オダエナトゥス王、ゼノビア女王のとき全盛期。
メソポタミア諸王国
ハトラ パルティア支配からローマ支配へ、ササン朝によって滅亡。砂漠の三大隊商都市
オスロエネ(アブガル朝) 都エデッサ アブガル9世(177~212)がキリスト教改宗。
ナスル朝(ラフム族) 親ササン朝
554年 キンナスリン近郊の戦い。ササン朝とローマの代理戦争。
ナスル朝ムンズィル3世 敗死 vs ジャフナ朝ハーリス 勝利
602年 ネストリウス派に改宗したナスル朝ヌウマーンが、ササン朝ホスロー2世によって殺され、ナスル朝滅亡。
エジプト諸王国
26王朝
プトレマイオス朝
クシュ(メロエ)
614年 ムハンマドがメッカで布教開始。
614年 ササン朝ホスロー2世(591~628)がビザンツ帝国ヘラクレイオス帝(610~641;アルメニア人)を破り、エルサレム占領。
615年 身の危険を感じたムハンマドが、アクスム王国へヒジュラ。
619年 ムハンマドのよき理解者だった伯父アブー・ターリブが死去。
622年 ムハンマドがヤスリブ(メディナ)へヒジュラ。メッカとの三つの戦いが終わるたびに、メディナのユダヤ教徒部族集落を襲撃し、財産を没収し、ムスリム軍に再分配。
624年 バドルの戦い。カイヌカーウ族襲撃。
625年 ウフドの戦い。ナディール族襲撃。
627年 塹壕の戦い。クライザ族襲撃。
627年 ニネヴェの戦いで、ヘラクレイオス帝がホスロー2世を破る。ビザンツ帝国は西突厥の統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)と同盟、ササン朝はアヴァール帝国の可汗と同盟。
*統葉護可汗は、玄奘(三蔵法師)の入印を援護した。
628年 ヘラクレイオス帝が都クテシフォン攻略。ホスロー2世が暗殺され、カワード2世(628)と和睦。
628年 ムハンマドがクライシュ族とフダイビーヤ和議。十年間の休戦と、翌年からメッカ住民が3日間だけ町を引き払いムハンマド巡礼団のメッカ巡礼を認めた。
628年 ササン朝アルダシール3世が即位。将軍シャフルヴァラーズとヘラクレイオス帝が交渉、聖十字架返還と交換にエジプトから撤退した。
630年 ヘラクレイオス帝が聖十字架に付き添って、ヒエラポリスからエルサレム入城。ムハンマドはこれをビザンツ軍によるアラビア遠征と解釈し、3万の軍勢を率いてシリアへ出陣。ヘラクレイオス帝はコンスタンティノープルに帰還したあとだったので空振りに終わった。
630年 ムハンマドがメッカ無血征服。フナインの戦い。ターイフのサキーフ族を破った。
632年 ムハンマド死去。
636年 ヤムルーク河畔の戦い。ビザンツ軍ヘラクレイオス帝を破る。
636/637年 カーディスィーヤの戦い。ササン朝ヤズデギルド3世を破る。クテシフォン占領。
638年 エルサレム占領。
640年 ヘリオポリスの戦い。エジプト総督キュロスを破る。
642年 エジプト占領。
642年 ニハーヴァンドの戦い。ササン朝ヤズデギルド3世を破る。
651年 ササン朝滅亡。
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3月20日は、国立大学最終ランナー、東大の合格発表日だった。2次記述試験の採点に最も手間暇がかかったため。
BC387年 アカデメイアをプラトンがアテネに創設。
BC335年 リュケイオンをアリストテレスがアテネ郊外に創設。逍遥学派(ペリパトス)と呼ばれた。アレクサンダー大王の死後、反マケドニアの機運がアテネに高まり、アリストテレスはエヴィア島カルキスに亡命した。
*エヴィア島 クレタ島に次いで大きな島
BC280年代 デメトリオスの進言で、プトレマイオス2世がアレクサンドリア図書館を創設。
BC212年 第二次ポエニ戦争でローマ兵がシチリア島シラクサを占領した際、アルキメデスが殺害された。
BC200年ころ ペルガモン王国エウメネス2世がペルガモン図書館を創設。アレクサンドリア図書館の蔵書に用いられてパピルスが不足し、輸出禁止となったため、ペルガモン図書館は羊皮紙を発明・代用した。
BC145年 プトレマイオス8世が、アレクサンドリア図書館の知識人を国外追放。
529年 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がアカデメイアを閉鎖。
ササン朝ペルシア王ホスロー1世が、亡命ギリシア知識人を受け入れて、ジュンディーシャープールに学院を創設。
832年 アッバース朝第7代カリフのマアムーンがバクダードに知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)を創設。
10世紀 後ウマイヤ朝第2代カリフのハカム2世がコルドバに図書館を創設。
1067年 セルジューク朝宰相ニザームルムルクがニザーミヤ学院を創設。
12世紀 カスティーリャ王国トレド大司教ライムンドが翻訳学校を創設。
1150年 パリ大学創立。世界最古。
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昼前に、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。娘夫婦と現地集合、娘婿さんと観劇しました。嫁と娘が孫のお世話。座席は1階やや後方上手側の良席でした。
客席降りは、美風舞良組長、紫門ゆりや副組長、かわいいOL役の真澄ゆかりちゃんが担当で、星空美咲ちゃんが目の前を走ってました。
王道クラシックバレエダンサー美羽愛ちゃん、ラテン体型のビシッと引き締まった三空凜花ちゃん、今回退団・歌うまカワイ子ちゃん・伊丹の湖春ひめ花ちゃん、ギラギラダンサー豊中の初音夢ちゃん、ダイナマイトバディ・歌うまにして情熱ラテンダンサーの朝葉ことのちゃん、路線まっしぐら七彩はづきちゃん、安徳天皇・めちゃかわいい堺の花海凛ちゃん、守貞親王&ロケット&超路線&長州の彩葉ゆめちゃんをオペラグラスで追っかけました。ことのちゃん、琵琶ベンベン平家物語・語り芝居も完璧だねぇ。大村のみくりんちゃんは、オープニング白拍子からの福原都落ち女房のシーンで、1期上の女房役で超絶シンガー・咲乃深音ちゃんのセリフの後に、ひとつセリフがあります。歌・ダンス万能・伊丹の糸月雪羽ちゃんもコロコロしていて常にかわいい。祇園芸姑役は秀逸だったわ。豊中のあわちゃんは、花組次期トップコンビ予定のほのか(聖乃あすか君)と組んでひと踊り。ずーっとニコニコ満面の笑顔でほんまに楽しそう。中堅娘役だけの写真集を出版してほしい。よくもまぁ、ここまで美人を集めてきたもんだ。星空美咲ちゃん、1本物エリザベートの次こそ思いっきりダンスしまくってほしい。ひっとん、みさきのダンスは疲れ知らずでキレまくり。客席降りで22列まんなかの客の求めに応じてハイタッチしてしまって、みさきちゃん、ひとこに「えっ、やったの。」と言われて、デヘヘで返していたのが面白かった。
源義仲に敗れたシーンで、破格のスーパーダンサー遼美来くん、ひとつセリフあり。極美慎くんと美空真瑠くんの上手側での剣術小芝居は毎回オペラグラスで必ず観てます。おもろい、おもろい。下手側に移動して、ひとこ(永久輝せあ君)も加わって何やらぼそぼそ小芝居やってます。
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奈良発11時ころの近鉄快速に乗って、難波下車、四つ橋線四ツ橋下車して徒歩数分。嫁とオリックス劇場に行ってきました。座席は3階上手側、階段上るだけで汗噴き出たわ。難波発16:14の金哲快速で大和西大寺帰還、九州魂で昼食夕食兼用で水炊き、鬼おろしみかんサワーで舌鼓。うまかっちゃん。
まどち(星風まどか)をオペラグラスで追っかけました。2018年天河からずっとファンだよん。鴛鴦歌合戦「チェ」お春の演技が役に立っていたね。昔、映画館でもみてましたので、女性自立の痛快劇を楽しみました。
ヴィヴィアン 星風まどか (ジュリア・ロバーツ)
エドワード 城田優 (リチャード・ギア またの名をハン・ソロ)
ヴィヴィアンの戦友キット役のエリアンナ、声量がすごすぎ。貧富差不平等社会の抑圧からのアメリカン・ドリーム。
オペラ歌手2人もすごかった。佐々木淳平、石井千賀。
高身長美人モデルにビックリ目を見張った。吉元美里衣。
声、セリフが3階までめっちゃ聞えました。タカラジェンヌにも時々踊れるオペラ歌手が出現する。宙組97期の留依蒔世、宙組104期の朝木陽彩、宙組106期の葉咲うらら。あの事件直前までの宙組は、実力ナンバー1だった。ほんとうに凄かった。宙組102期のハンサム風色日向の写真集を買って観ている。まどち(星風まどか)との対談、ゆり遥、そして我らがみくりん(三空凜花)との共演、いいね。
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これみんな、覇権を握った古代国家群。ペルシアに面従腹背していたマケドニアの軍艦用木材と金鉱が魅力的で、となりのポリスにアテネがちょくちょくお邪魔する。アテネ、嫌われてたねぇ。ギリシア、特にスパルタの強靭さに嫌になっちゃったアケメネス朝ペルシアが、ギリシア人よ仲よくしようと叫んどいて、メシが食えなくなったギリシア人傭兵をエジプト遠征にひたすら投入。新進気鋭のマケドニア対新進気鋭のテーベ。テーベよ、戦争に勝っても名将が戦死してはあとに残された者はマケドニアに負けるよ。ペルシアにかぶれたアレクサンダー大王遠征中の留守番役が軽い感じでスパルタを滅ぼしときました。大王はアケメネス朝を滅ぼす。大王の死後、セレウコスに負ける前のマケドニアが、軽い感じでシチリア、南イタリアを遠征してローマ攻めずに引き返した。アテネはシチリア攻めてボロボロになって滅んだのにね。もしローマがマケドニアに負けていたら、ポエニ戦争どころじゃなかったね。カルタゴ・ハンニバル対パルティアの覇権争い。仲が悪いシリアとエジプトがずぅーっと争っていて、ローマとパルティアがどっちに味方するのかな。結局、ローマが両方獲ったけど、ここでパルティアの意地、カッパドキア、コーカサス、メソポタミアだけは絶対に渡さないぞ。ミトリダテス大王の出現でポントス王国が第三勢力として台頭、三つ巴の戦闘情勢。アルメニアは美味しい果実、ローマもパルティアもご執心。となりのイベリアはアルメニアが欲しくて欲しくて、敵の敵は味方、近くのパルティアじゃなく、今は遠方のローマと手を結んでおこう。黒海北岸ボスポロスにまで文明のいい香りが漂い、こりゃよかばいと目覚めてしまったアラン人やサルマタイ人などスキタイ系遊牧民がコーカサスをうかがうも、イベリアがブロック。通過してええでと言ったとたんにアナトリア、シリアが戦争だらけ、ローマ、汗、汗。補給線が伸び、酷暑のうえに、兵糧尽きてノックダウンの繰り返し。戦功挙げて凱旋して神になりたい将軍たち。
コラム的に、ゲリラ的にアルメニア・メモからスタート。
*アルサケス朝アルメニア(66~428)
アルサケス朝パルティアを宗主国とする。安息といえば、わかりやすいか。
217年 ローマ帝国マクリヌス帝(217~218)が、アルメニア王国ティリダテス2世を承認。
252年 ササン朝ペルシャのシャープール1世(242~273)が臣下アルタバデスをアルメニア王とした。
287年 ローマ帝国の庇護のもとに、ティリダテス3世が王位を回復した。カッパドキアで教育を受けた聖グレゴリオスによってキリスト教に改宗した。
301年 アルメニア王国がキリスト教を国教とした。アルメニア大僧正カトリコスがエチミアジンで布教。
387年 ビザンティン・アルメニアとペルシャ・アルメニアに分割。
428年 ササン朝ペルシャのバフラーム5世がアルメニア王アルタクシアス4世を退位させた。
428~630年 ペルシャ知事統治時代
631~693年 ビザンツ帝国支配時代
693~885年 イスラム帝国統治時代
885~1045年 バグラトゥニ朝 都アニ
885年 アルメニア王アショト1世即位。アッバース朝アル・ムタミドとアルメニア系農民出身のビザンツ皇帝バシレイオス1世が独立承認。
1045年 ビザンツ皇帝バシレイオス2世がアルメニア王ガギク2世を退位させ滅ぼした。
アルメニア本国がトルクメン侵攻にさらされ、大勢のアルメニア人がキプロス島対岸のキリキアに亡命した。
1080~1375年 キリキア・アルメニア王国 都キリキア
1080~1226年 ルーベン朝
1198年 レヴォン2世が十字軍へ軍事物資支援した。
1226~1375年 ヘスミッド朝
1253年 レヴォン2世の娘婿ヘトゥムがカラコラムへ赴き、オゴタイ汗と同盟を結んだが、マムルーク朝の軍勢には無効だった。
1375年 西欧化主義者と民族主義者の対立、ペスト流行で、マムルーク朝によって滅亡した。
1048~1453年 セルジューク朝とモンゴル支配時代
1453~1916年 オスマン帝国統治時代
*古代ギリシア4大大会
オリュンピア大祭 開催地オリュンピア 祭神ゼウス
イストミア大祭 開催地コリントス 祭神ポセイドン
ネメア大祭 開催地アルゴス 祭神ゼウス
ピューティア大祭 開催地デルフォイ 祭神アポロ
エルバ島
エトルリア人が支配。鉄の産地で、交易が盛んになった。
エウボイア島(カルキス・エレトリア)植民都市
エウボイア人、フェニキア人、エトルリア人が共生、さかんに交易していた。
ピテクサイ(現ナポリ湾イスキア島)
クマエ BC8世紀にピテクサイから対岸のクマエに移住した。
BC8世紀末~7世紀初 レラントス戦争 全ギリシアを二分する大戦争だった
カルキス vs エレトリア
コリントス植民都市
アンブラキア
アポロニア
アクティオン
ポテイダイア
カルキス(エウボイア島)
レウカス島
ケルキラ島(現コルフ島)
シラクサ(シケリア島、現シチリア島)
まずコリントス人がオルテュギアに植民して、対岸の先住民シケロス人を隷属農民化してシラクサを植民した。
BC480年 ヒメラの戦い
シラクサ軍 勝ち vs カルタゴ軍 負け
BC474年 キュメ(クマエ)沖海戦
シラクサ海軍 勝ち vs エトルリア海軍 負け
エトルリア人は地中海制海権を失った。
スパルタ植民都市
BC8世紀後半に第一次メッセニア戦争で、広大な耕地を西に獲得し、スパルタ人に耕地(クレーロス)が分配され、メッセニア人は自治を許されたが、スパルタ人に奪われた耕地をそのまま耕作し、収穫物の半分を貢納させられた。
タラス(南イタリア・タレントゥム) BC706年に建設。耕地の分配でスパルタ人が揉めたため。
BC7世紀後半に第二次メッセニア戦争で、苦戦の末スパルタが勝利。メッセニア人の大部分をヘイロータイ身分に落とした。少数のスパルタ人が大多数のヘイロータイを治めるために、厳しい軍隊教育と鎖国平等主義を貫いた。
メガラ植民都市
BC7世紀初め、コリントスとの戦争に勝ち、コリントスから独立し、メガラ人が重要な多くの植民都市を建設した。
ケルソネソス
メセンブリア
ヘラクレス・ポンティカ
ニコメディア
ビザンティオン
カルケドン
メガラ・ヒュブラエア(現アウグスタ) BC483年にシラクサによって破壊滅亡。
ミレトス植民都市
リディア、アケメネス朝ペルシアの侵入によって、エーゲ海東沿岸の定住地を追われたギリシア人が、ミレトス主導のもとに黒海北岸に植民した。
オルビア(現ウクライナ) BC600年に建設。
テオドシア
パンティカパイオン BC480~440年に僭主アルカイアナクスが治めた。(アルカイアナクス朝)
ニュンファイオン
ポカイア植民都市
小アジアのアイオリス人がイオニア人にポカイアを譲渡。アテネが支援。
BC547年、キュロス2世がリディアを滅ぼしたため、ペルシアの支配を嫌ってポカイア人が地中海沿岸に逃げた。
マッサリア(現マルセイユ) BC600年に建設。
エンポリオン(スペイン・カタルーニャ) BC575年に建設。
アレリア(コルシカ島) BC540年ころ、エトルリア人から奪った。
エレア(イタリア・カンパニア) BC540年に建設。
ポカイア人がエトルリアやサルディーニャ島を侵攻。
BC540~535年 アレリア海戦
カエレ(エトルリア都市)海軍・カルタゴ海軍連合 勝ち
vs ポカイア海軍 負け
コルシカ島・サルディーニャ島からポカイア人が撤退。エトルリア人がティレニア海の制海権を握った。
テラ島(テラ)植民都市
キュレネ(現リビア)
コリントス
イオニア人のポリスだったが、ドーリア人が侵略。土地がやせて農業に不適だったので、製陶業をおこなった。
アフロディテ神殿に、神殿娼婦1000人が常駐。
BC654~624年 僭主キュプロセス
バッキアダイ(貴族)を粛清。アイギナ人がリュディアで発明された貨幣をコリントスに伝え、それがギリシア全土に広まっていった。
BC624~580年 僭主ペリアンドロス
ディオシコス(船の陸上輸送路)を建設。財政が豊かになり、ギリシア初の海軍を創設し、海上貿易に拡大した。3重櫓船を発明。
ミレトス僭主トラシュブロスと親交。
ミレトス
イオニア人のポリス。
BC600年、僭主トラシュブロスが、リュディア王アリュアッテス(BC605~561)を破る。
BC547年に、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がリュディア王クロイソスを破って滅ぼした。
スパルタ
ドーリア人の征服型ポリス。
ラケダイモン スパルタ市民(スパルティアタイ)、自由民、支配層。
ペリオイコイ スパルタ人に支配された民、商工業に従事。戦争に参加させられたが、参政権はない。
ヘイロータイ 奴隷、スパルタ市民の共有財産。農業に従事。
リュクルゴスの制度
1.スパルタ人から2人の王、60歳以上の市民から28人の長老を選出。
2.連帯感を高めるために、金・銀貨を廃止、クレーロス(持分地)を公平に分けて、市民の平等を徹底。
3.外から魅力的なものがはいってきて欲望が掻き立てられないように、鎖国制度を実施して自給自足経済にした。しかし政治的な外交は行っていた。
4.新生児の合否判定。
5.男子は7歳から親元を離れて集団生活に入る。1年じゅう、ほぼ全裸。
6.30歳まで死ぬほど厳しい軍事訓練を受ける。「スパルタ教育」夜中、合宿所を抜け出して、女子と一夜の行為に及んだ。
BC6世紀半ばまでに、ギリシア第一の陸軍大国に成長。スパルタに城壁は不要だった。BC6世紀末、周辺のポリスのリーダーとなって、ペロポネソス同盟を結成。
アテネ
イオニア人の集住型ポリス。
BC632年 キュロンの反乱
隣国メガラの僭主テアゲネスの助力で、貴族キュロンが僭主政をたてようとしたが、一般農民の反対で失敗。
BC624年 ドラコンの改革
慣習法の成文化。貴族が好きなように下していた裁判を公正で明確なものにした。
BC6世紀 ソロンの改革
貧富差が顕著になり、借金を払えなくて奴隷に転落した債務奴隷が続出した。
1.借金を帳消しにして、市民が自分の体を担保にして借金する債務奴隷を禁止。
任期10年のアルコン(執政官)9名が政治をした。アルコンを経験した貴族がアレオパゴス評議会(元老院)を構成して、アルコンを選出していた。
2.貴族の血統ではなく、財産の量で市民を4階級に分け、階級に応じて政治参加の役割を決定した。上位2階級の金持ちからアルコンが選出された。これを財産政治という。
軍船を備えていたポリスは、コリント、メガラ、アエギーナ。
アテネの外港はピレウス、メガラの外港はニサイア。
メガラと外港ニサイアが抗争していた。ペイシストラトスはニサイアに軍事加担。サラミス住民にアテネ帰属を説得。ソロンの助言で、スパルタに仲介を依頼した。
1.メガラはニサイアを自国の外港とする。
2.サラミス島はアテネに帰属する。
アテネ貴族三党派
平野派(ペディオン) リュクルゴス
海岸派(パラリア) メガクレス
高地派(ヒュペラクリオイ) ペイシストラトス
平野派リュクルゴスと海岸派メガクレスとの政争に敗れ、高地派ペイシストラトスはカルキデアへ国外追放され、鉱山開発経営に転身し、マケドニア王国と親交。
BC546年 ペイシストラトスは、アルゴン傭兵を率いてアテネを無血占領。亡命した政敵の子供たちをナクソス島へ移した。
BC6世紀半ば ペイシストラトスの改革
中小農民を味方につけ、策略によって僭主(独裁官)になった。独裁的権力を用いて、農業保護政策を強行、中小農民の生活を安定化させた。武器を取り上げて反乱を起こさないようにした。収益の1/10~1/20を納税させた。
ラウレイオン銀山を開発し、ドラクマ銀貨を発行し、コリント銀貨やアエギーナ銀貨に代わる通貨とした。
安価商品の大量生産をやめ、第四階級を金銭支援して、高価商品つまり壺の生産に切り替え、コリント壺に対抗した。
ヒッピアス(兄);ヒッパルコス(弟) 兄弟で僭主を継承
アリストゲイトン;パルモディオス ゲイのカップル
ヒッパルコスがパルモディオスに横恋慕して拒絶され、妹の名誉棄損に怒ったパルモディオスがアリストゲイトンと結託してヒッパルコスを殺害、同時にパルモディオスも殺害された。ヒッピアスがアリストゲイトンを逮捕・殺害。以後、暴君化して30年間の恐怖政治を布いた。
BC519年 テーベがプラタイアに侵攻。プラタイアはスパルタに援軍を依頼するも断られ、アテネに援軍依頼。アテネ軍がテーベ軍を破った。海岸派クレイステネスは、テーベ領有のボイオティア南部を贈与された。
海岸派アテネ人がデルフォイ巫女を買収して、スパルタにアテネ侵攻を命じさせた。スパルタは、アルゴスを除くペロポネソス半島内の諸ポリスと同盟関係(ペロポネソス同盟)を結んでおり、メガラにも触手を伸ばしていたので、アテネを同盟相手国にすることはスパルタ外交政策にも合致していた。
BC510年 ファレロンの戦い。ヒッピアスのアテネ軍と、テッサリア騎兵軍が少数のスパルタ重装歩兵軍を撃破。スパルタ王クレオメイネスが応援に来るとテッサリア騎兵軍が撤退。スパルタ王クレオメイネス(BC520~489)率いる重装歩兵が復讐に燃えてアテネのヒッピアスを包囲、ヒッピアスを北へ逃亡させた。
スパルタ王クレオメイネス(BC520~489)が、アテネ内政干渉。親スパルタ派のイサゴラスをアルコンに任命し、独裁をとらせようとしたが、市民たちが決起してスパルタ王とイサゴラス一派を包囲。ようやくクレイステネスを迎えることに決まった。
BC508年 クレイステネスの改革
1・血統でも財産でもなく、住所で市民を10グループに分ける。分けられたブロックをデーモスという。各デーモスから50人ずつ代表者が選ばれ、500人評議会を結成、日常の行政を担当。これを10部属制という。
2.僭主になりそうな人を毎年投票で選び、6000票以上獲得すると10年間アテネから追放する。これを陶片追放(オストラキスモス)という。財産は没収しないし、10年たったら帰ってきてよい。陶片はオストラコンという。
改革が行われるたびに、より多くの市民が、市民としての自覚を深め、積極的に政治に参加していくようになった。
BC507年 スパルタ王クレオメイネス(BC520~489)が、亡命してきていたイサゴラスをアテネ僭主に据えるため、アテネ近郊のエレウシスに侵攻。スパルタ王デマラトス(BC515~491)、コリント軍が撤退して失敗。今度はヒッピアスをアテネ僭主に据えようとしたが、コリントの反対で頓挫。ヒッピアスはアケメネス朝ペルシアに亡命して支援を求めた。これもペルシア戦争の一因となった。
アケメネス朝ペルシア(BC550~BC330)
BC550年 キュロス2世、メディア征服。アケメネス朝ペルシアを建国。
BC547年 ティンブラの戦い。リディア王クロイソス 負け vs アケメネス朝ペルシア王キュロス2世 勝ち。リディア王クロイソスの騎馬兵が、キュロス2世のラクダ騎兵に降伏。馬がラクダの匂いや鳴き声に怯えたため。キュロス2世、リディア征服。将軍のマザレスとハルパゴスがひきつづき、アナトリアのギリシャ系都市国家を征服。純然たる陸軍だったペルシア帝国軍に、新たに良質な海軍が加わった。エジプトの同盟国だったサモスとキプロスがペルシアに寝返った。
BC539年 キュロス2世、新バビロニア征服。バビロン捕囚のユダヤ人を解放した。
BC530年 キュロス2世、北方のマッサゲタイ人遠征で戦死。
BC525年 カンビュセス2世、エジプト征服。第27王朝を建国。
BC522年 カンビュセス2世死去、その弟王を殺害してダレイオス1世即位。カンビュセスの娘だったアトッサ、アルテュストネ、弟王の娘だったパルミュスをことごとく娶った。ゾロアスター教を信仰。
サトラプ制 知事(サトラプ)が管轄する20の行政財政区
王の道、宿泊施設を備えた宿駅、サトラプを見張る監察官(王の目、王の耳)を派遣、古代ペルシア文字、ボスポラス海峡に舟橋建設、ナイル・デルタと紅海を結ぶ運河完成、ペルセポリス建都
BC510年代 インドとリビアとサカ族を遠征。
スキティア遠征には失敗したが、将軍メガバゾスがトラキアを征服し、マケドニアに臣従関係を結ばせた。
イオニア人が黒海北岸でスキタイ人と交易しており、数個のポリスを形成していた。アナトリア・イオニア人居住地に近いリディアで貨幣が創造され、アケメネス朝ペルシア帝国領内に一気に拡大した。
BC499年 イオニアの反乱。ミレトス僭主アリスタゴラスが主導し、小アジア西岸イオニア地方のギリシア人ポリスがペルシアに対し反乱を起こし、アテネとエレトリアが支援。
BC497年 マケドニア王国アレクサンドロス1世(BC497~454)即位。
BC494年 セペイアの戦い。デルフォイ神託でスパルタがアルゴスに侵攻。
スパルタ王クレオメイネス 勝ち vs アルゴス 負け
BC493年 イオニア反乱鎮圧。
BC493~492年 アテネ軍港ファレロンが防御面で難があったため、テミストクレスがペイライエウス(ピレウス)に周壁を建設し、新しい軍港とした。居留外国人(メトイコイ)がペイライエウスに住み、税(メトイキオン)を支払った。
BC492年 ペルシア王ダレイオス1世が将軍マルドニオスを陸路進軍させ、トラキアとマケドニアを従属させた。BC479年にペルシア軍が敗退するまでマケドニアはペルシアの支配下に置かれた。アテネとエレトリアへの報復として、ペルシア戦争が勃発した。
BC491年 スパルタ政変。
アギス朝クレオメネス王(BC520~489)
vs エウリュポン朝デマラトス王(BC515~491)
クレオメネス王が、デマラトス王を失脚・廃位させて、エウリュポン朝レオテュキダス王(BC491~476)を挿げ替えた。デマラトス王はアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世のもとに亡命。後継にクセルクセスを推挙し、クセルクセス王の側近としてペルシア戦争にも参加。ギリシア軍撃破の助言を求められたが採用されなかった。
BC490年 マラトンの会戦
アテネ・プラタイア連合軍・将軍ミルティアデス 勝ち
vs アケメネス朝ペルシア・将軍ダティス 負け
スパルタ王(アギス朝)クレオメネス1世(BC520~489)がペロポネソス同盟を結成。エウリュポン朝デマラトス王廃位の陰謀が発覚したため、発狂し自殺した。
BC489年 スパルタ王(アギス朝)レオニダス1世(BC489~480)即位。
BC486年 アケメネス朝ペルシア・クセルクセス1世(BC486~465)即位
BC483年 アッティカ南端のラウレイオン銀山発見。テミストクレスがその収益で、マケドニア王アレクサンドロス1世から木材を購入し、三段櫂船を建造。アケメネス朝ペルシア高官ブバレスの架橋・道路・運河工事にアレクサンドロス1世が協力し、ピエリア地方で待機していたクセルクセス王を接待した。つまりアレクサンドロス1世は二股賭けていた。その証拠に、アレクサンドロス1世の銀貨に、ペルシア王が下賜したアキナケス(短剣)が彫られており、クセルクセス王に忠誠を示していた。クセルクセス王は、エジプトやメソポタミアの反乱を鎮圧することに気を取られ、マケドニアへの注意を怠ってしまった。
BC480年 テルモピュライの会戦
スパルタ王レオニダス1世 負け
vs アケメネス朝ペルシア クセルクセス王 勝ち
アテネ市民はサラミスに逃亡。テーベがペルシアに寝返った。
BC480年 アルテミシオン海戦
アテネ海軍 vs ペルシア海軍 引き分け
テミストクレスが三段櫂船70隻から200隻に増設していた。1隻あたり、漕ぎ手180人が必要。
BC480年 サラミス海戦
アテネ将軍テミストクレス 勝ち
vs アケメネス朝ペルシア クセルクセス王 負けて帰国
BC479年 プラタイアの会戦
アテネ・スパルタ・コリントス連合軍
スパルタ司令官パウサニアス 勝ち
vs アケメネス朝ペルシア将軍マルドニオス 負け
BC479年 ミュカレ海戦
スパルタ王レオテュキダス 勝ち
vs アケメネス朝ペルシア水軍 負け
スパルタ王レオテュキダスは、水軍権をパウサニアスに譲渡し、ペルシアに加担したテッサリア討伐に向ったが、賄賂を受け取ったためテゲアに亡命して死没。
BC478年 アテネを盟主とするデロス同盟結成。軍資金の金庫がデロス島にあった。
BC478年 キプロス島海戦・ビザンティオン包囲戦
ペロポネソス同盟将軍パウサニアス・デロス同盟 勝ち
vs アケメネス朝ペルシア将軍マルドニオス 負け
パウサニアスは、マルドニオスの奢侈に染まり、スパルタ本国召還の末、アテナ神殿で兵糧攻めにあい絶命。
BC475年 エイオン包囲戦
ミルティアデスの息子キモンが活躍。
デロス同盟キモン 勝ち
vs アケメネス朝ペルシア将軍ボゲス 負け
エイオンは造船用木材と銀の産地。次にキモンはペルシャ艦隊集結地だったドリスコスを攻略、さらにスキュロス島を攻略し、住民のドロペス人を奴隷とし、アテネ人が定住した。スキュロス島はクレルーキアになった。
*植民方法
クレルーキア 植民者が出身ポリスの市民権を保持したまま、植民地の土地を所有し居住する。
アポイキア 植民者が出身ポリスの市民権を放棄して独立のポリスを形成し、植民地の土地を所有し居住する。
BC471年 テミストクレスが陶片追放。晩年、アケメネス朝ペルシアに身を寄せた。
BC470年 オドリュサイ人テレス1世がトラキアにオドュルサイ王国を建国。スキタイ王アリアペイテスと政略結婚。
オドリュサイ王国(BC470~AD46) 都ウスクダマ、スタロセル、セウトポリス、ヴィゼ、カビレ
テレス1世(BC470~445)トラキア諸部族を統合、マラキア海沿岸のギリシア植民市を併合した。
シタルケス1世(BC444~424)アテネと軍事同盟、スパルタに対抗。マケドニア王ペルディッカス2世の弟フィリッポス&アミュンタス親子がオドリュサイ王国に亡命しており、BC429年にマケドニア遠征。ペルディッカス2世がシタルケス1世と政略結婚。北西のトリバッロイ族との戦争中に戦死。
セウテス1世(BC424~396)全盛期
アマドコス1世(BC396~390)北オドリュサイ王国を支配。
セウテス2世(BC396~390)サルミデッソス征服。南オドリュサイ王国を支配。
アテネ将軍トラシュブロスが仲介。
ヘブリュゼルミス(BC390~384)ケルソネソス半島(現ガリポリ半島)領有をめぐってアテネと交渉。
コテュス1世(BC384~359)王女をアテネ将軍イフィクラテスに嫁がせた。イフィクラテスはマケドニア王アミュンタス3世の養子にもなっており、イリュリア襲来を受けていたマケドニア王国を支援した。アテネからテーベに乗り換えて、ケルソネソス半島をめぐってアテネと戦争。マケドニア王フィリッポス2世と同盟協議中、アテネがコテュス1世を暗殺。
ケルセブレプテス、アマドコス、ベリサデスが三つ巴になって後継者内戦。
ケルソネソス半島をアテネとオドリュサイ王国の二重支配にすることを条件にアテネが仲介。
マケドニア王フィリッポス2世は、イリュリア撃退、アテネと争っていたアンフィポリス征服、ベリサデスとアマドコスの領土を征服。ケルセブレプテスはマケドニアからアテネに寝返って、フィリッポス2世がケルセブレプテスの領土を遠征中に病気になり断念。BC346年、ケルセブレプテスがマケドニア王フィリッポス2世に降伏。
アレクサンデル大王はトラキア総督ゾピュリオンをトラキア遠征に派遣したが、ゾピュリオンがゲタイ族に敗死。
セウテス3世(BC341~300)マケドニアに支配されていたオドリュサイ王国を復興。セウトポリスを建設し貨幣を鋳造し、マケドニアから独立した。マケドニア王国リュシマコスに敗死。
マケドニア王国拡大
1 ピエリアからピエリア人駆逐
2 ボッティアからボッティアイア人駆逐
3 アクシオス川流域からペラ獲得
4 ミュグドニアからエドノイ人駆逐
5 エオルダイアからエオルドイ人駆逐
6 アルモピアからアルモピア人駆逐
7 アンテムス、クレストニア、ビサルティア獲得
アケメネス朝ペルシア撤退後、領土を拡大。パンガイオン山の金銀で大いに潤った。
*古代ギリシアvsマケドニア
ペルシア戦争中は、ペルシアのヒッパルコス(準総督)がエイオンに設置され、BC477年、アテネ将軍キモンがエイオン遠征し、アテネ人を入植。エネアホドイにも遠征したが、トラキア人に撃退されて失敗。アテネはストリュモン川流域の木材集散地エイオンを獲得したことで、マケドニアへの木材依存度が減少。マケドニアも豊かな鉱山地帯を支配下におさめたことでアテネとの木材交易に依存する必要がなくなった。
BC468年 大理石の産地、ナクソスがデロス同盟離脱を求めて反乱したが、アテネ軍によって鎮圧。
BC466年 エウリュメドン川の戦い
デロス同盟キモン 勝ち
vs アケメネス朝ペルシア ティトラウステス・フェレンダテス 負け
BC465~463年 造船用木材・金・銀の産地タソスがデロス同盟離脱を求めて反乱。アテネ将軍キモンがタソス島反乱を鎮圧。
BC462年 ヘイロータイのメッセニア人反乱鎮圧に協力するようスパルタがアテネ将軍キモンに要請。スパルタの非礼に対し、アテネがBC480年に締結したアテネ・スパルタ同盟条約を破棄した。
BC461年 貴族派キモンが陶片追放。民主派エフィアルテスが暗殺された。キモンの政敵だった民主派ペリクレス(BC461~429)がアテネのアレオスパゴス評議会を制圧。
貴族派アリスティデス&キモン 親スパルタ
民主派エフィアルテス&ペリクレス 反スパルタ
BC462年 エフィアルテスの改革
1.アレイオスパゴス評議会から、有遺志殺人の裁判を除き、すべての政治的権限を剥奪した。民会から分離独立した民衆裁判所に移譲された。
2.第3階級まで、アルコンに就任できた。
アテネ僭主 ペリクレス BC461~430
スパルタ王 アルキダモス BC464~427
ペルシア王 アルタクセルクセス BC464~425
この三つ巴で歴史が転回していった。
BC459年 メガラがペロポネソス同盟を離脱し、デロス同盟加盟。コリントがメガラ侵攻。アテネはリビア王イナロスの反乱を支援すべくエジプト遠征中。ペルシア軍に負けてリビア王イナロスは処刑。
BC457年 フォキスがドーリスに侵攻、スパルタが撃退。スパルタがボイオティア連邦を侵攻。アテネは、アルゴスやデロス同盟軍を率いて、タナグラ会戦で、スパルタが辛勝。次いでオイノピュタの戦いで、アテネはボイオティア連邦に勝利、フォキスと同盟、デルフォイを掌握した。アテネとファレロン港を結ぶ長城壁が完成した。
BC454年 マケドニア王国ペルディッカス2世(BC454~413)即位。
BC453年 デロス同盟の金庫をデロス島からアテネに移動。
BC451年 キモンがアテネに帰国。スパルタ・アテネ5年間休戦協定締結。キプロス遠征先で病死。帰国途中で、フェニキア・キプロス・キリキア連合軍と交戦し勝利。
BC450~440年代、アテネはエーゲ海北岸へ進出していき、テルメ湾周辺に触手を伸ばし、カルキディケに植民市ブレアを建設した。
BC448年 カリアスの平和(アテネ・ペルシア相互不可侵協定)
キプロス島はペルシア領と定めた。ペルシアは小アジアのギリシア領を侵攻しない。
BC448年 第二回神聖戦争。フォキスが治めていたデルフォイを、スパルタが武力でデルフォイに返した。その後、アテネがデルフォイに派兵して、フォキスに返した。
BC447~431年 デロス同盟金庫のカネを用いて、パルテノン神殿建造。
BC446年 スパルタ・アテネ5年間休戦協定が切れた。メガラがデロス同盟脱退。ペリクレスがメガラ商船のピレウス入港禁止。メガラがスパルタに援軍要請。パウサニアスの息子のスパルタ王プレイストナクスがエレウシスで撤退したため、5人のエフォロスがプレイストナクスを廃位。
カルキス(エウボイア島)がデロス同盟脱退。ペリクレスが軍を派遣して制圧。ペロポネソス同盟のコリントが激しくアテネを非難した。
「カリアスの平和」のため、シリア・エジプト進出が困難になったため、アテネがナウパクトゥス(現レパント)を獲得。
アテネとペロポネソス同盟の間で、30年間の休戦条約が再締結された。
BC443年以降 ペリクレス(BC495~429)の民主化政策
1.国政はエクレシア(民会)で多数決により決定。エクレシアにはアテネ市民全員が義務参加。アレオパゴス評議会は存続しているが、有名無実化。
2.将軍を除くすべての役人や裁判官が、アテネ市民全体から抽選で選出。
3.貧しい市民でも政治に専念できるように、任期中は手当支給。
4.参政権は両親ともにアテネ市民の、18歳以上の成人男性(アテネ市民)のみ。外国人の母親から生まれた子供は、庶子とされ市民権は認められなかった。
5.市民全体が参加する直接民主政。
6.アテネで発達した民主政治は、デロス同盟諸国を中心に、ギリシアじゅうのポリスに拡大。
7.ペルシア戦争中からラウレイオン銀山の開発が本格化。
豊富な銀がアテネを潤す。デロス同盟のアテネ以外のポリスはアテネに従う以外できなくなってきた。
デロス同盟の軍資金も押領。ペリクレスの時代がアテネの黄金時代。ペルシア戦争中に炎上焼失したパルテノン神殿がデロス同盟の軍資金を横領して建設された。さらに金庫がデロス島からパルテノン神殿アクロポリスに移された。総監督はフェイディアス。BC432年にパルテノン神殿完成。
デロス同盟離脱を求めるポリスに、武力介入や制裁金を課した。
*帝国主義者ペリクレス
好きな場所に行き植民都市を建設できる時代ではなかった。アテネ市民を移住させ、植民地にはしても領土拡大にこだわらなかった。周辺にすでに存在している都市国家と同盟を結んでいった。同盟とは対等の関係にある相手とのあいだに結ぶもの。ペロポネソス同盟の盟主スパルタと加盟国の陸上戦力は対等でなかったし、デロス同盟の盟主アテネと加盟国の海上戦力も対等でなかった。加盟各国は対等と思いたい。スパルタは主導権を発揮しないことで加盟国に対等と思わせ、アテネは主導権は発揮しながらもそれによるメリットを与え続けることで加盟国をまとめていこうと考えた。
BC443年 アテネがトゥーリを獲得し、植民市を建設。トゥーリは、シバリやターラントと同盟を結んだ。
BC437年 アテネがエネアホドイを獲得し、植民市アンフィポリスを建設。こうしてマケドニア王国は、アテネとトラキアのオドリュサイ王国(BC470~AD46)に挟まれた。
アテネ将軍ペリクレス(BC444~430)
マケドニア王ペルディッカス2世(BC454~413)
オドリュサイ王シケルタス1世(BC431~424)
の三つ巴。
ボスポロス王国(BC438~AD376)建国 都アンティカパイオン
アケメネス朝ペルシアとのペルシア戦争中、BC480年ころ、ギリシア人アルカイアナクスが黒海沿岸のポリスをまとめて、ボスポラス王国を建国。
BC440年 サミア戦争。アテネのペリクレスがサモスとビザンティオンの反乱を鎮圧し、さらに黒海遠征。
BC438~433年、トラキア人?、スキタイ人とギリシア人の混血?、スパルタコス1世が、ボスポロス王国を奪取。
BC433~389年、サテュロス1世 アテネがニンファイオンを寄贈するお礼に、アテネに穀物輸出を始めた。不凍港テオドシア征服を狙って包囲中に死去。
BC389~349年、レウコン1世 テオドシアはヘラクレアの支援を受けて、ボスポロス王国に反抗したが、負けて、ボスポロス王国が、テオドシアとヘラクレアを征服。アテネはペロポネソス戦争に負けてデロス同盟が瓦解、アテネ海上同盟(アテネ・キオス・ビザンティオン・ロードス)もアテネ軍事活動を嫌って瓦解。そんなアテネとボスポロス王国は親しく交易した。ボスポロス王国はアテネに対して関税を撤廃し、アテネはボスポロス王族に市民権賦与、免税権賦与、賓客として扱った。
BC349~344年 スパルタコス2世
BC349~311年 パエリサデス1世
BC311年 サテュロス2世、ブリュタニス、エウメロスが三つ巴で内戦。
BC310~304年 エウメロス1世
BC304~284年 スパルタコス3世
BC284~245年 パエリサデス2世 プトレマイオス朝プトレマイオス2世に使節派遣。
BC245~240年 スパルタコス4世
BC240~220年 レウコン2世
BC220~200年 ヒギアイノン
BC200~180年 スパルタコス5世
BC180~150年 パエリサデス3世
BC150~140年 パエリサデス4世
BC140~111年 パエリサデス5世 スキタイ人サウマクスが反乱。パエリサデス5世が戦死。スキタイ人襲来を受けていたケルソネソスがポントス王国に救援依頼。ポントス王国ミトリダテス6世は、将軍ディオファントスをケルソネソスに派遣、ケルソネソス征服。サウマクス派が支配していたテオドシア、パンティカパイオンを解放すると、ミトリダテス6世はボスポロス王位を継承した。
ミトリダテス6世の息子ファルナケス2世が、ローマ庇護下のもと、ボスポロス王に即位。
古代ギリシア
ペロポネソス同盟 盟主スパルタ
デロス同盟 盟主アテネ
コリントス同盟 盟主マケドニア
ボイオティア同盟 盟主テーベ
アエトリア同盟 中央ギリシア
BC435年 植民市エピダムノス領有をめぐって、ケルキラ島とコリントスが紛争。ケルキラ島はアテネに援軍を要請。
BC433年 シュボタ海戦 引き分け
ケルキラ島&アテネ将軍ラケダイモニオス
vs コリントス将軍クセノクレイデス
BC433年 アテネがマケドニア対立王フィリッポスと同盟。
BC432年 テルメ湾のポテイダイアがアテネに対して反乱。ペルディッカス2世は、アテネに対抗するためにカルキディケ連邦を結成し、スパルタとコリントスに働きかけて、反乱を起こさせていた。
BC432~430年 ポテイダイアの戦い
アテネ将軍アスケルトラトス 勝ち、アテネがポテイダイア占有
vs コリントス将軍アリステウス&マケドニア王ペルディッカス2世 負け
BC431~404年 ペロポネソス戦争 ←マケドニアが積極的に関与していた
金貨銀貨で商業を奨励した民主政アテネ。
鉄貨しか通貨として認めない質実剛健・寡頭政のスパルタ。
兵隊が多いので経費がかさむアテネ、第4階級まで民主化して兵の数を補う必要が出てきた。経済力のないデロス同盟ポリスは、自国の民主化を進められずにアテネに貢納してへりくだるしかない。
兵は少ないが精鋭部隊のスパルタ、容易に征服できても、一万程度の兵では併合できず属国化するのが関の山。分担金が払えないデロス同盟ポリスは、分担金ゼロのペロポネソス同盟に寝返るしかない。
アテネ代表の民主政ポリス vs スパルタ代表の貴族政ポリス
デロス同盟を足掛かりに周辺ポリスを従属化させようとするアテネの「覇権主義」
vs 伝統であるポリスの「自治独立」を守ろうとするペロポネソス同盟
アテネ・デロス同盟 負け vs スパルタ・ペロポネソス同盟 勝ち
質実剛健で質素を貫いてきたスパルタが、アテネの遊興奢侈堕落の旨味を覚えてしまい、急速に軍事力が弱体化してしまった。アテネは戦費による国庫破綻で荒廃してしまった。
アテネは、市街地と外港ペイライエウス(現ピレアス)を結ぶ長城が築かれており、非常に堅固な城塞都市だった。ペリクレスはアテネ市外の奴隷などをすべて城内に入れて防備を固めた。陸戦を避ける一方でアテネは海軍を動員して海上からペロポネソス同盟を攻略した。
BC431~429年 アッティカ侵攻、プラタイア包囲戦
スパルタ王アルキダモス2世(BC476~426)vs アテネ将軍ペリクレス(BC444~430)
BC430年 アテネにペスト3年間流行、市民の1/3、10万人以上が死去。BC429年にペリクレスも病死。戦争好きな市民に担ぎ出されたデマゴーゴス(扇動政治家)による衆愚政治が常態化。いたずらに戦争を長引かせた。
BC429年 スパルトロスの戦い
カルキディケ連邦 勝ち vs アテネ 負け
BC424~422年 アンフィポリス争奪戦
アテネ将軍トゥキディデス 負け
vs スパルタ将軍ブラシダス 勝ち
BC423年 上部マケドニアのリュンケスティス王アラバイオス1世 イリュリア傭兵の寝返りで勝ち
vs マケドニア王ペルディッカス2世&スパルタ将軍ブラシダス 負け
BC421年 ニキアスの和約。
BC423年にアテネとマケドニア王ペルディッカス2世が同盟を結び、アテネは木材を得ていたが、BC418年にマケドニアはスパルタとアルゴスの同盟に加盟した。またもやマケドニアと決裂したアテネは木材の供給地を南イタリアとシチリアに求め、それがBC415年に始まるシチリア遠征につながる。
BC417年 アテネ、陶片追放を廃止。
BC415~413年 アテネのシチリア遠征。
アテネのアルキビアデスが扇動。アテネ将軍ニキアス(消極派)とラマコス(積極派)が遠征先で刑死・敗死。アルキビアデスはスパルタに亡命して裏切った。軍船160艘を失った。これを機に多くのポリスがデロス同盟を離反した。
BC414年 スパルタがアケメネス朝ペルシアと同盟。スパルタはアケメネス朝の資金援助を得て、スパルタ海軍を編成した。
BC413年 マケドニア王国アルケラオス(BC413~399)即位。
BC410年 シチリア島遠征に失敗したアテネがマケドニアと和解。その協力を得てピュドナ獲得。アルケラオス王は銅貨を発行、貨幣経済がある程度成熟していたことを示す。アイガイからペラに遷都。新都ペラの宮廷に、ペロポネソス戦争から避難してきたギリシアの名高い文人や芸術家を集め、ギリシア文化を積極的に導入した。オリンポス山裾野のディオンのオリンピア祭を創始した。
テッサリアのフェライ僭主リュコフロン ⚔ ラリサ僭主アレウアダイ
アルケラオス王はラリサを支援して、テッサリアに進攻した。
BC405年 アイゴスポタモイ海戦
アテネ海軍 負け vs ペロポネソス同盟軍リュサンドロス 勝ち
アテネ穀物輸送ルートが遮断されてしまい、アテネはスパルタに降伏した。
スパルタの凋落
1.スパルタの勝利は莫大な富をスパルタにもたらした。
2.その結果、市民のあいだに貧富の差が生じて、リュクルゴス制が崩壊した。スパルタは急速に弱体化。
3.そのころ、テーベがエパミノンダスの指導で急速に力をつけてきた。
4.ポリス同士が戦い、市民たちの土地は荒れ、次々と没落していく。どこのポリスも市民軍に維持が困難になり、傭兵が戦場の主役になる。戦うことが市民の義務であり、誇りであったのに、今や市民の存在意義は失われた。市民の結束が乱れ、さらに弱体化が進んだ。
BC404年 エジプトが反乱、アケメネス朝から独立した。
BC395~386年 コリントス戦争。
スパルタ vs 反スパルタ連合(アテネ・テーベ・コリントス・アルゴス)
BC390年 レカイオンの戦い。アテネのイフィクラテス(BC415~353)が軽装歩兵(ペルタスタイ)で活躍。
BC386年 アンタルキダス(大王)の講和。アケメネス朝ペルシアのアルタクセルクセス2世(BC404~358)が仲裁。交戦国だけでなく、すべてのギリシア都市に無期限で妥当する平和条約で、「普遍平和(コイネ・エレイネ)」と呼ばれた。ギリシア人傭兵に依存するペルシアは、多数の傭兵の確保を狙って、ギリシア世界における講和を画策した。ギリシアが平和になれば、傭兵たちは職を失い、外国に雇われざるを得なくなる。アルタクセルクセス2世は、第二次エジプト遠征を企てていたので、この講和を画策した。
BC384年 オドリュサイ王国コテュス1世(BC384~359)即位。同盟国だったアテネ将軍イフィクラテスの支援でトラキアで強大になった。
BC377年 第二次アテネ海上同盟をアテネが結成。*デロス同盟が第一次アテネ海上同盟にあたる。
BC370年代にテーベは、ペロピダスとエパミノンダスという傑出した指導者を得て国力を高め、BC379年にアテネとテーベが同盟し、スパルタの支配から解放された。
BC371年 レウクトラの戦い
ボイオティア同盟(アテネ重装歩兵+テーベ斜線陣+テーベ神聖隊) 勝ち
vs ペロポネソス同盟(盟主スパルタ) 負け
テーベがスパルタを撃破し、ギリシア最強のポリスに成り上がった。
BC364年 キュノスケファライの戦い
テーベ・ペロピダス(戦死) 勝ち
vs テッサリア・アレクサンドロス 負け
BC362年 マンティネイアの戦い
ボイオティア同盟エパミノンダス(戦死) 勝ち
vs アテネ・ヘゲシレオス、スパルタ・アゲシラオス2世、マンティネイア連合軍 負け
アテネへの帰属を頑強に拒んだアンフィポリスは、オリュントスと同盟締結。アテネがアンフィポリスとトラキアのケルソネソス奪還を図る動きに、第二次アテネ海上同盟の加盟国が反発。BC369年からアテネは、アンフィポリス奪還を目指し、マケドニア王家と関係の深いイフィクラテスを将軍として何度も遠征した。BC367年には、アケメネスペルシア王アルタクセルクセス2世もアテネのアンフィポリス領有を承認した。イフィクラテスはペルシア援軍を得てアンフィポリス攻撃を強めた。これに対し、BC365年にアンフィポリスはマケドニア王プトレマイオス(BC368~365)と同盟。イフィクラテスは何の成果も挙げられずに将軍ティモテオスと交代し、以後はトラキア王コテュスの参謀として活動していた。プトレマイオス王が暗殺されると、アンフィポリスはオリュントスと同盟を結び、アテネはマケドニア王ペルディッカス3世と同盟を結んだ。ティモテネスは、BC364年にカルキディケのトロネとポテイダイアを攻略。BC363年にアテネ将軍カリステネスに交代し、アンフィポリスはマケドニア王ペルディッカス3世に救援を要請、BC362年にアテネとの同盟を無視して、ペルディッカス3世はアンフィポリスに進軍・駐留した。ティモテオスはその報復として、マケドニア沿岸のメトネ・ピュドナを奪取。
BC357~355年 ギリシア同盟市戦争
BC356年 エンバダ海戦
マケドニア王フィリップ2世 勝ち
vs アテネ将軍イフィクラテス 敗戦後、解任された
アテネと第二次アテネ海上同盟加盟国が争い、アテネが敗北した。
BC356~346年 第3次神聖戦争
テーベ・テッサリア vs フォキス・アテネ・スパルタ
テーベが疲弊し、スパルタが相対的に勢力を増した。
BC354年 マケドニア王フィリップ2世がフォキスのオノマルコスに、投射兵器によって惨敗。
BC343~341年 アケメネス朝ペルシア・アルタクセルクセス3世の第4次エジプト遠征。BC5世紀末に離反したエジプトをようやく再征服できた。アケメネス朝ペルシアは優秀なギリシア人傭兵を頻用した。ギリシア人傭兵に依存するペルシアは、多数の傭兵の確保を狙って、ギリシア世界における講和を画策した。ギリシアが平和になれば、傭兵たちは職を失い、外国に雇われざるを得なくなる。
マケドニア王国
BC393年 アミュンタス3世(BC393~370)がマケドニア王即位。イリュリア侵攻を受け、講和を結んで貢租の支払いを約した。イリュリア王国は、バルデュリス王によって強大になった。
BC383年 オリュントスがマケドニアに侵攻し、ペラまでの領土を奪取。もともとペルディッカス2世がオリュントスへの集住を促してカルキディケ連邦を結成したが、アミュンタス3世はカルキディケ連邦が強敵に変わっていた。
BC382~379年 スパルタ王アゲシポリス1世(BC394~380)がオリュントス遠征。エリメイア王デルダス2世とマケドニア王アミュンタス3世が加勢した。
BC370年代末、アミュンタス3世が、テッサリアのフェライ僭主イアソンと同盟。
BC374年 アテネ将軍イフィクラテスがマケドニア王アミュンタス3世の養子になり、重装歩兵(ホプリタイ)の槍や剣を長くして(サリッサ)、楯を小型化する(トゥレオス)という武具の改良を行い、アレクサンドロス2世に教えた。重装密集歩兵(ファランクス)の育成が、重装騎兵(ヘタイロイ)の不満を招き、アルケラオス王もアレクサンドロス2世も暗殺された。
BC370年 マケドニア王アレクサンドロス2世は人質として末弟フィリップ(のちのフィリップ2世)をイリュリアへ送った。イリュリアのダルダノイ人バルデュリス王から、フィリップ2世は歩兵と騎兵を連動させる戦術を学んだ。
アテネへの帰属を頑強に拒んだアンフィポリスは、オリュントスと同盟締結。アテネがアンフィポリスとトラキアのケルソネソス奪還を図る動きに、第二次アテネ海上同盟の加盟国が反発。BC369年からアテネは、アンフィポリス奪還を目指し、マケドニア王家と関係の深いイフィクラテスを将軍として何度も遠征した。BC367年には、アケメネスペルシア王アルタクセルクセス2世もアテネのアンフィポリス領有を承認した。イフィクラテスはペルシア援軍を得てアンフィポリス攻撃を強めた。これに対し、BC365年にアンフィポリスはマケドニア王プトレマイオス(BC368~365)と同盟。イフィクラテスは何の成果も挙げられずに将軍ティモテオスと交代し、以後はトラキア王コテュスの参謀として活動していた。プトレマイオス王が暗殺されると、アンフィポリスはオリュントスと同盟を結び、アテネはマケドニア王ペルディッカス3世と同盟を結んだ。ティモテネスは、BC364年にカルキディケのトロネとポテイダイアを攻略。BC363年にアテネ将軍カリステネスに交代し、アンフィポリスはマケドニア王ペルディッカス3世に救援を要請、BC362年にアテネとの同盟を無視して、ペルディッカス3世はアンフィポリスに進軍・駐留した。ティモテオスはその報復として、マケドニア沿岸のメトネ・ピュドナを奪取。
BC370年 中央ギリシアのポリスがアエトリア同盟を結成。
BC369年 テッサリアのフェライ僭主アレクサンドロス&テーベのペロピダス
⚔ ラリサ僭主アレウアダイ&マケドニア王アレクサンドロス2世(BC370~368)
BC368~365年 ペロピダスがマケドニア王末弟フィリップ(のちのフィリップ2世)をテーベに人質として連行した。フィリップ2世はエパミノンダスから斜線陣(左翼に分厚い主力部隊を置く戦法)を学んだ。ゴルギダスから神聖隊(ゲイの軍団)を学び、同じくゲイの軍団ヒュパスピスタイをマケドニア軍に導入した。
BC365年 ペルディッカス3世即位。プラトンと親交があった。末弟フィリップがテーベの人質からマケドニアに帰国。エパミノンダスが艦隊建造を進めており、テーベに木材を提供したのと交換条件でフィリップ解放。エペイロスのモロッソス王国と同盟密約締結のため、マケドニア・フィリップとモロッソス王女オリュンピアスを結婚させた。BC356年に長男アレクサンドロス(のちのアレクサンドロス大王)が誕生。モロッソス王国とマケドニア王国は、共通の敵イリュリアに連携して立ち向かうための攻守同盟を結んだ。
BC359年 イリュリア王バルデュリスがマケドニア王ペルディッカス3世(BC368~359)を敗死。マケドニア王フィリップ2世が即位。ほぼ同時に、オドリュサイ王国コテュス死去、エペイロスのモロッソス王国ネオプトレモス死去でアリュバス即位、テッサリアのフェライ僭主アレクサンドロスが暗殺され、パイオニア王アギスは死去、ダルダノイ人のイリュリア王バルデュリスもフィリップ2世に敗死。アケメネス朝ペルシアのアルタクセルクセス2世が死去し、アルタクセルクセス3世が即位していた。
BC358年 マケドニア王フィリップ2世(BC359~336)がアテネ・パイオニア・イリュリア連合軍を破り、イリュリア王バルデュリスを敗死させた。上部マケドニアを領有。対イリュリア戦で多くの重装騎兵(ヘタイロイ)が戦死したため、ヘタイロイの反対なく歩兵の増強に着手できた。
*フィリップ2世の軍制改革
軍紀を正し、兵士たちに厳しい訓練を施した。戦争に際しては、荷車の使用を禁止し、兵士には武具や食糧をすべて自分で運ばせ、従卒の人数を制限し、兵站任務の輜重部隊の規模縮小を図り、軍の機動性を高めた。マケドニア海軍を養成して、攻城兵器を開発した。
フィリップ2世の方針は軍隊が充実するまではアテネと和平を保つことだった。アテネとの係争地アンフィポリスから軍を撤退し、ティモテオスに報復として奪われたメトネ奪還を目指した。アテネ軍の支援を受けたアルガイオスがアイガイ侵攻。フィリップ2世はこれを撃退して、アルガイオスが殺害されるや否や、アテネ人兵士の捕虜を釈放した。
上部マケドニアの王や豪族を民衆から切り離して首都ペラに強制移住させた。これらの旧支配層はフィリップ2世に直接臣従するヘタイロイになった。その子弟たちは王の身辺に仕える近習になった。
BC358年 ラリサ僭主アレウアダイ、フェライ僭主ティシフォノスと同盟。
BC357年 アンフィポリス包囲戦。アテネのティモテオスがマケドニアから奪ったピュドナと、今回取りに行っているアンフィポリスを交換することをアテネと約した。しかし、アンフィポリス陥落後、BC356年、ピュドナを獲得。
BC357年 オリュントスとイリュリア王グラボスが同盟。
BC356年 トラキア攻略し、クレニデスを植民市フィリッポイに改編した。ポテイダイアを獲得。重臣パルメニオンがイリュリアを撃ち破った。
BC357~355年 ギリシア同盟市戦争
BC356年 エンバダ海戦
マケドニア王フィリップ2世 勝ち
vs アテネ将軍イフィクラテス 敗戦後、解任された
アテネと第二次アテネ海上同盟加盟国が争い、アテネが敗北した。
BC356~346年 第3次神聖戦争
テーベ・テッサリア vs フォキス・アテネ・スパルタ
テーベが疲弊し、スパルタが相対的に勢力を増した。
BC354年 マケドニア王フィリップ2世がフォキスのオノマルコスに、投射兵器によって惨敗。
フィリップ2世は、マケドニア王としてはじめてスタテル金貨(フィリッペイオイ)を発行した。金貨をアッティカ通貨基準、銀貨をトラキア・マケドニア通貨基準に統一するという複本位制を導入した。のちアレクサンドロス大王はすべてアッティカ通貨基準に統一した。首都ペラ、アンフィポリス、アイガイで鋳造した。
BC354年 メトネ陥落で、エーゲ海北岸をすべて制圧した。
BC353年 クロッカス平原の会戦
マケドニア軍 勝ち
vs フォキス・フェライ連合軍 負け オノマルコスが戦死。
名馬の産地だったテッサリアを制圧した。
BC348年 オリュントス包囲戦。オリュントスを徹底的に破壊し、住民を奴隷として売却した。
BC346年 フィロクラテスの講和 マケドニアとアテネが講和した。
アテネ弁論家 デモステネス 反マケドニア
アテネ弁論家 アイスキネス 親マケドニア
BC343年 フィリップ2世が、アリストテレスをアレクサンドロス3世の家庭教師として招いた。
BC340~339年 ペリントス・ビザンティオン包囲戦
BC338年 カイロネイアの戦い
マケドニアのフィリップ2世が、アテネ・テーベ同盟軍に勝ち、スパルタを除くギリシア統一を果たす。
BC337年、フィリップ2世がスパルタ・クレタ島を除くギリシア諸都市の代表を招集して、コリントス同盟(ヘラス同盟)を締結。
アレクサンドロス3世(大王:BC336~323)が、ダリウス3世を破りアケメネス朝ペルシアを征服。すぐ病死してしまい、ディアドコイ戦争。
BC333年、イッソスの戦い
マケドニア軍アレクサンドロス大王 勝ち vs ペルシア軍ダレイオス3世 負け
BC331年、アギス戦争でスパルタがマケドニアに屈服。
BC331年、メガロポリスの戦い
マケドニア・アンティパトロス(大王から留守を委任) 勝ち
vs スパルタ・アギス3世 負け
スパルタはコリントス同盟に強制加盟。
アレクサンドロス大王遠征留守中、アテネは「マケドニアの平和」のもと、急速に経済的繁栄を迎えた。
BC331年、ガウガメラの戦い
マケドニア軍アレクサンドロス大王 勝ち vs ペルシア軍・ダレイオス3世 負け
BC331年、バビロン、スサに侵攻し、無血開城。莫大な金銀財宝をゲット。
BC330年、ペルシス門の戦い。ペルセポリスに侵攻したが、ペルシア州サトラップ(知事)のアリオバルザネスに敗北。1か月かけて勝利し、ペルセポリス入城し、放火・破壊。
バクトリア州サトラップ(知事)の側近ベッソスがダレイオス3世を暗殺。
BC323~322年、アレクサンドロス大王死去の報に沸いて起こったラミア戦争でアテネがマケドニアに屈服。アテネ・反マケドニア派のデモステネスが自殺。
マケドニア・アンティパトロス 勝ち
vs アテネ・アイトリア連合軍 負け
BC312年、ガザの戦い
エジプト・プトレマイオス1世(BC305~282)+シリア・セレウコス1世(BC305~281) 勝ち
vs マケドニア・デメトリオス1世(BC294~288) 負け
BC311~309年、バビロニア戦争
シリア・セレウコス1世(BC305~281) 勝ち
vs マケドニア・アンティゴノス1世(BC306~301)+デメトリオス1世(BC294~288) 負け
BC304年、プトレマイオス1世はプトレマイオス朝エジプト(BC304~BC31)を建国。アレクサンドリアを首都として、ムセイオン(王立研究所)、ビブリオテケ(大図書館)を建設。ファロス島に巨大な灯台を築いた。BC285年、プトレマイオス2世と共同統治、BC282年に死去。
BC302年、グルジア人パルナヴァズ1世(BC302~234)がイベリア王国を建国。
BC307年 エペイロス王国ピュロス(BC307~302/297~272)即位。
BC303年、セレウコスがマウリア王国チャンドラグプタと終戦条約。セレウコスがガンダーラを割譲する代わりに、宗主権を握り、戦象500頭を受け取った。
BC301年、イプソスの戦い
マケドニア・アンティゴノス/デメトリオス親子 負け
vs シリア・セレウコス1世&トラキア・リュシマコス 勝ち
アンティゴノス1世敗死によってアレクサンドロス帝国再統一が不可能になった。
BC288年 エペイロス王ピュロスとトラキア王リュシマコスがデメトリオス1世(BC294~288)を破り、デメトリオスはセレウコス朝シリアに亡命。ピュロスを欺いたリュシマコスがマケドニア王を兼任。
BC281年、コルペディオンの戦い
トラキア王/マケドニア王リュシマコス(BC306~281/BC288~281) 敗死
vs シリア・セレウコス 勝ち
BC281年、トラキア都リュシマケイアにて、プトレマイオス・ケラウノスがセレウコスを殺害。
リュシマコスは自分の財宝をペルガモンに移して管理を委託していた、麾下のマケドニア人将軍フィレタイロスがセレウコス側に寝返り、リュシマコス敗死後に、(アッタロス朝)ペルガモン王国を建国。
BC281年、イラン人首長ミトリダテス1世が、ポントス王国を建国。
西に異民族のパフラゴニア、さらにトラキア人のビテュニアと境界を接した。
BC280~275年、ピュロス戦争
エペイロス王ピュロスが、南イタリアとシチリア島遠征。
BC280年 ヘラクレアの戦い
エペイロス王ピュロス 勝ち vs ローマ 負け
BC279年 アスクルムの戦い
エペイロス王ピュロス 勝ち vs ローマ 負け
BC275年 ベネウェントゥムの戦い
エペイロス王ピュロス 負け vs ローマ 勝ち
アレクサンドロス大王直伝の重装歩兵ファランクスと戦象が、ローマ軍に敗れ、ローマの名声が上がった。
BC274年 エペイロス王ピュロスが、マケドニア王アンティゴノス2世を破り、マケドニア王に即位した。
BC272年、ピュロスは、スパルタ王クレオニュモスの要請で援軍を差し向けた際、アルゴスの戦いで、スパルタ王アレウス1世とマケドニア前王アンティゴノス2世に敗死。アンティゴノス2世がマケドニア王に復位。
BC267~261年 クレモニデス戦争
アンティゴノス朝マケドニア 勝ち
vs マケドニア支配を嫌いプトレマイオス朝エジプトの支援を受けた中央ギリシア、とくにアテネ・スパルタ連合軍 負け
小アジア沿岸を治めていたプトレマイオス朝がエーゲ海沿岸への影響力を失った。アンティゴノス朝が勢力基盤を固めた。
BC264~241年 第一次ポエニ戦争
ことのおこりは、シラクサ王アガトクレスの傭兵となったカンパニア出身のマメルティニ(軍神
マルスの兵隊の意)が、王の死後、ギリシア植民市メッシナを占領した。彼らは暴虐な傭兵隊で、
メッシナで市民を殺したり、婦女子を分配したりした。シラクサのヒエロン2世はマメルティニ
の討伐を開始し、マメルティニは敗北し、追い詰められたので、カルタゴかローマのいずれかに
救援を求めるほかはなくなっていた。ローマの元老院は、この救援に応えることが、カルタゴとの
大戦争を引き起こすことを見とおして、大いにためらったが、民会はついに援軍派遣を決議し、
戦端が開かれた。前264年のことである。
BC255年 チュニスの戦い ローマ✕ vs カルタゴ〇
BC241年 アエガテス諸島沖の海戦 ローマ〇 vs カルタゴ✕
BC279年 アイトリア同盟が、ガリア人をマケドニアから駆逐。
BC277年 マケドニア王アンティゴノス2世(BC277~239)がアンティゴノス朝マケドニアを建国。ストア哲学者ゼノンに師事。アエトリア同盟と衝突を避け親交。
BC263年 ペルガモン王フィレタイロスは去勢されていたため、甥で養子のエウメネス1世(BC263~241)がペルガモン王即位。セレウコス朝アンティオコス1世の肖像から自分の肖像に変えてコインを鋳造し、セレウコス朝からの独立を宣言した。
プトレマイオス朝は、キプロス島、コイレ・シリア(建築用材木の産地)、キュレナイカを外界の必須の土地としながらも、内界のエジプト死守に専念した。
BC274年 セレウコス朝アンティオコス1世が、娘アパメー2世をキュレネのマガス王に嫁がせ、エジプトを挟撃しようとした。キュレネがベルベル人に侵略されて頓挫。プトレマイオス朝プトレマイオス2世(BC285~246)はセレウコス朝に反撃。ヌビア王国を征討。
BC274~271年 第一次シリア戦争
エジプト・プトレマイオス2世(BC285~246) 勝ち カリアとコイレ・シリアを獲得
vs シリア・アンティオコス1世(BC281~261) 負け
BC266~261年 サルディスの戦い
ペルガモン・エウメネス1世(BC263~241)&エジプト・プトレマイオス2世 勝ち
vs シリア・アンティオコス1世 負け
BC260~253年 第二次シリア戦争
エジプト・プトレマイオス2世 負け エーゲ海制海権を失った
vs シリア・アンティオコス2世(BC261~246)&マケドニア・アンティゴノス2世(BC277~239) 勝ち
プトレマイオス2世は娘ベレニケをアンティオコス2世に嫁がせた。前妻ラオディケと離婚し、実姉アルシノエ2世と結婚。首都アレクサンドリアが大いに繁栄した。
BC251年 シキュオン出身の将軍アラトスがアカイア同盟を統率。
アエトリア同盟 vs アカイア同盟
さらにアエトリア同盟は、マケドニア王アンティゴノス2世と同盟。
*ポントス王国
ミトリダテス1世 BC281~266
アリオバルザネス BC266~256
ミトリダテス2世 BC256~220
ミトリダテス3世 BC220~185
ファルナケス1世 BC185~159
ミトリダテス4世 BC159~150
ミトリダテス5世 BC150~120
ミトリダテス6世 BC120~63
ファルナケス2世 BC63~47 ポンペイウスに服従、ポンペイウスの内紛混迷で一時期復活したが、ゼラの戦いでカエサルに敗北。
AD64年 ネロ帝がポントス王国を滅ぼし属州とした。
BC256年 ポントス王国ミトリダテス2世(BC256~220)が即位。シリア王国セレウコス2世の娘ラオディケと結婚。小アジアは、セレウコス2世の弟アンティオコス・ヒエラクスが治めており、独立反乱を起こすと、ミトリダテス2世がアンティオコス・ヒエラクスを援軍、独立に成功。
BC256年 ディオドトス1世(BC256~234)がグレコ・バクトリア王国を建国。
BC247年 アンドラゴラス(BC247~238)がパルティアを建国。ディオドトス1世と同盟。
BC246年 プトレマイオス3世が即位、キュレネ王マガスの娘と結婚、キュレナイカを支配下に置いた。
BC246年 セレウコス朝アンティオコス2世が死去、後妻ベレニケが暗殺され、前妻ラオディケの子・セレウコス2世が即位。姉ベレニケ暗殺に怒ったプトレマイオス3世がセレウコス2世に侵攻。
BC246~241年 第三次シリア戦争
エジプト・プトレマイオス3世(BC246~222) 勝ち アンティオキアやバビロンなどシリア北岸を獲得
vs シリア・セレウコス2世(BC246~225) 負け
プトレマイオス朝はプトレマイオス3世で全盛期を迎え、ギリシア世界に経済的影響を常に及ぼし続けた。
BC241年 セレウコス王セレウコス2世の弟アンティオコス・ヒエラクスがポントス王国と同盟して独立。ペルガモン王国アッタロス1世(BC241~197)を攻撃したが3度敗北。アッタロス1世のとき、親ローマの方針を貫き、ペルガモン王国は領土拡大し、全盛期を迎えた。
BC239年 マケドニア王アンティゴノス2世死去。デメトリオス2世(BC239~229)即位。エペイロス王国にまで及んだアエトリア人の海賊行為に忙殺された。アエトリア同盟との同盟を破棄。アエトリア同盟とアカイア同盟が和解。両者はマケドニアと戦闘状態に陥った。
BC229年 デメトリオス2世が北方の蛮族ダルダノス人と防戦中に戦死。アンティゴノス3世(BC227~221)即位。ダルダノス人を傭兵とした。
ローマがアドリア海賊に業を煮やしてイリュリア征討。ローマがアエトリア同盟とアカイア同盟に使節派遣。
プトレマイオス3世は、経済的援助をアカイア同盟からスパルタ王クレオメネスに鞍替えした。
スパルタ王クレオメネスがアカイア同盟を攻撃。アカイア同盟アラトスがアンティゴノス3世に援軍要請。アンティゴノス3世はクレオメネスをスパルタから駆逐。
BC222年 プトレマイオス4世(BC222~205)は放蕩息子で大臣ソシオビスに政治丸投げ、スパルタ王クレオメネスへの経済的援助を停止。亡命してきたクレオメネスを暗殺した。弟・母が殺害されるという内紛で、セレウコス朝アンティオコス3世(大王)がコイレ・シリアを奪取。
BC221年 アンティゴノス3世が病死。ピリッポス5世(BC221~179)マケドニア王に即位。
BC221~220年 同盟市戦争
アエトリア同盟は、スパルタを破ったアカイア同盟に恐怖を抱いた。アカイア同盟アラトスはアエトリア同盟に敗北し、またもやマケドニア王ピリッポス5世に支援要請。
ファロスのデメトリオスがイリュリアで海賊行為。怒ったローマがイリュリア征討。デメトリオスが負け、マケドニアに亡命。
BC238年 イラン系パルニ族のアルサケスとティリダテスがアンドラゴラスを倒してパルティアを征服、アルサケス1世(BC247~238)、ティリダテス1世(BC238~211)として即位。
BC234~189年 パルティア王ティリダテス1世とグレコ・バクトリア王ディオドトス2世(BC234~223)と講和・同盟。
*ディオドトス1世 親セレウコス朝シリア・反パルティア
*ディオドトス2世 反セレウコス朝シリア・親パルティア
BC227年 パルティア王ティリダテス1世が、シリア王セレウコス2世を撃退。
BC223年 グレコ・バクトリア王エウティデモス1世(BC223~200)がディオドトス2世から王位簒奪。
BC219~217年 第四次シリア戦争
BC217年 ラフィアの戦い
エジプト・プトレマイオス4世(BC222~204) 勝ち コイレ・シリアを奪還
vs シリア・アンティオコス3世(BC223~187) 負け
エジプト人兵士がマケドニア人・ギリシャ人兵士と同等の戦功があり、軍事植民者(クレルコイ)になる道が開かれた。
BC219~201年 第二次ポエニ戦争
カルタゴ・ハンニバルとマケドニア王ピリッポス5世が同盟。ギリシア諸都市をファロスのデメトリオスに進呈する交換条件で、ローマと共闘するよう画策。ファロスのデメトリオスをローマ挟撃の目的でイリュリアに派遣したが敗死。
BC218年 トレビア川の戦い ローマ✕ vs カルタゴ〇
BC217年 トラシメネ湖の戦い ローマ✕ vs カルタゴ〇
BC216年 カンナエの戦い ローマ✕ vs カルタゴ〇
BC202年 ザマの戦い
ローマ軍スキピオ・アフリカヌス 勝ち
vs カルタゴ軍ハンニバル 負け
BC209年 シリア・アンティオコス3世(BC223~187)がティリダテス1世死去を契機にパルティア遠征。パルティア王アルサケス2世(BC211~191)を破り、属国とした。
BC208年 シリア・アンティオコス3世がグレコ・バクトリア王エウティデモス1世と一進一退の遠征となり、講和・同盟。グレコ・バクトリア王国は戦象と兵糧を贈ることで独立を保った。
セレウコス朝はアンティオコス3世(大王)のとき全盛期を迎え、ローマと真っ向から対立した。
BC207年 ヌビア王国がプトレマイオス朝プトレマイオス4世から独立。
BC214~205年 第一次マケドニア戦争
カルタゴ・ハンニバルとの同盟・共闘で、マケドニア王ピリッポス5世がアエトリア同盟を破り、ビテュニア王にペルガモン王国を攻めさせた。アエトリア同盟は寝返ってマケドニアにつく。アカイア同盟アラトスは戦死。ローマはカルタゴとのポエニ戦争が終わっておらず、イリュリア分割を以て、マケドニアと和平。
マケドニア・ピリッポス5世&アカイア同盟&カルタゴ艦隊
vs 共和政ローマ&アエトリア同盟
BC203年 マケドニア王ピリッポス5世とセレウコス朝アンティオコス3世(大王)が同盟。弱体化したプトレマイオス朝を倒すことを誓い合った。マケドニアが、ロードス島、ビザンティオン、ペルガモン王国を荒らしまわった。
BC202~193年 第五次シリア戦争
エジプト・プトレマイオス5世(BC204~181) 負け 小アジア全領土、コイレ・シリアを失い、キプロス島だけが残った。
vs シリア・アンティオコス3世(BC223~187) 勝ち 小アジア全領土、コイレ・シリアを獲得
プトレマイオス5世は、ヌビア王国を奪還。「ロゼッタ・ストーン」を建てた。
BC200~197年 第二次マケドニア戦争
ピリッポス5世の海賊行為に対し、ロードス島、ビザンティオン、ペルガモン王国がローマに援軍要請。ローマ軍フラミニヌスの猛攻撃で、アカイア同盟崩壊。ロードス人がカリアを占拠、アカイア人がコリントスを占拠。
マケドニア・ピリッポス5世&アカイア同盟 負け ギリシャ全土から撤退
vs 共和政ローマ&アエトリア同盟&ロードス&アテネ&ペルガモン 勝ち
BC197年 キュノスケファライの戦い
マケドニア・ピリッポス5世 負け
vs ローマ・フラミニヌス 勝ち
マケドニア王ピリッポス5世は、このあと親ローマに政策転換。ローマはセレウコス朝アンティオコス3世(大王)との戦闘に専念できるようになった。
BC197年 ペルガモン王国アッタロス1世死去、エウメネス2世(BC197~159)即位。ペルガモン大図書館を拡張し、アレクサンドリア図書館を蔵書で凌いだため、パピルス輸入を停められた。羊皮紙を発明。
BC195~192年 ナビス戦争
スパルタ・ナビス王 負け スパルタ滅亡
vs 共和政ローマ&アカイア同盟 勝ち
BC192~188年 ローマ・シリア戦争
BC191年 テルモピュライの戦い
ローマ軍グラブリオ&アカイア同盟&マケドニア王ピリッポス5世 勝ち
vs セレウコス朝アンティオコス3世&アエトリア同盟 負け
アエトリア同盟の領土がペルガモン王エウメネス2世に渡され、ペルガモン王国が大国化していった。
BC190年 マグネシアの戦い
ローマ軍スキピオ&ペルガモン王国エウメネス2世 勝ち
vs セレウコス朝シリアのアンティオコス3世(BC223~187) 負け カルタゴ・ハンニバルの援軍を得られず。
BC188年 アパメイアの和約。
エウメネス2世は霧の中、軽装歩兵でローマ軍の戦車を不意撃ちした。負けたセレウコス朝は小アジア全土を失い、衰退に向かう。ローマは、旧セレウコス領をペルガモン王国エウメネス2世に委任した。ローマはペルガモン王国にビテュニア・フリュギアを与え、セレウコス朝アンティオコス3世のもとに亡命したハンニバルを匿っていたビテュニアに対し、ハンニバルの身柄引き渡しを要求。ハンニバル自害。
BC189年 アルタクシアス1世(BC189~159)がアルメニア王国を建国。これが史上初のアルメニア人国家である。
シリア王セレウコス4世(BC187~175)が賠償金の工面に苦労し、エルサレム神殿の財宝掠奪に財務長官へリオドロスを派遣するも、セレウコス4世がへリオドロスによって殺害。
BC182年 ポントス王国ファルナケス1世(BC185~159)がギリシア人都市となっていたパフラゴニアのシノペを攻略。シノペをポントス王国の首都とした。さらにボスポロス王国のケルソネソス、ギリシャ人都市メセンブリアを制圧。黒海交易で栄えた。
BC175年 パルティア王ミトラダテス1世(BC175~138)即位。バクトリアを奪い、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世(BC175~163)とデメトリウス2世(BC145~138/129~126)からメディアを奪い、領土が一気に拡大。
BC172年 ペルガモン王国エウメネス2世がローマ訪問し、アンティゴノス朝マケドニア王ペルセウスのことを讒言。ペルセウス暗殺未遂事件の犯人がペルセウスだとローマが断定したため、第三次マケドニア戦争が勃発した。
BC171~168年 第三次マケドニア戦争
BC168年 ピュドナの戦い
マケドニア・ペルセウス 負け マケドニア王国滅亡、自治領化
vs ローマ軍アエミリウス・パウルス 勝ち
この後、ペルガモン王エウメネス2世が、親ローマから反ローマに方針転換。
BC170~168年 第六次シリア戦争
シリア王アンティオコス4世(BC175~163)がキプロスを占拠しエジプト遠征を目論んだ。エジプトはローマに援軍要請。
エジプト・プトレマイオス6世(BC180~145)+プトレマイオス8世(BC171~163)
vs シリア・アンティオコス4世
共和政ローマ執政官ポピリウスの強い介入で引き分け、アンティオコス4世は腹いせにユダヤ神殿を略奪、アルメニア遠征中に死去。アンティオコス5世(BC164~161)が即位、幼かったため大臣リュシアスが摂政。
プトレマイオス朝はローマの属国となった。
BC167~160年 マカバイ戦争
ユダヤ・マカバイ 負け vs セレウコス朝シリア 勝ち
シリア王デメトリオス1世(BC162~150)がアンティオコス5世と摂政リュシアスを殺害し即位。ペルガモン王アッタロス2世(BC159~138)が、アンティオコス4世の子アレクサンドロス・バラスを擁立して、デメトリオス1世を敗死させ、シリア王アレクサンドロス1世(BC150~145)即位。ペルガモン王アッタロス2世は「ローマの番犬」と呼ばれた。
BC168年 ナバテア人がナバテア王国建国。アレタス1世(BC168~144)即位。都ペトラ
乳香・没薬の交易で大いに繁栄した。
BC149~146年 第三次ポエニ戦争
ローマ軍スキピオ・アエミリアヌス 勝ち
vs カルタゴ軍ハスドゥルバル 負けてカルタゴ滅亡
BC148年 第四次マケドニア戦争
マケドニア・アンドリスコス 大敗 マケドニア全土が属州になった。
vs 共和政ローマ 大勝
BC146年 コリントスの戦い
アカイア同盟 負け
vs 共和政ローマ+ペルガモン王国 勝ち
マケドニア属州とアフリカ属州が設置された。
BC142年 シモン(BC142~135)が建国したユダヤ・ハスモン朝(BC142~37)が独立。
ヨハネ・ヒルカノス1世(BC135~104)がパリサイ派を遠ざけ、サドカイ派に接近した。
ユダヤ王アリストブロス1世(BC104~103)が病死、妻サロメがアレクサンドロス1世(BC103~76)と再婚。
BC138年 ペルガモン王アッタロス2世死去、アッタロス3世(BC138~133)即位。「ペルガモンの領土をローマに譲る。」と遺言を残した。
BC133年 ペルガモン王国滅亡。旧ペルガモン王国のアリストニコスが反乱。BC129年にローマ軍によって鎮圧された。
BC133年 護民官ティベリウス・グラックスが農地法(センプロニウス法)制定。公有地再分配。
BC123年 護民官ガイウス・グラックスが公有地再分配。カルタゴ再建にも乗り出した。
BC113~101年 キンブリ・テウトニ戦争
キンブリ族やテウトネス族(チュートン族)がローマ侵入。
BC112年 ノイレアの戦い
キンブリ族ボイドリクス王&テウトネス族テウトボド王 勝ち vs ローマ 負け
BC105年 アラウシオの戦い
キンブリ族ボイドリクス王&テウトネス族テウトボド王 勝ち vs ローマ執政官・大カエピオ&マクシムス 負け
BC102年 アクアエ・セクスティアエの戦い
テウトネス族テウトボド王 負けて処刑 vs ローマ執政官マリウス 勝ち
BC101年 ウェルケラエの戦い
キンブリ族ボイドリクス王 敗死 vs ローマ執政官マリウス 勝ち
BC111~105年 ユグルタ戦争
ヌミディア王ユグルタ 負け vs ローマ軍マリウス 勝ち
マリウスの軍制改革。貧しい市民たちに軍役を認めた。
ローマの軍隊は、ローマ有産市民によって形成される正規軍団(legiones)と、イタリアの同盟諸市から出される補助軍団(alae)とから成っていたが、イタリア農民層の没落、人口の減少によって兵員が不足してくると兵役に要求される財産資格が次第に引き下げられ、マリウスのとき、ついにプロレタリイ(ローマ市民のうち、ある額に達する財産を持たない貧民)が軍団兵として使われるにいたる。プロレタリイは、退役後の生活の安定のため、土地などを得ようとして将軍をパトロンとして仰ぐようになり、軍事的クリエンテーラ(保護関係)が生まれた。兵員の不足はまた、属州および国外の住民が提供する補助軍によっても補われるようになった。
マウレタニア王ボックスがユグルタを裏切り、ローマ軍スラに身柄を引き渡した。
BC95年 アルサケス朝パルティアの後ろ盾で、アルメニア王国ティグラネス2世(大王:BC95~BC55)が即位。
ポントス王国ミトリダテス6世(BC120~63)が、コルキス王国を征服。スキタイ、サルマタイの侵略に困っていたボスポラス王国を保護下におき、ローマ傀儡のニコメデス4世支配のビテュニアを征服。アルメニア王国ティグラネス2世と同盟し、カッパドキアを征服。カッパドキア王国アリオバルザネス廃位。ローマ共和国と利権が対立し、ミトリダテス戦争になった。ローマ軍を破り全軍処刑、その富を小アジアに分配、5年間免税、「解放者」と讃美された。BC88年、ミトリダテス6世が、トラキア、マケドニア占領。アテネ、スパルタ、アカイア同盟とも同盟締結した。
BC95年 リキニウス・ムキウス法。ローマ市民権を持たないものをローマから追放。
護民官ドルススは、同盟市にローマ市民権を与えようとして失敗。ついに戦火があがった。
BC91~88年 同盟市戦争
イタリア南部の都市国家がローマ市民権を要求した。
BC90年 ユリウス法
BC89年 護民官2人によるプラウティウス・パピリウス法
BC89年 執政官によるポンペイウス法
ローマ軍マリウス&スッラ 勝ち vs マルシ人・サムニウム人 負け
BC88年 スッラがローマ進軍。マリウス・キンナ派をローマから追放した。カルタゴに亡命。
BC88~86年、第一次ミトリダテス戦争
ポントス王国ミトリダテス6世の将軍アルケラオス 負け vs ローマ軍スッラ 勝ち
BC86年 カイロネイアの戦い
ポントス軍アルケラオス 負け
vs ローマ軍スッラ&ルクルス&ムレナ 勝ち
BC86年 ダルダノスの和約
ポントス征服地域すべて返還、軍艦70隻放棄、賠償金。
ビティニア王国ニコメデス4世の王位復帰。カッパドキア王国アリオバルザネスの王位復帰。
BC86年 マリウス死去。キンナがローマ奪回。スッラ派を粛清。
BC84年 キンナ死去。
BC83~82年 スッラがローマ奪回。マリウス・キンナ派を粛清。
BC82年 コッリーナ門の戦い
スッラ&クラッスス&ポンペイウス 勝ち vs マリウス・キンナ派 負け
「プロスクリプティオ(国家の敵リスト)」を公布して、クラッススが政敵の財産を没収した。
BC83~82年、第二次ミトリダテス戦争
ポントス王国ミトリダテス6世 勝ち
vs ローマ軍ムレナ 負け
ポントス王国ミトリダテス6世がカッパドキア王国を併合。
ミトリダテス6世は、ビテュニア・カッパドキア譲渡を条件にヒスパニア総督セルトリウスと同盟。
BC79年 スッラ、独裁官を辞任し、翌年死去。
BC74年、ビティニア王国ニコメデス4世の遺言でローマに併合。ミトリダテス6世がこれに抗議。
BC76年、ユダヤ女王サロメ(BC76~67)が即位。パリサイ派と和解するも、パリサイ派の専横が強大になった。
BC75~63年、第三次ミトリダテス戦争
ポンペイウスはヒスパニア総督セルトリウスを撃破。
ポントス王国ミトリダテス6世 負け vs ローマ軍ルクルス 勝ち
ミトリダテス6世は、アルメニア王ティグラネスに亡命。ルクルスはパフラゴニアのシノペ、ポントスのアマセイアを征服、ポントスを属州とした。
ルクルス失脚を受けて、ミトリダテス6世は、ポントス王国を復興。
BC66年 ルクルス後任のポンペイウスがキリキア上陸、カッパドキア征服、ポントス征服。
ポントス王国ミトリダテス6世 負け vs ローマ軍ポンペイウス 勝ち
ミトリダテス6世はボスポラス王国に亡命。ドナウ川を遡上してパンノニアからローマを攻撃しようとしたが、BC63年、息子のファルナケス2世によって暗殺。ファルナケス2世は。ポンペイウスによって、ボスポラス王国だけ領有を承認された。
*ミトリダテス6世と、プトレマイオス朝クレオパトラは毒物と解毒剤の研究で著名。
BC53年 カルラエの戦い
アルメニア王国アルタヴァスデス2世がローマ支持。
パルティア軍スレナス 大勝 vs ローマ軍クラッスス 刑死
BC51年 アンティオキア近郊の戦い
パルティア軍オロデス2世 負け vs ローマ軍カッシウス 勝ち
BC49~45年 ローマ内戦
カエサル「賽は投げられた。」
BC49年 ウティカの戦い
カエサル 負け vs ヌミディア王ユバ 勝ち
BC48年 デュラッキウムの戦い
カエサル 負け vs 元老院派ポンペイウス 勝ち
BC48年 ファルサロスの戦い
カエサル 勝ち vs 元老院派ポンペイウス 敗戦後エジプト・プトレマイオス13世によって殺害
BC47年 ナイルの戦い プトレマイオス朝エジプトの内戦
カエサル&クレオパトラ7世 勝ち vs プトレマイオス13世 負け
BC47年、ゼラの戦い
ボスポラス王国ファルナケス2世がポントス王国失地回復を目指して侵攻。
ポントス王国ファルナケス2世 負け vs ローマ軍カエサル 勝ち
「来た、見た、勝った。」
カエサルは、ポントス王国、ボスポラス王国を保護国化。
BC46年 タプススの戦い
カエサル 勝ち vs 元老院派(スキピオ・小カトー)&ヌミディア王ユバ 負け
ヌミディア王ユバ自殺。ヌミディア王国を属州化した。
BC45年 ムンダの戦い
カエサル 勝ち vs 元老院派(ポンペイウスの息子たち) 負け
BC44年 カエサル、終身独裁官に就任。1か月半後に暗殺された。
BC39年 アトロパテネ王国侵攻を巡り、アントニウスがアルメニア王アルタヴァスデス2世の裏切りでパルティア王国フラーテス4世に敗北。フラーテス4世は、アルメニア傀儡王アルタクシアス2世を擁立。
BC37年 エドム人ヘロデ大王がユダヤ・ハスモン朝を滅ぼし、ヘロデ朝(BC37~AD93)を建国。ローマ元老院から「ユダヤの王」に任命された。
BC44~36年 シチリア内戦
BC36年 ナウロクス沖の海戦
オクタヴィアヌス帝&将軍アグリッパ 勝ち vs セクストゥス・ポンペイウス(息子) 敗死
BC31年、アクチウム海戦
プトレマイオス朝クレオパトラ・アントニウス 負け vs ローマ軍オクタヴィアヌス 勝ち
BC30年、クレオパトラ自殺、カエサリオン殺害でプトレマイオス朝滅亡。エジプトはアウグストゥス帝以下、ローマ皇帝の所有物になった。
BC31~26年 パルティア東西分裂
東部パルティア フラーテス4世 勝ち
西部パルティア ティリダテス2世 負け
BC20年、アウグストゥス帝、パルティアのフラーテス4世(BC40~BC2)と平和条約。アルメニアとパルミュラを緩衝地帯の半独立国として残した。パルティアとローマは、それぞれの国益に有利な候補者をアルメニアの王位に就かせるべく、あらゆる権謀術数の限りを尽くすことになった。
BC25年 マウレタニア王断絶のため、アウグストゥス帝は、ヌミディア王ユバの遺児をユバ2世としてマウレタニア王に即位させた。
BC25~24年 アウグストゥス帝がエジプト総督アエリウス・ガッルスを派遣して南アラビア遠征。協力を強いられたナバテア王国オボダス3世の行政長官シュライオスに騙されて失敗。
ナバテア銀貨を鋳造。AD1世紀に入ると陸路はベドウィンが襲撃したので、紅海の海路に香料の道が移り、経済不振に陥った。
BC2年 ローマ女奴隷ムサがパルティア王フラーテス4世を毒殺。息子フラーテス5世と結婚し、共同統治。
AD4年 フラーテス5世とムサが殺害された。
*ガリア総督
BC58年 カエサル
BC30年 アグリッパ
BC13年 ドルスス
*ライン諸軍団総司令官(ゲルマニア総司令官)
BC8年 ティベリウス
BC3年 ドミティウス
AD1年 ウィニキウス
AD4年 ティベリウス
AD6年 マルコマンニ族マロボドゥウスと和約
AD7年 ウァルス
AD9年 トイトブルク森の戦いで、ケルスキー族アルミニウスに大敗北
AD10年 ティベリウス ゲルマニクスを随伴
AD14年 上ライン軍ゲルマニクス、下ライン軍セウェルス
*ローマ帝国の教育システム
母語 ラテン語
文化言語 ギリシア語
富裕な上層市民の家庭では、乳母にギリシア人を雇うことで、子供をバイリンガルに養育した。ほとんどの都市に、読み書き・算術を教える初等教師がいたし、文法や詩を教授する中等教師も比較的大きな都市にいた。ここまでは女子も受けたが、このあとは男子だけが高等教育として弁論・修辞学を学んだ。皇帝の出現で、立身出世のための弁論術が軽んじられるようになった。しかし、富裕層のサロンでは朗読会が頻繁に開かれ、作品を披露する慣習が広まった。
9年、アウグストゥス帝(BC27~AD14)、トイトブルク森の戦いで、将軍ウァルスがゲルマン人アルミニウスに大敗。
14~16年 ティベリウス帝(14~37)、将軍ゲルマニクスをゲルマン遠征に派遣。
15年 ティベリウス帝、今後のゲルマニア遠征停止を命じた。
19年 ヘルマンドゥーレ族がマルコマンニ王国を滅ぼした。
マロボドゥウス 負け vs アルミニウス 勝ち
軍団(レギオ) ローマ市民権を持つ者のみ入隊可。基本的に志願兵から成り、市民権保持者にローマ法の庇護を与え、税制上も優遇した。
補助軍(アウクシリア) 同盟国や同盟部族からの援軍。属州の非ローマ市民から徴募された。クラウディウス帝以降、除隊後にローマ市民権が与えられた。
近衛軍(プラエトリアニ) イタリア半島に住むローマ市民から徴募された。給与が軍団兵の3倍で、勤務期間も16年と短く、退役後もさらなる出世コースが開かれていた。
兵士の平時任務は、堡塁・塹壕の建設、食糧・材木・薪の運搬、運河の開削、道路・橋の建設、鉱山労働。
*アンティオキア教会
AD34年 アンティオキア教会設立。初代司教ペテロ。
AD34年 パウロ改心。
AD35年 ステファノ殉教。
キプロス島出身のバルナバが、タルソスで悶々としていたパウロを受け入れ、ローマ布教活動に同行。のちパウロと意見を異にして離別。
ユダヤ人の律法を守らず、イエスの言葉だけに従ったギリシア人を、新たな国家反逆罪の要注意人物として、ローマ人が、「クリスティアノス(キリストに属する者)」と蔑称した。
AD61年 バルナバ死去。
AD64年 初代司教ペテロ殉教。
AD67年 パウロ殉教。
AD107年 第2代司教イグナティオス殉教。はじめて「クリスティアニスモス(キリスト教)」と呼称した。ユダヤ教から決別した。殉教死が直ちに、「神に到る道」であると考えた。司教(エピスコポス)は神の代わりに教会の主座を占めており、司教なしに何もするなと説いた。
ローマ帝国
カリグラ帝(37~41)
クラウディウス帝(41~54)
ネロ帝(54~68)
ウェスパシアヌス帝(69~79)
ティトゥス帝(79~81)
*79年にポンペイのベスビオス火山爆発
ドミティアヌス帝(81~96)
アルサケス朝パルティア帝国
フラーテス4世の死後、王位継承で内紛・分裂が続いた。
ヴォロガセス1世(51~78)
ヴォロガセス2世(78~80)
パコルス2世(78~105)
*東西分裂
東部パルティア
ヴォロガセス3世(105~147)
西部パルティア
オスロエス1世(109~129)
ミトラダテス4世(129~140)
*東西再統一
40年 カリグラ帝がマウレタニア王プトレマイオスを処刑。
42年 クラウディウス帝がマウレタニア王国を二分して属州化した。
40~44年 アエデモンとサバルスがマウレタニアで反乱。ガイウス・スエトニウス・パウリヌスとグナエウス・ホシディウス・ゲタにより鎮圧。
46年 トラキアの反乱。
46~48年 ヤコブとシモンの蜂起、ガリラヤの反乱。
60~61年 ブーディカの反乱 - ブリタニアでの反乱。ガイウス・スエトニウス・パウリヌスにより鎮圧
62年 ネロ帝(54~68)がコルキス王国とポントス王国をローマに併合した。
62年 ランデイアの戦い。ローマ軍とパルティア軍が衝突。
63年 ランデイア条約。ローマ軍コルブロとパルティアのティリダテスのあいだで締結。
「アルメニア王位はパルティアのアルサケス家が継承するが、アルメニアの領土そのものはローマの属州とする。」
66年 アルメニア王ティリダテスがローマ宗主権を認め、ローマに招待。
68年 ガイウス・ユリウス・ウィンデクスの反乱 - ガリア・ルグドゥネンシスでの反乱。ルキウス・ウェルギニウス・ルフスにより鎮圧。
69年 アニケトゥスの反乱 - ウィルディウス・ゲミヌスにより鎮圧。
69年-70年: バタウィ族の反乱 - ガリアのバタウィ族、トレウェリ族、リンゴネス族の反乱。
ガンダーラ仏教のクシャーナ朝がアラル海まで領土拡大している!!!目と鼻の先にローマがみえる!!
66~73年 第一次ユダヤ戦争。ウェスパシアヌス帝、ティトゥス帝が、ユダヤ人反乱者ギオラを制圧。
73~74年 ウェスパシアヌス帝が元老院改革。帝国西部に出身者を元老院に入れ、幾人かをパトリキに列した。ネロ帝の黄金宮殿の人工池を埋め立てて、巨大な円形闘技場(コロッセオ)を建設した。ティトゥス帝の時、コロッセオが完成した。
79年 ティトゥス帝のとき、ヴェスビオ火山爆発。
79~80年 テレンティウス・マクシムスの陰謀 - 偽ネロの一人、アシアで帝位簒奪を計画、パルティアへ亡命。同地で処刑され失敗。
*ケンソル:元老院議員の選定や、風紀監察を行う職
ドミティアヌス帝(第二のネロ帝)は、終身ケンソルに就いて、属州出身の新しい元老院議員を選定し、風紀を乱した祭女を残虐に刑死。
85~89年 ダキア戦争。トラキア系ダキア王国がローマ属州モエシアに侵入。総督が敗北。86年、ドミティアヌス帝が親征して、コルネリウス・フスクス率いる近衛隊とともにダキア人を撃破。87年、フスクスにダキア首都サルミゼゲトゥサを攻撃させたが、タパエの戦いでデケバルス王に大敗。ダキア人の大刀「ファルクス」が勝因。
89年 アントニウス・サトゥルニヌス(ゲルマニア・スペリオル2個軍団)の反乱。ドミティアヌス帝は、不敬罪や反逆罪を適用して、元老院議員たちを迫害し始めた。パトリキを属州総督や軍団司令官から罷免した。
ネルウァ帝(96~98)
ネロ帝にかわいがられ、陰謀事件発覚で多くの元老院議員処罰のために貢献した。皇帝とのつながりを常に失わずに中央政界の荒波を乗り越えて地位を維持してきた貴族だった。ルフス(97死)とともに、自ら執政官に就任した。反ドミティアヌス派の元老院委員の支持を受け、ドミティアヌス帝に追放された人物を帰還させ、「元老院議員を殺さぬ誓い」をたてた。老いた元老院議員を登用することで、ドミティアヌス帝の行った斬新な人材登用を否定することで、反ドミティアヌス派議員をなだめようとした。ドミティアヌス派の近衛隊長官カスペリウスに脅迫され、暗殺者を処刑。
反ドミティアヌス派 上部ゲルマニア総督トラヤヌス 勝って、ネルウァ帝の養子になった
ドミティアヌス派 シリア総督ニグリヌス 負け
アリメンタ制を創設。皇帝が土地所有者に資金を貸し付けて、その利息を貧しい子女の養育に役立てる福祉制度だった。
トラヤヌス帝(98~117)
ネルウァ帝がはじめたアリメンタ制を推進した。
執政官に2人を任命。小アジア出身のソシウス・セネキオと、イタリア出身のコルネリウス・パルマ。
101~102年 第一次ダキア戦争。トラヤヌス帝(98~117)がダキア王国デケバルス王を服属。
102年 タパエの戦い
105~106年 第二次ダキア戦争。トラヤヌス帝がデケバルス王を敗死させた。
106年 ナバテア王国ラベル2世(70~106)を滅ぼした。ラベル2世はペトラからボスラに遷都していた。
112年 「トラヤヌスの広場(フォルム)」建設
113年 「トラヤヌス帝記念柱」設立
114~117年 パルティア遠征。トラヤヌス帝が西部パルティア王オスロエス1世(109~129)を征討。イベリア王国と同盟。114年にアルメニア併合、116年にクテシフォン陥落。
115年-117年 キトス戦争 - アエギュプトゥス、キュレナイカ、キュプルスでの反乱。
116年 エデッサのオスロエネ王国アブガル2世を廃位して、属国化。
117年 マウレタニアの反乱 - マルキウス・トゥルボにより鎮圧。
ハドリアヌス帝(117~138)
シリア総督ハドリアヌスがパルティア遠征帰国中のトラヤヌスの死の床で、皇后プロティナのとりなしで養子として即位。ギリシアの文学・哲学・芸術に親しみ、特にアテネを愛した。ローマ皇帝として初めて髭をたくわえた人物だった。四元老院議員処刑事件に関与したため、「暴君」と呼ばれた。アウィディウス・ニグリヌス、ルシウス・クィエトゥス、コルネリウス・パルマ、ケルススの4人の執政官経験者たち。「元老院議員を殺さぬ誓い」を何度も立てた。自ら執政官に就任した。スペイン系勢力が台頭し、トラヤヌス帝の人事を一掃し、身内で属州総督を固めた。帝国じゅうを旅し、フルメンタリイ(軍隊用の食糧を管轄し皇帝の伝令を務める職)をさらに秘密警察の任に当たらせた。のちスペイン系勢力を排斥し、イタリア勢力を復帰させた。
クシャナ朝カニシカ王(128~155)が使節を派遣。
イベリア王国ファラスマネスは反ローマの姿勢を取り、黒海コーカサスのアラニ人と同盟。ハドリアヌス帝以降、ローマの支配が東方諸国へ広く及び、アルメニアがローマに強く従属した。イベリアはアルメニアへの領土的野心を阻まれてしまった。ローマの支配がコーカサス地方にまで及び、さらにイベリアは勢力拡大を阻まれた。
131~135年 第二次ユダヤ戦争。ハドリアヌス帝(117~138)がヤハウェ神殿を破壊してユピテル神殿を建設。反乱鎮圧に苦戦したが、ブリテン島からセウェルスを呼び、ようやく鎮圧できた。
135年 アラニ人がイベリア国王の手引きでコーカサス地方を越えて南下、アルバニア、メディア、アルメニア、カッパドキアを来襲。
*イベリアはコーカサス山脈の峠をおさえており、その協力なくしてアラニ人の南下は不可能であった。
アントニヌス・ピウス帝(138~161)
ローマ郊外ロリウムでの田園生活を好んだ。真の「パックス・ロマーナ」だった。ピウス帝は、戦争を準備して威嚇することで、パルティアのアルメニア攻撃を阻止した。
140年 西部パルティア王ミトリダテス4世を敗死させた。ローマはパルティアを属国視していた。
141年 イベリア王国ファラスマネスをローマに招待。
*ローマ帝国・イベリア王国関係
イベリア王国にはアルメニアへの領土的野心が常にあり、1世紀の間はパルティアがアルメニアに対して最も影響力を持っていた。だから1世紀のイベリアがローマと同盟を組むことが多かったのは、反パルティアの立場からに過ぎない。1世紀のアルメニア問題は、ローマとパルティアだけでなく、第三勢力イベリアをも含んだ三つ巴の争いだった。
トラヤヌス帝 良好
ハドリアヌス帝 険悪
アントニヌス・ピウス帝 良好
152年 マウレタニアの反乱。
153年 アレクサンドリアの暴動。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(161~180)
同じくアントニヌス・ピウス帝の養子になっていたルキウス帝(161~169)を共同皇帝とした。
著書「自省録(タ・エイス・ヘアウトン)」母語のラテン語ではなく、文化言語のギリシア語で記した。
戦争に疎い元老院議員は文官に専念するようになり、騎士身分から軍司令官を任命するようになった。
161~166年 パルティア戦争。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(161~180)がヴォロガセス4世(147~191)のアルメニア侵攻に対し征討。ルキウス帝を遠征に遣わした。165年、アルメニア王マンヌス8世が復位した。
166年 「アントニヌスの疫病」と呼ばれた天然痘流行によりローマ帝国人口の1/3が失われた。
166~167年 マルコマンニ戦争。ランゴバルド人とオビイ人がドナウ川を越えて、パンノニアに侵入。170年代に、戦勝記念として「マルクス・アウレリウス帝記念柱」が立てられた。数千人のマルコマンニの捕虜をイタリアに定住させて減少した農業労働力の穴を埋めた。
168年 ルキウス帝とマルクス帝が「イタリア=アルプス辺境守備隊」を新設して、アクィレイアで駐屯。
169年 ローマ帰還中にルキウス帝が毒殺?病死?マルクス帝が司令部をシルミウム、シンギドゥヌムに置いた。
170~180年 マルコマンニ人とクアディ人がパンノニアから北イタリアのオピテルギウム、アクィレイアまで占領。コストボキ人はトラキア、マケドニア、アカイアまで占領。171年、司令部をカンヌントゥムに置いた。北アフリカのマウリ人(ムーア人)がジブラルタルを越えてイベリア半島に侵入。172年、ローマ軍が攻勢に転じた。174年、サルマティア系イァジュゲス人と戦闘。クアディ人は親ローマのフルティウス王を廃して反ローマのアリオガエスス王に変えて、イァジュゲス人と同盟。175年、イァジュゲス人のザンティクス王がローマ軍に降伏。
172年 アエギュプトゥスのブロコロイの反乱 -シリア総督ガイウス・アウィディウス・カッシウスにより鎮圧。
175年 シリア総督アウィディウス・カッシウスの反乱 - 帝位簒奪を企図して東方属州で決起、鎮圧、暗殺。
コンモドゥス帝(180~192)
マルクス帝が戦地ウィンドボナ(現ウィーン)で死去。共同皇帝の息子コンモドゥス帝がマルコマンニ戦争を平定。姉ルキッラの前夫がルキウス帝、後夫がマルクス帝によく仕えたクラウディス・ポンペイウス。182年、ルキッラがコンモドゥス帝暗殺未遂を起こし、カプリ島へ流刑。クラウディス・ポンペイウスは無罪とされながら政界から引退に追い込まれた。
185年 ブリタニアの軍団反乱 - ペルティナクスにより鎮圧。
190年 アフリカの反乱 - 立て続けに2回発生。ペルティナクスにより鎮圧。
192年-197年 五皇帝のローマ内戦- コンモドゥス帝の暗殺(192年)後、ペルティナクス、ディディウス・ユリアヌス、ペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌス、セプティミウス・セウェルスが帝位を争奪。セプティミウス・セウェルスの勝利、セウェルス朝創始。
ペルティナクス帝(193)解放奴隷身分で、マルクス帝を支えた高齢の軍人あがりの人物で、コンモドゥス帝の下で優遇されてきた近衛隊の反発を招き、3か月足らずで暗殺された。イタリアと荒蕪地の開墾者に10年間免税して、農業労働力を確保しようとした。
セウェルス帝(193~211)の軍制改革。ローマで近衛隊が帝位を競売する事態に至ったため、ペルティナクス帝を殺害した近衛隊を解散し、パンノニア属州総督として自ら率いてきたドナウ川流域諸属州の兵で近衛隊を新たに編成した。北アフリカのレプティス=マグナ(現トリポリ)出身で、外人初の皇帝だった。195年に兵士の給与を倍増した。兵士の結婚を認可した。騎士身分の象徴である黄金の指輪を兵士が帯びることを認可した。ローマ支配体制から、皇帝を中心とした軍隊と官僚が支配する領土的軍事国家に変化していった。
カラカラ帝(211~217)212年にアントニヌス勅令。帝国内の全自由民にローマ市民権を与えた。「国民が全部一致して神々に供犠するように強制したい。そのためにローマ市民権を付与する。」
大量の戦争捕虜から構成された奴隷から搾取し、下層市民に到るまで、奴隷を所有した。消費者たる軍隊が、辺境の異民族の侵入に備えて属州に駐屯することが多くなると、輸送手段が貧弱だったために、生産者が軍隊に従って属州に移動していった。
216年 オスロエネ王国を滅ぼして、エデッサ占領。
マクリヌス帝(217~218) 騎士身分で初めて皇帝になった。
217年 ニシビスの戦い マクリヌス帝 vs パルティア王アルタバノス4世 ローマがパルティアに賠償金を支払って講和。
エラガバルス帝(218~222) 摂政は、母ユリア=マエサ。エメサの太陽神(隕石が御神体)をローマに移してローマの最高神としてパラティヌス神殿に祀り、帝権を固めようとしたが失敗。
セウェルス=アレクサンデル帝(222~235) 摂政は、母ユリア=ママエア。
224年 ササン朝ペルシアがパルティアを滅ぼした。
ササン朝ペルシアのアルダシール1世(226~240)がメソポタミア・カッパドキアに侵攻。アレクサンデル帝(222~235)が征討に向ったが敗北。ササン朝ペルシアのシャープール1世(240~270)が小アジア遠征を再開。
ドナウ国境に、ゴート、カルピ、ブルグンド、ヘルーリが侵入。
ライン国境に、アラマンニ、フランクが侵入。
東部国境に、ペルシアが侵入。
ゴルディアヌス3世(238~244)東部国境の防戦中に戦死。
フィップス・アラブス帝(244~249)ペルシアに多額の賠償金を払って講和。「教会の小康」と呼ばれる比較的平穏な時期。
248年 ローマ建国千年祭
デキウス帝(249~251)キリスト教徒迫害。カラカラ帝のアントニヌス勅令の法的基礎があったからこそ、全帝国のすべての人々に供犠命令を発することができた。役人の前で供犠した者には供犠証明書は下付され、拒否した者は処刑された。ドナウ国境に侵入したゴート族クニウァとのアブリットゥスの戦いで戦死。キリスト教徒はそこに神の審判をみた。
偽預言者・モンタノス派
モンタノス(157~170)
女預言者マクシミラと女預言者プリスキラとともに、小アジア・フリュギアで布教。聖霊に満たされてトランス状態に陥り、世界終末を訴えた。禁欲主義、厳しい断食をおこなった。
テルトゥリアヌス(180~220)
カルタゴで生まれ、197年にローマで洗礼。202年にカトリック派からモンタノス派に改宗。教会の赦罪権を否定。三主要罪(偶像崇拝・殺人・姦通)はぜったいに赦されないと説いた。殺人を仕事にする兵士の入信を禁じた。
三位一体説をはじめて説いた。
世界終末が来ないので、モンタノス派は次第にすたれていった。
帝国東部教会はギリシャ語を用いて運営され、帝国西部教会はラテン語を用いて運営されていた。
ローマ教皇ファビアヌス(236~250)
ローマ教会の組織基盤の強化に奔走。ローマ市内を7つの管区に分割し、それぞれに助祭(ディアコノス)を配置するという行政改革をおこなった。これは単なる宗教的な儀礼の分担にとどまらず、貧民救済や寡婦の保護といった社会福祉的な機能を、教会が組織的に担い始めた。ローマという巨大な行政機構になかに、キリスト教会が一種の「国家の中の国家」としてのシステムを構築しつつあった。さらに7人の副助祭(サブディアコノス)を任命し、7人の公証人のことを監督させた。この公証人たちの役割は、殉教者たちの行状や裁判の記録を正確に収集・保存することにあった。のちのデキウス帝による迫害において、誰が信仰を守り通し、誰が棄教したかという問題が教会の存続を揺るがす大問題となることを予見していたかのような措置だった。歴史的記録の保全という観点からも、極めて近代的な行政感覚を持っていたことがうかがえる。また考古学的な知見、特にジョバンニ・バッティスタ・デ・ロッシやヴィンチェンツォ・フィオッキ・ニコライの研究が明らかにするように、ファビアヌスはカタコンベの整備にも深く関与した。ローマのアッピア街道沿いにあるカリストゥスのカタコンベ内には、歴代教皇の墓所が集まる「教皇のクリプタ」が存在するが、この空間の記念碑化を推進したのもファビアヌスだった。ファビアヌスは迫害によって命を落とした先人たち、たとえばポンティアヌスやアンテルスといった教皇たちの遺体を正式に埋葬しなおし、教会共同体としての記憶とアイデンティティを、死者の崇拝を通じて強固なものにしようと努めた。ファビアヌスの治世は、奇跡による選出という伝説的な幕開けとは裏腹に、極めて実務的かつ戦略的な組織固めの期間であった。平和な時代を利用して、信徒の数が増大し、社会的な影響力が増しつつあったローマ教会を、帝国の弾圧にも耐えうる強靭な組織へと変貌させていった。
249年、事態は急変する。フィリップス・アラブス帝が倒れ、新たにデキウス帝が即位。ラインハルト・セリンガが分析しているように、デキウス帝の登場はキリスト教会にとって未曽有の危機の始まりを告げるものだった。デキウス帝は内憂外患に苦しむローマ帝国の復興を掲げ、その手段として古き良きローマの伝統的宗教への回帰を強力に推進した。個人的にキリスト教を憎悪していたというより、帝国の統一と安寧を神々の加護に求めた保守的な改革者であり、その政治的プログラムにおいて国家祭儀への参加を拒むキリスト教徒の存在は、帝国の結束を乱す許しがたい遺物として映った。250年初頭、デキウス帝は全帝国民に対し、定められた日に、指定された場所で、地方行政官の監督のもと、ローマの神々に犠牲を捧げ、その証明書(リベッルス)を受け取ることを義務付ける勅令を発布した。WHCフレンドが指摘しているように、この勅令は、特定の個人や地域を狙い撃ちにした散発的な迫害とは異なり、帝国全土を対象とした組織的かつ官僚的な弾圧だった。その目的は、必ずしもキリスト教徒の物理的な抹殺ではなく、キリスト教徒を背教させ、国家の宗教秩序の中に組み込むことにあった。逃げ場のないこの踏み絵的な行動に対し、多くの信徒が恐怖に駆られて犠牲を捧げたり、賄賂を使ったりして証明書を入手するという事態が発生した。これがのちに北アフリカのカルタゴ司教キプリアヌスらを悩ませることになる「ラプシ(背教者)」問題の端緒となった。この勅令は発布された直後、ローマ当局が真っ先に標的としたのは、組織の頂点に立つ教皇ファビアヌスだった。ファビアヌスの逮捕と処刑は、勅令の発布と間もない250年1月20日に執行された。ファビアヌスの死はあまりにも突然であり、ローマ教会はその準備ができていなかったかのようにみえるが、その最期は教会指導者としての威厳を保ったものだった。ファビアヌスの殉教は「高貴なる死」として称賛された。ローマの聖職団から、カルタゴのキプリアヌスへ宛てられた手紙の中で、ファビアヌスが善き人であり、その死が彼の生前の高潔さと完全に一致するものであったことが報告されている。当時の教会指導者の中には、迫害の嵐が過ぎ去るのを待つために一時的な退避を選ぶ者もおり、キプリアヌス自身もその一人だった。ローマという帝国の中心において、教皇が公然と殉教を選んだことは、動揺する信徒たちにとって強烈なメッセージになった。ファビアヌスの殉教は、単なる一人の聖職者の死にとどまらず、ローマ教会、いや全教会に対する深刻な打撃となった。彼の死後、激しい迫害が続いたため、ローマ教会は直ちに後継者を選出することができず、教皇の座は1年以上空位になった。この権力の空白期間において、教会の指導権を事実上掌握したのは、優れた神学者でありながら厳格主義的な立場をとるノウァティアヌスだった。この時期のローマ教会は、外部からの迫害と、内部からの神学的対立(キプリアヌスvsコルネリウスvsノウァティアヌス)という二重の危機に直面していた。獄中につながれた告白者が、背教者の教会復帰を安易に認める免罪場を発行したことに反対して、ノウァティアヌスは背教という重罪を犯した者の教会復帰を拒絶した。
サクリフィカティ デキウス帝の勅令に従い異教の神々に犠牲をささげた人たち
リベッラティキ 金銭で背教の証明書を購入した人たち
寛容主義(キプリアヌス・コルネリウス) 十分な悔い改めをすれば、背教者の教会復帰を認めた
厳格主義(ノウァティアヌス)背教者の教会復帰を絶対に認めない
コルネリウス(251~253)がローマ教皇に選出され、ノウァティアヌス(251~258)はローマから追放され対立教皇となった。
カルタゴ司教キュプリアヌス(249~258)
カルタゴに生まれ、246年に洗礼。教皇ファビアヌス殉教の際、カルタゴに逃亡した。カルタゴにて、反対派を破門制裁し、ローマでステファヌス1世の殉教を受けて、自分もカルタゴで殉教した。
ローマ教皇コルネリウス(251~253)
棄教者を教会に再受容した。キュプリアヌスも支持。
ローマ教皇ステファヌス1世(254~257)
分離派信者の教会復帰希望者を和解の按手のみで再受容した。キュプリアヌスは反対し、再洗礼を主張した。前回の洗礼には聖霊がおらず、無効だからという理由。
ウァレリアヌス帝(253~260)
257年 キリスト教徒迫害
ガリエヌス帝(253~268)
260年 ウァレリアヌス帝と共同統治していたが、キリスト教徒迫害をやめた。以後40年、教会は事実上の平和を与えられて「帝国内の帝国」に発展する組織を固めた。騎兵隊を軍の主力とし、重装歩兵中心の歩兵戦術から訣別した。各軍団の騎兵隊を集めて、一定駐屯地に固定しない皇帝直属の機動軍を形成した。
260~274年 簒奪皇帝ポストムスがガリア帝国を建国。
クラウディウス2世(268~270)
アウレリアヌス帝(270~275)
ペルシア式の重装騎兵隊の増強を図った。ヴァンダル、ユトゥンギ、アラマンニらの部隊をローマ軍に編入し、ローマ市民以外の異民族がローマ軍の中枢を担うようになった。
244年 ミシケの戦い。ゴルディアヌス3世(238~244)が敗死。フィリップス帝(244~249)が莫大な賠償金を払って和睦。
246年 フィリップス=アラブス帝がゴート人傭兵の年金支払いを停止したため、ゴート人がバルカンに侵攻。デキウス帝(249~251)がゴート人を撃退し、フィリップス帝を殺害。
250年 ゴート王クニウァがバルカンに来襲し、251年、アブリットゥスの戦いでデキウス帝が敗死。ガルス帝が和議。
251年 シャープール1世がアンティオキア、カッパドキアに侵攻。トレボニアヌス・ガルス帝(251~253)は対処できず、エメサ神官ウラニウスと隊商都市パルミラ王オダエナトゥスがシャープール1世を撃退した。
253年 クニウァが年金支払額が低いということで再び来襲。下モエシア総督アエメリアヌス帝(253)が撃退し、トレボニアヌス・ガルス帝を殺害。ラエティア総督ウァレリアヌス帝(253~260)がアエメリアヌス帝を殺害。
ウァレリアヌス帝の軍制改革。帝国分担統治策をとり、息子ガリエヌス帝(253~268)を共同皇帝とし、帝国西部の統治に当たらせた。能力主義で元老院経験がない騎士身分の人間を軍の司令官に任命した。
ガリエヌス帝がライン川とドナウ川2方面にあたるときは、息子の小ウァレリアヌスとサロニヌスを共同皇帝として残す措置をとった。大規模な騎兵部隊(エクイテス)を創設した。ダルマチア騎兵部隊、マウリ人騎兵部隊、選抜騎兵部隊(エクイテス・プロモティ)、楯持ち騎兵部隊(エクイテス・スクタリイ)の四部隊。
ウァレリアヌス帝は帝国東部の統治、ササン朝ペルシアに対策に専念した。兵力不足を補うため、各軍団から選抜された分遣隊(ウェクシラティオ)を臨時編成していたのを常備編成に切り替えた。
260年 エデッサの戦い。ウァレリアヌス帝がシャープール1世に捕囚、刑死。
260年 帝国が3分裂。
ガリエヌス帝 イタリア・アフリカ・バルカン・小アジア
ポストゥムス ガリア・ヒスパニア・ブリタニア
オダエナトゥス シリア
268年 バルカン半島出身の兵卒上がりの軍人たちがガリエヌス帝を暗殺。
クラウディウス2世(268~270) バルカンでゴート人撃退
アウレリアヌス帝(270~275)
イタリアでユトゥンギ人撃退。パンノニアでヴァンダル人撃退。属州ダキアを廃止して、ローマ軍とローマ系住民をドナウ以南に撤退させて守りを固めた。アウレリアヌスの城壁を建設。
261年 オデナトゥス王(261~267)が弓騎兵とペルシアからならった重装槍騎兵によってペルシアを撃退してパルミラ王国独立。
271年 西ゴート王クニウァを敗死させた。
272年 パルミラ女王ゼノビアを破る。エメサの太陽神の加護によって勝利した。マルス神殿に御神体の隕石を祀り太陽神を国家最高神とした。
274年 ガリア帝国テトリクス1世(270~274)を降伏させ、帝国統一。
国家財政収入の大部分は、所得の比例ではなく定額だったために、収入が減少する一方であり、政府は貨幣改悪とインフレに走った。困窮した政府は、不当な低価格で強制買い付け~強制徴発を行うようになった。兵士や役人の給料は、大部分現物支給だったが、皇帝即位や戦勝のときは祝儀として贈与金が大判振る舞いされた。そのための財源は都市に課した地金の徴収だった。兵士は戦争で掠奪と搾取を行い、役人は手数料と賄賂を受け取った。これらは農民と都市市民の負担となった。
タキトゥス帝(275~276)
フロリアヌス帝(276) 西方属州軍団が推挙。
プロブス帝(276~282) 東方属州軍団が推挙。アウレリアヌスの城壁が完成。
リュージュ族、ブルグント族、ヴァンダル族、アレマン族を撃退。
カルス帝(282~283) ササン朝ペルシア遠征で落雷死。
ヌメリアヌス帝(283~284) 遠征帰途、アペルが暗殺。
ディオクレティアヌス帝(284~305) 東方正帝
専制君主制(ドミナートゥス)を創始、四帝分治制(テトラルキア)を導入。
286~293年 ブリタニアでカラウシウスが簒奪帝。
301年 最高価格令
303年 ディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒大迫害。ガレリウス帝が迫害の首謀者。聖書や祭具の引き渡しを命じた。聖書を引き渡すことで命を長らえた聖職者「トラディトレス(引き渡す者)」が、迫害終息後の教会で問題になった。カルタゴ司教キプリアヌスは「教会の外に救いなし。」と説き、教会の統一と司教の道徳的な潔白さを強調した。重罪を犯した司教が行う洗礼や聖餐は無効であるとした。
311年 カルタゴ司教カエキリアヌス選出。彼の按手(任命)に関わったアプトゥンガ司教フェリクスにトラディトレスの嫌疑がかけられた。厳格派は対立司教マヨリヌスを選出した。マヨリヌスの死後、ドナトゥスが選出された。ドナトゥス派とカエキリアヌス派に分裂した。ローマ帝国はカエキリアヌス派を支持して、ドナトゥス派を弾圧した。ドナトゥス派は都市部の知識人、ヌミディア農村部やベルベル人に深く浸透していった。
ドナトゥス派「人効説」 秘跡(サクラメント)は、それを行う聖職者の個人的な聖性に依存する。
カエキリアヌス派「事効説」 秘跡(サクラメント)は、キリスト自身が行うものであり、司教個人の資質には左右されない。
カトリック信者がドナトゥス派に改宗する際に、再洗礼を行った。「キルクムケリオーネス(納屋の周りをうろつく者たち)」はヌミディア地方農村部を放浪する季節労働者や社会のはみだし者によって構成され、ドナトゥス派の過激な支持基盤となった。「アゴニスティキ(キリストのための戦士)」と自称して、棍棒を手にカトリックの聖職者や地主を襲撃した。
マクシミアヌス帝(286~305) 西方正帝
286年 バガウダエ族(ガリア農民・奴隷・下層民)の乱を鎮圧。
286年 カラウシウス(286~293)がブリタニアに分離帝国を建国
296年 分離帝国のアレクトゥス(293~296)を滅ぼした。
297年 ササン朝ペルシアからアルメニアを奪還。
297~299年 イスパニアのムーア人を破った。
ガレリウス帝(東方副帝293~305/東方正帝305~311)
ササン朝ペルシアによって放逐されたアルメニア王ティリダテスを救うために遠征。
296~298年 ガレリウス帝 勝ち vs ササン朝ペルシア・ナルセ1世 負け
311年 寛容勅令(迫害中止令)
「キリスト教徒迫害は神々の怒りを鎮めるために始めたのだが、キリスト教徒の神はその信者に迫害を耐えさせ、いわばその実在性を証明したのだから、国家の安寧のための祭祀はこの神にも捧げられるべきだ。キリスト教徒たちは、国家と皇帝と自分たちのために自分たちの神に祈れ。」
マクセンティウス帝(西方正帝306~312)
312年 ミルウィウス橋の戦い
マクセンティウス帝 敗死 vs コンスタンティヌス帝 勝ち
コンスタンティヌス帝(西方副帝306~312/西方正帝312~324/皇帝324~337)
ゲルマン人のみから成る近衛軍(スコラエ)を新設した。
313年 ミラノ勅令
大迫害中に没収された教会財産の返還を命じた。
「最高神が国家と皇帝に愛顧を示してくれるように、キリスト教も含めて信教の自由を与えることで、神は皇帝の成功を永遠ならしめ、国家に繁栄を与えてくれるだろう。」
カトリック教会の僧侶に納税その他の対国家義務の免除を命じた。
「最高神に対する祭祀を軽んずれば国家は危機に陥り、この祭祀を重んずれば国家は繁栄することが証明されたから、カトリック僧侶に対国家義務を免除して祭祀に専念させて国家の繁栄を確保したい。」
330年 ビザンティオンに新都コンスタンティノープルを設置。
*元老院の拡大
下賤の者も元老院議員に出世できるようになった。皇帝が複数立つことで宮廷スタッフが激増した。ローマ市民権を得た人が増えたことで、ローマ法による裁判件数も増え、帝国を州単位に小分けすることで、隅々まで徴税の目が届くようになった。戦争未経験な元老院議員ではなく、プロの騎士階級が軍司令官に任命され、戦功を挙げれば元老院議員になることができた。都市の自治が認められ、都市参事会員が徴税と読み書き計算能力が必要な要職につくことで、なんとか帝国が運営できた。財源確保のため、貨幣改悪とインフレが進行し、最高価格令で供給不足が進みインフレがさらに悪化した。
*帝国とキリスト教
カタコンベでこそこそ信仰しているあいだは、棄教にうるさかった。キリスト教迫害といっても、ローマの神々に供犠を提出するだけで許された。そうやって生き延びた人間を教会が信徒とみなすかどうか、穏健派と厳格派が大いに争った。キリスト教が公認されると、信仰の自由が失われ、信仰の強制がよりひどくなった。
コンスタンス帝(337~350) 西方正帝
アタナシウス派を熱心に信仰。343年、セルディカ宗教会議で決裂。
フランク族、ブリタニア族と戦争。
ガリア簒奪帝マグネンティウスによって殺害。
マグネンティウス帝(350~353) 西方正帝
351年 ムルサの戦い
マグネンティウス帝 フランク人とサクソン人が加勢したが負けて自害
vs コンスタンティウス2世 ゴート人が加勢して勝ち
ガルス帝(351~354) 東方副帝
アンティオキア民衆をけしかけて、官職者が虐殺された事件で、コンスタンティウス2世により処刑。
コンスタンティウス2世(337~361) 東方正帝
アリウス派を信仰。父コンスタンティヌス帝が保護した司教アタナシウスを迫害した。343年、セルディカ宗教会議で決裂。
ガリアのマグネンティウスの乱、バガウダエ族の乱、アレマンニ族の侵攻、ササン朝ペルシアの侵攻といった内憂外患で東奔西走した。
358年 ニコメディア大地震
コンスタンティウス2世が信奉したアリウス派のニコメディア司教セグロピウスをはじめ、ニコメディア教会会議に参集した高位聖職者が死去。アリウス派への神の罰と解釈。
359年 ササン朝ペルシアのシャープール2世がアミダ(現ディヤルバクル)奪取。
361年 ユリアヌス副帝が正帝を僭称したとしてユリアヌス討伐の途中で病死。
ユリアヌス帝(副355~360/正360~361/皇361~363)
357年 ストラスブールの戦い ユリアヌス帝の名声が高まった。
ユリアヌス帝 勝ち vs アレマンニ族クノドマル 負け
360年 コンスタンティウス2世のペルシア方面への徴兵に不満を持った軍隊がユリアヌス副帝を担いで正帝に即位。
361年 ユリアヌス討伐中のコンスタンティウス2世が敗死して皇帝即位。マルクス・アウレリウス帝を模範として尊敬していた。宮廷費を節約。宗教寛容令を発布し、キリスト教公認を取り消したが、禁止したり迫害したわけではなかった。しかし、「背教者」とのち呼ばれた。アリウス派、アタナシウス派、ミトラ教を容認した。
362年 キリスト教徒が古典文学を教えることを禁止。
「ガリラヤ人(キリスト教徒)は、マタイやルカだけを読んでいればよい。」
363年 クテシフォンの戦い。
ユリアヌス帝・ホルミズド(シャープール弟) 敗死
vs ササン朝ペルシア シャープール2世(309~379) 勝ち
危機に陥ったローマ軍は、ヨウィアヌスを後継皇帝に選出し、軍の壊滅を防ぐため、ヨウィアヌス帝はシャープール2世と和平講和。ディオクレティアヌス帝が獲得したメソポタミアの一部を返還を条件とした。コンスタンティノープルへ帰還中、ヨウィアヌス帝が不慮の事故死。郊外7マイルのヘブドモンで、パンノニア軍人家系出身の兄ウァレンティアヌスと弟ウァレンスが共同統治帝に推戴された。
365年 クレタ島沖巨大地震(マグニチュード8.5)
巨大津波発生で広域な港湾都市が大被害を受けた。都市裕福者が私財提供・善行・恩恵(エヴェルジェティズム)によって壮麗な公共建築群を維持していたが、激しい数度の地震は、劇場・浴場・列柱廊といった古代都市の象徴を倒壊させ、復興には莫大な費用を要し、都市参事会の経済力を疲弊させた。地震・津波による都市機能の麻痺や経済的な困窮は、都市富裕層を没落させ、都市富裕層が属した都市参事会が都市運営を担えなくなった。都市参事会が抜けた穴を、司教を中心とするキリスト教会の支援ネットワークが教会が埋めて、社会的な求心力獲得を加速させた。被災都市に慈善活動(アガペー)として迅速に食糧や物資を提供した。司教たちは精神的な指導者の役割を超え、都市の世俗的な行政官や調停者としての実質的な権力を掌握していった。
ローマ教皇ダマスス1世(366~384)
対立教皇ウルシヌスを粛清・追放。カタコンベ時代の歴代教皇の墳墓を修理・維持・巡礼奨励。
380年 テッサロニキ勅令。アレクサンドリア総主教ペトロス2世とローマ教皇ダマスス1世が連名で発布。三位一体を認めない教派を異端とした。
382年 ローマ公会議を主宰。アリウス派を非難。
*ギリシア正教会3大聖人
カイサリア主教バシレイオス(370~379) ギリシア教父・哲学者
アリウス派やサベリウス主義(様態論)を排斥。
ナジアンゾス主教グレゴリウス(361~389) ギリシア教父・哲学者
378年 アンティオキア宗教会議でコンスタンティノポリス大主教に選出されたが、翌年、教会内で襲撃され負傷。
381年 コンスタンティノポリス公会議で、大主教就任を取り消された。
コンスタンティノポリス大主教クリュソストモス(398~404) ギリシア教父
セレブ批判をしたことで、東ローマ皇帝アルカディウス皇后アエリア・エウドクシアに恨まれ、流刑移動中に病死。
*コンスタンティヌス帝はコンスタンティノープルに首都をたてたが、その後の皇帝たちは、シリアのアンティオキアに居を構えることが多く、テオドシウス1世がコンスタンティノープルに宮廷を据えるようになってから、その後の皇帝たちはコンスタンティノープルに定着するようになった。皇帝のお付きの者は、軍兵士の酒保商人や宮廷奴隷まで含めると1万人くらいの大集団。
*徴兵も毎年行われるようになり、徴兵は税として地主に課せられ、所有する土地の面積に応じて一定数の兵士を供出する義務を負った。実際の兵士を供出する代わりに、新兵税という形で金納に代えることも可能であった。徴兵ははなはだ不人気で、ウァレンティニアヌス1世は、入隊兵士の身長基準を172cmから164cmに下げ、徴兵回避のための自傷行為を火刑に処した。逃亡兵も後を絶たず、逃亡防止のために、軍隊に入る際には刺青が入れられた。
365年 逃亡兵をかくまった場合、一般市民は鉱山労働に送られ、特権階級は財産の半分が没収された。
369年 逃亡をかくまった地所の管理者は火刑に処せられた。
370年 地所の没収が罰則に加わり、逃亡者を引き渡した奴隷に自由身分を与えた。兵士本人は地租と人頭税が免除された。5年勤務すれば、妻も免税対象になった。
375年 免税対象が両親にまで拡大された。
*深層防御体制
辺境防衛軍 ほぼローマ人。6割が騎兵、4割が歩兵。国境監視、情報収集、小規模な襲撃の撃退の3つが任務。
機動軍(精兵) 25~41%が異民族。4割が騎兵、6割が歩兵。辺境防衛軍の守りを突破して内地に侵入した敵を迎撃した。平時は、防衛線から一歩引いた交通の要衝となる都市に宿営し、戦時には迅速に戦地に急行した。
東ローマ機動軍の駐屯地:皇帝麾下軍はコンスタンティノープル、オリエンス方面軍はアンティオキア、イリュリクム方面軍はシルミウム、トラキア方面軍はマルキアノポリス(現デヴニャ)。
西ローマ機動軍の駐屯地:皇帝麾下軍はメディオラヌム(現ミラノ)、ラヴェンナ、ティキヌム(現パヴィア)。ガリア方面軍はアウグスタ・トレウェロルム(現トリアー)。
ウァレンティニアヌス1世(364~375) 西方帝
367年 病気に臥せり、息子グラティアヌス(367~383)を共同皇帝に据えた。
368年 ソリキニウムの戦い。アラマンニ族を平定。
369年 大テオドシウス(テオドシウス帝の父)がブリタニアを平定。
372年 大テオドシウスが北アフリカのフィルムスの乱を平定。
374年 クアディ族とサルマティア人がイリュリア・パンノニア侵攻。ウァレンティアヌス1世がクアディ族を、小テオドシウスがサルマティア人を平定。
ウァレンス帝(364~378) 東方帝
アリウス派を信仰。ゴート人に領内定住を許可して兵力不足を補おうとした。
365年 アリウス派のゴート族謀反、その鎮圧に向ったプロコピウスが反乱。プロコピウスはユリアヌス帝の親族。コンスタンティヌス帝以来の古株の軍人がプロコピウス支持を拒絶し、ウァレンス帝への支持を訴えた。プロコピウス配下の軍が寝返り、プロコピウス処刑。
ウァレンス水道橋を建設。
ゴート人移民問題で、コンスタンティノープル住民と軋轢を抱えていた。つまり仲が悪かった。
375年 西ゴート族がボスポロス王国を滅ぼす。
376年 東ゴート族中核のグレウトゥンギ族を服属させたフン人に攻撃されて、西ゴート族中核のテルウィンギ族がドナウ渡河。
377年 テルウィンギ族の反乱。フン人の支配を逃れたグレウトゥンギ族がドナウ渡河。
378年 アドリアノープルの戦い
ローマ帝国ウァレンス帝(364~378) 敗死
vs 西ゴート族テルウィンギ族 勝ち
テオドシウス帝(379~395) 東方帝
コンスタンティノープルは、多数のアリウス派と、少数のニカイア派が争っていた。アリウス派は皇帝への協力を拒んで市外撤去。ニカイア派から司教を抜擢し、皇帝が臨席する祭儀に臨んだ。
帝国西部と対抗するために、帝国東部を自らの支持基盤にする必要に駆られていた。さらにウァレンス帝の敗北によって大きく傷ついた軍隊を立て直す必要にも駆られていた。ローマ元老院に対抗すべく、コンスタンティノープル市民に、コンスタンティノープル元老院の門戸を大きく開いた。
内紛は親征したが、自分で対外戦地に赴かなかった。「惰弱な皇帝」であった。
西ゴート人をトラキアに定住させて自治と独自の軍指揮権を認めた。パンノニアにヴァンダル人とゴート人を定住させた。ライン地方はフランク族に防衛を委ねた。
380年 テッサロニキ勅令。三位一体説を信じないものを異端として罰した。これによってアリウス派が排斥された。
381年 コンスタンティノープル教会会議を開催。アリウス派を排斥し、ニカイア公会議で採択されたニカイア信条を正統とあらためて定義した。同じニカイア派でも、帝国東西で主張が異なっていた。アレクサンドリア教会、アンティオキア教会をすっ飛ばして、コンスタンティノープル教会がローマに次ぐ地位に登った。コンスタンティノープル総主教ネクタリオス(381~397)は、テオドシウス帝傀儡と言える。
382年 フォエドゥス条約。ゴート人をドナウ川下流の第二モエシア属州内に定住させた。ゴート人に土地と自治権が与えられる代わりに軍役が課せられ、同盟部族軍(フォエデラティ)と呼ばれた。指揮権はローマ軍人ではなく部族指導者に帰した。
388年 ゴート人、フン人、アラン人など異民族の同盟部族軍を用いてブリタニア簒奪帝マクシムス(383~388)を破り処刑。
*フン人は北匈奴、アラン人はイラン系騎馬遊牧民で、フン人の西進に伴って真っ先に服属し、フン人とともに帝国内に侵入していた。
390年 テッサロニキのキリスト教徒が暴動、これを軍隊が弾圧(テッサロニキの虐殺)。メディオラヌム(ミラノ)司教アンブロジウスがテオドシウス1世を非難・破門。
392年 異教禁止令を発布。キリスト教国教化。
393年 古代オリンピック廃止。
394年 フリギドゥスの戦い
エウゲニウス帝・アルボガスト 負け
vs テオドシウス帝 ゴート人、アラン人、イベリア人を用いて勝ち
395年 長男アルカディウスを東方帝、次男ホノリウスを西方帝とした。
グラティアヌス帝(367~383) 西方帝
379年 ウァレンス帝敗死を受け、小テオドシウスを皇帝に据え、テオドシウス1世即位。
381年 アクイレイア教会会議を開催。ミラノ司教アンブロシウス(374~397)主宰のもと、ドナウ方面のアリウス派司教を追及した。
382年 ミラノ司教アンブロシウスが、ミラノに立ち寄ったグラティアヌス帝にローマ伝統宗教を弾圧するように諭した。
383年 ブリタニア駐屯軍マクシムスが反乱、グラティアヌス帝が殺害された。
マクシムス帝(383~388) 西方帝
テオドシウス帝がマクシムスを支持、ウァレンティアヌス2世に対し、マクシムスを共同皇帝として認めるよう説得。ブリタニア、ヒスパニア、ガリア、アフリカを統治。
387年 ウァレンティアヌス2世をイタリアから追放。テッサロニキのテオドシウス1世のもとに亡命。
388年 シスキアの戦い、ポエトウィオの戦い。テオドシウス帝が派遣したアルボガストに負けて敗走、アクイレイアで逮捕され刑死。
ウァレンティアヌス2世(375~392) 西方帝
アリウス派のゴート人部隊が皇帝を護衛、アリウス派の聖職者も政治的発言権が強かった。
384年 ミラノ司教アンブロシウスが、ウァレンティアヌス2世の異教祭典の挙行を妨害した。別の町で祭儀敢行。
エウゲニウス帝(392~394) 西方帝
フランク族軍人アルボガストが擁立。ライン川のフランク族やアラマンニ族を鎮撫した。
394年 フリギドゥスの戦い
エウゲニウス帝・アルボガスト 負け vs テオドシウス帝 勝ち
アルカディウス帝(383~408) 東方帝
388~392年 ガリア出身の佞臣ルフィヌスを書記長官に任じた。
392年 ルフィヌスをコンスルに任じた。
392~395年 ルフィヌスをオリエンス道長官に任じた。ルフィヌスは、西方帝国の武官スティリコに、マケドニア・ダキアから撤退を命じ、その隙をついてゴート族アラリックがギリシアを荒らしまわった。スティリコは東方帝国侍従長・奴隷出身の宦官エウトロピウスと共謀して、ルフィヌスを殺害。スティリコはギリシア失地回復を図るが、今度はエウトロピウスがスティリコに撤退を命じ、コンスタンティノープル元老院は、スティリコを「国家の敵」と認定し、アラリックを「イリュリクム総司令官」に任じ、東西ローマがイリュリクム領有をめぐって争っていたが、アラリックにイリュリクム奪取の任務につかせた。
399年 アルカディウス帝はエウトロピウスをコンスルに任じたが、ゴート人トリビギルドが反乱。ゴート人将軍ガイナスと皇后エウドクシアは、反乱鎮圧にはエウトロピウス罷免が必要とアルカディウス帝に訴え、エウトロピウスを罷免。ガイナスはエウトロピウスを処刑。
ガイナスがコンスタンティノープルにアリウス派の聖堂を建設しようとして民衆が暴動。アルカディウス帝はアウレリアヌスをオリエント道長官に任じて、ゴート人フラウィッタにガイナスを討伐させた。ガイナスはトラキアに居座るフン族ウルディンに身を寄せたが斬首された。
401年 ガイナス討伐勝利を記念して「アルカディウスの記念柱」を建設。
405年 フラウィウス族アンテミウス(405~414)を執政官にした。
テオドシウス2世(408~450) 東方帝
「テオドシウス法典」を編纂。
「テオドシウスの城壁」を建設。フン族アッティラの攻撃からコンスタンティノープルが守られた。アッティラに毎年貢納。
マルキアヌス帝(450~457) 東方帝
テオドシウス2世が乗馬事故死。テオドシウス2世の姉プルケリアと結婚。宦官の侍従長クリュサフィウスを処刑。
アッティラとの講和条約を破棄して対立。
451年 カルケドン公会議
レオ1世(457~474) 東方帝
ゲルマン人アスパルに仕えたトラキア出身の軍人。アスパルは東ゴート族テオドリックの師匠だった。
即位後、アスパルの傀儡になることを拒み、大量のイサウリア人を雇用した。
469年 トラキア軍指揮官アナガステスがフン族デンツィク(アッティラ次男)を敗死させた。
471年 レオ1世とイサウリア族長ゼノンがアスパルを殺害。
マルキアヌス帝の息子・アンテミウス帝(467~472)を西方帝に送り込んだ。
ユリウス・ネポス帝(474~475)を西方帝に送り込んだ。
ゼノン帝(474~491) 東方帝
レオ1世が大量雇用した蛮族イサウリア人の族長。レオ1世娘アリアドネとゼノンが結婚。イサウリア人を重用、重税、汚職で不評。
475年 単性論者バシリスクスの反乱。蛮族イサウリア人皇帝に反発したが鎮圧された。
476年 ローマ元老院が皇帝不要と決議して、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣をゼノン帝に返還した。オドアケルをパトリキに任じた。488年まで、オドアケルとゼノン帝は蜜月だった。
484年 レオンティウスの反乱
486~487年 テオドリックの反乱
488年 東ゴート王テオドリックを副帝に任じて、レオンティウスの反乱に加担したオドアケル討伐を命じた。
アナスタシウス1世(491~518) 東方帝
ゼノン皇后アリアドネと、グレコ・ローマ人の枢密院警護長アナスタシウスが結婚。財政を再建した。
金(クリュソス)と銀(アルギュロス)で納税しなければならなかったクリュサルギュロン税制を廃止。銅銭復活。
「アナスタシウスの城壁」を築いた。
単性論者だったので、ローマ教皇と対立した。
493年 東ゴート王国テオドリックがオドアケルを殺害。
497年 アリウス派のテオドリックに帝冠と帝衣を与え、西ローマ帝国を支配する皇帝大権を与えた。
498年 フランク王国クローヴィスがアリウス派からアタナシウス派に改宗。
508年 フランク王国クローヴィスに「アウグストゥス」の称号を贈り、西ローマ帝国のコンスルに任命した。
ユスティヌス1世(518~527) 東方帝
アリウス派弾圧により、ローマ教皇ヨハネス1世と関係修復した。ヨハネス1世はアリウス派のテオドリックによって幽閉・獄死。
ホノリウス帝(393~423) 西方帝
幼帝だったので、ヴァンダル族スティリコ(395~408)を執政官にした。
401年 西ゴート族アラリックがホノリウス帝居住のメディオラヌム侵攻。
402年 ポレンティアの戦い、ヴァローナの戦い
スティリコ 勝ち vs 西ゴート族アラリック 負け
403年 ホノリウス帝がミラノからラヴェンナに遷都。
405年 ゴート族ラダガイススがイタリア侵攻
406年 ヴァンダル人、スエビ人、アラン人がライン川渡河。さらにブルグンド人、アラマンニ人がライン川渡河。
407年 ブリタニアに僭称帝コンスタンティヌス3世(407~411)即位。ブリタニアを見捨ててガリア制覇に専念した。強い軍団が去ってしまったブリタニアは、アングロサクソン人によって支配されていった。
408年 スティリコはゴート人将軍サルスをコンスタンティヌス3世討伐に向わせたが、ホノリウス帝によってスティリコ失脚・刑死。同盟部族軍がアラリック軍に合流。
409年 ホロリウス帝は、コンスタンティヌス3世と共同統治することで和解した。ヒスパニア軍団がこの和解に失望、マクシムス(409~417)を皇帝として担ぎ上げた。ガリア軍団はブルグンド王グンダハール、アラン王ゴアの支援の下、ヨウィヌス(411~413)を皇帝として担ぎ上げた。西ゴート王アラリックは、元老院議員プリスクス・アッタルス(409~410)を対立皇帝に推挙。ホノリウス帝はローマの惨状を見捨ててヴェローナに引きこもっていた。
410年 交渉相手プリスクス・アッタルスを失ったアラリックがローマ掠奪。
411年 ヒスパニア軍がコンスタンティヌス3世が籠城するアルルを包囲。コンスタンティウスはローマ軍団を率いて、ヒスパニア軍を破り、マクシムス逃亡。さらにコンスタンティヌス3世を処刑した。
415年 コンスタンティウスは西ゴート王アタウルフを破り、ガリアからヒスパニアへ駆逐。
416年 コンスタンティウスは、西ゴート王アタウルフが支持した対立皇帝プリスクス・アッタルス(414~415)を廃位。
418年 ガリア南西部のアクイタニアに西ゴート族が定住許可。
421年 ホノリウス帝は、コンスタンティウス3世を共同皇帝に任命。東ローマ皇帝テオドシウス2世がコンスタンティウス3世即位に反対したため、コンスタンティノープルへコンスタンティウス3世が侵攻する直前に死去。
ウァレンティニアヌス3世(425~455) 西方帝
フン人の人質・アラリックの親友だったアエティウス(433~454)を執政官にした。アエティウスは常にフン人に頼った。
429年 ヴァンダル族ガイセリック(429~477)がヴァンダル王国を建国。ヒスパニアから北アフリカへジブラルタル海峡を越境。
430年 ヴァンダル族ガイセリックがヒッポ=レギウス占領。
431年 ヴァンダル族ガイセリックがヒッポ=レギウスに遷都。
432年 リミニの戦い
アエティウス 負け vs アフリカ方面軍司令官ボニファティウス 勝ったが戦死
435年 ヴァンダル族ガイセリックがヴァンダル王国を建国。都ヒッポ=レギウス
436年 西ゴート族がガリア南部のナルボネンシス包囲。
437年 アエティウスは、フン人の加勢で、ブルグンド王国を滅ぼした。
439年 ヴァンダル族ガイセリックがカルタゴ占領。カルタゴに遷都。
439年 アエティウス部下のリトリウスが西ゴート相手に、トゥールーズの戦い。講和によって西ゴート族はガリア南部進出を断念。
451年 カタラウヌムの戦い。フン族アッティラを撃退。
455年 ヴァンダル族ガイセリックがローマ掠奪。西ローマ帝国皇女との婚姻が破棄されたから。
アウィトゥス帝(455~456) 西方帝
ピアチェンツァの戦いで、リキメルに敗れ、将軍リキメルと将軍マヨリアヌスによって廃位。
マヨリアヌス帝(457~461) 西方帝
ガリアのブルグント族、ヒスパニアの西ゴート族を撃破。
461年 小麦供給を再開させるため、ヴァンダル王国へ遠征したが敗北。リキメルによって処刑。
リウィウス・セウェルス帝(461~465) 西方帝
リキメルの傀儡皇帝。西ゴート族にナルボンヌ割譲。軍司令長官アエギディウス率いるガロ・ローマ軍人が反乱を起こし、西ゴート軍に鎮圧を依頼。
463年 オルレアンの戦い
ガリア軍アエギディウス&フランク同盟キルデリクス 勝ち
vs 西ゴート族フレデリック(テオドリック2世の弟) 負け
アンテミウス帝(467~472) 西方帝
リキメルと東方帝レオ1世の交渉で東方副帝アンテミウスを西方帝に擁立。
468年 ヴァンダル王国遠征。東帝国軍バシリスコスと西帝国軍マルケッリーヌスがガイセリックに惨敗。
西ゴート王エウリックが475年までに、ガリアとスペインの大半を征服。
リキメルと不仲になり、ブルグント族グントバトがアンテミウスを処刑。
オリウリブス帝(472) 西方帝
リキメルが亡命元老院貴族オリブリウスを擁立したが、リキメルもオリブリウスも死去。
グリケリウス帝(473) 西方帝
グントバトが宮内伯グリケリウスを擁立したが、ブルグント王国に帰国。
ユリウス・ネポス帝(474~475) 西方帝
474年、東方帝レオ1世の意向を汲んで、ダルマティア軍司令長官マルケッリーヌスの甥ユリウス・ネポスがグリケリウス帝を無血で廃位。
475年、ガリア軍務長官オレステスによって廃位、ダルマティアに亡命して対立皇帝を称した。
ロムルス・アウグストゥルス帝(475~476) 西方帝
オレステスが息子を帝位につかせた。オレステス直属指揮官オドアケルが蜂起。
476年 将軍オドアケルがオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルス帝を廃位した。
387年 アウグスティヌスがミラノ司教アンブロシウスから洗礼を受けた。
390年代、ヒッポ・レギウス司教アウグスティヌス(396~430)はドナトゥス派と公開討論によってカトリックを暴力事件から保護したが、埒が明かないため、国家権力による宗教的強制を容認した。これはのちの異端審問や宗教戦争を正当化する根拠になる。没収、追放、礼拝の禁止。
アウグスティヌス 「教会は聖なる者と罪人の混合体であり、キリストの最後の審判で、毒麦と良い麦が分けられる。」
ドナトゥス派 「教会は聖なる者の集まりだ。」
411年 カルタゴ教会会議を皇帝代理人マルケリヌスが主催。ドナトゥス派の活動を全面的に禁止した。ドナトゥス派の聖職者を追放、教会財産を没収、集会すれば死刑とした。
429年 ヴァンダル人ガイセリックが来襲。アリウス派がカトリックを弾圧、ドナトゥス派への迫害が緩んだために、イスラム征服まで生き延びることになった。
*イベリア王国からグルジア王国へ
330年 イベリア王国(都ムツヘタ)ミリアン3世(284~361)がギリシャ正教を国教とした。ジワリ修道院建設。
482年 ヴァフタング1世(440~502)がササン朝ペルシアから独立。
522年 ダチ(522~534)がムツヘタからトビリシへ遷都。
その後、ササン朝ペルシア、ウマイヤ朝、アッバース朝の支配下に置かれた。
バグラティオニ家が9世紀初頭に台頭、アラブ支配下で大公が認められた。
1008年 バグラト3世(960~1014)がグルジア王国を建国。都クタイシ。ギオルギ8世(1798~1800)までバグラト朝が継続。
1089年 ダヴィト4世(1089~1125)即位。北カフカスのキプチャク人を移住させて親衛隊を組織し、軍制改革を行って、グルジアを強固な国家に改造した。
1096年 セルジューク朝への貢納を停止。
1121年 ディドゴリの戦い。ダヴィト4世がセルジューク朝からトビリシを奪還。
1122年 クタイシからトビリシに遷都。
1156年 ギオルギ3世(1156~1184)即位。セルジューク朝を破る。
1161~1162年 ギオルギ3世が、アルメニア侵攻して、アニとドヴィンを奪った。
1184年 タマル女王(1184~1213)即位。
1223年 ルスダン女王(1223~1245)即位。
1225~1226年 モンゴルに追われたホラズム王子ジャラールッディーンがグルジアに侵入、首都トビリシが占領・略奪された。
1236年 チョルマグン率いるモンゴル軍がグルジアに侵入、ルスダン女王はクタイシへ避難。
1245年 ダヴィト6世(1245~1293)がイメレティ王国で即位。
1247年 ダヴィト7世(1247~1270)がイベリア王国で即位。
1335年 ギオルギ5世(1299~1346)がイル汗国アブー・サイードから独立して、東西分裂したグルジア王国を統一。
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ゲルマンの執拗な侵略によって、防衛線(リメス)がライン川からドナウ川に後退を余儀なくされていた。それはそれで小康状態を生み、短いながら平和な時代を迎えていた。
ディオクレティアヌス帝は国家機構改革を試み、四分統治を決行。
ディオクレティアヌス帝
マクシミアヌス帝
コンスタンティウス・クロルス帝
283年 第一次四頭政治
東方正帝 ディオクレティアヌス (オリエント)
東方副帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)
西方正帝 マクシミアヌス (イタリア・北アフリカ)
西方副帝 コンスタンティウス・クロルス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
305年 第二次四頭政治 (ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の勇退)
東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)
東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)
西方正帝 コンスタンティウス・クロルス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
西方副帝 セヴェルス (イタリア・北アフリカ)
オリエントにはササン朝ペルシャの脅威があり、バルカンにはドナウ川に面したダキアにゲルマンの脅威があった。ペルシャ防衛が最大の課題であったので、キリスト教国のアルメニア王国との軍事同盟がとくに重要であった。
イタリア・北アフリカは、小麦・オリーブ油・果実といった食糧宝庫であり、砂漠化や砂漠の民の襲撃から緑化のための手入れと防衛を要した。ブリタニア・ガリア・ヒスパニアはシュヴァルツ・ヴァルト(黒い森Schwarzwald)から現れるサクソンからの防衛を要した。サクソンのせいで、ローマの皇帝はローマでのほほんと待機することはできず、いつでも攻撃準備ができるミラノに待機せざるを得なかった。首都ローマの地位は、ほかの首都並みに低下した。
296年 ササン朝ペルシャ侵略。最年少のガレリウスが活躍、ヴァレリアヌス帝の恥辱を見事に晴らし、和平条約を締結。シリアにストラータ・ディオクレティアーナと呼ばれる要塞を建設。
ガレリウス帝
25年間従軍すれば、ローマ市民権を獲得できた。しかし、
カラカラ帝勅令で、ローマ市民と属州民の差別が撤廃され、ローマ市民権は、頑張った子に与えられる「取得権」から、みんなが持てる「既得権」に変わっており、受ける恩恵が小さくなっていた。防衛線に住む異民族は風見鶏となり、ローマにもゲルマンにもつくようになった。
ガリエヌス帝勅令で、元老院議員は軍司令官に就任できなくなった。つまり軍のシビリアンコントロールの放棄。この時代、元老院議員になることはキャリアにとって障害になっていた。
ディオクレティアヌス帝は、豪勢な新首都建設のために、膨大に膨れ上がった官僚と軍隊を養うために増税を余儀なくされた。官僚とは、無用の長物の部署に無駄な人を派遣しつづけ、他の部署からの干渉を嫌い、自らの組織の肥大化を望むものである。所属外のインフラ整備には無関心である。身長150cm以上の男子に無試験で兵役が課せられた。
古代税制では、市民皆兵で兵役という血税が課せられた。
アウグストゥス税制では、市民税5%、属州税10%、関税1.5~5%、消費税1%、相続税5%、奴隷解放税5%。国家は税収の範囲内で政治を行う。属州は皇帝ではなく、元老院と市民の所有物であったが、エジプトは例外で、皇帝の私有地となった。ノブレス・オブリージュと呼ばれる社会への還元、つまりテルマエやコロッセウム建設を皇帝自ら行う資金源がここにあった。
カラカラ浴場収容人数 1600
ディオクレティアヌス浴場収容人数 3000
ディオクレティアヌス税制では、国家の必要経費が決められ、すべて納税者に地租税と人頭税を課する。とくに農村の税負担がきつく、都市への人口集中を生じた。すべての職業に世襲制を敷き、離農化を防いだ。コレジウム(職能別組合)を奨励し、ギルド制度を創始した。
デナリウス銀貨の銀含有率をアウグストゥスのときの100%に戻したが、インフレはおさまらず。
王冠(ディアデマ)は、最高神ユピテルが与え賜うたもの。ローマの神は頑張った子を助ける神であって、人に命ずる神ではなかった。皇帝が「市民の第一人者(プリンケプス)」である以上、王冠は忌み嫌われていた。
ディオクレティアヌス帝は、ローマ史上はじめて王冠を戴冠した。元首政が終わり、絶対君主政(ドミナートゥス)のはじまりである。ユピテル最高神に従わないキリスト教徒を大弾圧した。トラヤヌス帝のときは確たる証拠がなければ検挙できなかったが、この時代、キリスト教徒らしいという嫌疑だけで拷問にかけられた。
306~325年 六帝会戦
コンスタンティヌス・クロヌス急死。嫡男コンスタンティヌス(のちの大帝)は母親の身分が卑しく、ディオクレティアヌス帝の下でオリエント防衛の軍務に就いていた。皇帝直属軍5万をバックに正帝を僭称したが、ガレリウス帝との交渉で副帝に就任。
306年 第三次四頭政治
東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)
東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)
西方正帝 セヴェルス (イタリア・北アフリカ)
西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
コンスタンティヌス帝
ローマで、マクシミアヌス帝の嫡男マクセンティウスが、ローマ市民と元老院の承認を受け、皇位「プリンケプス・インウィクトゥス」を僭称。ガレリウス帝はこれを認めなかった。
マクセンティウス帝
307年 ガレリウス帝がセヴェルス帝にマクセンティウスを制圧に向かわせるが、息子をかばうマクシミアヌス帝の参戦で旧臣兵士が裏切り返り討ちにあい、セヴェルス帝は護送先のローマで自死を強いられる。マクセンティウスは皇帝を僭称し、マクシミアヌス帝が復位。
ガレリウス帝自らローマ進軍。セヴェルス帝に非協力だった都市を焼き払った。兵糧不足に陥り撤退。
東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)
東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)
西方正帝 マクシミアヌス (イタリア・北アフリカ)
西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
308年 首脳会談
ガレリウス帝主催で、ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝を招いた。マクシミアヌス帝を退位させ、ガレリウス帝の親友リキニウスを就任させた。
リキニウス帝
第四次四頭政治
東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)
東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)
西方正帝 リキニウス (イタリア・北アフリカ)
西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
310年 マクシミアヌス帝のクーデタが未遂に終わり、コンスタンティヌス帝によって自死を強いられた。
311年 ガレリウス帝病死し、四頭政治が終焉
東方正帝 リキニウス兼任 (バルカン・ギリシャ)
東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)
西方正帝 リキニウス (イタリア・北アフリカ)
西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
312年 ミルヴィウス橋の戦いで、コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝を敗死させる。市民を殺さなかったのでヴェローナ以外の抵抗はなし。ヴェローナ陥落でリキニウスとマクセンティウスによる挟撃の恐れが消えた。
東方正帝 リキニウス (バルカン・ギリシャ)
東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)
西方正帝 コンスタンティヌス (イタリア・北アフリカ・ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
313年 マクシミヌス・ダイア帝がディオクレティアヌス帝の娘・ガレリウス帝皇后ヴァレリアを追放し小アジア侵入したが、リキニウス帝により敗死。リキニウス帝、ヴァレリアを処刑。ディオクレティアヌス帝もギリシャにて死去。
東方正帝 リキニウス (バルカン・ギリシャ・オリエント)
西方正帝 コンスタンティヌス (イタリア・北アフリカ・ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)
313年 ミラノ勅令
リキニウス帝とコンスタンティヌス帝が合同で出した勅令。ローマ領内の信仰の自由が保障された。ローマの神々に対する敬意や崇拝の必要もまったく消え失せた。
315年 キバラエの戦いで、コンスタンティヌス帝(ライン川のガリア兵)がリキニウス帝(ドナウ川のバルカン兵)を破る。コンスタンティヌス帝の妹コンスタンティアの仲介で講和。リキニウス帝はオリエントのみ領有し、バルカン・ギリシャはコンスタンティヌス帝の領有となり、シルミウムを首都とした。
324年 ハドリアノポリスの戦い、ビザンティウム海戦で、コンスタンティヌス帝がリキニウス帝を破り翌年処刑。ビザンティウムを首都とした。
325年 ニケーア公会議にてアリウス派を異端、アタナシウス派を正統とした。
コンスタンティヌス大帝の政治
元老院が法を決定しても、皇帝が拒否できるようになった。
国境警備兵の農民パートタイム化。異民族によって国境は破られても、皇帝直属軍がのちに撃退するというやり方に変わり、帝国内市民の生命の保証はなくなった。
銀本位制から金本位制へ転換。純銀のデナリウス銀貨から純金のソリドゥス金貨へ。金貨で給料がもらえたのは官僚と軍人と軍需品生産者のみ。市民との経済格差は拡大の一途をたどった。
皇妃と嫡男を不義密通の罪で処刑。
皇帝資産をキリスト教会に寄付した。これは宗教の平等を説いたミラノ勅令に違反していた。聖職者の公務を免除し、異教の神々を拝んだり敬意を表しなくて済むようになった。聖職者は納税免除されたので、地方公務員が食べるためにこぞってキリスト教徒に改宗した。
新都コンスタンティノポリス建設。皇帝私有地エジプトの小麦はローマでなくコンスタンティノポリスに輸送されるように変わった。下層市民へ福祉政策として小麦の無料配布をおこなった。
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パルティア アルシャク王家
パルティア系大諸侯 以下の7つ。
スーレーン家、カーレーン家、ミフラーン家
イスパフベダーン家、カナーラガーン家、ズィーク家、ヴァラーズ家
アルダシール1世 226~240年
224年 ホルミズダガン会戦。高位神官アルダシールがアルシャク朝パルティア・アルタバノス4世を滅ぼした。
226年 クテシフォン占領し、エーラーン(イラン)帝国を建国。
240年 頑強に抵抗していた都市国家ハトラ攻略中に戦死。
シャープール1世 240~270年
243年 レセナ戦役。ローマ皇帝ゴルディアヌス3世に敗北。
244年 ミシケ戦役。ゴルディアヌス3世(238~244)敗死。
251年 クシャーナ朝を滅ぼす。首都プルシャプラ(現ペシャワール)陥落。
253年 バルバリッソス戦役。ピリップス帝(244~249)敗退。
260年 エデッサ戦役。ウァレリアヌス帝(253~260)捕虜。
267年、ローマ東方総督オデナトゥスがパルミラ王国を建国。ゼノビア女王が領土拡大し、パルミラ帝国に発展した。
272年、アウレリアヌス帝(270~275)が、インマエの戦い、エメサの戦いでゼノビア女王を撃破し、パルミラ帝国を滅ぼした。
ゾロアスター教を国教としたが、シャープール1世の弟を改宗させたマニ教を保護。ドラフム銀貨を鋳造。
サーサーン家はインド・アーリア語族だったので、カースト制度を布いた。4つの階級(ペーシャグ)。
1 神官(アスローナーン)
2 軍人貴族(アルテーシュターラーン)
3 農民(ワースタルヨーシャーン)
4 職人・商人(フトゥフシャーン)
5 女性家内奴隷(バンダグ)・戦争捕虜耕作奴隷(ワルダグ)
職人・商人はもっとも卑しいとされ、旧メセネ王国、旧エリュマイス王国、ローマ帝国の出身者や、ソグド人、ヒンドゥー教徒、仏教徒らが担当した。
バハラーム1世 273~276年
シャープール1世の息子オフルマズド1世(270~273)を殺害。
ゾロアスター教祭司長カルティールが、マニ教、キリスト教、ユダヤ教を迫害。偶像崇拝を禁止・破壊、火を祀る祭壇だけ設置許可。
マニを拷問・死刑。
バハラーム2世 276~293年
ササン朝ペルシア東西分裂。
クシャーノササン朝オフルマズドと内戦。
282年 カルス帝がメソポタミア侵攻、落雷死。ササン朝がメソポタミアを奪還。
286年 ディオクレティアヌス帝の援軍で、アルメニア王ティリダテス独立。
バハラーム3世 293年
貴族の大反対ですぐに譲位。
ナルセフ1世 293~302年
ゾロアスター教大神官キルデール、スーレーン家、カーレーン家、ヴァラーズ家の支援を受けて、アルメニア大王ナルセフが即位した。
296~298年、ローマ戦役
299年 ニシビスの和約。アルメニア王ティリダテスをいったんは放逐したが、ディオクレティアヌス帝率いる娘婿ガレリウス帝に敗北し、アルメニア王国を失地した。ティリダテスがアルメニア王に復位。
オフルマズド2世 302~309年
パルティア系大貴族が復権し、軍事指揮権を掌握した。
309年 アラブ系ガッサーン朝を滅ぼし、帰途殺害された。
シャープール2世 309~379年
スーレーン家、カーレーン家、ズィーク家の将軍が活躍。アルメニア王国を奪還した。
320年 チャンドラ=グプタがグプタ朝を建国。都パータリプトラ
337年、ゾロアスター教神官グシュナスプが、キリスト教徒迫害。
353~358年、フン族、さらにフン族に圧迫されて侵略してきたキダーラ、キオニテ、エフタルと戦い、和平同盟を結んだ。
337~363年 ローマ戦役。コンスタンティヌス帝死去を契機にニシビスの和約を破棄して、メソポタミア侵攻。
344年 シンガラ包囲戦
346年 ニシビス包囲戦
350年 フン族来襲。ササン朝と東ローマが一時停戦。シャープール2世は、キダーラ人(フン族)を傭兵とした。
359年 アミダ包囲戦で勝利。
360年 シンガラ包囲戦に勝利。
363年 クテシフォンの戦いで、ミフラーン家の将軍がユリアヌス帝(361~363)を敗死させた。
364年 ヨウィアヌス帝(363~364)がアルメニアを返還。
アルダシール2世 379~383年
貴族の反対で譲位。
シャープール3世 383~388年
カフカス山脈北方からフン族が来襲し、アルメニアで争っている場合ではなくなっていた。ローマは金貨供出、ペルシアは軍隊を供出した。
387年 アキリセネの和約。アルメニア王国をローマ帝国とのあいだで東西分割。西1/4がローマ領、東3/4がペルシア領。西アルメニア王国ではアルシャク3世が即位。東アルメニア王国ではホスロー4世が即位。
387年 アルチョン=フン族が北東部ソグディアナを奪取。
バハラーム4世 388~399年
395年 フン族が侵攻。
ヤズデギルド1世 399~420年
東ローマ帝国と関係修復。
ネストリウス派キリスト教(景教)を公認したが、拝火神殿を放火され激怒。スーレーン家のミフル・ナルセフが大宰相に着任。
バハラーム5世 420~438年
スーレーン家のミフル・ナルセフが大宰相として権限を振るった。
421~422年 東ローマ・ササン戦争
425年 エフタルがメルヴを奪取したが、のち奪還。
427年 アム川北方まで領土を拡大し、アムダリヤ川をエフタルとの国境に定めた。
428年 アルメニア併合
ヤズデギルド2世 438~457年
アルメニア遠征、エフタル迎撃、キダーラ迎撃に明け暮れた。
453年 エフタルに対抗するため、宮廷をニーシャープールに移した。
455年、北魏の文成帝に外交使節団を派遣。
オフルマズド3世 457~459年
スーレーン家が支援したが、弟ペーローズと内戦。
ペーローズ1世 459~484年
スーレーン家が失墜し、ミフラーン家が台頭。ミフラーン家とエフタルの軍事支援で即位。
474年以降、エフタル親征を3回おこなう。
481年、ゴルガーン会戦でエフタル王アクシュンワル(ホシュナヴァーズ)に敗北し捕虜になった。息子カワードを人質に供出した。
484年、バルフ近郊にて、エフタル迎撃で敗死。
バラーシュ 484~488年
ミフラーン家の傀儡君主。
485年 ザリルの反乱
カワード1世 488~496/498~531
ミフラーン家からカーレーン家に政権移動。大宰相にスフラーが着任。
493年、ミフラーン家のシャーブフルが軍事クーデタで大宰相に着任。親政開始と同時にカーレーン家のスフラーを処刑。マズダク教が勃興。マズダク教を利用して貴族をおさえようとした。
*マズダク教(史上初の共産主義)
不殺生・菜食主義・禁欲主義
私有財産の廃止・富の分配・男女平等・非暴力
496年 エフタルでの人質生活が長かったカワード1世がレヴィレート婚を導入。貴族がクーデタを起こし、カワード1世は廃位され、「忘却の城」に幽閉。妻の協力で脱獄し、エフタルに亡命。
498年、エフタル軍を率いてクテシフォンに進軍して再即位。カーレーン家のザルミフルが大宰相に着任。マズダク教保護によって、ゾロアスター教神官や貴族が弱体化。大胆な政治改革を断行した。
502~506年 アナスタシア戦争
ササン朝ペルシア カワード1世 勝ち
vs 東ローマ帝国 アナスタシウス1世 負け
ビザンツ帝国のアナスタシア帝に宣戦布告し、テオドシオポリス、アミーダを奪った。アミーダ返還の代償に、多額の賠償金を得た。
508年 エフタルを攻撃して、ホラーサーン再征服。
528年 改革が進んで不要になったマズダク教を皇太子ホスローに命じて弾圧。マズダクを処刑し、マズダク教を廃止した。
ホスロー1世 531~579年 「哲人王」
女性共有化のため平民の母に生まれた。カーレーン家のウズルグミフルが大宰相に着任。のちにミフラーン家のグシュナスプとファリーブルズが大宰相に着任。
皇太子時代からの中央集権化政策を継続・完成。
7大パルティア貴族がマズダク教流行で弱体化し、マズダク教の平等主義思想が定着し、農民や都市市民が力を増した。デフカーン(新興地主層)を優遇して、封建領主から徴税権を奪った。デフカーンを中心とした、騎兵から成る王直属の常備軍を設置。
529年、東ローマ帝国ユスティニアヌス帝がプラトン以来の伝統を誇るアテネのアカデメイアを閉鎖。多くの学者を帝国都市グンデー・シャープールに高等教育機関を設置して招聘。インドの科学・数学・医学を導入、ペルシャ人パウロがアリストテレス哲学の論理学書を翻訳、サルギスがギリシャ語医学文献をシリア語に翻訳した。
カナートの整備拡張による灌漑農地の拡大。隊商宿(キャラバン=サライ)の設置。道路・橋などを整備し、交通網を拡大した。
地代を現物徴収から銀貨徴収に変えた。カナートの水利権にも課税したため、大規模地主が没落した。毎年変動する収穫量に基づく税制を改め、銀貨で徴収する人頭税を導入して、農民以外にも課税対象を拡大した。イスラム国家のハラージュ(地租)とジズヤ(人頭税)はホスロー1世をまねただけ。急激な都市化を招き、織物工芸、ガラス工芸、金属工芸が発展したが、農業を衰退させてしまった。
大貴族指揮下の封建的軍隊を改め、地主層を基盤とする皇帝直属の常備軍を組織するため、東西南北の四軍管区制(チャハール・クースト)を導入し、中央から派遣された軍司令官に統治を委ねた。(のちイスラムに対し、鎮圧軍がバラバラに行動して負けた)
カフカス方面
メソポタミア方面
ペルシア方面
ホラサーン方面
エーラーン帝国海軍を再建し、インドとの海上貿易、東ローマ商人への海賊行為を奨励した。
聖職者に貧者救済の義務を課した。聖職者の貯金を奪った。大神官ウェフに命じてゾロアスター教の正統教義を確立した。口伝のゾロアスター教を成文化し、聖典「アヴェスタ」を編纂した。偶像崇拝を禁じ、炎だけを御神体として拝むように変更。神官団も四軍管区に分割したので、結果的にゾロアスター教はイスラム浸透後も長く生き延びた。
540年、東ゴート王国がササン朝に救援要請。アンティオキア陥落。住民をメソポタミアに強制移住。エデッサ包囲戦は苦戦。
553年、ビザンツ帝国軍がラヴェンナを陥落したため、西方同盟国だった東ゴート王国が滅亡。
562年、ビザンツ帝国とエーラーン帝国のあいだで、五十年平和条約を締結。ビザンツ帝国がエーラーン帝国へ毎年貢納金を支払った。
552年 突厥が柔然を滅ぼした。
557年 突厥の室点蜜と同盟。
560年 ブハラの戦いで、エフタルを撃破。
567年 突厥とササン朝の挟撃でエフタル滅亡。
567年 突厥が絹の交易許可を求める使者を送ってきたが、ホスロー1世が毒殺したために、突厥とササン朝が交戦。
568年 突厥がビザンツ帝国に使節を送り、対ササン朝同盟が成立。
570年、イエメンを支配していたエチオピア・アクスム王国軍を撃破。
575年 イエメン首都サヌアを奪還した。紅海を通る東ローマ・インド間の交易路を抑えた。
オフルマズド4世 579~590年
580年半ばからパルティア系大貴族(ミフラーン家、カーレーン家)を大粛清。各地の軍司令官も粛清した。ゾロアスター神官がキリスト教弾圧を進言したことを不服とし、多数の神官を処刑し財産を没収した。
582年 突厥東西分裂。
588年 ビザンツ帝国ティベリウス2世(578~582)配下の将軍マウリキウスと交戦。突厥が東部に侵攻、カフカス山脈北方でハザール王国が台頭し、国境を脅かした。将軍バフラーム=チョービーンに突厥・ハザール討伐を命じた。
590年 解雇に怒ったバフラーム=チョービーンの乱。オフルマズド4世は失明後、処刑された。
ホスロー2世 590~628年
バフラーム=チョービーンが首都クテシフォンに進軍、ホスロー2世軍を破った。ホスロー2世は、軍事クーデタでミフラーン家バフラーンに帝位簒奪され、ビザンツ帝国マウリキウス帝(582~602)に亡命。親族に、単性論派キリスト教徒に囲まれて育った。
591年、マウリキウス帝は将軍ナルセスを派遣し、チョービーン軍を平定した。ミフラーン家バフラーンは突厥に亡命したが暗殺された。この代償として、アルメニア西半分はビザンツ帝国の支配下に置かれた。ホスロー2世はキリスト教単性論派のシーリーンと結婚。ゾロアスター教が大いに衰退した。
イスパフベダーン家のヴィンドゥーヤを大宰相に任命したが、594年にヴィンドゥーヤを手足切断刑、十字架刑に処した。
594~600年、東方軍管区のヴィスターフム(イスパフベダーン家)の反乱。イスパフベダーン朝ペルシアの首都がテヘランに置かれた。600年に実妹ゴルディーヤがヴィスターフムを暗殺。ゴルディーヤはホスロー2世と結婚。
602年、アラブ人ベドウィンとの緩衝国家であったヒーラのラフム朝アル=ヌウマーン3世を滅ぼした。ラフム朝はネストリウス派キリスト教を信奉していた。つまり単性論派とネストリウス派の戦いでもあった。
602~628年、東ローマ・サーサーン戦争。ドナウ川軍団長フォカスがビザンツ帝国のマウリキウス帝を殺害し、フォカス帝(602~610)として即位。エデッサに籠城していた劣勢のナルセスがホスロー2世に援軍を要請した。恩人マウリキウス殺害への報復を大義名分にビザンツ帝国に侵攻。狙いはビザンツ帝国金貨の獲得。戦費拡大のためエーラーン帝国銀貨の鋳造量が激増、インフレを招いた。
604年 ヒエラポリス会戦でナルセス戦死。
608年 ホスロー2世は、コンスタンティノープル対岸のカルケドンまで侵攻。
608~610年、ビザンツ帝国カルタゴ総督のヘラクレイオスがコンスタンティノープルを陥落させ、フォカスを殺害、ヘラクレイオス帝(610~641)として即位。
614年 ホスロー2世が、ダマスクスとエルサレム陥落。「真の十字架」を奪った。
615年 ピーラグ・シャフルヴァラーズ将軍はコンスタンティノープル包囲。ヘラクレイオスはクテシフォンに迫った。ササン朝ペルシャとビザンツ帝国が敵の都をお互いに包囲して敵の喉元に剣を突き付ける互角の情勢になった。
619年 アレクサンドリア攻略。
621年 エジプト全土を制圧。
622年 ロードス島を制圧。エーゲ海へも進出し、陸と海からと両方からコンスタンティノープルを包囲。
ビザンツ帝国は、ドナウ川を越えて南下してくるアヴァール人、スラブ人と対処しなければならず、ササン朝との二正面作戦を強いられていた。
620年前半、チグリス川大氾濫。耕地の湿地化が進み、メソポタミアの農業がいまだにダメになっている。
622年以降 ビザンツ帝国が反攻に転じ、626年にはササン朝ペルシアのコンスタンティノープル包囲を解き、小アジアからササン朝を駆逐した。
625年、チュールキヤ朝(543~755)の第4代パラケーシン2世(609~642)がホスロー2世に使節派遣。
627年 ニネヴェの戦い
ササン朝ペルシア ホスロー2世 負け
vs ビザンツ帝国 ヘラクレイオス帝 勝ち
628年、ホスロー2世がカワード2世に幽閉・射殺された。
カワード2世 628年
628年、平民宰相ペーローズ・ホスローを任命して、ビザンツ皇帝ヘラクレイオス帝と停戦。「真の十字架」をヘラクレイオス帝に返還。ペスト大流行でカワード2世が急逝。
アルダシール3世 628~630年
630年、オスパフベダーン家の宰相マーフ・アードゥル・グシュナスプを任命。
630年、シャフルヴァラーズ・ミフラーン将軍がクーデタ。アルダフシール3世とマーフ・アードゥル・グシュナスプ宰相を殺害。帝位を簒奪した。宰相ペーローズ・ホスローを任命。
630年、ファッロフザード・オフルマズド・イスパフベダーン将軍がシャフルヴァラーズ・ミフラーン帝を1か月で殺害。
ポーラーン・ドゥフト女帝 630~632年
630年、アラビソス和議締結。エーラーン帝国が全占領地と聖十字架をビザンツ帝国に返還するという敗北宣言だった。
630年、シャープール・シャフルヴァラーズ・ミフラーンが帝位を簒奪し、シャープール5世として即位するも、すぐに宰相ペーローズ・ホスローによって暗殺された。
630年、アードゥルミーグ・ドゥフト女帝が即位するも、631年、失明されて処刑された。
631年、ポーラーン・ドゥフト女帝が返り咲くも、632年、宰相ペーローズ・ホスローによって絞殺された。
ヤズデギルド3世 632~651年
出自不明、おそらく血統断絶の皇帝。4年間のあいだ、イスパフベダーン家が掌握していた北方方面軍以外の方面軍がすべて解体していたエーラーン帝国に外敵が侵入していなかったことが奇跡だった。ハザール族だけがコーカサス山脈を越えて侵入してきたが、アゼルバイジャン駐屯中の北方方面軍が健在だったために撃退できた。
アラブ人イスラム教徒軍
初代正統カリフ アブーバクル
将軍 ハーリド・イブン・アル・ワリード
イエメン地方の歴史
サバア王国 BC8世紀末~AD275
ミネア王国 BC700~BC3世紀
ハドラマウト王国 BC5世紀半~AD1世紀末
カタバーン王国 BC400~BC50
アラビア半島~インドの海上貿易は、AD1世紀までアラブ人が担当していたが、プトレマイオス朝を支配したローマが競合し、ついにアラブ人から海上貿易を奪い取った。
ヒムヤル王国 BC115~AD525(広義にはAD575)
AD300年ころ、ハドラマウト王国に次いで、シャンマル王がサバア王国を併合。エチオピアのアクスム王国を宗主国と仰いだ。
ヒムヤル王国 ユダヤ教を信奉。
アクスム王国 キリスト教単性論(コプト派)を信奉。
AD385~420年、アブ・カリブ・アスアド王が中央アラビア遠征。
AD523年 ナジュラーン迫害。ユダヤ教徒がキリスト教徒を迫害した。ビザンツ帝国はアクスム王国を支援し、アクスム王国がヒムヤル王国を撃破。
AD550年 アクスム王国軍のアブラハがヒムヤル王国を乗っ取り、アブラハ王となった。ヒジャーズ地方まで征服し、全盛期を迎えた。その死後、内紛。
王の末裔サイフがヒムヤル内紛制圧のため、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世に援助を求めたがユダヤ教徒ゆえ拒絶され、ササン朝ペルシャのホスロー1世に援助を得たが、AD575年、サトラップ(総督)が設置され王位が廃されヒムヤル王国は完全に滅亡。ササン朝ペルシャが支配した。
キンダ王国 AD480~6世紀 ハドラマウト地方にいたキンダ族が中央アラビアに移住して建国。
AD500ころ、アル・ハーリス王のとき全盛。ビザンツ帝国領を侵略した。
ラフム朝ムンディル3世に敗北し、その後の内紛で自滅した。
ヒジャーズ地方の歴史
ガッサーン朝(ジャフナ朝) ガッサーン族が建国。
4世紀にシリアへ移住して、原住民のサーリフ族を支配。
529年 アル・ハーリスがラフム朝ムンディル3世を撃破。ビザンツ皇帝ユスティニアヌスは、アル・ハーリスをマリク(シリアの全アラブ部族の支配者)に任命した。
554年 アル・ハーリスがラフム朝ムンディル3世を敗死させた。
563年 アル・ハーリスがコンスタンティノープルのユスティニアヌス帝に謁見。エデッサ単性論教会司教ヤコブに感銘して、以後、キリスト教単性論を信奉。
580年 子アル・ムンディルがコンスタンティノープルのティベリウス2世に謁見。アル・ムンディルは、ラフム朝の都アル・ヒーラを焼き払った。
613~614年 ササン朝ペルシャのホスロー2世に敗北。
636年 ヤムルークの戦い。ジャバラ・イブン・アイハム王がビザンツ帝国軍とともに戦い、アラブ軍に敗北。のちにイスラムに改宗した。
北アラビア・シリアの歴史
AD266~602 ラフム朝 タヌーフ族が建国。ササン朝ペルシャと親交を保つためにキリスト教に改宗しなかった。
AD505~554 ムンディル3世のとき全盛。キンダ王国アル・ハーリスを撃破。ガッサーン朝アル・ハーリスによって敗死。
AD580~602 最後の王ヌーマーン3世が、キリスト教ネストリウス派に改宗。ササン朝ペルシャによって退位させられた。
AD602~611 ササン朝ペルシャ総督下で、タイイ族の傀儡王イヤース・イブン・カビーサが支配した。
クライシュ族のムハンマドは、ヒジャーズ・シリア・イエメンがササン朝ペルシャ総督に支配されているという生活環境で育った。
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皇帝属州 皇帝が総督を任命する。高い統治能力が要求された。軍団をたくさん付けて国境に配備され、とくに高給取りの精兵から成る機動軍が駐留した都市には、商品や作物が高く売れるので、運輸交通網も未発達だったこともあり、酒保商人や武器鍛冶職人や小麦・ブドウ畑農民といった生産者たち自らがイタリア本国から移住した。
東ローマ機動軍の駐屯地:皇帝麾下軍はコンスタンティノープル、オリエンス方面軍はアンティオキア、イリュリクム方面軍はシルミウム、トラキア方面軍はマルキアノポリス(現デヴニャ)。
西ローマ機動軍の駐屯地:皇帝麾下軍はメディオラヌム(現ミラノ)、ラヴェンナ、ティキヌム(現パヴィア)。ガリア方面軍はアウグスタ・トレウェロルム(現トリアー)。
元老院属州 軍事ド素人の元老院が総督を任命する。統治能力は低くても、元老院の言うことを聞く人間が重宝された。外敵侵入なく内陸部の比較的安全と思われた土地(イタリア・シチリア・カルタゴ・ヌミディア・マケドニア・ギリシア・アシア・ポントス)に配備された。当然、ゲルマン異民族はローマ軍が手薄だった元老院属州を侵攻した。
*ガロ・ローマ人 カエサルがガリア征討して以来、ガリア人とローマ人の混血が進んだ。
北ガリア フランク族が支配。サリ族とリブアリ族の二つあり、サリ族はライン川中流に住み、リブアリ族は(オランダ)マース川下流に住んだ。サリ族は「サリカ法典」、リブアリ族は「リブアリア法典」を持っていた。ともにラテン語で書かれた法典。
南ガリア ガロ・ローマ人から成る新興貴族(ガリア・セナトール貴族)が、小作農(コロヌス)や奴隷をかかえて、荘園(ラティフンディウム)を経営した。
358年 ユリアヌス帝がサリ族にトクサンドリアを提供。
411年 ホノリウス帝がブルグンド族にライン川左岸を提供。
418年 ホノリウス帝が西ゴート族にアクイタニアを提供。
425年 アエティウスがフン族にパンノニア提供。
442年 アエティウスがアラン族にアルモリカ(現ブルターニュ)を提供。
447年 東ローマ皇帝テオドシウス2世がフン族にドナウ川南岸・トラキアを提供。
451年 カタラウヌムの戦い。フン族と蜜月関係でいっぱい助けてもらったアエティウスと、フン族族長アッティラが決裂。西ゴート族とアラン族の加勢で、アエティウスが勝った。
452年 アッティラは、メディオラヌム(ミラノ)やアクイレイアに侵攻したが、ローマ教皇レオ1世の説得、糧秣不足、疫病のため撤退した。
454年 元老院議員マクシムスの讒言と宦官侍従長ヘラクリウスと共謀で、ウァレンティニアヌス3世がアエティウスを殺害。人気将軍の息子に帝位を奪われることを危惧したため。
455年 マクシムスがスキタイ族と共謀でウァレンティニアヌス3世を殺害、マクシムス帝即位。
455年 ヴァンダル族ガイセリックがローマ劫掠。マクシムス帝殺害。
456年 西ゴート国王テオドリック2世が、ガロ・ローマ人のガリア軍司令官アウィトゥスを帝位につかせた。アウィトゥス帝(455~456)は、アエティウス軍司令官の後継者として、西ゴート族レミィストゥスを任命、ガロ・ローマ人のリキメルを軍司令長官に任命。レミィストゥスがリキメルに敗死し、アウィトゥス帝廃位、翌年殺害。
457年 リキメルがマヨリアヌス帝(457~461)を擁立。
461年 リキメルがセウェルス帝(461~465)を擁立。
467年 東ローマ皇帝レオ1世が、アンテミウス帝(467~472)を擁立。リキメルに加え、マルケリヌスを軍司令官に任命した。
468年、海賊行為を繰り返すヴァンダル王国ガイセリックに対し、東ローマ皇帝レオ1世と西ローマ皇帝アンテミウスによって東西最後の共闘がおこなわれた。ガイセリックはシチリア島、サルディニア島、コルシカ島を奪取した。
東ローマ帝国海軍 バジリスコス ボン岬海戦で火の計に敗走
西ローマ帝国海軍 マルケリヌス シチリア島で敗死
東ローマ帝国陸軍 ヘラクリウス ボン岬海戦をみて撤退
470年、アンテミウス帝、ヒスパニアからガリアに領土拡大した西ゴート族エウリックに敗戦。
472年、リキメルがアンテミウス帝を廃してオリブリウス帝を据える。ローマ内戦によりアンテミウス敗死、リキメル病死、オリブリウス暗殺。
475年、西ローマ傀儡皇帝ネポスに私怨があるオレステスが息子ロムルスを新皇帝に推薦しローマ元老院が承認した。
476年、西ローマ軍将軍オドアケルが待遇改善を求め、オレステルを殺害、ロムルスを廃位しナポリで幽閉。静寂のうちに西ローマ帝国は滅亡した。東ローマ帝国ゼノ帝は、オドアケルにパトリキウス(貴族)なら承認すると言ってきたが拒否。自らイタリア王を名乗った。オドアケルはラヴェンナに住み、ローマ法をすえて、アタナシウス派キリスト教会とラティフンディウムを温存活用し、元老院階級に銅貨鋳造権を与え減税したので、好評を博した。
489-493年、東ゴート族テオドリックが東ローマ帝国との同盟をバックに、オドアケルに戦勝しラヴェンナで講和締結直後にオドアケルを謀殺。東ゴート王国を建国。
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中世ヨーロッパ史の学習は、イタリア・ロタリンギア・ビザンツ史に始まり、イタリア・ロタリンギア・ビザンツ史に終わる。カール大帝は、美味しいイタリアとロタリンギアは可愛い長男にあげて、ひとつに統治しようとしたが、か弱くてすぐに滅んだのが真ん中の国だった。それにスイス・アルプスが邪魔してお気軽に南北往来できなかった。だから大きく三つに分けて俯瞰してみたい。
北のロタリンギア
南のイタリア 東のビザンツ(水源ギリシャ)
ギリシャ・ローマの高度文明を誇った三か国を、未開の地をもらった弟二人がゆすりたかるというイメージが大切。イスラムは、穏健派支配のときは生真面目に高度文明をパクったが、厳格派支配になると高度文明をドブへ捨てた。
325年 ニケーア公会議。コンスタンティヌス帝が開催。アタナシウス派を正統、アリウス派を異端とした。
392年 テオドシウス帝(379~395)がキリスト教を国教化。古代オリンピックを廃止。
415年 アレクサンドリア女性図書館長ヒュパティアがキュリロスに牡蛎の貝殻で皮膚を削られ、惨殺された。円錐曲線の研究の大家で、地動説の惑星楕円軌道を発見していた。
アンティオキア学派ネストリオス コンスタンティノープル総主教
vs アレクサンドリア学派キュリロス アレクサンドリア総主教
テオドシウス2世(408~450) 東方帝
ウァレンティアヌス3世(425~455) 西方帝
431年 エフェソス公会議。テオドシウス2世が主催。ネストリウス派を異端とし、景教として東方へ逃れた。
437年 テオドシウス2世の娘とウァレンティアヌス3世がコンスタンティノープルで結婚式。「テオドシウス法典」を発布。
438年 コンスタンティノープル総主教クリュソストモスの遺体送迎式典
439年 ヴァンダル族がカルタゴ陥落。
444年 フン族アッティラがコンスタンティノープル包囲。ビザンツ皇帝テオドシウス2世が敗北して講和。
449年 第二回エフェソス教会会議。息を吹き返したネストリウス派を弾劾した。アレクサンドリア司教ディオスコロスがアンティオキア学派のキュロス司教テオドレトスを弾劾。
テオドシウス2世は、三重の大城壁(テオドシウス城壁)を構築して、海上からは絶えることのない補給を受けることで、コンスタンティノープルが難攻不落になった。元老院議員が拡大していった結果、元老院議員家系の二世・三世が政界に進出することも増えていき、都市参事会員の大規模なコンスタンティノープルへの流入は少なくなった。彼らはローマ元老院議員には負けるが、貴族と呼べるようなエリート層を形成していった。ほかの多くの元老院議員たちは地方で暮らし、その土地で高い社会的声望を持った。
マルキアヌス帝(450~457) 東方帝
ゲルマン人軍事長官アスパルが、トラキア出身の部下マルキアヌスを皇帝に推戴。
451年 カルケドン公会議。ローマ教皇レオ1世が開催。三位一体説を正統、単性論を異端とした。アンティオキア学派を支持して、アレクサンドリア司教ディオスコロスを弾劾。正統を定義するカルケドン信条を採択した。コンスタンティノープル教会がローマ教会に次ぐ第二のローマ教会であることが再確認された。それが周囲の教会の大きな反発を生んだ。
レオ1世(457~474) 東方帝
ゲルマン人軍事長官アスパルが、コンスタンティノープル元老院から皇帝指名を受けたが辞退。トラキア出身の部下レオを皇帝に推戴。コンスタンティノープル総主教によって戴冠されたはじめてのローマ皇帝。
ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(527~565)のとき、アヴァールが北カフカスに出現。ビザンツは、彼らに毎年貢納を払う条件で手なずけようとしたが、アヴァールはランゴバルト人と同盟して、さらに黒海北岸の草原を西進して、ダキアとトランシルヴァニア、ランゴバルト人なきパンノニア(ハンガリー)を征服。
ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世(565~578)のとき、貢納を拒否したかどで、アヴァールのバヤン汗が侵攻し、574年、貢納を再開。
スラヴ人はアヴァールとともにビザンツ領内に侵入。アヴァールの支配が終わってからも、スラヴ人はバルカンを南下してペロポネソス半島に達し、さらにエーゲ海の島々に渡り、クレタ島まで入り込んだ。200年ほどかけて、次第にギリシャ人に同化していった。
これに対して、パンノニア(ハンガリー)からバルカン西部に移動してきたのが、南スラヴのスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人。7世紀前半、ビザンツがアヴァールのダルマチア支配に対抗するために、クロアチア人とセルビア人を招き入れた。クロアチア人は西方カトリック文化圏に組み込まれ、セルビア人は東方ギリシャ正教文化圏に置かれた。スロヴェニア人は、クロアチア人のさらに西側に居住し、スラヴ最初の国家サモの国の一部となり、8世紀にはフランク王国の支配下に組み込まれ、10世紀には神聖ローマ帝国の統治下にはいった。
7世紀半ば、パンノニアとダルマチアに南北二分されていたクロアチア人。東西教会の対立の間隙を付いて独立を獲得していくことになる。フランク王国はパンノニアからダルマチア北部を支配。ビザンツ帝国は都市ザダルを中心にダルマチアを弱く支配した。良港ドゥラスを拠点としていたに過ぎなかった。クロアチア公ブラニミルは、ビザンツに対抗すべくローマ教皇に接近、スプリト司教座を先頭にダルマチア教会を西方カトリック教会に帰属させた。
924年 ニン族長(ジュパン)のトミスラヴがフランクやハンガリーを破りダルマチア統一。
925年 トミスラヴがクロアチア王に即位。都ビオグラード。
1102年 ハンガリー王カールマーンがクロアチア王を兼任。ハンガリー王国とクロアチア王国は同君連合になった。
7世紀初めにセルビア人がバルカンに移住。ジュパン(族長)率いる諸部族が内紛していた。9世紀末頃からセルビア人がキリスト教化。11世紀、ゼータ公ヴォイスラヴがビザンツ軍を打破して、息子ミハイロがラシュカを統合。
1168年 ネマーニャ(1166~1196)がセルビア王国を建国。都スコピエ
1217年 ステファン(1196~1228)がローマ教皇ホノリウス3世から戴冠され、「初代戴冠王」と称された。
1330年 ヴェルブジュドの戦い
セルビア王国ウロシュ3世デチャンスキ 勝ち
vs 第二ブルガリア帝国ミハイル3世 負け
1331年 ウロシュ4世ドゥシャン(1331~1355)のとき全盛期。銀、鉄、鉛の鉱業を中心に発展。ハンガリー経由でザクセン人鉱夫を受け入れた。1345年までにセルビア・テッサロニケを除くマケドニア・アルバニア・ギリシャ中部までを支配。1346年、セルビア皇帝に戴冠された。1349年、ビザンツ法とセルビア慣習法を融合して「ドゥシャン法典」を制定した。
1371年 マリツァ河畔の戦い
セルビア帝国ウロシュ5世・プリレブ僭主ヴガシン・セラエ僭主ウグリェシャ 大敗
vs オスマン帝国宰相ララ・シャヒーン 寡兵ながら夜襲をかけて大勝
1381年 コソボの戦い
セルビア公国ラザル 負け
vs オスマン帝国ムラト1世 勝ち
セルビア騎士ミロシュ・オビリッチがムラト1世を刺殺。
セルビア公国はオスマン帝国の支配下に入った。
10世紀、マケドニア司祭ボゴミルがブルガリアやボスニアで布教。ボスニアはボゴミル派が主流になった。
1180年 ボスニア人首長(バン)のクリンがボスニア王国を建国。
14世紀、コトロマニッチがフム(のちのヘルツェゴヴィナ)を併合。
1377年 セルビア公国ネマニッチ朝断絶のため、トヴルトコがセルビア・ボスニア王の称号を名乗った。
7世紀前半にアヴァールの支配を脱したブルガール人は黒海北岸に大ブルガリアを建国。ヴォルガ川下流域からハザール王国が進出し、大ブルガリアを滅ぼした。ブルガリア人の残党がドナウ川を南下しビザンツ軍と戦争。681年 アスパルフ汗が第一ブルガリア帝国(681~1018)を建国。ビザンツ皇帝コンスタンティノス4世は、毎年の貢納金支払いを約束してアスパルフと和平。ブルガール人は貴族政治と圧倒的な軍事力で大多数を占めるスラヴ人を支配した。言語的・文化的にブルガール人はスラヴ化していき、864年にボリス1世(852~889)がギリシャ正教に改宗。870年にギリシャ正教会はブルガリア教会の自治を認め、ブルガリア大主教座が設立された。9世紀はじめに建国された大モラヴィア国で、テッサロニケ出身のキュリロスとメトディオスによるキリスト教布教が失敗し、ボリス1世が大モラヴィア国を追放された、キュリロスの弟子クリメントとナウムを招聘した。
その死後、反キリスト反乱がおこったが鎮圧され、コンスタンティノープルで学んだシメオン1世(893~927)はプリスカからプレスラフに遷都。ギリシャ語をやめ、スラヴ語を公用語とした。ビザンツ帝国を破り、エーゲ海やアドリア海まで進出。913年にはブルガリア皇帝の称号を自称し、全盛期を迎えた。
894~896年 ビザンツ・ブルガリア戦争
ビザンツ国内で売られるブルガリア商品に対する税の引き上げをきっかけにして始まった。
ビザンツ帝国レオン6世 マジャールが同盟 負け
vs ブルガリア王国シメオン1世 ペチェネグが同盟 勝ち
落ちぶれたハザール傭兵はビザンツ側に付いたため、捕虜は全員鼻を削がれてコンスタンティノープルに送られた。
927年、ブルガリア帝国ペタル1世(927~967)は、ビザンツから正式に皇帝の称号が認められ、ブルガリア大主教座を総主教座に昇格した。
ササン朝ペルシア・ホスロー2世、ビザンツ皇帝マウリキウス帝と仲良し、親友を殺した帝位簒奪者フォカスだけは許さねえ
軍事クーデタでミフラーン家に帝位簒奪され、ビザンツ帝国マウリキウス帝(582~602)に亡命。親族に、単性論派キリスト教徒に囲まれて育った。
591年、マウリキウス帝は将軍ナルセスを派遣し、チョービーン軍を平定した。この代償として、アルメニア王国はビザンツ帝国の支配下に置かれた。
イスパフベダーン家のヴィンドゥーヤを大宰相に任命したが、594年にヴィンドゥーヤを手足切断刑、十字架刑に処した。
594~600年、東方軍管区のヴィスターフム(イスパフベダーン家)の反乱。イスパフベダーン朝ペルシアの首都がテヘランに置かれた。
602年、アラブ人ベドウィンとの緩衝国家であったヒーラのラフム朝を滅ぼした。ラフム朝はネストリウス派キリスト教を信奉していた。
602~628年、東ローマ・サーサーン戦争。ドナウ川軍団長フォカスがビザンツ帝国のマウリキウス帝を殺害。エデッサに籠城していた劣勢のナルセスがホスロー2世に援軍を要請した。狙いはビザンツ帝国金貨の獲得。戦費拡大のためエーラーン帝国銀貨の鋳造量が激増、インフレを招いた。
604年、ヒエラポリス会戦でナルセス戦死。
608~610年、ビザンツ帝国カルタゴ総督のヘラクレイオスがフォカス殺害。
ピーラグ・シャフルヴァラーズ将軍はコンスタンティノープル包囲。ヘラクレイオスはクテシフォンに迫った。ササン朝ペルシャとビザンツ帝国が敵の都をお互いに包囲して敵の喉元に剣を突き付ける互角の情勢になった。
620年前半、チグリス川大氾濫。このときの影響でメソポタミアの農業がいまだにダメになっている。
628年、ホスロー2世がカワード2世に幽閉・射殺された。
ヘラクレイオス帝(610~641)ヘラクレイオス朝
アルメニア人の皇帝。公用語をラテン語からギリシア語に変更した。
613年 ササン朝ペルシャのホスロー2世(590~628)がシリアのダマスカス・アンティオキア占領。
614年 ホスロー2世がエルサレム占領。「聖なる十字架」を奪い、大多数を占めていたカルケドン派の住民を虐殺した。
618年 ヘラクレイオス帝(610~641)がアヴァールと和平条約。
624年 ヘラクレイオス帝がササン朝ペルシャのホスロー2世征討を開始。ペルシャ諸都市を次々と占領・破壊した。
626年 アヴァールが和平条約を破棄し、ササン朝ペルシャ・アヴァール連合軍がコンスタンティノープル包囲。ウァレンスの水道橋が破壊された。ヘラクレイオス帝は、ハザール王国と同盟して、ササン朝ペルシャを挟撃した。
627年 ヘラクレイオス帝が旧都ニネヴェを陥落させた。首都クテシフォンが危機に陥った。
628年 ホスロー2世が長男シロイによって殺害。シロイはヘラクレイオス帝と和平を結び、シリア・パレスチナ・エジプトからペルシャ軍が撤退。ビザンツ帝国占領下にはいったアレクサンドリアやアンティオキアで反乱。大多数を占めていた単性論派と和解。
633年 アレクサンドリア教会会議で、単性論を正統としたが、ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教の猛反対でご破算。
634年 カビタの戦いで、ビザンツ軍がアラブ軍に勝利。
636年 ヤムルーク河畔の戦いで、ビザンツ軍がアラブ軍に大敗。
636年 カーディシーヤの戦いで、ササン朝ペルシャのヤズデギルド3世がアラブ軍に敗北。
638年 エルサレム、アンティオキア、エデッサ、ダラスがアラブ軍によって占領。
640年 ヘリオポリスの戦い。エジプト総督キュロスがアラブ軍に敗北。
642年 エジプトがアラブ軍によって占領。
642年 ニハーヴァントの戦いで、ササン朝ペルシャのヤズデギルド3世がアラブ軍に大敗。
647年 アフリカで皇帝を僭称したグレゴリオスが、チュニジア中南部のスフェトゥラでアラブ軍に敗死。
650年 ムアーウィア率いるアラブ海軍がカルケドン占領。*カルケドンはコンスタンティノープルの対岸。
660年代 トリポニタニアでアラブ海軍創設。陸と海の双方からアフリカ攻略を本格化した。
669年 ウマイヤ朝ムアーウィアがカルケドン占領。
674~678年 ウマイヤ海軍がコンスタンティノープル包囲。ビザンツ皇帝コンスタンティノス4世(668~685)が「ギリシャの火」をはじめて用いて、ウマイヤ海軍を撃退。「ギリシャの火」はシリア人キリスト教徒カリニコスが発明した。
681年 アスパルフ汗が第一ブルガリア帝国(681~1018)を建国。コンスタンティノス4世は、毎年の貢納金支払いを約束してアスパルフと和平。
コンスタンス2世(641~668)、コンスタンティノス4世(668~685)のとき、テマ制(軍管区制)が成立した。
コンスタンス2世は、シチリア島に宮廷を移し、西部支配の再編を目指したが暗殺された。
ビザンツ帝国は多くの領土を失った結果、こじんまりとまとまって防衛しやすくなった。東はタクロス山脈、西はキリキア門をはじめとする峠、北は平坦な道なれど、冬がとても厳しく一年のうち数か月は雪で道が塞がれて退路を断たれることになる。防衛軍を国境に配置するのではなく、国内に撤退させて小アジア全体に分散する戦略だった。同時に周辺の地域から税を徴収するという古い行政制度が廃止、あるいはなし崩し的に機能停止となった。小アジアは、テマ(軍管区)と呼ばれる7つの新しい行政区画に分割された。各テマにおいては、かつての総督府のように、行政権と軍事権が統合された。各テマは固有の軍団を持ち、軍の司令官はテマの行政長官でもあった。テマ長官(ストラテーゴス)は軍を率いて戦うとともに、租税の徴収や司法にも責任を持った。ただし、ユスティニアヌス帝以降、税収入が激減していたので、兵士の給養や装備のために新たな方法、つまり兵士は給料の代わりに土地を給付され、土地からの収入で装備を整え、軍馬を用意することになった。給与が支払われるのは従軍期間だけで、平時には兵士とその家族は農業で生計を立てていた。テマ長官はコンスタンティノープルからの命令を待たずに、アラブ軍の攻撃に対応できる裁量権が認められた。土地自体は国家の所有であり、譲渡されたり失われたわけではなかった。
豊かな古代都市は消え、城砦(カストロン)のある丘の周囲に旧来の都市より小さな集落が生まれ、アラブ軍が近づくと住民は丘の城塞に逃げ込んだ。ユスティニアノス2世(685~695/705~711)は、アラブ人が占領しそうな小アジア東部の国境都市ゲルマニケイアから、トラキアへ移住させ、スラヴ人のコンスタンティノープルへの接近を防いだ。トラキアのスラヴ人を遠征し、多くの捕虜を小アジアへ連行してテマに定住させて、アラブ軍の防衛にあたらせた。
ウマイヤ朝カリフのアブド・アルマリク(685~705)は、692年にメッカの反乱を鎮圧し、イスラム国家をウマイヤ朝のもとで再統一。そのあとアルメニアとアナトリアに侵攻、ビザンツ帝国との戦いを再開した。ビザンツ軍のスラヴ人部隊がウマイヤ軍に寝返り大敗をきたした。タルソス、メリテネをウマイヤ軍が占領してからは、遠征期間が終わっても、山越えせずに撤収できる拠点を持つことになった。
698年、ウマイヤ軍がカルタゴ占領。海上ではビザンツ軍が優位だったものの、ウマイヤ軍は内陸部の制圧を進めていった。マウレタニアのセプテムのみ、709年までビザンツ領として残ったが、それも陥落した。
ユスティニアノス2世(685~695/705~711)
686年 アルメニアからジョージア方面に将軍レオンティオスを派遣し、多大な徴税金を獲得。
687~688年 テッサロニケに進軍し、多くのスラヴ人を捕虜にして、小アジア側のオプシキオンに強制移住させた。
691~692年 ウマイヤ朝に参戦。スラヴ軍がウマイヤ側に寝返り敗北。アルメニアがウマイヤ朝宗主権下に置かれた。皇帝は報復措置として残りのスラヴ人を虐殺。
693年 トゥルロ公会議。キリストを人間の姿で描くように決定。コンスタンティノープル総主教座とローマ教皇は対等であると決定。
695年 レオンティオスがクーデタで帝位簒奪。ユスティニアノス2世は、鼻と舌を削がれてケルソンに流刑、ハザール王国、第一ブルガリア帝国へと亡命。
698年 ティベリオス3世がレオンティオスを退位させた。ウマイヤ朝がカルタゴを征服。
702年 ユスティニアノス2世がハザール王国ブシル可汗(690~730)の支援で、追放先のケルソン(クリミア半島)から脱出。
705年 ブシル可汗の追っ手を逃れ、ブルガール王国テルヴェル汗(700~721)の援軍を得て、ティベリオス3世を撃退し復位。
706年 レオンティオス・ティベリオス3世親子を復讐で処刑。
711年 ケルソン市民の支持を受けたフィリッピコス・バルダネス(711~713)がユスティニアノス2世を殺害。ヘラクレイオス朝が断絶した。
711年 ウマイヤ軍が北アフリカのセプトゥムを陥落させ、ジブラルタル海峡を越え、イベリア半島に進出した。
713年 テマ・オプシキオンの支持を得たアナスタシオス2世(713~715)がフィリッピコス・バルダネスを廃位させ即位。
715年 テマ・オプシキオンがロードス島で反乱を起こし、テマ・オプシキオンの支持を得たテオドシウス3世(715~717)がアナスタシオス2世を廃位。ブルガール王国と和平締結。
717年 ゲルマニケイア出身のレオン3世が、テマ・アルメニアコン長官アルタヴァスドスの支持を受け、テオドシウス3世を廃位・出家。
レオン3世(717~741)イサウリア朝
717~718年 ウマイヤ陸海軍(マスラマ司令官)がコンスタンティノープル包囲。ビザンツ皇帝レオン3世(717~741)が聖像破壊に目覚めた。ブルガリア人に多額の金を払って同盟締結、ウマイヤ陸軍を挟撃した。新カリフ・ウマル2世からマスラマに撤退命令。
719年 アナスタシオス2世が反乱し、処刑。
733年には息子コンスタンティノスをハザール汗の妹と結婚させ、ハザール王国との同盟を強化した。テマを分割して、レオン3世自身のような帝位簒奪者が出現しないように防いだ。
*聖像崇拝論争
726年 ビザンツ皇帝レオン3世(717~741) 聖像禁止令
754年 ヒエレイア教会会議 聖像崇拝を罰したが、聖像破壊までは定めなかった。
ビザンツ皇帝コンスタンティノス5世(741~775)
787年 第二ニカイア教会会議 聖像崇拝を復活した。
ビザンツ摂政エイレネ(のち皇帝797~802)
ビザンツ皇帝コンスタンティノス6世(780~797)
843年 コンスタンティノープル公会議 聖像崇拝を公認
ビザンツ摂政テオドラ
ビザンツ皇帝ミカエル3世(842~867)
聖像 イコン
聖像破壊 イコノクラスム :聖像破壊者 イコノクラスト
聖像崇拝 イコノデュリア :聖像崇拝者 イコノファイル
726年秋、テラ島(いまのサントリーニ島)の火山爆発。偶像崇拝に対する神の怒りの表明とレオン3世は解釈した。
726~727年 ウマイヤ朝カリフのヒシャームが、カイサレイアを占領、ニカイアを攻撃し多くの戦利品を持って撤退した。ビザンツ軍は、戦利品を持ってメリテネやタルソスに撤退するウマイヤ軍を追跡し、いくらかの宝物を奪回するという作戦に変更した。
740年 アクロインの戦い
ビザンツ帝国レオン3世・息子コンスタンティノス 勝ち
vs ウマイヤ朝 負け
741年 レオン3世死去。コンスタンティノス5世即位。
743年 アルタヴァスドスの簒奪を食い止めた。
コンスタンティノス5世(741~775)は、740年の大地震で倒壊した城壁・教会・修道院・彫像を修復し、ウァレンス水道橋を修復した。747年の伝染病で減少した人口を回復させるため、ギリシャの島々から住民を強制移住させた。東のアルメニア人やシリア人をトラキアへ、西のスラヴ人を小アジアへ強制移住させた。756年、ブルガリア人がコンスタンティノープル付近まで侵略、略奪、放火。763年、復讐のため黒海沿岸にビザンツ海軍を進めて、トラキアのブルガリア軍を殲滅した。
コンスタンティノス5世は、中央軍団(タグマタ)を創設した。中央軍団は常備軍であり、コンスタンティノープル周辺に駐屯し、皇帝の直接指揮下に置かれた小規模の精鋭部隊で、反乱を起こしたテマ軍団に対して鎮圧させた。
コンスタンティノス5世は、聖像破壊者であり「コプロニュモス(糞)」と呼ばれた。修道士、とくに聖人を徹底的に迫害した。コーラ修道院は下宿屋にされた。聖像崇拝のローマ教皇はヒエレイア教会会議に欠席し、聖像崇拝者をローマに受け入れた。コンスタンティノス5世は、報復として、南イタリアの教会管轄権を剥奪して教皇の重要な財源を奪った。
751年 ラヴェンナ総督府が陥落。
775年 レオン4世(775~780)即位。聖像破壊に寛容だった。
780年 コンスタンティノス6世(780~797)が幼帝だったため、ハザール出身のエイレネが摂政。
781年 アッバース朝ハルン・アル・ラシードがビザンツ侵攻したが、スタウラキオスが撃退。
797年 ビザンツ女帝エイレネは、息子コンスタンティノス6世の両目を摘眼し幽閉・刑死。フランク王国カール大帝との縁談が持ち上がったが実現することはなかった。802年、ニケファロス1世の反乱に会い、レスボス島流刑、最後は残酷な刑死。
ニケフォロス1世(802~811)ニケフォロス朝
806年 クラソスの戦い
ビザンツ帝国ニケフォロス1世(802~811) 負け
vs アッバース朝ハルン・アル・ラシード 勝ち
811年 バルビツィア峠の戦い
ビザンツ帝国ニケフォロス1世(802~811) 敗死
vs 第一ブルガリア帝国クルム汗(803~814) 勝ち
813年 ベルシニキアの戦い
ビザンツ帝国ミカエル1世(811~813) 負け
vs 第一ブルガリア帝国クルム汗(803~814) 勝ち
816年 ビザンツ帝国レオン5世(813~820)と第一ブルガリア帝国オルムタグ汗(814~831)が和平。
863年 ポソンの戦い
ビザンツ帝国ミカエル3世(842~867) 勝ち
vs メリテネのアッバース朝アミールだったウマル・アル=アクタ 負け
小アジアへのアッバース軍侵入が少なくなり、税収が増大し交易も復活した。コンスタンティノープルは東西交易の中心地として活況を呈し、ビザンツ皇帝はすべての輸出輸入品に10%の関税をかけた。
バシレイオス1世(867~886)マケドニア朝
連水陸路
ノルマン人は、河川を利用する交通路を求めて南下していった。ノルマン人の関心はもっぱら通商にあった。通商相手は、ビザンツ商人とイスラム商人だった。ビザンツ商人とはコンスタンティノープルで、イスラム商人とはハザール王国およびアッバース帝国で取引を行った。コンスタンティノープルの通貨は、ソリドゥス(ノミスマ)金貨とミリアレシオン銀貨。ハザール王国とアッバース帝国の通貨は、ディナール金貨とディルハム銀貨。
878年 アグラブ朝(800~909)がシチリア島侵略によりシラクサ陥落。
885年 ニケファロス・フォカスを派軍して南イタリアを再征服。
レオン6世(886~912)は「賢者」と呼ばれ、内政を重んじた。
894~896年 ビザンツ・ブルガリア戦争
ビザンツ国内で売られるブルガリア商品に対する税の引き上げをきっかけにして始まった。
ビザンツ帝国レオン6世 マジャールが同盟 負け
vs ブルガリア王国シメオン1世 ペチェネグが同盟 勝ち
落ちぶれたハザール傭兵はビザンツ側に付いたため、捕虜は全員鼻を削がれてコンスタンティノープルに送られた。
9世紀にアッバース朝の力が衰えると、マルディン総督ハムダーンが独立して、ハムダーン朝(890~1004)を建国。
シーア派分派、十二イマーム派のブワイフがブワイフ朝(932~1062)を建国。962年にバクダード占領。国庫破綻していたため、土地税を徴収する権利を軍人に授与するイクター制を創始した。北のハムダーン朝と南のブワイフ朝が争った。
904年 ハムダーン朝の海軍がテサロニケを襲撃して、住民を奴隷としてクレタ島へ連行した。
909年 シーア派ファーティマ朝(909~1171)が、北アフリカのスンナ派アグラブ朝(800~909)を滅ぼした。
907~911年 ヴァリャーグ(ヴァイキング)のキエフ公オレーグがコンスタンティノープル包囲、ビザンツ帝国レオン6世(886~912)と和平。ロシアの関税免除。
917年 ブルガリア皇帝シメオン1世(893~927)が、ビザンツ帝国コンスタンティノス7世(913~959)をアンキアロスで打ち破った。
919年 ヨハネス・クルクアスは、アルメニア農民から海軍提督にのし上がったロマノス1世レカペノスのクーデタを支援した恩賞として、スコライ軍団司令長官に着任した。テマ軍団はアラブ軍の小アジアへの侵入を受け流すために組織されたもので、敵地へと戦線を広げるためのものではなかった。テマ軍団の兵士は兼業農民であり、関心は常に地元での生活に向けられていた。これに対してコンスタンティノス5世が創設した中央軍団の兵士たちは、土地を与えられるのではなく国庫から給料が支払われた。経済好転と税収増大によって中央軍団に徴募される兵士の数が増えていき、ロシア人を兵士として登録することで増強された。中央軍団を東方国境地域へと移したものがスコライ軍団だった。
934年 クルクアスがメリテネ占領。
943年 クルクアスがエデッサ占領。聖顔布を獲得してファロスの聖マリア礼拝堂に納められた。
944年 キエフ公イーゴリが、ビザンツ帝国ロマノス1世レカペノス(920~944)に敗北。関税免除が破棄された。ロマノス1世レカペノスは、クルクアスをスコライ軍団司令長官から解任した。
ビザンツ帝国は傭兵を多用した。
対ブルガリア戦にはセルビア人、クロアチア人、ハンガリー人、ペチェネグ人
対ルーシ戦にはハザール人、ペチェネグ人
コンスタンティノス7世(913~959)がクーデタを鎮圧し再び政権掌握。「帝国統治論」「儀典の書」を著した。スコライ軍団司令長官ニケフォロス・フォカスがハムダーン朝に対して戦果を挙げた。
ロマノス2世(959~963)の治世下で、961年にスコライ軍団司令長官ニケフォロス・フォカスがクレタ島をイスラムから奪還。
ニケフォロス2世フォカス(963~969)は、965年にキプロス島とタルソスをイスラムから奪還。969年にアンティオキアをイスラムから奪還。ここで皇后テオファノによって暗殺された。
971年 アルカディオポリスの戦い
ビザンツ帝国ヨハネス1世ツィミスケス(969~976) 勝ち
vs キエフ大公スヴャトスラフ1世(945~972) 負け
975年 ヨハネス1世ツィミスケスがダマスクス、ベイルート、トリポリ占領。
*キエフ大公スヴャトスラフ1世が966年にハザール王国を滅ぼした後、967年と971年に第一ブルガリア帝国を大遠征。これによって第一ブルガリア帝国は急速に弱体化していった。「ブルガリア人殺し」と呼ばれたバシレイオス2世のお膳立て役を果たしていたのだ!
バシレイオス2世(976~1025)ブルガリア人殺し(ブルガロクトノス)
976~989年 将軍バルダス・スクレロスと将軍バルダス・フォカスの大反乱。キエフ大公ウラジーミル1世(978~1015)の援軍でやっと鎮圧できた。988年、ウラジーミル1世はギリシャ正教を国教とした。以後、ロシア人が頻繁にコンスタンティノープルを訪れるようになったが、商人として来るだけではなく、傭兵としてビザンツ軍に加わり、「ヴァリャーグ」と呼ばれた。
貧困に陥って租税を払えなくなった者たちの租税負担を近隣の有力者たちに肩代わりさせた。これを「アレレンギオン制度」と呼ぶ。
992年 良好な関係だったヴェネツィア人に対し金印勅書を発給。南イタリア・シチリア管理に海軍協力したヴェネツィアへ商業特権を付与した。
996年 土地立法制定。922年以降に不法に取得された土地は、無償で元の持ち主に戻されるべし。
1001年 バシレイオス2世は、アンティオキアを占領し、ファーティマ朝カリフのハーキム(996~1021)と和平。
*ハーキムは、カイロに「知恵の館(ダール・アル=イルム)を創設。厳格なイスマーイール主義を実践し、異教徒を徹底的に迫害した。飲酒を禁じ、ワインをナイル川に捨て、ブドウ園を破壊し、さらに舟遊びを禁じ、女性の入浴を禁じた。1009年にエルサレム占領すると、聖墳墓教会を破壊した。その死後、ハーキムが救世主(マフディー)として再臨すると説いたドゥルーズ派がシリアに逃亡。ハーキム以後、カリフが弱体化し、宰相(アミール)が政治を司った。
1004年 アレレンギオン制度変更。これまで個人の滞納分はその者が属する村落共同体の構成員が補填するものとされていたが、今後はその地域の有力者によって償われることになった。大土地所有者に経済的打撃を与え、皇帝がより確実な税収を取得するのが目的だった!
1014年 クレディオンの戦い
ビザンツ帝国バシレイオス2世 圧勝
vs 第一ブルガリア帝国サムエル(997~1014) 大敗
1018年 第一ブルガリア帝国滅亡。ドナウ川でペチェネグ人と国境を接することとなり、1027年から1040年代にかけてペチェネグ人がビザンツ帝国を何度も襲撃した。
1021年 アルメニア遠征。
セルビア、クロアチア、アルメニア、コーカサス地方のイベリアがビザンツ帝国領に組み込まれた。バシレイオス2世は、満杯の国庫と拡大した国境と憤懣やるかたない属州貴族を残して死去した。
コンスタンティノス8世(1025~1028)は老齢で独身娘3人しかいなかった。長女エウドキア、次女ゾエ、三女テオドラ。宦官オルファノトロフォスが後継者問題を取り仕切った。
遠縁のロマノス3世アルギュロス(1028~1034)が即位。バシレイオス2世1004年法(納税連帯責任法)を撤廃した。浴場で溺死。
ゾエの愛人、ロマノス4世(1034~1041)が即位。癲癇の持病に悩まされた。
ゾエの養子、ロマノス5世(1041~1042)が即位。義母ゾエ排除に失敗。
ゾエとテオドラが女帝として共同統治した。
1040年 ダンダナカンの戦い
セルジューク朝 勝ち vs ガズナ朝 負け
1026年からノルマン人ヴァイキングが南イタリアを占領。1036年からペチェネグ人、1040年代からセルジューク・トルコ人が国境各地を襲撃しまくった。
コンスタンティノス9世モノマコス(1042~1055)
1042年 ゲオルギオス・マニアケスの反乱
1043年 キエフ・ルーシ海軍がコンスタンティノープル近郊で略奪。
1045年 キエフ大公ヤロスラフ1世(1019~1054)と和平。
1046年 ペチェネグ人がドナウ川渡河、2万人移住を容認。
1047年 レオン・トルニキオスの反乱
1053年 ペチェネグ人と三十年和平協定を結んだ。
ギリシャ式:教会ミサに使用するパン(キリストの肉)に酵母(パン種)を入れる
ローマ式:教会ミサに使用するパン(キリストの肉)に酵母(パン種)を入れない
1054年 東西教会分裂(大シスマ)
コンスタンティノープル総大主教 ミカエル1世ケルラリオス
ローマ教皇 レオ9世
1055~1056年 コンスタンティヌス9世死去でマケドニア朝断絶。テオドラ復位。
1056~1057年 ミカエル6世即位。
ヨーロッパ北方でヴァイキングが侵攻・略奪。地中海でイスラム海賊が侵攻・略奪。1026年から西ヨーロッパから東方への聖地巡礼が活発化した。
イサキオス1世コムネノス(1057~1059)
将軍カタカロン・ケカウメノスが擁立し、総主教ミカエル・ケルラリオスの支持を得て、無血で帝位を簒奪した。枯渇した国庫を充実させるため、役人や元老院の給与削減など緊縮増税、修道院の土地所有を制限し、皇帝に返された。ハンガリー人と和平、ペチェネグ人を撃退した。
コンスタンティノス10世ドゥーカス(1059~1067)
緊縮増税をやめ役人や元老院の給与を戻し、首都重視で、属州駐屯軍の経費を削減した。そのため、セルジューク朝が東方国境に侵入を繰り返し始めた。西方のバルカンに、ペチェネグ人、ウゼ人が来襲。イタリアではノルマン人が侵略。
1064年 セルジューク朝アルプ・アルスランがビザンツ帝国領アルメニアの拠点アニを陥落させた。
ロマノス4世ディオゲネス(1068~1071)
新兵募集と外人傭兵によって小アジアに親征したが敗北。
1069年 セルジューク朝がイコニオン(現コンヤ)を奪取。
1071年 マンツィケルトの戦い
ビザンツ帝国ロマノス4世 負けて捕囚になり帰国後に摘眼刑
vs セルジューク朝アルプ・アルスラン 勝ち
1071年 ノルマン人ロベール・ギスカールがイタリア最後の拠点バーリを陥落。
ミカエル7世ドゥーカス(1071~1078)
宦官ニケフォリツェスが極端な緊縮財政。将兵の給与支払い遅滞や将軍への報酬欠如が属州の反乱を招いた。アルメニア人将軍フィラレトス・ブラカミオスが独立。
1073年 ノルマン人傭兵隊長ルーセル・ド・バイユールの反乱。ケルト人傭兵を率いた叔父・副帝ヨハネス・ドゥーカスと、アナトリコイ将軍ニケファロス・ボタネイアテスが征討に向ったが、ヨハネス・ドゥーカスが敗北、捕囚。ルーセル軍はヨハネス・ドゥーカスを皇帝に擁立。ミカエル7世が支援要請したセルジューク軍がルーセル軍、ヨハネス・ドゥーカスを破り捕囚。
1074年 ロベール・ギスカールと同盟。
1077年 デュラキオン将軍ニケファロス・ブリュエンニオスの反乱。首都進撃に敗戦。ライデストスに籠城。
1077年 将軍ニケファロス・ボタネイアテスの反乱。
1078年 反乱軍がセルジューク朝王族スレイマンと同盟し、反皇帝派が聖ソフィア大聖堂に集結し、監獄囚人を武装させ皇帝退位を迫った。
ニケファロス3世ボタネイアテス(1078~1081)
ロベール・ギスカールがバルカン侵入を目論み、セルジューク朝がニケーア陥落。
将軍アレクシオス・コムネノスが帝国側の小アジア部隊・ノルマン人傭兵。ニケーア駐留のトルコ兵を率いて、ペチェネグ人傭兵を率いたニケファロス・ブリュエンニオスを破り、摘眼刑。
アルメニア人のデュラキオン将軍ニケファロス・バシラキオスがワリャーグ人傭兵、ノルマン人傭兵、ブルガリア人、アルバニア人、ペチェネグ人を取り込んで、テッサロニケで反乱。アレクシオス軍によって鎮圧され、バシラキオスは摘眼刑。
1081年 将軍ニケファロス・メリセノスの反乱。同盟者のトルコ軍に小アジアの都市統治を委任。首都に迫った。副帝位とテッサロニケ支配を条件に講和。
アレクシオス1世(1081~1118)コムネノス朝
長女アンナ・コムネナ「アレクシオス1世伝」
長男ヨハネス2世
次男イサキオス
1081年 アレクシオス・コムネノスは、兄イサキオス、副帝ヨハネス・ドゥーカスを味方につけ、入城を図ったがうまくいかず。守備隊だったドイツ人部隊を懐柔して開門させ、首都に突入、ボタネイアテス帝が退位。
1081年 ボエモンド軍がコルフ島と対岸のブトリント占領。ロベール・ギスカール軍がデュラキオン包囲。アレクシオス1世はニケーアのロマ・セルジューク朝と講和したあと、ワリャーグ人親衛隊、トルコ人、セルビア人を率いて応戦したが敗北。デュラキオンがノルマン軍によって陥落。
1082年 ボエモンドがヨアニナ攻略に失敗。ボエモンドはラリッサを攻略するも失敗。ノルマン人が得た領土はデュラキオンとコルフ島のみだった。
1084年 ボエモンドが、アブロナ占領、ブトリント占領。
*アレクシオス1世の黄金印璽文書
1082年 ヴェネツィア共和国 に発給
1111年 ピサ共和国 に発給
*マヌエル1世の黄金印璽文書
1155年 ジェノヴァ共和国 に発給
アレクシオス1世は、帝国全土での免税特権を条件にヴェネツィア艦隊の支援を得て、ノルマン軍の背後を襲った。
1085年 ロベール・ギスカールが疫病で病死。アレクシオス1世は、デュラキオンを奪回した。
1086年 将軍グレゴリオス・パクリアノスがペチェネグ人との戦いで戦死。
1087年 キプチャク・テュルク族クマン人侵入に皇帝自ら親征、クマン人を撃退した。
1090~1091年 レブニオンの戦いで、ペチェネグ人に奪取されたフィリッポポリスを奪回した。フランドル伯ロベール1世からの傭兵が活躍した。ペチェネグ国家滅亡。
ビザンツ帝国アレクシオス1世&クマン人&フランドル傭兵 勝ち
vs ペチェネグ人 負けて滅亡した
1092年 通貨改革。ソリドゥス(ノミスマ)金貨を悪鋳したヒュペルピュロン金貨に統一した。イタリアなど西欧では、ベザント金貨と呼ばれた。
1094年 ダルマチアにセルビア人が侵入し、皇帝自ら親征。
1095年 ピアチェンツァ公会議。教皇ウルバヌス2世に軍事支援を要請。
1095年 クレルモン公会議。教皇ウルバヌス2世が、聖職売買禁止、司祭妻帯厳禁を定めた。十字軍参加に免罪を与えた。
十字軍に皇帝や国王が含まれていなかったのは、フランス王フィリップ1世は離婚問題で破門中、ドイツ皇帝ハインリヒ4世は反教皇姿勢を続け、イギリス王ウィリアム2世もウルバヌス2世と対立していたから。
爵位改革。カイサル(副帝)だけだった爵位以外に、多くの爵位を新設した。つまり皇族が一気に増え、政敵を味方に巻き込んだのだ!
アレクシオス1世は、一生涯の年金が付随する爵位を乱発したため、爵位年金の支払いが十分できなくなった。高級爵位の保有者に特定の土地を、その行政権や徴税権とともに授与するプロノイア制を布いた。下賜された土地のことをプロノイアと呼ぶ。通常、爵位を有する者は皇帝に付き従って従軍したから、プロノイアの授与は皇帝への軍事奉仕と抱き合わせの形となった。
1107年 アンティオキア公ボエモンドがデュラキオン包囲。
1108年 ディアボリス協定。ボエモンドがアレクシオス1世に臣従を誓い、アンティオキアを封土として下賜された。
1111年 ピサ商人の関税が4%に減額された。
バルカン半島では、異端のボゴミール派が流行した。
相次ぐ海外遠征で農業ができず貧困化した農民が土地を抵当にいれ、地方貴族に借金し再び小作化し、地方貴族は皇帝の出兵命令に従わず、国家の軍事力が目だって弱くなった。また金貨悪鋳、国債乱発(=官僚の身分売却)によって国家財政は傾いていた。1081年アレクシオス1世はプロノイア制を敷き、農民を多数抱える地方貴族の自治権を認める代わりに兵役を課した。またヴェネツィア海軍を得る代わりに、ヴェネツィア商人に対し帝国内商業活動を免税した。デフォルト(=債務放棄)によって、債権として売られていた旧官僚を廃止した。
1074年教皇グレゴリウス7世がビザンツ帝国をイスラムから救援し、あわよくば東西教会の統一をにらんだ十字軍を計画。元来戦争は罪深いものだが、神のための戦争なら罪はないという聖戦を発想したのがこのグレゴリウス7世であった。1077年十字軍派遣の依頼先であった神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と聖職者叙任権問題で決裂し破門。カノッサの屈辱でハインリヒ4世の破門を解いた。1078年ミカエル7世がニケフォロス3世に帝位を奪われ、ローマに亡命し教皇に援軍を求めた。1081年ニケフォロス3世がアレクシオス1世に帝位を奪われ、ビザンツ帝国とミカエル7世亡命軍とのあいだに戦争が勃発。1084年アレクシオス1世はハインリヒ4世に応援を求め勝利。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世を罷免し傀儡教皇クレメンス3世を擁立してカノッサの屈辱の恨みを晴らした。カノッサの屈辱はイタリア領土拡大を狙った神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の猿芝居だったという説もある。1086年憤死したグレゴリウス7世のあとを継いでビクトル3世が教皇となり、ローマのクレメンス3世と教皇が2人並立した。ビクトル3世が早死にしたので、1088年ウルバン2世が教皇となる。1093年教皇ウルバン2世はビザンツ皇帝アレクシオス1世を神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世から寝返らせることに成功し、ローマを奪回し教皇クレメンス3世をローマから追放した。1095年アレクシオス1世からのたっての願いとローマ教皇として返り咲きのお礼の意味を込めて、教皇ウルバン2世がクレルモン公会議でビザンツ帝国への十字軍派遣を決議し、諸国を遊説した。第1回十字軍の目標は、セルジュークトルコからのビザンツ帝国防衛増強であって、エルサレム奪回もついでにできたらいいなくらいであった。このとき贖宥を約束した。つまり罪を犯せば神から罰を受けなければならないのだが、十字軍に従軍すれば罰を許してもらえると宣伝したのだ。新興宗教の教祖様が民衆十字軍を起こし導いて、ユダヤ人を虐殺しながらドイツ国内を行進し、最後はハンガリー王の鎮圧でおさまった。ヴェネツィア商人は十字軍の輸送船で巨万の富を築いた。1099年エジプト・マムルーク朝を破り、エルサレム王国建国。1100年フランスから20万人入植者がエルサレムに向かったが、アラブ人ゲリラに虐殺。巡礼者を平等に看護するため、1113年聖ヨハネ騎士団(=病院)が創設され、教皇パスカリス2世より非課税が保障された。大人気で西欧とエルサレムで多額の贈与を受けた。巡礼者を護衛するため、1118年テンプル騎士団が創設された。これも大人気で西欧とエルサレムで多額の贈与を受けた。1128年教皇から正規の騎士修道会として公認され、メンバーが9人→300人→15000人と激増し、軍事だけでなく巡礼者の金庫番も果たし、富を築いた。1139年教皇インノセント2世より非課税が保障され、財産はどう使おうと干渉を受けることはなかった。1154年聖ヨハネ騎士団会員から、1163年テンプル騎士団会員から各々司祭を輩出した。司祭とはカトリック教高僧のことで、ミサ(儀式)でパンとブドウ酒を掲げ、祝詞を唱えた瞬間にキリストの体と血に聖別し(=変化させ)、パンを信者の口に与え(小さなかけらもキリストの体であるから信者はパンに触れてはいけないとされる)、罪の告白・懺悔に対し赦しを与える(=告解)のが務め。教皇の叙任によって司祭を正会員から出すということは、秘密結社の色がより濃くなることを意味する。また「カノッサの屈辱」とか「アナーニ事件」は、国王の方が偉いか、それとも教皇の方が偉いかという二者択一の闘争であった。
ところがである。1303年聖職者に課税したアナーニ事件で教皇ボニフェイス8世を幽閉した、カペー朝・フランス王フィリップ4世は、1307年テンプル騎士を逮捕。1312年フィリップ4世の傀儡教皇クレメンス5世は、テンプル騎士団を異端として処刑解散し、財産を没収した。フランス人やイタリア人がメンバーに多いためドイツ嫌いで、敵のイスラムと通商していた、実利主義的なテンプル騎士団が、神の栄光のために戦うという非実利主義的な聖ヨハネ騎士団と足並みを揃えなかったことが十字軍の敗因だという世論が強まったことがこの事件の背景にあった。フィリップ4世の男児はみな早死にし、カペー朝は滅び、摂政ヴァロア伯に王権が遷された。フランス国王とローマ教皇を恨み呪ったテンプル騎士団がフリーメイソンとして存続したと言われるが、にわかに信じがたい。国王の正規軍が次々と敗北し、全軍や家族や信者が絶望の淵に立たされたときも、最後まで希望を失わず励ましあい勇敢に戦った、不器用で一途なテンプル騎士団とどうしても結びつかない。テンプル騎士団は正統な信仰を貫いていたと思う。フリーメイソンは彼らとは異質のもので、理性の神を崇拝し、世界中の革命を指導し、自然科学研究を牽引し(=原子爆弾、遺伝子工学、クローン再生)、全世界のグローバル化(=債務奴隷化)を狡猾に推進している。
史上最強の大教皇インノセント3世が1202年第4回十字軍を派遣。ヴェネツィア商人は、亡命してきた皇太子アレクシオスの傀儡政権を作りたくて十字軍を動かした。十字軍の資金はアレクシオスが出すという約束で、エルサレム奪回よりトルコ人との商売を優先し、ギリシャ正教を国教とするビザンツ帝国を攻撃した。ビザンツ市民たちはクーデターを起こしアレクシオスを殺害。コンスタンティノス・ラスカリスを皇帝として選出した。そのかいなく翌日、十字軍によってビザンツ帝国は滅亡。十字軍に参加していたフランスの一諸侯にすぎないフランドル伯(現ベルギー)ボードゥアンが、選挙によって皇帝に選出され、1204年インノセント3世支配下のラテン帝国を打ち立てた。政局は不安定で、ブルガリア人がボードゥアンを討ち、その弟アンリが周辺国に亡命したギリシャ人と同盟を結んでブルガリア人を討ちリベンジ。コンスタンティノス・ラスカリスの弟、テオドロス・ラスカリスが1204年ニケーア帝国建国。1222年テサロニケ、マケドニアを奪取。ニケーア皇帝ミカエル・パライオロゴスが、ジェノヴァ商人の援助で1261年ラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国が復興した。この裏にヴェネツィアvsジェノヴァの商戦があった。
ヨハネス2世(1118~1143)
アレクシオス1世の長女アンナ・コムネナと長男ヨハネスが後継者争い。アンナの夫ニケファロス・ブリュエンニオスを皇位に擁立する陰謀が敗北して、アンナは修道院幽閉。
1122年 クマン人と戦闘。
1123~1124年 ヤッファ沖海戦
ヴェネツィア海軍 勝ち vs ファーティマ海軍 負け
1127年 ハンガリー人、セルビア人と戦闘。
1136年 キリキア・アルメニア王国を臣従させた。
1137年 アンティオキア公レーモン・ド・ポワチエを臣従させた。
マヌエル1世(1143~1180)
ラテン人が好き、イスラムにも好意的。
ビザンツ人「ラテン人は、粗暴で教養がない。」
ラテン人「ビザンツ人は、文弱だ。」
ペルシャ馬や金貨2,3枚を支払えば、無審査で一般庶民が軍隊へ加入でき、隷属農民が耕作する一定面積の農地が支給された。プロノイア下賜を拡大したため、誰もが軍人になりたがった。
小アジア属州を失い、バルカン属州を得た「コムネノス一門」貴族たちは、首都コンスタンティノープルの豪華な館で快適な都市生活を送った。
軍制改革。西欧騎士の騎馬突撃戦法を大々的に導入した。
先陣 トルコ人とクマン人の弓騎兵
中核 ビザンツ人とドイツ人の重騎兵
後詰め イタリア人傭兵と槍と盾で武装したセルビア人
1147年 エデッサ伯国陥落を奪回すべく第二回十字軍。ダマスカス奪回に失敗して帰還。
ドイツ王コンラート3世
フランス王ルイ7世
帝国領内を通行中の第二回十字軍を監視・警戒している隙に乗じて、ノルマン艦隊がコルフ島占領。テーベとコリントスを劫略。
1148年 テッサロニケ条約。ドイツ王コンラート3世にノルマン領イタリアを与えることを約した。
1149年 ヴェネツィア艦隊の援助を得て、コルフ島を奪回。
1154年 シチリア・ノルマン王ルッジェーロ2世死去。
1155年 ロリテッロ伯ルッジェーロ(ルッジェーロ2世の甥)と同盟し、バーリ占領。神聖ローマ帝国フリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭)とどっちが上か問題で不仲になった教皇ハドリアヌス4世(1154~1159)もマヌエル1世を支持。
1156年 ブリンディジの戦い
シチリア王国グリエルモ1世 大勝
vs ビザンツ帝国マヌエル1世 大敗
1158年 教皇ハドリアヌス4世はノルマン・シチリア王を支持、神聖ローマ帝国フリードリヒ1世バルバロッサを共通の敵とするビザンツ・ノルマン軍事同盟が成立。
1158年 キリキア・シリア親征。キリキア・アルメニア君侯トロス2世と、アンティオキア侯ルノーに臣下の礼をとらせ、エルサレム国王ボードゥアン3世と同盟。
1162年 ルーム・セルジューク朝クルチ・アルスラーン2世(1156~1192)が来訪。
*ルーム・セルジューク朝 都ニケーア(1077~1097)⇒コンヤ(1097~1211)⇒スィヴァス(1211~1220)⇒コンヤ(1220~1308)
*ザンギー朝 都アレッポ
*ダニシュメンド朝 都スィヴァス
*グルジア王国 都クタイシ(1008~1122)⇒トビリシ(1122~1490)
アンカラ太守シャーハンシャー、ダニシュメンド朝ヤギ・バサン、ザンギー朝ヌール・アッディーンに包囲されたため、救援を求めて来訪。
1162年 コンスタンティノープルのジェノヴァ人居留地をピサ人が強襲。皇帝は、ピサ人居留地を、ユダヤ人居留地のペラ地区に移し、ジェノヴァ人居留地の再建は認めなかった。ピサとジェノヴァが戦闘状態に入ったため、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサが、ピサ艦隊とジェノヴァ艦隊を用いて、のちの第3回十字軍に加勢してもらう機会を摘み取ってしまった。
1164年 ファーティマ朝アーディドのとき、宰相ディルガームに負けた宰相シャーワルがシリアに亡命して、ザンギー朝ヌール・アッディーンに支援を求めた。ザンギー朝カリフは、シールクーフとサラディンを派遣して、シャーワルが宰相に返り咲く。シールクーフ排除をエルサレム王アモーリー1世に依頼、アモーリー1世がシールクーフを拿捕。リベンジでサラディンがアンティオキア公ボエモン3世とトリポリ伯レーモン3世を拿捕。
1169年 ファーティマ朝アーディドがシャーワルを刑死。シールクーフがファーティマ朝宰相に就任したが急死、サラディンが宰相に就任して、アイユーブ朝を建国した。
1169年 バイナル・カスラインの戦い
マムルーク(アイユーブ朝・白人奴隷) 勝ち
vs サンジュ(ファーティマ朝・黒人奴隷) 負け
1171年 エルサレム王国アモーリー1世とビザンツ帝国マヌエル1世が同盟。
1171年 ファーティマ朝カリフのアーディド死去。イスマーイール派を一掃した。
帝都の金角湾沿いにできたジェノヴァ人居留地にヴェネツィア人が襲撃、家屋を打倒し、多くのジェノヴァ人を殺傷した。皇帝の命令にそぐわず、ヨハネス2世治世下に行った所業を起こすぞとマヌエル1世を恫喝した。
1171年 帝国領内のヴェネツィア人を一斉逮捕、財産没収。
1172年 セルビア王国ネマーニャ(1166~1196)を捕囚。
1172年 ヴェネツィア・東ローマ戦争
ヴェネツィア共和国元首(ドージェ)ヴィターレ・ミキエル2世(1156~1172) 負け
vs ビザンツ帝国マヌエル1世 勝ち
ヴェネツィア共和国元首セバスティアーノ・ツィアニ(1172~1178)がドイツ帝国、シチリア王国、セルビア人などビザンツの敵対勢力を結集させるために積極的に行動し、国際社会におけるビザンツの孤立化が進行した。
*ビザンツ人とトルクメンの共生
移動牧畜生活を営むトルクメンが平野部に降りてくるのは秋が深まり収穫が終わったころであり、冬の間、定住農耕民のビザンツ住民は、城壁をめぐらせた都市や要塞に退避して、収穫後の耕地でトルクメンが家畜を放牧するのを望見していた。やがて春が訪れると、トルクメンは家畜を連れ、高原の草地へと急ぐ。これと前後してビザンツ住民は町を出て、農作業に勤しんだ。
マヌエル1世が、ルーム・セルジューク朝とダニシュメンド朝を争わせたことが仇になり、ルーム・セルジューク朝の再統一につながった。
1176年 ミュリオケファロンの戦い
ビザンツ帝国マヌエル1世 負け
vs ルーム・セルジューク朝クルチ・アルスラーン2世 勝ち
*教皇分裂(シスマ)
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が教皇アレクサンデル3世(1159~1181)に対立して擁立した教皇
ウィクトル4世(1159~1164)
パスカリス3世(1164~1168)
カリストゥス3世(1168~1178)
1176年 レニャーノの戦い ハインリヒ獅子公の非協力のせいで敗北
神聖ローマ帝国フリードリヒ1世 負け
vs ロンバルディア同盟 勝ち
1177年 ヴェネツィア条約
教皇アレクサンデル3世に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が恭順。
フリードリヒ1世とシチリア王グリエルモ2世が15年間和平締結。
ビザンツ皇帝とローマ教皇だけの親交が消え、ビザンツ皇帝が国際的に孤立してしまった。
1180年 フリードリヒ1世は、ザクセン公・バイエルン公のハインリヒ獅子公を帝国アハト刑に処して追放。
1183年 ロンバルディア同盟を承認。
アレクシオス2世(1180~1183)
幼帝。
アンドロニコス1世(1183~1185)
アレクシオス2世を廃位して、恐怖政治。
イサキオス2世(1185~1195) アンゲロス朝
1184~1191年 キプロス島でイサキオス・コムネノスの反乱。英王リチャード1世獅子心王にキプロス島を奪われる。
1185年 コムネノス家の多くが残忍に殺害された。アレクシオスとダヴィドは、叔母のグルジア王国タマル女王の庇護を受けた。コムネノス家とグルジア王国のバグラティオニ家は親密な血縁があった。
1187年 ワラキア人ペトロスとアセン兄弟が、クマン人の援軍を得て、第二ブルガリア王国を建国。
1187年 首都で将軍アレクシオス・ブラアンスの反乱。
1188年 フィラデルフィアでテオドロス・マンカファスの反乱。
1189~1192年 第3回十字軍。
1189年 将軍マヌエル・カミツェスがテッサロニケで神聖ローマ帝国フリードリヒ1世軍に敗北。
1190年 フィロメリオンの戦い
(神聖ローマ帝国)シュヴァーベン大公フリードリヒ6世 勝ち
vs ルーム・セルジューク朝カイホスロー1世(1192~1196/1205~1210) 負け
1193年 強敵のアイユーブ朝サラディンが黄熱病で病死。
アレクシオス3世(1195~1203)
1200~1208年 ギリシャでレオン・スグーロスの反乱。
1202年 第二ブルガリア王国を承認。
1203年 アレクシオス4世が第4回十字軍を率いて、コンスタンティノープルを制圧。
*第4回十字軍 教皇インノケンティウス3世(1198~1216)提唱
ヴェネツィア共和国元首エンリコ・ダンドロ(1192~1205)
フランドル伯ボードゥアン9世(1194~1205)
ブロア伯ルイ1世(1191~1205)
シャンパーニュ伯ティボー3世(1197~1201)
モンフェラート侯ボニファーチョ1世(1192~1207)
ラテン帝国(1204~1261)
ボードゥアン1世(1204~1205)
1204年 フランドル伯ボードゥアン1世が建国。
1205年 アドリアノープルの戦い
ラテン帝国ボードゥアン1世 敗死
vs 第二ブルガリア王国カロヤン・ヨハニッツァ(1197~1207) 大勝
アンリ1世(1205~1216)
ニケーア帝国(1204~1261)
テオドロス1世(1204~1205)ラスカリス朝
1204年 ビザンツ帝国がラテン帝国に乗っ取られた。グルジア王国タマル女王(1184~1213)が、トレビゾンド帝国を建国。アレクシオス1世に譲渡。ダヴィドは、ヘラクレア・ポンティカまで占領し、ニケーア帝国を脅かした。
1204年 テオドロス1世ラスカリス(1204~1222)がニケーア帝国を建国。娘婿のアレクシオス3世が亡命してきた。
1210年 アンティオキアの戦い。アレクシオス3世がカイホスロー1世の支援を得てニケーア皇位を要求。翌年、幽閉死。
テオドロス1世 勝ち
vs ルーム・セルジューク朝カイホスロー1世 敗死
ヨハネス3世(1222~1254)
1243年 キョセ・ダグの戦いで、ルーム・セルジューク朝がモンゴル軍に敗れ、属国となった。
テオドロス2世(1254~1258)
ヨハネス4世(1258~1261)・ミカエル8世(1259~1261)共同統治
1261年 ジェノヴァ人と協定。
ビザンツ帝国
ミカエル8世(1259~1282)パライオロゴス朝
1261年 コンスタンティノープルを奪還。ラテン帝国を滅ぼした。
1260年代、アンジュ伯シャルルがシュタウフェン朝ドイツ王マンフレディを敗死させて、シチリア王国を奪った。ニケーア帝国(ビザンツ帝国亡命政権)に敗れて亡命してきたラテン皇帝ボードゥアン2世を保護。ヴェネツィア共和国と共謀してラテン帝国復興を画策した。アンジュ伯シャルルはシチリア島民から激しく搾取した。島民はアンジュ伯を恨むことになる。
シチリア王アンジュ伯シャルル・ダンジュー(1266~1282)は、フィレンツェ豪商(毛織物業)から莫大な支援を受けていた。
ビザンツ帝国の危機を察知したミカエル8世は、ジェノヴァ商人の協力のもと、ビザンツ艦隊をアラゴン王国ペドロ3世(1276~1285)に貸し与え、軍事費として莫大なヒュペルピュロン金貨を贈り、シチリア島上陸を誘導した。
1282年 アンジュー王国を背後射撃するため、「シチリアの晩鐘」事件を起こし、アラゴン王国ペドロ3世をシチリア島に招いた。シチリア島を追われたアンジュ伯シャルル・ダンジューは、ナポリ王としてアラゴン王国との海戦に臨まなくてはならなくなり、ビザンツ皇都コンスタンティノープル総攻撃を中止した。
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ブリタニア・ガリア・ヒスパニアは完全にゲルマン民族によって無秩序に無法支配された。
415年、ブリタニアからの帰還兵を一兵卒コンスタンティウスが統率。西ゴート族が身を休めていたナルボンヌを海上封鎖し、アタウルフが殺害され、新族長ヴァリアと同盟締結。皇妹ガッラ・プラチディアが釈放され、コンスタンティウスと再婚した。
421年、コンスタンティウスが共同皇帝に就任するも急死。ガッラ・プラチディアと息子ヴァレンティニアヌスはコンスタンティノープルに亡命。
423年、ホノリウス帝死去
425年、ヴァレンティアヌス帝、ラヴェンナにて即位。幼帝なのでガッラ・プラチディアが実権を掌握する。
ボニファティウス 宰相・皇帝護衛隊長・アフリカ担当軍司令官
アエティウス ガリア担当軍司令官
アリウス派のボニファティウスが治める北アフリカの上層階級はアタナシウス派、下層市民はドナートゥス派。アフリカ分離独立の嫌疑がかけられて、ガッラ・プラチディアがゴート族に征伐させるが失敗、アリウス派のヴァンダル族ゲンセリックをイベリア半島からアフリカに船で移して、ドナートゥス派と共謀して、ボニファティウスを破らせる。ボニファティウスはラヴェンナに帰国、罪が赦され、アエティウス征討を命ぜられる。
アエティウスはフン族に人質として捕らわれの身でアッティラ大王とも面識があった。432年、リミニの戦いでボニファティウス優勢とみるや、決闘を申し込み、槍を長くして一撃でボニファティウスを倒した。ガッラ・プラチディアを政権から後退させた。
439年、ヴァンダル族が北アフリカを征服。カルタゴ海運力を用い海賊を働いた。
444年、フン族アッティラが東ローマ帝国コンスタンティノープル侵攻。
447年、アッティラを東ローマ帝国同盟者に任ずる。
450年、テオドシウス2世死去。元老院議員マルキアヌスが即位し、アッティラとの同盟破棄。
451年、アッティラがガリア侵攻。カンピ・カタラウニチ(シャンパーニュ)会戦で、アエティウスがアッティラを破る。
アエティウス&西ゴート族テオドリック&アラニ族
vs アッティラ&フランク族&東ゴート族
452年、アッティラが北イタリア侵攻。ローマ司教レオ1世から金銭を受け取り撤退。
453年、アッティラ死去。
454年、ヴァレンティアヌス帝がアエティウス刺殺。
455年、ヴァレンティアヌス帝が殺害。アッティラに仕えていたスヴェビ族出身リキメロス将軍が実権を掌握。
468年、海賊行為を繰り返すヴァンダル王国ゲンセリックに対し、東ローマ皇帝レオ1世と西ローマ皇帝アンテミウスによって東西最後の共闘がおこなわれた。ゲンセリックはシチリア島、サルディニア島、コルシカ島を奪取した。
東ローマ帝国海軍 バジリスコス ボン岬海戦で火の計に敗走
西ローマ帝国海軍 マルケリヌス シチリア島で敗死
東ローマ帝国陸軍 ヘラクリウス ボン岬海戦をみて撤退
470年、アンテミウス帝、ヒスパニアからガリアに領土拡大した西ゴート族エウリックに敗戦。
472年、リキメロスがアンテミウス帝を廃してオリブリウス帝を据える。ローマ内戦によりアンテミウス敗死、リキメロス病死、オリブリウス暗殺。
475年、西ローマ傀儡皇帝ネポスに私怨があるオレステスが息子ロムルスを新皇帝に推薦しローマ元老院が承認した。
476年、西ローマ軍将軍オドアケルが待遇改善を求め、オレステルを殺害、ロムルスを廃位しナポリで幽閉。静寂のうちに西ローマ帝国は滅亡した。東ローマ帝国ゼノ帝は、オドアケルにパトリキウス(貴族)なら承認すると言ってきたが拒否。自らイタリア王を名乗った。オドアケルはラヴェンナに住み、ローマ法をすえて、アタナシウス派キリスト教会とラティフンディウムを温存活用し、元老院階級に銅貨鋳造権を与え減税したので、好評を博した。
489-493年、東ゴート族テオドリックが東ローマ帝国との同盟をバックに、オドアケルに戦勝しラヴェンナで講和締結直後にオドアケルを謀殺。東ゴート王国を建国。
526年、テオドリック死去し、アタラリック即位。母アマラスンタが実権掌握。
534年、アマラスンタがテオダトゥスと再婚し、テオダトゥス即位。東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝に忠誠を誓ったことで退位を迫られた。
536年、ヴィティジス即位。
*学問所の設立
529年 聖ベネディクトゥス モナステリウム(モンテカッシーノ修道院) カッシーノ 校風は絶対服従
536年 カシオドロス ヴィヴァリウム(学園) スキラーチェ 校風は自由
533年、東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝が将軍ベリサリウスを北アフリカに派遣し、ヴァンダル王国を滅ぼす。カルタゴ陥落。自動的にサルディニア島は東ローマ帝国領となった。
ヴァンダル王ゲリメル(530~534)は抵抗を続け、ヴァンダル人を糾合し、カルタゴ水道橋の一部を破壊し、フン人に使節を送り救援要請した。2度の決戦に敗北し、ヌミディア山中のマウリ人の王のもとに逃亡したが、ローマ軍に包囲され降伏した。ヴァンダル人の残党は、農村部から山岳部へと散った。ヌミディアやマウレタニア内陸部を拠点として、ヴァンダル人を受け入れたマウリ人は必ずしもビザンツ皇帝の権威を認めていなかった。ビザンツ帝国は諸都市の要塞を築いて、マウリ人やヴァンダル人の襲撃から守った。
*アゲマンの妻たち
ユスティニアヌス大帝 テオドラ
ベリサリウス アントニア
ユスティニアヌス大帝
テオドラ皇后
ベリサリウス
535年、ベリサリウスがシチリア島占領。
536年、ベリサリウスがナポリ、ローマを占領。東ゴート軍が地下水道を通って城内侵入してくるのを防ぐため地下水道を破壊した。飲料水不足のため、女こどもの住民を南イタリアへ強制移住させた。ローマ司教シルヴェリウスを東ゴートスパイ容疑でコンスタンティノープルに送還。
539年、ベリサリウスがラヴェンナ占領。ヴィティジス捕囚。王とゴート兵捕虜ともにアタナシウス派に改宗。
540年、東ゴートの新王トティラ即位。清廉と寛容をもって兵士や住民に接し、イタリア失地を回復した。
546年、東ゴートがローマ侵入し、ローマ元老院が廃止され、元老院階級は難民となり雲散霧消。
547年、ベリサリウス、ローマ入城。
552年、ナルセス、ロンゴバルド族を兵に鍛えて、トティラを敗死させる。
553年、ナルセス、クーマにて東ゴート新王テイアを敗死させる。イタリア・シチリア・コルシカ・サルディニアに重税を課した。
活気あるローマを完全に滅ぼしたのも、や・は・り、東ローマ帝国であった。アリウス派支配をアタナシウス派支配に変えたい、ただそれだけのことなのに。
ナルセス
7世紀になるとイスラムがシチリア島を目指して来襲を繰り返した。原イスラムのアラブ人、そして新イスラムのベルベル人&ムーア人のあいだにも争いが起こっており、ビザンツ帝国との海賊休戦協定が守られたことはなかった。
ビザンツ帝国自体も、サラセン帝国、ウマイヤ朝、アッバース朝といった新手のイスラムに領土を侵略されており、それどころではなかった。ローマ教皇には軍がおらず、偶像崇拝を認めないビザンツ帝国とは相いれない立場となっていた。そこで、680年にアタナシウス派に改宗していたランゴバルド王国に庇護を求めることにした。
「ロンバルディアの鉄王冠」
イエスが磔にされた鉄釘を使って王冠を作ったとされる聖遺物。ランゴバルド国王が戴冠した。
568年、ランゴバルド族アルボインがフォルム・ユリイ占領。
569年、アルボインがミラノ占領。
570年、アルボインがパヴィア占領。
570年、ビザンツ傭兵・ランゴバルド族ファロアルドがスポレート公国を建国。アタナシウス派。
570年、ビザンツ傭兵・ランゴバルド族ゾォットがベネヴェント公国を建国。アタナシウス派。
572年、アルボインがランゴバルド王国を建国し、パヴィアを首都とした。異教徒アルボイン王が王妃ロザリンドに暗殺。
574年、クレフ王が暗殺。ランゴバルド王国は諸公時代に突入し、南フランス・プロヴァンスに侵入。ビザンツ帝国とフランク王国が同盟を結んで失地回復すると、一方的にフランク王国とランゴバルド王国が停戦協定締結。
577年、ビザンツ将軍バダリウスがイタリア失地回復に乗り出したが敗死。
584年、新王アウタリウス即位。
585年、フランク王国がランゴバルド王国に侵攻。
588年、フランク王国がランゴバルド王国に侵攻。
590年、フランク王国がランゴバルド王国に侵攻。新王アギルルフス即位。
593年、アギルルフス王がローマ包囲。
598年、ローマ教皇グレゴリウス1世と講和。
603年、ラヴェンナ総督スマグドゥスと講和。アギルルフス、アタナシウス派に改宗。
616年、新王アダルヴァルド即位。アタナシウス派。
626年、新王アリオアルドゥス即位。アリウス派。
636年、新王ロターリ即位。反ビザンツで、失地回復をなし全盛期を迎えた。
652年、新王ロドアルドゥス即位。
653年、新王アリペリウス即位。
ランゴバルド王国は一気に力を失い、他国に蹂躙された。
662-671年、ベネヴェント公国グリモアルドゥス1世がランゴバルド国王を兼任。
663-668年、ビザンツ皇帝コンスタンス2世、シチリア島で暮らす。
692-695年、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世、シチリア・テマ制を敷く。
671年、新王ペクルタリトゥス即位。
680年、ランゴバルド王国、アタナシウス派に改宗。ビザンツ帝国・ランゴバルド王国平和条約。
688年、新王クニペルト即位。
ビザンツ帝国とランゴバルド王国の平和が破れたのは、スポレート公によるラヴェンナ外港クラッセの占領であった。
712年、新王リュートプラント即位。
717-718年、リュートプラント、外港クラッセ占領。ビザンツ帝国・ランゴバルド王国平和条約が破棄された。
727-728年、リュートプラント、オシモ占領。
737年、リュートプラント、ラヴェンナ占領。
740年、リュートプラント、スポレート公国征服。
741-742年、リュートプラント、ベネヴェント公国征服。
*ビザンツとローマの関係悪化
649年、ラテラノ公会議でローマ教皇マルティヌス1世が、単意論を異端と宣言した。これにより、ビザンツ国教とアリウス派などすべて異端となり、ローマ教皇が最初にビザンツに対し喧嘩を売ってきたことになる。
当初は、ラヴェンナ総督がローマ教皇を拉致したりできたが、ランゴバルド王国とローマ教皇の関係回復によってパワーバランスが逆転。リュートプラントは、この不和関係を追い風に領土を拡大していった。
744年、新王ラトキス即位。
749年、新王アイストゥルフ即位。
この二王は、ローマ教皇に貢納を求め、領土拡大の野望を捨てようとしなかったため、ローマ教皇ステファヌス2世は、まずビザンツ帝国コンスタンティヌス5世に応援を求めた。しかし無視されたため、フランク王国ピピンに応援を求め、アイストゥルフ王を敗戦させた。
756年、ピピン、奪い取ったラヴェンナ総督府をローマ教皇に寄進。ビザンツ帝国使節グレゴリウスがラヴェンナをビザンツ帝国に返還するよう求めたが、まったく無視された。
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柔然、エフタルの末裔の説があるモンゴル系アヴァール。突厥に追われて、6世紀、北カフカスに出現。
ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(527~565)のとき、アヴァールが北カフカスに出現。ビザンツは、彼らに毎年貢納を払う条件で手なずけようとしたが、アヴァールはランゴバルト人と同盟して、さらに黒海北岸の草原を西進して、ダキアとトランシルヴァニア、ランゴバルト人なきパンノニアを征服。
ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世(565~578)のとき、貢納を拒否したかどで、アヴァールのバヤン汗が侵攻し、574年、貢納を再開。
623~624年、アヴァールがコンスタンティノープル包囲。ビザンツ皇帝ヘラクレイオス1世(610~641)がアヴァールを撃退。
アヴァールがヨーロッパに鐙を伝え、フランク王国の重装騎兵が強大になった。
774年、アヴァールがアルプスを越えてイタリア北東部を侵攻。
アギロルフィング家のバイエルン大公国タシロ3世がアヴァールと密かに連携。787年、フランク王国カール(768~814・のち大帝)がバイエルン侵攻。788年、王国集会でタシロ3世を忠誠違反の有罪で修道院に幽閉した。
791年、796年、カールのフランク軍が、弱体化してしまっていたアヴァール軍に大勝。
*アヴァールとランゴバルトには無双で楽勝だったカール大帝、ザクセンとデーン王国、そしてバスク人(ローランの歌)には苦戦を強いられた。
773~785年、フランク国王カールがザクセン征服。ザクセン首長ヴィドキントをキリスト教に改宗させた後も、ザクセンは王を持たず、意思決定は下位のリーダークラスが担っていたため、反乱は収まらず。背後でデーン王国がザクセンを援護していた。
デーン王国は、エストニアを領有しており、ラドガ湖経由でノヴゴロド公国と交易し、オボドリト人が住むレーリクを経由して、デーン王国はアッバース帝国と交易していた。
804年、カール大帝はレーリクをオボドリト人に与えた。
808年、デーン王国ゴドフリートが、オボドリト人が住む北エルベ地方を征服。
810年、カール大帝がデーン遠征。ゴドフリートがフリースラント沿岸を襲撃したが、暗殺された。
811年、アイダー河畔の和平。カール大帝とデーン王国ヘミングのあいだで締結。デーン人の交易地がレーリクから、エルベ以北のバーデンフリオートに移された。
808~809年、後ウマイヤ朝を攻略し、皇太子ルイ(のちの敬虔王)がトルトーサ包囲戦。
*755年安史の乱後、ソグド商人消滅後の情勢
フランク王国カール大帝は、アッバース帝国に育てられた。
トルコ系ブルガールは5世紀には北カフカスに住んでいた。7世紀前半、アヴァール牽制のため、ビザンツが大ブルガリアと同盟。642年、クヴラト死後、内紛。西突厥の末裔、ハザールが大ブルガリアを滅ぼした。次男コトラグが北上してヴォルガ・ブルガリアを建国。10世紀、アッバース帝国と、毛皮・奴隷交易。1236年、モンゴル軍に滅ぼされた。三男アスパルフは西走してドナウ川を越え、ドナウ・ブルガリアを建国。680年、ビザンツ軍を破り、毎年ビザンツから貢納を受け、第一ブルガリア帝国(681~1018)を打ち立てた。トルコ人よりスラヴ人化著しく、864年、ボリス帝がキリスト教に改宗。
トルコ系ハザールは西突厥の阿史那氏が西走して建国。ササン朝ペルシャ、ウマイヤ朝と国境争い。737年、ウマイヤ朝がハザール汗国に勝ち、一時的にイスラム改宗。8世紀半ば以降、ユダヤ教のハザールはヴォルガ川河口に首都イティルを建設し、交易活動に重点を移した。カスピ海は「ハザールの海」と呼ばれていたが、ハザール自身は、糊として使われた魚の膠くらいしか生産しなかった。大ハーン・ハザールの配下に、マジャールとペチェネグ(弓月・カンガル)が仕えていた。ハザール可汗が、ルーシ南下を嫌ってマジャールをクリミアに配置する。次にペチェネグをクリミアに派遣する。895年、死闘に敗れたマジャールが東遷、スラブ人の大モラヴィア王国を滅ぼして、パンノニアでハンガリーを建国する。大モラヴィア公国の臣下だったボヘミア人がボヘミア公国(チェコ)を建国する。966年、キエフ・ルーシ(キーウ)のスヴャトスラフ1世がハザール汗国を滅ぼす。
ノヴゴロド・ルーシとキエフ・ルーシ分裂期にモンゴル・ジョチウルスがいとも簡単に各個撃破した。
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内紛で衰退が続くビザンツ帝国がセルジューク帝国にアナトリアを攻められ、はじまった十字軍。イェルサレムが目標のはずが、途中に建国して利権を握る貴族たち。
アラル海東岸のトルコ系遊牧民オグズ族(トルクメン)
1 トゥグリル・ベク(1055~1063)
1040年 カラハン朝傭兵としてソグドに入りガズニ朝を破ってホラーサーンを奪取。
1055年 メッカ巡礼を口実にバクダード占領してブワイフ朝を滅ぼした。スルタン(政権担当者)を名乗った。子供なし。
ホラーサーン出身のニザームル・ムルクをワズィール(宰相)とした。ニザームル・ムルクは、ブワイフ朝のイクター制を修正し、軍人が土地と農民を大切にするように、世襲化をある程度認め、軍人のイクター私物化を監視した。
2 アルプ・アルスラン(1063~1072)
1071年 マンジケルトの戦い
ビザンツ皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕虜にした。
3 マリク・シャー(1072~1092)
セルジューク朝はサーマーン朝からイスラムを学んだため、スンナ派支持。シーア派・イスマーイール派(暗殺教団)のファーティマ朝はさかんに宣伝員(ダーイー)を派遣して、反セルジューク運動を展開した。シーア派排除のため、バクダードやホラーサーンにマドラサ(大学)を設立。ニザームル・ムルクは、バクダードにニザーミヤ学院を設立し、シャーフィイー派法学とアシュアリー派神学を教授した。
*神学
ムウタズィラ神学 来世でも人は神を見ることはできない。
アシュアリー神学 現世で人が人を見るように、来世で人が神を見ることは不可能ではない。
1074年 スライマーンがニケーア占領。
1077年 スライマーンがルーム・セルジューク朝を建国(~1086)。
1092年 クルチ・アルスラーン1世がルーム・セルジューク朝を再興(~1308)。
1092年 イスマーイール派が、ニザームル・ムルクとマリク・シャーを暗殺。長期で大規模な継承戦争に入った。
4 ムハンマド・タパル(1105~1118)
1104年 ルーム・セルジューク朝クルチ・アルスラーン1世の領土拡大を警戒して、忠臣イル・ガーズィーに警戒対抗させ、イル・ガーズィーがアルトゥク朝(~1409)を建国した。
5 アフマド・サンジャル(1118~1157)
1141年 カトワーンの戦い
西遼(カラキタイ)耶律大石に敗北。以後、大いに衰退した。
*その後のルーム・セルジューク朝
クルチ・アルスラーン2世(1156~1192)
1176年、ミュリオケファロンの戦い。ビザンツ帝国はこの敗北で小アジアから完全撤退。
ビザンツ帝国マヌエル1世 vs ルームセルジューク朝クルチ・アルスラーン2世
1189年、エルサレム喪失後の第3回十字軍に敗北し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に首都イコニウムを奪われた。翌年、フリードリヒ1世がキリキアの川で溺死、ルーム・セルジューク軍が逆転勝ちした。
アラーウッディーン・カイクバード1世(1219~1237)
全盛期を迎え、黒海と地中海に港を獲得した。ヴェネツィア、ジェノヴァなどイタリア海洋都市が通商に来航し、豪華なマスジド(礼拝堂)、マドラサ(大学)、ハーン(隊商宿)がたくさん建設された。小アジアの大半はキリスト教とギリシャ語に代わって、イスラムとトルコ語が普及した。
カイホスロー2世(1237~1246)
1243年、キョセ・ダーの戦い。モンゴル軍バイジュに大敗して、ルーム・セルジューク朝滅亡。
モンゴルの影響がなくなったころ、君侯国(ベイリク)が小アジアに乱立した。
ローマカトリック教とギリシャ正教は離婚してまもない。ギリシャ正教にとってローマカトリックに頭を下げての十字軍要請は背に腹は代えられない大いなる屈辱だった。
ローマ教皇の気持ち
先日離婚したばかりのギリシャ正教をつぶすチャンスだ。とはいえムスリムがバルカン半島に来られては困る。ローマ教会の首位権を認めるなら、助けてやろう。親衛隊のフランス王よ、神聖ローマ皇帝よ、コンスタンティノープルに行ってやれ。エルサレム奪取に燃える騎士たちも騎士団をつくったので認めてやる。
し・か・し、
シチリア島はローマ教皇におさめろ。フランスとシチリア島、ドイツとシチリア島の共同統治は認めないぞ。いまシチリア島はノルマン人が治めてしまっておる。フランス王でも神聖ローマ皇帝でもいいから取り戻してこい。
ローマ教皇征討軍が南イタリアでノルマン傭兵軍に負けていたので、
シチリア・ノルマン人よ、わかった。カノッサの復讐(屈辱ではない)でグレゴリウス7世が殺されかけたときも、よくぞ救ってくれてありがとう。これからも余のために働いてくれ、その代わり南イタリア領有は認めてやろう。
さてコンスタンティノープルで首を長くして待っていたビザンツ皇帝の気持ち。
フランス王よ、神聖ローマ皇帝よ、ありがとう。エルサレムも含めてビザンツ領を取り戻したら、俺に返せよ。しかし、ノルマン人は俺の南イタリア領土を奪ったけしからん奴だ。ノルマン人の補給や道案内はその分、手抜きして困らせてやろう。
ヴェネツィア商人の気持ち
まずいな、エジプトのファーティマ朝はいいお得意様だし、エルサレムはファーティマ朝さまの領土だ。今は船を出さずに高みの見物といこう。
互いに喧嘩していたピサ商人、ジェノヴァ商人の気持ち
あれ?ヴェネツィアさんが船を出さないのなら、あっしらが儲けさせてもらいまっせ。
ノルマン朝シチリア、フランク辺境伯が一攫千金を求めてシリア・レバノン海岸に十字軍国家を建国。国家維持に必要な食料、兵器、兵隊を常に供給し続けるための港死守。まわりはイスラム教徒、ギリシャ正教徒だらけで現地調達できず雇っても信用できない。破門宣告を武器としたローマ教皇を通じて英独仏に十字軍SOSを要請してもなかなか来ない。莫大な経済力を有した北イタリアのヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国が互いに利権を争いながら十字軍国家を海軍輸送力でバックアップする。盟主イェルサレム王国と十字軍国家の仲が良かったり悪かったり援軍を送ったり送らなかったり。4大海洋都市国家のひとつアマルフィ共和国が先だって聖ヨハネ騎士団を設立して病院経営していたが、金融業でせっせと小銭を貯金する、新手のテンプル騎士団が登場。
ビザンツ帝国はヴェネツィア商人に乗っ取られ宝物をほとんど持ち去られる始末。本国維持でやっとこさ。アナトリアにビザンツ帝国復興など夢のまた夢。ジェノヴァ共和国の財力でビザンツ亡命政府ニケーア帝国がラテン帝国を倒す。以後のビザンツ帝国は、ヴェネツィア共和国を排除し、ジェノヴァ共和国と独占交易。ジェノヴァ共和国海船は地中海ジブラルタル海峡を突破することに成功し、大いに儲けた。となりまでモンゴルが来襲してきてカオス。そのあと黒海北岸のジェノヴァ領からモンゴルが持ってきたペストが来襲。ビザンツ、イタリア、ヨーロッパ全土へと蔓延。
地中海覇権をめぐる海戦
ジェノヴァ・ピサ戦争、ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争、ヴェネツィア・オスマン戦争、スペイン・オスマン戦争、イギリス・スペイン戦争、英蘭戦争
ロシア南下陸戦
露土戦争、クリミア戦争
地中海覇権をめぐってヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国は戦争を繰り返す。1262年、ヴェネツィア共和国が戦費捻出のため世界初の国債を発行した。戦費で消耗したジェノヴァ共和国が負け、交易路をヴェネツィア共和国に奪われ、サルジニア島をアラゴン王国に奪われる。ジェノヴァ共和国はコルシカ島を死守するも、ビザンツ帝国が滅ぶ前にサンジョルジョ銀行の経営に委ねる。1768年、憲法発布、三権分立制度制定まで果たしたコルシカ島民パスカル・パオリの独立運動に手を焼き、ついにフランスに売却する。もし売却しなければ、コルシカ島生まれのナポレオンは誇り高きトスカーナ人(中部イタリア)だし、ハイソなフランス人に虐げられバカにされることもなかった。フランス革命に生まれたタイミングとコルシカ島の歴史がつくったひねくれてしまった性格という偶然の賜物であった。
イクター制で衰退一途をたどるルーム・セルジューク朝のパシリからはじまったザンギー朝。あっというまに十字軍に敗れはしたものの、クルド人サラディン率いるアイユーブ朝が失地回復。ファーティマ朝エジプトまで奪取したが、クルド人が少なくて大国維持ができず、マムルーク(トルコ人奴隷)を採用。エジプト、シリアをマムルーク朝に乗っ取られた。
ゲルフ 教皇党 新興の商工業市民層が支持
ギベリン 皇帝党 旧来の封建貴族層が支持
1300年、教皇党で統一されたフィレンツェが白派と黒派に分かれて戦った。
白派 チェルキ家、ペトラルカ、ダンテ ダンテは負けて1302年国外追放。
黒派 ドナーティ家、ジョット、メディチ家、教皇ボニファティウス8世
1303年、フランス王フィリップ4世が教会課税問題で教皇ボニファティウス8世を幽閉、アナーニ事件。1309年、教皇のアヴィニョン捕囚。1307~1314年、フランス王フィリップ4世がテンプル騎士団を虐殺して全部、金品を奪った。1300年までには騒ぎがようやく収まったと思ったら、ペストでパンデミック。もう無茶苦茶だった。英仏独伊がまたまた長い戦争を始めた。
イベリア半島では、なんか地味にカスティーリャ王国がイスラム相手にレコンキスタ。ベルベル人マスムーダ族が建国したムワッヒド朝は帝国整備に熱心ではなく、モロッコのベルベル人マリーン族と反目し、キリスト教徒妾を母に持つスルタンは、厳格なマーリク派民衆と乖離した。のち弱体化し1200年初頭の大レコンキスタで大きく失地した。地中海では、お宝あふれる植民地島の領有をめぐって、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国が長い海戦。
1528年、ジェノヴァ提督アンドレーア・ドーリアが、同盟先をフランスから、神聖ローマ帝国=スペイン同君連合に劇的に変更。サンジョルジョ銀行の余剰資本が莫大で、スペインとポルトガルに投資。アメリカ新大陸さんの銀が大量にヨーロッパにもたらされ「価格革命」と呼ばれる激しいインフレに見舞われていたが、ジェノヴァに資金が集中し余っており、利子の低いジェノヴァ債が大人気。投資家にとって新興国ポルトガルに投資することは躊躇されたが、ジェノヴァへの投資は安心できた。スペイン・カルロス1世と仏フランソワ1世が神聖ローマ皇帝選挙で、ともにジェノヴァ商人に借金し、賄賂が多かったカルロス1世が勝ち、カール5世となってオスマン帝国と大戦争。フランソワ1世はフッガー家にも借金しており、オスマン帝国に同盟する。1555年、シュマルカルデン戦争でカール5世が敗れ、ジェノヴァ融資が焦げ付き損失を発生させたため、ジェノヴァ債が高騰した。
1562~1598年、ユグノー戦争でフランスは内戦状態で、海外に進出する機会を失った。
ポルトガルは東南アジアへ進出し、香辛料貿易を拡大したが、その利益の大部分をジェノヴァへの利払いに吸い取られた。そこでモロッコに進出を図ったが、1578年、サアド朝に敗れ、ポルトガルはデフォルト。1580年、スペインがポルトガルを併合。
スペインは、ジェノヴァだけでなく、スペイン領ネーデルランドのアントワープにも借金しており、営利蓄財を肯定したカルヴァン派が多く集まったアントワープが盛況を博し、ヨーロッパじゅうの資金がアントワープに集まった。スペイン国内の金融を担ったユダヤ教徒は弾圧を嫌ってキリスト教に改宗して「コンベルソ」と呼ばれていた。1576年、スペイン王フェリペ2世がカトリックを強要しアントワープを破壊、新教徒国ネーデルランドのアムステルダムに資金源が移った。1588年、スペインがアルマダ海戦でイギリスに敗北、三十年戦争でカトリック側の神聖ローマ帝国とスペインが敗北。ジェノヴァとスペインの富は、アムステルダムと新興ロンドンに移った。1627年、スペインが借金先をジェノヴァから、ポルトガルの「マラーノ」に移した。マラーノはポルトガル金融を担い、キリスト教に改宗したユダヤ教徒だ。さらに同年、サヴォイア公国がミラノ公国と同盟したことが、隣国のジェノヴァ共和国にとって最大の危機となった。1640年、ポルトガルがスペインから分離独立。
17世紀は、オランダ・アムステルダムとイギリス・ロンドンの時代。資金集めレースにオランダが勝ち、イギリスの毛織物製品をオランダがリテール(小売り)した。1623年、アンボイナ事件でイギリスは香辛料貿易から撤退、オランダが独占した。1618~1648年、三十年戦争で新教側のデンマーク、スウェーデン、フランスにオランダ金融が融資した。旧教側のスペイン、神聖ローマにはジェノヴァが融資して衰退していった。1651年、イギリスが航海条例を発布し、オランダ船を締め出して、1652~1674年、英蘭戦争でイギリスはオランダに決着をつけた。
ランゴバルド人が支配したのは、北イタリア、スポレート公国、ベネヴェント公国の3つ。
あとはビザンツ帝国領と、フランク王国ピピンが奪ってローマ教皇に贈呈した教皇領。
*ビザンツ帝国の徴税制度
テマ制(軍管区制) ex.郡県制
中央から長官(ストラテーゴス)派遣。徴税権はない。中央政府が長官の給与を払った。屯田制を敷き、半農半兵の屯田兵(ストラティオティス)に兵役を課した。
プロノイア制(条件付土地所有) ex.募兵制(節度使)、イクター制
中央政府に貴族に払う金がないため、貴族に徴税権(プロノイア)を与える。代わりに軍事奉仕を義務付けたが、貴族が世襲化され、だんだん中央政府の命令をきかなくなった。
西ヨーロッパ的な封建制(アパナージュ制)のように、プロノイア指定地の農民が直ちにプロノイア保有者の隷属農民(バロイコイ)になったのではない。中央政府が封建貴族に下賜できるご褒美は、徴税権(プロノイア)以外に、非課税農民(すでに国家が把握していない農民)を所有する権利、課税農民(国家が徴税対象として把握している農民)を所有する権利の2種類ある。
アパナージュ制(完全所有) ex.西欧封建制(農奴所有)、中国封建制
封建領主が封土と農奴を統治する。属州奴隷労働力を駆使したローマ帝国ラティフンディウムの伝統を色濃く持つ。不輸不入権(インムニテート)といって、国家は封建領主に課税されない特権(不輸)と国家官吏の立ち入りを拒否できる特権(不入)をもった。農奴には移住の自由がなく、封建領主は農奴に対し課税権、裁判権、警察権を持つ。コンスタンティノープルのラテン帝国ではフランク人にビザンツ帝国を乗っ取られたことで、西ヨーロッパ的な封建制(アパナージュ制)が浸透した。
十字軍ちょっと前のフランス(カペー朝)。
ユーグ・カペー 987~996
ロベール2世 996~1031
アンリ1世 1031~1060
フィリップ1世 1060~1108
ルイ6世 1108~1137
ルイ7世 1137~1180
フィリップ2世 1180~1223
ルイ8世 1223~1226
ルイ9世 1226~1270
フィリップ3世 1270~1285
フィリップ4世 1285~1314
1002年 ユーグカペー弟アンリが死去。ブルゴーニュ大公領をめぐり戦争が起こる。
1016年 ロベール2世がブルゴーニュ大公国を併合。
1022年 ロベール2世がオルレアンで異端(カタリ派)をはじめて火刑に処した。
*ドイツでは、ハインリヒ3世が1051年にゴスラールで異端をはじめて火刑に処した。
1032年 アンリ1世はノルマンディー大公ウィリアムの援軍を得て、母コンスタンスの嘆願で寛大にも、敗戦した弟ロベールをブルゴーニュ大公に任じた。
フランス王 アンリ1世 ⚔ ブロワ=シャンパーニュ伯 ウード2世
1043年 アンリ1世がブロワ家の反乱を平定。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が、フランドル伯ボードワン5世とロートリンゲン大公ゴドフロワを領地を巡り争わせた。アンリ1世と対決が続いていたが、1048年、イヴォアにて和平条約。
1052年 アンリ1世がアンジュ伯を平定。
1050年代からノルマンディー大公と国境問題で戦争が起きた。
フランス王アンリ1世 ⚔ ノルマンディー大公ウィリアム
1060年 幼いフィリップ1世即位。フランドル伯ボードワン5世が摂政となる。
1066年 ヘースティングスの戦い。ノルマンディー公ウィリアムがイングランド征服(ノルマンコンケスト)。
フィリップ1世にとって格下だったノルマンディー大公がイングランド国王として並列することになった。イングランド国王がフランス国土の一部ノルマンディーを領有するという危機的事態を迎えた。
1076年 イングランド王ウィリアムがブルターニュ領ドルを占領。フィリップ1世はアキテーヌ大公ウィリアム8世の援軍を得て、イングランド王ウィリアムをドルから撃退。
1087年 フィリップ1世がノルマンディー大公国を侵略。イングランド王ウィリアムが落馬で敗死。
1095年 クレルモン公会議。教皇ウルバヌス2世が、フィリップ1世人妻再婚を認めず破門宣告。
1098年 フィリップ1世の破門解除。
1097~1099年 ヴェクサン戦争。
フランス皇太子ルイ6世〇 ⚔ イングランド王ウィリアム・ルーファス✕
1100年 ルイ6世フランス共同王即位。
1108年 ルイ6世肥満王即位。官廷高官職を独占したのが以下の3家。
ロシュフォール家 ギィ1世がノートルダム修道院建設。息子ギィ赤侯が十字軍遠征。その娘リュシエンヌ離縁を恨み反乱したが敗走・没落。
サンリス家
ガルランド家 アンソーがギィ1世にとってかわった。
十字軍ちょっと前のイタリア。浅瀬の海が自然の堀になって防衛力がすごかったヴェネツィア共和国はビザンツ帝国やフランク王国と一戦交えており、すでに独立している。イタリア王国はフランク人の国家。コルシカ島を領有できているが、サルディニア島はビザンツ帝国領。ベネヴェント侯国は旧ランゴバルド王国の末裔だが、その南イタリアはビザンツ帝国領だ。シチリア島はイスラムが領有している。
ウマイヤ朝は執拗にシチリア島侵攻を始めたが、ビザンツ帝国の防御で征服できず。827年、チュニジアのアグラブ朝・ズィヤーダ・アッラーフ1世がシチリア島を攻撃。896年、ビザンツ帝国はシチリア島統治権を放棄し、902年、全島がアグラブ朝の統治下にはいった。
824年、後ウマイヤ朝アブー・ハフスがクレタ島を征服した。961年、ビザンツ帝国ニケフォロス・フォーカスがクレタ島を再征服。
ヴァイキングには、デーン人、ノール人、スウェード人の3種類がいる。最強のノール人は定評の武力に物を言わせて西回りにヨーロッパから地中海を征服した。経済力ナンバー1のスウェード人はルーシと呼ばれ、ノブゴロド王国を建国し、ヴォルガ川、ドニエプル川を黒海まで南下してビザンツ帝国と交易を始めた。
1066年、ヘースティングズの戦い。重装騎兵の騎馬衝突撃で勝利。
イングランド王国(デーン人のクヌートがアングロサクソン族を倒したが早逝)にノルマン・コンケスト(ノルマン人ウィリアムがアングロサクソン族を倒した)やってる頃、足を延ばしてこんな地中海までノルマン人(ヴァイキング)来襲。ライフルヌスがアヴェルサから侵略開始してアヴェルサ伯と名乗り、さらにウィレルムス、ドロゴ、フンフレドゥス3兄弟がサレルノ侯国の援助を得てメルフィから徐々に南下してビザンツ領・南イタリアを制圧、さらに1072年、ロゲリウスがシチリア島のメッシーナから侵略開始してシチリア伯と名乗り、1091年、ノート陥落を以てイスラムを完全に駆逐した。
1053年、チヴィターテの戦い。重装騎兵の騎馬衝突撃で勝利。
ノルマン人が教皇レオ9世(1054年教会東西分裂を宣言)を捕虜にした。これにより教皇庁はノルマン人への姿勢を和らげた。1059年には、教皇ニコラウス2世の軍がノルマン軍の援軍を得て、教皇ベネディクトゥス10世の軍を破り廃位させた。
1077年、カノッサの屈辱。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に教皇グレゴリウス7世が勝ったが、まもなくハインリヒ4世の反撃にあう。ノルマン人グイスカルドゥスがグレゴリウス7世を救援し、亡命先サレルノで悶死。ノルマン人ロゲリウスが、同じくグレゴリウス派のウルバン2世を護衛した。ウルバン2世は、ハインリヒ4世が擁立した傀儡教皇クレメンス3世をローマから追放し、1095年、クレルモン公会議。国王は教皇に忠誠を誓うことを要求し、ついでに十字軍創設を宣言した。
1130年、シチリア伯ロゲリウス2世が教皇アナクレトゥス2世に戴冠されシチリア王となった。ナポリ、サレルノ、アマルフィらが反乱を起こし、教皇インノケンティウス2世と神聖ローマ皇帝ロタール3世が、1136年、ロゲリウス2世を討伐しようとしたが、ロタール3世が病死。ロタール3世は教皇党の祖とされた。
ノルマン朝シチリア王はアラブ人を官僚に重用した。シチリア島のパレルモと、イベリア半島のトレドで十二世紀ルネサンスが開花した。
1135年、ロゲリウス2世が、海賊の巣窟だったジェルバ島を襲撃占拠した。
1140年代、ロゲリウス2世が北アフリカのマフディーヤ、スーサ、スファックスを支配した。
1147年、第2回十字軍に乗じて、ロゲリウス2世がビザンツ帝国を攻撃。アドリア海のコルフ島、ケファレーニア島を奪い取った。
1154年、ロゲリウス2世死去。ウィレルムス1世(グリエルモ1世)が即位すると、ビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノス、ローマ教皇ハドリアヌス4世がシチリア島を襲撃。1156年、ウィレルムス1世が勝つ。
1160年、ムワッヒド朝がノルマン朝シチリアから北アフリカ諸都市を奪還。
1166年、ウィレルムス2世(グリエルモ2世)即位。ファーティマ朝アレクサンドリア、ムワッヒド朝チュニス・パレアレス諸島、ビザンツ領テッサロニケに遠征。
1187年、ウィレルムス2世(グリエルモ2世)は、サラディンのイェルサレム奪回に対し、即座に十字軍を派遣し勇名を馳せた。
*イスラム・スンナ派4大法学派
ラーイ:自由に理性に基づく個人的意見
ハディース:ムハンマドの言葉や行いを伝える伝承
ハナフィー派 寛容 イスティフサーン(ラーイ)を多用。アグラブ朝、セルジューク朝、オスマン朝、ムガール帝国で採用された。
マーリク派 厳格 イスティスラーフ(ラーイ)を多用。マグリブ(北アフリカ)、アンダルス(イベリア半島)で採用された。
シャーフィイー派 「コーラン(神の啓示)」と「スンナ(ムハンマドの慣行)」のみを重要視。シャリーア(イスラム法)として統一理論が作成された。ラーイを軽視。
ハンバル派 戦闘的 理性を排した徹底した伝統主義をとった。サウジアラビア、イラン、アフガニスタンで採用された。
12世紀後半、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭バルバロッサ)がロンバルディア金融を目的にイタリア遠征。1189年、シチリア王ウィレルムス2世(グリエルモ2世)断絶。神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とイングランド王リチャード1世(獅子心王)が後継者争い。シチリア島からノルマン人を駆逐。第3回十字軍の帰途、リチャード1世がオーストリア公レオポルト5世に捕縛され、ハインリヒ6世に身を引き渡された。さらに弟ジョン王の王位簒奪を扇動していたフランス王フィリップ2世(尊厳王)に身柄を渡すぞと脅され、完全にシチリア王即位を断念。反ハインリヒ同盟が瓦解して、ハインリヒ6世がシチリア進攻し、1193年、シチリア王に即位した。ノルマン人はナポリ王国を死守した。のちフィリップ2世はジョン王から失地回復することになる。
イングランド・ジョン王が大陸のイングランド領をフランス王ルイ9世に奪われ、アンジュ帝国が崩壊した。新たに得たアンジュ伯領は、ルイ9世の弟シャルルに治めさせ、アンジュ伯シャルルとなった。
1254~1273年、大空位時代。神聖ローマ皇帝を選ぶ選挙が紛糾して、皇帝がいなかった。
1268~1271年、教皇座空位時代。ローマ教皇を選ぶコンクラーベが紛糾して、教皇がいなかった。
1260年代、アンジュ伯シャルルがシュタウフェン朝ドイツ王マンフレディを敗死させて、シチリア王国を奪った。ニケーア帝国(ビザンツ帝国亡命政権)に敗れて亡命してきたラテン皇帝ボードゥアン2世を保護。ヴェネツィア共和国と共謀してラテン帝国復興を画策した。アンジュ伯シャルルはシチリア島民から激しく搾取した。島民はアンジュ伯を恨むことになる。
アンジュ伯シャルルは、フィレンツェ豪商(毛織物業)から莫大な支援を受けていた。
十字軍が終わるころ、1282年、シチリアの晩鐘で、アンジュ伯がシチリア島から追放され、アラゴン王国がサルディニア島、シチリア島を占領。コルシカ島は新進気鋭のジェノヴァ共和国が領有。
ヴェネツィア共和国は、陸戦は傭兵を駆使して任せ、海戦は自分たちの手で勝利を勝ち取っていった。
1435年、アンジュ家断絶。←フランス国内の親英!
1442年、アラゴン王国がナポリ王国を継承して両シチリア王国となった。アラゴンとカスティーリャが合併したスペインが、のちに両シチリア王国を領有することになった。
1453年、ビザンツ帝国滅亡。
ここまできてやっと、十字軍が理解できる。ノルマン人が大活躍だった。
十字軍家系 自腹を切って参加し、多くの財産を承知の上で失った。
1097年5月、正規十字軍がコンスタンティノープルに集結。ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、十字軍兵士に臣従を要請し、兵士は皇帝に対して臣従を誓った。兵士はアレクシオス1世から、援軍・食料や物資の補給・道案内役の同行を期待できた。旧ビザンツ帝国領が回復された際は、皇帝に返還するという約束が生じた。
第1回十字軍で莫大な戦果を挙げたのが、ノルマン人戦士、タンクレーディだった。ノルマン人はビザンツ帝国領だった南イタリアを侵食して奪取したばかり。十字軍をコンスタンティノープルで出迎えたものの、ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、このノルマン戦士を心から嫌っていた。タンクレーディは、下ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨンに仕えていた。
*ヴェネツィア艦隊 商売相手のファーティマ朝の顔色を窺っていたので、補給のタイミングが出遅れた。
1097年 ドリュラエウムの戦い。十字軍が初戦勝利を飾った。
第一回十字軍
vs ルームセルジューク朝クルチ・アルスラーン1世、ダニシュメンド朝アフマド・ガーズィー
十字軍は二つに分かれた。
1 ボードゥアン・ド・ブローニュ
ノルマン人タンクレーディがタルスス占拠し、あとから来たボードゥアンに譲り、アダナに前進した。そのあとからノルマン人部隊がタルススに到着したが、ボードゥアンは入城拒否。セルジューク朝が来襲してノルマン人部隊が全滅した。ボードゥアンがアダナに到着すると、タンクレーディはアダナを明け渡して、マミストラを目指し占拠。あとからボードゥアンがマミストラに到着したとき、タンクレーディが入城拒否。タンクレーディはアレクサンドレッサを目指し占拠。ターラント侯ボエモンドと合流。
ボードゥアンはアルメニア人トロスが支配するエデッサを目指した。セルジューク朝の脅威もあり、あっさり開城。1098年3月、ギリシャ正教徒トロスがアルメニア聖使徒教徒の住民に殺害されたため、ボードゥアンはエデッサ伯を自称した。
2 ターラント侯ボエモンド、トゥールーズ伯レーモン4世、フランドル伯ロベール1世、下ロレーヌ伯ゴドフロア・ド・ブイヨン
1097年10月、ジェノヴァ船が聖シメオンに到着。物資を補給しハラムを占拠。セルジューク朝ヤギー・シャーンが来襲して食糧が尽きて飢餓状態になった。1098年8月、ボエモンドが棄教アルメニア教徒フィールーズを調略してヤギー・シャーンを殺害してアンティオキアを占拠し、アンティオキア侯国を建国した。ギリシア正教会総大主教ヨハネスを駆逐して、カトリック教会アンティオキア総大司教ベルナール・ド・ヴァランスを置いた。セルジューク配下のモースル摂政ケルボガがアンティオキア包囲するも、修道士ピエール・バルテルミーが聖槍を発見し、十字軍兵士の士気があがりケルボガ軍を撃破。ル・ピュイ司教アデマールがチフスで病死。1099年2月、ピサ大司教ダインベルトがアデマールの代わりの教皇特使として派遣され、士気が上がった。1099年7月、ファーティマ朝宰相アル・アフダルが支配していたエルサレムが陥落した。ゴドフロアが選挙でエルサレム王に即位。アスカロンでアル・アフダル軍を撃破。対立候補だったレーモン4世はトリポリを攻略。1105年にレーモン4世が死去し、1109年息子のアルフォンス1世がトリポリ伯に即位してトリポリ伯国を建国。タンクレーディは、ベツレヘム、カエサリアを占拠しガリラヤ侯国を建国。さらにビザンツ帝国領のアレッポ、キリキアまで占拠し、アレクシオス1世を怒らせた。
1100年、ゴドフロア病死。エデッサ伯ボードゥアン1世がエルサレム国王に即位。領土争いをした大司教ダインベルトをエルサレムから追放し、タンクレーディをアンティオキア公国摂政として、ガリラヤ侯国を併合した。ジェノヴァ艦隊やノルウェー艦隊の補給援助を得て、沿岸のアルスール、カエサリア、トリポリ、ベイルート、シドンを奪取した。人出不足を補うため、1113年、シチリア伯ルッジェーロ1世の未亡人アデライデ・デル・ヴァストと再婚。
1104年、ハッラーンの戦い。エデッサ伯ボードゥアン2世、ターラント侯ボエモンド、タンクレーディがセルジューク朝に敗北。
1107年、父ロベール・ギスカールが果たせなかった夢を果たすべく、ボエモンドがアルバニア侵攻。ビザンツ皇帝アレクシオス1世の逆鱗に触れ、1108年、デアボリス協定を結び、アナトリアの地を二度と踏まないことを約束させられた。1111年、ボエモンド1世がイタリアで死去。幼い息子ボエモンド2世が即位、摂政にサレルノ侯ルッジェーロがついた。
1118年、エルサレム王国ボードゥアン1世死去。エデッサ伯を家臣ジョスラン1世に与えて、ボードゥアン2世がエルサレム国王に即位。翌年、テンプル騎士修道会を設立した。
1119年、血の平原の戦い。サレルノ侯ルッジェーロがセルジューク朝に敗死。教皇カリクストゥス2世が十字軍提唱。エルサレム国王ボードゥアン2世がアンティオキア公国ボエモンド2世の摂政を兼ねた。
1123年、セルジューク軍の闇討ちでボードゥアン2世捕囚(~1124)。エルサレム総大司教ゴルモン・ド・ピキニーがエルサレム国王代行を果たした。
1124年、ヴェネツィア共和国艦隊が十字軍手つかずのティール陥落。
1127年、イマードゥッディーン・ザンギーがモースル太守に就任し、エデッサ伯ジョスラン1世と和平を結んだうえでアレッポも制圧した。ザンギー朝勃興。1128年、ダマスクス制圧。1129年、ハマーとホムス制圧。
1130年、キリキア遠征中、ボエモンド2世がダニシュメンド朝の伏兵に殺害された。ボードゥアン2世は、エデッサ伯ジョスラン1世をアンティオキア公に据えた。
1131年、ボードゥアン2世死去。娘メリザンドと夫アンジュー伯フルク5世がエルサレム国王に即位。
1131年、ジョスラン1世戦死。ボードゥアン2世娘アリクスがアンティオキア侯に着任。
1136年、フルク5世の後援で、レーモン・ド・ポワティエ(アキテーヌ公ギョーム9世の息子)がアンティオキア侯に就任。
1143年、フルク5世が落馬で死去。ボードゥアン3世がエルサレム国王に即位。母メリザンドが摂政。
1144年、ザンギーがエデッサを陥落。
1146年、ザンギーが奴隷により暗殺。
1148年、エデッサ回復目的で、第二回十字軍。教皇エウゲニウス3世が提唱。ダマスカス包囲戦。
ザンギー朝ヌールッディーン
vs フランス王ルイ7世・神聖ローマ皇帝コンラート3世
1150年、旧エデッサ伯領が、ルーム・セルジューク朝マスウード1世、ザンギー朝ヌールッディーン、アルトゥク朝テムル・タシュ・フサームのトルコ系3国で分割された。
1153年、ルノー・ド・シャティヨンがコンスタンスと結婚し、アンティオキア侯に即位。
1154年、ヌールッディーン、内陸シリアをほぼ制圧。
1163年、ボードゥアン3世毒殺。弟アモーリー1世がエルサレム国王に即位。アモーリー1世がエジプト遠征。
1164年、亡命中のファーティマ朝宰相シャーワルの依頼で、ヌールッディーンがクルド人武将シールクーフに命じてエジプト遠征。シャーワルが解放されても金銭を払わず、シールクーフがシャーワルを包囲。シャーワルの要請でアモーリー1世がエジプト遠征。ヌールッディーンが国王不在のエルサレム王国を攻撃、1165年、休戦。
1167年、アモーリー軍とシールクーフ&サラディン軍がエジプトで激突したが、休戦。アモーリー軍が再度エジプト侵攻をみて、シールクーフ軍もエジプト入り、シャーワルが殺害され、ファーティマ朝宰相にシールクーフが任命されたが急逝、サラディンが着任した。
*サラディン サラーフッディーン・ユースフ・ブン・アイユーブ
1171年、サラディンがアイユーブ朝を建国。
1174年、ヌールッディーン、アモーリー1世が相次いで死去。ハンセン病のボードゥアン4世がエルサレム国王に即位。
*エルサレム国王 ボードゥアン4世
*アンティオキア侯 ボエモンド3世
*トリポリ伯 レーモン3世
*ビザンツ皇帝 マヌエル1世
1176年、ミュリオケファロンの戦い。ビザンツ帝国はこの敗北で小アジアから完全撤退。
ビザンツ帝国マヌエル1世 vs ルームセルジューク朝クルチ・アルスラーン2世
1177年、モンジザールの戦い。ボードゥアン4世が大勝。
エルサレム王国ボードゥアン4世 vs アイユーブ朝サラディン
1178年、ダニシュメンド朝がルーム・セルジューク朝に併合された。
1185年、ボードゥアン4世死去。
1186年、息子ボードゥアン5世死去。ポワティエのリュジニャン伯ユーグ8世の息子ギーが、ボードゥアン4世姉シビーユとともにエルサレム国王に即位。
1187年、ハッティーンの戦い。サラディンがエルサレム陥落。
エルサレム王国ギー vs アイユーブ朝サラディン
1190年、第三回十字軍。教皇ウルバヌス3世がショック死して、教皇グレゴリウス8世が提唱。仏フィリップ2世と英リチャード1世の助力で、ギーがアッコン奪還。
1192年、リチャード1世が陥落させたキプロス島をギーに売却。
1193年、サラディン死去。アイユーブ朝が後継者争いのチャンスを十字軍側が利権争いのため生かせず。
1194年、ギー死去。
1197年、神聖ローマ皇帝・シチリア王ハインリヒ6世が十字軍派遣。報酬として、キプロス島とキリキア・アルメニア王国の宗主権を獲得した。
第4回十字軍はビザンツ亡命皇子アレクシオスによってコンスタンティノープルに導かれ、アレクシオス早逝により、ヴェネツィア共和国がビザンツ帝国を支配することになった。
十字軍諸侯によって、ラテン帝国、アカイア公国、テッサロニキ王国、アテネ侯国が建国された。
旧ビザンツ帝国系残存勢力によって、ニケーア帝国、エピロス専制侯国、トレビゾンド帝国が建国された。
クレタ島はジェノヴァ人が進出していたが、ヴェネツィア人がジェノヴァ人を駆逐して、1209年、初代クレタ総督ジャコモ・ティエポロを任命した。数度の入植政策によって、ラテン系ヴェネツィア人に対し先住民ギリシャ人が反乱を起こすも徐々に融合していった。1453年、オスマン皇帝メフメト2世によってビザンツ帝国が滅亡すると、(生粋のヴェネツィア人ではなく)ギリシャ系ヴェネツィア人がコンスタンティノープルでヴェネツィア東方貿易を担当した。
12世紀にはムスリムが人口の大多数を占めた。外人軍人による政治がひどく、人々は神秘主義(スーフィズム)にのめり込んだ。やがて神秘主義教団(タリーカ)が多数結成され、支配層まで弟子に組み込むようになった。ムスリムは狭い区域や人間集団に閉じこもり、知的活動や日常生活が束縛された。また遊牧民の跳梁によって、耕地は牧場化し、経済は縮小し、人口が減少していった。
13世紀はモンゴルの世紀。安価なマムルークとカーリミー商人を産んだ。
モンゴル人は、カスピ海、黒海北方の草原に遠征して、キプチャク族、ホラズムなどトルクメンを大量に奴隷化した。クルド人国家のアイユーブ朝は、大幅に価格を下げた彼らを大量に購入して、マムルークという白人奴隷兵とした。彼らの指導者アイバク(1250~1257)が1250年、第7回十字軍で侵入してきたフランス王ルイ9世を捕獲したあと、スルタンの位を奪ってマムルーク朝を興した。彼らは、1260年、ガリラヤのアイン・ジャールートの戦いで、エジプトに侵入しようとしたモンゴル人を破った。この戦いで先鋒指揮官として活躍したバイバルス(1260~1277)は、スルタンを殺して即位し、アッバース朝の一族を名目的なカリフとしてエジプトに招き、シリアを征服して強力な中央集権体制を築き、十字軍を圧倒していった。次いでカラウン(1280~1290)もシリアに侵入したモンゴル人に大勝し、その子ハリールが1291年、十字軍の拠点アッコンを陥落させた。アン・ナースィル(1299~1340)は、検地(ラウク)を行い、軍人がイクターの農民を隷農(キン)とみなし、都市でも農村でも外人軍人による軍事支配体制が貫徹するようになった。また、コーカサス北麓のチェルケス人が購入されるようになり、クリミア出身のスルタン、バルクーク(1382~1399)以後、トルコ人にとって代わられた。
*隷農 農奴的束縛から解放され、賦役を徴収されず、生産物地代か貨幣地代を課せられた農民。
*農奴 賦役・貢納の義務を負い、農工具の私有は許されたが、住居や職業に自由は認められない農民。
アイユーブ朝の時代からカーヒラに本拠地を置くカーリミーと呼ばれるムスリムのみから成る商人が、インドやヤマンに代理人を置き、胡椒など香辛料を仕入れて、アレクサンドリアやディムヤートに商館(フンドゥク)をもつヴェネツィア、ジェノヴァ、マルセイユなどの商人に転売していた。マムルーク朝は、ヤマンのラスール朝(1229~1454)と協力し、紅海や、アイザーブ港とナイル間の陸路を警備する一方、この貿易に課税し、カーリミー商人から莫大な融資を受けていた。さらに、バルスバイ(1422~1437)は香料貿易を専売制にし、御用商人に成り下がったカーリミー商人は急速に衰えていった。
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