ポーランド・ピャスト朝
ミェシュコ1世(960~992)
グニェズノとポズナニに住むスラブ人ポラニェ族が、従士団を率いて、ヴロツワフとクラクフを占領した。
966年 カトリック(西方キリスト教)を導入。ザクセン朝オットー1世と親交。
968年 神聖ローマ帝国支配を嫌い、ザクセンと対立関係にあったバイエルンの聖職者から洗礼を受け、ポズナニに司教座を設置。
991年 ローマ教皇に臣従の意を表明した。

ボレスワフ1世(992~1025)
997年 プラハ司教ヴォイチェフがプルスィ族(古プロイセン人)に伝道して殉教。
1000年 神聖ローマ皇帝オットー3世が聖ヴォイチェフの墓参りで訪問し、ブニェズノに大司教座を設置した。
1002年 マイセン辺境伯エッケハルトを暗殺し、ボヘミア侵攻。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世と戦争。
1018年 バウツェン和約。
1025年 グニェズノで戴冠式、ポーランド王国が誕生。神聖ローマ帝国と対等になった。
ミェシュコ2世(1025~1034)
反キリスト農民反乱が勃発。兄弟が皇帝やキーウと同盟を結んだため、1031年にチェコへ一時亡命。
1034~1039年 内紛で一時ピャスト朝が滅亡。
カジミェシュ1世(1039~1058) 復興公
1039年 チェコ軍来襲、シロンスクを奪われた。莫大な財宝がチェコ軍に奪われた。神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(1039~1056)から騎士500人を得て、キーウと同盟し、全土回復した。
「ブジェチスラフ法典」を制定。
チェコ・プシェミスル朝
894年 マジャール人襲来によって、スラブ人の大モラヴィア王国が滅亡。大モラヴィア王国の臣下だったプシェミスル家が建国した。
ボジヴォイ1世(~894)
モラヴィア司教メトジェイから洗礼を受けた。聖ヴァーツラフは、東フランク王ハインリヒ1世(919~936)と親交、神聖ローマ帝国の上級支配を容認した。
ボレスラフ1世(935~967)
ボレスラフ2世(967~999)
973年 マインツ大司教座の下に、プラハ司教座が設置された。
ボレスラフ3世(999~1002)
ポーランド王ボレスワフ1世によってプラハを占拠された。
オルジフ(1012~1034)
大モラヴィア遺領を取り戻した。
ブジェチスラフ1世(1035~1055)
ボヘミアとモラヴィアを併せて統治した。
1039年 ポーランドからシロンスクを奪った。
1041年 神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(1039~1056)がハンガリー王ペーテル(ピエトロ・オルセオロ)とボヘミア大公ブジェチスラフ1世を破り、帝国の宗主権を認めさせた。
「ブジェチスラフ法典」を制定。
1043年 スートリ教会会議
神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征のついでに、ローマ教皇3人を廃位した。これがのちのカノッサの屈辱につながっていく。
プシェミスル家は、長子相続制を確立したことにより王朝を安定させたが、貴族層は分割相続制を採用しており、女性を通じての継承も可能だった。
チェコ貴族
1 フラビシェ家
2 ヴィートコフ家
3 マルクヴァルト家
4 ロノフ家
5 フロズナトフ家
6 ベネショフ家
7 ドゥルスラフ家
8 シュテルンベルク家
9 バヴォロフ家
10 オブジャン家
11 シュヴァーベニツェ家


オタカル1世(1198~1230)
1212年 シュタウフェン家とヴェルフェン家の争いで、シュタウフェン家を支持。フリードリヒ2世から、「シチリアの金印勅書」を授かった。チェコの君主が永続的に王を名乗ることを認めた。皇帝とチェコ王の封建的主従関係は保たれるが、チェコ国内で行われる国王選出に皇帝は介入できないと明記された。
1215年 第4回ラテラン公会議にプラハ司教オンジェイとオロモウツ司教ロベルトが参加。
プラハ司教オンジェイが、教皇インノケンティウス3世から直接叙任を受けて、感動のため全く別人になって帰国。突如として、俗権に対する聖権の優位を主張し始めた。司教が十分の一税の額や手段を一括して規定し、徴収しようとした。
1216年 オンジェイが聖務停止令を宣告し、ローマへ旅立つ。
1217年 オタカル1世は、マインツ大司教に救援を求め、聖務停止令が解除された。ローマ教皇ホノリウス3世(1216~1227)は書簡をボヘミア領内教会関係者に送り、オンジェイを支持した。
1219年 帰国したオンジェイが再び聖務停止令を宣告。
1221年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と対立した教皇ホノリウス3世は、ボヘミア王を味方に惹きつけておくために聖務停止令を解除。ボヘミア貴族に勅令。世俗領主の教会財産に対する接待強制を禁止、罰金は国王に納められた。教会領民は世俗裁判権から免除され、解放された。オンジェイは不服として国外撤去。
ヴァーツラフ1世(1230~1253)
収益に応じて貴族が上級貴族(官廷役人)と下級貴族(地方役人)に二分される。国王・上級貴族・教会は、三者協働して、下級貴族を排除した。
1247年 王子プシェミスルの反乱。
オタカル2世(1253~1278)
オタカル2世は、ドイツ人たちに街も村も分け与え、ドイツ人はそれらを城壁で囲み、領主たちに暴力を働き始めた。都市が重要な収入源になっていた。
ハプスブルク家ルドルフ1世の神聖ローマ皇帝就任に真っ向から反対した。
1276年 クトナー・ホラ銀山が発見された。ヨーロッパ銀の1/3を産出した。
1276年 ヴィートコフ家とフラビシェ家の反乱
1278年 マルヒフェルトの戦い
神聖ローマ帝国ルドルフ1世 大勝
vs ボヘミア王国オタカル2世 敗死
オタカル2世の嫡男ヴァーツラフに本領地ボヘミアを安堵して、もう一つの遺領オーストリア公領をハプスブルク家が没収した。ところが、ヴァーツラフの後見人だったブランデンブルク辺境伯オットーはヴァーツラフを連れ去り、ボヘミア王は不在となった。
ヴァーツラフ2世(1283~1305)
有力貴族の国政への参加が顕著になった。ボスニア貴族は、諸外国の君主からも保証人、仲裁人として能力を認められていた。
ヴァーツラフ3世(1305~1306)
ポーランド遠征中に殺害された。プシェミスル朝断絶。
ドイツ人は12世紀以来、君主のみならず有力貴族も積極的におこなった開墾植民のためにチェコへと陸続きで流入してきた。また13世紀以降、増加する都市建設においても招聘されたのは主にドイツ人であり、大都市であればあるほど富裕層をドイツ人が占めていたのである。君主は都市の経済的な力に大きな期待を寄せていた。そのため、君主の収入を増加させる都市民は優遇されており、彼らは故国ドイツでの慣習をチェコにおいてもそのまま認められていたのである。このことがチェコ人貴族の反感を招いた。君主はさらに、宮廷にドイツ人高位聖職者を招いて顧問としたり、チェコ人貴族から没収した所領をドイツ人に与えたりしている。
プシェミスル家からハプスブルク家へ王位相続!

ヴァーツラフ3世はチェコ王のシンボル・聖ヴァーツラフとして守護聖人に祭り上げられた。13世紀以降、チェコ貴族は身分的な連帯感を強め、13世紀末からは「聖ヴァーツラフの王冠」のもとに集う、階層的な利害共同体としての性格を帯びてきた。
*チェコ共同体とポーランド共同体のちがい
チェコは上級貴族のみに限定された。ポーランドはシュラフタのような中小貴族まで対等に国政参加した。
ドイツ人に抑圧されたチェコ人の不満の鬱積が、のちにフス戦争を引き起こした。フス戦争が鎮圧されたあとも、馬荷車バリケード(要塞)戦法を編み出したフス派傭兵として他国から重用されていった。
チェコ・ルクセンブルク朝
ヨハン(1310~1346)
チェコ貴族に政治を丸投げ。チェコ語をしゃべらず、フランス語をしゃべった。
1344年 教皇クレメンス6世は、プラハ司教座を大司教座に昇格した。
1346年 クレシーの戦いでフランス王を援軍、戦死。
カレル4世(1347~1378)
パリ時代に修道士ピエール・ロジェと親交を結び、ピエール・ロジェがアヴィニョン教皇クレメンス6世に即位。その推薦で、カレル4世は1346年にドイツ王に選ばれていた。1346年、聖ヴァーツラフの王冠を作製。1347年、ボヘミア王に即位。1355年、ローマに遠征し、神聖ローマ皇帝に即位した。
1348年 パリ大学に倣って、プラハ大学を創設。
1356年 帝国議会で、「金印勅書」を発布。
チェコやモラヴィアでは、教会へ富が偏在しており、クロムニェジージの説教師ミリーチが教会の奢侈を批判した。
ヴァーツラフ4世(1378~1419)
1400年ころ、プラハ大学にウィクリフ派マギステルの一人、ヤン・フスが登場、教会や社会の問題を説教した。聖職売買を批判し、1412年、ローマ教皇が売り出した贖宥状を批判。
1414年 コンスタンツ公会議
1415年 フス火刑
1419~1434年 フス戦争
1436年 チェコ議会がバーゼル協約を承認して、フス戦争は終結し、ジギスムントはボヘミア王として迎えられた。
ジギスムント(1436~1437)
ルクセンブルク家断絶。

チェコ・ハプスブルク朝
アルブレヒト(1437~1439)
ボヘミア王が空位となる。
ラジスラフ(1453~1457)
イジー(1458~1471)
ラジスラフの摂政を務めたウトラキスト(フス穏健派)貴族。
1468年 ハンガリー王マーチャーシュ1世(1458~1490)がカトリック貴族によってボヘミア王に推戴。モラヴィアを奪った。
チェコ・ヤゲウォ朝
ヴワディスワフ(1471~1516)
1479年 オロモウツ和約。ハンガリー王マーチャーシュ1世と和解。
1485年 クトナー・ホラ協約。カトリックとウトラキストが和解。
1490年 ハンガリー王ウラースロー2世として即位。
ルドヴィーク(1516~1526)
ハンガリー王ラヨシュ2世としても兼任即位。
1526年 モハーチの戦い
ボヘミア王・ハンガリー王ラヨシュ2世 敗死
vs オスマン帝国スレイマン1世 勝ち
チェコ・ハプスブルク朝
フェルディナント1世(1526~1564)
オーストリア大公(1521~1564)・ハンガリー王(1526~1564)も兼任即位。防衛任務もあり、ウィーンで暮らす。のち神聖ローマ皇帝(1556~1564)に即位。
1529年 オスマン帝国スレイマン1世が第一次ウィーン包囲。
中央アジアで、帝国として周知されていたのは、ビザンツ帝国、アッバース朝、ハザール汗国の3つだけ。
玄奘三蔵が絹のカーテンをふんだんに用いた豪華絢爛に驚嘆した西突厥がハザール汗国になる。その配下に、マジャールとペチェネグ(弓月・カンガル)が仕えていた。大乗仏教を棄てユダヤ教を国教とした。
ハザール可汗が、ルーシ南下を嫌ってマジャールをクリミアに配置する。
次にペチェネグをクリミアに派遣する。895年、死闘に敗れたマジャールが東遷、スラブ人の大モラヴィア王国を滅ぼして、パンノニアでハンガリーを建国する。大モラヴィア公国の臣下だったボヘミア人がボヘミア公国(チェコ)を建国する。
894~896年 ビザンツ・ブルガリア戦争
ビザンツ国内で売られるブルガリア商品に対する税の引き上げをきっかけにして始まった。
ビザンツ帝国レオン6世 マジャールが同盟 負け
vs ブルガリア王国シメオン1世 ペチェネグが同盟 勝ち
落ちぶれたハザール傭兵はビザンツ側に付いたため、捕虜は全員鼻を削がれてコンスタンティノープルに送られた。
ユダヤ教商人団ラダニヤ 750年から奴隷貿易
ビザンツ皇女アンナが、キエフ・ルーシのヴォロディーミルに嫁いだ。
863年 ビザンツ帝国が初の「ギリシア火」でアラブ艦隊を撃滅し、ルーシの交易ルートがヴォルガ川からドニエプル(ドニプロ)川に変わった。
966年 スヴャトスラフ1世がハザール汗国を滅ぼす。
1130年ころから内紛によってキエフ・ルーシが衰退。
1240年 モンゴルがキエフ・ルーシを支配。
キプチャク汗国が首都サライとノヴゴロドを結ぶヴォルガ川交易を再興、バルト海のハンザ同盟と盛んに交易したため、キエフ・ルーシは荒れ果てた。
1363年 リトアニア大公オルゲルドがキエフを含むウクライナを征服して、「タタールの軛」が終わった。
キリスト教商人団ルーシ 800年から奴隷貿易
835年 ハザール汗国でカバール革命。貴族がハンに反乱し、ハンがルーシ商人団に亡命し、婚姻によりルーシ・ハン国が成立した。
860年 ルーシがビザンツ帝国首都コンスタンティノープルを襲撃。

ハールィチ・ヴォルィーニ公国(ガリツィア・ヴォルイニ公国)
ローマン
1199年 キエフ・ルーシのローマンが、ガリツィア・ヴォルイニ公国を建国。
ダニイロ
1246年 ダニイロが、キプチャク汗国バトゥに臣従。
レフ
ユーリー
レフ2世・アンドリィ共同統治
ユーリー2世 1340年滅亡

ポーランド・ピャスト朝
ボレスワフ2世(1058~1079)
叙任権闘争で、教皇グレゴリウス7世を支持。1076年、王冠を授かった。君主権強化を恐れた反対派が結集したため、ハンガリー亡命。
ヴワディスワフ・ヘルマン公(1080~1102)
帝国の宗主権を認めた。
ボレスワフ3世(1102~1138)
近隣国の侵略が激しかったので、1135年、神聖ローマ皇帝ロタール3世(1125~1137)に全ポーランドを封土として認めた。
ポーランドの農民は君主・国家に属し、公・貴族・教会は農民を完全に服属させ、それぞれの農奴(私有民)とすることはできなかった。下シロンスクのヘンリク髭公・ヘンリク敬虔公は、専制君主制を目指したが、モンゴル襲来で破綻した。
ヘンリク1世 髭公(1232~1238)
ヘンリク2世 敬虔公(1238~1241)
1241年 レグニツァ(リーグニッツ)の戦い
13世紀、君主が発給する不輸不入権(インムニテート)によって、一般農民は城砦管区やオポレ共同体から切り離され、聖俗貴族や騎士に直接従属する農奴に変質していった。ヘンリク髭公は、ドイツ人を入植させて、インムニテートを保証した。やがてポーランド人の入植者にも適用され、最後には全土に及んだ。都市自治が承認されると、都市領主はユダヤ人を招致した。

ドイツ騎士団とポーランド王国の関係においても、騎士団のシュラフタ(新興貴族)昇進を徐々に承認していった。相続制度を厳しく限定するレーエン制がなかったため、特権層は同一の紋章と合図を持つ紋章氏族制が発達した。既存の貴族が中下層の騎士を従属させるための手段となり、同族としての法的平等観と連帯意識を産んだ。


レシェク2世 黒公(1279~1288)
ヘンリク4世 高潔公(1288~1290)
プシェミスウ2世 (1295~1296)
ヴァーツラフ2世(1300~1305)
チェコ王を招いた。
ヴァーツラフ3世(1305~1306)
ヴワディスワフ1世 短身王(1320~1333)
1327~1333年 ポーランド・チュートン戦争
ドイツ騎士団・ボヘミア王ヨハン 勝ち
vs ポーランド王ヴワディスワフ1世 負け
カジミェシュ3世 大王(1333~1370)
1335年 ボヘミア王ヨハンからポーランド継承権を購入。
1340~1392年 ハリチ・ヴォイン継承戦争
ハリチ・ヴォイン公国のユーリー2世が国内貴族に毒殺。ポーランド王国、リトアニア公国、キプチャク汗国が争奪戦に参加。
1343年 カリシュ永遠の和約
ポーランドがドブジニとクヤヴィを獲得する代わりに、東ポモジェとヘウムノをドイツ騎士団への「永遠の贈り物」とした。
ポーランド・アンジュー朝
ルドヴィク1世(1370~1382)
ポーランド・ピャスト朝断絶。アンジュー家のハンガリー王ラヨシュ1世(1342~1382)がポーランド王兼任で即位した。
娘の王位継承権を認めさせる代わりに、ハンガリー王国コシツェに、身分代表制の国王評議会にシュラフタ参加を認めた。上級身分だけでなく、下級身分にまで議会参加できた。
ヤドヴィガ(1384~1399)
リトアニア大公ヨガイラ(1377~1392)と結婚した。ポーランド・リトアニア連合王国が誕生。
ヴワディスワフ2世(1386~1434)
1410年 タンネンベルクの戦い
ポーランド・リトアニア王国 ヴワディスワフ2世 大勝
vs ドイツ騎士団 大敗
1414年 コンスタンツ公会議
1419~1434年 フス戦争
ハンガリー王(1387~1437)・ドイツ王(1410~1437)・ボヘミア王(1419~1437)・神聖ローマ皇帝(1433~1437)ジギスムント
vs フス派
ヴワディスワフ3世(1434~1444)
ビザンツ皇帝ヨハネス8世パレオロゴスがヨーロッパ諸国を訪問してSOSを発した。
ローマ教皇エウゲニウス4世(1431~1447)が十字軍を主導。
1444年 ヴァルナの戦い
ポーランド・ハンガリー王ヴワディスワフ3世 敗死
vs オスマン帝国ムラト2世 勝ち

900年 カロリング朝の東フランク王ルートヴィヒ4世即位。異教徒騎馬民族、ハンガリーのマジャール人が出現。
907年 バイエルン辺境伯ルイトポルトがプラティスラヴァ近郊で、マジャール人に大敗。
910年 ルートヴィヒ4世率いるロートリンゲン公ゲープハルトがアウグスブルク近郊レヒ河畔でマジャール人に大敗。
911年 ルートヴィヒ4世死去で、カロリング朝断絶。リウドルフィング家、バーベンベルク家、コンラート家が争った。コンラート家のコンラート1世が東フランク王即位。
912~913年 西フランク王に寝返ったロートリンゲン貴族遠征で敗北。
918年 コンラート1世がバイエルン軍に敗死。
919年 ザクセンにゆかりの深いリウドルフィング家のハインリヒ1世(919~936)が、東フランク王に即位。
925年 ロートリンゲン奪還。
933年 リアーデの戦い。貢納拒否に怒ったマジャール人がザクセン・テューリンゲン連合軍に敗北。

936年 ハインリヒ1世が脳卒中で死去。オットー1世(936~973)がカール大帝ゆかりのアーヘンで東フランク王に即位。アーヘンはケルン大司教管区だが、筆頭格のマインツ大司教ヒルデベルトが戴冠式を主催した。黄金の王冠は、マインツ大司教ヒルデベルトとケルン大司教ヴィクフリートの共同作業でかぶせられた。ザクセン人のオットーがフランク人になったことを殊更強調した。臣従した貴族は、
フランケン大公エーベルハルト
バイエルン大公アルヌルフ
ロートリンゲン大公ギーゼルベルト
シュヴァーベン大公ヘルマン
オットー1世は、弟、息子、臣下貴族の反乱に苦しんだ。西フランク王国がルイ4世(936~954)のとき、国王派と反国王派に分かれて内紛。ルイ4世がロタリンギアを欲していたので、オットー1世は反国王派のカペー家を支持した。西フランク王国はルイ5世(979~987)でカロリング家が断絶した。
シュヴァーベン大公もバイエルン大公も、アルプスを越えて北イタリアまで勢力を拡張する南下政策を伝統的に志向してきた。
951~952年 第一次イタリア遠征。ヴェローナ辺境伯領をバイエルン大公領とした。イタリア王ベレンガーリオ2世(950~966)を臣従させた。のちのち何度もイタリア王は反逆を企てた。
954年 シュヴァーベン大公リウドルフとバイエルン宮中伯アルヌルフがマジャール人侵攻を誘導。レーゲンスブルク包囲戦で、アルヌルフ敗死、リウドルフは大公位剥奪。
955年 レヒフェルトの戦い。オットー1世がマジャール人に大勝。ザーリアー家のロートリンゲン大公コンラートが戦死。そのひ孫コンラート2世が、1024年、オットー朝断絶後にザーリアー朝を開いた。
961~965年 第二次イタリア遠征。962年、聖ピエトロ教会で教皇ヨハネス12世が、オットー1世にローマ皇帝位を戴冠した。
教会分裂
皇帝派 レオ8世、ヨハネス13世
ローマ市民派 ヨハネス12世、ベネディクトゥス5世
966~972年 第三次イタリア遠征。ビザンツ帝国配下のランゴバルド系諸侯国(カープア侯、ベネヴェント大公、サレルノ大公)に、恭順と服従を迫った。969年、ビザンツ皇帝ニケフォロス2世が暗殺された。
972年 ビザンツ皇女テオファーヌがオットー2世(961~983)に降嫁。
988年 ビザンツ皇女アンナがキエフ大公ウラジーミル1世(980~1015)に降嫁。

ハンガリー大公国・アールパード朝
最高名誉首長(ケンデ) クルサーン
軍事指揮官(ジュラ) アールパード
アールパード(895~907)
マジャール人は、クルサーン(~904)とアールパード(855~907)のふたりに率いられてカルパチア盆地に侵入。899年には、イタリアに侵入し、パンノニアを支配下に置いた。902年に大モラヴィア国を滅ぼした。904年、クルサーン暗殺。
ジョルト(907~947)
907年 プレスブルク(いまのブラティスラヴァ)近郊でバイエルン軍を撃破。
910年 フランク王国西部(アウグスブルク)などに侵入。
タクショニ(947~972)
955年 レッヒフェルトの戦い
東フランク王国オットー1世 勝ち vs マジャール軍 負け
マジャール人がフランク王国から撤退。
970年 ブルガール人との争いも集結した。
当時のハンガリー公国高官たちはビザンツ帝国コンスタンティノープルを訪れ、東方キリスト教文化を取り入れた。
ゲーザ(972~997)
西方キリスト教文化を取り入れた。996年に、ベネディクト派修道院パンノンハルマを建設。

ハンガリー王国
イシュトヴァーン1世(997~1038)
1000年 ローマ教皇シルヴェスター2世によって戴冠され、公国から王国に昇格した。
ビザンツ帝国の支援を得て、ローマ教会回収に反対していたトランシルヴァニアのアイトニを平定。
1028年 改宗と国家の統一を完成した。
ハンガリー国内に2つの大司教区、8つの司教区を置いた。40ほどの県(メジェ)を設け、各県に城を設けた。これを城県制度(ヴァールメジェ)と呼ぶ。中央から地方長官(イシュパーン)を派遣し、その下に戦士を擁して、県を支配・管理した。王のもとには元老院と諮問機関が置かれ、その下に官僚機構が設けられた。支配階級(ウール)のもとに各首長が自由戦士として位置づけられ、その下に平民が置かれた。
ペーテル(1038~1041/1044~1046)
シャームエル(1041~1044)
1046年 異教徒ヴァタの乱
アンドラーシュ1世(1046~1060)
ベーラ1世(1060~1063)
シャラモン(1063~1074)
ゲーザ1世(1074~1077)
ラースロー1世(1077~1095)
1089年 クロアチア王を兼任した。
カールマーン(1095~1116)
第一次十字軍の国内通過を容認した。クロアチア、スラヴォニア、ダルマチアを支配。クロアチア支配によって、内陸はザグレブ、ベオグラードを支配でき、海岸はスパラート、ラグーザを支配できた。
アンドラーシュ2世(1205~1235)
国王の世襲財産(家督)は国土の70%だったが、修道院、教会、貴族、慈善施設に分配し、代わりに貨幣鋳造や鉱山採掘など税収を得た。
1222年 「宮廷革命」新興貴族が古い聖俗の貴族を追放したため、王権に対する貴族の抵抗権を認めた「金印勅書」を出させた。
ベーラ4世(1235~1270)
1241年 モヒ(シャヨー河畔)の戦い
ハンガリー軽装騎兵 負け vs モンゴル軽装騎馬弓兵 勝ち
1242年 モンゴル撤退
ベーラ4世の軍制改革
1 全身鉄製鎧を導入し、重装騎兵団創設。軍馬にも鎧を装備。歩兵と騎兵の混成部隊を創設。
2 クロスボウ部隊創設。ドイツ・イタリアからクロスボウ職人を招聘。
3 城郭の強化。モンゴルは野戦で無敵だったが、攻城には時間がかかった。
県の支配権を貴族に与え、各県の代表を立法に参加させた。国王は宮廷維持のために、各地の王領地、鉱山、塩など租税から収入を得て、交易によって銀を得た。
輸出品 牛肉、ワイン、塩
輸入品 布、絹、香辛料
すべての都市を、石造・石城壁で囲ませたドイツ的中世都市に変えた。1237年から1244年にかけて、都市市民に関税免許、判事の自主選出権を認めていった。「王国自由都市」と呼ばれ、国王に一定の納税をすれば、市民の自由が保障された。
領主が自己の所領内の村に市場開設権や自治の特権を与えて都市をつくり、「市場町」よ呼ばれた。
1251年にはユダヤ教徒の移住を促進し、ポジョニやショプロンの町でユダヤ教徒にキリスト教徒と同じ特許を与えた。
1260年 クレッセンブルンの戦い
ベーラ4世が、ハンガリー王オタカル2世と同盟。
ハンガリー重装騎兵&周囲にクロスボウ部隊 勝ち
vs モンゴル軽装弓騎兵 モンゴル軍初の大敗
これ以降、モンゴルはヨーロッパ侵攻をやめた。
ラースロー4世(1272~1290)
1279年、クマン人とヤース人に自治権を与え、「ヤース・クマン地方」が成立した。

ハンガリー王国・アンジュー朝
カーロイ1世(1308~1342)
中小貴族と大貴族が対立しつつ、ともに王権を脅かしていた。チャーク・マテーのような大貴族を滅ぼして、教会の支持を取り付けた。バンスカー・シュティアヴニツァ金山に加え、北ハンガリーやトランシルヴァニアで金鉱を発掘して、王室財産を強化した。
1328年、クレムニツァに自治都市権を与えた。
1335年、クレムニツァ貨幣鋳造所で「フローリン金貨」を鋳造。
1335年、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア3国がヴィシェグラード同盟。
ブダやペシュトを中心に王国自由都市を増設した。農民の大多数は自由農民であり、農奴は少数だった。
ラヨシュ1世(1342~1382)
1347年、ヴィシェグラードからブダに王宮を移転した。
1370年、ポーランド・ハンガリー同君連合
1375年、トランシルヴァニアに侵入したオスマン帝国を撃退。
ハンガリー王国・ルクセンブルク朝
ジギスムント(1387~1437)
強力なハンガリー貴族層に取り囲まれて、身動きが取れなかった。ヴェネツィア共和国との戦争に敗北してダルマチアを放棄した。同様に、ボスニアも放棄した。
1396年 ニコポリスの戦い
オスマン帝国バヤジット1世 勝ち
vs ハンガリー王国ジギスムント 負け
1414年 コンスタンツ宗教会議
1419~1434年 フス戦争
1428年 ゴルバッツの戦い
オスマン帝国ムラト2世 勝ち
vs ポーランド王国ヴワディスワフ2世・ハンガリー王国ジギスムント 負け
1428年 王宮をブダからプレスブルク(ブラティスラヴァ)に移転。大貴族が独自の軍隊を率いる権利を認めた。
1437~1438年 ブダイ・ナジ・アンタルのトランシルヴァニア農民蜂起
ハンガリー王国・フニャディ朝
フニャディ・ヤーノシュ(1441~1456)
1456年 ベオグラード包囲戦
ハンガリー王国フニャディ 勝ち ペストで陣中死去
vs オスマン帝国メフメト2世 負け
マーチャーシュ1世(1458~1490)
中央集権化に力を注ぎ、官僚制度を強化した。外交官や行政官を職業化した。軍隊を改革し、自らの自由にできる常備の傭兵軍を設置した。
対オスマン十字軍を期待するローマ教皇ピウス2世(1458~1464)の支持を得た。
1463年 オスマン帝国メフメト2世が、ボスニア王スティエパン・トマシェヴィチを処刑してボスニア王国を征服。マーチャーシュ1世は、ベオグラードに急行してボスニアを奪回し、オスマン軍を駆逐した。
1463年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世から王冠を購入。
1464年 セーケシュフェヘールヴァールにて戴冠式。フリードリヒ3世の養子となった。
1469年 ポーランドと同盟したボヘミア王を攻撃し、モラヴィア・シレジアを征服。ボヘミア王として戴冠。
1476年 ナポリ王・王女ベアトリーチェと結婚。イタリア・ルネサンス美術や建築を大規模に取り入れた。「コルヴィナ文庫」をつくった。ブダの王宮に人文主義者を集め、ブダの王宮をフマニストのサロンと化した。
1479年 オロモウツ和約。ボヘミア王ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーとの和約で、シレジア・モラヴィア・ラウジッツ領有とボヘミア王位が承認され、フリードリヒ3世と対立候補としてオーストリア大公に選出された。
1485年 ウィーン占領により、オーストリア領有権が承認された。
ハンガリー王国・ヤゲウォ朝
ウラースロー1世(1490~1516)
ボヘミア王ヴラジスラフ2世(1471~1516)が兼任。王権に対する貴族の反抗が再び激しくなり、領主による農民支配も再び強化された。
1514年 ドージャ・ジェルジ農民戦争
ハンガリー大司教バコーツ提唱で十字軍を計画したが、農民の武装を恐れた大貴族が力づくで阻止して農民を虐待した。
ドージャは農民を支持して、「ツェグレード宣言」を発した。真っ赤に焼けた鉄の王冠をかぶせられ処刑されると、法務官ヴェルベーツィ・イシュトヴァーンが「三部法書」を議会に提出し、大貴族と小貴族の平等を定める一方で、農民の土地所有権を奪い、農民を永久に土地に緊縛し、農民を隷属化する「永代農奴制」を規定した。この法は1848年まで有効になった。
ラヨシュ2世(1516~1526)
大貴族(マグナート)のサポヤイ・ヤーノシュとの対立に苦心して、国内統一が不十分だった。
1526年 モハーチの戦い
オスマン帝国スレイマン1世 勝ち
vs ハンガリー王国ラヨシュ2世 敗死
ハンガリー王国・ハプスブルク朝
フェルディナント1世(1526~1564) のち神聖ローマ皇帝に即位
vs ヤーノシュ1世(1526~1540) 対立王
1529年 第一次ウィーン包囲
オスマン帝国スレイマン1世 *サポヤイ・ヤーノシュを支持
vs ハンガリー王国フェルディナント1世
1541年 オスマン帝国スレイマン1世がブダ占領。
ハプスブルクはウィーン防衛にとってハンガリー貴族の協力が必要だったので、封建的自治を守ろうとするハンガリー貴族を抑え込んで中央集権化を進めることができなかった。ルター派は反ハプスブルクの貴族に受け入れられ、カルヴァン派はトランシルヴァニアの農民に受け入れられた。ハプスブルクはイエズス会を導入し、エステルゴム大司教座を盛り立ててカトリック化を図った。

1570年 シュパイヤー協約によってトランシルヴァニア公国が成立。
トランシルヴァニア公 バートリ・イシュトヴァーン(1571~1586)
スルタンの宗主権を認め、ハンガリー人、サース人(東方植民で入国したザクセン人)、セーケイ人の貴族が議会を構成して、農牧民を支配した。1568年に、カトリック、ルター派、カルヴァン派、ユニテリアン(反三位一体派)が公認され、ルーマニア系農牧民が信じた東方正教は寛容されただけであった。
1573年 マティア・グーベッツの農民蜂起
1604年 ハンガリー貴族ボチカイ・イシュトヴァーンの反ハプスブルク反乱。ハイドゥク(流浪の武装農民兵)の支持を得た。
ベトレン・ガーボル(1613~1629)
ボヘミア新教派と同盟し、ハイドゥクの支持を得ながら、ハプスブルク神聖ローマ帝国軍を破りまくった。
三十年戦争後にハプスブルクがカトリック化政策を強制、大貴族はハプスブルクに接近し、中小貴族は抵抗した。新教派の中小貴族にハイドゥクが加わって、「クルツ」と呼ばれる反ハプスブルク軍団が生まれた。
1678年 テケリ・イムレのクルツ反乱
1683年 第二次ウィーン包囲
レオポルト1世(1657~1705)
1696年 セルビア人に市民権を与えた。
1698年 ブダ正教徒に聖職者叙任権を与えた。
1699年 カルロヴィッツ条約。オスマン帝国はハンガリーから撤退し、ハプスブルク帝国の支配下に入った。戦乱を逃れて多くのラーツ人(セルビア人)がハンガリーに移民してきた。
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