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2026年1月31日 (土)

宝塚歌劇星組「恋する天動説」「Dynamic Nova」(4回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、空いている中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。娘婿さんと娘と7か月の孫と現地合流。人見知りがはじまって、嬉しさ半分、悲しさ半分。嫁と娘が孫連れてショッピング。わたしは娘婿さんと観劇、座席は1階上手側後方の良席でした。キャトルレーヴで、華純沙那ちゃんのモニュメント公演のボー・ブランメルBlu-ray購入。かすみさなちゃんの新人公演主演舞台ブロマイドが発売になったら絶対に買いたい。いや買わなければならない。

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詩ちづるちゃん、常にオペラグラスで鑑賞。ここまでトップ娘役を愛でるのは、綺咲愛里ちゃん以来だわ。客席降りでもうちょっとでタッチというところまで、うたちが来てくれました。ほんとうに可愛い。同期で成績がうたちより上位の鳳花るりなちゃん、遅すぎた新公主演の綾音美蘭ちゃんが舞台そでで踊っているのをしっかりオペラグラスで観ました。センターのダンスは、暁千星くんと大希颯くん、推し。たいきはやて君、OSKなら楊琳くん並みのスーパートップスター扱いになる。劇団さん、その点よろしくご理解お願いします。

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2026年1月29日 (木)

九州魂で関目君と飲み会5

関目君が来訪、宝塚歌劇の話題。白河りりちゃんの月組トップ娘役就任を祈願しました。関目君が最近、推し活する人が居なくなって元気喪失しており、新人公演主演の娘役のファンクラブに入って早いうちから応援することを勧めました。あーさ・はばまい長期政権の雪娘、華純沙那ちゃんは花組T、白綺華ちゃんは雪組次期T、有沙瞳ちゃんを継ぐ者・星沢ありさちゃんは星組Tと予想。

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2026年1月27日 (火)

軍人皇帝時代のローマ帝国

「パクス・ロマーナ」の五賢帝時代が過ぎると、愚帝が100年続いた。これを軍人皇帝時代という。暗殺、殺害で皇帝がめまぐるしく交代していった時代だが、語る価値のない時代として世界史教科書から切り捨てられている。ほんとうにそれでいいのか?たくさんの軍資金を持たせて異民族平定に派遣した人気将軍が大衆の支持を受けて皇帝にならんと、コンスタンティノープルに暮らす皇帝に挑む。このビザンツ帝国の風潮は軍人皇帝時代に培われたものだ。カラカラ帝は全ローマ住民に市民権を与え、ウクライナ奴隷公認のソ連社会主義が実現していた。最高峰に君臨した皇帝たちの変態的な性交プレイばかり興味本位でクローズアップされているが、浪費経済による社会的影響の観点から政治的混乱と社会的退廃がようやく論じられている。

社会主義は奴隷がいなければ成立できない。

「どげんかせんといかん。」これはベルベル人、「神の国」を著したアウグスティヌスの発露だ。400年の社会と言えば、アレクサンドリア図書館のヒュパティア事件や異端摘発やユダヤ人迫害を見ても、非道徳的ヒステリックな時代だった。マニ教やプラトン哲学やいろいろ学んでも心の平安が得られない。死後400年もたち誰も見たことがないキリスト教を都合よく論理だてていったのだが、今に至るまで多くの宗教的迫害を生んだ。

マニ(216~277)は、パルティア王族末裔で、パルティア語で教祖自らの思想を自ら文字にして残した。ササン朝ペルシャ(224~651)に王が変わっても、ペルシャ語で預言書を残さなかったことに意地を感じる。最新の研究で、マニ教がキリスト教アルカサイ派(エルカサイ派)に起源を発するものであり、アウグスティヌスの思想の源流になった。ササン朝で異端になると、したたかにもキリスト教から仏教に母体を乗り換えて布教していった。

星を追ってイエスを探し当て、新生児の救済者(メシア)に黄金・乳香・没薬を捧げた東方三博士は、アケメネス朝ペルシャのころから、哲学・医学などの知識人であり、占星術を操り王を探す旅に出た魔術師(マゴス)であった。

3~4世紀のローマの状況は知られていても、同時代、皇帝直轄地にして小麦の穀倉地帯だった北アフリカがどうなっているかが大切だ。313年、ミラノ勅令でキリスト教が公認されると、すぐ派閥争いが生じる。

アリウス派 北へ逃亡

ネストリウス派 東へ逃亡

単性論派 残された南のエジプト・北アフリカへ逃亡するしかない

当時、北アフリカの第一の都市がカルタゴ、第二の都市がヒッポ・レギウス。ともに厳格派の布教合戦がさかんであり、皇帝に容認されていたキリスト教ドナートゥス派とマニ教は同起源・同格扱いで、対等だった。違いは、ドナートゥス派がパラボラニという、下層農民から成る慈善団体・暴力団を抱えていたこと。ヒュパティアもパラボラニによって惨殺された。

435年、ヴァンダル族ガイセリックがカルタゴなど北アフリカを占領すると、アリウス派以外は異端として弾圧されることになった。

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2026年1月25日 (日)

東西ローマのその後

鉄器はヒッタイト帝国が極秘に製造。海の民来襲で滅ぶと鉄器が東西に広がった。BC4世紀には戦国時代の中国各国に伝わり、ヨーロッパより1000年早く牛耕・鉄製犂に応用。農業生産力は上がり、万里の長城や運河など土木工事を可能にした。鋳造技術が未熟だった鉄製武具は秦始皇帝までは青銅武器より脆く劣ったので使われなかった。前漢武帝のころから積極的に鉄製武器を使用。鉄の鋳造は多くの木材を要し環境破壊する。

貨幣はリディアで初めて鋳造。ペルシャ商人、ギリシャ商人、フェニキア商人、エトルリア商人が使用。ローマをはじめイタリア半島でも鉱物を豊富に採掘した。

*世界史はオリエント・ギリシャ・ペルシャ・ローマ・中国(←世界最先端)のお勉強が一番大切だ。

東ローマ 貨幣経済がつづく。時代ごとに変遷する交易相手国と仲介商人を知ることがとても重要だよ。歴史総合の頻出問題にきっとなる。アナトリア国境をめぐって、ローマ時代からパルティアと仲が悪い。東ローマもササン朝ペルシャと仲が悪い。東ローマの悲願はシリア、エルサレムは見捨てても、古都ローマの奪還だった。東ローマは、突厥・ササン朝ペルシャ領内でしたたかに商売した(ゾロアスター教信仰の)ソグド商人と交易した。安史の乱でソグド商人が衰退、イスラム化した後は、ハザール王国と交易した。

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ユスティニアヌス帝が地中海統一を果たしたあと、ペスト流行、軍備縮小で急速に領土失地。7世紀にアヴァール人とスラヴ人が首都コンスタンティノープルまで迫り、その間にランゴバルド王国にコルシカ島まで奪われた。フランク人カール大帝がアヴァール、ランゴバルドを滅ぼすと、ローマ教皇はフランク人イタリア王国についた。9世紀アッバース朝から独立したアグラブ朝がシチリア島を強奪。アグラブ朝を滅ぼしたファーティマ朝がシチリア島を支配続行。11世紀、十字軍直前の教皇迭立を好機として教皇ウルバン2世と連携したノルマン人がシチリア王国を建国。王権後継がうまくいかず、シチリア島は神聖ローマ帝国、アンジュ帝国(←英仏百年戦争をみてね)、アラゴン王国へと支配者が変遷した。

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カプア侯国、ベネヴェント侯国、サレルノ侯国はランゴバルド王国の残党たちです。

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9世紀にノブゴロド公国(のちにキエフ大公国)と交易。ユダヤ教が国教だったハザール王国が利権に割り込む。キエフ大公国の反撃でハザール王国が衰退すると野蛮なペチェネグ人が侵略する。交易というより軍事的な貢納協定だね。

連水陸路

ノルマン人は、河川を利用する交通路を求めて南下していった。ノルマン人の関心はもっぱら通商にあった。通商相手は、ビザンツ商人とイスラム商人だった。ビザンツ商人とはコンスタンティノープルで、イスラム商人とはハザール王国およびアッバース帝国で取引を行った。

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ペチェネグ人

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突厥の東西領土拡大がすさまじく、チンギスカンより前にユーラシア統一をやっている。

豪華絢爛な王宮を有し玄奘(三蔵法師)を保護したことで有名な西突厥の支配下にあったのが、トルコ系ハザール。ウィグルによって西突厥が衰退するとハザール王国(西突厥アシナ氏)が独立西進。ゾロアスター教信仰のソグド商人は、マニ教信仰のウィグル、ユダヤ教信仰のハザールと交易。ソグド商人は商業ネットワークを維持しながら大唐帝国華北に定住した。安史の乱で皇位簒奪に失敗すると漢人による復讐弾圧粛清により急速に衰退、残党はイスラムに同化した。一方、ビザンツ帝国とハザール王国が同盟、ササン朝ペルシャ、新手のイスラム(サラセン帝国・ウマイヤ朝・アッバース朝)に対し共闘しコーカサスを奪取し分け合った。

ハザール王国 国王系図(西突厥アシナ氏)

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黒海・カスピ海

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西ローマ 野蛮なゲルマンによって貨幣経済が崩壊。物々交換になる。

 8世紀 農奴賦役(領主の畑を耕す)

  農業革命(牛耕・鉄製農具・三圃制)

 11世紀 貢納(生産物地代)

  教会腐敗堕落に怒った修道院が森林を伐採して自給自足。森林の神々を信仰していた農奴が修道士を白眼視。各荘園の隙間に存在した司教区に余剰生産物を持ち寄る市ができて中世都市となる。中世都市で貨幣経済を取り戻す。「都市の空気は(農奴を)自由にする。」最初、気前よく市民権を夜逃げしてきた農奴に与えたが、数が増えすぎると専売特許権を持つギルドを形成して新参者を厳しく差別するようになった。

 13世紀 貨幣地代

  ペスト流行(黒海の元寇軍がジェノヴァ商人にうつしてヨーロッパ全土に拡大)

 14世紀以降 農奴解放→領主困窮化→封建反動→農民反乱

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2026年1月24日 (土)

宝塚歌劇星組「恋する天動説」「Dynamic Nova」(3回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階上手の通路側のベストポジションでした。客席降りで、鳳花(おうか)るりなちゃんとハイタッチ。観察してますと21列、22列なら、暁千星さんと詩ちづるちゃんとハイタッチできそうな感じでした。キャトルレーヴで、詩ちづるちゃんの舞台写真7枚購入。

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詩ちづるちゃんは退団しても芸能界から引く手あまただろうな。星風まどかちゃんと良きライバルになるだろう。うたち、めっちゃ可愛いとしか言いようがない。

観劇後、嫁と感想。エリザベートは星組で上演されるんじゃないか。ミュージカル業界では、ルドルフを経験した者だけがトートを演じられるので、星の御曹司、稀惺かずと君がまずはルドルフを演じるんじゃないかと予想。

柚長大学生時代の寸劇、藍羽ひよりちゃん、オペラグラスで毎回観てるよ。

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2026年1月15日 (木)

イタリア・メローニ首相来日

ようこそ日本へ。お誕生日おめでとうございます。

世界の歴史を専門書を読んで少しずつ学んでいますが、ヨーロッパの歴史はイタリアから俯瞰するほうがよく理解できますね。

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2026年1月14日 (水)

宝塚歌劇星組「恋する天動説」「Dynamic Nova」(2回目)をみて

午前診を終え、近鉄、御堂筋線、阪急と乗り継いで、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。高市早苗首相が韓国大統領を奈良コンベンションセンターに招いたために、検問のせいで第二阪奈、阪神高速がほぼ通行止め。11:36奈良発三宮行きの近鉄快速急行で難波で御堂筋線に乗り継いで、12:40梅田発宝塚行き阪急急行に乗れて、13:13阪急宝塚駅に下車。帰りは19:02宝塚発梅田行き阪急急行で御堂筋線に乗り継いで、20:25難波発奈良行き近鉄特急ひのとりで21:00大和西大寺駅に下車。座席は1階下手側真ん中あたりの良席でした。

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嫁がブライトンにホームステイ経験があるということで、楽しんでもらえました。「フランスが海の向こうに見えるよ。」とママから言われたとか。1066年、海岸で天下分け目、ヘイスティングスの戦いがあり、ノルマンディー公ウィリアムが、スタンフォード橋の戦いでハーラル3世を潰したばかり、取って返して疲れが残るイングランド王ハロルド2世に作戦勝ちしました。

大希颯くん、三苫薫選手になり切って、ブライトン・アルビオンのユニフォームを着て登場。いつも思うのだが、甘いイケメン顔、歌うま、ダンスうま、芝居貫禄はもうトップスターなんだけど。

藍羽ひよりちゃんが、客席降り一番近くで踊ってくれました。守ってあげたいカワイ子ちゃん。歌うまWトリオに選ばれてました、よかったね。

柚長ホテル後継者は3人。

天文学研究に没頭したい兄ティモシー(チャリオ)、レーサーとして勝負したいシンシア(うたち)、翻弄される妹キアラ(乙華菜乃)、最後は「わたしが一番ホテル経営に向いているんじゃないかなと思ったの」キアラが後継するが、シンシアの本当の婚約者アレックス(大希颯)に銀橋で出会ったとき、「まっ、いいか、わたしは仕事に生きよっと。」アレックス、あっさりフラれちゃったよん。

仲良しトップ路線コンビがはっきりしてきており、天飛華音・瑠璃花夏、稀惺かなと・乙華菜乃の順かな。

星組名物の芝居=「深ーい人生語り」は、池田のみどりちゃんと同期、みきちぐ組長。「めぐり会い」「記憶」「エルベ」の語りなんか、もう絶品です。それと肩を並べる朝水りょう君。専科に行きそうだけれど、一足先に行く、圧と気合が凄すぎるヒーローおのだっち(ひろ香祐)の熱い芝居とダンスを星組単独時代ものは見納めました。「俺のセリフタイム始まるぞ」「踊るぞ」の気合がここまで伝わってました。

あり、おめでとう。おすそ分け、いただきました。

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2026年1月12日 (月)

中世の勉強が面白い理由

現代社会はガチガチで法律に縛られている。細かいところまで良かれと思って法が作られてきた。中世にはそんなものはない。人間同士が欲望のままにぶつかって生きるとどうなるのか、解答集のようなものだ。ちなみに古代は文字資料が乏しくてよくわからない。妄想にはいい材料かもしれないが。

いま「国際法がー。」とか「国連がー。」とかいう声があるけれど、あてにならない。突然よそから災難が降ってくる。結局、世界は力こそ正義の弱肉強食社会だ。

突然異民族が攻めて来たり、ペストが流行ったりして喧嘩中断。麻疹、天然痘、マラリアも多かったが、有名な1348年ずっと前から、ペストはチョロチョロ流行していた。ブルターニュ公国、ブルゴーニュ公国、ロレーヌ公国、アキテーヌ公国など、強いけれどまだ独立国家になりきれない領主、さらに大司教とか都市国家が、面従腹背、臥薪嘗胆、「マジか、このタイミングでなんで」国王を裏切るのが面白い。

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2026年1月11日 (日)

中世ポーランド史・中世チェコ史・中世ハンガリー史・ハザール王国

ポーランド・ピャスト朝

ミェシュコ1世(960~992)

グニェズノとポズナニに住むスラブ人ポラニェ族が、従士団を率いて、ヴロツワフとクラクフを占領した。

966年 カトリック(西方キリスト教)を導入。ザクセン朝オットー1世と親交。

968年 神聖ローマ帝国支配を嫌い、ザクセンと対立関係にあったバイエルンの聖職者から洗礼を受け、ポズナニに司教座を設置。

991年 ローマ教皇に臣従の意を表明した。

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ボレスワフ1世(992~1025)

997年 プラハ司教ヴォイチェフがプルスィ族(古プロイセン人)に伝道して殉教。

1000年 神聖ローマ皇帝オットー3世が聖ヴォイチェフの墓参りで訪問し、ブニェズノに大司教座を設置した。

1002年 マイセン辺境伯エッケハルトを暗殺し、ボヘミア侵攻。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世と戦争。

1018年 バウツェン和約。

1025年 グニェズノで戴冠式、ポーランド王国が誕生。神聖ローマ帝国と対等になった。

ミェシュコ2世(1025~1034)

反キリスト農民反乱が勃発。兄弟が皇帝やキーウと同盟を結んだため、1031年にチェコへ一時亡命。

1034~1039年 内紛で一時ピャスト朝が滅亡。

カジミェシュ1世(1039~1058) 復興公

1039年 チェコ軍来襲、シロンスクを奪われた。莫大な財宝がチェコ軍に奪われた。神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(1039~1056)から騎士500人を得て、キーウと同盟し、全土回復した。

「ブジェチスラフ法典」を制定。

 

チェコ・プシェミスル朝

894年 マジャール人襲来によって、スラブ人の大モラヴィア王国が滅亡。大モラヴィア王国の臣下だったプシェミスル家が建国した。

ボジヴォイ1世(~894)

モラヴィア司教メトジェイから洗礼を受けた。聖ヴァーツラフは、東フランク王ハインリヒ1世(919~936)と親交、神聖ローマ帝国の上級支配を容認した。

ボレスラフ1世(935~967)

ボレスラフ2世(967~999)

973年 マインツ大司教座の下に、プラハ司教座が設置された。

ボレスラフ3世(999~1002)

ポーランド王ボレスワフ1世によってプラハを占拠された。

オルジフ(1012~1034)

大モラヴィア遺領を取り戻した。

ブジェチスラフ1世(1035~1055)

ボヘミアとモラヴィアを併せて統治した。

1039年 ポーランドからシロンスクを奪った。

1041年 神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(1039~1056)がハンガリー王ペーテル(ピエトロ・オルセオロ)とボヘミア大公ブジェチスラフ1世を破り、帝国の宗主権を認めさせた。

「ブジェチスラフ法典」を制定。

1043年 スートリ教会会議

神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征のついでに、ローマ教皇3人を廃位した。これがのちのカノッサの屈辱につながっていく。

プシェミスル家は、長子相続制を確立したことにより王朝を安定させたが、貴族層は分割相続制を採用しており、女性を通じての継承も可能だった。

チェコ貴族

1 フラビシェ家

2 ヴィートコフ家

3 マルクヴァルト家

4 ロノフ家

5 フロズナトフ家

6 ベネショフ家

7 ドゥルスラフ家

8 シュテルンベルク家

9 バヴォロフ家

10 オブジャン家

11 シュヴァーベニツェ家

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オタカル1世(1198~1230)

1212年 シュタウフェン家とヴェルフェン家の争いで、シュタウフェン家を支持。フリードリヒ2世から、「シチリアの金印勅書」を授かった。チェコの君主が永続的に王を名乗ることを認めた。皇帝とチェコ王の封建的主従関係は保たれるが、チェコ国内で行われる国王選出に皇帝は介入できないと明記された。

1215年 第4回ラテラン公会議にプラハ司教オンジェイとオロモウツ司教ロベルトが参加。

プラハ司教オンジェイが、教皇インノケンティウス3世から直接叙任を受けて、感動のため全く別人になって帰国。突如として、俗権に対する聖権の優位を主張し始めた。司教が十分の一税の額や手段を一括して規定し、徴収しようとした。

1216年 オンジェイが聖務停止令を宣告し、ローマへ旅立つ。

1217年 オタカル1世は、マインツ大司教に救援を求め、聖務停止令が解除された。ローマ教皇ホノリウス3世(1216~1227)は書簡をボヘミア領内教会関係者に送り、オンジェイを支持した。

1219年 帰国したオンジェイが再び聖務停止令を宣告。

1221年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と対立した教皇ホノリウス3世は、ボヘミア王を味方に惹きつけておくために聖務停止令を解除。ボヘミア貴族に勅令。世俗領主の教会財産に対する接待強制を禁止、罰金は国王に納められた。教会領民は世俗裁判権から免除され、解放された。オンジェイは不服として国外撤去。

ヴァーツラフ1世(1230~1253)

収益に応じて貴族が上級貴族(官廷役人)と下級貴族(地方役人)に二分される。国王・上級貴族・教会は、三者協働して、下級貴族を排除した。

1247年 王子プシェミスルの反乱。

オタカル2世(1253~1278)

オタカル2世は、ドイツ人たちに街も村も分け与え、ドイツ人はそれらを城壁で囲み、領主たちに暴力を働き始めた。都市が重要な収入源になっていた。

ハプスブルク家ルドルフ1世の神聖ローマ皇帝就任に真っ向から反対した。

1276年 クトナー・ホラ銀山が発見された。ヨーロッパ銀の1/3を産出した。

1276年 ヴィートコフ家とフラビシェ家の反乱

1278年 マルヒフェルトの戦い

神聖ローマ帝国ルドルフ1世 大勝

vs ボヘミア王国オタカル2世 敗死

オタカル2世の嫡男ヴァーツラフに本領地ボヘミアを安堵して、もう一つの遺領オーストリア公領をハプスブルク家が没収した。ところが、ヴァーツラフの後見人だったブランデンブルク辺境伯オットーはヴァーツラフを連れ去り、ボヘミア王は不在となった。

ヴァーツラフ2世(1283~1305)

有力貴族の国政への参加が顕著になった。ボスニア貴族は、諸外国の君主からも保証人、仲裁人として能力を認められていた。

ヴァーツラフ3世(1305~1306)

ポーランド遠征中に殺害された。プシェミスル朝断絶。

ドイツ人は12世紀以来、君主のみならず有力貴族も積極的におこなった開墾植民のためにチェコへと陸続きで流入してきた。また13世紀以降、増加する都市建設においても招聘されたのは主にドイツ人であり、大都市であればあるほど富裕層をドイツ人が占めていたのである。君主は都市の経済的な力に大きな期待を寄せていた。そのため、君主の収入を増加させる都市民は優遇されており、彼らは故国ドイツでの慣習をチェコにおいてもそのまま認められていたのである。このことがチェコ人貴族の反感を招いた。君主はさらに、宮廷にドイツ人高位聖職者を招いて顧問としたり、チェコ人貴族から没収した所領をドイツ人に与えたりしている。

プシェミスル家からハプスブルク家へ王位相続!

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ヴァーツラフ3世はチェコ王のシンボル・聖ヴァーツラフとして守護聖人に祭り上げられた。13世紀以降、チェコ貴族は身分的な連帯感を強め、13世紀末からは「聖ヴァーツラフの王冠」のもとに集う、階層的な利害共同体としての性格を帯びてきた。

*チェコ共同体とポーランド共同体のちがい

チェコは上級貴族のみに限定された。ポーランドはシュラフタのような中小貴族まで対等に国政参加した。

ドイツ人に抑圧されたチェコ人の不満の鬱積が、のちにフス戦争を引き起こした。フス戦争が鎮圧されたあとも、馬荷車バリケード(要塞)戦法を編み出したフス派傭兵として他国から重用されていった。

 

チェコ・ルクセンブルク朝

ヨハン(1310~1346)

チェコ貴族に政治を丸投げ。チェコ語をしゃべらず、フランス語をしゃべった。

1344年 教皇クレメンス6世は、プラハ司教座を大司教座に昇格した。

1346年 クレシーの戦いでフランス王を援軍、戦死。

カレル4世(1347~1378)

パリ時代に修道士ピエール・ロジェと親交を結び、ピエール・ロジェがアヴィニョン教皇クレメンス6世に即位。その推薦で、カレル4世は1346年にドイツ王に選ばれていた。1346年、聖ヴァーツラフの王冠を作製。1347年、ボヘミア王に即位。1355年、ローマに遠征し、神聖ローマ皇帝に即位した。

1348年 パリ大学に倣って、プラハ大学を創設。

1356年 帝国議会で、「金印勅書」を発布。

チェコやモラヴィアでは、教会へ富が偏在しており、クロムニェジージの説教師ミリーチが教会の奢侈を批判した。

ヴァーツラフ4世(1378~1419)

1400年ころ、プラハ大学にウィクリフ派マギステルの一人、ヤン・フスが登場、教会や社会の問題を説教した。聖職売買を批判し、1412年、ローマ教皇が売り出した贖宥状を批判。

1414年 コンスタンツ公会議

1415年 フス火刑

1419~1434年 フス戦争

1436年 チェコ議会がバーゼル協約を承認して、フス戦争は終結し、ジギスムントはボヘミア王として迎えられた。

ジギスムント(1436~1437)

ルクセンブルク家断絶。

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チェコ・ハプスブルク朝

アルブレヒト(1437~1439)

ボヘミア王が空位となる。

ラジスラフ(1453~1457)

イジー(1458~1471)

ラジスラフの摂政を務めたウトラキスト(フス穏健派)貴族。

1468年 ハンガリー王マーチャーシュ1世(1458~1490)がカトリック貴族によってボヘミア王に推戴。モラヴィアを奪った。

 

チェコ・ヤゲウォ朝

ヴワディスワフ(1471~1516)

1479年 オロモウツ和約。ハンガリー王マーチャーシュ1世と和解。

1485年 クトナー・ホラ協約。カトリックとウトラキストが和解。

1490年 ハンガリー王ウラースロー2世として即位。

ルドヴィーク(1516~1526)

ハンガリー王ラヨシュ2世としても兼任即位。

1526年 モハーチの戦い

ボヘミア王・ハンガリー王ラヨシュ2世 敗死

vs オスマン帝国スレイマン1世 勝ち

 

チェコ・ハプスブルク朝

フェルディナント1世(1526~1564)

オーストリア大公(1521~1564)・ハンガリー王(1526~1564)も兼任即位。防衛任務もあり、ウィーンで暮らす。のち神聖ローマ皇帝(1556~1564)に即位。

1529年 オスマン帝国スレイマン1世が第一次ウィーン包囲。

 

中央アジアで、帝国として周知されていたのは、ビザンツ帝国、アッバース朝、ハザール汗国の3つだけ。

玄奘三蔵が絹のカーテンをふんだんに用いた豪華絢爛に驚嘆した西突厥がハザール汗国になる。その配下に、マジャールとペチェネグ(弓月・カンガル)が仕えていた。大乗仏教を棄てユダヤ教を国教とした。

ハザール可汗が、ルーシ南下を嫌ってマジャールをクリミアに配置する。

次にペチェネグをクリミアに派遣する。895年、死闘に敗れたマジャールが東遷、スラブ人の大モラヴィア王国を滅ぼして、パンノニアでハンガリーを建国する。大モラヴィア公国の臣下だったボヘミア人がボヘミア公国(チェコ)を建国する。

894~896年 ビザンツ・ブルガリア戦争

ビザンツ国内で売られるブルガリア商品に対する税の引き上げをきっかけにして始まった。

ビザンツ帝国レオン6世 マジャールが同盟 負け

vs ブルガリア王国シメオン1世 ペチェネグが同盟 勝ち

落ちぶれたハザール傭兵はビザンツ側に付いたため、捕虜は全員鼻を削がれてコンスタンティノープルに送られた。

 

ユダヤ教商人団ラダニヤ 750年から奴隷貿易

ビザンツ皇女アンナが、キエフ・ルーシのヴォロディーミルに嫁いだ。

863年 ビザンツ帝国が初の「ギリシア火」でアラブ艦隊を撃滅し、ルーシの交易ルートがヴォルガ川からドニエプル(ドニプロ)川に変わった。

966年 スヴャトスラフ1世がハザール汗国を滅ぼす。

1130年ころから内紛によってキエフ・ルーシが衰退。

1240年 モンゴルがキエフ・ルーシを支配。

キプチャク汗国が首都サライとノヴゴロドを結ぶヴォルガ川交易を再興、バルト海のハンザ同盟と盛んに交易したため、キエフ・ルーシは荒れ果てた。

1363年 リトアニア大公オルゲルドがキエフを含むウクライナを征服して、「タタールの軛」が終わった。

 

キリスト教商人団ルーシ 800年から奴隷貿易

835年 ハザール汗国でカバール革命。貴族がハンに反乱し、ハンがルーシ商人団に亡命し、婚姻によりルーシ・ハン国が成立した。

860年 ルーシがビザンツ帝国首都コンスタンティノープルを襲撃。

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ハールィチ・ヴォルィーニ公国(ガリツィア・ヴォルイニ公国)

ローマン

1199年 キエフ・ルーシのローマンが、ガリツィア・ヴォルイニ公国を建国。

ダニイロ

1246年 ダニイロが、キプチャク汗国バトゥに臣従。

レフ

ユーリー

レフ2世アンドリィ共同統治

ユーリー2世 1340年滅亡

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ポーランド・ピャスト朝

ボレスワフ2世(1058~1079)

叙任権闘争で、教皇グレゴリウス7世を支持。1076年、王冠を授かった。君主権強化を恐れた反対派が結集したため、ハンガリー亡命。

ヴワディスワフ・ヘルマン公(1080~1102)

帝国の宗主権を認めた。

ボレスワフ3世(1102~1138)

近隣国の侵略が激しかったので、1135年、神聖ローマ皇帝ロタール3世(1125~1137)に全ポーランドを封土として認めた。

ポーランドの農民は君主・国家に属し、公・貴族・教会は農民を完全に服属させ、それぞれの農奴(私有民)とすることはできなかった。下シロンスクのヘンリク髭公・ヘンリク敬虔公は、専制君主制を目指したが、モンゴル襲来で破綻した。

ヘンリク1世 髭公(1232~1238)

ヘンリク2世 敬虔公(1238~1241)

1241年 レグニツァ(リーグニッツ)の戦い

13世紀、君主が発給する不輸不入権(インムニテート)によって、一般農民は城砦管区やオポレ共同体から切り離され、聖俗貴族や騎士に直接従属する農奴に変質していった。ヘンリク髭公は、ドイツ人を入植させて、インムニテートを保証した。やがてポーランド人の入植者にも適用され、最後には全土に及んだ。都市自治が承認されると、都市領主はユダヤ人を招致した。

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ドイツ騎士団とポーランド王国の関係においても、騎士団のシュラフタ(新興貴族)昇進を徐々に承認していった。相続制度を厳しく限定するレーエン制がなかったため、特権層は同一の紋章と合図を持つ紋章氏族制が発達した。既存の貴族が中下層の騎士を従属させるための手段となり、同族としての法的平等観と連帯意識を産んだ。

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レシェク2世 黒公(1279~1288)

ヘンリク4世 高潔公(1288~1290)

プシェミスウ2世 (1295~1296)

ヴァーツラフ2世(1300~1305)

チェコ王を招いた。

ヴァーツラフ3世(1305~1306)

ヴワディスワフ1世 短身王(1320~1333)

1327~1333年 ポーランド・チュートン戦争

ドイツ騎士団・ボヘミア王ヨハン 勝ち

vs ポーランド王ヴワディスワフ1世 負け

カジミェシュ3世 大王(1333~1370)

1335年 ボヘミア王ヨハンからポーランド継承権を購入。

1340~1392年 ハリチ・ヴォイン継承戦争

ハリチ・ヴォイン公国のユーリー2世が国内貴族に毒殺。ポーランド王国、リトアニア公国、キプチャク汗国が争奪戦に参加。

1343年 カリシュ永遠の和約

ポーランドがドブジニとクヤヴィを獲得する代わりに、東ポモジェとヘウムノをドイツ騎士団への「永遠の贈り物」とした。

 

ポーランド・アンジュー朝

ルドヴィク1世(1370~1382)

ポーランド・ピャスト朝断絶。アンジュー家のハンガリー王ラヨシュ1世(1342~1382)がポーランド王兼任で即位した。

娘の王位継承権を認めさせる代わりに、ハンガリー王国コシツェに、身分代表制の国王評議会にシュラフタ参加を認めた。上級身分だけでなく、下級身分にまで議会参加できた。

ヤドヴィガ(1384~1399)

リトアニア大公ヨガイラ(1377~1392)と結婚した。ポーランド・リトアニア連合王国が誕生。

ヴワディスワフ2世(1386~1434)

1410年 タンネンベルクの戦い

ポーランド・リトアニア王国 ヴワディスワフ2世 大勝

vs ドイツ騎士団 大敗

1414年 コンスタンツ公会議

1419~1434年 フス戦争

ハンガリー王(1387~1437)・ドイツ王(1410~1437)・ボヘミア王(1419~1437)・神聖ローマ皇帝(1433~1437)ジギスムント

vs フス派

ヴワディスワフ3世(1434~1444)

ビザンツ皇帝ヨハネス8世パレオロゴスがヨーロッパ諸国を訪問してSOSを発した。

ローマ教皇エウゲニウス4世(1431~1447)が十字軍を主導。

1444年 ヴァルナの戦い

ポーランド・ハンガリー王ヴワディスワフ3世 敗死

vs オスマン帝国ムラト2世 勝ち

 

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900年 カロリング朝の東フランク王ルートヴィヒ4世即位。異教徒騎馬民族、ハンガリーのマジャール人が出現。

907年 バイエルン辺境伯ルイトポルトがプラティスラヴァ近郊で、マジャール人に大敗。

910年 ルートヴィヒ4世率いるロートリンゲン公ゲープハルトがアウグスブルク近郊レヒ河畔でマジャール人に大敗。

911年 ルートヴィヒ4世死去で、カロリング朝断絶。リウドルフィング家、バーベンベルク家、コンラート家が争った。コンラート家のコンラート1世が東フランク王即位。

912~913年 西フランク王に寝返ったロートリンゲン貴族遠征で敗北。

918年 コンラート1世がバイエルン軍に敗死。

919年 ザクセンにゆかりの深いリウドルフィング家のハインリヒ1世(919~936)が、東フランク王に即位。

925年 ロートリンゲン奪還。

933年 リアーデの戦い。貢納拒否に怒ったマジャール人がザクセン・テューリンゲン連合軍に敗北。

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936年 ハインリヒ1世が脳卒中で死去。オットー1世(936~973)がカール大帝ゆかりのアーヘンで東フランク王に即位。アーヘンはケルン大司教管区だが、筆頭格のマインツ大司教ヒルデベルトが戴冠式を主催した。黄金の王冠は、マインツ大司教ヒルデベルトとケルン大司教ヴィクフリートの共同作業でかぶせられた。ザクセン人のオットーがフランク人になったことを殊更強調した。臣従した貴族は、

 フランケン大公エーベルハルト

 バイエルン大公アルヌルフ

 ロートリンゲン大公ギーゼルベルト

 シュヴァーベン大公ヘルマン

オットー1世は、弟、息子、臣下貴族の反乱に苦しんだ。西フランク王国がルイ4世(936~954)のとき、国王派と反国王派に分かれて内紛。ルイ4世がロタリンギアを欲していたので、オットー1世は反国王派のカペー家を支持した。西フランク王国はルイ5世(979~987)でカロリング家が断絶した。

シュヴァーベン大公もバイエルン大公も、アルプスを越えて北イタリアまで勢力を拡張する南下政策を伝統的に志向してきた。

951~952年 第一次イタリア遠征。ヴェローナ辺境伯領をバイエルン大公領とした。イタリア王ベレンガーリオ2世(950~966)を臣従させた。のちのち何度もイタリア王は反逆を企てた。

954年 シュヴァーベン大公リウドルフとバイエルン宮中伯アルヌルフがマジャール人侵攻を誘導。レーゲンスブルク包囲戦で、アルヌルフ敗死、リウドルフは大公位剥奪。

955年 レヒフェルトの戦い。オットー1世がマジャール人に大勝。ザーリアー家のロートリンゲン大公コンラートが戦死。そのひ孫コンラート2世が、1024年、オットー朝断絶後にザーリアー朝を開いた。

961~965年 第二次イタリア遠征。962年、聖ピエトロ教会で教皇ヨハネス12世が、オットー1世にローマ皇帝位を戴冠した。

教会分裂

皇帝派 レオ8世、ヨハネス13世

ローマ市民派 ヨハネス12世、ベネディクトゥス5世

966~972年 第三次イタリア遠征。ビザンツ帝国配下のランゴバルド系諸侯国(カープア侯、ベネヴェント大公、サレルノ大公)に、恭順と服従を迫った。969年、ビザンツ皇帝ニケフォロス2世が暗殺された。

972年 ビザンツ皇女テオファーヌがオットー2世(961~983)に降嫁。

988年 ビザンツ皇女アンナがキエフ大公ウラジーミル1世(980~1015)に降嫁。

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ハンガリー大公国・アールパード朝

最高名誉首長(ケンデ) クルサーン

軍事指揮官(ジュラ) アールパード

アールパード(895~907)

マジャール人は、クルサーン(~904)とアールパード(855~907)のふたりに率いられてカルパチア盆地に侵入。899年には、イタリアに侵入し、パンノニアを支配下に置いた。902年に大モラヴィア国を滅ぼした。904年、クルサーン暗殺。

ジョルト(907~947)

907年 プレスブルク(いまのブラティスラヴァ)近郊でバイエルン軍を撃破。

910年 フランク王国西部(アウグスブルク)などに侵入。

タクショニ(947~972)

955年 レッヒフェルトの戦い

東フランク王国オットー1世 勝ち vs マジャール軍 負け

マジャール人がフランク王国から撤退。

970年 ブルガール人との争いも集結した。

当時のハンガリー公国高官たちはビザンツ帝国コンスタンティノープルを訪れ、東方キリスト教文化を取り入れた。

ゲーザ(972~997)

西方キリスト教文化を取り入れた。996年に、ベネディクト派修道院パンノンハルマを建設。

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ハンガリー王国

イシュトヴァーン1世(997~1038)

1000年 ローマ教皇シルヴェスター2世によって戴冠され、公国から王国に昇格した。

ビザンツ帝国の支援を得て、ローマ教会回収に反対していたトランシルヴァニアのアイトニを平定。

1028年 改宗と国家の統一を完成した。

ハンガリー国内に2つの大司教区、8つの司教区を置いた。40ほどの県(メジェ)を設け、各県に城を設けた。これを城県制度(ヴァールメジェ)と呼ぶ。中央から地方長官(イシュパーン)を派遣し、その下に戦士を擁して、県を支配・管理した。王のもとには元老院と諮問機関が置かれ、その下に官僚機構が設けられた。支配階級(ウール)のもとに各首長が自由戦士として位置づけられ、その下に平民が置かれた。

ペーテル(1038~1041/1044~1046)

シャームエル(1041~1044)

1046年 異教徒ヴァタの乱

アンドラーシュ1世(1046~1060)

ベーラ1世(1060~1063)

シャラモン(1063~1074)

ゲーザ1世(1074~1077)

ラースロー1世(1077~1095)

1089年 クロアチア王を兼任した。

カールマーン(1095~1116)

第一次十字軍の国内通過を容認した。クロアチア、スラヴォニア、ダルマチアを支配。クロアチア支配によって、内陸はザグレブ、ベオグラードを支配でき、海岸はスパラート、ラグーザを支配できた。

アンドラーシュ2世(1205~1235)

国王の世襲財産(家督)は国土の70%だったが、修道院、教会、貴族、慈善施設に分配し、代わりに貨幣鋳造や鉱山採掘など税収を得た。

1222年 「宮廷革命」新興貴族が古い聖俗の貴族を追放したため、王権に対する貴族の抵抗権を認めた「金印勅書」を出させた。

ベーラ4世(1235~1270)

1241年 モヒ(シャヨー河畔)の戦い

ハンガリー軽装騎兵 負け vs モンゴル軽装騎馬弓兵 勝ち

1242年 モンゴル撤退

ベーラ4世の軍制改革

1 全身鉄製鎧を導入し、重装騎兵団創設。軍馬にも鎧を装備。歩兵と騎兵の混成部隊を創設。

2 クロスボウ部隊創設。ドイツ・イタリアからクロスボウ職人を招聘。

3 城郭の強化。モンゴルは野戦で無敵だったが、攻城には時間がかかった。

県の支配権を貴族に与え、各県の代表を立法に参加させた。国王は宮廷維持のために、各地の王領地、鉱山、塩など租税から収入を得て、交易によって銀を得た。

輸出品 牛肉、ワイン、塩

輸入品 布、絹、香辛料

すべての都市を、石造・石城壁で囲ませたドイツ的中世都市に変えた。1237年から1244年にかけて、都市市民に関税免許、判事の自主選出権を認めていった。「王国自由都市」と呼ばれ、国王に一定の納税をすれば、市民の自由が保障された。

領主が自己の所領内の村に市場開設権や自治の特権を与えて都市をつくり、「市場町」よ呼ばれた。

1251年にはユダヤ教徒の移住を促進し、ポジョニやショプロンの町でユダヤ教徒にキリスト教徒と同じ特許を与えた。

1260年 クレッセンブルンの戦い

ベーラ4世が、ハンガリー王オタカル2世と同盟。

ハンガリー重装騎兵&周囲にクロスボウ部隊 勝ち

vs モンゴル軽装弓騎兵 モンゴル軍初の大敗

これ以降、モンゴルはヨーロッパ侵攻をやめた。

ラースロー4世(1272~1290)

1279年、クマン人とヤース人に自治権を与え、「ヤース・クマン地方」が成立した。

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ハンガリー王国・アンジュー朝

カーロイ1世(1308~1342)

中小貴族と大貴族が対立しつつ、ともに王権を脅かしていた。チャーク・マテーのような大貴族を滅ぼして、教会の支持を取り付けた。バンスカー・シュティアヴニツァ金山に加え、北ハンガリーやトランシルヴァニアで金鉱を発掘して、王室財産を強化した。

1328年、クレムニツァに自治都市権を与えた。

1335年、クレムニツァ貨幣鋳造所で「フローリン金貨」を鋳造。

1335年、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア3国がヴィシェグラード同盟。

ブダやペシュトを中心に王国自由都市を増設した。農民の大多数は自由農民であり、農奴は少数だった。

ラヨシュ1世(1342~1382)

1347年、ヴィシェグラードからブダに王宮を移転した。

1370年、ポーランド・ハンガリー同君連合

1375年、トランシルヴァニアに侵入したオスマン帝国を撃退。

 

ハンガリー王国・ルクセンブルク朝

ジギスムント(1387~1437)

強力なハンガリー貴族層に取り囲まれて、身動きが取れなかった。ヴェネツィア共和国との戦争に敗北してダルマチアを放棄した。同様に、ボスニアも放棄した。

1396年 ニコポリスの戦い

オスマン帝国バヤジット1世 勝ち

vs ハンガリー王国ジギスムント 負け

1414年 コンスタンツ宗教会議

1419~1434年 フス戦争

1428年 ゴルバッツの戦い

オスマン帝国ムラト2世 勝ち

vs ポーランド王国ヴワディスワフ2世・ハンガリー王国ジギスムント 負け

1428年 王宮をブダからプレスブルク(ブラティスラヴァ)に移転。大貴族が独自の軍隊を率いる権利を認めた。

1437~1438年 ブダイ・ナジ・アンタルのトランシルヴァニア農民蜂起

 

ハンガリー王国・フニャディ朝

フニャディ・ヤーノシュ(1441~1456)

1456年 ベオグラード包囲戦

ハンガリー王国フニャディ 勝ち ペストで陣中死去

vs オスマン帝国メフメト2世 負け

マーチャーシュ1世(1458~1490)

中央集権化に力を注ぎ、官僚制度を強化した。外交官や行政官を職業化した。軍隊を改革し、自らの自由にできる常備の傭兵軍を設置した。

対オスマン十字軍を期待するローマ教皇ピウス2世(1458~1464)の支持を得た。

1463年 オスマン帝国メフメト2世が、ボスニア王スティエパン・トマシェヴィチを処刑してボスニア王国を征服。マーチャーシュ1世は、ベオグラードに急行してボスニアを奪回し、オスマン軍を駆逐した。

1463年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世から王冠を購入。

1464年 セーケシュフェヘールヴァールにて戴冠式。フリードリヒ3世の養子となった。

1469年 ポーランドと同盟したボヘミア王を攻撃し、モラヴィア・シレジアを征服。ボヘミア王として戴冠。

1476年 ナポリ王・王女ベアトリーチェと結婚。イタリア・ルネサンス美術や建築を大規模に取り入れた。「コルヴィナ文庫」をつくった。ブダの王宮に人文主義者を集め、ブダの王宮をフマニストのサロンと化した。

1479年 オロモウツ和約。ボヘミア王ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーとの和約で、シレジア・モラヴィア・ラウジッツ領有とボヘミア王位が承認され、フリードリヒ3世と対立候補としてオーストリア大公に選出された。

1485年 ウィーン占領により、オーストリア領有権が承認された。

 

ハンガリー王国・ヤゲウォ朝

ウラースロー1世(1490~1516)

ボヘミア王ヴラジスラフ2世(1471~1516)が兼任。王権に対する貴族の反抗が再び激しくなり、領主による農民支配も再び強化された。

1514年 ドージャ・ジェルジ農民戦争

ハンガリー大司教バコーツ提唱で十字軍を計画したが、農民の武装を恐れた大貴族が力づくで阻止して農民を虐待した。

ドージャは農民を支持して、「ツェグレード宣言」を発した。真っ赤に焼けた鉄の王冠をかぶせられ処刑されると、法務官ヴェルベーツィ・イシュトヴァーンが「三部法書」を議会に提出し、大貴族と小貴族の平等を定める一方で、農民の土地所有権を奪い、農民を永久に土地に緊縛し、農民を隷属化する「永代農奴制」を規定した。この法は1848年まで有効になった。

ラヨシュ2世(1516~1526)

大貴族(マグナート)のサポヤイ・ヤーノシュとの対立に苦心して、国内統一が不十分だった。

1526年 モハーチの戦い

オスマン帝国スレイマン1世 勝ち

vs ハンガリー王国ラヨシュ2世 敗死

 

ハンガリー王国・ハプスブルク朝

フェルディナント1世(1526~1564) のち神聖ローマ皇帝に即位

vs ヤーノシュ1世(1526~1540) 対立王

1529年 第一次ウィーン包囲

オスマン帝国スレイマン1世 *サポヤイ・ヤーノシュを支持

vs ハンガリー王国フェルディナント1世

1541年 オスマン帝国スレイマン1世がブダ占領。

ハプスブルクはウィーン防衛にとってハンガリー貴族の協力が必要だったので、封建的自治を守ろうとするハンガリー貴族を抑え込んで中央集権化を進めることができなかった。ルター派は反ハプスブルクの貴族に受け入れられ、カルヴァン派はトランシルヴァニアの農民に受け入れられた。ハプスブルクはイエズス会を導入し、エステルゴム大司教座を盛り立ててカトリック化を図った。

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1570年 シュパイヤー協約によってトランシルヴァニア公国が成立。

トランシルヴァニア公 バートリ・イシュトヴァーン(1571~1586)

スルタンの宗主権を認め、ハンガリー人、サース人(東方植民で入国したザクセン人)、セーケイ人の貴族が議会を構成して、農牧民を支配した。1568年に、カトリック、ルター派、カルヴァン派、ユニテリアン(反三位一体派)が公認され、ルーマニア系農牧民が信じた東方正教は寛容されただけであった。

1573年 マティア・グーベッツの農民蜂起

1604年 ハンガリー貴族ボチカイ・イシュトヴァーンの反ハプスブルク反乱。ハイドゥク(流浪の武装農民兵)の支持を得た。

ベトレン・ガーボル(1613~1629)

ボヘミア新教派と同盟し、ハイドゥクの支持を得ながら、ハプスブルク神聖ローマ帝国軍を破りまくった。

三十年戦争後にハプスブルクがカトリック化政策を強制、大貴族はハプスブルクに接近し、中小貴族は抵抗した。新教派の中小貴族にハイドゥクが加わって、「クルツ」と呼ばれる反ハプスブルク軍団が生まれた。

1678年 テケリ・イムレのクルツ反乱

1683年 第二次ウィーン包囲

レオポルト1世(1657~1705)

1696年 セルビア人に市民権を与えた。

1698年 ブダ正教徒に聖職者叙任権を与えた。

1699年 カルロヴィッツ条約。オスマン帝国はハンガリーから撤退し、ハプスブルク帝国の支配下に入った。戦乱を逃れて多くのラーツ人(セルビア人)がハンガリーに移民してきた。

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2026年1月10日 (土)

イスラムの数学

オスマン帝国 バヤズィト2世(1481~1512)

オスマン史書を多数編纂した。

1485年、印刷禁止令。コーランは汗水流して写本するのが信仰の正しい道だから。科学技術が国民に広まらず、西欧に後れを取った。

1492年、レコンキスタでグラナダ陥落。駆逐されたユダヤ教徒がオスマン帝国に亡命、スファラディムと呼ばれ、識別のため、黒い制服を着て街を歩かなければならなかった。

1501年、サファヴィー朝建国。シャー・イスマーイール(1501~1524)

サファヴィー朝にシンパシーを抱く者たちが各地で反乱したが、バヤズィト2世の対策が後手に回った。晩年に神秘主義に傾倒し、サファヴィー教団と関係が深いハルヴェティー教団の導師に師事していたから。

 

フワーリズミー(846年死) 

ホラズム生まれ、アッバース朝「知恵の館」で暮らす。代数学・三角法の父。代数学「アル・ジャブル」を著した。クレモナのジェラルドがトレドでラテン語に訳した。未知数をxと表現するのは、西欧語訳で、アラビア語の未知数にあたる言葉シャイイ(もの)をxoyと表記したからである。

アルキメデスの問題「球を平面で切り、二つの部分が所定の割合になるようにせよ。」から、マーハーニー(874年死)が正しい三次方程式を導き、ハーズィン(971年死)が解いた。

イブヌル・ハイサム(アルハゼン)

双曲線を円で切ることによって、4次方程式を解いた。

メッカの方向を決めるため、球面の複雑なcot(コタンジェント)の定理を発見した。

ウマル・ハイヤーム

3次方程式を13種類に分類し、円錐の切断によってその多くを解いた。

 

*参考までに

タルタリア ヴェネツィア共和国。1535年に3次方程式を解いた。

カルダン ミラノ公国パヴィア大学。タルタリアから3次方程式の解法をパクった。本業は医師で、腸チフスを発見した。このパヴィア大学は、フリードリヒ2世が創設したナポリ大学に次ぐイタリア2番目に古い総合大学で、めちゃくちゃ優秀。なんと傭兵隊長ヴァレンシュタインもパヴィア大学で学んでいた!

フェラーリ ローマ教皇領ボローニャ大学に暮らす。4次方程式を解いた。

 

ブーニー(1225年死) アルジェリア眼科医。魔法陣の一般解法を示した。

サービト・イブン・クッラ(901年死)友愛数の一般求法を示した。積分法を考案していた。

ムーサー・イブン・シャーキル兄弟 幾何学「形の計測」を著した。ピサのフィボナッチ、イギリスのロジャー・ベーコンを教えた。

バッターニー 球面三角形の余弦定理を発見。

アブル・ワファー 球面三角形の正接定理を発見。

アブー・ナスル(1036年死) 球面三角形の正弦定理を発見。

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2026年1月 8日 (木)

オランダとベルギーがひとつだったころ

オランダ(北)とベルギー(南)がひとつだったころ、ネーデルラントと呼ばれていた。ネーデルラントの北は湿地がひどく、ハンザ同盟の商館は南に置かれて、バルト海貿易がさかんだった。しかし河口の土砂が埋まり、南の港が機能しなくなる。代わって、北に港が建造され、水車で陸地に住めるようになった。以後、スペイン無敵艦隊配下で、オランダ海運業が勝ち、イングランド海賊と揉める。ネーデルラントは結婚でハプスブルク家の支配に入っていたが、ローマ教皇の牧場主だったドイツ皇帝ハプスブルク家が結婚でスペインと親戚関係に入る。ネーデルラントは狂信的カトリックのスペイン領となり、北の新教徒が重税に怒って独立戦争を始める。南のカトリック教徒は、「なにもそこまでせんでもええんやないか。」ということで独立運動から離脱。三十年戦争で、スペインが親戚ドイツに加勢。ドイツ皇帝を目指したフランスがドイツ新教徒、デンマーク、スウェーデンを煽ってドイツを荒廃させる。オスマン帝国は配下のルーマニアが独断でチェコと一緒にウィーンを攻めちゃったものの、皇帝後継のゴタゴタでウィーン征服のチャンスを逃し、ちょっとイラン侵略に興味を示した程度。ロシアのピョートル大帝は、グスタフ・アドルフ亡き宿敵スウェーデンを倒して不凍港をゲット、シベリアへ向かい国境を巡り清と揉める。

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1713年、連戦連敗の戦争オタク・太陽王ルイ14世がスペインだけは、やっとの思いで獲得に成功、弱っていたドイツの脅威をさらに遠ざける。ドイツ・ハプスブルク家の力が衰えたところで、プロイセンが北の僻地からドイツに領土拡大。シュレジエンを巡り、プロイセンとオーストリア、どっちが親分なのか戦争を始める。プロイセンが勝ち、ドイツ荒廃の復讐を秘めつつ、外交革命のフランスを倒す。フリードリヒ大王オタクのロシアの裏切りでプロイセンは滅亡を逃れた。

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2026年1月 7日 (水)

ウェストファリア条約のその後

フランス王 ルイ14世(1643~1715)

オスマン帝国 メフメト4世(1648~1687)

宰相タルフンジュ・アフメト(1652~1653) 

俸給遅延(テダーヒュル)解決のため、粉ひき税を増税。翌年、刑死。

宰相キョプリュリュ・メフメト(1656~1676) 

国王メフメト4世は、宰相キョプリュリュに丸投げして旧都エディルネで遊ぶ。ウラマーやイェニチェリを嫌ってか。

カドゥザーデ派ウラマー(厳格派)を流刑。ヴェネツィア海軍に占拠されていたダーダネルス海峡を奪取して、帝都イスタンブールの海上封鎖を解いた。1658年、トランシルヴァニア公国に進軍。アレッポ州総督アバザ・ハサン・パシャの反乱を鎮圧。イェニチェリを派軍して、小銃を回収し、息子をアレッポ総督に任じて、ジェラーリー反乱を完全に抑え込んだ。1666~1669年、クレタ戦争でヴェネツィア軍に勝ち、クレタ島を奪取した。

宰相カラ・ムスタファ(1676~1683)

1676~1681年 露土戦争。チヒルィーン占拠。

1683年、第2次ウィーン包囲。ポーランド・リトアニア王ヤン3世・ソビェスキ率いるポーランド竜騎兵に敗れて、ベオグラードで刑死。

宰相サル・スレイマン

1687年、第二次モハーチの戦いで神聖ローマ帝国軍に大敗。逃亡の罪で刑死。オスマン帝国、恐るるに足らずとヨーロッパ諸国が見下した。

       スレイマン2世(1687~1691)

宰相ファーズル・ムスタファ(1687~1689)

ベオグラード陥落された。ベオグラードはバルカン領土防衛の最大拠点だ。

宰相キョプリュリュ・ムスタファ(1689~1691)

クリミヤ汗国セリム・ギライの奮戦でベオグラードを奪還した。

       アフメト2世(1691~1695)

イギリスを仲介とした和平を模索した。

       ムスタファ2世(1695~1703)

和平の方針を転換し、これまでのスルタンが虚飾にふけっていたことを批判し、聖戦(ジハード)を宣言した。カドゥザーデ派の教育を受けていた。普段から華美を戒め、一兵士と同じ食事をとって質素に暮らした。オーストリアとの戦いに親征して、「信仰戦士(ガーズィー)」の称号を得た。戦費を新税として民衆に転嫁し、民衆から徴収された兵員が戦争終結に伴って帰郷すると匪賊化し地方の混乱を招いていた。ムスタファ2世は、財政改善のために嗜好品への増税を行い、匪賊を取り締まった。ムスタファ2世はエディルネに住み、イスタンブールのトプカプ宮殿を留守にしており、イスタンブール経済が停滞し、商人や職人の不満が高まっていた。さらにムスタファ2世の推しだったイスラム長老フェイズーラーの専横に民衆は不満だった。

1703年 エディルネ事件。グルジア派遣予定の鎧師団200人が給与未払いを理由に抗議行動を起こした。ムスタファ2世は退位し、フェイズーラーを罷免した。

宰相アムジャザーデ・ヒュセイン(1697~1702)

ゼンダの敗戦後も戦争継続を望むムスタファ2世を説得して、1699年にカルロヴィッツ条約に調印した。

       アフメト3世(1703~1730)

宰相バルタジュ・メフメト(1704~1706,1710~1711)

デヴシルメ制を復活した。

宰相ネヴシェヒルリ・イブラヒム(1718~1730)

地方のムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒の有力者(アアヤーン)が大土地所有制(チフトリキ)をはじめ、西欧に輸出するために、綿花、トウモロコシ、小麦・タバコを栽培した。チフトリキは、輸出に便利な地中海、黒海沿岸、ドナウ川流域に発達した。やがてアアヤーンは、都市で家屋、貸店などの不動産を持ち、寄付(ワクフ)を設定する一方、農村部の徴税請負(イルティザーム)も行い、独自の軍を持って領域の一円的支配を目指すようになった。西欧との貿易に携わったギリシャ人、アルメニア人などのキリスト教徒が活気づき、一時イスラムが多数を占めたソフィア、プロヴディフ(フィリベ)などバルカン諸都市や、小アジアの港イズミルの再キリスト教化が進んだ。レバノンのシハーブ家もキリスト教化し、アッカー(アッコン)の城塞や公共施設を再建したザーヒル・ウマル(1746~1775)やジャッザール・パシャ(1775~1804)はキリスト教を保護した。

大使イルミセキズ・チェレビをフランス派遣。「使節の書」を著した。ハンガリー人イブラヒム・ミュテフェッリカが活版印刷所を開設した。修史官制度が成立。金角湾の奥にイラン宮殿を模したサーダバード離宮を建築。オランダで品種改良されたチューリップを好んだ。

神聖ローマ帝国 レオポルト1世(1658~1705)

        ヨーゼフ1世(1705~1711)

        カール6世(1711~1740)

ようやくオスマン帝国スルタンが正気に戻ってウィーン侵攻を再開した。つくづくハプスブルク家は運がいい。ウィーンをムスリムに落とされたら、ズタボロの神聖ローマ皇帝はさておき、さすがにドイツ諸侯が黙っていないだろう。ポーランド竜騎兵の助っ人で一発逆転、ウィーンは陥落を逃れた。オスマン領だったプラチスラバ(いまはスロバキア首都)とウィーンの距離はめっちゃ近い。

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1648年 ウクライナ・コサックの反乱

ポーランド・リトアニア共和国は、オスマン帝国保護下にいたクリミア・タタールの対策をコサックに任せていた。一部のコサックを「登録コサック」として、軍役に対し俸給を支払ったが、多くの貧しいコサックから不満が爆発していた。フメリニツキーが蜂起、1648年にバフチサライ条約で、クリミア汗国と同盟を結び、1649年に「ズボリフの合意」で、ポーランドがコサックに対して大幅に譲歩した。

ヘトマン(最高指導者)についたフメリニツキーは、1650年、オスマン帝国スルタンの宗主権を受け入れ、ポーランドからの独立を目指した。1651年、タタールと組んでポーランドと戦争したが敗戦。「ズボリフの合意」も白紙に戻された。1654年、ペレヤスラフ協定。フメリニツキーはモスクワ大公国ツァーに臣従の意を表明し、コサックの自治が認められた。後継のイヴァン・ヴィホフスキーがポーランドとの関係回復に変更。1658年、「ハジャチ合意」にて、コサック統治領域を「ルシ(ルテニア)公国」とし、ポーランド・リトアニア・ルシ三国連合に発展させようとしたが、ヴィホフスキーがヘトマン位を追われて不発に終わった。ポーランド・リトアニアは、モスクワ大公国・コサック連合と戦争を続け、1667年、アンドルソヴォ協定によって、スモレンスク地方をモスクワ大公国に、ウクライナをドニプロ川境に東西に分け合った。キエフは西側だったが、モスクワ大公国領になった。

ポーランド・リトアニアは、オスマン帝国の属国クリミア・ハン国、モルトヴァ公国、オスマン帝国直轄領と南の国境を接しており、クリミア・タタールは国境を侵犯してポーランドで掠奪を働いた。1672年、ブチャチ和約。オスマン帝国軍の猛攻を受けたポーランド・リトアニアはコサックにポドレ地方南部を割譲した。1676年、ジュラヴノ和約で一部の割譲地を取り戻した。

1699年、カルロヴィッツ条約で、ポーランド・リトアニアは失地回復。

*ヘトマン国家

歴代ヘトマン

フメリニツキー 1648~1657

ヴィホフスキー 1657~1659

ユーリー・フメリニツキー 1659~1663

左岸ヘトマン ブリュホヴェツキー 1663~1668

       ムノホフリシニー 1669~1672

       サモイロヴィチ 1672~1687

       マゼッパ 1687~1709

       スコロパツキー 1709~1722

       ポルボトク 1722~1724

       アポストル 1727~1734

       ロズモフスキー 1750~1764

右岸ヘトマン テテリャ 1663~1665

       ドロシェンコ 1665~1676

       ユーリー・フメリニツキー 1667~1681

首都 チヒリン 1648~1663

   ハダャーチ 1663~1708

   バトゥーリン 1669~1708、1750~1764

   フルキフ 1708~1734

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1655~1660年 北方戦争

ポーランド・リトアニア共和国ヤン2世カジミェシュ(1648~1668) 負け

vs スウェーデン帝国カール10世(1654~1660) 勝ち

 

 

1664年 ザンクト・ゴットハルトの戦い

神聖ローマ帝国レオポルト1世(名将ライモント・モンテクッコリ) 勝ち

vs オスマン帝国メフメト4世 負け

1664年 ヴァシュヴァール和約

 

1676~1681年 露土戦争

オスマン帝国メフメト4世(宰相カラ・ムスタファ) 勝ち

vs モスクワ大公国フョードル3世 負け

1681年 バフチサライ条約。ドニプロ川東岸をモスクワ大公国、ドニプロ川西岸をオスマン帝国が領有する。

1683年 第2次ウィーン包囲

神聖ローマ帝国レオポルト1世 勝ち

vs オスマン帝国メフメト4世(宰相カラ・ムスタファ) 負け

1684年 ローマ教皇インノケンティウス11世が神聖同盟を提唱。

ローマ教皇、神聖ローマ帝国(オーストリア)、ヴェネツィア共和国、ポーランド・リトアニア貴族共和国、モスクワ大公国(←1686年加盟)

*オスマン帝国の軍事的劣勢の原因

1 ヨーロッパにおける軍事技術の革新にオスマン帝国が乗り遅れてしまったこと。さらにイェニチェリ軍団の規律が弛緩しており、軍事的に劣化したこと。

2 これまでのヨーロッパではありえなかった、神聖同盟という長期にわたる軍事同盟が継続的にオスマン帝国に多方面での戦いを強いたこと。複雑な利害の絡むヨーロッパ諸国が10年以上にわたって共通の敵オスマンに対して同盟を結び、戦線を継続したことはなかった。ハンガリー、黒海北岸、エーゲ海という三正面作戦を長期にわたって継続するのは、オスマン帝国にとって初めての経験だった。

1683~1699年 大トルコ戦争

1687年 第二次モハーチの戦い

ロレーヌ公シャルル5世・バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル 大勝

vs オスマン帝国メフメト4世(宰相サル・スレイマン) 大敗

オスマン帝国、恐るるに足らずとヨーロッパ諸国が見下した。

 

1709年 ポルタヴァの戦い

モスクワ大公国ピョートル1世 勝ち

vs スウェーデン王カール12世 負けてオスマン帝国に亡命

1711年 プルート川の戦い

オスマン帝国アフメト3世(宰相バルタジュ・メフメト) 勝ち

vs モスクワ大公国ピョートル1世 負け

アゾフを奪還した。

1714~1718年 第7次オスマン・ヴェネツィア戦争

1716~1718年 墺土戦争

オスマン帝国アフメト3世(宰相シラーダーリ・ダマト・アリ) 負け

vs オーストリア大公国プリンツ・オイゲン 勝ち

1718年 パサロヴィッツ条約

ハンガリー・ワラキア西部・セルビア北部・ボスニア北部をオーストリアに割譲。ヴェネツィア共和国はペロポネソス半島をほとんどオスマン帝国に放棄して、コルフ島を含むイオニア諸島とダルマツィアの諸港だけを死守した。

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オスマン・ヴェネツィア戦争

第1次 1463~1479年

第2次 1499~1503年

第3次 1537~1540年

第4次 1570~1573年(キプロス戦争)

第5次 1645~1669年(クレタ島をめぐるカンディア戦争)

第6次 1684~1699年(モレア戦争)

第7次 1714~1718年

 

第2次オスマン・ヴェネツィア戦争の講和条約(1503年)がターニングポイント。ヴェネツィア共和国は、地中海でのこれ以上の戦費支出を避け、イタリア内の紛争に専念するために、海上帝国の要衝であった地域を引き渡す講和条約を結び、海上支配権よりイタリアにおける領土のほうを優先する政策に転換した。

1726年 アフガン人アシュラフが、サファヴィー朝タフマースブ2世を倒してシャー簒奪。

1729年 ダムガーン会戦。ナーディル・シャーがアシュラフを破る。

1730年 ナーディル・シャーがサファヴィー朝タフマースブ2世を擁立して、アシュラフ処刑。

1736~1747年 ナーディル・シャーがアフシャール朝を建国。

 

1730年 水兵パトロナ・ハリルの乱。ネブシェヒルリ処刑、アフメト3世廃位、マフムト1世即位。

1735~1739年 オーストリア・ロシア・トルコ戦争

1739年 ベオグラード条約

*ヴェネツィア共和国の関連地図

教皇派、皇帝派が争っていたころ、各都市国家が道路を通行可にするか通行止めにして、選帝侯による皇帝選挙に間に合わないように妨害したのが、傍目で観ていてとても面白い

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2026年1月 4日 (日)

ヴァイキング

9世紀、中世温暖化で海氷が溶けてはじまったヴァイキング大移動。木船にタールを使っており、わずかの火気でも数分で全焼するため、一切の火気厳禁だった。身分の高い者から低い者まで船上では平等、同じ保存食を食べて互いに温め合いながら寝たという同朋意識が強かった。厳しい真冬でも凍死しない生活の知恵が遠征先の駐屯でも生かされた。ノルマンヴァイキング軍が強かった原因はここにある。フランス革命国民軍の先駆者と言ってもよい。1099年、十字軍でエルサレムを陥落できたのは、無名のノルマンヴァイキングの団結力のおかげだった。1187年、エルサレム失地の知らせで真っ先に駆けつけたのもノルマンシチリア王だった。いつしか、温暖な地中海気候に慣らされて、伝統的な団結力が失せて内紛に走ったのも、やはり人の子であった。

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連水陸路

ノルマン人は、河川を利用する交通路を求めて南下していった。ノルマン人の関心はもっぱら通商にあった。通商相手は、ビザンツ商人とイスラム商人だった。ビザンツ商人とはコンスタンティノープルで、イスラム商人とはハザール王国およびアッバース帝国で取引を行った。

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2026年1月 3日 (土)

宝塚歌劇星組「恋する天動説」「Dynamic Nova」(1回目)をみて

近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。キャトルレーヴで詩ちづる四つ切ブロマイド、華純沙那新人公演主演ブロマイド、美羽愛別箱公演主演ブロマイドを購入。フルールで娘夫婦と会い、初孫抱っこ。井高野君と現地集合。座席は1階上手側真ん中あたりの良席でした。

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第一部

アレックス・ニュートン・ジョン(人違いのシンシア婚約者) 暁千星

アレックス・ニュートン(本当のシンシア婚約者) 大希颯

シンシア(姉) 詩ちづる

キアラ(妹) 乙華菜乃

シンシアの父がレーサーで、シンシアもレーサーの素質十分。祖母ドロシー(柚長)はシンシアのレース参加に猛反対。叔父ゴードン(オレ輝咲)とロレイン(天愛るりあ)夫婦がシンシアとアレックスを追い出して、ドロシー経営のホテルの乗っ取りを企むところが、コミカルでおもろい。

アレックスの父がレース整備士で整備が悪かったせいでシンシアの父が事故死、アレックスも妙に車に詳しい。実は整備は問題なく、シンシアの父の力量が及ばず事故死したことがあとでわかる。

車やバイクを電動エンジンふかして動かしていたので、バックなんかしてたし、舞台から落ちないかハラハラした。気を付けてね。

今回はヤンキーの本場・宙組と同じ路線だったが、うたちはデキル子ちゃんなので、次回はガッツリと重厚感あふれる芝居を期待しているね。

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第二部

うたち(詩ちづる)のドレスお着替えが見どころ。可愛すぎる。レイラ退団ニューヨーク後、定評のダンスは、あり(暁千星)、あまと(天飛華音)、ヒーロー(ひろ香祐)、チャリオ(碧海さりお)、きさ(希沙薫)、るりあ(天愛るりあ)。

客席降りでは、咲園(さきぞの)りさちゃんが近くで踊ってくれた。なんといっても目立ったのは、乙妃優寿(ゆず)ちゃん。ロケットセンターもゲット。負けじと乙華菜乃(なの)ちゃんも目立ってよかったわ。人知れずそっと咲くひより(藍羽)もオペラオペラ。

エトワールは、るりあちゃん。和希そら率いる岡山仕込みで歌もダンスも上手い。ラテン・タンゴも魅せるわ。

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2026年1月 2日 (金)

春日大社初詣2026

謹賀新年

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2026年1月 1日 (木)

三十年戦争

1618~1623年 ボヘミヤ・プファルツ戦争

1625~1629年 デンマーク戦争

1630~1635年 スウェーデン戦争

1635~1648年 フランス戦争

旧教連盟(リガ) vs 新教同盟(ウニオン)

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1555年、アウグスブルク宗教和議で、カトリックとルター派のみ容認。カルヴァン派やフス派は非容認。当初、傭兵間に国籍の内紛はあったものの、宗派の内紛はなかった。徐々に宗派による内紛が生じるようになった。

傭兵の古参兵が、17世紀以降、絶対王政時代の常備軍創設に貢献した。

 

ティマール制

シパーヒー(騎士)にティマール(封土)として徴税権が与えられた。

イェニチェリとティマール騎兵がオスマン軍を支えていたが、火器、大砲が導入されて、騎兵の役割が下がってきた。

16世紀末より、時代遅れのティマール騎兵を縮小し、イェニチェリを増員した。

徴税請負制(イルティザーム)

新大陸からの銀の流入で、銀価格の下落と物価高騰が生じた。都市への人口増加が深刻になった。1585年、オスマン銀貨改鋳で、都市の物価は下がったが、給料価値が下がったティマール騎兵が没落していった。

17世紀より、ティマール制の解体を進め、徴税請負制を導入。徴税請負人が地方の徴税権を政府から買い取り、任地で徴税して一定の額を政府に納め、あとは着服した。

18世紀より、地方のアーヤーン(名士)が勢力を伸ばした。

 

*ジェラーリーの諸反乱

増加した無頼者が地元名士に集結して、反乱を起こした。

1600~1602年 カラヤズジュの乱

1604~1608年 カレンデルオールの乱

1605~1607年 ジャンボラトオール一党の乱

1622~1628年 イェニチェリ征討を掲げたアバサ・メフメト・パシャの乱

1651~1658年 奴隷軍将校アバザ・ハサンの乱

 

神聖ローマ帝国 カール5世(1519~1556)

        フェルディナント1世(1556~1564)

オスマン帝国 スレイマン1世(1520~1566)

(ここは世界史教科書太字部分)

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神聖ローマ帝国 マクシミリアン2世(1564~1576)

従兄スペイン・フェリペ2世の真逆でカトリックの情熱なく、プロテスタントにも理解を示した。「愚神礼賛」を著して教会批判をするものの政治活動を怠ったエラスムスと同様に非難を受けた。

1566年 アウグスブルク宗教平和 ツヴィングリ派・カルヴァン派を承認

オスマン帝国 セリム2世(1566~1574)

大宰相ソコッルに政治を丸投げ。

1571年 キプロス島奪取。

1571年 ローマ教皇ピウス5世(1566~1572)の提唱で、神聖同盟結成。スペイン、ジェノヴァ共和国、ローマ教皇軍、ヴェネツィア共和国、マルタ騎士団、トスカーナ大公国、ウルビーノ公国、サヴォイア公国

1571年 レパント海戦で敗北するも、翌年にはオスマン艦隊が完全に再建された。

神聖同盟艦隊 ドン・ファン・デ・アウストリア(カール5世の庶子) 勝ち

vs オスマン艦隊 メジンザード・アリ・パシャ 大敗

1573年 スペインからチュニスを奪回。

 

*レパント海戦

ヴェネツィア共和国領キプロスがオスマン帝国に奪われたことに端を発する。

海運国ヴェネツィアを支えたのは、ダルマツィア地方出身の下級船員だった。ダルマツィア地方は、ヴェネツィアにとって不可欠だった下級船員たちの供給地だった。

神聖同盟軍 vs オスマン軍

左翼 アゴスティーノ・バルバリーゴ ヴェネツィア海軍

vs 右翼 シロッコ(マホメッド・シャルーク) アレキサンドリア総督・海賊

 

中央 ドン・ファン・デ・アウストリア カール5世の庶子

vs 中央 メジンザード・アリ・パシャ 大宰相

 

右翼 ジャンアンドレア・ドーリア ジェノヴァ海軍・スペイン王フェリペ2世の傭兵

vs 左翼 ウルグ・アリ アルジェリア王・海賊

 

神聖ローマ帝国 ルドルフ2世(1576~1612)

オスマン帝国の脅威を逃れるため、ウィーンからプラハに移住。熱狂的カトリックだったので、プロテスタントのチェコ住民と揉める。

1609年 弟マティアスに監禁幽閉され、ボヘミア人の信教自由を認めた「ルドルフ勅書」を発布した。

        マティアス(1612~1619)

パン屋の息子クレスルに丸投げ。

1618年 プラハ城窓外放擲事件。プロテスタントがプラハ城に押しかけ。フス派から狂信的カトリックに改宗した代官・書記官たちを窓から放り投げた。

オスマン帝国 ムラト3世(1574~1595)

       メフメト3世(1595~1603)

       アフメト1世(1603~1617)

1578~1590年 サファヴィー戦役

アゼルバイジャンとカスピ海西岸を奪った。

1591~1606年 ハンガリー戦争 ツィトヴァ・トロク条約

オスマン軍政官テルリ・ハサンがクロアチアに敗北。

1603~1623年 サファヴィー戦役

サファヴィー朝アッバース1世(1588~1629)に敗れ、アゼルバイジャン、バクダードなど獲得領土をほぼ失った。

 

神聖ローマ帝国 フェルディナント2世(1619~1637)

        フェルディナント3世(1637~1657)

オスマン帝国 ムスタファ1世(1617~1618,1622~1623)

政治の意欲がまったくなかった。

       オスマン2世(1618~1622)

1621年 ポーランド親征

1622年 メッカ巡礼

イェニチェリ幽霊軍団員の綱紀粛正をおこなったため、イェニチェリから暗殺された。

       ムラト4世(1623~1640)

カドゥザーデ派(厳格、スーフィー教団を糾弾)を採用。マグリブ地方のアゼルバイジャン系・クルド系学者が移住して、学問が繁栄した。

1624年 サファヴィー朝アッバース1世がバクダードを奪う。

1635~1639年 サファヴィー戦役 カスレ・シーリーン条約(ズハーブ条約)

       イブラヒム(1640~1648)

兄たちの処刑を見て精神異常をきたした。クリム汗国のハーンが後継者に考えられていた。

1645年 海賊行為のマルタ騎士団征伐のため、クレタ島遠征。要塞カンディア(イラクリオン)攻略ならず。

1646年 ヴェネツィア共和国がダーダネルス海峡を封鎖、クレタ島とイスタンブールの補給線を遮断した。

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1611~1613年 カルマル戦争

デンマーク王クリスチャン4世 勝ち

vs スウェーデン王グスタフ・アドルフ 負け

1613年 クネレド条約。エルブスボリ要塞をデンマークが得て、バルト海制海権を握った。

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等族とは、貴族、聖職者、身分制議会に出席できる上級市民を指す。領邦国家は、領邦君主と、等族の共同支配、すなわち二重権力構造によって支配されていた。等族の反乱は国家反乱とはならなかった。ネーデルランドとボヘミアは従来の二重権力体制からの脱却を図り、一元支配、絶対主義を模索し始めていた。やがてネーデルランドでは、等族が勝利を収め、等族による一元支配、国家独占(夜警国家)の形がとられることになる。ボヘミアでは等族の完膚無き敗北に終わり、等族の力は根こそぎ奪われ、君主の国家独占が敷かれた。

神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は狂信的カトリック。フェルディナント2世が次にとった政策は、ハプスブルク家所領を宗家・分家がそれぞれ主権をもつことを廃止し、宗家長子単一相続制度をとることに変更した。弟レオポルト大公だけが反対したので、チロル伯領だけは例外としてレオポルト大公に与えられた。帝国を一元支配するということは、帝国議会を完全に無視するということである。三十年戦争とは、皇帝ハプスブルク宗家と帝国諸侯の争いであった。

ボヘミア反乱鎮圧軍はスペイン王フェリペ3世に援軍依頼。アルザスをスペインに譲渡するという条件で。アルザスはスペインにとって対ネーデルランド戦争の兵站地として利用価値が大きかったし、スペインがドイツ諸侯の仲間入りすることでドイツ問題に直接介入できるというメリットがあった。

ルター派信奉していたザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクは中立を保った。

プロテスタント軍は各方面に援軍を求めた。

フランス ユグノー戦争後とはいえ、宗教対立が残っており援軍を断った。

サヴォイ侯国 傭兵隊長マンスフェルトに2万の兵をつけてボヘミアに派遣した。

プファルツ選帝侯国 フリードリヒ5世がローテンブルクで新教同盟会議を招集した。カルヴァン派を狂信していたイギリス王ジェームズ1世が舅だった。

 

ジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア公国)のベトレン・ガーボル(1613~1629)がハンガリーに侵攻し、ボヘミア反乱軍トゥルンと同盟。フェルディナント2世のボヘミア王廃位を宣言し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に選出した。フリードリヒ5世の娘婿だったイギリス王ジェームズ1世は中立を保った。新宰相クリスチャン・フォン・アンハルトとトゥルンが反目。

フェルディナント2世はバイエルン侯マクシミリアン1世に援軍を依頼。下オーストリアとプファルツ選帝侯位をバイエルン侯に与えるという密約で。バイエルン侯は名将ティリーに2.5万の兵をつけてボヘミアに派遣した。カトリック教のフランスはフェルディナント2世を下に見て選帝侯としか見ず。

ザクセン侯、オランダ、デンマーク、ヴェネツィアはボヘミア王フリードリヒ5世を支持した。デンマークはハンブルクとの貿易戦争中。オランダは各州対立。ヴェネツィアもイタリア情勢で手一杯。カボールはボヘミア反乱軍を裏切って皇帝軍と密約。サヴォイ侯は、傭兵隊長マンスフェルトと契約を打ち切りスペイン軍の自国通過を認め、名将スピノラが2.5万の兵を率いてプファルツに侵攻。

1620年 白山(ビーラー・ホラ)の戦い

神聖ローマ帝国フェルディナント2世軍ブコイ・バイエルン軍ティリー 勝ち

vs ボヘミア王フリードリヒ5世軍クリスチャン・ボヘミア反乱軍トゥルイ 負け

ボヘミア王国の選挙王制は廃止し、ハプスブルク家の世襲王制とした。

スペイン軍は、1621年、オランダとの休戦協定が切れたため、プファルツを引き払ったため、軍隊が空白になった。フリードリヒ5世は失地回復を目指す。アルザスのマンスフェルト、ヴェストファーレンのクリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク、バーデン辺境伯ゲオルク・フリードリヒが反皇帝軍に加わった。

1623年 シュタットローンの戦い。ネッカー川とマイン川の渡河作戦が失敗に終わり、皇帝軍はあっさりと反皇帝軍を蹴散らした。フリードリヒ5世を帝国追放し、選帝侯位を剥奪してバイエルン侯に与えた。

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1623年 ローマ教皇グレゴリウス15世が、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世を承認。オーストリア・スペイン両ハプスブルク家に楔として牽制する目的で。バイエルン選帝侯マクシミリアン1世は、ローマ教皇の機嫌を取るため、プファルツ選帝侯所轄だったハイデルベルク大学図書館の膨大な蔵書をローマ教皇に寄進した。フェルディナント2世は、フリードリヒ5世を牽制する目的で、スペイン軍(←ドイツ諸侯からみたら外国軍)のプファルツ駐留を認めた

1624年 フランス王ルイ13世の宰相リシュリューが提唱し、フランス・オランダ・イギリス・デンマーク・スウェーデンが反ハプスブルク同盟を結成。バイエルン侯マクシミリアン1世は、皇帝軍につくしかなくなり、名将ティリーが参謀となった。

1624年 フランス、サヴォイ、ヴェネツィアがスペイン軍の進軍・補給路を遮断した。スイス・グラウビュンデン州の新教徒が皇帝弟レオポルト大公を破り、ヴァルテッリーナ谷を閉鎖した。ドーバー海峡はイギリス艦隊が押さえており、スペインの進軍・補給路は陸路・海路ともに遮断された。フェルディナント2世はスペイン援軍を失った。

1625年 デンマーク王クリスチャン4世が帝国領内のホルンシュタイン侯領と下ザクセン区を所有していたが、フェルディナント2世はティリー軍にクリスチャン4世軍と戦うよう命令した。

イギリスは、スウェーデン王グスタフ・アドルフに対し、ライバルのデンマーク王クリスチャン4世に従軍するよう打診するが、グスタフ・アドルフはドイツ問題に背を向け、宿敵ポーランドとの戦争を再開させた。さらにイギリスは、マンスフェルト傭兵隊長、ブラウンシュヴァイク傭兵隊長に募兵資金を供出していた。ジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア公国)のベトレン・ガーボルが戻ってきて反ハプスブルク陣営に加わった。

皇帝軍ティリーは、バイエルン侯マクシミリアンに援軍を依頼、マクシミリアンはフェルディナント2世に援軍を依頼したが、フェルディナント2世には軍資金がなかった。ローマ教皇ウルバヌス8世は、フランス駐在教皇特使をやったことがありフランス贔屓なので、軍資金調達はあてにできない。救世主現る、ヴァレンシュタイン傭兵隊長がフェルディナント2世に味方し続けた。1623年には、ヴァレンシュタインはフェルディナント2世によりフリートラント侯に任ぜられていた。

ヴァレンシュタインの手本は、ミラノ公を簒奪したスフォルツァ傭兵隊長、ヴェネツィアの傭兵隊長コレオーニだった。

1626年 ブラウンシュヴァイクはヘッセン辺境伯モーリッツを味方にできず、皇帝軍ティリーに追われて病死。マンスフェルトは、デッサウ橋の戦いでヴァレンシュタインに一騎打ちを挑み敗北、ヴァレンシュタインに追われ逃亡中に病死。クリスチャン4世はルッターの戦いで、ティリーに敗北。

皇帝フェルディナント2世は、ハンザ同盟リューベック、ハンブルクに同盟を命じたが拒否。ヴァレンシュタインをシュトラールズントまで侵攻させると、ハンザ同盟がスウェーデン王グスタフ・アドルフと30年間の保護協定を締結。図に乗ったクリスチャン4世がシュトラールズントに上陸してヴァレンシュタインに大敗北。

1628年 一介の傭兵隊長に過ぎないヴァレンシュタインが、メクレンブルク侯爵に叙爵された。これに、ボヘミヤ選帝侯以外、マインツ大司教が先頭に立って猛反対した。切り札としてフェルディナント2世嫡男のローマ王即位に反対した。

*イタリアのマントヴァ継承問題

フランス・リシュリューがイタリア橋頭保としてフランス王家臣シャルル・ヌヴェール侯をマントヴァ侯に据えたい。スペイン・ハプスブルク家は近隣のミラノ公国が危ないという理由で猛反対。オランダ艦隊がフランドルに孤立していたスペイン艦隊を連戦連勝で打ち破っており、スペイン兵の給料(金銀)や補給が封鎖されていた。フェルディナント2世は、マントヴァ接収したところ、ローマ教皇がハプスブルク家がイタリア介入したと激怒。

1629年 リューベックの和約。クリスチャン4世はドイツから撤退。スウェーデンに目を向けた。

1629年 回復令。全戦全勝の頂点に立ったフェルディナント2世が発布した。

1 帝国議員、帝国諸侯は今後、皇帝の許可なくみだりに武力を持ったり同盟を結ぶな。

2 皇帝位はハプスブルク家の世襲とする。

3 直ちにバルト海艦隊の建造に着手せよ。

4 カルヴァン派を宗教和平の埒外に置く。プロテスタントに没収された修道院。教会領はすべてカトリックに返還せよ。

 

ブランデンブルク選帝侯は東プロイセンに亡命。ヴァレンシュタインは空白となったブランデンブルクに駐屯し、重い軍税を住民に課した。

1630年 マントヴァ派兵を拒否したヴァレンシュタイン罷免。ヴァレンシュタインは大軍を意識的に解体し、フリートラントに戻った。メクレンブルク公位も剥奪された。傭兵たちはザクセン選帝侯に仕えていたアルニム傭兵隊長に流れた。

Erschlagen [Landsknecht song][+English translation]

マロード団による掠奪 解雇兵、落伍傷病兵は農民に対して窃盗、ゆすり、たかりを働いた

騎馬巡察隊による掠奪 敵の補給部隊や商人の輸送隊や農民を襲撃した

1630年 スウェーデン王グスタフ・アドルフが、シュトラールズントを橋頭保にして、プロテスタント解放の名目でポンメルン侯国に上陸。

1631年 グライフスヴァルトの戦い。グスタフ・アドルフがヴァレンシュタイン軍を破り、ポンメルン侯国を占拠した。

1631年 ベールヴァルデ条約。フランスとスウェーデンが同盟。

1 フランスがスウェーデンに軍費を払う。

2 スウェーデンはドイツ・カトリック信仰の自由を保障する。

3 スウェーデンはフランス友好国であるバイエルン侯国を侵略しない。

4 今後5年間、両国は他国と単独講和を結ばない。

グスタフ・アドルフは、4ポンド砲を駆使する砲兵を配置した。

スウェーデン宰相ウクセンシェルナ 「グスタフ・アドルフをマインツ選帝侯にしたい。」

フランス宰相リシュリュー 「ルイ13世をケルン選帝侯にしたい。」

*グスタフ・アドルフ軍応援チーム 

ドイツからみてよそ者、グスタフ・アドルフは敵方を避けながら南下して、フェルディナント2世が暮らすウィーンを目指して攻撃しないといけない。

ヘッセン辺境伯、ポンメルン侯、ボヘミヤ冬王(亡命中)フリードリヒ5世、メクレンブルク侯(亡命中)、マグデブルク大司教領(亡命中)クリスティアン・ヴィルヘルム(←ブランデンブルク選帝侯の息子)

1631年 マグデブルクの戦い(劫凉)。グスタフ・アドルフの同市救済要請に、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯が応えず。皇帝軍ティリー、副官パッペンハイムが、プロテスタント側のハンザ都市マグデブルクを凌辱した。その惨劇を見て、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯は中立を辞め、グスタフ・アドルフに協力。

1631年 ブライテンフェルトの会戦。ザクセン選帝侯のアルニム傭兵隊長がスウェーデン軍に合流。ティリーはテルシオ密集隊形、グスタフ・アドルフは砲兵を活用して大勝。ティリーは右腕を失い、パッペンハイムは逃亡。グスタフ・アドルフは自分の臣下として、ボヘミヤ冬王フリードリヒ5世をプファルツ侯に復位させようとして激怒。グスタフ・アドルフの征服者の顔が見えて、プロテスタント諸侯とフランスがドン引き。

1632年 レヒ川の会戦。グスタフアドルフが大勝、ティリー敗死。

1632年 ヴァレンシュタインが皇帝軍総司令官につく。軍の全権、和平交渉権、条約締結権、ボヘミヤ・ブランデンブルク・プファルツのうち一つの選帝侯位獲得、スペイン介入断固排除、皇帝嫡男に最高指揮権を与えないことが条件だった。ザクセン侯軍とアルニム傭兵隊長を買収した。

1632年 リュッツェンの会戦。グスタフ・アドルフと傭兵隊長ヴァイマール・フォン・ベルンハルトが勝利。グスタフ・アドルフと皇帝援軍パッペンハイムは敗死、ヴァレンシュタインは逃亡。ボヘミヤ冬王フリードリヒ5世がペストで病死。

スウェーデン宰相ウクセンシェルナが、幼いクリスチナ女王の摂政に当たった。スウェーデンの名誉ある撤退を決定。

ヴァレンシュタインは、ザクセン侯代理人だったアルニム傭兵隊長と交渉。スウェーデンとの和平を決め、ウクセンシェルナと交渉。ヴァレンシュタイン皇帝軍離反が条件だったため拒否。宰相リシュリューが派遣した外交官フーキエールが皇帝軍離反を条件に、ボヘミヤ王位を保証してきた。

1633年 ハイルブロン同盟。スウェーデンとプロテスタント諸侯が同盟。カトリック・フランスがハイルブロン同盟の宗主になるため、宰相リシュリューが外交官フーキエールを派遣。ウクセンシェルナ激怒したが、ベールヴァルデ条約で約束したフランスからスウェーデンへの軍資金を直接プロテスタント諸侯に渡すと脅迫し、フランスがハイルブロン同盟に介入。

1633年 スウェーデン軍傭兵隊長ベルンハルトがバイエルン侵攻。

1634年 皇帝フェルディナント2世がヴァレンシュタイン殺害。バイエルン侯が譲歩して、ハンガリー王・ボヘミヤ王になっていた嫡男フェルディナント3世がローマ王就任。トレド大司教フェルナンド(スペイン王フェリペ3世の息子)がスペイン領ネーデルランド総督に就任、フェルディナント3世とともにカトリック側で戦争を継続。

スウェーデン軍は、ホルン、バネールとその配下アルニム傭兵隊長、ヘッセン辺境伯、ベルンハルト傭兵隊長。

1634年 ネルトリンゲンの会戦。フェルディナント3世とスペイン・ハプスブルク家フェルナンド(スペイン王フェリペ3世の息子)がスウェーデン軍に圧勝。

スペイン・ハプスブルク軍により、マイン川、ヴゥルテンブルク、ニュルンベルク、ヴュルツブルク、ハイデルベルク、トーリア選帝侯国と陥落。ザクセン選帝侯国とブランデンブルク選帝侯国が抵抗。

1635年 プラハ和平条約

1 回復令の撤回

2 ザクセン侯が皇帝配下の同盟者となる

3 帝国諸侯の同盟権剥奪

4 バイエルン侯の選帝侯位を保証し、旧教連盟を解体

ザクセン・コーブルク選帝侯国、ブランデンブルク選帝侯国をはじめ次々とプラハ和平条約に署名。

署名を拒否し帝国の敵となったのは、プファルツ選帝侯、ヘッセン辺境伯、ブラウンシュヴァイク・ルーネブルク侯の三者のみ。

*ヘッセン辺境伯は、18世紀、自領民を人狩りして外国へ傭兵として売却し続けた。

このままいけば、ハプスブルク家による神聖ローマ帝国絶対王政が生まれていた。な・の・に、ライン河帝国副首都ハイデルベルク大学図書館蔵書でサイエンスを勉強していたはずのローマ教皇ウルバヌス8世は、カトリック盟主たるハプスブルク家を見捨てた。おまけにガリレオ裁判「それでも地球は動く」を引き起こす始末。ここでローマ教皇は、皇帝/国王一元支配という近世へという時代の流れの中で、国際政治の舞台から降りることになった。カトリック盟主たるフランス宰相リシュリューが、スペインと神聖ローマの挟み撃ちを嫌って、帝国内プロテスタント諸侯と大陸からの撤退を決めていたスウェーデンと組み、その気にさせて、このあと三十年戦争に介入さえしなければ、ドイツ人があそこまで死ぬことはなかった。神聖ローマ帝国の死亡診断書と揶揄されたウェストファリア条約が、1648年に結ばれる。落とし子的にプロテスタント礼賛のプロイセン王国やゲーテや傭兵に端を発する私が愛するプロイセン遍歴大学生や大秀才の不良大学生だった大宰相ビスマルクが後世生まれる。

Ich hab mein Herz in Heidelberg verloren 2009

1635年 コンピエーニュ条約

スウェーデン宰相ウクセンシェルナとフランス宰相リシュリューの密約。フランスがスペインに宣戦布告。ハイルブロン同盟がリシュリューに援軍を要請、フィリップスブルク要塞をフランス軍に提供した。

 

オラニエ公マウリッツの軍制改革。東ローマ皇帝レオ3世の戦術から学んだ。これを戦術ルネサンスともいう。

1588年 アルマダ海戦。イングランド・ドレーク艦隊がスペイン無敵艦隊を打ち破る。

1596年 英仏蘭三国同盟。英仏からオランダ独立が承認された。

1603年 エリザベス1世に跡継ぎなく、スコットランド王ジェームズ1世がイングランド王即位。

1609年 アントウェルペン休戦条約。向こう12年間休戦。

1618年 ドルドレヒト宗教和議。ホマルス派(予定説厳格派)がアルミニウス派(予定説寛容派)に勝ち、異端に押しやった。

徳川家光も布教してこなくなったオランダと安心して国交を続けられた!

1621年 オランダ独立戦争再開。

スペイン・スピノラ将軍 vs オランダ・マウリッツ公(死後、弟フレデリック・ヘンドリック公に交替)

1624年 フランスとコンピエーニュ条約

1625年 イギリスとサウスハンプトン条約

*反ハプスブルク同盟 盟主フランスと、オランダ、イギリス、デンマーク、スウェーデン

1637年 ブレダの戦い。スペインで、フェルナンドの名望が地に堕ちた。

スペイン総督フェルナンド 負け vs オランダ軍フレデリック・ヘンドリック 勝ち

1639年 オランダ・トロンプ提督がドーヴァー海戦でスペイン・オケンド提督を破った。

1640年 ポルトガルとカタルーニャで反乱。ポルトガルがスペインから分離独立。

1641年 ポルトガルと休戦条約

1646年 スペインと和平交渉開始

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1635年 リシュリューがアカデミー・フランセーズを創設。フランス語の規範を示す「アカデミー辞典」を編纂した。国王が話していた、北のオイル語が、南のオック語を駆逐した。言語統制を敷き、フランス王ルイ13世をケルン選帝侯に据えてから、神聖ローマ皇帝に即位させるのが目標だった。結局、フランス普遍主義は失敗に終わるが、ドイツ帝国四分五裂の張本人として、リシュリューは19世紀ドイツ・ナショナリズムの憎悪の的になった

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1636年 ヴィットシュトックの戦い。

皇帝軍・ザクセン軍 負け vs バネール軍 勝ち

1638年 ラインフェルデの戦い。

皇帝軍 負け vs スウェーデン・フランス軍ベルンハルト傭兵隊長 勝ち

1638年 ブライザッハの戦い。

バイエルン軍ゲッツ 負け vs スウェーデン軍ベルンハルト傭兵隊長・フランス軍テュレンヌ元帥 勝ち

1638年 ケムニッツの戦い。

ザクセン軍 負け vs バネール軍 勝ち

1639年 ベルンハルト急死。

1641年 バネール死去。ネーデルラント総督フェルナンド死去。スペイン宰相オリバレスは神聖ローマ帝国レオポルト大公を後継者に指名したのに、スペイン王フェリペ4世が庶子ドン・ファンを総督に指名した。神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が激怒して、スペイン・ハプスブルク家と縁を切る。

1642年 ブライテンフェルトの会戦。

皇帝軍レオポルト大公 負け vs スウェーデン軍トルステンソン 勝ち

スペイン軍は陸路も海路もフランス軍・スウェーデン軍に絶たれた。

1642年 リシュリュー死去。宰相マザランが後継。

1643年 ルイ13世死去。幼いルイ14世(太陽王)が1648年ジロンドの乱にいきなり巻き込まれる。ロクロワ会戦。スペイン軍 負け vs フランス軍 勝ち

1644年 スウェーデン軍トルステンソンがデンマーク領ホルンシュタイン侯領を奪う。教皇ウルバヌス8世死去。教皇インノケンティウス10世はハプスブルク家資金援助要請を却下。

1645年 ヤンカウ会戦。皇帝軍 負け vs スウェーデン軍 勝ち

1648年 ツースマルスハウゼンの戦い。(三十年戦争のラスト)

皇帝軍・バイエルン軍 負け vs フランス軍テュレンヌ・スウェーデン軍ウランゲル 勝ち

1648年 スウェーデン軍カール・グスタフがプラハ包囲中に終戦。

1648年 ウェストファリア条約

選帝侯の皇帝選挙権を除くすべての特権を廃止し、すべての諸侯が同権を持った。バイエルン選帝侯、プファルツ選帝侯がともに承認、回復された。1644年親政にはいったスウェーデン女王クリスチナが大幅譲歩、国民から大非難を浴びて退位、カール・グスタフが即位。スイス独立、オランダ独立。戦争を殲滅戦から限定戦に合理化した。しかし、ナショナリズム(国民国家主義)がのちに台頭すると、限定戦争から再び殲滅戦争へ戻っていった。

世界史教科書としては、独立した一章を割いて、十字軍は政治やる気満々のイタリアや歴史資料乏しきイスラムを含め広範囲に、三十年戦争は英仏蘭・北欧・ロシアも混ぜて記述すべきだろう。なにせ時代が大きく変わろうとしていたのだから。この間、日本は徳川軍圧政のもとで惰眠をむさぼっていく。日本国民は目と耳をふさがれて、その危機を知る由もない。

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