ノルマン人の凶暴さと軍事力が、対立していたローマ教皇も認めざるを得なくなり、十字軍主力として利用した。
シチリア島でのノルマン王朝。

1189年、グリエルモ2世の死後、シュタウフェン朝・神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の王位継承が決まっていたが、教皇クレメンス3世が猛反対。
1190年、ルジェロ2世の末裔・レッチェ伯タンクレーディがシチリア王に即位。
1194年、タンクレーディ死去。幼いグリエルモ3世がシチリア王に即位したが、皇帝ハインリヒ6世が、グルエルモ3世を目を潰し、去勢し、殺害。ハインリヒ6世が、シチリア王に即位。シチリア島民が野蛮なドイツ人支配を嫌って反乱頻発。
1197年、ハインリヒ6世死去。アッコン陥落後、十字軍撤退したため、野戦病院(のちのドイツ騎士団)が存立の危機に陥った。
1198年、教皇インノケンティウス3世が後見人となり、幼いフリードリヒ2世がシチリア王に即位。父はハインリヒ6世、母方の祖父がシチリア王ルジェロ2世の貴種だった。
1200年、叔父マルクヴァルト・フォン・アンヴァイラーがドイツ傭兵とともにシチリア島上陸、翌年、幼いフリードリヒ2世を捕縛した。
1202年、マルクヴァルト・フォン・アンヴォイラー死去。ドイツ傭兵グリエルモ・カッパローネがフリードリヒ2世の後見人となった。
1208年、フリードリヒ2世が親政開始。
1209年、アラゴン王アルフォンソ2世の娘コンスタンサと結婚。同年、オットー4世が教皇インノケンティウス3世の戴冠式で神聖ローマ皇帝に即位。オットー4世がフリードリヒ2世からシチリア王位を簒奪しようと進軍。ドイツ帰国を優先して戦わずしてシチリア島から撤退した。
*神聖ローマ皇帝空位時代
皇帝派(シュタウフェン家) シュヴァーベン公フィリップを支持
教皇派(ヴェルフェン家) オットー4世を支持
1212年、フリードリヒ2世が皇帝選挙のためにドイツへ渡海。反皇帝派都市がベルナール峠とゴッタルド峠を支配していた。オットー4世支持派のメラーノ公とバイエルン公がブレンナー峠を支配していた。フリードリヒ2世は大きく迂回して北進するしかなかった。ヴェネツィア共和国は中立を保った。
皇帝派(クレモーナ・パヴィア・モーデナ) フリードリヒ2世を支持 フィレンツェ・アミディ家とイングランド王ジョンが支持
教皇派(ミラノ・ボローニャ・ブレッシァ) オットー4世を支持 フィレンツェ・ブオンデルモンティ家とフランス王フィリップ2世が支持
教皇派 オットー4世を支持
1213年、フリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝に選出。エーゲル金印勅書を発布して、教皇インノケンティウス3世の教皇領に、スポレート公国、アンコーナ辺境伯領、ラヴェンナ、サルディニア島、コルシカ島が加わった。
1214年、ポワティエの戦い ルイ8世がジョンに大勝。
イングランド王ジョン vs フランス皇太子ルイ8世
1214年、ブーヴィーヌの戦い フィリップ2世がオットー4世に大勝。
オットー4世 vs フリードリヒ2世・フランス王フィリップ2世
1215年、イングランド貴族反乱によりマグナ・カルタが宣言された。
1215年、第4回ラテラン公会議。教皇インノケンティウス3世が、オットー4世廃位、エルサレム十字軍、カタリ派十字軍を決定。
1216年、教皇インノケンティウス3世死去。新教皇ホノリウス3世の十字軍命令には耳を貸さず。
神聖ローマ皇帝・シチリア王フリードリヒ2世は、シトー修道会とドイツ騎士団を保護支援。
1220年、カープア勅令。シチリア王国をノルマン朝グリエルモ2世が死去した1189年の状態に戻した。
1221年、メッシーナ勅令。伯や聖職者が簒奪した王領を回収した。ユダヤ教徒に黒い衣服と黄色い印を義務付けた。
1222年、皇妃コンスタンサ死去。エルサレム王国イザベル・ド・ブリエンヌと再婚。
1222~1225年、ムスリム反乱。ムスリムをシチリア島から南イタリア・プーリアのルチェラに強制移住させた。フリードリヒ2世の親衛隊・娼婦・宦官として雇用し、武器製造、刺繍、製陶に当たらせた。
エンリコに任じて、シチリア王国海軍を創設。ジェノヴァ海軍やピサ海軍に依存していると富が奪われるため。陸軍はドイツ騎士団に任せた。
1223年、フォッジアに王宮建設。聖地巡礼と北イタリアのロンバルディア同盟征服を睨んで、南イタリアに拠点を置いた。イスラム風に入浴が奨励された。
1224年、ナポリ大学創設。
*エルサレム聖地巡礼 プリンディシ⇒アッコン⇒エルサレム
1228~1229年、第6回十字軍。アイユーブ朝アル・カーミルと申し合わせて、エルサレムで戴冠。破門中だったので、自分で王冠をかぶせ、エルサレム駐留のテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団が列席せず。ドイツ騎士団のみ参列した。教皇グレゴリウス9世の怒り収まらず。
1230年、教皇軍を撃破して、サン・ジェルマーノ講和。教皇グレゴリウス9世とフリードリヒ2世が和解した。
1231年、「メルフィ法典」発布。
異端撲滅が目的の「ハレルヤ」運動がドイツやイタリアで盛んに起こった。イタリア版「ええじゃないか」運動みたいなもの。
1234年、異端審問に異議を唱えた息子のハインリヒ7世が、ロンバルディア同盟とともに反乱。
1235年、フリードリヒ2世がハインリヒ7世を盲目にして幽閉。イングランド王ヘンリー3世の妹イザベルと再婚。
1237年、コルテヌオーヴァの戦い。ミラノを降伏させた。
フリードリヒ2世 vs ロンバルディア同盟
1238年、ブレッシァ包囲戦。
1239年、フリードリヒ2世とグレゴリウス9世のよき仲介者だったドイツ騎士団団長ヘルマン・フォン・ザルファ死去。コンラートが新団長に就任。
1240年、ローマでコンラート急逝。ゲルハルトが新団長に就任。
1241年、ローマ進軍直前、グレゴリウス9世死去。
*リヴォニア帯剣騎士団
リヴォニア=エストニア(ウラル語族)+ラトヴィア(インドヨーロッパ語族)
1202年 教皇インノケンティウス3世の承認で、シトー修道会アルベルトが創設。
1207年 リヴォニア征服。
1227年 エストニア征服。
1230年 デンマークからレヴァル(タリン)占領
1236年 ザウレの戦いで、リトアニアに惨敗。
*ドイツ騎士団
1198年 教皇インノケンティウス3世の承認で、アッコン野戦病院から騎士団に昇格。
1237年 リヴォニア帯剣騎士団を併合。
1241年 ワールシュタットの戦い。ポーランド・神聖ローマ・ドイツ騎士団連合軍が、モンゴル軍バイダル(バトゥは無関与)に殲滅された。
1242年 氷上の戦い。ノヴゴロド公国に敗北。


1245年、教皇インノケンティウス4世、リヨン公会議。フリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝廃位となる。
1250年、フリードリヒ2世死去。息子のコンラート4世がドイツ王・シチリア王に即位。
1254年、摂政マンフレーディがコンラート4世を毒殺。
*大空位時代 1254(1256)~1273年
1254年、ライン都市同盟。ヴォルムス、マインツを中心とした帝国都市が利益を守るために結成。
1266年、ベネヴェントの戦い。マンフレーディがアンジュ家シャルル・ダンジューに敗死。アンジュ家がシチリア王国を支配。教皇クレメンス4世から、シチリア王カルロ1世として戴冠。
1282年、シチリアの晩鐘。アンジュ家シャルル・ダンジューがアラゴン王国ペドロ3世にシチリア島を奪われた。アンジュ家の暴政というより、戦費がかさんだためにフリードリヒ2世がシチリア島民に課した重税に対する不満の鬱積が原因と言われている。
1285年、ナポリ王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)死去。その子カルロ2世がナポリ王に即位。
ボヘミア王国・中世史
1198年、オタカル1世がボヘミア王に即位。シュタウフェン家が承認・支持した。
1200年、シュタウフェン家を裏切って、ヴェルフェン家のオットー4世を支持。シュタウフェン家の執拗な侵略に屈服して、結局、シュタウフェン家フリードリヒ2世と同盟。ドイツ人入植を大いに奨励した。
1240年、ヴァーツラフ1世がイフラヴァ銀山を直轄し、ディナール銀貨を鋳造した。
1253年、オタカル2世がボヘミア王に即位。前年、断絶したオーストリア公も継承していた。
1260年、クレッセンブルンの戦い。オタカル2世のオーストリア継承に反対したハンガリー王国が敗北した。
ボヘミア王国オタカル2世
vs ハンガリー王国ベーラ4世
1273年、大空位時代を終わらせるべく、ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に即位。諸諸侯が最強ライバルだったボヘミア王オタカル2世を警戒して最弱のハプスブルク家に白羽の矢が立った。
1276年、シトー派修道院領内で、クトナーホラ銀山発見。ドイツ人鉱夫が採掘に携わった。ヨーロッパ銀産出の1/3を占めた。1500年ごろには銀が枯渇した。
1278年、マルヒフェルトの戦い。オタカル2世が戦死した。
ボヘミア王国オタカル2世
vs 神聖ローマ皇帝ルドルフ1世
1300年、ヴァーツラフ2世がルス・レガーレ・モンタノルム(鉱山法)発布。鉱山を国有化し、鉱山採掘権を国王が独占した。修道院に対する王家の借金をデフォルトした。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝アルプレヒト1世が、クトナーホラ銀山を侵攻したが失敗。
1308年、アルプレヒト1世がスイス山中で、親族ヨハン=「ウィリアムテルのモデル」に殺害された。ルクセンブルク家のハインリヒ7世が神聖ローマ皇帝に即位。
1310年、ボヘミア王国プシェミスル朝断絶により、ハインリヒ7世の長男ヨハンがボヘミア王に即位。
1313年、皇帝戴冠を邪魔したナポリ王カルロ2世に復讐すべく、ナポリ遠征中、ハインリヒ7世がマラリアで病死。
1313年、ガンメルスドルフの戦い。1314年、神聖ローマ皇帝とドイツ王が二重冊立。1315年、モルガルテンの戦い。レオポルド率いるハプスブルク軍が、スイス森林三州(聖約同盟)に大敗。
1322年、ミュールドルフの戦い。
ドイツ王・フリードリヒ美王(ハプスブルク家)
vs 神聖ローマ皇帝・ルートヴィヒ4世(ヴィッテルスバッハ家)
*ヴィッテルスバッハ家 バイエルン出身で長く歴代バイエルン公を務めた。そのうえ、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ブランデンブルク辺境伯、スウェーデン王、ボヘミア王を輩出したことがある名家。
1346年、ルクセンブルク家のボヘミア王カールが神聖ローマ皇帝カール4世として即位。ルートヴィヒ4世と二重冊立になる。
1347年、ルートヴィヒ4世が狩猟中の事故で急死。
1356年、神聖ローマ皇帝カール4世「金印勅書」
*七選帝侯
ライン宮中伯(プファルツ選帝侯) シュターレック家⇒ヴェルフェン家⇒ヴィッテルスバッハ家
ボヘミア王 プシェミスル家⇒ルクセンブルク家⇒ハプスブルク家⇒ヤゲロ朝⇒ハプスブルク家
ザクセン公 ヴェルフェン家⇒アスカーニエン家⇒ヴィッテルスバッハ家
ブランデンブルク辺境伯 アスカーニエン家⇒ヴィッテルスバッハ家⇒ルクセンブルク家⇒ホーエンツォレルン家
マインツ大司教
ケルン大司教
トリーア大司教
帝国議会と帝国政府の二重権力体制を敷き、皇帝専権体制を否定した。選帝侯には、裁判権、貨幣鋳造権、関税徴収権、鉱山採掘権、市場開設権などの国王大権(収益特権)が承認された。選帝侯への反乱は大逆罪とみなし、選帝侯の立場は国王と等しくなった。帝国皇太子はローマ王をつとめた。カール4世は意識的に選帝侯からオーストリア大公(ハプスブルク家)を除外して封じ込めようとした。
*ライン宮中伯はもともとロタリンギア伯。領土縮小によりライン宮中伯(プファルツ伯)と改称された。
*ホーエンツォレルン家はのちにドイツ騎士団領(プロイセン)を合併する。
1376年 ルクセンブルク家、息子のヴェンツェルがドイツ王(ローマ王)に即位。
1376年 シュワーベン都市同盟。ウルム、コンスタンツなど14都市が自分の利益を守るために結成。
帝国都市と帝国諸侯の戦争を解決できず、ヴェンツェルに摂政がつけられた。ヴィッテルスバッハ家・ライン宮中伯のループレヒト2世。
1395年 ヴェンツェルがイタリア僭主ヴィスコンティ家をミラノ公に叙爵してしまった。愚王ヴェンツェルはモラヴィア辺境伯ヨープストに監禁されるも解放されボヘミア王に左遷された。痴話喧嘩でプラハ大司教を殺しカレル橋から放り投げた。ボヘミアの貧富差が広がってしまった。
1396年 ニコポリスの戦い。ハンガリーがオスマン帝国に惨敗。
ハンガリー王ジギスムント(ルクセンブルク家)・ヴェネツィア共和国・聖ヨハネ騎士団
vs オスマン帝国バヤズィト1世
1400年 ライン宮中伯ループレヒト3世が、ループレヒト1世としてドイツ王即位。
1402年 アンカラの戦い。オスマン皇帝がティムールに負け捕虜にされた。
オスマン帝国バヤズィト1世 vs ティムール
1410年 ハンガリー王ジギスムントがドイツ王に即位。
1414~1418年 コンスタンツ公会議。ジギスムントがシスマ(教会大分裂)を終わらせた。フスをだまし討ちで火刑に処した。
1419年 ボヘミア王として生きていたヴェンツェルが死去し、ジギスムントがボヘミア王に即位。フス戦争(~1436)勃発。

1444年 ヴァルナの戦い。ウラースロー1世が無謀な騎兵突撃で敗死。逆転負けを喫した。
ハンガリー王ウラースロー1世(ヤゲロ朝)、ハンガリー貴族フニャディ・ヤーノシュ、フス派傭兵
vs オスマン帝国ムラト2世
ボヘミア王にしてハンガリー王となったマーチャーシュ1世は、七選帝侯ボヘミア国王として選挙に勝ち、神聖ローマ皇帝の地位を狙っていた。しかし、子供がなく断絶、ポーランド王国ヤゲロ朝に王位を明け渡すことになる。
1468~1478年 ボヘミア・ハンガリー戦争
1479年 オロモウツの和約
ハンガリー王 マーチャーシュ1世
vs ボヘミア王 ヴラジスラフ(ポーランド王ヤゲロ朝出身、のちのハンガリー王・ウラースロー2世)
1479年 ブレッドフィールドの戦い ハンガリー黒軍(常備軍)がオスマン帝国軍の進撃を止めた。
ハンガリー王国 マーチャーシュ1世
vs オスマン帝国 メフメト2世
1526年 モハーチの戦い 国軍を金欠で維持できず解体したハンガリーがオスマン帝国に大敗
ハンガリー・ボヘミア王国 ラヨシュ2世
vs オスマン帝国 スレイマン1世
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