フランス革命~ナポレオン時代のイングランドは、ずいぶんめちゃくちゃだった。ジョージ3世は時々、狂気発作で政治不能に陥るし、皇太子ジョージ(のちのジョージ4世)も遊びまくり、湯水のように国庫を破綻させた。オランダ商人から借金した。こんなプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)に父王ジョージ3世の摂政をさせないといけない事態に幾度か陥ってしまった。ジョージ3世の次男ヨーク公フレデリック、三男ウィリアム(のちのウィリアム4世)も浮名を流してパッとしなかった。仕方なく娘ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任するくらいのやり手国王になった。
女優メアリー・ダービーがトマス・ロビンソンと結婚し、メアリー・ロビンソンとして大人気だった。プリンス・オブ・ウェールズと知り合い、5000ポンドの口封じ料を要求した。応じなければ、何百通ものラブレターを世間に公開すると脅した。
ジョージ4世の正妃キャロラインは風呂嫌いでめちゃくちゃ悪臭を放っていたそうで、ジョージ4世の戴冠式にも出席を許されず、すぐさま別居生活。ジョージ4世も肥満過ぎて顰蹙物。キャロラインはデボンシャ公爵夫人と組んで、トーリー党議員を使ってプリンス・オブ・ウェールズのあら探しをやった。


テューダー朝のエリザベス1世に子供なく断絶。ステュアート朝が始まるも、ピューリタン革命など内政混乱。
カトリックに改宗していたチャールズ2世が、フランス・ルイ14世と密約。弟ジェームズも極秘にカトリックに改宗していた。
フランスのベルギー侵攻の際、イングランドは中立を保つ代わりに、チャールズ2世に裏金を贈る。
イングランドを国教会からカトリックに戻すのなら、チャールズ2世にさらなる裏金を贈る。
1672年 信仰自由宣言
1673年 審査法
国会議員や大臣をはじめイングランドの官職者には国教徒しか就けない。
第二次英蘭戦争で功績があったヨーク公ジェームズは自身がカトリックだと公言し、海軍長官を辞任した。
チャールズ2世には私生児しかいなかった。カトリック教徒がジェームズを王位につけるためにチャールズ2世暗殺未遂事件が起こる。ジェームズ自身も関与していることが発覚し、ジェームズを王位継承者から排除すべきだと訴えるホイッグ党が出現した。
ホイッグ党のジェームズ王位継承排除法案に反対すべく、トーリー党が出現した。
1688~1697年 九年戦争
フランス・ルイ14世の世界征服に対抗して、神聖ローマ帝国を中心としたアウクスブルク同盟が結成。
1685~1688年 カトリック信仰のジェームズ2世が即位すると王位継承問題が勃発。カトリック教徒は国王になれないという法が存在していた。
トーリー党(のちの保守党) ジェームズ2世支持
ホイッグ党(のちの自由党) ジェームズ2世反対
1688年 名誉革命
ジェームズ2世がフランスに亡命。ホイッグ党の手引きで、オランダ・オラニエ公のウィリアム3世がイングランドに無血上陸。イングランド王のメアリ2世と共同統治する。
とはいえ、オランダ人に王位を乗っ取られた形のイングランド議会が次の一手を放った。
1689年 権利の章典
「国王は君臨すれども統治せず」 立憲君主制がこれで確立した。
1689年 ジェームズ2世軍が、捲土重来でアイルランド上陸。
1690年 ボインの戦い ジェームズ2世軍敗北。
1691年 オーグラムの戦い ジェームズ2世軍が敗北しフランスへ戻った。
1694年 イングランド銀行憲章。
多額の戦費捻出のため、公債(国債)を引き受ける中央銀行を創設した。
1701年 王位継承令
「イングランド王位は、ステュアート王家の血を引くプロテスタントに限る」
1702~1714年 不人気のウィリアム3世が死去し、アン女王が即位。アン女王がかわいがっていたトーリー党が政権を担当した。アン女王が死去すると、再び王位継承問題が勃発。
トーリー党 ジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード(カトリック)支持
ホイッグ党 ジェームズ1世の子孫でハノーヴァー公ゲオルグ・ルートヴィッヒ(プロテスタント)支持
1714年、こどもの早逝や死産でアン女王に跡継ぎがなく、プロテスタントだったハノーヴァー朝が始まり、英語が話せないジョージ1世が即位する。政治をホイッグ党のウォルポール首相に丸投げすることになった。
トーリー党 ハノーヴァー朝反対
ホイッグ党 ハノーヴァー朝支持
1760~1820年 ジョージ3世 60年間の長い王位。
ジョージ3世は、首相に任せきりだったことによる政治の幣風の刷新に乗り出した。つまりホイッグ党の政治への壟断への芽を摘み取って、後退していた王権の刷新を図ろうとした。トーリー党のビュート伯ジョン・ステュアートを首相に任命した。
トーリー党 ジョージ3世支持 プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)反対
ホイッグ党 ジョージ3世反対 プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)支持
1754~1762年 ニューカッスル公トマス・ペラム首相 ホイッグ党
1762~1763年 ビュート伯ジョン・ステュアート首相 トーリー党
1763~1765年 ジョージ・グレンヴィル首相 ホイッグ党
1765~1766年 ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン首相 ホイッグ党
1766~1768年 大ピット首相 ホイッグ党
1770~1782年 ギルフォード伯フレデリック・ノース首相 トーリー党
1783~1806年 小ピット首相 トーリー党
*1801~1804年 ヘンリー・アディントン首相 トーリー党
1806~1807年 ウィリアム・グレンヴィル首相 ホイッグ党
1809~1812年 スペンサー・パーシヴァル首相 トーリー党
キャロライン皇太子妃を擁護したパーシヴァル首相がプリンス・オブ・ウェールズ(のちのジョージ4世)と対立。ジョージ3世政治不能状態のうえに、ナポレオン戦争中のイングランド内戦の危機に、ハートフォード侯フランシス・セイモア夫人の仲介で、プリンス・オブ・ウェールズが摂政位につくことができた。パーシヴァル首相は狂人ベリンガムによって院内で殺害された。
1812~1827年 リヴァプール伯のロバート・ジェンキンソン首相 トーリー党
1828~1830年 ウェリントン公アーサー・ウェルズリー首相 トーリー党
ポルトガルでのナポレオン戦争、ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った名将。
イングランドは自ら選挙法をゆっくりと改正していって、フランスのような市民革命を防止できた。
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