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2025年6月 2日 (月)

十字軍国家、ザンギー朝、アイユーブ朝、その裏方たち

内紛で衰退が続くビザンツ帝国がセルジューク帝国にアナトリアを攻められ、はじまった十字軍。イェルサレムが目標のはずが、途中に建国して利権を握る貴族たち。

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ローマカトリック教とギリシャ正教は離婚してまもない。ギリシャ正教にとってローマカトリックに頭を下げての十字軍要請は背に腹は代えられない大いなる屈辱だった。

ノルマン朝シチリア、フランク辺境伯が一攫千金を求めてシリア・レバノン海岸に十字軍国家を建国。国家維持に必要な食料、兵器、兵隊を常に供給し続けるための港死守。まわりはイスラム教徒、ギリシャ正教徒だらけで現地調達できず雇っても信用できない。破門宣告を武器としたローマ教皇を通じて英独仏に十字軍SOSを要請してもなかなか来ない。莫大な経済力を有した北イタリアのヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国が互いに利権を争いながら十字軍国家を海軍輸送力でバックアップする。盟主イェルサレム王国と十字軍国家の仲が良かったり悪かったり援軍を送ったり送らなかったり。4大海洋都市国家のひとつアマルフィ共和国が先だって聖ヨハネ騎士団を設立して病院経営していたが、金融業でせっせと小銭を貯金する、新手のテンプル騎士団が登場。

ビザンツ帝国はヴェネツィア商人に乗っ取られ宝物をほとんど持ち去られる始末。本国維持でやっとこさ。アナトリアにビザンツ帝国復興など夢のまた夢。ジェノヴァ共和国の財力でビザンツ亡命政府ニケーア帝国がラテン帝国を倒す。以後のビザンツ帝国は、ヴェネツィア共和国を排除し、ジェノヴァ共和国と独占交易。ジェノヴァ共和国海船は地中海ジブラルタル海峡を突破することに成功し、大いに儲けた。となりまでモンゴルが来襲してきてカオス。そのあと黒海北岸のジェノヴァ領からモンゴルが持ってきたペストが来襲。ビザンツ、イタリア、ヨーロッパ全土へと蔓延。

地中海覇権をめぐる海戦

ジェノヴァ・ピサ戦争、ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争、ヴェネツィア・オスマン戦争、スペイン・オスマン戦争、イギリス・スペイン戦争、英蘭戦争

ロシア南下陸戦

露土戦争、クリミア戦争

地中海覇権をめぐってヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国は戦争を繰り返す。1262年、ヴェネツィア共和国が戦費捻出のため世界初の国債を発行した。戦費で消耗したジェノヴァ共和国が負け、交易路をヴェネツィア共和国に奪われ、サルジニア島をアラゴン王国に奪われる。ジェノヴァ共和国はコルシカ島を死守するも、ビザンツ帝国が滅ぶ前にサンジョルジョ銀行の経営に委ねる。1768年、憲法発布、三権分立制度制定まで果たしたコルシカ島民パスカル・パオリの独立運動に手を焼き、ついにフランスに売却する。もし売却しなければ、コルシカ島生まれのナポレオンは誇り高きトスカーナ人(中部イタリア)だし、ハイソなフランス人に虐げられバカにされることもなかった。フランス革命に生まれたタイミングとコルシカ島の歴史がつくったひねくれてしまった性格という偶然の賜物であった。

イクター制で衰退一途をたどるルーム・セルジューク朝のパシリからはじまったザンギー朝。あっというまに十字軍に敗れはしたものの、クルド人サラディン率いるアイユーブ朝が失地回復。ファーティマ朝エジプトまで奪取したが、クルド人が少なくて大国維持ができず、マムルーク(トルコ人奴隷)を採用。エジプト、シリアをマムルーク朝に乗っ取られた。

ゲルフ 教皇党 新興の商工業市民層が支持

ギベリン 皇帝党 旧来の封建貴族層が支持

1300年、教皇党で統一されたフィレンツェが白派と黒派に分かれて戦った。

白派 チェルキ家、ペトラルカ、ダンテ ダンテは負けて1302年国外追放。

黒派 ドナーティ家、ジョット、メディチ家、教皇ボニファティウス8世

1303年、フランス王フィリップ4世が教会課税問題で教皇ボニファティウス8世を幽閉、アナーニ事件。1309年、教皇のアヴィニョン捕囚。1307~1314年、フランス王フィリップ4世がテンプル騎士団を虐殺して全部、金品を奪った。1300年までには騒ぎがようやく収まったと思ったら、ペストでパンデミック。もう無茶苦茶だった。英仏独伊がまたまた長い戦争を始めた。

イベリア半島では、なんか地味にカスティーリャ王国がイスラム相手にレコンキスタ。ベルベル人マスムーダ族が建国したムワッヒド朝は帝国整備に熱心ではなく、モロッコのベルベル人マリーン族と反目し、キリスト教徒妾を母に持つスルタンは、厳格なマーリク派民衆と乖離した。のち弱体化し1200年初頭の大レコンキスタで大きく失地した。地中海では、お宝あふれる植民地島の領有をめぐって、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国が長い海戦

1528年、ジェノヴァ提督アンドレーア・ドーリアが、同盟先をフランスから、神聖ローマ帝国=スペイン同君連合に劇的に変更。サンジョルジョ銀行の余剰資本が莫大で、スペインとポルトガルに投資。アメリカ新大陸さんの銀が大量にヨーロッパにもたらされ「価格革命」と呼ばれる激しいインフレに見舞われていたが、ジェノヴァに資金が集中し余っており、利子の低いジェノヴァ債が大人気。投資家にとって新興国ポルトガルに投資することは躊躇されたが、ジェノヴァへの投資は安心できた。スペイン・カルロス1世と仏フランソワ1世が神聖ローマ皇帝選挙で、ともにジェノヴァ商人に借金し、賄賂が多かったカルロス1世が勝ち、カール5世となってオスマン帝国と大戦争。フランソワ1世はフッガー家にも借金しており、オスマン帝国に同盟する。1555年、シュマルカルデン戦争でカール5世が敗れ、ジェノヴァ融資が焦げ付き損失を発生させたため、ジェノヴァ債が高騰した。

1562~1598年、ユグノー戦争でフランスは内戦状態で、海外に進出する機会を失った。

ポルトガルは東南アジアへ進出し、香辛料貿易を拡大したが、その利益の大部分をジェノヴァへの利払いに吸い取られた。そこでモロッコに進出を図ったが、1578年、サアド朝に敗れ、ポルトガルはデフォルト。1580年、スペインがポルトガルを併合。

スペインは、ジェノヴァだけでなく、スペイン領ネーデルランドのアントワープにも借金しており、営利蓄財を肯定したカルヴァン派が多く集まったアントワープが盛況を博し、ヨーロッパじゅうの資金がアントワープに集まった。スペイン国内の金融を担ったユダヤ教徒は弾圧を嫌ってキリスト教に改宗して「コンベルソ」と呼ばれていた。1576年、スペイン王フェリペ2世がカトリックを強要しアントワープを破壊、新教徒国ネーデルランドのアムステルダムに資金源が移った。1588年、スペインがアルマダ海戦でイギリスに敗北、三十年戦争でカトリック側の神聖ローマ帝国とスペインが敗北。ジェノヴァとスペインの富は、アムステルダムと新興ロンドンに移った。1627年、スペインが借金先をジェノヴァから、ポルトガルの「マラーノ」に移した。マラーノはポルトガル金融を担い、キリスト教に改宗したユダヤ教徒だ。さらに同年、サヴォイア公国がミラノ公国と同盟したことが、隣国のジェノヴァ共和国にとって最大の危機となった。1640年、ポルトガルがスペインから分離独立。

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17世紀は、オランダ・アムステルダムとイギリス・ロンドンの時代。資金集めレースにオランダが勝ち、イギリスの毛織物製品をオランダがリテール(小売り)した。1623年、アンボイナ事件でイギリスは香辛料貿易から撤退、オランダが独占した。1618~1648年、三十年戦争で新教側のデンマーク、スウェーデン、フランスにオランダ金融が融資した。旧教側のスペイン、神聖ローマにはジェノヴァが融資して衰退していった。1651年、イギリスが航海条例を発布し、オランダ船を締め出して、1652~1674年、英蘭戦争でイギリスはオランダに決着をつけた。

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ランゴバルド人が支配したのは、北イタリア、スポレート公国、ベネヴェント公国の3つ。

あとはビザンツ帝国領と、フランク王国ピピンが奪ってローマ教皇に贈呈した教皇領。

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ビザンツ帝国の徴税制度

テマ制(軍管区制) ex.郡県制

 中央から長官(ストラテーゴス)派遣。徴税権はない。中央政府が長官の給与を払った。屯田制を敷き、半農半兵の屯田兵(ストラティオティス)に兵役を課した。

プロノイア制(条件付土地所有) ex.募兵制(節度使)イクター制

 中央政府に貴族に払う金がないため、貴族に徴税権(プロノイア)を与える。代わりに軍事奉仕を義務付けたが、貴族が世襲化され、だんだん中央政府の命令をきかなくなった。

 西ヨーロッパ的な封建制(アパナージュ制)のように、プロノイア指定地の農民が直ちにプロノイア保有者の隷属農民(バロイコイ)になったのではない。中央政府が封建貴族に下賜できるご褒美は、徴税権(プロノイア)以外に、非課税農民(すでに国家が把握していない農民)を所有する権利、課税農民(国家が徴税対象として把握している農民)を所有する権利の2種類ある。

アパナージュ制(完全所有) ex.西欧封建制(農奴所有)、中国封建制

 封建領主が封土と農奴を統治する。属州奴隷労働力を駆使したローマ帝国ラティフンディウムの伝統を色濃く持つ。不輸不入権(インムニテート)といって、国家は封建領主に課税されない特権(不輸)と国家官吏の立ち入りを拒否できる特権(不入)をもった。農奴には移住の自由がなく、封建領主は農奴に対し課税権、裁判権、警察権を持つ。コンスタンティノープルのラテン帝国ではフランク人にビザンツ帝国を乗っ取られたことで、西ヨーロッパ的な封建制(アパナージュ制)が浸透した。

 

十字軍ちょっと前のイタリア。浅瀬の海が自然の堀になって防衛力がすごかったヴェネツィア共和国はビザンツ帝国やフランク王国と一戦交えており、すでに独立している。イタリア王国はフランク人の国家。コルシカ島を領有できているが、サルディニア島はビザンツ帝国領。ベネヴェント侯国は旧ランゴバルド王国の末裔だが、その南イタリアはビザンツ帝国領だ。シチリア島はイスラムが領有している。

ウマイヤ朝は執拗にシチリア島侵攻を始めたが、ビザンツ帝国の防御で征服できず。827年、チュニジアのアグラブ朝・ズィヤーダ・アッラーフ1世がシチリア島を攻撃。896年、ビザンツ帝国はシチリア島統治権を放棄し、902年、全島がアグラブ朝の統治下にはいった。

824年、後ウマイヤ朝アブー・ハフスがクレタ島を征服した。961年、ビザンツ帝国ニケフォロス・フォーカスがクレタ島を再征服。

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ヴァイキングには、デーン人、ノール人、スウェード人の3種類がいる。最強のノール人は定評の武力に物を言わせて西回りにヨーロッパから地中海を征服した。経済力ナンバー1のスウェード人はルーシと呼ばれ、ノブゴロド王国を建国し、ヴォルガ川、ドニエプル川を黒海まで南下してビザンツ帝国と交易を始めた。

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1066年、ヘースティングズの戦い。重装騎兵の騎馬衝突撃で勝利。

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イングランド王国(デーン人のクヌートがアングロサクソン族を倒したが早逝)にノルマン・コンケスト(ノルマン人ウィリアムがアングロサクソン族を倒した)やってる頃、足を延ばしてこんな地中海までノルマン人(ヴァイキング)来襲。ライフルヌスがアヴェルサから侵略開始してアヴェルサ伯と名乗り、さらにウィレルムス、ドロゴ、フンフレドゥス3兄弟がサレルノ侯国の援助を得てメルフィから徐々に南下してビザンツ領・南イタリアを制圧、さらに1072年、ロゲリウスがシチリア島のメッシーナから侵略開始してシチリア伯と名乗り、1091年、ノート陥落を以てイスラムを完全に駆逐した。

1053年、チヴィターテの戦い。重装騎兵の騎馬衝突撃で勝利。

ノルマン人が教皇レオ9世(1054年教会東西分裂を宣言)を捕虜にした。これにより教皇庁はノルマン人への姿勢を和らげた。1059年には、教皇ニコラウス2世の軍がノルマン軍の援軍を得て、教皇ベネディクトゥス10世の軍を破り廃位させた。

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1077年、カノッサの屈辱。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に教皇グレゴリウス7世が勝ったが、まもなくハインリヒ4世の反撃にあう。ノルマン人グイスカルドゥスがグレゴリウス7世を救援し、亡命先サレルノで悶死。ノルマン人ロゲリウスが、同じくグレゴリウス派のウルバン2世を護衛した。ウルバン2世は、ハインリヒ4世が擁立した傀儡教皇クレメンス3世をローマから追放し、1095年、クレルモン公会議。国王は教皇に忠誠を誓うことを要求し、ついでに十字軍創設を宣言した。

1130年、シチリア伯ロゲリウス2世が教皇アナクレトゥス2世に戴冠されシチリア王となった。ナポリ、サレルノ、アマルフィらが反乱を起こし、教皇インノケンティウス2世と神聖ローマ皇帝ロタール3世が、1136年、ロゲリウス2世を討伐しようとしたが、ロタール3世が病死。ロタール3世は教皇党の祖とされた。

ノルマン朝シチリア王はアラブ人を官僚に重用した。シチリア島のパレルモと、イベリア半島のトレドで十二世紀ルネサンスが開花した。

1135年、ロゲリウス2世が、海賊の巣窟だったジェルバ島を襲撃占拠した。

1140年代、ロゲリウス2世が北アフリカのマフディーヤ、スーサ、スファックスを支配した。

1147年、第2回十字軍に乗じて、ロゲリウス2世がビザンツ帝国を攻撃。アドリア海のコルフ島、ケファレーニア島を奪い取った。

1154年、ロゲリウス2世死去。ウィレルムス1世(グリエルモ1世)が即位すると、ビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノス、ローマ教皇ハドリアヌス4世がシチリア島を襲撃。1156年、ウィレルムス1世が勝つ。

1160年、ムワッヒド朝がノルマン朝シチリアから北アフリカ諸都市を奪還。

1166年、ウィレルムス2世(グリエルモ2世)即位。ファーティマ朝アレクサンドリア、ムワッヒド朝チュニス・パレアレス諸島、ビザンツ領テッサロニケに遠征。

1187年、ウィレルムス2世(グリエルモ2世)は、サラディンのイェルサレム奪回に対し、即座に十字軍を派遣し勇名を馳せた。

*イスラム・スンナ派4大法学派

ハナフィー派 寛容 アグラブ朝、セルジューク朝、オスマン朝で採用された。

マーリク派 厳格 マグリブ(北アフリカ)、アンダルス(イベリア半島)で採用された。

シャーフィイー派

ハンバル派

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12世紀後半、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭バルバロッサ)がロンバルディア金融を目的にイタリア遠征。1189年、シチリア王ウィレルムス2世(グリエルモ2世)断絶。神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とイングランド王リチャード1世(獅子心王)が後継者争い。シチリア島からノルマン人を駆逐。第3回十字軍の帰途、リチャード1世がオーストリア公レオポルト5世に捕縛され、ハインリヒ6世に身を引き渡された。さらに弟ジョン王の王位簒奪を扇動していたフランス王フィリップ2世(尊厳王)に身柄を渡すぞと脅され、完全にシチリア王即位を断念。反ハインリヒ同盟が瓦解して、ハインリヒ6世がシチリア進攻し、1193年、シチリア王に即位した。ノルマン人はナポリ王国を死守した。のちフィリップ2世はジョン王から失地回復することになる。

イングランド・ジョン王が大陸のイングランド領をフランス王ルイ9世に奪われ、アンジュ帝国が崩壊した。新たに得たアンジュ伯領は、ルイ9世の弟シャルルに治めさせ、アンジュ伯シャルルとなった。

1254~1273年、大空位時代。神聖ローマ皇帝を選ぶ選挙が紛糾して、皇帝がいなかった。

1268~1271年、教皇座空位時代。ローマ教皇を選ぶコンクラーベが紛糾して、教皇がいなかった。

1260年代、アンジュ伯シャルルがシュタウフェン朝ドイツ王マンフレディを敗死させて、シチリア王国を奪った。ニケーア帝国(ビザンツ帝国亡命政権)に敗れて亡命してきたラテン皇帝ボードゥアン2世を保護。ヴェネツィア共和国と共謀してラテン帝国復興を画策した。アンジュ伯シャルルはシチリア島民から激しく搾取した。島民はアンジュ伯を恨むことになる。

アンジュ伯シャルルは、フィレンツェ豪商(毛織物業)から莫大な支援を受けていた

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十字軍が終わるころ、1282年、シチリアの晩鐘で、アンジュ伯がシチリア島から追放され、アラゴン王国がサルディニア島、シチリア島を占領。コルシカ島は新進気鋭のジェノヴァ共和国が領有。

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1435年、アンジュ家断絶。←フランス国内の親英!

1442年、アラゴン王国がナポリ王国を継承して両シチリア王国となった。アラゴンとカスティーリャが合併したスペインが、のちに両シチリア王国を領有することになった。

1453年、ビザンツ帝国滅亡。

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ここまできてやっと、十字軍が理解できる。ノルマン人が大活躍だった。

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第1回十字軍で莫大な戦果を挙げたのが、ノルマン人戦士、タンクレーディだった。ノルマン人はビザンツ帝国領だった南イタリアを侵食して奪取したばかり。十字軍をコンスタンティノープルで出迎えたものの、ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、このノルマン戦士を心から嫌っていた。タンクレーディは、下ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨンに仕えていた。

 

第4回十字軍はビザンツ亡命皇子アレクシオスによってコンスタンティノープルに導かれ、アレクシオス早逝により、ヴェネツィア共和国がビザンツ帝国を支配することになった。

十字軍諸侯によって、ラテン帝国、アカイア公国、テッサロニキ王国、アテネ侯国が建国された。

旧ビザンツ帝国系残存勢力によって、ニケーア帝国、エピロス専制侯国、トレビゾンド帝国が建国された。

クレタ島はジェノヴァ人が進出していたが、ヴェネツィア人がジェノヴァ人を駆逐して、1209年、初代クレタ総督ジャコモ・ティエポロを任命した。数度の入植政策によって、ラテン系ヴェネツィア人に対し先住民ギリシャ人が反乱を起こすも徐々に融合していった。1453年、オスマン皇帝メフメト2世によってビザンツ帝国が滅亡すると、(生粋のヴェネツィア人ではなく)ギリシャ系ヴェネツィア人がコンスタンティノープルでヴェネツィア東方貿易を担当した。

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