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2025年6月14日 (土)

ロタリンギア

カール大帝のフランク王国が子供たちに分割される。ロタールが継いだ中部フランク王国、ロタリンギア(ロタール王国)のその後の歴史を観ないとヨーロッパがわからない。オランダもベルギーもルクセンブルクも、アルザスもロレーヌも、元はと言えばイタリアだ。オーストリア帝国とフランス帝国のながーい因縁の対決がある。しかし諸侯が敵方に付く、負けた皇太子が亡命する。そこへ別種孤高のスイスが絡んでくる。

843年 ヴェルダン条約

 ロタリンギア建国。

870年 メルセン条約

 上ロレーヌだけが西フランク王国に属する。

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上ロタリンギア(オート=ロレーヌ) 川の上流(haute)にある

下ロタリンギア(バス=ロレーヌ) 川の下流(basse)にある

959年、東フランク王(のちに神聖ローマ皇帝)オットー1世の弟、ブルーノがロタリンギア公国を上下に分割した。

962年、神聖ローマ帝国が成立すると、アルザスもロレーヌもその支配下にはいった。ただし上ロタリンギアは「ロレーヌ公領」として自立的な領域支配を認められた。ロレーヌ公国は1766年にフランス王国に合併されるまで存続した。

ベルサイユのばらのオスカル、父はジャルジェ家出身、母はロレーヌ公国出身だ。

1697年、ポーランド共和国の国王選挙が紛糾。

アウグスト2世 ザクセン選帝侯 vs レシチンスキ

ロシア・オーストリア vs フランス

1725年、フランス王ルイ15世がポーランド王レシチンスキの娘マリアと結婚。

1733年、アウグスト2世死去。ザクセンは、ロシアとオーストリアの支持を得て、アウグスト3世をポーランド王に即位させたが、シュラフタ(ポーランド貴族選挙人)は、フランス王ルイ15世の義父レシチンスキを推して、ポーランド継承戦争に発展した。

1735年、ウィーン条約でレシチンスキはポーランド王位を放棄して、引き換えにロレーヌ公位についた。もとのロレーヌ公フランツ(のちの神聖ローマ皇帝フランツ1世・ハプスブルク家マリア・テレジアの夫)はトスカーナ公に転封された。

1763年、アウグスト3世死去。ロシアとプロイセンがポーランド国王選挙に介入した。

1766年、ロレーヌ公レシチンスキ死去。フランス王ルイ15世がロレーヌ公を後継、合併した。

1772年、第一次ポーランド分割。

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ジャンヌダルクのころの英仏百年戦争の三すくみ情勢

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ブルゴーニュ公国 1363~1477年

ヴァロア朝フランス王ジャン2世の4男、フィリップ豪胆公が、カペー朝傍系が断絶したブルゴーニュ領を受け継ぎ、ブルゴーニュ公国を建国した。フランドル伯マルグリットと結婚して、フランドル伯領、アルトワ伯領、ブルゴーニュ領を領有して、広大な地域を支配した。ブルゴーニュ公領、ブルゴーニュ伯領はもともとブルグンド王国の一部だった。フィリップ・ファン・アルテフェルデを頭首として低地諸国が反乱したが、フィリップ豪胆公が鎮圧。フランス王国にライバル意識むき出しで、ディジョンを都として低地諸国を統治した。

フランス王シャルル6世(1380~1422)の治世、その弟のオルレアン公ルイとブルゴーニュ公フィリップのあいだで摩擦が生じた。

オルレアン派 vs ブルゴーニュ派

1407年、ブルゴーニュ公ジャン(1404~1419)がオルレアン公ルイを暗殺。オルレアン派は、ルイの息子のシャルルと岳父アルマニャック伯ベルナール7世を中心に再編されて、アルマニャック派と呼ばれた。

アルマニャック派 vs ブルゴーニュ派

1415年、アジャンクールの戦い。イングランド王ヘンリー5世が、アルマニャック派フランス軍をロング・ボー戦術で撃破。

1417年、ブルゴーニュ公ジャンは、ディジョン、シャロン、マーコンのフランス王家造幣所を奪った。

1419年、アルマニャック派のフランス王太子シャルル(のちのシャルル7世)が、ブルゴーニュ公ジャンを殺害。

1420年、トロワ条約。ブルゴーニュ公フィリップ善公が、イングランド王ヘンリー5世と和約。父殺害の復讐として、フランス王太子シャルルを廃太子して、ヘンリー5世にフランス王位継承権を認めた。

フィリップ善公は、イングランドがエノー伯領に触手を伸ばしていたこともあり、警戒を怠らず、イングランド産羊毛依存をやめ、カスティーリャ産羊毛も輸入し、1424年、王太子シャルルに接近して、相互不可侵を確認した。

1429年、オルレアンの少女ジャンヌダルクがランスで王太子シャルルを戴冠させた。

1430年、ブルゴーニュ公フィリップ善公は、金羊毛騎士団を創設。

1431年、イングランドと共同戦線で戦ったフィリップ善公が休戦。

1435年、アラスの和平。シャルル7世がジャン殺害を謝罪し、フィリップ善公一代限りの臣従免除が決定した。ブルゴーニュ公国は、エノー、ホラント、ゼーラント、フリースラント、ブラバント、リンブルク、ルクセンブルクを征服した。ナミュール伯領を購入した。さらに神聖ローマ帝国支配下にあったリエージュ司教領に甥を、ユトレヒト司教領に庶子を送りこんで、実質的支配を目論んだ。

1473年、ブルゴーニュ公シャルル「向こう見ず」がロレーヌ公国を攻略。ブルゴーニュ公国と低地諸国をつなごうとした。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(1452~1493)に接近して、ブルゴーニュ公国からブルゴーニュ王国へ昇格することを願い出たが却下された。

ブルゴーニュ公シャルル「向こう見ず」 vs フランス王ルイ11世

シャルルは3度戦ってルイ11世に勝った。

1477年、ナンシーの戦い。シャルルがスイス盟約者団に戦いを挑んで戦死。ブルゴーニュ公国がフランス王と神聖ローマ皇帝とで分割された。

低地諸国とブルゴーニュ領は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアンが獲得。ブルゴーニュ領とフランドル伯領はフランス王ルイ11世が獲得した。

*絵画「ポルティナリの祭壇画」 ブルゴーニュ文化の代表作

ポルティナリはメディチ銀行ブリュージュ支店頭取。妻がバロンチェリ。

メディチ家はローマに法王庁の財務を預かる銀行、ヴェネツィアに両替と海上保険を扱う銀行、アヴィニョンに法王庁関係の手形と両替業務の支店、ジュネーヴに定期市関係の業務を扱う支店、ロンドンとブリュージュに羊毛と毛織物取引業務の支店を置いて、手広くメディチネットワークを作り上げていた。

左翼パネルの風俗衣装が、フィリップ善良公とシャルル向こう見ずを彷彿させる。

 

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1618~1648年、三十年戦争。プラハ城窓外投擲事件を発端として、プロテスタント諸侯(プロテスタント同盟)とカトリック諸侯(神聖連盟)が戦争した。上アルザスを領有していたボヘミア王フェルディナント2世と、ハプスブルク家のレオポルト1世兼ストラスブール司教は、連盟側として戦ったが、ストラスブールやコルマールなどの諸都市は同盟側として戦った。

1621~1622年、同盟側の傭兵隊長エルネスト・フォン・マンスフェルトがアルザスに侵攻。ヴィサンブール、アグノー、ストラスブール、コルマールを壊滅させた。

1630年、スウェーデン王グスタフ・アドルフが同盟軍として参戦、アルザスを支配したが、傭兵部隊が掠奪・破壊・拷問・殺戮した。アルザスはフランス王・ルイ13世に救援を要請した。

1648年、ウェストファリア条約。その気はなかったが、フランスのアルザス領有が承認された。

1661年、フランス王国アルザス地方総督として、マザラン1世(宰相マザランの甥)がアルザスに到着するや、アグノーやコルマール諸都市は、神聖ローマ帝国所属を破棄しフランス王とマザラン1世への忠誠を強要され反乱を起こした。

1663~1681年、アルザスで、フランスと神聖ローマ帝国が全面戦争になり、フランスはスイス領ミュルーズを除くアルザス全土を武力占領した。

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