イスラムネットワーク
旧制中学や新制高校で学んだ世界史は、大学講座が2つに分かれているため東洋史と西洋史の合体だった。しかし第3分野のイスラムを加えなければ、世界史は完成しないと宮崎正勝先生は述べる。
イスラムは商業から生まれた宗教。貨幣の材料として適しているものはなにか。価格は需要と供給によって決まる。デフレは需要<供給、インフレは需要>供給。
天然ダイヤモンド ほとんど取れないので貨幣に全く向かない。宝物の類で終わる。いまは人工で作られるが。
金 少な過ぎて誰もが持てないので貨幣に向かない。超高価な買い物(貿易)しかできない。
銀 手ごろに貴重で貨幣に向く。高価な買い物(交易)に適する。
銅 入手しやすく誰もが持てて加工しやすいので貨幣に最適。安価な日常の買い物に適する。
鉄や石は重すぎて持ち運びしにくい。紙は軽くて最適だが偽造・変造されやすいので、信用を失いやすい。モンゴル支配・元朝のように厳罰を以て偽造・変造を容赦なく取り締まれば信用が絶大になる。不要になった銀は北のモンゴル同朋に分配。「これでイスラム商人と買い物しいや。」元末には、モンゴル王宮運営費を捻出するため紙幣乱発、中国人はインフレで苦しむ、そして紅巾の乱。浮気で皇后一族が援軍せず、富が集まる江南を陥落されただけで皇帝は北へ遁走した。貨幣が不足した場合は、物々交換でやり過ごしておくことはできるが、腐りやすく国家全体として大きな経済活動(GDP)は見込めない、つまり軍事防衛力増大を含めて国家全体の幸福増大は望めない。
アッバースネットワーク
ビザンツ帝国は金が主要通貨、ササン朝ペルシャは銀が主要通貨。ウマイヤ朝5代カリフのアブド・アルマリクが金銀複本位制を導入した。
ビザンツ帝国ノミスマ金貨 ⇒ ディナール金貨に改鋳
ササン朝ディレム銀貨 ⇒ ディルハム銀貨に改鋳
ビザンツ帝国フォリス銅貨 ⇒ ファルス銅貨に改鋳
アッバース朝では、8~9世紀は銀が豊富で、金価が上昇した。金銀比価が、1:15.2, 1:17.33になった。10世紀になると銀が不足して、銀貨が高騰した。金銀比価が1:12に変わった。アッバース朝の金融中心地はバクダード。金貨、銀貨の鋳造権はカリフがもち、銅貨の鋳造権は、州総督にも認められた。
送金用の為替手形 スフタジャ
持参人払の為替手形 チャク
金の産地 ヌビアとスーダン
銀の産地 西トルキスタンとタシュケント
874~999年、アッバース朝にアミールとして仕えたイラン人ナスル1世がサーマーン朝を建国し、銀の産地を奪ったため、アッバース朝の銀が不足した。
中国からイスラムを経由してヨーロッパに伝来したものは、紙、火薬、羅針盤、印刷術、錬金術。後漢の魏伯陽と西晋/東晋の葛洪が煉丹術(錬金術)を創始・発展させた。隋で最盛期を迎え、次第にその効果に疑問が持たれ中国では衰退していった。8世紀のジャービル・イブン・ハイヤーンが錬金術を後継した。経済活動拡大に伴って金・銀の不足に悩んだアッバース朝は熱心に錬金術を研究した。東アジアのワクワク(倭国)、シーラ(新羅)に金の産地があるという情報が錯綜した。マルコポーロのジパング情報がコロンブス大西洋経由の新大陸遠征につながった。
ウマイヤ朝税制
あれ?イスラム課税は民族関係なく平等じゃないのか?
アッバース朝税制
アッバース朝では、通行税、市場税などは不当な課税とみなされ、商人は関所で関税を払って、低額の税をザカート・ハラージュ(喜捨)の名目で負担したら、自由に往来交易できた。
異教徒にはどんどん侵略をやって領土を拡大できるが、改宗者を原則、攻め倒すことはできなくなる。東アジア圏、キリスト教圏と棲み分けがほぼ完了したら、あとできることは、商業活動しかないじゃん。得意分野だし。仏教徒みたいに私欲を捨てて輪廻無き仏になれみたいな意識もなく、キリスト教徒みたいに商業(とくに働かないくせに奪う利子)が罪で地獄行きみたいな意識は完全否定されているし、ますます有利だ。現実は、根本経典「クルアーン(コーラン)」の解釈をいろんな学者(ウラマー)がやって、対立戦争することはままある。
フランク王国では、ビザンツ帝国のノミスマ金貨とアラブ銀貨が用いられていたが、カール大帝の鋳貨改革とピピンによって、デナリウス銀貨に一本化された。メル銀山で銀が豊富に取れたことと、フランク経済規模がイスラムより小さくて、金より銀で済んだせいで、銀貨に一本化できた。8,9世紀には、西アジア⇒チュニジア⇒北イタリアのルートで、12~13世紀には、マグレブ(北アフリカ)⇒スペイン⇒フランスのルートで銀貨が流入した。
イベリア半島のイスラム商人は、スーダンのイスラム商人と塩金貿易をおこなった。他宗教に寛容だったイベリア半島イスラム圏にはユダヤ商人が集まっており、ユダヤ教を国教と定めていた内陸アジアのハザール汗国から、宦官や兵士にするための白人奴隷を輸入した。
13世紀以後、フィレンツェで鋳造されたフローリン金貨が通貨になっていたが、金不足のため、ボヘミアで鋳造されたターラー銀貨が通貨としてとって代わった。16世紀、ボリビアのポトシ銀山やメキシコのサカテカス銀山が発掘され、スペインはメキシコで鋳造されたレアル銀貨をヨーロッパ大陸にもたらした。スペインのレアル銀貨は、メキシコ・アカプルコとマニラ間のマニラ・ガレオン貿易によって、大明帝国にもたらされ、「圓銀」と呼ばれた。一条鞭法に税制を改め、土地税と人頭税を一括して銀納した。大清帝国も地丁銀制を布いた。アヘン貿易で銀が流出しデフレスパイラルに陥った。スペインの度重なるデフォルトによって、フッガー家やサンジョルジョ銀行が没落した。
ジェノヴァ共和国が1284年、メロリア海戦でピサを奪取したものの、ヴェネツィア共和国との地中海覇権争いに負けて、植民島貿易で儲けた有り余る資金を元手に金貸し金融業に転職したことは先日すでに述べた。1340年、複式簿記がジェノヴァに定着した。1407年、サンジョルジョ銀行が公立銀行の最初だった。海洋都市国家としてフィレンツェは一歩も二歩も後れを取ってしまっていた。1378年、チョンピの乱。毛織物業労働者が起こした反乱。メディチ家が毛織物業を基盤に、チョンピの乱に乗じてフィレンツェ旧政権に反発し、複式簿記を採用して銀行業に着手し、教皇庁の財政を支えることで、フィレンツェでの政治力を身に着けた。フィレンツェの政権を担当してきたアルヴィツィ家・ストロッツィ家と、新手のメディチ家が対立。コジモ・デ・メディチがフィレンツェから追放されたときも、亡命先のヴェネツィア共和国で財を蓄積し続け、捲土重来を待った。
メディチ家 本店フィレンツェ。ローマ教皇庁が最大の取引先。1300年、教皇派黒派を支持して白派を粛清・追放。1343年、僭主(シニョーレ)を宣言し暴政したアテネ公ゴーティエ・ド・ブリエンヌを追放。1348年、1363年の二度のペスト流行でなんとか生き延びた。1378年、チョンピの乱。サルヴェストロ・デ・メディチが毛織物業の下層労働者を扇動して政庁館を占拠。アルヴィツィ家が暴動を鎮圧して、1434年までアルヴィツィ家が寡頭政治をおこなう。教会大分裂(1378~1417)の混乱期、ジョバンニ・デ・メディチが1397年、フィレンツェに銀行設立。メディチ家3/4、バルディ家1/4出資した。
ローマ教皇 グレゴリウス12世 ←ローマ王ループレヒトが支持
アヴィニョン教皇 ベネディクトゥス13世 ←アラゴン王マルティン1世、のちフェルナンド1世が支持
ナポリ教皇 ヨハネス23世 ←ローマ王ジギスムントとジョバンニ・デ・メディチが支持
1414~1418年、コンスタンツ公会議で、アレクサンドル5世が新ローマ教皇に選出された。
1421年、フィレンツェ共和国がジェノヴァ共和国のリヴォルノ港を購入。
アルビッツィ家派 ペスト後に移住した新参者を排除して既得権益を守る。
メディチ家派 豪商・商人・職人・下層労働者まで幅広い層が支持。
アルビッツィ家リナルドが隣国ルッカ戦争の財政逼迫責任をメディチ家コジモにかぶせた。死刑を宣告されたが、コジモの賄賂がリナルドの賄賂を上回ったため、死刑を逃れて10年間の国外追放で済んだ。1434年、ローマのコロンナ家と対立してローマからフィレンツェに追放されていたローマ教皇エウゲニウス4世が、アルビッツィ家を追放した。1436年、花の聖母マリア大聖堂完成式。1438年、ペスト流行でフェラーラ公会議が続行不可能になり、コジモがフィレンツェに誘致した。ローマ教皇エウゲニウス4世とビザンツ皇帝ヨハネス8世パレオゴロスが出席し、東西教会統合を宣言した。
1447年、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ死去。コジモは、傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァに命じて、ヴェネツィア共和国軍からミラノを守るように指示した。しかし、傭兵隊長が寝返って、1450年、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァに即位した。
1455年、イタリア同盟締結。フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリの五大国。神聖ローマ帝国・フランス王国によるイタリア戦争が1494年に勃発するまで「イタリアの平和」が到来。1464年、コジモ死去。1469年、ピエロ死去。教皇シクストゥス4世はメディチ家からパッツィ家に教皇庁の財政を任せた。
1478年、政敵パッツィ家によるロレンツォ暗殺未遂事件。弟ジュリアーノが殺害された。ロレンツォが反対派を粛清。
1479年、教皇シクストゥス4世がナポリ王国軍に命じてロレンツォ征伐に向うも、ロレンツォがナポリ王に命乞いして許される。
ロレンツォの出費が莫大でメディチ銀行経営傾く。1492年、ロレンツォ死去。
1494年、ドミニコ修道士サヴォナローラが神権政治。教皇アレクサンデル6世の対仏神聖同盟(ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国)に反対して対立。フィレンツェに対し教皇が聖務停止令を出すと、市民の経済が停止した。1498年、サヴォナローラ絞首刑ののち火刑。
1502年、ピエロ・ソデリーニが反メディチ・反サヴォナローラを掲げ、終身の「正義の旗手」に選出。書記官長マキャヴェッリ。教皇アレクサンデル6世が、息子チェーザレ・ボルジアとフランス王ルイ12世にイタリア征服を指示。マキャヴェッリが外交で活躍。
1503年、軍人教皇ユリウス2世即位。聖ピエトロ寺院建設のため、免罪符発行。
1511年、軍人教皇ユリウス2世が、対仏神聖同盟(神聖ローマ帝国、スペイン兼ナポリ、イングランド、ヴェネツィア)を結成して、フランス王ルイ12世を遠征。1512年、神聖同盟軍がフィレンツェ劫掠。ソデリーニ、マキャヴェッリ失脚。ラヴェンナの戦いで神聖同盟軍がフランス王ルイ12世軍に敗北。ジョヴァンニ・デ・メディチがフィレンツェ帰還。1513年、ジョヴァンニが教皇レオ10世に即位。聖ピエトロ寺院建設のため免罪符発行。
1515年、フランス王フランソワ1世がマリニャーノの戦いでミラノ占領。レオ10世とボローニャ講和。1517年、レオ10世暗殺未遂事件で、ソデリーニ関係者、シクストゥス4世関係者が多数処刑された。
1519年、神聖ローマ皇帝カール5世即位。
1521年、レオ10世の命で、カール5世がフランソワ1世軍をミラノから駆逐。マルチン・ルター破門。レオ10世死去。
1525年、パヴィアの戦いで、カール5世がフランソワ1世軍を破る。カール5世がナポリ占領。メディチ家出身の教皇クレメンス7世はフランスについたり神聖ローマについたり。
1527年、カール5世がローマ劫掠。メディチ家の教皇クレメンス7世の戦費調達のための重税に反対して、サヴォナローラ派のフランチェスコ・カルドゥッチが「正義の旗手(ゴンファロニエーレ)」に選出され、クレメンス7世と対立。教皇皇帝連合軍とフィレンツェ共和国の衝突が避けられなくなった。
1530年、カール5世がフィレンツェ占領。
フッガー家 本店アウグスブルク。スペイン王室が最大の取引先。1485~1495年、ヤーコブ2世が、チロル銀山の銀の先買権、スロバキアの銅山・シュレジエンの金山の支配権を獲得し、アントウェルペンに進出して金融の主導権を握った。
サンジョルジョ銀行 本店ジェノヴァ。ヨーロッパ全土に金を貸し、大航海時代のスペイン・ポルトガルに融資した。融資を受けたコロンブスは、利益を上げずに手ぶらで帰国してしまっては借金地獄が待っていたので、必死で新大陸の原住民から搾取する必要があった。コルテスやピサロといった、ほかの探検家たちも同じこと。一獲千金を夢見たのではなく、確実にあると信じた富を奪ってこなければならなかった。スペイン、ポルトガルは借金返済で儲けがチャラになった。
メディチ家から教皇レオ10世を輩出し、免罪符発行を許可したため、ルターの宗教改革が始まった。銀行業に熱心でなかったロレンツォ・デ・メディチの死後、メディチ家は衰退したが、プロテスタントに対抗するため、教皇庁とメディチ家は再び手を握る。同じくプロテスタントに手を焼く神聖ローマ帝国の軍事力を背景に、メディチ家がフィレンツェでトスカーナ公国を打ち立てる。
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