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2025年6月29日 (日)

宝塚歌劇花組「悪魔城ドラキュラ」「愛、Love Revue!」(1回目)をみて

3か月ぶりに、近畿自動車道、中国自動車道と乗り継いで、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階21列下手側の良席でした。キャトルレーヴで、三空凜花ちゃんと美羽愛ちゃんの四つ切ブロマイドを購入しました。

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第一部 悪魔城ドラキュラ

ドラキュラ Dracula

逆さに読んだら、アルカード Alucard

演者の歌もダンスも完璧なのに、脚本&演出なにこれ? 天使の次は悪魔か・・・・・・・はぁ↓

あと3回、花組観劇するんやけど。

みくりん(三空凜花)ちゃん、車いすを押してたわ。

 

第二部 愛、Love Revue! 岡田敬二先生演出

花組のショーにハズレなし。

あわちゃん(美羽愛)、40年前に若葉ひろみちゃんが演じた「初恋」クラシックバレエのソロ、さすがにうまい。クラシックバレエは、あわちゃんしかいない。

みくりん(三空凜花)ちゃんをひたすらオペラグラスで追っかけました。美人だし、プロポーション完璧だわ。

みさき(星空美咲)ちゃん、歌もうまいし、ダンスもキレまくり。すごいなぁ。

Bad Powerとジゴロ、ダンスの花組が踊ったら、キレキレ抜群。

研2の彩葉ゆめちゃん、セリフもあって新公主演だし、劇団爆推し。先輩、渋滞でつかえてるから、ちょっと待っててね。

研6の湖春ひめ花ちゃんに次こそ新公主演お願いします。

新公主演経験者みくりんちゃんに別箱主演お願いします。

新公やバウ主演経験の初音夢ちゃん、朝葉ことのちゃん、存在感出してました。

5組のデュエットダンスペア、よかったぁ。

永久輝せあ・星空美咲

聖乃あすか・美羽愛

一之瀬航季・三空凜花

輝月ゆうま・朝葉ことの

侑輝大弥・稀奈ゆい

 

聖乃あすか・美羽愛ペア、第一部も第二部も。これ、花組次期トップコンビでいいんだろうね。

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2025年6月28日 (土)

ジェノヴァ共和国

10世紀、ファーティマ朝がジェノヴァを襲撃。

11世紀後半、ファーティマ朝に襲撃されていたピサとジェノヴァが協調して、サルデーニャ島やコルシカ島のファーティマ朝勢力と戦争。北アフリカのマグリブと交易。

1087年、ジェノヴァ艦隊、ピサ艦隊、アマルフィ艦隊が北アフリカ海賊の隠れ基地を全滅させた

1096年、コムーネ(自治都市)となり独立。

十字軍遠征の物資輸送を担った。

1098年、ノルマン人アンティオキア侯ボエモンから褒美として、アンティオキアに教会、商館、居住区、港湾収入、関税免除の特権を得た。

1104年、イェルサレム王国ボードゥアン1世から、同じく特権を得た。

12世紀、ビザンツ帝国領内でピサとジェノヴァは同等の特権を得た。

1204年、ヴェネツィア共和国主導の第4回十字軍でビザンツ帝国が一時滅亡すると、ヴェネツィア共和国はピサとジェノヴァの特権を取り消した。

1261年、ニケーア帝国ミカエル8世パライオロゴスは、ニンフェオ条約を締結。ジェノヴァ共和国に多くの特権を与え、その代わりに戦費負担をしてもらった。ラテン帝国を滅ぼし、ヴェネツィア人居留区が破壊され、ヴェネツィア人の地位が凋落した。ジェノヴァは、コンスタンティノープル対岸ペラ、キオス島、クリミア半島カッファを獲得。イスラムと十字軍国家の戦争で情勢不安定になったシリア・パレスチナから黒海経由に商路が変わった。

1265年、1285年、1302年、ヴェネツィア共和国はビザンツ帝国との関係を徐々に修復。

1261~1270年、ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

1294~1299年、ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

1298年、アドリア海のクルツォラーリ島近くの海戦でジェノヴァがヴェネツィアを撃破。

1348年、ジェノヴァ領カッファを攻めたモンゴルがもたらしたペスト流行。

1351~1355年、ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

1377~1381年、ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

1379~1380年、キオッジャの戦いで、ジェノヴァがヴェネツィアに情け容赦なく撃破された。

トリノ講和条約でヴェネツィアがテネドス島を放棄。ジェノヴァは、フランス王国ルイ9世の息がかかったシチリア王国シャルル・ダンジューがビザンツ帝国侵攻を企てており侵攻阻止のために経済が悪化、ビザンツ帝国本国のビザンツ商人は没落したが、ビザンツ領バルカン半島ではイタリア商人主導の国際商業ネットワークに組み込まれ経済活動が活発化していた。ジェノヴァは内紛により衰退。

ジェノヴァは東地中海覇権をヴェネツィアに譲り、1453年、オスマン帝国によってビザンツ帝国が滅ぼされ、ジェノヴァ交易が完全に遮断され、1475年、オスマン帝国によって、ジェノヴァ領カッファを奪われた。キオス島だけジェノヴァは領有したが、オスマン帝国に貢納を強いられた。

1293年、カスティーリャ王国・ジェノヴァ連合艦隊がイスラム艦隊を撃破。ジェノヴァは、13世紀末からジブラルタル海峡を越え、イングランドとフランドルの商業航路を確立した。

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ピサ共和国

9世紀、ジェノヴァとともに北アフリカのイスラムと戦い、サルデーニャ島を領有。

1070年、フランク王国から独立し、コムーネ(自治都市)になった。

十字軍遠征の物資輸送を担った。

1111年、アマルフィと連盟し、ビザンツ皇帝アレクシオス1世から、コンスタンティノープル専用居留区を獲得し、関税を4%に減免させた。

1135年、アマルフィを裏切って攻撃。

1137年、アマルフィを攻撃。

13世紀、コルシカ島とサルデーニャ島の領有をめぐって、ジェノヴァと戦争。ルッカやフィレンツェとも戦争。

1284年、メロリア海戦で、ジェノヴァがピサに勝つ。

1325年、ジェノヴァがピサからサルデーニャ島を奪取。

1406年、フィレンツェ共和国に征服される。

1421年、フィレンツェがリヴォルノを獲得。フィレンツェのメディチ家は、ピサが再興し脅威とならないために、要塞化した港湾都市をピサの近隣リヴォルノに築いた。

1494年、イタリア戦争によって、フィレンツェ共和国がフランス王シャルル8世に降伏。ピサ共和国再独立。

1494~1498年、ドミニコ修道士サヴォナローラがフィレンツェで神権政治。悪夢!!

1509年、ピサ共和国が再びマキャヴェッリ率いるフィレンツェ共和国に併合される。

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2025年6月27日 (金)

アマルフィ共和国

海洋都市国家には当初、内陸宗主国の港として従属していた。その内陸宗主国は大国に従属していた。北イタリアを制覇したランゴバルド王国は、680年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の属国として承認され、徐々に南イタリアのビザンツ帝国領を侵略しようと画策していた。ランゴバルド王国はついに南イタリアを全部征服はできず、分国だったベネヴェント公国を一部の南イタリアに建国。8世紀後半、カール大帝によってランゴバルド王国が滅ぼされると、神聖ローマ帝国に大国が交代した。

ヴェネツィア共和国 パルテチパツィオ家・オルセオロ家・カンディアーノ家

 421年ヴェネツィア(自前の港)独立

神聖ローマ帝国 1311年ミラノ公国ヴィスコンティ家⇒スフォルツァ家

 ビザンツ帝国⇒カロリング朝フランク王国 1096年ジェノヴァ独立

神聖ローマ帝国 1115年フィレンツェ公国アルビッツィ家⇒メディチ家 

 ランゴバルド王国⇒カロリング朝フランク王国 1070年ピサ独立

ビザンツ帝国ラヴェンナ総督 ナポリ公国 

 ナポリ公国 839年アマルフィ独立

神聖ローマ帝国トスカーナ辺境伯カノッサ家支配を最後に1120年ルッカ独立

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ポジターノ、ミノーリに古代ローマ時代のヴィッラ(上級階級のカントリーハウス)がみつかっている。一番古くから存在していた。

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79年、ベスビオ火山噴火でポンペイ~アマルフィが火山灰の下に埋まってしまった。

5~7世紀、北からやってくるゲルマン民族の侵入を避けて、平野部の都市に居住していた人々が、背後に山が迫り、海に開く渓谷の地アマルフィに安全を求めて移住した。

7世紀、聖女トロフィメーナの聖遺物がミノーリの海岸に漂着。アマルフィ海岸の守護聖人に認定された。832年、ベネヴェント公シカルドが聖遺物を盗む。833年、聖遺物を奪還し、安全なアマルフィに置かれた。

751年、ランゴバルド王国アイストゥルフがラヴェンナ総督府を滅ぼす。

756年、フランク王国ピピンがラヴェンナを奪取して、教皇ステファヌス2世に寄進。

774年、フランク王国カールがランゴバルド王国を滅ぼす。

ビザンツ帝国領ナポリ公国、イスラム、ランゴバルド王国が良港アマルフィを奪い合い、

839年、ランゴバルド王国軍の襲撃を退け、アマルフィ共和国独立。

9世紀、「十字架のバジリカ」教会建設。

9世紀末、アマルフィ商人マウロ・コミテが、ベネディクト派サンタ・マリア・ラディーナ修道院と一緒に病院を建設し、のちにイェルサレムに聖ヨハネ騎士団が設立された。

*内陸にあるスカーラは、マルタ騎士団創設者ジェラルド・サッソ(1040~1120)を輩出した。

954年、総督ドゥージェを選出し、アマルフィ公国と改称。

10世紀末、ドゥオモ(大聖堂)「サンタンドレア教会」建設。聖アンドレアを祀った。

1000年ころ、エジプト・シリア・バクダード・コンスタンティノープルと通商交易した。

11世紀中頃、アルセナーレ(造船所)建設。すぐそばにフォンダコ(商館)を多数建設。

11世紀、サレルノ侯国艦隊との海戦に敗れ、1073年、アマルフィ公国は独立を失った。

アマルフィはノルマン人に対し、サレルノ侯国から保護を願い出たが、ノルマン人の支配下で自治を認められることになった。

1076年、ノルマン人がサレルノ制圧。

1086年、アマルフィ海岸都市がノルマン人公爵ロベール・ギスカール・イル・グイスカルドに反旗を翻した。ただラヴェッロだけは裏切ってノルマン公に忠誠を誓った。

1131年、シチリア王国ルッジェーロ2世がアマルフィを併合。

1135年、ピサ共和国艦隊が来襲。

1137年、ピサ共和国艦隊が来襲。

アマルフィはシチリア王国の国王交代によって、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン家、フランス王国アンジュ伯の支配を受けることになった。

 

アマルフィとラヴェッロは永遠のライバル

*ラヴェッロのルーフォロ家は、1137年、ピサ共和国・神聖ローマ帝国軍を支持して、ノルマン軍を撃退。アマルフィ海岸の統治者に指名された。1656年、ペスト流行によってルーフォロ家没落。

13世紀、アマルフィ人が磁石式羅針盤を発明した

1221年、紙を輸入。

1264年、アマルフィ有力者の墓地「天国の回廊」建設。

1343年、ティレニア海地震によってアマルフィ壊滅。

17~18世紀、川の水力を利用して、製紙業・製粉業が隆盛し経済的に繫栄した。斜面の段々畑でレモン栽培が活発になり、海外に輸出した。

 

*製紙業の歴史

紀元前2世紀 中国で紙が発明。

7~8世紀 シルクロードを通じて、サマルカンド、バクダッドに伝来。

10世紀 カイロに伝来。

1100年 フェズなどイスラムが居住する北アフリカに伝来。

1151年 イスラム領スペインのシャティヴァに製紙工場建設。

1276年 中部イタリアのファブリアーノに水車による製紙工場建設。

すぐにアマルフィでも製紙工場建設。1289年、木綿のぼろ布から「綿の紙」を製造した。海岸近くにあった木綿の広場で、紙の製造のために木綿が購入されていた。

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イタリア史におけるテリトーリオ

小麦畑、オリーブ畑、ブドウ畑が広がる、この広大な地域をどう治めていったのだろうかという疑問がイタリア旅行中によぎった。

都市と都市、都市と農村が有機的に結びついて、経済、食料、兵士のテリトーリオを形成したという考え方が、イタリア史学の最近の主流のようだ。要塞を囲んだ都市国家は、劣勢に追い込められると籠城せざるを得ないという最大の弱点があった。渇水と飢餓と疫病に弱い。よりオープンな形で陸の領有を拡大し、劣勢時には海の植民島に一時避難し体勢を整えなおし、はるか遠くの外洋に乗り出していったイタリアの男たちとそれを支えた女たちの生きざまにますます興味がわいてきた。比較対象として、中国の都市国家はイタリアのように海を活用せず、陸だけの戦術で、それぞれが要塞を築いて、てんでバラバラの感が否めない。

ローマ帝国の軍人皇帝時代、あまりの醜さゆえに吐き捨てるように取り扱われてきたが、ローマ常備軍のやる気と人材の維持がいかに難しいかがわかる、興味ある時代だ。ローマ史の研究が深く進んできたようだ。

同様に中華帝国の五胡十六国時代、五代十国時代、あまりの醜さゆえに世界史教育現場で省略されてきたが、いやいや、かなり重要な意味を持つ時代だと思う。

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2025年6月26日 (木)

イタリア旅行

このたびは、宝塚歌劇でおなじみ阪急交通社の添乗員さんのお助けを借りて、嫁とイタリアに行ってきました。全日快晴ですばらしい旅でした。

1 ミラノ

ドゥオーモ、アーケード街の地面に埋まっているサルディニア王国初代王ヴィットリオ・エマニェーレ2世のガレリア、スカラ座、そしてヴィスコンティ家が建てたスフォルツェスコ城を徒歩で観ました。ミラノ公国といえば、このヴィスコンティ家断絶のとき、メディチ家がかわいがっていた傭兵隊長スフォルツァ家が、ミラノを奪い取ろうとしたメディチ家を裏切って、ミラノ公国公主におさまりました。

2 ヴェネツィア オレンジがうまい

15世紀、確実にヨーロッパ最強の海軍を持ち、数学や物理学などサイエンス最先端だったヴェネツィア共和国の栄光を感じ取りました。聖遺物の聖マルコがこの地でみつかったことで大いに士気が上がりました。そりゃビザンツ帝国を掠め取りラテン帝国を建てたとき、ノミスマ金貨をはじめ、財宝を全部ヴェネツィアに持ち帰ったんだから。金箔に光るサンマルコ寺院、ドゥカーレ宮殿、ため息橋を観ました。ゴンドラ船に30分乗って、ゆったりと運河から玄関湾にかけて見物、モーツァルトが演奏来訪時に泊まった宿がありました。ヴェネツィアン・グラスのおちょこをお揃いペアで自分たち用に購入。

3 フィレンツェ

ギベリン(皇帝党)の拠点を中心に狭い街路を練り歩き、ドゥオーモ、ベッキオ宮殿、シニョーリア広場、ミケランジェロ広場、サン・ジョバンニ洗礼堂の門、肉屋さんを追い出して宝石商の屋台を並べたベッキオ橋(2階建て)を観ました。顔は冴えないメディチ家ジョバンニが商人の鏡で、フィレンツェ人口が激増して、周囲の農民がこぞって牛・豚・羊を1年に何万頭も引き連れて城壁内で屠殺して食肉に替えていたようです。「ジョバンニの家訓」

ウフィッツィ美術館内部を観て、ルネサンス名画をこの目でいっぱい観て写真におさめました。日本語版の図録13€を買いました。イタリア語版やドイツ語版が目立ってるけど、レジー前のわかりにくい場所に日本語版が置いてる。ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」、メディチ家お三人さんの肖像画がよかった。

4 ピサ

ピサの斜塔を登りました。296段の階段のうち、階段が途切れる途中休憩217段(←数学好きの嫁がカウントしながら登った)までは傾きますが、そのあとは狭くなって水平で、屋上はほぼ水平になってます。肥満体型が同じくらいのインド人に負けて、途中休憩場所まで24段後退させられましたが登頂成功。涼しい風に吹かれてぐるりと周囲を回って写真撮影。ピサ大聖堂内部を観ましたが、古いまま残されて一番良かった。ガリレオの振り子が天井からぶら下がってました。

5 ローマ

ヴァチカン市国に予約ギリギリで入場。新教皇からの祝福イベント直前の会場と化したサンピエトロ寺院内部を観ました。「地図の間」16世紀、教皇グレゴリウス13世が、イタリア統一を夢見て、でっかい羊皮紙に公国、侯国、共和国をすべて書かせました。こんなデカすぎる羊皮紙作るだけでどんだけの労力と金銭をつぎ込んだことやら。システィーナ礼拝堂で、ミケランジェロ「最後の審判」をこの目でじっくり観ました。男は脱帽しろと言われ、写真撮影禁止。何人かスマホ撮影してましたが、「Get out!」とつまみ出されてました。

嫁にスリ女から守ってもらい、10分行列待って、トレビの泉で後ろ向きに1€貨幣を放り投げて、レモネードのジェラートを食べました。めちゃくちゃおいしかったぁー!!スペイン広場を練り歩き、1200年前から湧き出している地下水をボトルに汲んで飲み干しました。教皇たちがなんとか栄光のローマ、多くの人々が住むローマにしようと苦心したようです。

コロッセオ、凱旋門を見物。カンツォーネ歌手が盛り立てる店で、ワインを飲んで楽しく夜を過ごして、ローマ式水道橋が畑に残る、ローマ郊外のヒルトンホテルで宿泊。よかったぁー!!朝もしっかり散歩しました。

地元イタリア人は夏休みに入ったばかり、暑すぎてローマやフィレンツェには来ないらしい。

6 ポンペイ

ベスビオ火山を背景に、パン屋、売春宿、車輪跡が深く刻印された本通り、地面に男性器の案内板、逃げようと顔を抑えた婦人像、神殿跡を見学。工房で嫁にカメオをプレゼント。先生、弟子、生徒と作製者の腕次第、3段階のお値段がつく。確実な本物はここでしか買えないらしい。

7 アルベロベッロ

ちょうど祭りの日で、自衛隊演奏みたいな催しを観ました。屋根税から逃れるために考案されたトゥルリを背景に、夜景を写真撮影、早朝もすがすがしい散歩。朝9時を告げる鐘の音がいいね。ジアンジローラ広場からモンティ地区、聖アントニオ教会、Via monte Sabotino通りが童話の世界だった。

8 マテーラ

反宗教改革武闘派の旗頭、ドミニコ修道士の巣窟サッシを1時間徒歩で練り歩きました。フィレンツェの街路に突然ぬぼーと立ち、街頭演説で扇動したサボナローラ、フィレンツェで神権政治を布くまでに上り詰め、ローマ教皇の破門宣言でトスカーナ共和国の住民の経済停止、怒った市民によって絞首刑、すぐに火刑。ローマ帝国もイタリアも独裁ダメなんだって、SPQR!!

9 ナポリ レモンがうまい

改装工事できたてのナポリ地下駅広場を歩き、卵城、ヌオーヴォ城を観ました。夜の外出は禁忌。

10 カプリ島「青の洞窟」

ナポリ港からカプリ島へはフェリー、カプリ島からソレント港へはジェットフォイルで。中型ボートに乗り換えて、青の洞窟で順番待ち1時間程度。陸から来る客と海から来る客が4人乗りボートの奪い合い。青の洞窟にまさに入ろうとするときの突風で私の野球帽が海へ。スマホと船頭さんチップ1€コインはぜったい落とすまい。汗で汚れた帽子を置き土産しておきました。カプリ島で帽子を買おうと思いましたが58cm均一サイズで小さくて断念。カプリ島でレモンのアイスクリーム、これまためっちゃうまい!!

11 アマルフィ海岸

マイクロバスで右側座席に座り、アマルフィ共和国をこの目で観てきました。ベスビオ火山の裏手に山々が連なり、アマルフィ海岸から山深いことを実感。そうかぁ、ナポリ王国が宗主国になってアマルフィ共和国が独立したんだね。内陸から攻められて、短くもアマルフィ共和国は降伏しましたが。レモンのなる木はなかなか見れない。

全日程、雲一つない快晴で、気温38℃と暑かったけど、最高の旅でした。7月、8月はもっと暑いから練り歩きがキツい。観光バスでいっぱい1€のナチゥーレ水を買って飲みました。水代は全部、運転がうまい二コラさんのチップに。毎日、ローマ名物パルマハム、チーズ、トマト、オレンジジュース、アプリコット、いろんなパスタとエスプレッソ、カプチーノ、ティラミス、アイスクリームでおいしかった。クロワッサンとフランス製のバターがめちゃうま!!

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2025年6月14日 (土)

ロタリンギア

カール大帝のフランク王国が子供たちに分割される。ロタールが継いだ中部フランク王国、ロタリンギア(ロタール王国)のその後の歴史を観ないとヨーロッパがわからない。オランダもベルギーもルクセンブルクも、アルザスもロレーヌも、元はと言えばイタリアだ。オーストリア帝国とフランス帝国のながーい因縁の対決がある。しかし諸侯が敵方に付く、負けた皇太子が亡命する。そこへ別種孤高のスイスが絡んでくる。

843年 ヴェルダン条約

 ロタリンギア建国。

870年 メルセン条約

 上ロレーヌだけが西フランク王国に属する。

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上ロタリンギア(オート=ロレーヌ) 川の上流(haute)にある

下ロタリンギア(バス=ロレーヌ) 川の下流(basse)にある

959年、東フランク王(のちに神聖ローマ皇帝)オットー1世の弟、ブルーノがロタリンギア公国を上下に分割した。

962年、神聖ローマ帝国が成立すると、アルザスもロレーヌもその支配下にはいった。ただし上ロタリンギアは「ロレーヌ公領」として自立的な領域支配を認められた。ロレーヌ公国は1766年にフランス王国に合併されるまで存続した。

ベルサイユのばらのオスカル、父はジャルジェ家出身、母はロレーヌ公国出身だ。

1697年、ポーランド共和国の国王選挙が紛糾。

アウグスト2世 ザクセン選帝侯 vs レシチンスキ

ロシア・オーストリア vs フランス

1725年、フランス王ルイ15世がポーランド王レシチンスキの娘マリアと結婚。

1733年、アウグスト2世死去。ザクセンは、ロシアとオーストリアの支持を得て、アウグスト3世をポーランド王に即位させたが、シュラフタ(ポーランド貴族選挙人)は、フランス王ルイ15世の義父レシチンスキを推して、ポーランド継承戦争に発展した。

1735年、ウィーン条約でレシチンスキはポーランド王位を放棄して、引き換えにロレーヌ公位についた。もとのロレーヌ公フランツ(のちの神聖ローマ皇帝フランツ1世・ハプスブルク家マリア・テレジアの夫)はトスカーナ公に転封された。

1763年、アウグスト3世死去。ロシアとプロイセンがポーランド国王選挙に介入した。

1766年、ロレーヌ公レシチンスキ死去。フランス王ルイ15世がロレーヌ公を後継、合併した。

1772年、第一次ポーランド分割。

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ジャンヌダルクのころの英仏百年戦争の三すくみ情勢

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ブルゴーニュ公国 1363~1477年

ヴァロア朝フランス王ジャン2世の4男、フィリップ豪胆公が、カペー朝傍系が断絶したブルゴーニュ領を受け継ぎ、ブルゴーニュ公国を建国した。フランドル伯マルグリットと結婚して、フランドル伯領、アルトワ伯領、ブルゴーニュ領を領有して、広大な地域を支配した。ブルゴーニュ公領、ブルゴーニュ伯領はもともとブルグンド王国の一部だった。フィリップ・ファン・アルテフェルデを頭首として低地諸国が反乱したが、フィリップ豪胆公が鎮圧。フランス王国にライバル意識むき出しで、ディジョンを都として低地諸国を統治した。

フランス王シャルル6世(1380~1422)の治世、その弟のオルレアン公ルイとブルゴーニュ公フィリップのあいだで摩擦が生じた。

オルレアン派 vs ブルゴーニュ派

1407年、ブルゴーニュ公ジャン(1404~1419)がオルレアン公ルイを暗殺。オルレアン派は、ルイの息子のシャルルと岳父アルマニャック伯ベルナール7世を中心に再編されて、アルマニャック派と呼ばれた。

アルマニャック派 vs ブルゴーニュ派

1415年、アジャンクールの戦い。イングランド王ヘンリー5世が、アルマニャック派フランス軍をロング・ボー戦術で撃破。

1417年、ブルゴーニュ公ジャンは、ディジョン、シャロン、マーコンのフランス王家造幣所を奪った。

1419年、アルマニャック派のフランス王太子シャルル(のちのシャルル7世)が、ブルゴーニュ公ジャンを殺害。

1420年、トロワ条約。ブルゴーニュ公フィリップ善公が、イングランド王ヘンリー5世と和約。父殺害の復讐として、フランス王太子シャルルを廃太子して、ヘンリー5世にフランス王位継承権を認めた。

フィリップ善公は、イングランドがエノー伯領に触手を伸ばしていたこともあり、警戒を怠らず、イングランド産羊毛依存をやめ、カスティーリャ産羊毛も輸入し、1424年、王太子シャルルに接近して、相互不可侵を確認した。

1429年、オルレアンの少女ジャンヌダルクがランスで王太子シャルルを戴冠させた。

1430年、ブルゴーニュ公フィリップ善公は、金羊毛騎士団を創設。

1431年、イングランドと共同戦線で戦ったフィリップ善公が休戦。

1435年、アラスの和平。シャルル7世がジャン殺害を謝罪し、フィリップ善公一代限りの臣従免除が決定した。ブルゴーニュ公国は、エノー、ホラント、ゼーラント、フリースラント、ブラバント、リンブルク、ルクセンブルクを征服した。ナミュール伯領を購入した。さらに神聖ローマ帝国支配下にあったリエージュ司教領に甥を、ユトレヒト司教領に庶子を送りこんで、実質的支配を目論んだ。

1473年、ブルゴーニュ公シャルル「向こう見ず」がロレーヌ公国を攻略。ブルゴーニュ公国と低地諸国をつなごうとした。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(1452~1493)に接近して、ブルゴーニュ公国からブルゴーニュ王国へ昇格することを願い出たが却下された。

ブルゴーニュ公シャルル「向こう見ず」 vs フランス王ルイ11世

シャルルは3度戦ってルイ11世に勝った。

1477年、ナンシーの戦い。シャルルがスイス盟約者団に戦いを挑んで戦死。ブルゴーニュ公国がフランス王と神聖ローマ皇帝とで分割された。

低地諸国とブルゴーニュ領は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアンが獲得。ブルゴーニュ領とフランドル伯領はフランス王ルイ11世が獲得した。

*絵画「ポルティナリの祭壇画」 ブルゴーニュ文化の代表作

ポルティナリはメディチ銀行ブリュージュ支店頭取。妻がバロンチェリ。

メディチ家はローマに法王庁の財務を預かる銀行、ヴェネツィアに両替と海上保険を扱う銀行、アヴィニョンに法王庁関係の手形と両替業務の支店、ジュネーヴに定期市関係の業務を扱う支店、ロンドンとブリュージュに羊毛と毛織物取引業務の支店を置いて、手広くメディチネットワークを作り上げていた。

左翼パネルの風俗衣装が、フィリップ善良公とシャルル向こう見ずを彷彿させる。

 

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1618~1648年、三十年戦争。プラハ城窓外投擲事件を発端として、プロテスタント諸侯(プロテスタント同盟)とカトリック諸侯(神聖連盟)が戦争した。上アルザスを領有していたボヘミア王フェルディナント2世と、ハプスブルク家のレオポルト1世兼ストラスブール司教は、連盟側として戦ったが、ストラスブールやコルマールなどの諸都市は同盟側として戦った。

1621~1622年、同盟側の傭兵隊長エルネスト・フォン・マンスフェルトがアルザスに侵攻。ヴィサンブール、アグノー、ストラスブール、コルマールを壊滅させた。

1630年、スウェーデン王グスタフ・アドルフが同盟軍として参戦、アルザスを支配したが、傭兵部隊が掠奪・破壊・拷問・殺戮した。アルザスはフランス王・ルイ13世に救援を要請した。

1648年、ウェストファリア条約。その気はなかったが、フランスのアルザス領有が承認された。

1661年、フランス王国アルザス地方総督として、マザラン1世(宰相マザランの甥)がアルザスに到着するや、アグノーやコルマール諸都市は、神聖ローマ帝国所属を破棄しフランス王とマザラン1世への忠誠を強要され反乱を起こした。

1663~1681年、アルザスで、フランスと神聖ローマ帝国が全面戦争になり、フランスはスイス領ミュルーズを除くアルザス全土を武力占領した。

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2025年6月12日 (木)

イスラムネットワーク

旧制中学や新制高校で学んだ世界史は、大学講座が2つに分かれているため東洋史と西洋史の合体だった。しかし第3分野のイスラムを加えなければ、世界史は完成しないと宮崎正勝先生は述べる。

イスラムは商業から生まれた宗教。貨幣の材料として適しているものはなにか。価格は需要と供給によって決まる。デフレは需要<供給、インフレは需要>供給。

天然ダイヤモンド ほとんど取れないので貨幣に全く向かない。宝物の類で終わる。いまは人工で作られるが。

金 少な過ぎて誰もが持てないので貨幣に向かない。超高価な買い物(貿易)しかできない。

銀 手ごろに貴重で貨幣に向く。高価な買い物(交易)に適する。

銅 入手しやすく誰もが持てて加工しやすいので貨幣に最適。安価な日常の買い物に適する。

鉄や石は重すぎて持ち運びしにくい。紙は軽くて最適だが偽造・変造されやすいので、信用を失いやすい。モンゴル支配・元朝のように厳罰を以て偽造・変造を容赦なく取り締まれば信用が絶大になる。不要になった銀は北のモンゴル同朋に分配。「これでイスラム商人と買い物しいや。」元末には、モンゴル王宮運営費を捻出するため紙幣乱発、中国人はインフレで苦しむ、そして紅巾の乱。浮気で皇后一族が援軍せず、富が集まる江南を陥落されただけで皇帝は北へ遁走した。貨幣が不足した場合は、物々交換でやり過ごしておくことはできるが、腐りやすく国家全体として大きな経済活動(GDP)は見込めない、つまり軍事防衛力増大を含めて国家全体の幸福増大は望めない。

アッバースネットワーク

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ビザンツ帝国は金が主要通貨、ササン朝ペルシャは銀が主要通貨。ウマイヤ朝5代カリフのアブド・アルマリクが金銀複本位制を導入した。

ビザンツ帝国ノミスマ金貨 ⇒ ディナール金貨に改鋳

ササン朝ディレム銀貨 ⇒ ディルハム銀貨に改鋳

ビザンツ帝国フォリス銅貨 ⇒ ファルス銅貨に改鋳

アッバース朝では、8~9世紀は銀が豊富で、金価が上昇した。金銀比価が、1:15.2, 1:17.33になった。10世紀になると銀が不足して、銀貨が高騰した。金銀比価が1:12に変わった。アッバース朝の金融中心地はバクダード。金貨、銀貨の鋳造権はカリフがもち、銅貨の鋳造権は、州総督にも認められた。

送金用の為替手形 スフタジャ

持参人払の為替手形 チャク

金の産地 ヌビアとスーダン

銀の産地 西トルキスタンとタシュケント

874~999年、アッバース朝にアミールとして仕えたイラン人ナスル1世がサーマーン朝を建国し、銀の産地を奪ったため、アッバース朝の銀が不足した。

中国からイスラムを経由してヨーロッパに伝来したものは、紙、火薬、羅針盤、印刷術、錬金術。後漢の魏伯陽と西晋/東晋の葛洪が煉丹術(錬金術)を創始・発展させた。隋で最盛期を迎え、次第にその効果に疑問が持たれ中国では衰退していった。8世紀のジャービル・イブン・ハイヤーンが錬金術を後継した。経済活動拡大に伴って金・銀の不足に悩んだアッバース朝は熱心に錬金術を研究した。東アジアのワクワク(倭国)、シーラ(新羅)に金の産地があるという情報が錯綜した。マルコポーロのジパング情報がコロンブス大西洋経由の新大陸遠征につながった。

ウマイヤ朝税制

あれ?イスラム課税は民族関係なく平等じゃないのか?

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アッバース朝税制

アッバース朝では、通行税、市場税などは不当な課税とみなされ、商人は関所で関税を払って、低額の税をザカート・ハラージュ(喜捨)の名目で負担したら、自由に往来交易できた。

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異教徒にはどんどん侵略をやって領土を拡大できるが、改宗者を原則、攻め倒すことはできなくなる。東アジア圏、キリスト教圏と棲み分けがほぼ完了したら、あとできることは、商業活動しかないじゃん。得意分野だし。仏教徒みたいに私欲を捨てて輪廻無き仏になれみたいな意識もなく、キリスト教徒みたいに商業(とくに働かないくせに奪う利子)が罪で地獄行きみたいな意識は完全否定されているし、ますます有利だ。現実は、根本経典「クルアーン(コーラン)」の解釈をいろんな学者(ウラマー)がやって、対立戦争することはままある。

フランク王国では、ビザンツ帝国のノミスマ金貨とアラブ銀貨が用いられていたが、カール大帝の鋳貨改革とピピンによって、デナリウス銀貨に一本化された。メル銀山で銀が豊富に取れたことと、フランク経済規模がイスラムより小さくて、金より銀で済んだせいで、銀貨に一本化できた。8,9世紀には、西アジア⇒チュニジア⇒北イタリアのルートで、12~13世紀には、マグレブ(北アフリカ)⇒スペイン⇒フランスのルートで銀貨が流入した。

イベリア半島のイスラム商人は、スーダンのイスラム商人と塩金貿易をおこなった。他宗教に寛容だったイベリア半島イスラム圏にはユダヤ商人が集まっており、ユダヤ教を国教と定めていた内陸アジアのハザール汗国から、宦官や兵士にするための白人奴隷を輸入した。

13世紀以後、フィレンツェで鋳造されたフローリン金貨が通貨になっていたが、金不足のため、ボヘミアで鋳造されたターラー銀貨が通貨としてとって代わった。16世紀、ボリビアのポトシ銀山やメキシコのサカテカス銀山が発掘され、スペインはメキシコで鋳造されたレアル銀貨をヨーロッパ大陸にもたらした。スペインのレアル銀貨は、メキシコ・アカプルコとマニラ間のマニラ・ガレオン貿易によって、大明帝国にもたらされ、「圓銀」と呼ばれた。一条鞭法に税制を改め、土地税と人頭税を一括して銀納した。大清帝国も地丁銀制を布いた。アヘン貿易で銀が流出しデフレスパイラルに陥った。スペインの度重なるデフォルトによって、フッガー家やサンジョルジョ銀行が没落した。

 

ジェノヴァ共和国が1284年、メロリア海戦でピサを奪取したものの、ヴェネツィア共和国との地中海覇権争いに負けて、植民島貿易で儲けた有り余る資金を元手に金貸し金融業に転職したことは先日すでに述べた。1340年、複式簿記がジェノヴァに定着した。1407年、サンジョルジョ銀行が公立銀行の最初だった。海洋都市国家としてフィレンツェは一歩も二歩も後れを取ってしまっていた。1378年、チョンピの乱。毛織物業労働者が起こした反乱。メディチ家が毛織物業を基盤に、チョンピの乱に乗じてフィレンツェ旧政権に反発し、複式簿記を採用して銀行業に着手し、教皇庁の財政を支えることで、フィレンツェでの政治力を身に着けた。フィレンツェの政権を担当してきたアルヴィツィ家・ストロッツィ家と、新手のメディチ家が対立。コジモ・デ・メディチがフィレンツェから追放されたときも、亡命先のヴェネツィア共和国で財を蓄積し続け、捲土重来を待った。

メディチ家 本店フィレンツェ。ローマ教皇庁が最大の取引先。1300年、教皇派黒派を支持して白派を粛清・追放。1343年、僭主(シニョーレ)を宣言し暴政したアテネ公ゴーティエ・ド・ブリエンヌを追放。1348年、1363年の二度のペスト流行でなんとか生き延びた。1378年、チョンピの乱。サルヴェストロ・デ・メディチが毛織物業の下層労働者を扇動して政庁館を占拠。アルヴィツィ家が暴動を鎮圧して、1434年までアルヴィツィ家が寡頭政治をおこなう。教会大分裂(1378~1417)の混乱期、ジョバンニ・デ・メディチが1397年、フィレンツェに銀行設立。メディチ家3/4、バルディ家1/4出資した。

ローマ教皇 グレゴリウス12世 ←ローマ王ループレヒトが支持

アヴィニョン教皇 ベネディクトゥス13世 ←アラゴン王マルティン1世、のちフェルナンド1世が支持

ナポリ教皇 ヨハネス23世 ←ローマ王ジギスムントとジョバンニ・デ・メディチが支持

 

1414~1418年、コンスタンツ公会議で、アレクサンドル5世が新ローマ教皇に選出された。

1421年、フィレンツェ共和国がジェノヴァ共和国のリヴォルノ港を購入。

アルビッツィ家派 ペスト後に移住した新参者を排除して既得権益を守る。

メディチ家派 豪商・商人・職人・下層労働者まで幅広い層が支持。

アルビッツィ家リナルドが隣国ルッカ戦争の財政逼迫責任をメディチ家コジモにかぶせた。死刑を宣告されたが、コジモの賄賂がリナルドの賄賂を上回ったため、死刑を逃れて10年間の国外追放で済んだ。1434年、ローマのコロンナ家と対立してローマからフィレンツェに追放されていたローマ教皇エウゲニウス4世が、アルビッツィ家を追放した。1436年、花の聖母マリア大聖堂完成式。1438年、ペスト流行でフェラーラ公会議が続行不可能になり、コジモがフィレンツェに誘致した。ローマ教皇エウゲニウス4世とビザンツ皇帝ヨハネス8世パレオゴロスが出席し、東西教会統合を宣言した。

1447年、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ死去。コジモは、傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァに命じて、ヴェネツィア共和国軍からミラノを守るように指示した。しかし、傭兵隊長が寝返って、1450年、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァに即位した。

1455年、イタリア同盟締結。フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリの五大国。神聖ローマ帝国・フランス王国によるイタリア戦争が1494年に勃発するまで「イタリアの平和」が到来。1464年、コジモ死去。1469年、ピエロ死去。教皇シクストゥス4世はメディチ家からパッツィ家に教皇庁の財政を任せた。

1478年、政敵パッツィ家によるロレンツォ暗殺未遂事件。弟ジュリアーノが殺害された。ロレンツォが反対派を粛清。

1479年、教皇シクストゥス4世がナポリ王国軍に命じてロレンツォ征伐に向うも、ロレンツォがナポリ王に命乞いして許される。

ロレンツォの出費が莫大でメディチ銀行経営傾く。1492年、ロレンツォ死去。

1494年、ドミニコ修道士サヴォナローラが神権政治。教皇アレクサンデル6世の対仏神聖同盟(ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国)に反対して対立。フィレンツェに対し教皇が聖務停止令を出すと、市民の経済が停止した。1498年、サヴォナローラ絞首刑ののち火刑。

1502年、ピエロ・ソデリーニが反メディチ・反サヴォナローラを掲げ、終身の「正義の旗手」に選出。書記官長マキャヴェッリ。教皇アレクサンデル6世が、息子チェーザレ・ボルジアとフランス王ルイ12世にイタリア征服を指示。マキャヴェッリが外交で活躍。

1503年、軍人教皇ユリウス2世即位。聖ピエトロ寺院建設のため、免罪符発行。

1511年、軍人教皇ユリウス2世が、対仏神聖同盟(神聖ローマ帝国、スペイン兼ナポリ、イングランド、ヴェネツィア)を結成して、フランス王ルイ12世を遠征。1512年、神聖同盟軍がフィレンツェ劫掠。ソデリーニ、マキャヴェッリ失脚。ラヴェンナの戦いで神聖同盟軍がフランス王ルイ12世軍に敗北。ジョヴァンニ・デ・メディチがフィレンツェ帰還。1513年、ジョヴァンニが教皇レオ10世に即位。聖ピエトロ寺院建設のため免罪符発行。

1515年、フランス王フランソワ1世がマリニャーノの戦いでミラノ占領。レオ10世とボローニャ講和。1517年、レオ10世暗殺未遂事件で、ソデリーニ関係者、シクストゥス4世関係者が多数処刑された。

1519年、神聖ローマ皇帝カール5世即位。

1521年、レオ10世の命で、カール5世がフランソワ1世軍をミラノから駆逐。マルチン・ルター破門。レオ10世死去。

1525年、パヴィアの戦いで、カール5世がフランソワ1世軍を破る。カール5世がナポリ占領。メディチ家出身の教皇クレメンス7世はフランスについたり神聖ローマについたり。

1527年、カール5世がローマ劫掠。メディチ家の教皇クレメンス7世の戦費調達のための重税に反対して、サヴォナローラ派のフランチェスコ・カルドゥッチが「正義の旗手(ゴンファロニエーレ)」に選出され、クレメンス7世と対立。教皇皇帝連合軍とフィレンツェ共和国の衝突が避けられなくなった。

1530年、カール5世がフィレンツェ占領。

 

フッガー家 本店アウグスブルク。スペイン王室が最大の取引先。1485~1495年、ヤーコブ2世が、チロル銀山の銀の先買権、スロバキアの銅山・シュレジエンの金山の支配権を獲得し、アントウェルペンに進出して金融の主導権を握った。

サンジョルジョ銀行 本店ジェノヴァ。ヨーロッパ全土に金を貸し、大航海時代のスペイン・ポルトガルに融資した。融資を受けたコロンブスは、利益を上げずに手ぶらで帰国してしまっては借金地獄が待っていたので、必死で新大陸の原住民から搾取する必要があった。コルテスやピサロといった、ほかの探検家たちも同じこと。一獲千金を夢見たのではなく、確実にあると信じた富を奪ってこなければならなかった。スペイン、ポルトガルは借金返済で儲けがチャラになった。

メディチ家から教皇レオ10世を輩出し、免罪符発行を許可したため、ルターの宗教改革が始まった。銀行業に熱心でなかったロレンツォ・デ・メディチの死後、メディチ家は衰退したが、プロテスタントに対抗するため、教皇庁とメディチ家は再び手を握る。同じくプロテスタントに手を焼く神聖ローマ帝国の軍事力を背景に、メディチ家がフィレンツェでトスカーナ公国を打ち立てる。

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2025年6月11日 (水)

梅田芸術劇場「二都物語」(2回目)をみて

午前診を終え、近鉄、御堂筋線を乗り継いで、嫁と梅田芸術劇場に行きました。座席は1階まさにド真ん中の良席でした。

ワイルドホーンのコーラス、「アナスタシア」もせやけど、ジンとくるわ。夫人ワオー(和央ようか)の推しのせいか、宙組OGだらけの出演者。かのちゃん(潤花)のドレス姿、ひとこ(永久輝せあ)と踊った「PR✕PRince」のシンデレラデュエットダンスを思い出したわ。子役を含め、まわりの出演者たちの歌がめちゃうま。慶応大学の雪組エトワールの女王・アリス(有栖妃華)&かのちゃん(潤花)の同期共演がみてみたい。

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2025年6月10日 (火)

美空真瑠くん

まる、応援してますよ。蘭寿とむ以来、久しぶりの花男、しかもルックス、芝居、歌、なによりダンスが超絶すごすぎ。トップのお相手は、彩葉ゆめちゃんだろうね。身長もちょうどいい。

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2025年6月 8日 (日)

梅田芸術劇場「二都物語」(1回目)をみて

近鉄、御堂筋線と乗り継いで、梅田芸術劇場に行きました。売布神社君と井高野君と現地集合。2階最前列下手側の良席でした。

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ルーシー・マネット 潤花(かのちゃん) 

ドクター・マネット 福井晶一 父

チャールズ・ダーニー 浦井健治 亡命貴族 好きピー

シドニー・カートン 井上芳雄 弁護士 シャイな好きピー

エヴレモンド侯爵 岡幸二郎 チャールズ・ダーニーの叔父

 

ルーシー・マネットがバスティーユ牢獄から解放されたドクター・マネットを迎えに行った。帰途の船上で出会った貴族チャールズ・ダーニーがスパイ容疑で裁判にかけられるも、アル中の弁護士シドニー・カートンが酒場で、エヴレモンド侯爵が派遣した原告仕掛人の弱みを掴んでチャールズを助ける。偽証は即死刑だからだ。シドニーとチャールズはルーシーをめぐって三角関係のラブ。ルーシー・マネットはチャールズ・ダーニーを選んで娘をひとりもうけた。シドニー・カートンは娘養育を手伝う。昔の使用人が貴族の家で働いていたという罪で捕まったという報を聞き、チャールズは再びフランスにもどった。その使用人はすでにギロチンの露になっていた。革命民衆に捕まり革命裁判でいったん助かりかけるも、ドクター・マネットの獄中証言メモが発見され、死刑宣告を受ける。

エヴレモンド侯爵に犯された姉とその弟をかばった罪でドクター・マネットがバスティーユに17年間投獄されていた。その妹だったマダム・ドファルジュ(未来優希)が、エヴレモンド侯爵のみならず、チャールズ・ダーニーとルーシー・マネット家族を殺したいという復讐に燃える。エヴレモンド侯爵は路上を歩いていた子供を車で轢き殺してしまい、その子の父親が復讐でエヴレモンド侯爵を殺し、革命に火が付いた。夫チャールズをフランスに置いてイギリスに帰れないとルーシー・マネットがシドニー・カートンに泣いて訴え、このままでは一家が革命民衆によって皆殺しにされると悟ったシドニー・カートンが、チャールズの身代わりになって断頭台に消えた。エヴレモンド侯爵の針子として働いていた女性と手をつないで。チャールズ一家は、シドニーの出国許可証をもってイギリスに逃亡。際限なき殺人鬼と化したマダム・ドファルジュは、イギリス逃亡の2台目の馬車に乗ろうとしたルーシーの養母ミス・プロス(塩田朋子)と揉み合いになったとき、銃弾に倒れた。

革命は際限がない、だめ、ぜったい。

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2025年6月 6日 (金)

彩みちるちゃん、白雪さち花ちゃん退団

ビックリしたわ、もう。みちるは娘役の鏡やで。

さちか組長、みちる後妻トップ娘役じゃないのか。

めちゃくちゃチケット難の公演で退団はキツい。

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