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2025年5月26日 (月)

ティムール帝国、黒羊朝、白羊朝、シャイバーニー朝

モンゴルが去って世界がホッとしたのも束の間、征服者ティムールが爆誕。ハン(汗)はチンギスハンの血を継ぐものしかなることを許されなかった。オイラートのエセン汗のように簒奪したものは殺害された。ティムールはチンギスハン末裔の娘婿だったので、キュレゲン(駙馬)と称した。オゴデイ家末裔をハンに傀儡として据えた。ティムールはトルコ化したモンゴル人で、トルコ語を話し、公式にはイスラムを信仰した。尊敬してやまないチンギスハン(モンゴル人)は元来シャーマニズム信仰だったので、同じイスラムでも神秘的なスーフィズムに惹かれていった。帝国領内の信仰の自由は認められた。兵のなかには仏教徒もおり、イスラムは敗戦イスラムを奴隷にできなかったが、ティムールは平気で禁を破った。息子の代に奴隷身分から解放された。

ティムールにとって、崇拝するチンギス帝国を北へ駆逐した大明帝国に対し聖戦を与えることが大目的で、後顧の憂いを絶つために周囲諸国を制圧したに過ぎなかった。だから深追いはしなかった。(佐藤幸夫先生講義談)

ティムール帝国が短命に終わると、イラン高原に小国家が乱立する混沌とした状態になった。

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ティムール帝国 

 (イラン高原)⇒ 黒羊朝・白羊朝 ⇒ サファヴィー朝

 (中央アジア)⇒ (ウズベク族南下)シャイバーン朝 ⇒ ブハラ汗国・ヒヴァ汗国・コーカンド汗国

*ウズベク族は、ソグディアナにブハラ汗国、ホラズムにヒヴァ汗国を建てた。さらにホラーサーンの領有を目指したが、火器を持ったサファヴィー朝に防がれた。またウズベク族間の争いが絶えず、18世紀初頭にはフェルガナがコーカンド汗国としてブハラから分離した。

北元 ⇒ オイラート ⇒ ジュンガル帝国 ⇒ 新疆自治区(大清帝国)

*カザフ族は17世紀末、東から大中小の3つのオルダに分裂し、18世紀前半にはロシアの宗主権を認めた。さらに18世紀に中央アジアとの貿易に携わるカザンのタタール人の商人や宣教師によってイスラム化を深めていった。

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1303年、ルーム・セルジューク朝が滅亡すると、遊牧トルクメンが群雄割拠。

14世紀後半、遊牧トルクメンがアナトリア東部からイラン高原に進出し、黒羊朝と白羊朝を建国した。

下図は、君侯国の概略図。次のふたつが重要!

4 カラマン君侯国

5 オスマン君侯国(のちオスマン帝国)

ヴェネツィア共和国が領有していたキプロス島の位置も覚えよう。

トレビゾンド帝国は、ビザンツ帝国から亡命したギリシャ人の国。黒海交易のための重要な国で、背後は険しい山脈で囲まれている。オスマン帝国は、この山脈を乗り越えて征服にやってきた。

タマル女王、ルスダン亡き後のグルジアの位置も覚えておこう。

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人望熱く有能な4代モンケ汗が早逝(風土病?暗殺?)したため、5代フビライ汗が元を築けたという話。

元の徴税体制

元は、塩、茶、酒、鉄、竹、醤、暦本、農具など専売制を実施。とくの塩の専売収入が国庫収入の80%を占めた。塩商人は政府発行の「塩引」を銀で買い取ることにより初めて塩を入手できた。そのため中国の膨大な銀が大都に集められた。多くのイスラムを移住させて雲南の銀山を開発させた。中国の銀の6割以上を産出。膨大な銀を元はユーラシア各地のモンゴル人王族に定期的に分配し、各王族がその銀を元手に様々な物品と交易できた。これで10世紀以降、銀不足に悩まされてきた東部イスラム経済はやっと元の経済に戻ることができた。

元は運河を用いて、江南の資本(食料と銀)を私物化した。紅巾軍が江南を攻めるだけで、元が一気に瓦解したのは、皇帝に愛想をつかした正妻一族の協力がなかったからだ。

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トルイ家のフビライ汗(世宗)に逆らった者はみな、オゴデイ家のカイドゥのもとに集まった。フビライとカイドゥは因縁の敵だったが、フビライの死後、カイドゥが元を攻めるつもりが、カイドゥの臣下が次々と次の元皇帝テムル(成宗)に投降した。これ、カイドゥの大誤算だった。カイドゥの死後、カイドゥ王国後継者だったチャガタイ家のドゥアがテムルに恭順して、大元ウルス体制に回帰できた。ドゥアは、大ハン・テムルの権威を借りて、中央アジアのカイドゥ家とオゴデイ一門を封じ、チャガタイ家のドゥア世襲のチャガタイウルスを建てた。

ドゥアの子孫がモグーリスタン汗国を建国するが、周囲諸国に翻弄され、1508年にシャイバーニー朝によって滅亡した。

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カイドゥウルスからチャガタイウルスへ。

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1340年代、チャガタイウルス東西分裂。

東チャガタイ汗国 遊牧民 反イスラム 「モグール」と称した。

 ハン(汗)のトゥグリク・テミュルが西チャガタイ汗国を滅ぼし、自らイスラムに改宗した。

西チャガタイ汗国 定住民 親イスラム 「チャガタイ」と称した。

 アミール(総督)のカザガンが、ハン(汗)のカザン・スルターンを破り、傀儡ハンをたてた。

1361年、西チャガタイ汗国バルラス部出身のティムールが、トゥグリク・テミュル率いるモグール軍について、故郷周辺を制圧した。

1362年、ティムールは、アミールのフサインと協力して、モグール軍を裏切った。

1364年、ティムールとフサインがモグール軍を駆逐した。

1370年、ティムールがフサインを破り、オゴデイ家のソユルガトミシュを傀儡ハンにたてた。フサインの妻の一人、チャガタイ家のカザン・スルターンの娘、サライ・ムルクを娶り、自らキュレゲン(駙馬)と称した。

白羊朝のカラ・ヨルク・ウスマーン・ベグはティムールに協力して、ティムールに逆らいマムルーク朝に接近した黒羊朝のカラ・ユースフからディヤルキバルを奪った。

1386~1388年、三年征戦。ジョチウルス(キプチャク汗国)のトクタミシュ汗と対立。キプチャク軍のイラン進入路にあたるグルジアを執拗に攻撃し、荒廃させた。

1392~1396年、五年征戦。イランを完全支配した。

1395年、ティムールは、ジョチウスル首都サライを破壊した。

1398年、ティムールがトゥグルク朝を滅ぼした。首都デリーの住民を虐殺した。

1399~1404年、七年征戦。オスマン朝とマムルーク朝を侵略。

1401年、ティムールがマムルーク朝攻略のためダマスカス包囲。ベルベル人国家(ハフス朝⇒マリーン朝)出身のイブン・ハルドゥーンと会見。

1402年、アンカラの戦い。オスマン帝国に圧迫された黒羊朝の要請で、ティムールがオスマン皇帝バヤジッド1世を破り幽閉した。

1405年、ティムール死去。

 

1428年、ジョチ家のアブル・ハイル汗がウズベク遊牧民を率いて、ティムール帝国サライ政権から独立し、シャイバーニー朝を建国。

その後、アブル・ハイルは、ホラズム、シル川中流域を征服。

1451年、アブル・ハイルは、ティムール朝アブー・サイードの乱に協力して、サマルカンドを奪取。

1456年、アブル・ハイルが、オイラートに敗戦。

1465~1466年、ジョチ家のケレイ汗とジャニベク汗が北方のモグーリスタン辺境へ逃亡し、カザフ汗国を建国した。

1468年、アブル・ハイル死去。多くのウズベクウルスがカザフ汗国に吸収されていった。

1496~1497年、アブル・ハイル孫のムハンマド・シャイバーニー汗がウズベク遊牧集団を再結集した。シャイバーニーは、ティムール家バーブルにサマルカンドを奪われるが、3か月で奪還。

1506年、ティムール帝国スルタン・フサイン死去。

1507年、シャイバーニーが、ヘラート政権を占領して、ティムール帝国を滅ぼした。

1508年、シャイバーニーが、モグリースタン汗国を滅ぼした。

1510年、シャイバーニーがメルヴの戦いで、サファヴィー朝イスマーイールに敗死。

1511年、バーブルがイスマーイールの援軍を得て、サマルカンド奪取。

1512年、ウズベク軍がバーブル軍に勝利。バーブルはアフガニスタンへ逃亡。

1526年、バーブルがパーニーパットの戦いで、ロディー朝を破って、ムガール帝国を建国。

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1352年、白羊朝のクトゥルグ・ベグとトレビゾンド帝国のアレクシオス3世の妹マリア・デスピナが婚姻。

白羊朝初代王 カラ・ヨルク・ウスマーン・ベグ

黒羊朝3代王 カラ・ユースフ

ティムールに抵抗して敗れた黒羊朝のカラ・ユースフと、同じくティムールに抵抗して敗れたジャライール朝のアフマッドが、オスマン帝国に亡命するも幽閉された。1404年、ともに釈放された。

1405年、ティムール死去

1406年、黒羊朝のカラ・ユースフがティムール帝国のミーラーン・シャーに勝ち、アゼルバイジャンを奪還した。

1410年、ジャライール朝のアフマッドが黒羊朝からタブリーズを奪った。黒羊朝のカラ・ユースフは、アフマッドを破り絞首刑に処して、タブリーズを奪還した。養子ピル・ブーダーグをタブリーズ太守に据えて、タブリーズを黒羊朝の首都と定めた。

1419年、黒羊朝のカラ・ユースフ死去。カラ・イスカンダルが4代王となった。

1420年、黒羊朝のカラ・イスカンダルが、ティムール帝国シャー・ルフに敗れた。

1433年、黒羊朝のシャー・ムハンマドがバクダードを征服。父と仲たがいになり、バクダード太守はアスパンドに移った。

1435年、エルズールムの戦い。白羊朝のカラ・ヨルク・ウスマーン・ベグが黒羊朝のカラ・イスカンダルを破るも、重傷を負い死去。オスマン帝国に逃げた黒羊朝のカラ・イスカンダルがカラ・ヨルク・ウスマーン・ベグの墓を暴いて遺骸をマムルーク朝へ送った。

1437年、カラ・イスカンダルが甥に殺害され、ジャハーン・シャーが黒羊朝5代王となった。シーア派を信仰。

1447年、ティムール帝国シャー・ルフ死去。黒羊朝のジャハーン・シャーがティムール領土を蚕食して領土を拡大した。

1453年、ビザンツ帝国滅亡。byオスマン皇帝メフメト2世

1461年、トレビゾンド帝国滅亡。byオスマン皇帝メフメト2世

1463~1464年、オスマンvsヴェネツィア紛争。カテリーノ・ゼノ使節が1471年までダブリーズに滞在し、ウズン・ハサンの妻の姪を娶り、ヴェネツィアと白羊朝の同盟を強化した。

1464年、ヴェネツィアはキプロスを領有しており、白羊朝がヴェネツィア艦隊から重火器供与を受け取るためには対岸のアナトリア海岸を確保する必要があった。折しもカラマン君侯国で王イブラヒームが死去、兄イシャークが弟ピール・マフマッドに追われ、ウズン・ハサンに救援を求めてきた。

1467年、白羊朝のウズン・ハサンが黒羊朝のジャハーン・シャーを殺害し、黒羊朝を滅ぼした。ディヤルバクルからタブリーズへ遷都。

1469年、白羊朝のウズン・ハサンがティムール帝国7代ハンのアブーサイドを殺害し、ティムール帝国は領土縮小され、サマルカンド政権とヘラート政権に分裂して互いに内紛した。

1472年、オスマン皇帝メフメト2世が、カラマン君侯国を攻撃。

1473年、バシュケントの戦い。白羊朝騎兵軍は、オスマン帝国と戦争中のヴェネツィア共和国から火器を受け取れず。火器を駆使したオスマン帝国軍が勝利。

 白羊朝ウズン・ハサン ⚔ オスマン帝国メフメト2世

1473年、ウグルル・ムハンマドがシーラーズで反乱。すぐ鎮圧。

1474年、ウヴァイスがルーファーで反乱。すぐ鎮圧。

1478年、ウズン・ハサン死去。カーリールがスルタンを継ぐも殺害された。

そのあと、ヤークーブがスルタンを継ぎ12年間白羊朝を治めた。オスマン帝国バヤジッド2世、マムルーク朝カーイト・バーイと和平を良好に保ち、帝国内を安定化させた。

1488年、ダルタナットの戦い。「アルダビールの聖者」と呼ばれたサファヴィー家ハイダルがヤークーブに挑んで敗戦。

1490年、ヤークーブ死去。白羊朝スルタン後継者争いが激化。

1494年、サファヴィー家イスマーイールが10歳でサファヴィヤー教団リーダーに就任。

1501年、サファヴィー家イスマーイールが、十二イマーム派(正統シーア派)を信仰するサファヴィー朝を建国。シャルールで白羊朝のアルヴァンドを破った。

1502年、イスマーイールがダブリースで帝位につく。

1503年、イスマーイールが白羊朝のムラードをハマダーンで破った。ムラードがバクダードからオスマン帝国に亡命。

1507年、イスマーイールが白羊朝のアルヴァンドをマルディーンで破り、白羊朝滅亡。

サファヴィー朝は、トルクメンを武官に、イラン人を文官に重用した。

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のちにムガール帝国を建国したバーブルと、イスマーイールの親しい関係について。戦争にまきこまれたバーブルの姉を、王族扱いで丁重にバーブルのもとにイスマーイールが送り届けたことがきっかけ。

イスマーイールの熱烈なシーア派信仰に敬意を表して、シーア派の服を脱がなかったバーブル。

サマルカンドはティムール帝国ではなく、ウズベク族のシャーバーニー汗の手にうつっていた。民衆は、バーブルの血筋の良さに歓呼して迎え入れようとしたが、バーブルがシーア派の服をかたくなに脱がなかったことに失望が広がり、バーブルはウズベキスタンを去ることになった。結局、空白地帯と化していたアフガニスタンのカーブルに拠点を置いて、インド・デリーを攻めたのであった。本来、イラン高原を目指すべきだったのだろうが、イスマーイールとの友情がそうさせなかった。宮脇淳子先生の講義でバーブルの話を聞いたが、「インドは暑い。こんなとこ、もういやだ。」といつも言っていたそうだ。

シャーバーニー汗は、サファヴィー朝に無謀にも挑んで滅ぼされ、ウズベク族はサファヴィー朝の傘下に甘んじることになった。

 

東にサファヴィー朝、西に神聖ローマ帝国と戦ったオスマン帝国の武勇伝は、世界史教科書に太字で書かれてあるし、オスマン帝国衰退滅亡過程は大学入試頻出問題である。

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