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2025年5月31日 (土)

宝塚歌劇星組DVD「眩耀の谷」「Ray」をみて

明日は、まこっちゃん退団千秋楽。代表作を振り返りました。まこっちゃん、完璧、貫禄十分だわ。

瞳花は難しい役、同じ瞳でも有沙ならもっとうまく演じられたはず。出世欲に駆られた父に殺されたこどもにも心を配らねば。泣いてばかりではなく母としての芯の強さも出して。芸達者が多かった星組、専科生より星組生にもっとセリフが欲しかった。

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いま流行っている病気

1 ヒトメタニューモウィルス感染症

2 感染性胃腸炎

3 マイコプラズマ

4 水痘

5 溶連菌感染症

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2025年5月29日 (木)

奈良国立博物館「超国宝展」(後期)をみて

10時半、大和西大寺を出発し、奈良国立博物館に行ってきました。チケットは買ってあったのですぐ入場できたのですが、館内は人混みが凄かったです。11時~14時半までじっくり観ました。

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後期のみの出品を中心にひととおり観ました。

七支刀 石上神宮 何度も観ました。

百済観音 法隆寺 額に碧玉が3個。

如意輪観音半跏像 中宮寺

 

絵巻物シリーズ

華厳五十五所絵巻 東大寺

 善財童子の物語。法宝髻長者との出会いのシーン、多宝塔の内部にもしっかり人物が細かく描かれていた。

地獄草紙 後白河法皇の趣味

餓鬼草紙 後白河法皇の趣味

一遍聖絵

 

西大寺シリーズ

叡尊坐像 

金銅透彫舎利容器 受戒弟子の名前が列挙。

金銅宝塔

鉄宝塔

 

若冲 雪中鴛鴦図

若冲 大鶏雌雄図

 

真筆シリーズ

賢愚経(大聖武) 聖武天皇

久隔帖 最澄

金剛般若経開題残巻 空海

大毘盧遮那成仏神変加持経 吉備由利(吉備真備娘)

板渡しの墨磧 無準師範

 

藤原道長経筒 金峯神社

金峯山経塚出土品(白河上皇) 金峯山寺

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2025年5月26日 (月)

ティムール帝国、黒羊朝、白羊朝、シャイバーニー朝

モンゴルが去って世界がホッとしたのも束の間、征服者ティムールが爆誕。ハン(汗)はチンギスハンの血を継ぐものしかなることを許されなかった。オイラートのエセン汗のように簒奪したものは殺害された。ティムールはチンギスハン末裔の娘婿だったので、キュレゲン(駙馬)と称した。オゴデイ家末裔をハンに傀儡として据えた。ティムールはトルコ化したモンゴル人で、トルコ語を話し、公式にはイスラムを信仰した。尊敬してやまないチンギスハン(モンゴル人)は元来シャーマニズム信仰だったので、同じイスラムでも神秘的なスーフィズムに惹かれていった。帝国領内の信仰の自由は認められた。兵のなかには仏教徒もおり、イスラムは敗戦イスラムを奴隷にできなかったが、ティムールは平気で禁を破った。息子の代に奴隷身分から解放された。

ティムールにとって、崇拝するチンギス帝国を北へ駆逐した大明帝国に対し聖戦を与えることが大目的で、後顧の憂いを絶つために周囲諸国を制圧したに過ぎなかった。だから深追いはしなかった。(佐藤幸夫先生講義談)

ティムール帝国が短命に終わると、イラン高原に小国家が乱立する混沌とした状態になった。

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ティムール帝国 

 (イラン高原)⇒ 黒羊朝・白羊朝 ⇒ サファヴィー朝

 (中央アジア)⇒ (ウズベク族南下)シャイバーン朝 ⇒ ブハラ汗国・ヒヴァ汗国・コーカンド汗国

*ウズベク族は、ソグディアナにブハラ汗国、ホラズムにヒヴァ汗国を建てた。さらにホラーサーンの領有を目指したが、火器を持ったサファヴィー朝に防がれた。またウズベク族間の争いが絶えず、18世紀初頭にはフェルガナがコーカンド汗国としてブハラから分離した。

北元 ⇒ オイラート ⇒ ジュンガル帝国 ⇒ 新疆自治区(大清帝国)

*カザフ族は17世紀末、東から大中小の3つのオルダに分裂し、18世紀前半にはロシアの宗主権を認めた。さらに18世紀に中央アジアとの貿易に携わるカザンのタタール人の商人や宣教師によってイスラム化を深めていった。

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1303年、ルーム・セルジューク朝が滅亡すると、遊牧トルクメンが群雄割拠。

14世紀後半、遊牧トルクメンがアナトリア東部からイラン高原に進出し、黒羊朝と白羊朝を建国した。

下図は、君侯国の概略図。次のふたつが重要!

4 カラマン君侯国

5 オスマン君侯国(のちオスマン帝国)

ヴェネツィア共和国が領有していたキプロス島の位置も覚えよう。

トレビゾンド帝国は、ビザンツ帝国から亡命したギリシャ人の国。黒海交易のための重要な国で、背後は険しい山脈で囲まれている。オスマン帝国は、この山脈を乗り越えて征服にやってきた。

タマル女王、ルスダン亡き後のグルジアの位置も覚えておこう。

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人望熱く有能な4代モンケ汗が早逝(風土病?暗殺?)したため、5代フビライ汗が元を築けたという話。

元の徴税体制

元は、塩、茶、酒、鉄、竹、醤、暦本、農具など専売制を実施。とくの塩の専売収入が国庫収入の80%を占めた。塩商人は政府発行の「塩引」を銀で買い取ることにより初めて塩を入手できた。そのため中国の膨大な銀が大都に集められた。多くのイスラムを移住させて雲南の銀山を開発させた。中国の銀の6割以上を産出。膨大な銀を元はユーラシア各地のモンゴル人王族に定期的に分配し、各王族がその銀を元手に様々な物品と交易できた。これで10世紀以降、銀不足に悩まされてきた東部イスラム経済はやっと元の経済に戻ることができた。

元は運河を用いて、江南の資本(食料と銀)を私物化した。紅巾軍が江南を攻めるだけで、元が一気に瓦解したのは、皇帝に愛想をつかした正妻一族の協力がなかったからだ。

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トルイ家のフビライ汗(世宗)に逆らった者はみな、オゴデイ家のカイドゥのもとに集まった。フビライとカイドゥは因縁の敵だったが、フビライの死後、カイドゥが元を攻めるつもりが、カイドゥの臣下が次々と次の元皇帝テムル(成宗)に投降した。これ、カイドゥの大誤算だった。カイドゥの死後、カイドゥ王国後継者だったチャガタイ家のドゥアがテムルに恭順して、大元ウルス体制に回帰できた。ドゥアは、大ハン・テムルの権威を借りて、中央アジアのカイドゥ家とオゴデイ一門を封じ、チャガタイ家のドゥア世襲のチャガタイウルスを建てた。

ドゥアの子孫がモグーリスタン汗国を建国するが、周囲諸国に翻弄され、1508年にシャイバーニー朝によって滅亡した。

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カイドゥウルスからチャガタイウルスへ。

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1340年代、チャガタイウルス東西分裂。

東チャガタイ汗国 遊牧民 反イスラム 「モグール」と称した。

 ハン(汗)のトゥグリク・テミュルが西チャガタイ汗国を滅ぼし、自らイスラムに改宗した。

西チャガタイ汗国 定住民 親イスラム 「チャガタイ」と称した。

 アミール(総督)のカザガンが、ハン(汗)のカザン・スルターンを破り、傀儡ハンをたてた。

1361年、西チャガタイ汗国バルラス部出身のティムールが、トゥグリク・テミュル率いるモグール軍について、故郷周辺を制圧した。

1362年、ティムールは、アミールのフサインと協力して、モグール軍を裏切った。

1364年、ティムールとフサインがモグール軍を駆逐した。

1370年、ティムールがフサインを破り、オゴデイ家のソユルガトミシュを傀儡ハンにたてた。フサインの妻の一人、チャガタイ家のカザン・スルターンの娘、サライ・ムルクを娶り、自らキュレゲン(駙馬)と称した。

白羊朝のカラ・ヨルク・ウスマーン・ベグはティムールに協力して、ティムールに逆らいマムルーク朝に接近した黒羊朝のカラ・ユースフからディヤルキバルを奪った。

1386~1388年、三年征戦。ジョチウルス(キプチャク汗国)のトクタミシュ汗と対立。キプチャク軍のイラン進入路にあたるグルジアを執拗に攻撃し、荒廃させた。

1392~1396年、五年征戦。イランを完全支配した。

1395年、ティムールは、ジョチウスル首都サライを破壊した。

1398年、ティムールがトゥグルク朝を滅ぼした。首都デリーの住民を虐殺した。

1399~1404年、七年征戦。オスマン朝とマムルーク朝を侵略。

1401年、ティムールがマムルーク朝攻略のためダマスカス包囲。ベルベル人国家(ハフス朝⇒マリーン朝)出身のイブン・ハルドゥーンと会見。

1402年、アンカラの戦い。オスマン帝国に圧迫された黒羊朝の要請で、ティムールがオスマン皇帝バヤジッド1世を破り幽閉した。

1405年、ティムール死去。

 

1428年、ジョチ家のアブル・ハイル汗がウズベク遊牧民を率いて、ティムール帝国サライ政権から独立し、シャイバーニー朝を建国。

その後、アブル・ハイルは、ホラズム、シル川中流域を征服。

1451年、アブル・ハイルは、ティムール朝アブー・サイードの乱に協力して、サマルカンドを奪取。

1456年、アブル・ハイルが、オイラートに敗戦。

1465~1466年、ジョチ家のケレイ汗とジャニベク汗が北方のモグーリスタン辺境へ逃亡し、カザフ汗国を建国した。

1468年、アブル・ハイル死去。多くのウズベクウルスがカザフ汗国に吸収されていった。

1496~1497年、アブル・ハイル孫のムハンマド・シャイバーニー汗がウズベク遊牧集団を再結集した。シャイバーニーは、ティムール家バーブルにサマルカンドを奪われるが、3か月で奪還。

1506年、ティムール帝国スルタン・フサイン死去。

1507年、シャイバーニーが、ヘラート政権を占領して、ティムール帝国を滅ぼした。

1508年、シャイバーニーが、モグリースタン汗国を滅ぼした。

1510年、シャイバーニーがメルヴの戦いで、サファヴィー朝イスマーイールに敗死。

1511年、バーブルがイスマーイールの援軍を得て、サマルカンド奪取。

1512年、ウズベク軍がバーブル軍に勝利。バーブルはアフガニスタンへ逃亡。

1526年、バーブルがパーニーパットの戦いで、ロディー朝を破って、ムガール帝国を建国。

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1352年、白羊朝のクトゥルグ・ベグとトレビゾンド帝国のアレクシオス3世の妹マリア・デスピナが婚姻。

白羊朝初代王 カラ・ヨルク・ウスマーン・ベグ

黒羊朝3代王 カラ・ユースフ

ティムールに抵抗して敗れた黒羊朝のカラ・ユースフと、同じくティムールに抵抗して敗れたジャライール朝のアフマッドが、オスマン帝国に亡命するも幽閉された。1404年、ともに釈放された。

1405年、ティムール死去

1406年、黒羊朝のカラ・ユースフがティムール帝国のミーラーン・シャーに勝ち、アゼルバイジャンを奪還した。

1410年、ジャライール朝のアフマッドが黒羊朝からタブリーズを奪った。黒羊朝のカラ・ユースフは、アフマッドを破り絞首刑に処して、タブリーズを奪還した。養子ピル・ブーダーグをタブリーズ太守に据えて、タブリーズを黒羊朝の首都と定めた。

1419年、黒羊朝のカラ・ユースフ死去。カラ・イスカンダルが4代王となった。

1420年、黒羊朝のカラ・イスカンダルが、ティムール帝国シャー・ルフに敗れた。

1433年、黒羊朝のシャー・ムハンマドがバクダードを征服。父と仲たがいになり、バクダード太守はアスパンドに移った。

1435年、エルズールムの戦い。白羊朝のカラ・ヨルク・ウスマーン・ベグが黒羊朝のカラ・イスカンダルを破るも、重傷を負い死去。オスマン帝国に逃げた黒羊朝のカラ・イスカンダルがカラ・ヨルク・ウスマーン・ベグの墓を暴いて遺骸をマムルーク朝へ送った。

1437年、カラ・イスカンダルが甥に殺害され、ジャハーン・シャーが黒羊朝5代王となった。シーア派を信仰。

1447年、ティムール帝国シャー・ルフ死去。黒羊朝のジャハーン・シャーがティムール領土を蚕食して領土を拡大した。

1453年、ビザンツ帝国滅亡。byオスマン皇帝メフメト2世

1461年、トレビゾンド帝国滅亡。byオスマン皇帝メフメト2世

1463~1464年、オスマンvsヴェネツィア紛争。カテリーノ・ゼノ使節が1471年までダブリーズに滞在し、ウズン・ハサンの妻の姪を娶り、ヴェネツィアと白羊朝の同盟を強化した。

1464年、ヴェネツィアはキプロスを領有しており、白羊朝がヴェネツィア艦隊から重火器供与を受け取るためには対岸のアナトリア海岸を確保する必要があった。折しもカラマン君侯国で王イブラヒームが死去、兄イシャークが弟ピール・マフマッドに追われ、ウズン・ハサンに救援を求めてきた。

1467年、白羊朝のウズン・ハサンが黒羊朝のジャハーン・シャーを殺害し、黒羊朝を滅ぼした。ディヤルバクルからタブリーズへ遷都。

1469年、白羊朝のウズン・ハサンがティムール帝国7代ハンのアブーサイドを殺害し、ティムール帝国は領土縮小され、サマルカンド政権とヘラート政権に分裂して互いに内紛した。

1472年、オスマン皇帝メフメト2世が、カラマン君侯国を攻撃。

1473年、バシュケントの戦い。白羊朝騎兵軍は、オスマン帝国と戦争中のヴェネツィア共和国から火器を受け取れず。火器を駆使したオスマン帝国軍が勝利。

 白羊朝ウズン・ハサン ⚔ オスマン帝国メフメト2世

1473年、ウグルル・ムハンマドがシーラーズで反乱。すぐ鎮圧。

1474年、ウヴァイスがルーファーで反乱。すぐ鎮圧。

1478年、ウズン・ハサン死去。カーリールがスルタンを継ぐも殺害された。

そのあと、ヤークーブがスルタンを継ぎ12年間白羊朝を治めた。オスマン帝国バヤジッド2世、マムルーク朝カーイト・バーイと和平を良好に保ち、帝国内を安定化させた。

1488年、ダルタナットの戦い。「アルダビールの聖者」と呼ばれたサファヴィー家ハイダルがヤークーブに挑んで敗戦。

1490年、ヤークーブ死去。白羊朝スルタン後継者争いが激化。

1494年、サファヴィー家イスマーイールが10歳でサファヴィヤー教団リーダーに就任。

1501年、サファヴィー家イスマーイールが、十二イマーム派(正統シーア派)を信仰するサファヴィー朝を建国。シャルールで白羊朝のアルヴァンドを破った。

1502年、イスマーイールがダブリースで帝位につく。

1503年、イスマーイールが白羊朝のムラードをハマダーンで破った。ムラードがバクダードからオスマン帝国に亡命。

1507年、イスマーイールが白羊朝のアルヴァンドをマルディーンで破り、白羊朝滅亡。

サファヴィー朝は、トルクメンを武官に、イラン人を文官に重用した。

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のちにムガール帝国を建国したバーブルと、イスマーイールの親しい関係について。戦争にまきこまれたバーブルの姉を、王族扱いで丁重にバーブルのもとにイスマーイールが送り届けたことがきっかけ。

イスマーイールの熱烈なシーア派信仰に敬意を表して、シーア派の服を脱がなかったバーブル。

サマルカンドはティムール帝国ではなく、ウズベク族のシャーバーニー汗の手にうつっていた。民衆は、バーブルの血筋の良さに歓呼して迎え入れようとしたが、バーブルがシーア派の服をかたくなに脱がなかったことに失望が広がり、バーブルはウズベキスタンを去ることになった。結局、空白地帯と化していたアフガニスタンのカーブルに拠点を置いて、インド・デリーを攻めたのであった。本来、イラン高原を目指すべきだったのだろうが、イスマーイールとの友情がそうさせなかった。宮脇淳子先生の講義でバーブルの話を聞いたが、「インドは暑い。こんなとこ、もういやだ。」といつも言っていたそうだ。

シャーバーニー汗は、サファヴィー朝に無謀にも挑んで滅ぼされ、ウズベク族はサファヴィー朝の傘下に甘んじることになった。

 

東にサファヴィー朝、西に神聖ローマ帝国と戦ったオスマン帝国の武勇伝は、世界史教科書に太字で書かれてあるし、オスマン帝国衰退滅亡過程は大学入試頻出問題である。

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2025年5月25日 (日)

大唐帝国の衰退と滅亡

唐朝の財源は塩税。海塩と池塩が大部分を占めた。

1 海塩 山東半島と江准地方

2 池塩 山西省解池 

 青白塩と呼ばれる良質の塩を産出。長安・洛陽に供給されたが、のちに河套部塩池が西夏に領有された。

3 井塩 四川省と雲南省

 井戸を掘って食塩水を汲んだ。水層上に貯まった天然ガスを抜き出して、塩の煎煮に用いた。世界初の天然ガス利用!

4 土塩 山西省北部の硝土から精製

 

西魏に採用された府兵制。府兵とは自銭をきらせて募集した兵。府兵に都を警護させた。九州倭国や百済など周辺諸国を征服したあとは、都護府を派遣し駐留させた。このとき臨時募集した兵には朝廷が金を払った。国庫出費がかさみ、徴税権を有した藩鎮に丸投げしたが、藩鎮では新羅や渤海など異民族反乱に対処できず、複数の藩鎮を合併した節度使を組織した。のち唐は節度使で滅ぶことになるが、節度使設置にはそれなりの理屈があったのだ。当初、臨時職のつもりが、反乱軍の抵抗がひどくて節度使を現地に駐留させる羽目になり、地方に群雄割拠した。

 

755年 安史の乱で、南衙禁軍が壊滅し、神策軍を代表とする北衙禁軍を新編成した。その際、皇帝に身近にいた宦官を神策軍の司令官に任命した。その代表が、宦官の李甫国。

*牛李の党争

官僚の派閥を朋党と呼ぶ。

 牛僧儒派 藩鎮や異民族自立を是認し現実問題に対処していく姿勢

 李徳裕派 没落傾向にある門閥貴族という過去の栄光を脱しきれない保守的な姿勢

魏晋南北朝の貴族勢力は、唐末、五代を経て、宋代になると完全に姿を消し、科挙官僚が政治を牛耳った。家柄や家柄本位の中世的身分秩序が解体し、新たな宋代近世社会に大きく変わった。

 

835年 甘露の変。祖父の憲宗、兄の敬宗を宦官によって殺害された文宗が、宰相・李訓と鳳翔節度使・鄭注に命じて、宦官の仇士良暗殺を謀ったが事前に露見。宦官配下の神策軍によって返り討ちにあった。

唐朝は、安史の乱で山東半島の海塩を失い、裘甫(きゅうほ)の乱、龐勛(ほうくん)の乱が江准地方に勃発し、黄巣の乱で江准地方が荒廃したため、海塩の財源を完全に失った。

874年 王仙芝・黄巣の乱。ともに華北の集団。唐朝は王仙芝を登用し北衙禁軍の下級ポストを与えたが、黄巣にはなんの沙汰もなし。王仙芝と黄巣が反目し別行動をとり、各個撃破された。黄巣は広州を攻めた際、回教徒、ユダヤ教徒、景教徒、拝火教徒を多数殺戮し、唐に繁栄を極めた広州は甚大な被害を受け、以後数十年間は貿易港としての機能が麻痺した。黄巣軍は広州の暑い気候と風土病に罹患し、華北に帰っていった。

882年 黄巣配下の朱温が唐朝に投降、全忠を賜名され、宣武軍節度使に任命された。龐勛の乱鎮圧にあたった突厥沙汰部の李克用が雁門節度使に任命された。朱全忠と李克用が最大のライバルとなった。黄巣の乱鎮圧後、李克用は河東節度使に任命された。

*反乱軍の基盤

 後漢末 黄巾の乱 太平道(道教一派)

 唐末 黄巣の乱 私塩組織

 北宋末 方臘(ほうろう)の乱 明教(マニ教)

 元末 紅巾の乱 白蓮教(仏教念仏集団)

 

885年 僖宗が成都から長安に帰還。宦官の田令孜(でんれいし)が壊滅状態だった神策軍を強化しようとして、河東節度使の李克用と対立。

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2025年5月24日 (土)

宝塚歌劇観劇予定2025

礼真琴退団公演全落選で、3か月観劇なし。パッサァ時代からWトップ状態だったし、まこっちゃんはたくさん観てきたので、もういいかな。6月末から再び攻勢をかけ、花組4回(SS1+S3)、宙組「RED STONE」マイティ&お羽1回良席とつづく。

月組は現在チケット争奪戦中。座長級の白河りり推し。下級生をまとめあげた貫禄の月組トップ娘役になるだろう。あとは星組推しトップコンビあり&うたち梅芸プレお披露目、ダメもとで雪組バウ華世京&華純沙那&白綺華を取りたい。

星組トップ当確御曹司の稀惺かずと君の相手役は、雪組の星沢ありさちゃんと予想しているが、どうなることやら。

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2025年5月14日 (水)

トヨタ水力エンジン自動車

燃料が水道水だけ。水を水素と酸素に電気分解して燃焼させ、水で2500℃のピストンを冷却し、水を排出する。

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2025年5月13日 (火)

上毛野氏

群馬の古墳群や、埴輪群をみて、ちょっと興味がわいた。上毛野氏は、朝鮮半島経営にたずさわり、半島人を多数、馬とともに群馬に連行して帰化させた。東国は小競り合いから大戦まで奈良・平安時代から安土桃山時代までずーっと戦火が絶えなかった。応仁の乱も東国から火が付いた。「東国(バルカン)は日本(ヨーロッパ)の火薬庫。」後世、絹交易の街道沿いにあたり、富岡製糸工場ができた。

上毛野氏はもともと渡来系の意富(おう)氏・大(おう)氏。東国で、膳氏、大伴氏、中臣氏などを束ねていた。その全集団が物部氏で、そのうち星信仰をもつ異端分子が新たに出雲氏を名乗って、出雲に西遷、壬申の乱で戦功をあげた。

陸軍の意富氏、海軍の阿曇氏・胸形氏・和爾氏

3世紀、弥生時代後期~古墳時代前期には、北九州(倭氏)、吉備(吉備氏)、大和(葛城氏)、毛国(上毛野氏)、房総(忌部氏)がほぼ同時に繁栄していた。

3世紀中頃 箸墓古墳 278m

3世紀中頃 赤村内田古墳 235m

 埴輪がない殉葬墓 卑弥呼?

3世紀中頃 沖出古墳 68m 旧菅原伏見町

 垂仁天皇陵?

4世紀初 忠隈古墳

 金銅製四葉座金具(西晋) 台与?

4世紀末 浅間山古墳 172m 

 佐紀陵山古墳に相似

5世紀前半 太田天神山古墳 210m 

 東国最大の前方後円墳

 古市・百舌鳥古墳に相似

 水鳥形埴輪を採取

5世紀中頃 お富士山古墳 192m

 古市・百舌鳥古墳に相似

 

出土物から、

 ヤマト政権 主に百済・伽耶と交流

 倭京政権  主に馬韓と交流

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503年 隅田八幡神社人物画像鏡(和歌山) 紀氏は倭氏の「姫氏」と同族。

 日十(にちじゅう)大王 日輪、10個の太陽を光背にもつ阿弥陀仏の化身。菩薩天子だった磐井(倭薈)のこと。

 孚(ふ)弟王 磐井の弟、倭孚のこと。磐井(倭薈)と兄弟統治していた。

 斯麻(しま)王 百済の武寧王

527年 磐井の乱

534年 武蔵国造の乱

 笠原使主(おみ)と笠原小杵(おさ)の抗争。

 

磐井(倭薈・倚薈・猗㺞聖王)の乱の実態は継体の乱。入れ墨の兄・菩薩天子と兄弟統治した倭京に羅城を築き、ヤマト政権と一線を画した治外法権。百済や新羅の交渉相手は欽明以前から漢字、元号、貨幣、条坊制、仏教文化を取り入れていた倭京政権。共同戦線を張って百済復興のため白村江に乗り込んだが、ヤマト政権が大唐帝国との密約で中立を保って帰還、政権簒奪。壬申の乱で意富氏の援軍を受け、倭京政権が復讐する。

新薬師寺本尊の薬師如来は、本来、阿弥陀如来。胸の卍入れ墨が最近故意に消されたが、磐井(猗㺞聖王)がモデル磐井殺害の後、復讐のため継体親子を殺害。観世音寺にあった三十三間堂は、磐井の従軍兵を慰めるために建立され、後世、後白河法皇が運慶や快慶の像を加え、京都七条に移築した。

ヤマト大王 意富氏

倭王    倭氏⇒天氏(阿毎氏)  天皇と号した際に改名?

天武天皇=大海人=意富+天  両王朝を仲介?

若狭徹先生は、群馬の歴史学者で、なかなか詳しい。

5世紀後半 井出二子山古墳 108m 

 大伽耶王墓と同じ品を所持

 雄略大王の傘下

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5世紀後半 埼玉稲荷山古墳 132m

      江田船山古墳 62m

渡来人の役割

1 馬の生産

2 治水・農業土木技術

3 軍事

6世紀 ヤマト政権が全国に国造・屯倉を設置名代・子代の設置部民制・氏姓制の創始

607年、天足彦(上宮法皇)が古和同(和同開珎)を発行。隋の隷書体が用いられている。

645年、大化改新により評制の施行

646年(命長7・大化2)、天智天皇が新和同(和同開珎)を発行。唐の隷書体が用いられている。

672年、壬申の乱。

701年、倭国滅亡により郡制の施行

 

古墳の勃興・発展・衰退のモデル

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古墳時代前期

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古墳時代中期

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古墳時代後期

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尾張の古墳群

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6世紀前半 断夫山古墳 150m

 尾張草香を被葬

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2025年5月 9日 (金)

ローマ教皇レオ14世

教皇レオの有名な先輩方を列挙。共通テストにも出題されるかも。

レオ1世 フン族(北匈奴)のアッティラと談判し押し返す。

レオ3世 カール大帝戴冠式

 *ビザンツ皇帝レオ3世 偶像禁止令 (間違いやすい)

レオ9世 東西教会分裂 (カトリックvsギリシャ正教)

レオ10世 ルター宗教改革と対決

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2025年5月 8日 (木)

第128回日本小児科学会に参加して

日本専門医機構 小児科専門医更新

(ⅱ)単位 医療安全 0個ゲット。通算4個/1個以上

      感染対策 0個ゲット。通算4個/1個以上

      医療倫理 0個ゲット。通算4個/1個以上

       合計10個/3個以上10個まで

(ⅲ)単位 9個ゲット。通算33個/24個以上

(ⅳ)単位 0個ゲット。通算5個/6個まで

 (ⅱ)(ⅲ)(ⅳ)すべての合計48個/40個以上

あとは100症例10単位を添えれば、58単位/50単位以上でアガリ。

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2025年5月 3日 (土)

OSK日本歌劇団OG公演「Forever Dream」をみて

午後、近鉄で嫁と難波松竹座に行きました。2階後部やや下手側、空席がかなりあって、ゆったりと座れました。客席降りがありましたが、なんともできず、花道も見えませんでしたが、ゆったり座れて2階男性トイレが近かったことがメリットかな。

第一部は、日本舞踊から、舞美りらちゃんダンス付きシャンソン、驚きの若木志帆ちゃん極楽鳥付きサンバ、懐かしい湖上芽映ちゃんによる「レディ・アンをさがして」再演。まだまだ若いね。美貌の美森あいかちゃん、美貌の美郷いつきちゃん健在。あの当時のOSKは層が厚く、真矢みき時代の宝塚歌劇を超えていたと思う。あやめ池駅改札を会釈だけで定期券なく「はいはい、どうぞ」的に通過できた、グレーの制服を着た美女軍団から出発してたんだね。

第二部は、ルネッサンス、大貴誠さん司会で近鉄時代から松竹時代に生まれ変わった楽曲中心に展開。舞美りらちゃん&麗羅リコちゃんのヒョウ柄アフリカンダンス、桜花昇ぼるさん&美森あいかちゃんデュエットなどトップスターさんたちのコーナーで締めに入りました。

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2025年5月 1日 (木)

京都国立博物館「日本、美のるつぼ」をみて

朝10時過ぎ、近鉄特急で嫁と京博に行ってきました。

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北斎コーナーのせいで3階が大混雑ということで、1階⇒3階⇒2階の順に観ていきました。

1階 南蛮コーナー

オランダ東インド会社VOCの遺物が世界にほぼ残っていない中、多くの展示があって目を見張りました。ダントンがフランス東インド会社絡みで汚職事件を起こし、ナポレオンがオランダ本国を滅ぼしました。バタヴィアのオランダ東インド会社をフランスに明け渡せと言われましたが、会社員たちが断固拒否、抵抗してバタヴィア共和国を名乗って独立しました。ナポレオンの流刑後、ウィーン会議でオランダ再興、オランダ東インド会社も日蘭貿易を継続しました。

鳥獣文様綴織・陣羽織 高台寺

豊臣秀吉着用の陣羽織。ペルシャ絨毯で絵柄が派手。

紺糸威南蛮胴具足

榊原康政着用の西洋風甲冑具足。

双耳脚付ガラス杯 曼殊院

桂宮(良尚法親王)がオランダ製グラスを使用してワインを飲んだ。

唐鏡 本満寺

オスマン帝国からヴェネツィア共和国がワニス(西洋ニス)の技法を学び、金、赤、青、緑の彩色を用いて花唐草を描いた。天英院(6代家宣の嫁・近衛煕子)が所有。

貝貼小洋櫃 

マレーやインドネシアをイスラム商人、ポルトガル商人、グジャラート商人が相戦って席巻したが、インド・グジャラート産工芸品だわ。

青海波文蒔絵螺鈿洋櫃

グジャラートがポルトガル、大英帝国に支配され、グジャラート工芸技術を取り込み、さらに日本の蒔絵技術も取り込んだ南蛮漆器。文明のザ・合体!!日本人が作製したと考えられている。

花鳥蒔絵螺鈿角徳利

オランダ東インド会社が平戸からオランダやインドに輸出した。

黒檀椅子 南禅寺

オランダや大英帝国で大流行したインド・コロマンデル製椅子。以心崇伝が使用した。

木彫交椅 

黒檀椅子をオランダで改良したもの。

花唐草蒔絵螺鈿交椅

木彫交椅をさらに日本に特注で改良させたもの。

ヨーロッパ宮殿を飾った伊万里焼

オランダ東インド会社VOCが日本から輸出した。

ギヤマン金彩模様角瓶

オランダ東インド会社のオランダ製交易商品。

楼閣山水蒔絵角徳利

神聖ローマ帝国リューネブルク公アントン・ウルリヒが日本製の徳利を収集。東洋漆器の収集家だった。

楼閣山水蒔絵水注

マリーアントワネットが同一製品を使用した。

牡丹唐草螺鈿経箱 本法寺

法華経を狂信した本阿弥光悦が作製使用した。江戸時代前期、朝鮮螺鈿が大流行した

牡丹唐草螺鈿衣装箱

毛利氏が所有。朝鮮通信使は下関、上関の御馳走所に立ち寄るので、その際に贈られたもの。

シーボルト肖像画

お付きの絵師オランダ人デ・フィレネーフェが描いた。

富士山図

カピタン(商館長ヘンドリック・ドゥーフ)が出島から江戸徳川に挨拶に行く道中、あちこち周囲を観ることを厳禁されていた。国防対策ゆえ。そんなオランダ人ヤン・フレデリック・フェイルケが一瞬垣間見て目に刻み込んで走り書きした富士山の絵。富士山の雪が深いので真冬だったんだね。

蘭人行楽図

大田南畝が描いた。出島の狭いところに閉じ込められたカピタンたち。イライラ・ムラムラもするわな。日本人娼婦は出島へ出入りが許されていた。

南蛮絵画の日本人先駆者たちは、小野田直武(秋田藩)田代忠国(秋田藩)司馬江漢亜欧堂田善(白河藩)。平賀源内が秋田藩に西洋画法を伝えた。

吉備大臣入唐絵巻

李訓墓誌

吉備真備直筆の墓誌!

3階 万博陳列品

髹漆見本軍配形衝立

1873年ウィーン陳列。橋本市蔵が作製。

色紙団扇散蒔絵料紙・硯箱・印籠・根付

1873年ウィーン陳列。

ルイ・ゴンス著 「日本美術」 

1878年パリ陳列。通訳・林忠正が援助。

葛飾北斎 「富嶽三十六景」

いい仕上がりの摺り絵だった。

金彩色絵人物花鳥風景文四方花瓶

1878年パリ陳列。水埜鐘之助(芸名は香甫)が作製。

旭焼釉下彩葡萄文陶板

京都舎密局(旧制三高)教師だったドイツ人ゴッドフリード・ワグネルが作製。

上絵金彩龍鳳文獅子鈕飾壺

1893年シカゴ陳列。錦光山宗兵衛が作製。

観音菩薩立像 法隆寺

651年7月10日に崩御した笠左古のために、故児と叔父が造った。

菩薩半跏像 法隆寺

606年、高屋大夫が韓夫人・阿麻子のために造った。

風神雷神図屏風 俵屋宗達

方格規矩四神鏡 

235年(青龍三年)魏鏡だ。

高松塚古墳壁画

高句麗4夫人、お久しぶり。

三彩明器

唐のソグド人、異形の顔・顔・顔。

五月一日経 

光明皇后が父・藤原不比等と母・県犬飼三千代の追善菩提を弔った。

蟠龍石柱

長安・青龍寺から京都・安祥寺に留学僧が持って帰った。

油滴天目 建窯

青磁花瓶 龍泉窯

玳玻天目 吉州窯

楼閣人物螺鈿印籠

足利義政の遺品で、中国文人が彫られている品が大好きだった。

三葉環頭大刀 心合寺山古墳

観れてよかった。

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