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2024年12月30日 (月)

古代東アジア史通観

来年大変動する中国はしっかり勉強しておく必要がある。

朝鮮半島はもともと小国がばらばらに群がっているのが基本であって、小国分立の倭と同じイメージをまず持っておくべきだ。北半分は中国の先進国家が侵略した。南半分はもともと倭人が住んでいたところ、北方の他民族にじわじわと混血浸食されてきた。ベトナムと同じ歴史だ。

ユーラシアの東西にあった漢とローマ帝国は、ともにシルクロード交易に関わっていたが、多くの黄金が西アジアとインドに流出した。漢とローマ帝国は衰亡し、アクスム王国とササン朝ペルシャとクシャーナ朝(大月氏)が繁栄を極めた。

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呉 姓は姫 姫→倭→紀

越 姓は

春秋時代の呉と越の民は台湾、琉球、薩摩、日向、筑紫に渡来したのだろう。楚に敗れた「呉越同舟」が向かった先は倭国だった。弥生時代の交易品は、琉球の貝輪(ゴホウラ・イモガイ)など。長江の稲作が伝来した。

*上古八大姓 羌(きょう)・姫(き)・姚(よう)・嬴(えい)・姒(じ)・妘(うん)・嬀(き)・姞(きつ)

梁(菩薩天子の南朝国)の宝誌和尚が、東海姫氏が倭国にいると記している。倭五王(倭讃・倭珍・倭済・倭興・倭武)はもともと呉王泰伯の子孫、姫(き)氏で渡来後に倭(い)氏を名乗った。倭は国名ではなく姓であることが判明している。

越の大王、乎富等(をほど)、男大迹(をほど)の姓はもともと姒? 糸魚川の翡翠勾玉を交易品として繁栄したのか?

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鬼道を奉じた吉備の両面外交。前方後円墳や埴輪を未開だった平和な大和朝廷に教え、国際戦争に加担した九州倭国の植民地だった任那や馬韓へ援軍を派遣した。宗教は軍事力を強化する。安羅国・金官加羅(任那)から大加羅国へ首長が移ったが、大加羅国は倭の支配から独立していたようだ。ほどなく新羅によって滅亡。

大兄は高句麗の官職名。長兄の意味ではない。安閑天皇(勾大兄)、用明天皇(大兄)、押坂彦人大兄、山背大兄、古人大兄、中大兄など継体天皇関係者に高句麗の官職名が付くし、飛鳥寺は高句麗の慧慈とゆかりが深い。元来、高句麗は百済の不倶戴天の敵。百済挟撃を睨んで、大和朝廷と高句麗が親交を結んでいたとも考えられる。百済は479年、高句麗の長寿王によって一度滅ぼされてからは九州倭人と百済人の混血王が擁立され、百済は九州倭国と一心同体。九州倭国は装飾古墳と石人と甕棺が特徴。前期難波宮には百済渡来人の遺物が圧倒的多数みつかっており、九州倭国の副都と考えられている。主都は大宰府(倭京)。

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倭武は宋が滅び格下の斉に対して朝貢したが、一気に冷めた。北魏が朝貢航路を遮ったのもある。

475年、高句麗僧・道琳の謀略で百済の国力が衰亡し、高句麗の長寿王が百済の蓋鹵王を侵略。

百済の蓋鹵王(がいろおう)は北魏へ朝貢をはじめ、援軍を求めたが、再曽桀婁(さいそうけつる)と古尓万年(こにまんねん)の亡命寝返りに会って、漢城を失い処刑死。長男・文周王が解仇(かいきゅう)の裏切りで殺害されて百済が滅亡した。次男・昆支(こんき)=軍君(こにきし)が来日し、倭人とのあいだに嶋君(せまきし)=のちの武寧王が産まれた。昆支は大阪府柏原市の高井田山古墳に葬られている

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前漢・武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、玄菟郡・楽浪郡・真番郡・臨屯郡を設置するも、楽浪郡のみ維持できた。楽浪郡へは遼東半島から水軍を送るか、遼東半島を陸路行進するか、二つの方法で軍を派遣した。

楽浪郡 BC108~313年 武帝が設置

帯方郡 204~314年 公孫康が設置。遼東郡太守の公孫康が楽浪郡を奪って楽浪郡南方に帯方郡を築いた。

17年、呂母の乱。県宰に対し、息子の仇を討った。

18年、樊崇(はんすう)の乱。抽選で劉盆子を擁立。

22年、樊崇、赤眉の乱と号した。劉秀、劉縯、劉玄が挙兵。

23年、劉玄が更始帝に即位。更始帝が長安で王莽を殺害。

23年、隗囂(かいごう)が甘粛で独立。

24年、更始帝、長安に遷都。奢侈な宮廷生活を送る。

25年、劉秀、光武帝に即位。更始帝が赤眉軍に敗れ、劉盆子に譲位するも殺害される。 光武帝、洛陽に遷都。

25年、公孫述が帝位につく。漢の五銖銭をやめ、初めて鉄銭を鋳造した。

27年、樊崇、劉盆子が光武帝に降伏。

30~38年、光武帝、奴婢を次々に解放。

33年、甘粛の隗囂(かいごう)が光武帝に降伏。

36年、蜀の公孫述が光武帝に敗死。光武帝が中華統一。

39年、全国の耕田、人口を調査し、輿地図を作成。

40年、王莽の貨幣改革の混乱を収拾するため、前漢の五銖銭を復活した。

40~42年、ベトナム徴姉妹の乱。

48年、匈奴が南北分裂。南匈奴を漢化し厚遇。

57年、倭の奴国王が後漢光武帝に朝貢。光武帝が印綬を賜った。

58年、光武帝が崩御、明帝が即位。

67年、西域から浮屠(仏教)が伝来した。白馬寺を洛陽に建立。

70年、黄河支流の汴水の治水工事。

85~92年、和帝のとき、西域都護の班超の活躍で、南匈奴・後漢連合軍が北匈奴を滅ぼし、残党がフン族として西遷した。

97年、西域都護の甘英が大秦国を目指したが、安息国(パルティア)で足止め。

100年ころ、許慎・許沖の字書「説文解字」と、前漢からの数学書「九章算術」がまとめられた!

105年、蔡倫が紙を発明!竹簡や木簡に代わり紙が頻用されたのは、2世紀後半から。

107年、安帝のとき、西域都護を廃止。北匈奴が西域諸国を支配した。

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107年、倭の帥升が生口160人を後漢に献上。

107~118年、羌の反乱。

114~118年、神武天皇が東征。長髄彦(ながすねひこ)の耶馬国を滅ぼした。

121年、神武天皇が邪馬台国を建国、奈良橿原神宮or宇佐八幡宮で即位。

127年、順帝のとき、班勇が西域支配。

132年、張衡が候風地動儀(地震計)を発明。

140~150年、羌の反乱。

146~189年、倭の大乱。

159~169年、羌の反乱。破羌将軍の段熲(だんけい)が鎮圧した。段熲は初めて軽装騎兵を側面から遊撃させた。

段熲と袁隗が董卓を重用した。

桓帝(146~168)

霊帝(168~189)

166年、第一次党錮の禁。宦官が士大夫を公職追放した。

166年、大秦国王・安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)に遣漢使。海の道(マリンロード)から日南郡(ベトナム)経由で。

169年、第二次党錮の禁。宦官が士大夫を公職追放・逮捕・誅殺した。

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184年、崇神天皇が四道将軍を派遣。

 丹波道 丹波道主(たにはみちぬし)

 山陽道 吉備津彦(きびつひこ)

 北陸道 大彦(おおひこ)

 東海道 武渟川別(たけぬまかわわけ)

184~185年、黄巾の乱。張角を筆頭とする太平道信者が反乱をおこした。

184~215年、五斗米道の乱。張陵が創始、張衡、張魯と3代にわたり続いた。

187~189年、張純の乱。

188年、馬相の乱。

189年、霊帝外戚の何進が宦官に返り討ちされ、袁紹が宦官を殺害している隙に、董卓が少帝(劉弁)と劉協の身柄を確保。董卓は呂布を取り込んで、丁原を殺害し、全権掌握した。董卓は儒学第一人者だった蔡邕(さいよう)を重用した

190年ころ、張仲景が「傷寒雑病論」を著す。急性疾患は「傷寒論」、慢性疾患は「金匱要略」。張仲景は内科に優れ、華佗は外科に優れた。

190年、董卓が宿敵の皇甫嵩(こうほすう)を逮捕投獄。洛陽から長安遷都後に釈放。朱儁(しゅしゅん)は洛陽に残り、反董卓連合に加わった。

191年、董卓は、大儒学者だった鄭玄(じょうげん)を重用しようとしたが、黄巾軍に阻まれ、鄭玄は徐州の陶謙に身を寄せた

192年、董卓が呂布と王允(おういん)に殺害された。王允が、董卓に泣きすがる蔡邕を殺害した。

高句麗は魏と和議を結び、238年、魏の司馬懿が高句麗の東川王とともに公孫淵を討伐し公孫氏滅亡。東川王が遼東郡に侵略したことに怒った魏の幽州刺史であった毌丘倹(かんきゅうけん)が、244~245年、高句麗を討った。

200年、崇神天皇のとき、卑弥呼が邪馬台国の女王共立。

200年、大加羅の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)=天之日矛(あめのひぼこ)が越の角鹿(敦賀)に漂着。

200年、袁紹が鄭玄を重用した。

200年、官渡の戦い。曹操が袁紹を破る。

208年、赤壁の戦い。孫権が曹操を破る。

211年、渭水の戦い重装騎兵を用いた曹操が、軽装騎兵を用いた馬超を破る。曹操の戦法が段熲の戦法を上回った!

230年、呉の孫権、衛温と諸葛直を、狗奴国(夷州)と東鯷国(亶州)に派遣。

239年、倭の卑弥呼が帯方郡に難升米(なしめ)を派遣。第二代帯方郡太守の劉夏がこれを洛陽に送った。

243年、倭が魏に朝貢。

245年、楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵が濊(わい)を討った。

245年、魏が倭の難升米(なしめ)に黄幢を与えた。

247年、倭の卑弥呼が帯方太守の王頎(おうき)に使者を派遣し、狗奴国の卑弥弓呼との戦闘を報告した。張政を派遣し、邪馬台国と狗奴国の和解を調停した。

248年、卑弥呼が日食で殺害され、台与が即位。

263年、劉徽(りゅうき)が後漢100年ころの「九章算術」の注釈書を著した。円周率を3.14と記した!!

265年、司馬炎が魏を簒奪して晋建国。316年に滅亡。

*司馬懿(い)=司馬仲達の親子関係

(長男)司馬師(し)ー司馬攸(ゆう)ー司馬冏(けい)

(次男)司馬昭(しょう)ー司馬炎(えん)ー司馬衷(ちゅう)ー司馬遹(いつ)・司馬熾(し)

266年、台与が遣晋使。晋式甲冑と晋式帯金具と位至三公鏡を賜った。

283年、司馬炎が義弟の司馬攸(ゆう)を斉王に任じて悶死させる。攸の子が司馬冏(けい)。

290年、晋の司馬炎(武帝)が崩御。暗愚な司馬衷(ちゅう)が恵帝即位。恵帝皇后の賈南風(かなんぷう)が実権を握る。衷の子が優秀な司馬遹(いつ)。

291年、賈南風が司馬瑋(い)を用いて、武帝外叔父の楊駿(ようしゅん)を殺害。さらに司馬瑋を用いて、政敵の司馬亮(りょう)と衛瓘(えいかん)を殺害し、張華(ちょうか)を用いて、司馬瑋を殺害した。張華が善政を布いた。

293年、鮮卑の慕容廆が高句麗の烽上王を討った。

300年、賈南風が謀反の罪で司馬遹を幽閉謀殺。司馬倫(りん)と孫秀が、司馬冏(けい)と司馬肜(ゆう)と共謀して、賈南風と張華を処刑。

301年、司馬倫が司馬衷から譲位を受けたが、司馬冏が司馬倫を殺害。

303年、司馬乂(がい)が司馬冏を殺害。

司馬乂 vs 司馬穎(えい)・司馬顒(ぎょう)  引き分け

司馬王瑚&司馬越 vs 陸機・張方  *将軍

304年、司馬越(えつ)が、補給援軍不足に陥った司馬乂を裏切り、張方に連れ去ってもらい火刑に処してもらった。

司馬越・烏桓・鮮卑 勝 vs 司馬穎(えい)・匈奴 敗

304年、匈奴の劉淵が漢を建国。

司馬越・烏桓・鮮卑 勝 vs 司馬顒(ぎょう) 敗

307年、司馬越が恵帝(司馬衷)を毒殺し、司馬熾(し)が懐帝として即位。王衍(おうえん)を抜擢した。

308年、王衍が、漢の王弥と石勒を破った。

司馬越・王衍 vs 懐帝  司馬越が戦死。

311~313年、永嘉の乱。石勒が、助命を乞う王衍を破り殺害。漢の劉聡・石勒・劉曜・王弥が懐帝を捕縛。2年後、劉聡が懐帝を殺害。司馬鄴(ぎょう)が漢中で愍帝(びんてい)として即位。

313年、高句麗の美川王が楽浪郡を滅ぼした

314年、高句麗の美川王が帯方郡を滅ぼした

316年、漢の劉曜が愍帝を破り捕縛。

317年、漢の劉聡が愍帝を殺害。司馬睿(えい)が建康で元帝として即位し、東晋を建国した。

318年、漢の劉聡が死去。

319年、漢の劉曜(匈奴族)が前趙を建国。石勒(羯族)が後趙を建国。

329年、石勒の後趙が劉曜の前趙を滅ぼした。

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337年、慕容皝が前燕を建国。

342年、慕容皝が高句麗の故国原王を破った。

346年、旧帯方郡に肖古王が百済を建国。

369年、雉壌の戦いで、肖古王が故国原王を破った。

370年、氐の前秦が前燕を滅ぼした。故国原王は前秦と親交を結び、前秦僧・順道が仏像や経文を高句麗に伝えた。

370年、高句麗が新羅を随伴して前秦に朝貢

371年、礼成江の戦いで、肖古王が故国原王を敗死させた。

372年、百済が東晋に朝貢、倭と「七支刀」対等外交を締結した

377年、奈勿王が新羅を建国。高句麗に連れられて朝貢した前秦によって国家承認された。

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383年、淝水の戦いで前秦が東晋に敗れ、急速に崩壊。

384年、慕容垂が後燕を建国。

385年、慕容垂が慕容農に命じて、玄菟郡・遼東郡から高句麗を駆逐。

392年、高句麗の広開土王が百済に侵略。

396年、百済の阿莘王が広開土王に降伏。倭の救援は求めていなかった。再び倭との和親を締結した。

399年、倭が新羅を侵略。高句麗の広開土王は後燕の攻撃をしのぎ、新羅から倭を駆逐した。

402年、高句麗の広開土王が後燕から遼東郡を奪回した。

403年、桓玄が東晋の安帝から譲位され、楚を建国。

404年、劉裕が桓玄を倒して東晋の安帝が復位。

406年、百済の腆支王(てんしおう)が東晋に遣使。

407年、後燕が滅亡。北燕が建国されたが、高句麗と不可侵条約締結。

*倭の五王即位

倭讃 413~438

倭珍 438~443

倭済 443~462

倭興 462~478

倭武 478~507

413年、高句麗の長寿王が倭讃を随伴して、東晋に遣使。西南夷の銅頭大師が東晋に遣使。

414年、林邑国(ベトナム)が東晋に遣使。

420年、東晋が滅び、劉裕が宋を建国。

425年、高句麗の長寿王が北魏に朝貢。

436年、北魏が北燕を滅ぼした。

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479年、宋が滅亡、簫道成が斉を建国。

479年、大加羅の嘉悉王(かしつおう)=荷知王(かちおう)が斉に朝貢。

502年、斉が滅び、簫衍(武帝)が梁を建国。仏教に捨身して「菩薩天子」と呼ばれた。

502年、百済の武寧王が梁に朝貢。

502年、新羅、殉葬禁止令。

504年、高句麗の文咨明王(ぶんしめいおう)が北魏に朝貢。

512年、百済の武寧王が倭に、馬韓の上多利(おこしたり)、下多利(おろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)を併合依頼。

己汶(こもん)、多沙(たさ)の領有を巡り、百済の武寧王と大加羅の異脳王が対立。継体天皇は百済を支援し援軍を送った。

516年、百済が己汶を併合。

521年、百済の武寧王が新羅(法興王)使節を随伴して、梁に朝貢。

529年、百済が多沙を併合。

532年、任那の仇衡王(きゅうこうおう)が新羅に降伏。

550~552年、新羅の北伐。どさくさに紛れて旧百済領だった漢江下流域にまで領有した。

554年、管山城の戦い。漢江奪還のため、百済の聖王が倭の欽明天皇に援軍を依頼し新羅の真興王と戦ったが戦死。大加羅は百済を支援した。

562年、新羅の真興王が金異斯夫(きんいしふ)と金斯多含(きんしたがん)に命じ、大加羅の道説智王を倒して滅ぼした。

564年、新羅の真興王が、北斉と陳に朝貢。

585~587年、丁未の乱。蘇我馬子と物部守屋の戦い。

589年、隋の文帝が中国統一。百済の威徳王が遣隋使。

590年、高句麗の嬰陽王が遣隋使。

594年、新羅の真平王が遣隋使。

598年、隋の文帝が高句麗遠征。

600年、倭の上宮法皇(東の菩薩天子)が遣隋使。

604年、隋の煬帝が即位。

607年、百済の武王が燕文進(えんぶんしん)と王孝鄰(おうこうりん)を派遣して、高句麗征討を煬帝に要請。

607年、大和朝廷の小野妹子と通訳・鞍作福利が遣隋使。

611年、百済の武王が国智牟(こくちむ)を派遣して、高句麗征討を煬帝に要請。

611年、新羅の真平王が円光(えんこう)を派遣して、高句麗征討を煬帝に要請。

612年、隋の煬帝が高句麗遠征。

隋陸軍 宇文愷(うぶんがい)・宇文述(うぶんじゅつ)・于仲文(うちゅうぶん)

隋水軍 来護児(らいごじ)・周法尚(しゅうほうしょう)

高句麗陸軍 乙支文徳(いつしぶんとく)

高句麗水軍 

613年、隋の煬帝が高句麗遠征。楊玄感が兵糧を奪って反乱を起こし、将軍の斛斯政(こくしせい)が高句麗に亡命した。

614年、隋の煬帝が高句麗遠征。来護児が水軍で平壌落城させ、斛斯政を受け取り停戦。

618年、煬帝が宇文化及(うぶんかきゅう)に殺害され隋滅亡。李淵が唐を建国。

618年、倭の上宮法皇が倭京で観世音寺落成式の紅葉賀。ゾウが行進していたそうだ。

619年、高句麗の栄留王が唐に朝貢。

621年、新羅の真平王が唐に朝貢。

621年、百済の武王が唐に朝貢。

626年、李世民が太宗に即位。

630年、倭の利歌彌多弗利が犬上御田鍬を遣唐使として派遣。

642年、高句麗の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)が栄留王を殺害し、宝蔵王を傀儡擁立した。

642年、新羅の善徳女王が高句麗との同盟を画策したが、唐と戦闘準備中の淵蓋蘇文の前に失敗

642年、百済の武王が崩御、義慈王が新羅の善徳女王から旧伽耶諸国を奪回した。

643年、高句麗との同盟に失敗した新羅の善徳女王が遣唐使。百済にとって漢江を新羅に奪われていたのが痛かった。高句麗を経ずに新羅は船で直接、唐に使節を送ることができたからだ。

645年、太宗が高句麗遠征。遼東城など陥落させたところで停戦。

645年、大化改新(乙巳の変)で、親百済の蘇我入鹿が殺害され、蘇我蝦夷が自害。

647年、善徳女王が毗曇(ひどん)の反乱のどさくさで殺害された。金庾信(きんゆしん)が毗曇を破り、真徳女王が擁立された。

647年、新羅の真徳女王が倭との同盟を画策すべく、金春秋を大和朝廷に派遣。倭王は百済王と血統がほぼ同じなので同盟は期待すらできない。高向玄理(たかむこのくろまろ)が応対した。おそらく、中臣鎌足、中大兄皇子を交えて、新羅と不戦密約を結んだのだろう。

648年、新羅の真徳女王が唐との同盟を画策すべく、金春秋を唐に派遣。

648年、唐の太宗が高句麗遠征。

唐水軍 薛万徹(せつばんてつ)・裴行方(はいこうほう)

唐陸軍 李道裕(りどうゆう)

高句麗陸軍 高文(こうぶん)

649年、唐の太宗が崩御、高宗が即位。新羅が唐風に一新した。

655年、百済の義慈王が高句麗・靺鞨とともに新羅の武烈王(金春秋)を総攻撃。

659年、則天武后が反戦派の長孫無忌を殺害し、百済出兵を決定。倭の遣唐使を監禁。

660年、則天武后が百済遠征。黄山原の戦い。

唐水軍 蘇定方(そていほう)。新羅の武烈王は蘇定方の部下になった。

新羅陸軍 金法敏・金庾信・金欽純・金品日

百済陸軍 階伯

661年、則天武后が高句麗遠征。新羅の武烈王崩御、文武王(金法敏)即位。

唐水軍 蘇定方

唐陸軍 契苾何力(けいひつかりょく)

新羅陸軍 金庾信・金仁問 主に兵糧の補給。

663年、白村江の戦い。扶余豊璋が鬼室福信を殺害。百済はいつも内紛で自滅する。倭水軍1000艘のうち400艘が沈没、600艘は戦わずして帰国。

倭水軍 中皇命(なかつすめらみこと)・安曇比羅夫(あずみのひらふ)・河辺百枝(かわべのももえ)・筑紫薩夜麻(つくしのさちやま)・大伴部博麻(おおともべのはかま)

倭陸軍 狭井檳榔(さいのあじまさ)・朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)・上毛野君稚子(かみつけののわかこ)・間人大蓋(はしひとのおおふた)・巨勢神前臣訳語(こせのかむさきのおさ)・阿倍比羅夫(あべのひらふ)・廬原君臣(いおはらのきみおみ)

百済陸軍 鬼室福信・徳執得 *禰軍・黒歯常之・沙宅相如が唐に寝返った。

新羅陸軍 金庾信・金仁問

唐水軍 劉仁軌・杜爽

唐陸軍 劉仁願・孫仁師

666年、高句麗の淵蓋蘇文が崩御、後継者争い。

668年、則天武后が高句麗遠征、滅亡。

旧高句麗 安東都督府 薛仁貴

新羅   鶏林大都督府 文武王

旧百済  熊津都督府 王文度→劉仁願→扶余隆→金仁問

旧倭   筑紫都督府 中大兄皇子→大海人皇子

中大兄皇子が長年、称制を布いて天智天皇に即位しようとしなかったのは、唐側の命令によるもの。668年、天智のを4人娶った、血縁のない年上の大海人皇子への交代を命じられたのであろう。天皇にふさわしい年齢に達しなかったからと多くの学者は言うが、姑息な政権奪取に引け目、あるいは身の危険を感じたのかもしれない。698年、高市皇子(おそらく真の持統天皇)の崩御で、天武系から天智系に政権が傾き、長屋親王が長屋王に格下げされた。全政権を掌握した鸕野讃良が復権させた藤原不比等にとって、この恥ずかしい歴史はなんとしても隠さなければならなかった。

百済は唐におもねったポット出格下の新羅に滅ぼされ、倭は唐におもねったポット出格下の大和朝廷に滅ぼされた。さぞかし民は納得いかなかっただろう。672年、壬申の乱で天智天皇が自害に追い込まれ、弘文天皇が殺害された。このあたりの日本書紀の捏造がひどすぎ。藤原京は唐風への抵抗であり大宰府倭京の復興であり、702年、粟田真人の活躍で則天武后との和解後に平城京を唐風に仕立てた。詳しく教えないのは万世一系にとり不都合な事実が多いからだろう。日本は白村江の戦い以来、本来の幸せな姿を取り戻せていない。

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2024年12月28日 (土)

関目君と九州魂で忘年会2024

午前診を終え、本日で仕事納め。関目君と大和西大寺駅前の九州魂で忘年会。生ビール飲み放題はコースだけでアラカルトでは不可だそうだ。地鶏むねにくゴロ焼きがめちゃうま。王道醤油味のもつ鍋で〆。

関目君が今年雇い入れた女性職員さんの飲みっぷりの話題からスタート。宝塚おとめ2024を見ながら、ヅカバナ。関目君、すっぴんの白河りりちゃんの美貌に惚れ直したとのこと。まちがいなく美人やで。地声で高音低音自在だし、音程はダンスしていてもぜったい外さない。「おんな礼真琴」状態。「奇跡の1枚」と言ってたが、そんなことはない。風間柚乃くんのトップ相手役を、白河りりちゃんと花妃舞音ちゃんが一騎打ちだが、わたしは両方好きなんだよな。

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2024年12月26日 (木)

会社、利権、政治

会社の儲けは、株主、社員、国家(公務員退職金)、渡り鳥高跳びする社長のどれかにいく。最近の若者は社員待遇が厚い会社が人気だという。銀行副頭取あがりの社長は会社を食いつぶす。国の任務は国民の生命を守ること。国は軍隊放棄して国民の生命を外国から守らない。医療福祉は戦時に電気ガスが止まり食料や薬品の流通が止まれば機能不全になる。仮想敵国の中国に学べば、被征服・植民地人には医療も介護福祉も与えられない。

最大の利権団体は、日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ保険。集票能力がすさまじく、世襲化した、人情なき政治家が群がる。世間は日本医師会を利権団体だと過大評価攻撃するが、笑えるわ。医師は会長の言うことなど聞かずに自由に投票している。厚生省官僚が製薬会社と病院の癒着をつぶして、大学教授の権力を落としめたために、へき地医療が崩壊した。教授の絶対命令で若い医師はへき地に赴任しなくなった。教授がご褒美に出す次の良いポジションを約束できなくなったからだ。へき地の病院が製薬会社から受け取った金で黒字にできていたものを、赤字にした。ある意味、製薬会社の自由競争から生まれる利益を、官僚が上納金として全部せしめただけの悪事にすぎない。そこへ世襲化ぼんぼん政治家が群がった。へき地医療をつぶした責任は一切取らない。

昨今の診療報酬改定により、開業医の高齢化閉院が相次ぐだろう。カルテ電子化はしない、レセコンソフトORCAは無料といった事前の国からの口約束はすべて破られ、マイナカード義務化で疲れ果てている。数世代時代遅れ廃棄物扱いのレセコンが、最新パソコンの10倍以上の高価で売れて電機会社は笑いが止まらない。国は内科開業医と小児科開業医から、新たに制度化したプライマリケア専門医への減員を目指している。プライマリケア医はガイドライン遵守の藤原実資といった印象だ。勤務医も病院経営困難で常勤定員が減らされ非常勤で薄給となる。非常勤向けの「働き方改革」で病院に常駐する医師も減少する。国が目標とするヨーロッパ医療の現実は現地在住のYouTuberたちがたくさん報告してくれている。健康保険の多重階層化、長引く順番待ち、たらい回し。

厚労省の製薬会社への薬剤製造ライン締め付けと薬価叩き落としによって、製薬会社はよく効いていた安価な良薬の製造を次々と中止している。レプリコンワクチンにばかり気を取られているあいだに起きている問題だ。

中国武漢が開発した生物兵器・新型コロナウィルス(Covid-19)だったが、中国自身が自爆、反乱で経済音痴の共産党が崩壊危機。これから周期的にパンデミックが日本を襲うだろう。国民の生命はより深刻な危機に陥る。

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2024年12月19日 (木)

宝塚歌劇花組新人公演「エンジェリックライ」(ライブ配信)をみて

豊中出身105期ダンサーの初音夢ちゃんが主演だということで自宅でまったりと観劇しました。あわちゃん、宙組106期の風羽咲季ちゃんと同郷。主演男役のまる(美空真瑠)も歌うまいし運動神経が超抜群だし楽しみ。アズラエルがキャワイイあわちゃん(美羽愛)、ラファエルが豪快なスーパーダンサーのみくる(遼美来)。キャワイイ小悪魔たちは、ゆかりとあゆ。ひめかは歌部門。

朝葉ことのちゃんの代役、花海凛ちゃんが花があって上手かった。

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サロン

ヒマとカネがあれば、アカデミアと多くの子供が生まれる。貴公子なら女子の人気を得てなおさら良き。サロンが政治を動かす。この世の桃源郷の主催者を思いつくままに列挙してみる。

長屋王

藤原仲麻呂(恵美押勝)

嵯峨上皇 with 空海

代明親王

具平親王

選子内親王

定子

彰子(上東門院)

妍子・禎子内親王(陽明門院)

璋子(待賢門院)

得子(美福門院)

暲子内親王(八条院)

後鳥羽上皇 with 源実朝

後醍醐天皇 with 佐々木道譽

足利義満

足利義政

大内政弘・大内義興

大友宗麟

松永久秀

千利休 with 豊臣秀吉

豊臣秀次

ねね

智仁親王(八条宮)

荻生徂徠

懐徳堂

大槻玄沢

平賀源内

木村蒹葭堂

鍋島直正 with 出島通詞連

松阪豪商連(三井グループ)

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2024年12月17日 (火)

尺と条坊制

都城の建設において、内裏建築物のものさしと、道路建設のものさしが異なっていた。2つ別々の工人集団が各々の建築に携わっていたのだろう。

ピョンヤン付近の楽浪郡、ソウル付近の帯方郡が中国の陸堡。東に国境を接した濊(わい)との攻防が続いた。燕(公孫氏・鮮卑慕容部)と沃沮(刀伊・女真)の背面攻撃を受けた高句麗や、高句麗から南下攻撃を受けた百済のような激戦地にのんびりと条坊制の都は建設できない。高句麗や百済は朝鮮式山城建築に長けていた。高句麗は隋の一面攻撃に耐えたが、西の唐、東の新羅の両面同時攻撃に敗れた。地力に勝る扶余は、すぐに渤海を復興した。

新羅王京 真興王(540~576) 羅城がない

倭京(大宰府) 上宮法皇(?~622) 羅城を備えていた

前期難波京 孝徳帝(645~654) 百済土器が最多

畿内の寺院は九州王朝からの移築が多く、畿内原産か九州原産かは、礎石を配置するときのものさしでわかる。突貫工事で移築しているので伽藍配置はあまり意味がない。

甑(こしき)=飯盒。自分のお国の炊飯器でメシくらいは食べたい。甑の産地で帰化人集落の出身地がわかる。

百済土器は難波に多く、新羅土器は出雲に多く、加耶土器は吉備に多い。埴輪信仰のメッカ・吉備は朝鮮経営に熱心だったようだ。蘇我入鹿が斬首された大化改新は難波で起きた事件だったのだろう。

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2024年12月16日 (月)

宝塚歌劇人事2025

月組 嵐のなか無風

 鳳月杏92・天紫珠李101

 風間柚乃(2番手羽根)100・花妃舞音106 or 白河りり103

宙組 大丈夫か

 桜木みなと95・春乃さくら102

 水美舞斗(2番手羽根)95・きよら羽龍104

 鷹翔千空101・山吹ひばり105

花組 2番手は?

 永久輝せあ97・星空美咲105

 聖乃あすか100 or 極美慎100・?

雪組 2番手は?

 朝美絢95・夢白あや103

 瀬央ゆりあ95 or 縣千101・?

星組 さっぱりわからない

 暁千星(2番手羽根)98・?

 瑠風輝98・?

 天飛華音102・?

 稀惺かずと105・?

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2024年12月15日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて48

本日、最終回。刀伊の入寇があっさり終わったのには少し不満が残ったが。マイベスト3は、

第34回 十人十色の家庭や状況で源氏物語を読みまわすシーン

第38回 和泉式部が出仕して、頼通と貝合わせのシーン

第44回 望月の歌詠みで道長が紫式部に笑いかけるシーン

隆家が築いた九州武士との絆が、行成が在京のまま大宰権帥に任じて崩壊。異国からの防衛が手薄に戻った。

藤原長家 明子の子が倫子の養子となる。行成娘と結婚するも早逝。斉信娘と結婚し、行成と斉信の関係が悪化した。

藤原斉信 家人の橘則光が清少納言と結婚。長徳の変を道長に告げ口して以来、伊周の中関白家を見限った。中宮大夫(彰子)⇒東宮大夫(敦成親王)⇒中宮大夫(威子)

菅原孝標 蔵人頭・行成に蔵人として仕える⇒上総介⇒叔母が孝標娘に源氏物語54帖を贈る⇒実資の子・千古の家司⇒常陸介

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一条天皇の寵愛順位は、定子>元子>義子>彰子(おぼこかったから)

飛香舎(藤壺) 彰子 ⇒ 妍子

登華殿 定子

承香殿 元子

宣耀殿 娍子

淑景舎(桐壺) 原子

弘徽殿 怟子 ⇒ 義子

凝華舎(梅壺) 詮子

 

*彰子 飛香舎 ⇒一条院 ⇒枇杷殿(定子没後の脩子内親王を世話する) ⇒高倉殿(頼通邸) ⇒法成寺・東北院 ⇒法成寺・阿弥陀堂で崩御

*脩子内親王 登華殿 ⇒枇杷殿(伊周没後、彰子に引き取られる) ⇒三条宮(三条宮西に住む菅原孝標女に枕草子を贈る)

*妍子 飛香舎 ⇒枇杷殿(禎子内親王と暮らす) ⇒枇杷殿で崩御

*一条天皇 内裏 ⇒一条院 ⇒内裏 ⇒一条院 ⇒内裏 ⇒東三条殿 ⇒一条院 ⇒枇杷殿 ⇒一条院・中殿で崩御

*三条天皇 内裏 ⇒枇杷殿 ⇒内裏 ⇒枇杷殿で崩御

*後一条天皇 一条院 ⇒土御門殿 ⇒内裏・清涼殿で崩御

 

倫子「もう隠し事はないわね。」

藤式部「はい。」

いやいや、賢子が道長の娘という驚天動地の事実を告白してないよね。バレたら賢子は土御門殿から追放される。上流の父と下流の母を持つ「女光源氏」

阿弥陀仏の紐より暖かい藤式部の手に抱かれて、しっぽりと道長が逝く。

彰子、道長になってるやん。

藤式部「嵐が来るわ。」

平忠常の乱が勃発したところで終幕。

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2024年12月14日 (土)

うえだにて王寺君と忘年会2024

通勤帰りの大和西大寺駅で、王寺町の雪丸君と出会いました。聖子ちゃんじゃないけど、もてなさそうな顔にビビビッときました。王寺君曰く、聖徳太子が飼っていた犬だそうです。

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うえだにて料理に舌鼓を打ちました。宮崎牛のみぞれ大根煮が特に美味しかったです。ヅカバナ近況、王寺君の恋人・聖乃あすか君、Mensur, Wein und Wandernの学生が、教授 mit finsterm Amtsgesicht より偉かった大学時代の思い出話に花咲きました。「頼むから、そろそろ勉強してくれないか。」

学生時代はso froh und ungebundenでなきゃ意味がない。いまの大学生は可哀そうだね。

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2024年12月12日 (木)

石清水八幡宮にて紅葉狩り

10:07大和西大寺発の近鉄特急、京阪各停、参道ケーブルを乗り継いで、石清水八幡宮を参拝しました。12:56丹波橋発の近鉄特急で帰還。

楠木正成が植えた楠木、展望台がみどころ。

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2024年12月 8日 (日)

東福寺にて紅葉狩り

9:18大和西大寺発近鉄特急、JRと乗り継ぎ、嫁と東福寺に行ってきました。人出も空いており、臥雲橋も通天橋も写真撮り放題。白湯ラーメンをランチして、12:30京都発近鉄特急で帰宅。

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2024年12月 7日 (土)

鐘方正樹先生「富雄丸山古墳とその時代」を聴講して

午前診を終え、奈良市医師会主催の特別講演会を聴きに、ホテル日航奈良に行ってきました。

蛇行剣は日本沿岸部の古墳(前方後円墳ではなく主に円墳や方墳)で発掘されており、蛇行のくびれが左3か所、右3か所で、七支刀に類似点があることを指摘されました。

蛇行剣は実用性に乏しいので祈祷に使用され、三重県の宝塚一号墳で発掘された国宝・舟形埴輪にあるように、船首部に立てて航海安全と戦勝祈願をしていたのではないかと思われます。被葬者は、主君に仕えた倭国水軍の長か。

§ 弥生墳墓から古墳へ

弥生時代後期後半に、中国の影響を受けて、1.円形墳墓の大型化、2.本槨の出現がみられた。在来的発展として、3.陸橋部の伸展化がみられた。

奈良 2世紀後半の瀬田遺跡が前方後円墳の原型。箸墓古墳に卑弥呼を埋葬したのが、前方後円墳の築造開始。

天理 大和古墳群(前期前半) 竪穴式石槨(木棺)が特徴。

奈良 佐紀古墳群(前期後半) 竪穴式石槨(石棺)あるいは粘土槨(木棺)が特徴。新興勢力として、大型円墳が登場。中期に入ると、帆立貝形古墳が出現する。

奈良 宝来山古墳(前期後半) 垂仁陵。長持形石棺が特徴。

奈良 富雄丸山古墳(前期後半) 360~380年に築造。粘土槨(木棺)。

 *富雄丸山古墳の出土品(盗掘によって散逸している)

蛇行剣、鼉龍文盾形銅鏡(中国の神獣が日本で簡略化されて鼉龍だりゅうに変化した。だりゅう文は日本固有のもの。)

三角縁神獣鏡(天理大学所蔵)、車輪石、中国製斜縁神獣鏡、鍬形石、鰭付円筒埴輪、鰭付盾形埴輪

 

§ 370年前後の東アジア情勢

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前秦↑ ⇒ 前燕↓(高句麗にとって後顧の憂いがなくなった) ⇒ 高句麗↑(南下に専念できた) ⇒ 百済↓(逃げて南に遷都) ⇒ 伽耶↓(百済に圧迫された)

倭は伽耶から鉄を輸入していたので、伽耶が百済につぶされると困る。そこで倭は百済支援軍を派兵して高句麗を北へ駆逐した。百済支援のお礼品として百済王から倭王に七支刀が贈られた。

新たな軍事組織編成により大型円墳を作れるだけの新興豪族が爆誕した。彼らは前方後円墳を作る皇族や豪族たちとは一線を画していた。

 

§ 私の考察

蛇行剣の持ち主は、畿内の人間だったのか?前方後円墳族と一線を画した大型円墳族が忽然と出現している。

蛇行剣は畿内で精錬されたのか?帰化人集団・忍海(おしみ)が製鉄を担当したのか?神功皇后が新羅から拿捕連行し播磨で製鉄させていた。その後は葛城氏の下で製鉄を担当。

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2024年12月 4日 (水)

宝塚歌劇月組「ゴールデン・リバティ」「フェニックス・ライジング」(5回目)をみて

午前診を終え、空いていた近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階ド真ん中、両脇数席が空席になっており、ゆったりと座ることができました。

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どセンターからみると目線が私の大きなオペラグラスに当たるようで、きよら羽龍ちゃん、美海そらちゃん、花妃舞音ちゃん、彩みちるちゃん、彩海せら君、110期最下級生にしてセンターで踊るイケメン・飛翔れいや君と視線がガンガン合い、お羽とマノンちゃんのウィンクをいただきました。お二人とも四つ切ブロマイド買ってます。107期(研4)の一輝翔琉くん、男前みがいてきたね。娘役推しの私も認めるイケメンたち、すげぇ。

客席降りは、左手がお羽(きよら羽龍ちゃん)、右手がアレグリア(瑠皇りあ君)。絶景でした。

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2024年12月 1日 (日)

永観堂にて紅葉狩り

大和西大寺9:05発の近鉄特急、地下鉄を乗り継いで蹴上下車。永観堂へ直行して、南禅寺を散策して帰宅。今日は、紫式部の石山寺が大混雑とかで、南禅寺へ押しかける観光バスも見当たらず、晴天だし、人出はガラガラ、待たずに永観堂に入場でき、本堂、多宝塔、極楽橋を巡り、茶店でまったりと大好きな餅入りぜんざいを食べることができました。

意外と今年の紅葉の出来は悪くなく、透き通るような青空を背景に紅葉狩りが大成功に終わりました。

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