古代東アジア史通観
来年大変動する中国はしっかり勉強しておく必要がある。
朝鮮半島はもともと小国がばらばらに群がっているのが基本であって、小国分立の倭と同じイメージをまず持っておくべきだ。北半分は中国の先進国家が侵略した。南半分はもともと倭人が住んでいたところ、北方の他民族にじわじわと混血浸食されてきた。ベトナムと同じ歴史だ。
ユーラシアの東西にあった漢とローマ帝国は、ともにシルクロード交易に関わっていたが、多くの黄金が西アジアとインドに流出した。漢とローマ帝国は衰亡し、アクスム王国とササン朝ペルシャとクシャーナ朝(大月氏)が繁栄を極めた。
呉 姓は姫 姫→倭→紀
越 姓は姒
春秋時代の呉と越の民は台湾、琉球、薩摩、日向、筑紫に渡来したのだろう。楚に敗れた「呉越同舟」が向かった先は倭国だった。弥生時代の交易品は、琉球の貝輪(ゴホウラ・イモガイ)など。長江の稲作が伝来した。
*上古八大姓 羌(きょう)・姫(き)・姚(よう)・嬴(えい)・姒(じ)・妘(うん)・嬀(き)・姞(きつ)
梁(菩薩天子の南朝国)の宝誌和尚が、東海姫氏が倭国にいると記している。倭五王(倭讃・倭珍・倭済・倭興・倭武)はもともと呉王泰伯の子孫、姫(き)氏で渡来後に倭(い)氏を名乗った。倭は国名ではなく姓であることが判明している。
越の大王、乎富等(をほど)、男大迹(をほど)の姓はもともと姒? 糸魚川の翡翠勾玉を交易品として繁栄したのか?
鬼道を奉じた吉備の両面外交。前方後円墳や埴輪を未開だった平和な大和朝廷に教え、国際戦争に加担した九州倭国の植民地だった任那や馬韓へ援軍を派遣した。宗教は軍事力を強化する。安羅国・金官加羅(任那)から大加羅国へ首長が移ったが、大加羅国は倭の支配から独立していたようだ。ほどなく新羅によって滅亡。
大兄は高句麗の官職名。長兄の意味ではない。安閑天皇(勾大兄)、用明天皇(大兄)、押坂彦人大兄、山背大兄、古人大兄、中大兄など継体天皇関係者に高句麗の官職名が付くし、飛鳥寺は高句麗の慧慈とゆかりが深い。元来、高句麗は百済の不倶戴天の敵。百済挟撃を睨んで、大和朝廷と高句麗が親交を結んでいたとも考えられる。百済は479年、高句麗の長寿王によって一度滅ぼされてからは九州倭人と百済人の混血王が擁立され、百済は九州倭国と一心同体。九州倭国は装飾古墳と石人と甕棺が特徴。前期難波宮には百済渡来人の遺物が圧倒的多数みつかっており、九州倭国の副都と考えられている。主都は大宰府(倭京)。
倭武は宋が滅び格下の斉に対して朝貢したが、一気に冷めた。北魏が朝貢航路を遮ったのもある。
475年、高句麗僧・道琳の謀略で百済の国力が衰亡し、高句麗の長寿王が百済の蓋鹵王を侵略。
百済の蓋鹵王(がいろおう)は北魏へ朝貢をはじめ、援軍を求めたが、再曽桀婁(さいそうけつる)と古尓万年(こにまんねん)の亡命寝返りに会って、漢城を失い処刑死。長男・文周王が解仇(かいきゅう)の裏切りで殺害されて百済が滅亡した。次男・昆支(こんき)=軍君(こにきし)が来日し、倭人とのあいだに嶋君(せまきし)=のちの武寧王が産まれた。昆支は大阪府柏原市の高井田山古墳に葬られている。
前漢・武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、玄菟郡・楽浪郡・真番郡・臨屯郡を設置するも、楽浪郡のみ維持できた。楽浪郡へは遼東半島から水軍を送るか、遼東半島を陸路行進するか、二つの方法で軍を派遣した。
楽浪郡 BC108~313年 武帝が設置
帯方郡 204~314年 公孫康が設置。遼東郡太守の公孫康が楽浪郡を奪って楽浪郡南方に帯方郡を築いた。
17年、呂母の乱。県宰に対し、息子の仇を討った。
18年、樊崇(はんすう)の乱。抽選で劉盆子を擁立。
22年、樊崇、赤眉の乱と号した。劉秀、劉縯、劉玄が挙兵。
23年、劉玄が更始帝に即位。更始帝が長安で王莽を殺害。
23年、隗囂(かいごう)が甘粛で独立。
24年、更始帝、長安に遷都。奢侈な宮廷生活を送る。
25年、劉秀、光武帝に即位。更始帝が赤眉軍に敗れ、劉盆子に譲位するも殺害される。 光武帝、洛陽に遷都。
25年、公孫述が帝位につく。漢の五銖銭をやめ、初めて鉄銭を鋳造した。
27年、樊崇、劉盆子が光武帝に降伏。
30~38年、光武帝、奴婢を次々に解放。
33年、甘粛の隗囂(かいごう)が光武帝に降伏。
36年、蜀の公孫述が光武帝に敗死。光武帝が中華統一。
39年、全国の耕田、人口を調査し、輿地図を作成。
40年、王莽の貨幣改革の混乱を収拾するため、前漢の五銖銭を復活した。
40~42年、ベトナム徴姉妹の乱。
48年、匈奴が南北分裂。南匈奴を漢化し厚遇。
57年、倭の奴国王が後漢光武帝に朝貢。光武帝が印綬を賜った。
58年、光武帝が崩御、明帝が即位。
67年、西域から浮屠(仏教)が伝来した。白馬寺を洛陽に建立。
70年、黄河支流の汴水の治水工事。
85~92年、和帝のとき、西域都護の班超の活躍で、南匈奴・後漢連合軍が北匈奴を滅ぼし、残党がフン族として西遷した。
97年、西域都護の甘英が大秦国を目指したが、安息国(パルティア)で足止め。
100年ころ、許慎・許沖の字書「説文解字」と、前漢からの数学書「九章算術」がまとめられた!
105年、蔡倫が紙を発明!竹簡や木簡に代わり紙が頻用されたのは、2世紀後半から。
107年、安帝のとき、西域都護を廃止。北匈奴が西域諸国を支配した。
107年、倭の帥升が生口160人を後漢に献上。
107~118年、羌の反乱。
114~118年、神武天皇が東征。長髄彦(ながすねひこ)の耶馬国を滅ぼした。
121年、神武天皇が邪馬台国を建国、奈良橿原神宮or宇佐八幡宮で即位。
127年、順帝のとき、班勇が西域支配。
132年、張衡が候風地動儀(地震計)を発明。
140~150年、羌の反乱。
146~189年、倭の大乱。
159~169年、羌の反乱。破羌将軍の段熲(だんけい)が鎮圧した。段熲は初めて軽装騎兵を側面から遊撃させた。
段熲と袁隗が董卓を重用した。
桓帝(146~168)
霊帝(168~189)
166年、第一次党錮の禁。宦官が士大夫を公職追放した。
166年、大秦国王・安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)に遣漢使。海の道(マリンロード)から日南郡(ベトナム)経由で。
169年、第二次党錮の禁。宦官が士大夫を公職追放・逮捕・誅殺した。
184年、崇神天皇が四道将軍を派遣。
丹波道 丹波道主(たにはみちぬし)
山陽道 吉備津彦(きびつひこ)
北陸道 大彦(おおひこ)
東海道 武渟川別(たけぬまかわわけ)
184~185年、黄巾の乱。張角を筆頭とする太平道信者が反乱をおこした。
184~215年、五斗米道の乱。張陵が創始、張衡、張魯と3代にわたり続いた。
187~189年、張純の乱。
188年、馬相の乱。
189年、霊帝外戚の何進が宦官に返り討ちされ、袁紹が宦官を殺害している隙に、董卓が少帝(劉弁)と劉協の身柄を確保。董卓は呂布を取り込んで、丁原を殺害し、全権掌握した。董卓は儒学第一人者だった蔡邕(さいよう)を重用した。
190年ころ、張仲景が「傷寒雑病論」を著す。急性疾患は「傷寒論」、慢性疾患は「金匱要略」。張仲景は内科に優れ、華佗は外科に優れた。
190年、董卓が宿敵の皇甫嵩(こうほすう)を逮捕投獄。洛陽から長安遷都後に釈放。朱儁(しゅしゅん)は洛陽に残り、反董卓連合に加わった。
191年、董卓は、大儒学者だった鄭玄(じょうげん)を重用しようとしたが、黄巾軍に阻まれ、鄭玄は徐州の陶謙に身を寄せた。
192年、董卓が呂布と王允(おういん)に殺害された。王允が、董卓に泣きすがる蔡邕を殺害した。
高句麗は魏と和議を結び、238年、魏の司馬懿が高句麗の東川王とともに公孫淵を討伐し公孫氏滅亡。東川王が遼東郡に侵略したことに怒った魏の幽州刺史であった毌丘倹(かんきゅうけん)が、244~245年、高句麗を討った。
200年、崇神天皇のとき、卑弥呼が邪馬台国の女王共立。
200年、大加羅の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)=天之日矛(あめのひぼこ)が越の角鹿(敦賀)に漂着。
200年、袁紹が鄭玄を重用した。
200年、官渡の戦い。曹操が袁紹を破る。
208年、赤壁の戦い。孫権が曹操を破る。
211年、渭水の戦い。重装騎兵を用いた曹操が、軽装騎兵を用いた馬超を破る。曹操の戦法が段熲の戦法を上回った!
230年、呉の孫権、衛温と諸葛直を、狗奴国(夷州)と東鯷国(亶州)に派遣。
239年、倭の卑弥呼が帯方郡に難升米(なしめ)を派遣。第二代帯方郡太守の劉夏がこれを洛陽に送った。
243年、倭が魏に朝貢。
245年、楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵が濊(わい)を討った。
245年、魏が倭の難升米(なしめ)に黄幢を与えた。
247年、倭の卑弥呼が帯方太守の王頎(おうき)に使者を派遣し、狗奴国の卑弥弓呼との戦闘を報告した。張政を派遣し、邪馬台国と狗奴国の和解を調停した。
248年、卑弥呼が日食で殺害され、台与が即位。
263年、劉徽(りゅうき)が後漢100年ころの「九章算術」の注釈書を著した。円周率を3.14と記した!!
265年、司馬炎が魏を簒奪して晋建国。316年に滅亡。
*司馬懿(い)=司馬仲達の親子関係
(長男)司馬師(し)ー司馬攸(ゆう)ー司馬冏(けい)
(次男)司馬昭(しょう)ー司馬炎(えん)ー司馬衷(ちゅう)ー司馬遹(いつ)・司馬熾(し)
266年、台与が遣晋使。晋式甲冑と晋式帯金具と位至三公鏡を賜った。
283年、司馬炎が義弟の司馬攸(ゆう)を斉王に任じて悶死させる。攸の子が司馬冏(けい)。
290年、晋の司馬炎(武帝)が崩御。暗愚な司馬衷(ちゅう)が恵帝即位。恵帝皇后の賈南風(かなんぷう)が実権を握る。衷の子が優秀な司馬遹(いつ)。
291年、賈南風が司馬瑋(い)を用いて、武帝外叔父の楊駿(ようしゅん)を殺害。さらに司馬瑋を用いて、政敵の司馬亮(りょう)と衛瓘(えいかん)を殺害し、張華(ちょうか)を用いて、司馬瑋を殺害した。張華が善政を布いた。
293年、鮮卑の慕容廆が高句麗の烽上王を討った。
300年、賈南風が謀反の罪で司馬遹を幽閉謀殺。司馬倫(りん)と孫秀が、司馬冏(けい)と司馬肜(ゆう)と共謀して、賈南風と張華を処刑。
301年、司馬倫が司馬衷から譲位を受けたが、司馬冏が司馬倫を殺害。
303年、司馬乂(がい)が司馬冏を殺害。
司馬乂 vs 司馬穎(えい)・司馬顒(ぎょう) 引き分け
司馬王瑚&司馬越 vs 陸機・張方 *将軍
304年、司馬越(えつ)が、補給援軍不足に陥った司馬乂を裏切り、張方に連れ去ってもらい火刑に処してもらった。
司馬越・烏桓・鮮卑 勝 vs 司馬穎(えい)・匈奴 敗
304年、匈奴の劉淵が漢を建国。
司馬越・烏桓・鮮卑 勝 vs 司馬顒(ぎょう) 敗
307年、司馬越が恵帝(司馬衷)を毒殺し、司馬熾(し)が懐帝として即位。王衍(おうえん)を抜擢した。
308年、王衍が、漢の王弥と石勒を破った。
司馬越・王衍 vs 懐帝 司馬越が戦死。
311~313年、永嘉の乱。石勒が、助命を乞う王衍を破り殺害。漢の劉聡・石勒・劉曜・王弥が懐帝を捕縛。2年後、劉聡が懐帝を殺害。司馬鄴(ぎょう)が漢中で愍帝(びんてい)として即位。
313年、高句麗の美川王が楽浪郡を滅ぼした。
314年、高句麗の美川王が帯方郡を滅ぼした。
316年、漢の劉曜が愍帝を破り捕縛。
317年、漢の劉聡が愍帝を殺害。司馬睿(えい)が建康で元帝として即位し、東晋を建国した。
318年、漢の劉聡が死去。
319年、漢の劉曜(匈奴族)が前趙を建国。石勒(羯族)が後趙を建国。
329年、石勒の後趙が劉曜の前趙を滅ぼした。
337年、慕容皝が前燕を建国。
342年、慕容皝が高句麗の故国原王を破った。
346年、旧帯方郡に肖古王が百済を建国。
369年、雉壌の戦いで、肖古王が故国原王を破った。
370年、氐の前秦が前燕を滅ぼした。故国原王は前秦と親交を結び、前秦僧・順道が仏像や経文を高句麗に伝えた。
370年、高句麗が新羅を随伴して前秦に朝貢。
371年、礼成江の戦いで、肖古王が故国原王を敗死させた。
372年、百済が東晋に朝貢、倭と「七支刀」対等外交を締結した。
377年、奈勿王が新羅を建国。高句麗に連れられて朝貢した前秦によって国家承認された。
383年、淝水の戦いで前秦が東晋に敗れ、急速に崩壊。
384年、慕容垂が後燕を建国。
385年、慕容垂が慕容農に命じて、玄菟郡・遼東郡から高句麗を駆逐。
392年、高句麗の広開土王が百済に侵略。
396年、百済の阿莘王が広開土王に降伏。倭の救援は求めていなかった。再び倭との和親を締結した。
399年、倭が新羅を侵略。高句麗の広開土王は後燕の攻撃をしのぎ、新羅から倭を駆逐した。
402年、高句麗の広開土王が後燕から遼東郡を奪回した。
403年、桓玄が東晋の安帝から譲位され、楚を建国。
404年、劉裕が桓玄を倒して東晋の安帝が復位。
406年、百済の腆支王(てんしおう)が東晋に遣使。
407年、後燕が滅亡。北燕が建国されたが、高句麗と不可侵条約締結。
*倭の五王即位
倭讃 413~438
倭珍 438~443
倭済 443~462
倭興 462~478
倭武 478~507
413年、高句麗の長寿王が倭讃を随伴して、東晋に遣使。西南夷の銅頭大師が東晋に遣使。
414年、林邑国(ベトナム)が東晋に遣使。
420年、東晋が滅び、劉裕が宋を建国。
425年、高句麗の長寿王が北魏に朝貢。
436年、北魏が北燕を滅ぼした。
479年、宋が滅亡、簫道成が斉を建国。
479年、大加羅の嘉悉王(かしつおう)=荷知王(かちおう)が斉に朝貢。
502年、斉が滅び、簫衍(武帝)が梁を建国。仏教に捨身して「菩薩天子」と呼ばれた。
502年、百済の武寧王が梁に朝貢。
502年、新羅、殉葬禁止令。
504年、高句麗の文咨明王(ぶんしめいおう)が北魏に朝貢。
512年、百済の武寧王が倭に、馬韓の上多利(おこしたり)、下多利(おろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)を併合依頼。
己汶(こもん)、多沙(たさ)の領有を巡り、百済の武寧王と大加羅の異脳王が対立。継体天皇は百済を支援し援軍を送った。
516年、百済が己汶を併合。
521年、百済の武寧王が新羅(法興王)使節を随伴して、梁に朝貢。
529年、百済が多沙を併合。
532年、任那の仇衡王(きゅうこうおう)が新羅に降伏。
550~552年、新羅の北伐。どさくさに紛れて旧百済領だった漢江下流域にまで領有した。
554年、管山城の戦い。漢江奪還のため、百済の聖王が倭の欽明天皇に援軍を依頼し新羅の真興王と戦ったが戦死。大加羅は百済を支援した。
562年、新羅の真興王が金異斯夫(きんいしふ)と金斯多含(きんしたがん)に命じ、大加羅の道説智王を倒して滅ぼした。
564年、新羅の真興王が、北斉と陳に朝貢。
585~587年、丁未の乱。蘇我馬子と物部守屋の戦い。
589年、隋の文帝が中国統一。百済の威徳王が遣隋使。
590年、高句麗の嬰陽王が遣隋使。
594年、新羅の真平王が遣隋使。
598年、隋の文帝が高句麗遠征。
600年、倭の上宮法皇(東の菩薩天子)が遣隋使。
604年、隋の煬帝が即位。
607年、百済の武王が燕文進(えんぶんしん)と王孝鄰(おうこうりん)を派遣して、高句麗征討を煬帝に要請。
607年、大和朝廷の小野妹子と通訳・鞍作福利が遣隋使。
611年、百済の武王が国智牟(こくちむ)を派遣して、高句麗征討を煬帝に要請。
611年、新羅の真平王が円光(えんこう)を派遣して、高句麗征討を煬帝に要請。
612年、隋の煬帝が高句麗遠征。
隋陸軍 宇文愷(うぶんがい)・宇文述(うぶんじゅつ)・于仲文(うちゅうぶん)
隋水軍 来護児(らいごじ)・周法尚(しゅうほうしょう)
高句麗陸軍 乙支文徳(いつしぶんとく)
高句麗水軍
613年、隋の煬帝が高句麗遠征。楊玄感が兵糧を奪って反乱を起こし、将軍の斛斯政(こくしせい)が高句麗に亡命した。
614年、隋の煬帝が高句麗遠征。来護児が水軍で平壌落城させ、斛斯政を受け取り停戦。
618年、煬帝が宇文化及(うぶんかきゅう)に殺害され隋滅亡。李淵が唐を建国。
618年、倭の上宮法皇が倭京で観世音寺落成式の紅葉賀。ゾウが行進していたそうだ。
619年、高句麗の栄留王が唐に朝貢。
621年、新羅の真平王が唐に朝貢。
621年、百済の武王が唐に朝貢。
626年、李世民が太宗に即位。
630年、倭の利歌彌多弗利が犬上御田鍬を遣唐使として派遣。
642年、高句麗の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)が栄留王を殺害し、宝蔵王を傀儡擁立した。
642年、新羅の善徳女王が高句麗との同盟を画策したが、唐と戦闘準備中の淵蓋蘇文の前に失敗。
642年、百済の武王が崩御、義慈王が新羅の善徳女王から旧伽耶諸国を奪回した。
643年、高句麗との同盟に失敗した新羅の善徳女王が遣唐使。百済にとって漢江を新羅に奪われていたのが痛かった。高句麗を経ずに新羅は船で直接、唐に使節を送ることができたからだ。
645年、太宗が高句麗遠征。遼東城など陥落させたところで停戦。
645年、大化改新(乙巳の変)で、親百済の蘇我入鹿が殺害され、蘇我蝦夷が自害。
647年、善徳女王が毗曇(ひどん)の反乱のどさくさで殺害された。金庾信(きんゆしん)が毗曇を破り、真徳女王が擁立された。
647年、新羅の真徳女王が倭との同盟を画策すべく、金春秋を大和朝廷に派遣。倭王は百済王と血統がほぼ同じなので同盟は期待すらできない。高向玄理(たかむこのくろまろ)が応対した。おそらく、中臣鎌足、中大兄皇子を交えて、新羅と不戦密約を結んだのだろう。
648年、新羅の真徳女王が唐との同盟を画策すべく、金春秋を唐に派遣。
648年、唐の太宗が高句麗遠征。
唐水軍 薛万徹(せつばんてつ)・裴行方(はいこうほう)
唐陸軍 李道裕(りどうゆう)
高句麗陸軍 高文(こうぶん)
649年、唐の太宗が崩御、高宗が即位。新羅が唐風に一新した。
655年、百済の義慈王が高句麗・靺鞨とともに新羅の武烈王(金春秋)を総攻撃。
659年、則天武后が反戦派の長孫無忌を殺害し、百済出兵を決定。倭の遣唐使を監禁。
660年、則天武后が百済遠征。黄山原の戦い。
唐水軍 蘇定方(そていほう)。新羅の武烈王は蘇定方の部下になった。
新羅陸軍 金法敏・金庾信・金欽純・金品日
百済陸軍 階伯
661年、則天武后が高句麗遠征。新羅の武烈王崩御、文武王(金法敏)即位。
唐水軍 蘇定方
唐陸軍 契苾何力(けいひつかりょく)
新羅陸軍 金庾信・金仁問 主に兵糧の補給。
663年、白村江の戦い。扶余豊璋が鬼室福信を殺害。百済はいつも内紛で自滅する。倭水軍1000艘のうち400艘が沈没、600艘は戦わずして帰国。
倭水軍 中皇命(なかつすめらみこと)・安曇比羅夫(あずみのひらふ)・河辺百枝(かわべのももえ)・筑紫薩夜麻(つくしのさちやま)・大伴部博麻(おおともべのはかま)
倭陸軍 狭井檳榔(さいのあじまさ)・朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)・上毛野君稚子(かみつけののわかこ)・間人大蓋(はしひとのおおふた)・巨勢神前臣訳語(こせのかむさきのおさ)・阿倍比羅夫(あべのひらふ)・廬原君臣(いおはらのきみおみ)
百済陸軍 鬼室福信・徳執得 *禰軍・黒歯常之・沙宅相如が唐に寝返った。
新羅陸軍 金庾信・金仁問
唐水軍 劉仁軌・杜爽
唐陸軍 劉仁願・孫仁師
666年、高句麗の淵蓋蘇文が崩御、後継者争い。
668年、則天武后が高句麗遠征、滅亡。
旧高句麗 安東都督府 薛仁貴
新羅 鶏林大都督府 文武王
旧百済 熊津都督府 王文度→劉仁願→扶余隆→金仁問
旧倭 筑紫都督府 中大兄皇子→大海人皇子
中大兄皇子が長年、称制を布いて天智天皇に即位しようとしなかったのは、唐側の命令によるもの。668年、天智の娘を4人娶った、血縁のない年上の大海人皇子への交代を命じられたのであろう。天皇にふさわしい年齢に達しなかったからと多くの学者は言うが、姑息な政権奪取に引け目、あるいは身の危険を感じたのかもしれない。698年、高市皇子(おそらく真の持統天皇)の崩御で、天武系から天智系に政権が傾き、長屋親王が長屋王に格下げされた。全政権を掌握した鸕野讃良が復権させた藤原不比等にとって、この恥ずかしい歴史はなんとしても隠さなければならなかった。
百済は唐におもねったポット出格下の新羅に滅ぼされ、倭は唐におもねったポット出格下の大和朝廷に滅ぼされた。さぞかし民は納得いかなかっただろう。672年、壬申の乱で天智天皇が自害に追い込まれ、弘文天皇が殺害された。このあたりの日本書紀の捏造がひどすぎ。藤原京は唐風への抵抗であり大宰府倭京の復興であり、702年、粟田真人の活躍で則天武后との和解後に平城京を唐風に仕立てた。詳しく教えないのは万世一系にとり不都合な事実が多いからだろう。日本は白村江の戦い以来、本来の幸せな姿を取り戻せていない。
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