« 梅田芸術劇場「モーツァルト!」をみて | トップページ | 小一条院(敦明親王)の暴力 »

2024年10月13日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて39

1009年(寛弘6)

土御門第にて、彰子が敦良親王を産む。

1010年(寛弘7)

左大臣道長&倫子の次女・妍子が居貞親王に入内。居貞親王には先妻・藤原娍子(せいし・大納言済時の娘)とのあいだに、すでに敦明親王と敦儀親王がいる。18歳も年上の爺さんに嫁ぐのは嫌だと妍子が彰子に愚痴をこぼしていた。紫式部が妍子を戒めると、「なに?このオバさん、うるさい。(プンプン)」と言って立ち去った。道長による妍子入内に対抗して右大臣顕光の娘・延子が敦明天皇に入内。顕光は堀河殿に住んでいた。(延子や顕光の死後、頼通が堀河殿に住んだ)

道長が後見人(加冠)となり、敦康親王が元服。道長、桐壺帝(一条天皇)の中宮・藤壺(彰子)と光源氏(敦康親王)が性交して冷泉帝(不義密通の子)を産むことを恐れて、敦康親王を土御門第(道長・倫子の邸宅、彰子・妍子の実家)から、脩子内親王と清少納言が住む竹三条宮(道隆・定子の旧宅)に遷す。

室町第に住む伊周が、故・源重光(権中納言)の娘と道雅、妻子に看取られながら逝く。清少納言、悔し涙。群盗に入られてほどなく室町第が荒廃した。伊周の長女は頼宗(高松殿明子の長男)の正妻になり、伊周の次女は伊周の遺志に反して彰子サロンに出仕させられた。

伊周の遺志を継いで、隆家が敦康親王の後見人になる。

伊周が権勢を誇った室町第がいったん荒廃して、のちに足利高氏が室町幕府を建てたんだね

一条天皇が狭心症発作。(翌年、崩御)

正五位・為時、従五位・惟規の父子ともに、緋色(赤い色)の位袍を着て、左大臣執務室の道長に感謝の挨拶、内裏後宮の仕事場にいた紫式部と歓談。為時、越後守に任ぜられ、惟規とともに赴任するも、すぐに惟規が病死。辞世の句に泣き崩れる紫式部を、左大臣との娘・賢子が抱きしめる。

 

*禎子内親王が頼通を嫌った理由

禎子内親王が後朱雀天皇の中宮になっていたのに、すぐあとから、実娘がまだいなかった頼通が、道長の末娘だった嫄子を後朱雀天皇の中宮にして、禎子内親王を格下の皇后に貶めたから。

ちなみに後朱雀天皇には先妻だった道長の娘・嬉子とのあいだに親仁(ちかひと)親王(のちの後冷泉天皇)がいたが、11年前に親王を残して痘瘡で早逝していた。彰子が親仁親王をひきとって育てていた。さらに彰子は親仁親王の乳母として藤原頼成娘を登用しようとしたが病気のため辞退となり、賢子(紫式部と道長の娘)を乳母として登用した。賢子は、親仁親王の東宮権大進だった高階成章と結婚した。賢子は、後冷泉天皇の落胤を高階為行として養子縁組した。本来ならば、後三条天皇ではなく、高階為行が皇位継承者となりえた。

|

« 梅田芸術劇場「モーツァルト!」をみて | トップページ | 小一条院(敦明親王)の暴力 »