第76回正倉院展をみて
午前診を終え、午後3時、嫁と奈良国立博物館に行ってきました。最初は混雑しましたが、後ろの予約者が少ないのか、徐々に減って目玉展示品をゆっくり観ることができました。
今回一番の展示品はこれ。
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)
銀の金属面に色ガラスの粉(フリット)を焼き付ける技法。有線七宝(クロワゾネ)という技法で作られた、世界で唯一の鏡です。中国や朝鮮に類はなく日本人が編み出したものか。
新羅琴(しらぎごと)
十二絃の楽器。奈良時代にもってこられたもの。
鹿草木夾纈屏風(しかくさききょうけちのびょうぶ)
毎度、夾纈染。
紫地大鳥形錦御軾(むらさきじおおとりがたにしきのおんしょく)
聖武天皇愛用の肘掛け。真綿を使ってあるところに製作者の愛情を感じた。
花鳥背円鏡(かちょうはいのえんきょう)
病弱の聖武天皇がやつれてしまった自らの姿を映したのだろうか。
曝涼使解(ばくりょうしのげ)
787年(延暦6)に宝物の日干しが行われ、その一覧表。署名がいい。藤原くん以外の豪族がまだまだ元気だ。
使衛門督・石上家成 おお!物部氏!
治部大輔・紀作良 おお!紀氏!
内薬侍醫・難波伊賀麻呂 侍医の名前が載ってる!
*寺社を管理する機関(三綱)と役職(僧綱) 偉い順から、
三綱(さんごう) 上座・寺主・都維那(ついな)
僧綱(そうごう) 僧正・僧都・律師
黒作大刀(くろづくりのたち)
無荘刀(むそうとう)
仲麻呂の乱で称徳天皇が正倉院の刀を多数持ち出して使い捨てたが、その数少ない残り物のひとつ。
紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)
私は以前に何度か見た。象牙を赤く染めるのが至難の業らしい。象牙を臙脂(えんじ)で染め、彫って白い線で描く撥鏤技法。
緑地彩絵箱(みどりじさいえのはこ)
私は以前に何度か見た。
地の黄緑色 岩緑青と藤黄を使用
葉の灰緑色 岩群青と茶色粒子を使用
茎と蝶 銀泥を使用
蓋と内面 赤紫色の臙脂を使用
裏底の橙色 鉛丹を使用
周縁 金箔地に赤色と黒色をまだらに塗って、貴重品の玳瑁(たいまい)にみせた。
床脚と畳摺 金箔地に墨で唐草文を描いた。文様の隙間を黄色く塗って輝きを抑え、透かし彫り金具にみせた。
粉地彩絵几(ふんじさいえのき)
私は以前に何度か見た。
表裏の天板 鉛系白色顔料を使用
縁と側面 赤紫色の臙脂を使用
上段の脚 褐色のベンガラを地にして、鉛系白色顔料で葉を描き、橙色の鉛丹と鉄系濃緑色顔料で花葉文を描いた。
下段の脚 薄黄緑色の藍鉄鉱を地にして、鉄系濃緑色顔料で葉脈を描いた。
金銅杏葉形裁文(こんどうのぎょうようがたさいもん)
勾玉を使っており、唐文化と古代日本文化の融合。
公式古文書が何通か。
官司間文書
「解(げ)」 下級機関から上級機関へ提出する文書
「移(い)」 同級の機関同士で交わす文書
「符(ふ)」 上級機関から下級機関へ提出する文書
官司内文書
「牒(ちょう)」 同一機関内で連絡する文書
牒の書止にも3段階あって、上申調は「勤牒」、移式は「以牒」、下達調は「故牒」と記す。故→以→勤の順に厚礼になる。
*本来、唐の官僚公式文書規定はより複雑・厳密だった。日本の官僚システムはそこまで成熟しておらず、上申・下達・互通関係なく、牒と記した。
「牒(ちょう)」 本局から別局への下達
「刺(し)」 別局から本局への上申
「関(かん)」 別局間の互通文書
ここからお経の漢訳者シリーズ。布教国名とセットで覚えよう。まずは世界史教科書レベルの有名どころから、
西晋の竺法護(じくほうご) 「(正)法華経」「維摩詰経」
*「敦煌菩薩」と呼ばれた月氏の人
北涼の曇無讖(どんむせん) 「涅槃経」「金光明経」「海龍王経」「悲華経」「大雲経」
*則天武后は大雲経を重んじ、聖武天皇は金光明最勝王経を重んじ、光明皇后は悲華経を重んじた。
後趙の仏図澄(ぶっとちょう)
西晋で布教しようとしたが、大混乱の為、断念
後趙の石勒(せきろく)が招聘、残忍横暴な石虎(せきこ)も重用、漢人の入信出家を承認した
前秦の釈道安(しゃくどうあん)
前秦の苻堅(ふけん)が招聘
東晋の慧遠(えおん)
東晋の法顕(ほっけん) 「仏国記」「涅槃経」
後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう) 「般若心経」「法華経」「無量寿経(のちの阿弥陀経)」
後秦の姚興(ようこう)が招聘
盧山の仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら) 「華厳経」「涅槃経」
異端として鳩摩羅什によって排斥された。師匠・慧遠の住む東晋の盧山に身を寄せた。
唐の玄奘(げんじょう) 「大唐西域記」「大般若経」 全編そろって現存しているのは高麗だけ。
唐の義浄(ぎじょう) 「南海寄帰内法伝」「大唐西域求法高僧伝」「金光明最勝王経」
唐の善導(ぜんどう) 「阿弥陀経」
今回出展の漢訳者たちが、
後漢の支婁迦讖(しろうかせん) 「魔訶般若道行経」
西晋の聶道真(しょうどうしん) 「諸菩薩求仏本業経」
最後に、道長「御堂関白記」に頻出する、父母の菩提を弔うための所謂「五月一日経」 光明皇后の悲華経が起源。悲華経は北涼の曇無讖(どんむせん)が漢訳した。
光明皇后直筆 「悲華経(ひけきょう)」 父・藤原不比等と母・県犬飼橘三千代を弔った。
個人的にチビチビ写経する気持ちはわかるが、国民のための国家事業として大々的に全巻の写経と保存管理を進めてほしかった。
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