小一条院(敦明親王)の暴力
藤原くん達、陸も海も全然治められていない。荘園は道長のお墨付きがあれば隣の米をかすめ取り、集団となって殴り合って死人が出る。瀬戸内海は海賊が跳梁跋扈しており、荘園からの税金が京に届かない。借金を抱えて赴任してくる国司は自由に重税を課す。民衆は飢饉・疫病・重税・強盗・殺人で日々悲鳴を上げている。心の救済をすべき寺社は僧兵を抱えて暴力沙汰を起こす。朝廷は声なき民のトラブルを正しく裁いてくれない。内裏ですら強盗や放火の常習化で、衛士が機能していない。公卿くんは陣の定めで同じ顔を突き合わせて、あとは地方のノンキャリ郡司(下級官僚)に押し付けておしまい。信賞必罰というが、罰するときは素早いが、報酬は出し渋る。彼らのお手本、唐の太宗がおこなった貞観の治、現実はまったくダメダメ政策だった。太宗は取り巻きに自分の評判を聞きまくって、いい皇帝と思われていたかった。
貸したお金は自分で暴力を以て取り返しに行かなければならなかった。顕光も小一条院もみな同じ理由で起こした暴力沙汰。恨みつらみが重なって、無関係な民を巻き込んでやりすぎたこともしょっちゅうあった。
1014年(長和3) 敦明親王が加賀守・源政職(まさもと)を堀河院(顕光邸宅)に拉致して袋叩きにした。借金返済させるのが目的。
敦明親王が自分を殴りたがっているという噂を聞いた藤原定頼(公任の長男)が、敦明親王の家人を袋叩きにして死んでしまった。定頼は三条天皇を舐め切っていた。
1015年(長和4) 源政職(まさもと)の妻だった小少将の君が禎子内親王に借金していた。禎子内親王の執事だった平為忠が、小少将の君の自宅を「検封」差し押さえた。源政職は、道長をバックに付けていることで三条天皇を舐め切っていた。
1016年(長和5) 敦明親王を皇太子にする条件で、三条天皇が後一条天皇に譲位。
1017年(長和6) 三条上皇崩御後、敦明親王が道長の圧力で廃太子。上皇相当の小一条院と号し、さらに寛子(道長と明子の娘)が入内嫁入りした。
1019年(寛仁3) 小一条院が近江・石山寺参詣の折、近江守・源経頼(つねより・倫子の甥)が、道長をバックに付けていることをいいことにガン無視。小一条院の執事を務めていた藤原能信(よしのぶ・明子の子)が源経頼の家人を捕えて暴力を以て接待をさせた。
1020年(寛仁4) 源政職が強盗(加賀国の住人?)によって刺殺された。加賀国国司のときの暴政の恨みか?
1021年(治安元) 小一条院が高階成章(なりあき)を袋叩きにした。このころ、高階在平(ありひら)が小一条院の執事を務め、ヤクザな家人を仕切っていた。小一条院領が、親道長派の高階業遠(なりとお)・成章父子によって浸食されていたから。これを道長は容認していた。
*高階業遠 このころ敦成親王(のちの後一条天皇)の執事を務め、ヤクザな家人を仕切っていた。小右記によれば、高階業遠は道長の忠実な手駒の一人で、「無双の者」と記されている。
*高階成章 このとき紀伊守。のち親仁親王(のちの後冷泉天皇)の護衛を務めた際、乳母として女房を務めていた賢子(紫式部の娘)と知り合い結婚した。このとき賢子は男性関係が乱れており、子供を産んだばかりで母乳が出ていた。
1022年(治安2) 小一条院、高松殿(明子の邸宅)から山井殿に移住。道長が嫌いだったんだね。
1023年(治安3) 小一条院と寛子のあいだに敦元親王が誕生した。
小一条院が長門守だった高階業敏(なりとし)を袋叩きにした。
*高階業敏 業遠の兄。長門守のとき重大事件を引き起こしたが、道長がもみ消した。
1025年(万寿2) 娍子、寛子が立て続けに死去。頼宗(道長と明子の子)の娘が小一条院に入内嫁入り。道長は、小一条院領の横領を狙っていた。
1027年(万寿4) 小一条院が実資の家人を拉致拷問未遂。妍子、道長が立て続けに死去。
1028年(長元元) 平忠常の乱が勃発。頼通の執事だった平直方に乱平定を命じたが解任された。
1031年(長元4) 平直方の家人だった源頼信・頼義が平忠常の乱を平定。
1032年(長元5) 敦元親王死去。源頼義が小一条院の判官代に就任。騎馬上弓術が得意だった源頼義を儇子(けいし)内親王の荘官に任じた。
*院司(いんのつかさ)の階級
別当(べっとう) 長官
判官代(ほうがんだい) 次官
主典代(さかんだい) 主典
1036年(長元9) 源頼義が相模守に任ぜられた。
*源氏の棟梁と言っても所詮こんなもの。況や次男坊の足利氏、三男坊の源氏をや。
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