安和の変(969年)
父・藤原師輔(もろすけ)の3兄弟が、伊尹(これただ)、兼通、兼家。兼通と兼家が不仲で、兼通は関白を辞する際、嫌いな兼家ではなく、従兄の藤原頼忠に譲ったことは有名な話。
ここでキーパーソンがいて、それが兼明(かねあきら)親王。源兼明(醍醐天皇第11皇子臣籍降下)であって、源高明(醍醐天皇第10皇子臣籍降下)のすぐ下の弟であった。「前中書王(さきのちゅうしょおう)」と呼ばれ、サロンを主催していた。子が源伊陟(これただ)で孫娘が宣旨の君。
969年、安和の変で、伊尹の指示で仲良しの兼家が穢れ仕事を務め、源高明を失脚させたことは確実視されている。源兼明は連座を免れ、971年、左大臣に就任。関白・兼通が977年、今わの際で、左大臣・源兼明を兼明親王に皇籍復帰させ、空いた左大臣の席に右大臣・藤原頼忠を据えて、関白を譲った。977年、同時に円融天皇は異母兄・源昭平を皇籍復帰させ、昭平親王とした。兄に臣下の礼を取らせないようにするための配慮だった。
984年、花山天皇即位。藤原義懐(よしちか)、藤原惟成(これしげ)、藤原為時が補佐。慶滋保胤(よししげのやすたね)が後宮サロンを主催。
1 永観の荘園整理令
2 禁破銭令
3 沽価法
985年、花山天皇、姫子寵愛が冷め、溺愛した怟子が懐妊中に死去。
986年、出家騒動が続出。資子内親王、藤原暁子、藤原相中、慶滋保胤、盛明親王が相次いで出家した。寛和の変で、花山天皇、藤原義懐、藤原惟成が出家。
一条天皇即位によって、藤原実資から藤原道兼に蔵人頭交代。道兼は中将を兼ねていたので、「頭中将(とうのちゅうじょう)」と呼ばれた。
*内裏を警護する近衛府。長官が大将、次官が中将。
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