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2024年9月 1日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて33

1006年(寛弘3)

1月28日 除目の議の際、伊勢守・藤原為度(ためのり)から平維衡(これひら)だけは後任にしないことを念押しされ、辞表がもたらされた。平維衡は平貞盛の子で伊勢平氏の祖。右大臣・藤原顕光の家人で、堀河院を修理。平維衡は、998年(長徳4)に伊勢国で坂東平氏の平致頼(むねより)と合戦に及んでいた経歴を持つ。藤原顕光の推を退け、道長は欠官にまま一条天皇に奏上した。一条天皇は定子の次に元子がお気に入りで、顕光派の平維衡を推したという説がある。

国司が武力を持つと、武力を物言わせる世の中に変わることを、道長は危惧し、一条天皇にも理解を求めた。テレビでは、藤原隆家が、「これからは朝廷が武力を持たねばならない世の中になる。」と道長4納言に捨て台詞を吐いていた。

*平維衡は、道長が金奉山参詣の折、暗殺計画に加担した。

 

具平(ともひら)親王サロン(漢詩・和歌・香道・音楽・医学・仏道・陰陽道サロン)

親王は「六条の宮」「中務(なかつかさ)の宮」と呼ばれた。

邸宅は「桃花閣(とうかかく)」「千種殿(ちぐさどの)」と呼ばれた。季節ごとの花が咲き乱れるのを愛でた。源氏物語「六条院」のモデルになった。

1主催者

具平親王(969-1009)村上天皇第7皇子。長女・隆子(たかこ)を藤原頼道の正妻とした。さらに三女・嫥子(せんし)を斎宮に任じたのち、藤原教通の正妻とした。紀斉名(きのただな)と大江以言(おおえのもちとき)と慶滋保胤(よししげのやすたね)に学んで、文才、管弦、医学にたけており、「後中書王(のちのちゅうしょおう)」と呼ばれた。

藤原為時 紫式部の父

藤原為頼 為時の兄、紫式部の叔父

慶滋保胤 比叡山念仏結社の勧学会。六条池亭(阿弥陀堂)に住み、念仏三昧の日々を送る。「内記入道」と呼ばれ、陰陽師の真似事をする法師を戒めて私財を与えた逸話が残る。

藤原行成 

2女房たち

紫式部 具平親王の妾。のち道長の妾。藤原宣孝の妾となるも早逝。テレビでは奥手に描かれているが、男性遍歴がなければ源氏物語なんて書けるわけもなかろう。

 

彰子サロン

上臈にしか色物の服を着ることが許されなかった。十二単の色に注目!

1.幹部クラスの主催者

源倫子 左大臣・源雅信娘。左大臣/内覧・道長を完全支配する女帝。従一位まで出世の極み。正一位になれるのは亡霊だけ!紫式部を相手にせずとも、紫式部は最大警戒を怠らなかった。大鏡「御幸ひ極めさせたまひにたる」

赤染衛門 検非違使・赤染時用(ときもち)娘。実父は駿河守・平兼盛。倫子の古参女房。尾張守/丹波守・大江匡衡(まさひら)の妻。長男は和泉守・大江挙周(たかちか)。娘は江侍従(ごうのじじゅう)、後一条天皇と中宮(威子)に仕えた。

*紫式部は漢籍のプロ。清少納言は和歌のプロ。定子サロンで漢籍をひけらかす清少納言に対して紫式部は嘲笑。和歌がノンプロだったので紫式部は和歌をたくさん詠んだ。高等な技巧を要する漢籍でのミスは許されないという思いが強かったので易々と人前でご披露しかねた。

*紫式部の三才女批評

和泉式部「趣深い歌詠みだけど大して和歌に精通していない」

清少納言「利口ぶって得意顔だけど上っ面だけ」

赤染衛門「格別に優れた歌というほどではないが、ひけらかすことなく立派な歌の詠みぶり」

2.20人程度の女房

宣旨(せんじ)の君・陟子(ただこ) 権中納言・伊陟 (これただ)娘。伊陟は源明子の従兄。

馬中将(うまのちゅうじょう) 左馬頭・藤原相尹(すけまさ)と源高明娘(源明子の妹)の間の子。つまり明子の姪。紫式部と仲が悪い。中臈のくせに色物の十二単を着たおしている。

和泉式部 「こんなに暑いのに、十二単など御脱ぎあそばせ。」和泉守・橘道貞の妻。故・為尊親王と密通し、敦道親王とも密通。その死後に彰子サロンに参入。

紫式部 「もののあはれ。」具平親王の妾。道長の妾。

宰相の君(藤原豊子) 藤原道綱娘。敦成(あつひら)親王の乳母!大江清通(きよみち)妻、大江定経(さだつね)母。紫式部がもっとも好意をもっていた。

大納言の君(源廉子) 左大弁/大蔵卿・源扶義(すけよし)娘。道長の妾。

小少将の君 右近衛中将/丹波守・源時通(ときみち)娘。紫式部とは同室の仲。紫式部曰く、こんなに上品で可愛らしい女性なのに、なんで男が言い寄ってこないのかしら。女三宮と夕顔のモデルか。

伊勢大輔 大中臣輔親(すけちか)娘。高階成順(なりのぶ)妻、康資王母(やすすけおうのはは)母。「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」を詠む。彰子の返歌「九重に匂ふを見れば桜狩り重ねて来たる春かとぞ思ふ」紫式部と仲良しの後輩女房。

左衛門の内侍(橘隆子) 藤原理明(まさあき)妻。一条天皇に仕えていた内裏女房。明子派。倫子派の紫式部を敵視して「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし。」

上東門院女房 花山法皇皇女。長徳の変で連座し赦免された藤原道雅(みちまさ)の求婚を断ったため、1024年、盗賊刺客(隆範りゅうはん)に殺害され、死骸が犬に食われるという事件に発展した。

 

定子サロン

1 主催者

定子

2 女房たち

清少納言 長徳の変で落ち込んだ定子を励ますため「枕草子」をかく。藤原斉信(ただのぶ)とラブラブ。ライバル道長を恋焦がれたことがあり、村八分の目にあったことがある。

253段 男というものは、やはり女の私たちから見て世にも奇妙な合点のゆきかねる心を持った存在ではある。とても綺麗な女を捨てて、醜い女を妻にしているのも不思議千万だ。禁中(内裏)にお勤めしている男や良家の子弟などは、綺麗な中でも綺麗な女を選んで愛されたら良いのに。手の届きそうもない身分の女だって、自分の素晴らしいと思う女を死ぬほどにでも恋焦がれたらよいのに。人の女房や、まだ見ない女房などでも、綺麗だと聞く人をこそ、なんとかして妻にと、男は思うもののようだが。私たち女の目から見てもみっともないと思うような人を愛するのは、いったいどういうことだろう。顔かたちがたいそう綺麗で風流もよく心得た人で、字も上手だし、歌も趣深い歌を詠んで、男に恨みの手紙をよこしたりするのに、その返事はこざかしくするけれども寄り付かず、可憐に男の薄情を嘆いている女を見捨てて、ほかの女の許に行ったりするのは、呆れ果てて、自分のことでなくても腹が立って、はたでそういうのを見ていたら自分だっていやになるのに違いないのに、自分のことになると、ちっとも相手に対する気の毒さというものがわからない。

一条天皇「ふ、ふ、ふ。」

女房たち「そうだ、そうだ。」

 

選子サロン 

1 主催者

選子内親王 村上天皇第10皇女。斎院(賀茂祭に奉仕)。1012年(寛弘9)に「発心和歌集」を編纂。 

*斎宮は伊勢神宮に奉仕する。

2 女房たち

中将の君 斎院司・源為理(ためまさ)と大江雅致(まさむね)娘のあいだの子。和泉式部の妹。藤原惟規(のぶのり・紫式部の弟)の恋人。六条御息所のモデル。

 

2月25日 承香殿女御(藤原元子)が内裏(東三条邸)に参入したが、夜のうちに退出。「不生女」と揶揄された元子の父は、右大臣・藤原顕光。

3月4日 中宮、一条天皇ともに新築の紫宸殿(東三条邸寝殿=一条院)に遷御。中宮のもとに女方(藤原倫子)が足繫く通っている。

4月15日 一宮(敦康親王)が賀茂祭を見物。道長が女房車を一宮に献上した。

4月23日 女二宮(媄子内親王)が一条院に参入。媄子(びし)は一条天皇と定子のあいだの二番目の女児で、1008年に9歳で病死。

5月5日 上野守の橘忠範が死去。

5月13日 陣定にて除目をおこない、平惟衡を上野守に任命した。

5月14日 山階寺(興福寺)の僧3000人が馬允(うまのじょう・当麻為頼)の私宅を襲撃。興福寺僧の頭領は、蓮聖(れんしょう)。

5月16日 法住寺で、藤原文行が平正輔と口論し、検非違使別当(藤原斉信)が派遣した検非違使に矢を放ち逃亡。

6月20日 大和守・源頼親(よりちか)が興福寺の蓮聖を愁訴。

7月3日 損傷した神鏡を改鋳するか、陣定にて議論。あわせて蓮聖の公請を停止した。

7月6日 道長が下痢になる。

7月12日 興福寺の定澄(じょうちょう)僧都が道長の土御門邸に来訪。多数の僧侶が直訴しに来ることを予告。道長は、受けて立つと応答。

7月13日 一条天皇詔勅、興福寺大衆を追い返せと。

7月15日 興福寺大衆の直訴を裁定した。

7月27日 法性寺五大堂を建立。

7月30日 一条天皇の相撲御前試合。

8月6日 「白氏文集抄」「扶桑集」を一条天皇に献上。

8月7日 法性寺五大堂に、六丈の五大尊を遷した。

8月15日 一宮(敦康親王)が病気

8月17日 一宮(敦康親王)主催で童相撲を開催した。女一宮(脩子内親王)と女二宮(媄子内親王)も見物した。

9月22日 一条天皇たっての願いで、土御門邸にて競馬を見物。東宮(居貞親王)も同席した。

10月5日 東三条邸南院が焼亡。冷泉院が難を逃れ、花山院が心配になって土御門邸に来た。

10月20日 宋商人・曾令文が蘇木・茶碗・「五臣注文選」「白氏文集」を献上。

10月21日 源成方の邸宅を冷泉院の御座所と定め、移御。

10月25日 法性寺五大尊像を開眼した。大僧正は観修。

11月14日 月食。一条院で五節舞。

12月5日 藤原教通と藤原能信が元服。

12月16日 除目。権少僧都を源信から明肇(みょうちょう)に交代した。

12月29日 権大僧都・済信(さいしん)が東大寺別当を辞任したため、澄心(ちょうしん)か清寿(せいじゅ)か議論が白熱した。一条天皇は二人では駄目、一人に定めよと仰せになっていた。双方の評判を現地調査することで散会とした。

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