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2024年9月22日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて36

1008年(寛弘5)

彰子が懐妊。紫式部を含める彰子サロンが土御門邸に移動。紫式部と道長・倫子が同居する形となる。媄子内親王が早逝。花山法皇が崩御。清少納言、竹三条宮に居て脩子内親王に仕える。一条天皇の定子への偏愛を失った理由を知った清少納言、伊周に源氏物語を読みたいと訴える。伊周が彰子を呪詛。彰子が敦成親王を無事に出産。紫式部、道長の命により日記を執筆開始。

大納言道綱、居貞親王邸に出入りし、道長に対するスパイとして働く。敦明親王、道綱を狩りに誘う。敦明親王、乱暴者の感じ有り。源明子、源倫子への対抗意識をさらに燃やしつづける。実子の頼宗・顕信・能信・寛子らの出世を画策。

 

*道長菩提・法成寺建立のため、城門や屋敷の礎石を引っこ抜いて奪って集めた。

*債務取り立てで相手の従者を拉致・水責めリンチしてもよかった。検非違使の牢獄に収監したが、井戸水が枯れておりものすごく不衛生で死者が多数出た。

*女房同士、女房と下男の取っ組み合いの喧嘩が日常茶飯事だった。

*内裏や貴族邸宅には強盗がよく入って、女房が着ぐるみ剝がされたり、拉致されたり、放火されたりした。近衛府や検非違使は機能不全。

*内裏女房のバカ息子たちが、殺人・傷害という凶事沙汰を働いた。

 

*敦明親王(小一条院)の凶行

1013年 藤原道雅の敦成親王従者への指示によって、敦明親王の従者(小野為明)が半殺しの目にあった。

1014年 加賀守・源政職(みなもとのまさもと)を敦明親王邸宅(堀河院)に拉致した。

1015年 内裏火事で、母親の皇后・藤原娍子を背負って逃げた。

1017年 皇太子を辞退。

1021年 紀伊守・高階成章(たかしなのなりあき)を路上で袋叩きにした。

1023年 前長門守・高階業敏(たかしなのなりとし)を路上で袋叩きにした。

1027年 藤原実資の従者を拉致未遂。

 

とくに坂東には、王臣子孫、群盗、俘囚が入り乱れて、自分の身は自分で守るしかない社会だった。

諸国には、王臣子孫と乱暴な王臣家人がいて、王臣家の権威と免罪特権を振りかざして、百姓の財産や墾田を奪い、強制的に墾田を耕作させ、年貢を全く払わず、国司・郡司が集めた税を差し押さえて債権回収と称して強奪していた。

王臣子孫が平然と受領に反抗しても罰が軽いか、罰を受けない。王臣子孫を犯罪者として処罰しようにも執行できる武力が受領になかった。

受領が朝廷に税を納めるためには、武力の強い乱暴者を受領に任じればよかった。受領を強くするのではなく、強い者を受領にすることで問題解決を図った。

第二の平将門を作らないためにも藤原利仁や藤原秀郷には受領の世襲が許されなかったが、平貞盛や源経基は、摂関政治によく順応し、特別に世襲が許されていった。道長や顕光といった公卿の家人(郎等)として、日常の喧嘩から地方からの納税に至るまで、忠実に働いた。つまり王臣子孫のように誰彼問わず乱暴を働くのではなく、公卿には犬となり、心のない民衆には乱暴者の顔をみせたのだ。手っ取り早く、全国を治められているような幻想を公卿たちに抱かせた。

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