長宗我部元親
長宗我部元親、わたしの母方の先祖が仕えた岡豊城城主だ。家康が放り込んだ掛川の山内一豊と因縁の対決が続いている。元親の譜代家臣団から武市半平太、中岡慎太郎、坂本龍馬(明智光秀亡命旧家臣)を輩出。
秀吉は、三好氏残党だった十河存保(そごうまさやす)を支援。元親と対立を続けていた。元親は、1584年(天正12)小牧長久手の戦いで、織田信雄・徳川家康方につき、その要請により淡路渡航、畿内上陸を図った。
三長老
1 久武親信(ちかなお)
2 吉良親貞(ちかさだ)
3 香宗我部親泰(ちかやす)
土佐統一
1574年(天正2) 一条兼定を幡多城から駆逐。兼定は大友義鎮(よししげ)のもとに亡命。わたしの父方先祖が仕えた佐土原城城主・伊東義祐(よしすけ)は島津義久に敗れ大友義鎮のもとに亡命。よって長宗我部元親は、島津義久と親交を結び、大きな船で黒潮交易した。
阿波侵攻 香宗我部親泰担当
1582年(天正10) 中富川の戦いで十河存保(そごうまさやす)を破る。阿波水軍の森村春(むらはる)が死守する土佐泊城は落とせず。
1583年(天正11) 豊臣秀長が長宗我部征伐のため、土佐泊城に上陸し、まずは拠点とした。
讃岐侵攻 長宗我部元親担当
1584年(天正12) 十河存保を破り、十河城を陥落させたが、虎丸城は落とせず。
伊予侵攻 金子元宅(もといえ)担当
久武親信が金子元宅を調略し、十河存保を挟撃。敵対した河野通直(河野水軍)は健在。
1585年(天正13) 安国寺恵瓊の暗躍で、毛利輝元が秀吉と和睦。長宗我部元親を攻めるため、伊予上陸。金子元宅が抵抗するも戦死。河野通直は籠城するも、小早川隆景(小早川水軍)に降伏開城。恵瓊は厳島の千畳閣を建てて凱旋・九州攻めの秀吉を喜ばせた。
宇和島侵攻 久武親信担当
1584年(天正12) 大洲城主(平出雲守)と曽根宣高を調略し、西園寺公広(きんひろ)を破る。
ところが、西園寺公広は織田信長と和睦を結んでおり、信長が長宗我部元親に激オコ。元親と親戚筋だった明智光秀の本能寺の変へと進展していく。
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