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2024年9月29日 (日)

貨幣からみた世界史

教科書

宇山卓栄 「世界史は99%、経済でつくられる」 育鵬社

山岡直人 「中国貨幣の歴史」 日本銀行金融研究所

 

鉄銭の鋳造が、BC5世紀にはじまる。

秦・始皇帝が貨幣統一、半両銭を鋳造。

前漢・武帝が半両銭(銅4.5鋳)を廃止し、五銖銭(銅5鋳)を発行。納税は五銖銭のみとしたため、実質、1割の増税。

AD8年、新・王莽が五銖銭を廃止し、大泉五十(銅12鋳)、栔刀(五百銭)、錯刀(五千銭)を発行。五銖銭の流通は認めたため、五銖銭の私鋳が流行。9年、五銖銭、栔刀、錯刀を廃止し、大泉五十(銅12鋳)と小泉直一(一銭)のみ認可した。10年、宝貨制を布き、鉄銭以外、28種の銭を発行したため、大混乱をきたし、赤眉の乱が勃発した。20年、大泉五十と小泉直一を廃止し、五銖銭と同価値一銭の貨銭(銅5鋳)と貨布(25銭)を発行したが、23年に新が滅亡。

宋・劉義隆(文帝)が貨幣不足に対し四鋳銭を発行。「元嘉の治」にて名将三十六計の檀道済が国防、土断法(移民にも平等に課税)を発布。五銖銭での納税を強制し、大富豪が五銖銭を内部留保。文帝は、江南の経済基盤を築いた。

隋・煬帝は江南の経済発展ばかり図り、土地荒廃がひどかった華北は経済発展なく、華北軍閥によって倒された。

唐は市場開催に朝廷の許可が必要で、国家主導の経済で民間経済が硬直停滞した。唐末から宋にかけて、朝廷の統制が緩和すると、民間に形勢戸(なりあがり富豪)が出現し、経済発展、科学技術発展を遂げた。

*中世ヨーロッパが誇れるのは、水車技術の開発。

宋は朝廷が交子(銅との兌換紙幣)を発行し、通貨供給量(マネーサプライ)を増大させた。ハイパーインフレの陥り、遼や西夏や金へ上納金が支払えず、華北を金に奪われた。

ウマイヤ朝がディーワーン制を布き、税務庁、軍務庁、文書庁、監査庁、会計庁をおき、国家の予算制度を厳密化した。ファルス銅貨、ディルハム銀貨、ディナール金貨を法廷貨幣に定め、偽造や私鋳を防ぎ、金銀両本位制が確立した。

ムラービト朝のイドリーシーがコルドバで地中海地図を作成し、ムワッヒド朝のイブン・ルシュドがコルドバでアリストテレス哲学を復興した。これらがイタリアに輸入され、イタリア・ルネサンスとなる。1492年、レコンキスタが終わる。

モンゴルはムスリム商人のマフムード・ヤラワチに経済を担当させ、関税をなくし最終売却地で安価な売却税を課した。徴税は銀納で一本化した。交鈔(銀との兌換紙幣)を発行したが、元末には通貨供給量が増大しハイパーインフレ。

1295~1380年、ヴェネツィア(勝)・ジェノヴァ(敗)戦争。cf.経度問題の解決

ヴェネツィア 神聖ローマ帝国・オスマン帝国と香辛料貿易。

ジェノヴァ フランス・スペインと絹織物貿易。大航海時代にポルトガルに出資。ポルトガルがヴェネツィアから香辛料貿易を奪った。しかしポルトガルの利益が債権を持つジェノヴァに奪われ、1578年、ポルトガルはモロッコ利権をめぐってサアド朝に大敗しデフォルト。1580年、スペインがポルトガルを併合し、ポルトガル負債をスペインが担った。スペインは、利子の高いジェノヴァ商人を見限って、利子の低いアントワープのカルヴァン派商人に借金した。カルヴァン派にカトリックを強制したため、ネーデルランドのアムステルダムに逃げられた。スペインは、イギリスやフランスとの対外戦争に戦費拡大、ロンドンやアムステルダムのロスチャイルド家にスペインとジェノヴァの富が移った。

明は、宝鈔(銀との兌換紙幣)を発行し、当初は発行限度額が守られていたが、経済発展につれ、通貨供給量を増し同じくハイパーインフレ。朝廷が、農業・産業・海外交易を統制経済。明後期には闇市が乱立し、税の収益が減り財政難に陥った。明初期には米作を強制していたのが、官吏と地主が結託し商品作物へ切り替え、民は飢餓で苦しんだ。朝貢貿易の為、赤字交易となり、さらに財政難。スペインによるアカプルコ・マニラ貿易でメキシコ銀が大量に明に流入したため、銀を通貨に定めた。万暦帝の「一条鞭法」にて人頭税(丁銀)と土地税(地銀)を銀納させ、財政難を克服した。王直や徐海といった倭寇が日本銀をさらに明にもたらした。倭寇は南蛮人を日本にもたらした。

1453年、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国でも、ハンガリーやサファヴィー朝との戦争に軍費を削がれ、マムルーク朝には手が出せなかった。1509年、ディウ沖海戦で、ポルトガルがマムルーク朝を破った。1560年、アチェ王国がオスマン帝国に支援を要請。ポルトガルとオスマン帝国がインド利権を争ったが、1566年、協定を締結しインド貿易を分け合った。オスマン帝国は、地中海交易とインド交易から巨万の富を築いた。

オランダ東インド会社 ローリスク・ローリターン株

イギリス東インド会社 ハイリスク・ハイリターン株

オランダ東インド会社に資金が集まり、アムステルダム金融は、三十年戦争にて新教国を支援。ニューアムステルダム(ニューヨーク)でイギリス毛織物をリテール販売。イギリスのクロムウェルが航海条例を盾に英蘭戦争(1652~1674)を起こし、オランダの利権を奪った。

清が地丁銀制。人頭税を廃止し、土地税を銀納。戸籍登録者が3~4倍に増加。王朝は土地を持たない貧民を免税し、異民族の自治を認め、儲けすぎないまともな連合国家だった。(なんで孫文は満洲人を目の敵にしたんやろ)アヘン貿易がはじまると、銀がイギリスに大量流出し、銀価が2倍に急騰し、納税が滞った。

18世紀後半、中米南米の金を海賊私掠したうえ奴隷貿易で資本蓄積したイギリスで産業革命。19世紀、イギリスはさらにアヘン貿易で巨万の富を得た。農業大国プロイセンは、イギリスから科学技術を盗んだ。プロイセンの国立大学に優秀なユンカー子弟と海外留学生が集まり、哲学と理工学と医学が繁栄。学術雑誌の公用語は英語でなく、ドイツ語だった。

1718年、イギリスはスペインと四か国同盟戦争を起こし、奴隷貿易の収入が途絶え、デフォルト寸前。宝くじの南海会社の株券と国債を強制交換させデフォルトを逃れたが、南海会社の株価がのちに急落し、一般株主が国債を支払う羽目になった。(1688年名誉革命でガラス張り課税議論が必要で、隠れて増税できなかったから)議会がイギリス国債を管理することに改め、国民の理解のもと重税を負担させプライマリーバランスを維持することで国債を低金利に抑え、イギリス国債が投資家の信用を得て、全ヨーロッパ富裕層から投資金を集めた。(日本も日清日露戦争でイギリス資金を頼った)

フランス・ルイ14世も第二次英仏百年戦争全敗で戦費がかさみデフォルト寸前。フランス国債の利子はイギリス国債の倍。(それだけ返済の信用がないということ)1716年、ジョン・ローがルイ15世のリフレ経済政策ブレーンになり、国王の紙幣発行権を王立銀行に与え、王立銀行発行の紙幣をミシシッピ会社に融資して、株価をバブル上昇させ、1720年、バブルがはじけたときにはフランス国債が消えた。つまり一般株主に国債を支払わせたことになる。だが第二次英仏百年戦争が再開になり、王室財政が大赤字。フランス革命で債権者の貴族と債務者の王室をギロチン処刑して借金をチャラにした。

金融資本主義

独占資本(カルテル・トラスト・コンツェルン)と巨大銀行資本の融合

1871年、ビスマルクの強力なリーダーシップのもとドイツ帝国を建て、国家が金融資本主義を打ち立てた。

1865年、南北戦争を終え、北部の産業ブルジョアが金融資本主義を打ち立てた。アメリカはドイツと異なり、自由主義を尊重する立場から、独占禁止法を制定して、独占資本の活動を規制した。

イギリスは、零細事業を経営した産業ブルジョアが様々な利権団体を形成し、議会での発言力が強力で社会が硬直化した。ビスマルクはこういった、決定までのまどろこしさを嫌悪した。19世紀以降、イギリスは、慢性的デフレ・低金利化・出生率低下の三重苦に苦しんだ。低金利の貯蓄や国内投資を避け、高金利の植民地への対外投資へと向かった。植民地から原料を調達し、農業産物に対する加工を主とする軽工業が経済の中心となった。

一方、ドイツは、鉄鋼・電気・化学といった重工業が経済の中心となり、重工業製品が安い労働力に支えられ価格が低く設定され、イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国に輸出された。イギリスやフランスの植民地経営はドイツの重工業産業資本に依存することになった。

アメリカは、鉄道建設事業の資金をイギリスから借り入れており債務国だった。第一次世界大戦中、イギリスとフランスがアメリカから巨額の戦費を借入れ、債権国へ転じた。大戦中の1917年、ロシア革命でロシアが戦線離脱すると、ドイツ・オーストリアが勝勢に転じた。イギリス・フランスの対米負債支払いが滞ることを恐れたアメリカは、モンロー主義を破棄し、ドイツへ宣戦布告。戦後1920年代、アメリカは黄金のバブル時代を迎えた。

イギリスは、対外投資を牽制するため、イングランド銀行がFRB以上まで金利を引き上げた。1929年、リバモアとケネディの株の空売りを契機に、外国資本がアメリカから撤退し、アメリカのバブル崩壊で世界恐慌。

バブル崩壊後デフレの処方箋は財政出動と金融緩和なのだが、金本位制にこだわったアメリカはデフレ脱却に失敗。日本も井上準之助が金本位制を敷き同じく失敗。高橋是清が世界初のリフレ政策でデフレを脱却しかけたところで、二・二六事件で殺害された。

ドイツは、政府主導の金融緩和でハイパーインフレを起こして赤字国債を解消し、土地・設備などの資本を買い入れた。1923年、シュトレーゼマン首相がレンテンマルクを新発行し、アメリカのドーズがドル資本をドイツ通貨に注入し、アメリカ資本の傘下にドイツ経済を置いた。ナチス(社会主義者)が国家主導で、大規模公共事業・住宅整備・再軍備により失業率を改善。労働組合や物価を国家監視下に置いて統制した。シャハトは、レンテンマルクをドイツ土地資産と連動させ、レンテンマルクの信用を確保。ダミー会社メフォに秘密裏に莫大な赤字国債を買わせた。1938年、メフォ手形の償還期限が迫りハイパーインフレの危機を乗り越えるため、ナチスは対外侵略を敢行。

日本は孫文を育て、「滅満興漢」辛亥革命に参加。孫文はブルジョア民族資本の基盤を持たず、共産主義者が多い農民に支持を求めた。李鴻章と(日清戦争敗北に驚いて近代化した)清朝政府を裏切った袁世凱に脅され蹂躙されてしまったのが、そもそものつまづき。1925年、孫文の死後、蒋介石がブルジョアの支持を受けて共産党を弾圧。1928年、イギリス・アメリカから自主関税権を獲得。1929年、世界恐慌で銀価格が下落し、世界で唯一の銀本位制のおかげでインフレが維持され(他国はデフレで苦しんだ)上海に世界の資金が流入。1935年、通貨改革(廃両改元)で新紙幣元を発行。イギリスはポンドと元、アメリカはドルと元を連動させ銀を買い取り、蒋介石は銀使用を罰した。元流通を認めるなら満洲国建国を容認するというイギリスと中国の要求を日本は却下、円を通貨立て。小国だった台湾と朝鮮はある程度うまくいったが、大国中国はこれでは信用を得られず。元、ポンド、ドルが流通。1941年、日本は偽札の元をばらまき、民心が蒋介石を離れた。同じく共産党の毛沢東は、長征で地主農民を大虐殺して土地を強盗、小作農民に分け与えて農民の支持を得た。蒋介石はナチスから武器購入、毛沢東はアメリカ共産主義者(GHQ)から武器購入、戦後、日本の満洲資本を無償で奪取した。

第二次世界大戦後、アメリカにユダヤ資本が流入、さらにドイツが居ない間にスイス銀行の故ユダヤ人貯金を吸い上げた。優秀なユダヤ人学者が原子爆弾を開発、日本で実験成功。GHQにより大蔵省屋上から銃を向け日本国憲法を、国際法違反&帝国憲法違反で強制、GHQにより円紙幣を増刷・横領・着服しハイパーインフレをもたらし、GHQによりソ連にも原子爆弾開発機密が漏洩。1947年、トルーマンドクトリンでギリシャとトルコをドル支配したが、つづくマーシャルプランでアメリカはヨーロッパ制覇を企むも、東欧はすでにルーブルが支配しており、ドル介入ならず。ケインズ派カイザーリングの軍拡戦略方針「NSC-68」を採用。世界の警察として軍拡。ソ連もレーガン政権の軍拡に呼応して民間経済が破綻して自滅。アメリカの貿易赤字は日本をバッシングしてもおさまらず、ベトナム戦争や湾岸戦争でも朝鮮戦争のような景気回復はなく、軍需産業機密兵器パソコンを市場に公開して景気が好転した。現在は、軍事技術が民間技術を牽引するのと反対に、軍事技術は民間技術に依存している。ロシアは2000年デフォルトを経て石油会社国有化、東欧を石油パイプラインで脅しながら経済回復。ウクライナ・ロシア戦争はドローン戦(機械の特攻隊)になった。日本は黒田日銀総裁をたてアベノミクスでデフレ脱却しかけるも安倍晋三政権の二度の消費税増税で景気回復成らず。日本が資金と鉄材廃品と最新電子機器を貢ぎ、軍拡を支えた中国は呆れんばかりの箱もの不良債権でバブル崩壊して、目下、政情不安定。少子化は食糧が足りて減税し景気回復すれば簡単に解決するのだが、小児科も歴史的モニュメントになりつつある。

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2024年9月27日 (金)

長宗我部元親

長宗我部元親、わたしの母方の先祖が仕えた岡豊城城主だ。家康が放り込んだ掛川の山内一豊と因縁の対決が続いている。元親の譜代家臣団から武市半平太、中岡慎太郎、坂本龍馬(明智光秀亡命旧家臣)を輩出。

秀吉は、三好氏残党だった十河存保(そごうまさやす)を支援。元親と対立を続けていた。元親は、1584年(天正12)小牧長久手の戦いで、織田信雄・徳川家康方につき、その要請により淡路渡航、畿内上陸を図った。

三長老

1 久武親信(ちかなお)

2 吉良親貞(ちかさだ)

3 香宗我部親泰(ちかやす)

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土佐統一

1574年(天正2) 一条兼定を幡多城から駆逐。兼定は大友義鎮(よししげ)のもとに亡命。わたしの父方先祖が仕えた佐土原城城主・伊東義祐(よしすけ)は島津義久に敗れ大友義鎮のもとに亡命。よって長宗我部元親は、島津義久と親交を結び、大きな船で黒潮交易した。

 

阿波侵攻 香宗我部親泰担当

1582年(天正10) 中富川の戦いで十河存保(そごうまさやす)を破る。阿波水軍の森村春(むらはる)が死守する土佐泊城は落とせず。

1583年(天正11) 豊臣秀長が長宗我部征伐のため、土佐泊城に上陸し、まずは拠点とした。

 

讃岐侵攻 長宗我部元親担当

1584年(天正12) 十河存保を破り、十河城を陥落させたが、虎丸城は落とせず。

 

伊予侵攻 金子元宅(もといえ)担当

久武親信が金子元宅を調略し、十河存保を挟撃。敵対した河野通直(河野水軍)は健在。

1585年(天正13) 安国寺恵瓊の暗躍で、毛利輝元が秀吉と和睦。長宗我部元親を攻めるため、伊予上陸。金子元宅が抵抗するも戦死。河野通直は籠城するも、小早川隆景(小早川水軍)に降伏開城。恵瓊は厳島の千畳閣を建てて凱旋・九州攻めの秀吉を喜ばせた。

 

宇和島侵攻 久武親信担当

1584年(天正12) 大洲城主(平出雲守)と曽根宣高を調略し、西園寺公広(きんひろ)を破る。

ところが、西園寺公広は織田信長と和睦を結んでおり、信長が長宗我部元親に激オコ。元親と親戚筋だった明智光秀の本能寺の変へと進展していく。

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遠山啓先生「関数を考える」

父が戦時中、霞ケ浦海軍航空隊で、教官だった遠山啓先生に心酔していたもので、小学校5年のとき、水道方式の一環としてい1冊の本を読まされた。

それが、「関数を考える」

写像の話からはじまり、ブラックボックスを関数にたとえ、2次方程式や3次方程式の解法から接線・微分法まで小学生でもわかりやすく解説されていた。その本の中で開平法が記載されており、筆算でルート計算を小学校6年にはできるようになっていた。四則演算や分数・小数計算に飽き飽きしていたので、いい暇つぶしになった。

3次方程式の解で出てくる立方根を求める開立法が50年以上、心の中で疑問だったが、最近ようやく習得した。水道方式は「数学は簡単だ」をコンセプトとし、初心者を遠い駅へ運んでくれる新幹線のようなものだ。

昔、東京出版の著名な先生がおっしゃっていたが、数学は2次・平面だけじゃつまらない、3次・立体までやってはじめて面白さがわかると。

文科省の数学カリキュラムはいじくりまわって、回り道がひどいように思う。情報かぁ、大変やね。それって統計物理の世界やん。さっさと先の概念習得へ進んで大学入試問題を解きまくればいい。大学に入って、先々問題解決のツールとして、解析幾何も複素数も行列も3次元ベクトルも必要だ。

最近の入試問題流行は、積分、整数合同式のようだ。ライプニッツやガウスがお好きなんだね。我々の10年上の世代は漸化式、複素数、我々の世代はベクトル行列、確率だった。

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2024年9月25日 (水)

銀次で関目君と飲み会7

関目君が来訪。オリックスの話を聞いてました。

オリックス・バッファローズ ✕

オリックス・バファローズ 〇

せやったんや。

角を一振り、つむじ風バッファローズ♬

ほな、あれはなんやったんや??

ラオウの話へ。NHKヒーローインタビューで、自著「僕がラオウになる日まで」を宣伝したとか。マジか。中島監督が二軍球場から直接連れてきたんやね。T・岡田、引退するんやね。敵側のキャッチャーがフライをわざと落として、審判がエラーやなくファウルと判定した話、いいねぇ。いまこの時期、真剣にパリーグで野球やっとるのは、ソフトバンクと日本ハムだけか。

近鉄バファローズ時代を知らないとのこと、知っているだけの知識は申しました。近鉄が球団を捨て、OSKを捨てたこと。

西武・源田がオリックス・安達の引退胴上げに参加した美談も聴きました。

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2024年9月23日 (月)

ソフトバンクホークス優勝

おめでとうございます。どすこい山川の加入で無双に進化しました。日本一もお願いします。

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2024年9月22日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて36

1008年(寛弘5)

彰子が懐妊。紫式部を含める彰子サロンが土御門邸に移動。紫式部と道長・倫子が同居する形となる。媄子内親王が早逝。花山法皇が崩御。清少納言、竹三条宮に居て脩子内親王に仕える。一条天皇の定子への偏愛を失った理由を知った清少納言、伊周に源氏物語を読みたいと訴える。伊周が彰子を呪詛。彰子が敦成親王を無事に出産。紫式部、道長の命により日記を執筆開始。

大納言道綱、居貞親王邸に出入りし、道長に対するスパイとして働く。敦明親王、道綱を狩りに誘う。敦明親王、乱暴者の感じ有り。源明子、源倫子への対抗意識をさらに燃やしつづける。実子の頼宗・顕信・能信・寛子らの出世を画策。

 

*道長菩提・法成寺建立のため、城門や屋敷の礎石を引っこ抜いて奪って集めた。

*債務取り立てで相手の従者を拉致・水責めリンチしてもよかった。検非違使の牢獄に収監したが、井戸水が枯れておりものすごく不衛生で死者が多数出た。

*女房同士、女房と下男の取っ組み合いの喧嘩が日常茶飯事だった。

*内裏や貴族邸宅には強盗がよく入って、女房が着ぐるみ剝がされたり、拉致されたり、放火されたりした。近衛府や検非違使は機能不全。

*内裏女房のバカ息子たちが、殺人・傷害という凶事沙汰を働いた。

 

*敦明親王(小一条院)の凶行

1013年 藤原道雅の敦成親王従者への指示によって、敦明親王の従者(小野為明)が半殺しの目にあった。

1014年 加賀守・源政職(みなもとのまさもと)を敦明親王邸宅(堀河院)に拉致した。

1015年 内裏火事で、母親の皇后・藤原娍子を背負って逃げた。

1017年 皇太子を辞退。

1021年 紀伊守・高階成章(たかしなのなりあき)を路上で袋叩きにした。

1023年 前長門守・高階業敏(たかしなのなりとし)を路上で袋叩きにした。

1027年 藤原実資の従者を拉致未遂。

 

とくに坂東には、王臣子孫、群盗、俘囚が入り乱れて、自分の身は自分で守るしかない社会だった。

諸国には、王臣子孫と乱暴な王臣家人がいて、王臣家の権威と免罪特権を振りかざして、百姓の財産や墾田を奪い、強制的に墾田を耕作させ、年貢を全く払わず、国司・郡司が集めた税を差し押さえて債権回収と称して強奪していた。

王臣子孫が平然と受領に反抗しても罰が軽いか、罰を受けない。王臣子孫を犯罪者として処罰しようにも執行できる武力が受領になかった。

受領が朝廷に税を納めるためには、武力の強い乱暴者を受領に任じればよかった。受領を強くするのではなく、強い者を受領にすることで問題解決を図った。

第二の平将門を作らないためにも藤原利仁や藤原秀郷には受領の世襲が許されなかったが、平貞盛や源経基は、摂関政治によく順応し、特別に世襲が許されていった。道長や顕光といった公卿の家人(郎等)として、日常の喧嘩から地方からの納税に至るまで、忠実に働いた。つまり王臣子孫のように誰彼問わず乱暴を働くのではなく、公卿には犬となり、心のない民衆には乱暴者の顔をみせたのだ。手っ取り早く、全国を治められているような幻想を公卿たちに抱かせた。

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宝塚歌劇星組「記憶にございません!」「Tiara Azul」(ライブ配信)をみて

自宅でまったりとライブ配信観劇。舞空瞳サヨナラショーにもうっとり。まこっちゃんからひっとんへのラブメッセージがこめられていました。

ダンスの花組からの舞姫・舞空瞳ちゃんと、星組の超人・礼真琴さんによるたくさんのデュエットダンスを堪能いたしました。

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2024年9月20日 (金)

紫式部「日本紀の御局」の後宮三つ巴戦争

1 倫子方女房

 大納言の君、小少将の君、ともに倫子の姪。

 紫式部

2 明子方女房

 宰相の君/敦成親王乳母

 馬中将/明子の姪

3 内裏(一条天皇方)女房

 左衛門の内侍(源明子/源典侍の後継者) 

 *敦康親王・脩子内親王に仕えた、つまり定子・中関白家派。

 

源氏物語中の源典侍(げんのないしのすけ)として源明子が紫式部に攻撃を受け、左衛門の内侍が紫式部を「日本紀の御局」と揶揄して反撃。

紫式部は具平(ともひら)親王の妾だったのだから、具平親王サロンで日本紀を漢文で読んでいてもおかしくない。「紅葉賀」は倭帝・上宮法皇が618年に大宰府倭京で催した観世音寺落成式の事だ。源氏物語の時代設定は、上宮法皇の嫡子であった利歌彌多弗利(わかんどおり)だと源氏物語に明記されてある。推古大王も、蘇我氏に小突かれた聖徳太子も後宮を持たなかったので、上宮法皇ではない。紅葉賀の巻を発表後、源典侍が一条天皇に辞職願を提出した。

道長の平安期、皇族や藤原たちが倭帝の後宮をやんややんやと侮辱していた。倭帝は日輪=阿弥陀如来の生まれ変わりとされ、「菩薩天子」と呼ばれていた。607年、東の菩薩天子すなわち上宮法皇が、西の菩薩天子である隋の煬帝に、ご挨拶申し上げるとへりくだって小野妹子を派遣したつもりだったのが、煬帝が倭帝に対等視されて大激怒したというわけ。ちなみに倭国は入れ墨をしている大和朝廷は入れ墨をしていない「大」で格下だった。俺たちは「大」倭=大和、偉いんだぞという主張が見える。帝は複数の王の上に君臨する。

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2024年9月19日 (木)

宝塚歌劇星組「記憶にございません!」「Tiara Azul」(3回目)をみて

10時過ぎに、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階やや前方やや下手側の良席でした。

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今日はマイ楽、舞空瞳ちゃんをしっかり見納めました。

水乃ゆりちゃん、身長高い、手足長い、プロポーション凄い。オペラでみたが、なんか寂しそうな表情だった。長い間、せーら、ひっとんの陰でお疲れさまでした。こないだ旦那のトビアス、みてきましたよ。

102期娘役スーパーダンサーの共演を望んでます。優秀な期!

舞空瞳

三空凛花

菜々野あり

水乃ゆり

潤花

花宮沙羅

紅咲梨乃

 有栖妃華、春乃さくら、都優奈のすばらしい歌に乗せて。

宝の持ち腐れとはこのことだ。

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2024年9月18日 (水)

宝塚歌劇月組「BLUFF(ブラフ)」(ライブ配信)をみて

午前診を終え、自宅でまったりと観劇しました。月組次期トップコンビのプレお披露目公演ですね。

恩人をマフィアに殺されたドノヴァン(風間柚乃)が、くすぶって生きている娘シャロン(花妃舞音)と出会い、恋心を抱きはじめる。メンデス(佳城葵)に復讐を果たすため、詐欺師チームを組んで、シャロンを囮にして、鼻の下を伸ばしたメンデスに偽のダイヤモンドを掴ませて本物のダイヤモンドを奪い取るという痛快劇。ゴッドファーザーの姪、メンデスのダチ女アイリーン(彩みちる)が騙しの計画に気づくも、浮気の痴話げんかで愛想をつかしたメンデスに返り討ちに会う。アイリーンに出入りしていた花売り娘キティ(乃々れいあ)は、ろくでなしのギャンブラー、オツムが及ばないロジャー(彩海せら)を操って、二重スパイとしてドノヴァンに協力。詐欺師チームはめでたく解散して、思い思いの人生を歩き始め、ドノヴァンとシャロンがハッピーエンドで結ばれる。

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2024年9月17日 (火)

平城宮趾にて中秋の名月

朱雀門を遠目に、虫の声を聴きながら、お月見をしました。

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2024年9月14日 (土)

CJPO-WWホール「七色いんこ」をみて

午前診を終え、近鉄、大阪メトロ中央線に乗り継いで、森之宮駅下車。嫁とCJPO-WWホールに行ってきました。座席は1階下手側やや後方通路側の良席でした。

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主演、七海ひろきさんにちなんだのか、宙組「オーシャンズ11」「High&Low」と星組「記憶にございません」を足して3で割ったようなドラマ展開でした。いきなり元ヤン刑事役の有沙瞳ちゃんが、殴る蹴るのアクションシーンからスタート。ハムレットのシーンで、剣を持って西洋風チャンバラ劇。最近、全健忘症がブームなのかね。黒田啓介も千里万里子もこの珍しい病気を患っていたとは。

回想シーンで次々と謎が明かされていくのですが、ジェンヌの周りの役者が主役を食う勢いでうますぎ。鍬潟陽介(土屋直武)がめっちゃ芸達者、トミー(藤田玲)の英語芸うますぎ、鍬潟隆介(郷木直也)の声量がデカくて迫力満点。陽介の女装はウケました。とくに狐川イナコ(岡村さやか)の歌がうますぎて驚きました。父子憎しみ合いのハムレット悲劇をベースにして、「役者には役者の復讐のやり方っちゅうもんがある。」が強調されていました。

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2024年9月12日 (木)

宝塚歌劇雪組「ベルサイユのばら」新人公演(ライブ配信)をみて

マリーアントワネット役の白綺華ちゃんのファンなので、そりゃー観ました。うまい、きれい、重量感がアントワネットらしい。107期音楽学校卒業式答辞のときからトップ娘役まで応援してます。

フェルゼン役が碧波黎也さん、あおはれいや、はじめてお名前を知りましたが、歌、お芝居うまいですね。セリフが聞き取りやすく歌声が突き抜けていてうまい。ラストの「王妃さまー。」がナイス。104期、長の期、これから注目します。

ロザリー役の音彩唯ちゃん、ドンピシャのお役でした。華純ちゃん、芸の幅広げましたね。ファンでーす。すわんちゃん、紗あらちゃんペアのバレエ、きれいです。雪娘、層が厚すぎ。

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2024年9月11日 (水)

彰子と妍子の闘い、そして天皇の乳母たち

「光る君へ」いよいよ盛り上がってきた。無口な彰子、いやいや妹・妍子と闘う戦士だ。彰子with頼通教通 vs 妍子with能信。乳母は絶大な権力を持つ。同じ乳母を持つ藤原が一同に集ったからである。八条院(暲子内親王)が平家を滅ぼしたし、(武将母親代わりの)ねねが豊臣家を滅ぼした。

懐仁親王(一条天皇)乳母

 橘徳子(藤原有国妻)

 藤原繁子(平維仲妻)

 藤原文信妹(源奉職妻)

敦成親王(後一条天皇)乳母

 藤原豊子(大江清通妻・藤原道綱娘)

 藤原基子(源高雅妻・藤原親明娘)

 藤原美子(藤原惟憲妻・藤原親明娘) *従二位まで出世

 藤原惟憲娘

 橘為義娘

敦良親王(後朱雀天皇)乳母

 藤原美子

 藤原明子(藤原説孝娘)

 藤原惟憲娘

 源香子(源経成妻)

 橘為義娘

親仁親王(後冷泉天皇)

 藤原美子

 藤原賢子(紫式部娘・高階成章妻)

 藤原惟憲娘

 源経子(源経成妻)

 橘為義娘

尊仁親王(後三条天皇)

 源成子(源経成娘)

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2024年9月 9日 (月)

藤原道雅、姸子内親王サロン、禎子内親王サロン

女たらしの悪い奴、藤原道雅。三条天皇の縁故者を食い物にしていった。「御堂関白記」を読んでいると、居貞親王は、道長といっしょに行動している。仲良かったようだ。

正妻 藤原宣孝娘 *宣孝は紫式部の夫

妾 平惟仲娘 *のち姸子内親王サロン女房筆頭を務め、「大和宣旨」と呼ばれた。

1013年 敦明親王の従者を半殺しの目にあわせた。

1016年 斎宮から帰京したばかりの当子内親王を犯した。

1024年 付き合いを断った花山天皇の皇女を隆範に殺害させた。

 

道長・倫子が三条天皇に入内させた姸子。大和宣旨をはじめ、常套手段のサロンを形成したが、皇女(禎子)が生まれ皇子が生まれなかった。道長激オコ。道長死去前年に姸子早逝。倫子ともどもめっちゃ泣いた。紫式部は7年前に死去。

母親のサロンを禎子内親王が引き継ぎ、白河院政下でのドンに巨大変化した。

摂関政治という呼称をやめて、女房サロン政治に改称すべきだ。美貌だの乳母のお乳だの、幼い天皇や二十歳の藤原といった殿方を虜にしている。皇女・内親王の地位は高く長生きして、長講堂領やら八条院領やら、鳥羽上皇が藤原から奪った不動産をいっぱい抱えていた。承久の乱で、これら不動産が全部、寺社やら北条氏一族独占になってしまう。僧兵は不動産を元手に金融取り立てを生業とした。

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2024年9月 8日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて34

1007年(寛弘4)

1月5日 藤原嬉子誕生。藤原斉信の中御門焼亡。

1月13日 五位蔵人に藤原道雅(みちまさ)、六位蔵人に藤原広政(ひろまさ)と藤原惟規(のぶのり)。

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大阪松竹座「カルメン故郷に帰る」をみて

高峰秀子主演の松竹映画は10回以上観た。東京池袋で何度も観た大好きな映画だ。近鉄特急で難波へ、井高野君と現地集合。座席は2階上手側。

おきん/リリーカルメン 藤原紀香

朱美/マヤ 横山由依

青山正一(おとっつぁん) 石倉三郎

ゆき(姉ちゃん) 月丘七央

田口春雄(オルガンの先生・カルメン初恋相手) 徳重聡

田口光子(春雄の献身的な妻) 惣田紗莉渚

 

牛に頭を蹴られておかしくなったおきんが、芸術の勉強をしに東京へ。おとっつぁんは心配で仕方なかったところへ、不意に娘が紀の川に帰るという知らせがある。おとっつぁんの予感的中で、まともな芸術なんかではなく浅草ストリップ劇場で働いているとのこと、派手な格好で朱美を連れて凱旋する。

イケメンで戦前はぶいぶい言わせていた春雄が、戦地で視力を失い復員。耳が聞こえなくなったり死んでしまった戦友より自分はずっと恵まれているとは言ってはみるものの、目が見えないことで差別を受けた、心の傷は癒されない。見える目はもう帰ってこない。自分は生きる価値はないんじゃないかと悩む日々を送る。光子も献身的に夫に尽くすも、まだ若いのだから綺麗な服を着たり化粧をしたりしたいお年頃だろう。そういった憧れも、愛する夫の介護のためにあきらめざるを得ない。失明して小学校教員を解雇され、光子は内職で家計を支えていかなければならない。いのち同然のオルガンをついに質入れしてしまう。

おきんが紀の川でストリップを披露して喜ぶのは、無責任な若人男性たち。彼らも日々生計を立てるために汗水流して働いている。怒り狂う女性陣。そんななか、おきんがパンパンと言われ差別を受ける。落ちぶれてしまったおきんが情けなくて、おとっつぁんは遂におきんを勘当する。姉ちゃんが必死になって、おきんとおとっつぁんのあいだを取り持つも、おとっつぁんの心の傷、おきんの心の傷は癒されることはない。とはいえおとっつぁんを愛するおきん。稼いだ金は老いて病むおとっつぁんに全部預ける。その金で、いのち同然のオルガンが春雄の手にもどる。小学校からオルガンの音が響く中、おきんと朱美を乗せた汽車が東京へ去っていく。結局、おきんが、ひとりの人間の生きがいを与えるという善業をひとつおこなった。みんなが心の傷をかかえながら、たくましく生きていくのであった。

ただ紀の川の自然だけが、なにも変わることがない。ふるさとは傷ついた人間をいつも暖かく迎えてくれる。

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2024年9月 6日 (金)

宝塚歌劇星組「記憶にございません!」の解説

柳友一郎(美稀千種組長)の名言集。

「法律は運用が大事だよ。」

法律が大事なことは黒田啓介首相も合意した。法律は、法律違反したときの罰則がなければ無意味。明治維新自由民権運動法案や終戦直後憲法法案の「我々は人間である。」を違反することができるのか?条文間の矛盾がないことも法学者の最重要チェック事項だ。立派な条文を並び立てても意味がなく、運用できてはじめて意味が出る。法律を運用させるのは強制力(暴力装置)。

室戸防衛大臣(奏碧タケル)

「アメリカを怒らせてどうするのか?」

日本はアメリカの属国である。アメリカ軍が日本に駐留を続けている。中国が日本を属国にしたいと名乗りを上げてきている。

日本人は念仏好き。「戦争放棄」という念仏を唱えたらすべてが解決できると思う節がある。中国人も4文字スローガンが大好きだ。日本だけが戦争放棄した場合、外国から侵略を受けたらどうするか?左翼は外交話し合いで解決すればいいというが、軍隊を持たない国の意見を聞くような外国はない。外交とは降伏することではない。国連はアメリカとロシア・中国という利益相反団体が所属しており、拒否権が行使できるため一致した軍事行動は期待できない。左翼は「軍隊は戦争抑止力になる。」という議論を黙秘する。

「元首支持率2.3%で総理の地位に居られるのは、反対意見を自由に言える素晴らしいことだ。」

「元首支持率100%で人民共和国という立派な国名を持っても、言論の自由がないのでは意味がない。これを独裁と呼ぶ。」

言い得て妙なり。実際は官房長官に最高権力はなく、財務省事務次官が最強だろう。この問題点は官僚が国民の選挙で選ばれていない点にある。

美稀千種さんの「龍の宮物語」任侠親分、「めぐり会いは再び」旅芸人団長、「ロミオとジュリエット」神父の役がわたしの大好物。

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2024年9月 5日 (木)

宝塚歌劇星組「記憶にございません!」「Tiara Azul」(2回目)をみて

朝8時半に嫁と家を出て、近畿自動車道と渋滞の中国自動車道を走って、宝塚大劇場に10時に到着。座席は1階前方上手側の良席でした。キャトルレーヴで、舞空瞳ちゃんのブロマイドを買いました。

井高野君も嫁も「星組、美人多くね。」

私は「せやろ、花組と星組はすごいで。」

「次観る花組公演も期待しといて。」

みんな、あーちゃんとくらっちの置き土産。

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目の前の銀橋で、どどーんとスターが。オペラグラスを肩にかけて青色星組カラーの服を着てアピール。

国会中継のシーン。上手側花道で、極美慎君の周りを田原坂46のギャルが囲んで飲み会。生ビールジョッキを持つジェンヌが多いなか、かわいい藍羽ひよりちゃんは、レモンサワーを飲んでいました。

田原坂46上手側担当では、乙妃優寿(おとひゆず)ちゃんが目立ってきれいだったな。

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客席降り。目の前になんと瑠璃花夏ちゃん、乙華菜乃ちゃん、鳳花るりなちゃん、そしてそして、詩ちづるちゃんが長時間踊ってくれました。かわいいですぅ。

首席の茉莉那ふみちゃんもオペラで追っかけ。

ラインダンスはセンター下手隣に、藍羽ひよりちゃんが、かわいらしく踊ってます。

まこっちゃん&ひっとん、ディズニー「When you wish upon a star」にのせて、奇をてらわず、模範的なクラシックバレエでしめてくれます。嫁、大喜びでした。御贔屓ダンスの花組とミスターパーフェクトまこっちゃんのすばらしい合作ハーモニーを目に焼き付けました。

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2024年9月 4日 (水)

宝塚歌劇星組「記憶にございません!」「Tiara Azul」(1回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、宝塚大劇場に行ってきました。現地で井高野君と合流。座席は1階やや前方下手側でした。キャトルレーヴで、芹香斗亜さん、彩風咲奈さん、詩ちづるちゃんのブロマイドを購入。

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鶴丸(金丸?)幹事長は10年勤続で総理が5人代わったとか、人民共和国とか名前は立派でも人権がないとか、なかなか際どい皮肉が効いているなと思いました。瑠璃花夏ちゃん演じるアメリカ大統領(ヒラリー?)が、おちゃらけK2計画を日本に押し付けるなんぞ、属国日本の政治を風刺して余りあるものでした。現実は財務省事務次官&〇兆円ウクライナ支援金だけどね。

一番笑えたのは、ひろ香佑さんの演技。小野田治が長髪の蛮カラで登場し、若き黒田啓介(礼真琴)に助けられ、わたしの髪の毛は永遠に不滅ですと言った矢先に、バーコード焼野原になって、円熟した黒田啓介に二度救われるといったストーリー。

退団する水乃ゆりちゃんのニュースキャスターを見納め。

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ショーは、サンバの圧がすごく、客席降りでは間近に藍羽ひよりちゃん、綾音美蘭ちゃん、水乃ゆりちゃんを見れてよかったあ。

退団する舞空瞳ちゃんをオペラで追っかけました。セーラー服姿、まこっちゃんとのデュエットダンスを見納め。

カサノバ風のまこっちゃんに絡むのが、新人公演主演経験者たち。次回からこの体制で行くのかあ。

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2024年9月 2日 (月)

芹香斗亜さん退団

なんでやねん。キキ退団したら、宙組はみない。

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安和の変(969年)

父・藤原師輔(もろすけ)の3兄弟が、伊尹(これただ)、兼通、兼家。兼通と兼家が不仲で、兼通は関白を辞する際、嫌いな兼家ではなく、従兄の藤原頼忠に譲ったことは有名な話。

ここでキーパーソンがいて、それが兼明(かねあきら)親王。源兼明(醍醐天皇第11皇子臣籍降下)であって、源高明(醍醐天皇第10皇子臣籍降下)のすぐ下の弟であった。「前中書王(さきのちゅうしょおう)」と呼ばれ、サロンを主催していた。子が源伊陟(これただ)で孫娘が宣旨の君。

969年、安和の変で、伊尹の指示で仲良しの兼家が穢れ仕事を務め、源高明を失脚させたことは確実視されている。源兼明は連座を免れ、971年、左大臣に就任。関白・兼通が977年、今わの際で、左大臣・源兼明を兼明親王に皇籍復帰させ、空いた左大臣の席に右大臣・藤原頼忠を据えて、関白を譲った。977年、同時に円融天皇は異母兄・源昭平を皇籍復帰させ、昭平親王とした。兄に臣下の礼を取らせないようにするための配慮だった。

984年、花山天皇即位。藤原義懐(よしちか)、藤原惟成(これしげ)、藤原為時が補佐。慶滋保胤(よししげのやすたね)が後宮サロンを主催。

1 永観の荘園整理令

2 禁破銭令

3 沽価法

985年、花山天皇、姫子寵愛が冷め、溺愛した怟子が懐妊中に死去。

986年、出家騒動が続出。資子内親王、藤原暁子、藤原相中、慶滋保胤、盛明親王が相次いで出家した。寛和の変で、花山天皇、藤原義懐、藤原惟成が出家。

一条天皇即位によって、藤原実資から藤原道兼に蔵人頭交代。道兼は中将を兼ねていたので、「頭中将(とうのちゅうじょう)」と呼ばれた。

*内裏を警護する近衛府。長官が大将、次官が中将。

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2024年9月 1日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて33

1006年(寛弘3)

1月28日 除目の議の際、伊勢守・藤原為度(ためのり)から平維衡(これひら)だけは後任にしないことを念押しされ、辞表がもたらされた。平維衡は平貞盛の子で伊勢平氏の祖。右大臣・藤原顕光の家人で、堀河院を修理。平維衡は、998年(長徳4)に伊勢国で坂東平氏の平致頼(むねより)と合戦に及んでいた経歴を持つ。藤原顕光の推を退け、道長は欠官にまま一条天皇に奏上した。一条天皇は定子の次に元子がお気に入りで、顕光派の平維衡を推したという説がある。

国司が武力を持つと、武力を物言わせる世の中に変わることを、道長は危惧し、一条天皇にも理解を求めた。テレビでは、藤原隆家が、「これからは朝廷が武力を持たねばならない世の中になる。」と道長4納言に捨て台詞を吐いていた。

*平維衡は、道長が金奉山参詣の折、暗殺計画に加担した。

 

具平(ともひら)親王サロン(漢詩・和歌・香道・音楽・医学・仏道・陰陽道サロン)

親王は「六条の宮」「中務(なかつかさ)の宮」と呼ばれた。

邸宅は「桃花閣(とうかかく)」「千種殿(ちぐさどの)」と呼ばれた。季節ごとの花が咲き乱れるのを愛でた。源氏物語「六条院」のモデルになった。

1主催者

具平親王(969-1009)村上天皇第7皇子。長女・隆子(たかこ)を藤原頼道の正妻とした。さらに三女・嫥子(せんし)を斎宮に任じたのち、藤原教通の正妻とした。紀斉名(きのただな)と大江以言(おおえのもちとき)と慶滋保胤(よししげのやすたね)に学んで、文才、管弦、医学にたけており、「後中書王(のちのちゅうしょおう)」と呼ばれた。

藤原為時 紫式部の父

藤原為頼 為時の兄、紫式部の叔父

慶滋保胤 比叡山念仏結社の勧学会。六条池亭(阿弥陀堂)に住み、念仏三昧の日々を送る。「内記入道」と呼ばれ、陰陽師の真似事をする法師を戒めて私財を与えた逸話が残る。

藤原行成 

2女房たち

紫式部 具平親王の妾。のち道長の妾。藤原宣孝の妾となるも早逝。テレビでは奥手に描かれているが、男性遍歴がなければ源氏物語なんて書けるわけもなかろう。

 

彰子サロン

上臈にしか色物の服を着ることが許されなかった。十二単の色に注目!

1.幹部クラスの主催者

源倫子 左大臣・源雅信娘。左大臣/内覧・道長を完全支配する女帝。従一位まで出世の極み。正一位になれるのは亡霊だけ!紫式部を相手にせずとも、紫式部は最大警戒を怠らなかった。大鏡「御幸ひ極めさせたまひにたる」

赤染衛門 検非違使・赤染時用(ときもち)娘。実父は駿河守・平兼盛。倫子の古参女房。尾張守/丹波守・大江匡衡(まさひら)の妻。長男は和泉守・大江挙周(たかちか)。娘は江侍従(ごうのじじゅう)、後一条天皇と中宮(威子)に仕えた。

*紫式部は漢籍のプロ。清少納言は和歌のプロ。定子サロンで漢籍をひけらかす清少納言に対して紫式部は嘲笑。和歌がノンプロだったので紫式部は和歌をたくさん詠んだ。高等な技巧を要する漢籍でのミスは許されないという思いが強かったので易々と人前でご披露しかねた。

*紫式部の三才女批評

和泉式部「趣深い歌詠みだけど大して和歌に精通していない」

清少納言「利口ぶって得意顔だけど上っ面だけ」

赤染衛門「格別に優れた歌というほどではないが、ひけらかすことなく立派な歌の詠みぶり」

2.20人程度の女房

宣旨(せんじ)の君・陟子(ただこ) 権中納言・伊陟 (これただ)娘。伊陟は源明子の従兄。

馬中将(うまのちゅうじょう) 左馬頭・藤原相尹(すけまさ)と源高明娘(源明子の妹)の間の子。つまり明子の姪。紫式部と仲が悪い。中臈のくせに色物の十二単を着たおしている。

和泉式部 「こんなに暑いのに、十二単など御脱ぎあそばせ。」和泉守・橘道貞の妻。故・為尊親王と密通し、敦道親王とも密通。その死後に彰子サロンに参入。

紫式部 「もののあはれ。」具平親王の妾。道長の妾。

宰相の君(藤原豊子) 藤原道綱娘。敦成(あつひら)親王の乳母!大江清通(きよみち)妻、大江定経(さだつね)母。紫式部がもっとも好意をもっていた。

大納言の君(源廉子) 左大弁/大蔵卿・源扶義(すけよし)娘。道長の妾。

小少将の君 右近衛中将/丹波守・源時通(ときみち)娘。紫式部とは同室の仲。紫式部曰く、こんなに上品で可愛らしい女性なのに、なんで男が言い寄ってこないのかしら。女三宮と夕顔のモデルか。

伊勢大輔 大中臣輔親(すけちか)娘。高階成順(なりのぶ)妻、康資王母(やすすけおうのはは)母。「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」を詠む。彰子の返歌「九重に匂ふを見れば桜狩り重ねて来たる春かとぞ思ふ」紫式部と仲良しの後輩女房。

左衛門の内侍(橘隆子) 藤原理明(まさあき)妻。一条天皇に仕えていた内裏女房。明子派。倫子派の紫式部を敵視して「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし。」

上東門院女房 花山法皇皇女。長徳の変で連座し赦免された藤原道雅(みちまさ)の求婚を断ったため、1024年、盗賊刺客(隆範りゅうはん)に殺害され、死骸が犬に食われるという事件に発展した。

 

定子サロン

1 主催者

定子

2 女房たち

清少納言 長徳の変で落ち込んだ定子を励ますため「枕草子」をかく。藤原斉信(ただのぶ)とラブラブ。ライバル道長を恋焦がれたことがあり、村八分の目にあったことがある。

253段 男というものは、やはり女の私たちから見て世にも奇妙な合点のゆきかねる心を持った存在ではある。とても綺麗な女を捨てて、醜い女を妻にしているのも不思議千万だ。禁中(内裏)にお勤めしている男や良家の子弟などは、綺麗な中でも綺麗な女を選んで愛されたら良いのに。手の届きそうもない身分の女だって、自分の素晴らしいと思う女を死ぬほどにでも恋焦がれたらよいのに。人の女房や、まだ見ない女房などでも、綺麗だと聞く人をこそ、なんとかして妻にと、男は思うもののようだが。私たち女の目から見てもみっともないと思うような人を愛するのは、いったいどういうことだろう。顔かたちがたいそう綺麗で風流もよく心得た人で、字も上手だし、歌も趣深い歌を詠んで、男に恨みの手紙をよこしたりするのに、その返事はこざかしくするけれども寄り付かず、可憐に男の薄情を嘆いている女を見捨てて、ほかの女の許に行ったりするのは、呆れ果てて、自分のことでなくても腹が立って、はたでそういうのを見ていたら自分だっていやになるのに違いないのに、自分のことになると、ちっとも相手に対する気の毒さというものがわからない。

一条天皇「ふ、ふ、ふ。」

女房たち「そうだ、そうだ。」

 

選子サロン 

1 主催者

選子内親王 村上天皇第10皇女。斎院(賀茂祭に奉仕)。1012年(寛弘9)に「発心和歌集」を編纂。 

*斎宮は伊勢神宮に奉仕する。

2 女房たち

中将の君 斎院司・源為理(ためまさ)と大江雅致(まさむね)娘のあいだの子。和泉式部の妹。藤原惟規(のぶのり・紫式部の弟)の恋人。六条御息所のモデル。

 

2月25日 承香殿女御(藤原元子)が内裏(東三条邸)に参入したが、夜のうちに退出。「不生女」と揶揄された元子の父は、右大臣・藤原顕光。

3月4日 中宮、一条天皇ともに新築の紫宸殿(東三条邸寝殿=一条院)に遷御。中宮のもとに女方(藤原倫子)が足繫く通っている。

4月15日 一宮(敦康親王)が賀茂祭を見物。道長が女房車を一宮に献上した。

4月23日 女二宮(媄子内親王)が一条院に参入。媄子(びし)は一条天皇と定子のあいだの二番目の女児で、1008年に9歳で病死。

5月5日 上野守の橘忠範が死去。

5月13日 陣定にて除目をおこない、平惟衡を上野守に任命した。

5月14日 山階寺(興福寺)の僧3000人が馬允(うまのじょう・当麻為頼)の私宅を襲撃。興福寺僧の頭領は、蓮聖(れんしょう)。

5月16日 法住寺で、藤原文行が平正輔と口論し、検非違使別当(藤原斉信)が派遣した検非違使に矢を放ち逃亡。

6月20日 大和守・源頼親(よりちか)が興福寺の蓮聖を愁訴。

7月3日 損傷した神鏡を改鋳するか、陣定にて議論。あわせて蓮聖の公請を停止した。

7月6日 道長が下痢になる。

7月12日 興福寺の定澄(じょうちょう)僧都が道長の土御門邸に来訪。多数の僧侶が直訴しに来ることを予告。道長は、受けて立つと応答。

7月13日 一条天皇詔勅、興福寺大衆を追い返せと。

7月15日 興福寺大衆の直訴を裁定した。

7月27日 法性寺五大堂を建立。

7月30日 一条天皇の相撲御前試合。

8月6日 「白氏文集抄」「扶桑集」を一条天皇に献上。

8月7日 法性寺五大堂に、六丈の五大尊を遷した。

8月15日 一宮(敦康親王)が病気

8月17日 一宮(敦康親王)主催で童相撲を開催した。女一宮(脩子内親王)と女二宮(媄子内親王)も見物した。

9月22日 一条天皇たっての願いで、土御門邸にて競馬を見物。東宮(居貞親王)も同席した。

10月5日 東三条邸南院が焼亡。冷泉院が難を逃れ、花山院が心配になって土御門邸に来た。

10月20日 宋商人・曾令文が蘇木・茶碗・「五臣注文選」「白氏文集」を献上。

10月21日 源成方の邸宅を冷泉院の御座所と定め、移御。

10月25日 法性寺五大尊像を開眼した。大僧正は観修。

11月14日 月食。一条院で五節舞。

12月5日 藤原教通と藤原能信が元服。

12月16日 除目。権少僧都を源信から明肇(みょうちょう)に交代した。

12月29日 権大僧都・済信(さいしん)が東大寺別当を辞任したため、澄心(ちょうしん)か清寿(せいじゅ)か議論が白熱した。一条天皇は二人では駄目、一人に定めよと仰せになっていた。双方の評判を現地調査することで散会とした。

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