NHK大河「光る君へ」をみて32
1005年(寛弘2)
安倍晴明、西方浄土へ旅立った。従者が唱えていたのは、阿弥陀如来真言。おんあみりたていせいからうん。
伊周、陣定に復帰。内裏火事の際、一条天皇と彰子が初めて触れ合う。八咫鏡にヒビがはいる。隆家と公任、道長の面前で殴り合いになりかける。
紫式部、嫉妬と派閥渦巻く藤壺に出仕。女の園、宝塚歌劇も同様だろう。一条天皇に朕のことを書いているのかとお咎めがあるくらいだから、倭国の話に挿げ替えなければならなかったのだろう。長谷寺観音と清水寺舞台は佐賀県背振山(隠国・こもりく)から移築したものであり、源氏物語の地名は倭国時代の配置のままになっている。「日本紀の御局」と評された紫式部は、発禁本「日本紀」すなわち倭国の歴史を熟知していた。宮内庁が現在隠しているものと思われている。
*知恩院の梵鐘も、佐賀県背振山(隠国)から移築されたことは周知の事実である。倭国のすばらしさは世界が絶賛するだろう。
*敦道親王:冷泉上皇の第4皇子で、和泉式部と熱いラブラブ。1007年死去。
*道長、倫子を「にょうぼう」と呼び、明子を「ほりかわのあたり」と呼んでいるのがオモロい。
3月26日 前帥(藤原伊周)と大宰大弐(藤原高遠)の昇殿が許された。
5月19日 一宮(敦康親王)が病気
5月20日 冷泉院が病気
5月24日 土御門邸で法華三十講の立義(=口頭試問)
第一ラウンド
立義 興福寺の経救
探題 覚運僧都
問者 天台僧5人(経救の成績は落第1枚、保留1枚、合格3枚)
第二ラウンド
立義 天台僧の教円
探題 澄心律師
問者 南京僧5人(教円の成績は保留1枚、合格4枚)
7月21日 前帥(藤原伊周)が陣定に参加開始。左衛門督(藤原公任)が一階昇叙。
7月28日 一条天皇、東宮(居貞親王)、帥親王(敦道親王)が相撲見物。
7月29日 中宮(藤原彰子)が相撲見物に加わった。
8月20日 堀河の辺り(源明子)に御産があった。男子(藤原長家)であった。
8月26日 堀河の辺り(源明子)に膳を送った。
9月1日 女方(源倫子)が一条院に行くも、触穢(月経)があったのですぐに土御門邸に帰還した。
9月9日 内裏で重陽節会の平座の宴を行った。作文のお題は「菊は花の聖賢である。(天皇万歳)」
9月22日 賀茂詣
9月26日 安倍晴明死去
10月6日 土御門邸で作文。お題は「雨の声が葉とともに飛ぶ。」
10月15日 鐘鋳造の完成を以て浄妙寺造営が完成した。鐘の鋳造は四位少将(藤原頼通)が担当していた。先考(藤原兼家)、先妣(藤原時姫)、昭宣公(藤原基経)をはじめとする先祖の菩提を奉ずるための寺であった。
11月15日 月食。内裏焼亡。主上(一条天皇)は中宮(藤原彰子)とともに中和院(ちゅうかいん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)、職曹司(しきのそうし)、太政官朝所(だじょうかんあいたんどころ)へと避難された。翌日夜明けに神鏡を捜索したところ破損が判明した。
11月27日 一条天皇が東三条邸に遷御。あとから中宮(藤原彰子)が東三条邸に行啓。東宮(居貞親王)が東三条邸南院の東対に行啓。
12月4日 道長、風邪をひく
12月7日 道長、咳がひどくなる
12月22日 道長、慈徳寺に赴いて、故東三条院(藤原詮子)の菩提を葬った。法華御八講。道長内縁者には手厚いことですな。
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