邪馬台国、倭五王を論じるにあたり、不都合な歴史的証拠を徹底的に抹殺して畿内説に収束させようと操作する日本史学会に対抗するには、中国史学会に頼るしかない。「空白の四世紀」とは歴史的証拠の徹底的抹殺の賜物だ。自作自演の茶番。
夷の北朝、正統の南朝。高句麗、柔然、倭といった周辺諸国から遣使を受けたのは南朝であった。文化的に遅れた北朝が、河西地域に温存された漢魏の文化の征服吸収だけでは足らず、北魏・孝文帝が南朝からの亡命者を積極的にブレーンとして起用したことにより、東魏・北斉、西魏・北周の時代には、南朝との文化的水準の格差はなかった。
*北朝と南朝、流民のスカウト合戦
北魏は愚帝の多い南朝(宋・斉)より住みよかった。北朝への亡命者が多い。やんごとなき司馬氏に辺境を守らせて餌にした。
北魏・孝文帝の鮮卑人と漢人の平等政策が失敗、北魏も洛陽に遷都し、都・鄴の警護のために設置された強大な武力を有する六鎮が、新都・洛陽から遠ざかり、柔然の北の脅威もなくなったこともあって役立たずで貧乏な穀潰しだと見下されると政情が乱れ、南朝の梁に菩薩天子(武帝)が仏教的平和を実現することで、北魏より住みよくなった。このころから南朝への亡命者が増えた。
東魏や西魏になると、鮮卑人が漢人に優るムードになり、やはり南朝のほうが住みよかったので、こぞって梁に亡命した。
宇宙大将軍・侯景の乱で梁が一気に壊滅すると、混乱する梁から北斉や北周への亡命者が増えた。愚帝がつづき戦乱荒廃の限りを尽くした陳は、連敗、国土失地、梁の繁栄を回復できず、隋により滅亡。
魏晋南北朝時代の地方長官は、軍事を司る将軍府と、民政を司る州刺史の2系統があった。将軍府の属僚が府佐、州刺史の属僚が州佐で、府佐は州佐より位が高かった。府主が信頼のおける府佐を推挙したが、中央の吏部や皇帝の承認が必要であった。州刺史が任地の有力氏族の子弟から州佐を任用した。
亡命氏族で大物と言えば、東晋の司馬氏をおいてほかにない。
402年 司馬休之が桓玄に敗れ、南燕に亡命。慕容徳が重用。南朝にコンプレックスを抱く道武帝が華北名族・崔氏を南朝びいきとして処罰したことに恐れをなしたため、司馬氏は北魏に亡命しなかった。劉裕が桓玄を倒すと東晋に帰国したが、劉裕に命を狙われるようになる。
408年 司馬国璠と司馬叔道が劉裕に敗れ、後秦に亡命。姚興が重用。
415年 司馬休之が後秦に亡命。
417年 劉裕が後秦を滅ぼす。司馬休之が北魏に亡命。
420年 司馬国璠と司馬道賜が北魏に対して反乱。
422年 司馬楚之が北魏の南征に参加。のち司馬楚之が抱えていた戸民が分離され、北魏の都だった鄴に強制移住させられた。
443年 北魏が仇池の楊氏を併合して華北平定。辺境地に住まわせていた司馬氏を劉裕の宋征伐に向わせていたのを、柔然に対する北征に向かわせるように変更した。宋の文帝による「元嘉の治」により南朝の政情が安定すると、司馬氏を辺境に置いて南朝からの亡命者を招くという目論見が成り立たなくなったため、北の柔然に目を向けるように変わった。
450年 北魏の道武帝が国史の獄を起こし、南朝かぶれの華北名族を殲滅しようとした。華北名族は単に南朝の官僚システムを北魏に取り込もうとしていただけ。
465年 宋の文帝九男・劉昶(りゅうちょう)が前廃帝・劉子業の粛清を逃れ、北魏に亡命。孝文帝の朝儀改革に大いに貢献した。丹陽王から宋王、大将軍へと出世を果たした。
493年 斉の州刺史だった王奐が大逆罪で誅殺され、その子・王簫(おうしょう)が北魏に亡命。孝文帝の南征に貢献した。州刺史、車騎将軍に抜擢された。
南朝からの亡命氏族に対抗したのが、以下の華北名族だ。
渤海 高氏
清河 崔氏
趙郡 李氏
弘農 楊氏
范陽 盧氏
亡命氏族は、信頼関係にあった同じ亡命氏族を配下に置くことが多かった。
480年代には、司馬氏のブランドネームバリューはなくなっていたと考えられている。司馬裔(しばえい)は北魏の都・洛陽から本貫地の河内郡にもどり、華北名族と姻戚関係を結ぶことでなんとか中流貴族にとどまっていた。河内の郷兵を率いて西魏の軍として参加し、西魏の都・長安にこぞって移住した。
その後は、北魏の宗室が内紛で梁に亡命するケースが増えた。梁は、菩薩天子と尊敬された武帝が半世紀以上のあいだ治めた国だった。その息子である昭明太子は、聖徳太子が模範とした賢人であった。
爾朱栄は漢人士大夫層と交流がなく、北魏・孝文帝の漢化政策に対する反動であった。漢人に対する民政はそっちのけで、胡人が酒池肉林にふけったのだ。東魏・西魏時代、高歓や宇文泰は鮮卑語を用いて軍令を出しており、漢人と融和に再び向かうのは、北斉・北周時代を待たなければならなかった。
契胡(羯の一種)出身の爾朱栄(じしゅえい)
*爾朱栄集団の構成員
朱瑞、叱列延慶、魁斯椿、賈顕度、智兄弟、賀抜勝、岳兄弟、侯莫陳悦、侯淵
高歓、宇文泰
*六鎮の反乱軍
杜洛周、鮮于修礼、葛栄
高歓は杜洛周、葛栄に仕え、爾朱栄に寝返った。
宇文泰は鮮于修礼、葛栄に仕え、爾朱栄に寝返った。
524年3月~528年9月 葛栄を破って六鎮の乱を平定。
528年4月 河陰の変を起こす。帝室(元氏)と漢人・鮮卑人の上級貴族の大半を粛清した。
529年 北海王の元顥(げんこう)が梁に亡命して洛陽を占拠した南奔事件を、爾朱栄が平定。「天柱大将軍」の称号を授かった。
530年9月 孝荘帝が爾朱栄を誅殺した。
530年10月 爾朱栄集団が長広王の元曄(げんよう)を擁立。
530年12月 爾朱栄集団が孝荘帝を殺害。
531年2月 前廃帝を擁立。
531年6月 爾朱栄の部下、高歓が挙兵。
531年10月 高歓が後廃帝を擁立。
532年閏月 高歓が爾朱栄集団を韓陵で撃破。
532年4月 高歓が出帝を擁立。
533年1月 高歓が赤洪嶺で爾朱兆を撃破。魁斯椿の寝返りに会い爾朱氏が滅亡。
534年7月 魁斯椿に脅された出帝が洛陽を出奔して、賀抜勝の部下、宇文泰を頼って長安に逃亡。高歓が孝静帝を擁立。北魏が東西分裂した。
550年 東魏が北斉に易姓革命。
557年 西魏が北周に易姓革命。
このころ南朝の梁は、宇宙大将軍・侯景の乱によって、地獄の沙汰に陥った。今度は、梁から北斉・北周へ知識人が再び亡命することになった。
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