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2024年6月16日 (日)

NHK大河「光る君へ」をみて23

録画してあった光る君へをみました。

呉越国 907~978

渤海 698~928

新羅 4世紀ころ~935

後高句麗 899~918 ⇒ 高麗 918~1392

後百済 892~936

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呉越王・銭弘俶が長い戦乱で失われた仏典補充のため、高麗と日本に書写を求めた。高麗僧・義通、日本延暦寺僧・日延がこれに応えた。

村上天皇(946~967)がこれを許可し、第15世天台座主・延昌(えんしょう)が日延を派遣。

村上天皇の天暦の治 949年に関白・藤原忠平が死去し親政を布いた。

左大臣 藤原実頼

第一皇子 広平親王(950~971) 母親・祐姫が更衣と身分低い

第二皇子 憲平親王(951~1011 のちの冷泉天皇) 

 950年、母親・安子が師輔娘で女御なので0歳で皇太子になった。

第三皇子 致平親王(951~1041)

第四皇子 為平親王(952~1010) 中宮が源高明の娘。

第五皇子 昭平親王(954~1013)

       昌平親王(956~961)

第六皇子 守平親王(959~991 のちの円融天皇)

第七皇子 具平親王(964~1009)

第八皇子 永平親王(965~988)

*967年、村上天皇の死去。冷泉天皇が即位。藤原実頼が関白になり、源高明が左大臣になった。皇太子は一代主になるべき人だったので、結婚していた為平親王ではなく、独身だった守平親王が選ばれ立太子。よって守平親王に娘を送りこんでも無駄と思われたので晩婚になった。源高明は師輔の娘を二人娶っていて、安子と仲が良かった。藤原摂関家の一員みたいなものだった。師輔の子供だった伊尹、兼通、兼家からすれば、源高明は煙たい存在だった。969年、安和の変で源高明は左遷失脚。密告した源満仲の清和源氏が摂関家の武力になった。

953年、日延が呉越国へ。957年、帰国。

新修符天暦(当時最新の暦)を陰陽博士兼天文博士だった賀茂保憲に託し、「往生西方浄土瑞応刪伝(おうじょうさいほうじょうどずいおうさんでん)」など内典を延暦寺の慶滋保胤(よししげやすたね)に、「春秋要覧」「周易会釈記」など外典を大江朝綱に託した。慶滋保胤は「日本往生極楽記」を書いて天台浄土教をはじめた。

955年、後周・世宗が大規模な仏教弾圧。

988~989年、天台僧・源信(恵心僧都・横川僧都)が「往生要集」を宋よりの渡来僧・斎隠(さいいん)に託して、杭州の奉先寺住持・源清に贈った。

995年、斎隠が源清の書簡「仁王護国般若経疏を求む」と源清の著書「法華示珠指」を第22世天台座主・暹賀(せんが)に送った。斎隠は海商・朱仁聡の船に乗って日宋間を往来した。

1003年、天台浄土教の寂照が一条天皇の勅許を得て入宋。義通の弟子だった知礼に師事。

明州を拠点に置く宋天台宗山家派・知礼 vs 杭州を拠点に置く宋天台宗山外派・源清
*明州の天台山が天台宗の聖地!

*知礼 乾符寺→保恩院(のちの延慶院) 歓心を用いるべし

*源清 奉先寺 歓心を用いず

知礼と源清は教義上対立しており、日本の天台浄土教の師事が源清から知礼に変わった。

宋の政治面でも大きな動きがあり、

989年、市舶司を杭州に設置。

992年、市舶司を明州に移す。

999年、市舶司を杭州・明州に併置。

明州が日本にとって宗教面でも政治面でも重要拠点となった!

 

北宋は、五代十国時代に失地しており、大越国と燕雲十六州の奪還が与えられた宿題であった。

宋第3代皇帝(997~1022) 真宗

宰相 寇準  「遼と戦うべし。」

執政 王欽若 「遼と和議を結んで金陵に遷都すべし。」

結局、寇準の主戦論が通り、北宋と遼が交戦するも引き分け。1004年、澶淵の盟を締結した。王欽若は、寇準を失脚させた。

 

紫式部と恋に落ちそうになったが、左大臣・道長の元カノだと知ると、日宋同盟締結に動いた、対馬人・周明。朱仁聡に約束された宰相の侍医への昇進だが、その宰相とは、寇準のこと。

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