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2024年6月29日 (土)

省銭、短陌

江戸時代、省銭「九六銭」といって、96文を以て100文と勘定していたようである。4進法の貨幣制度ゆえ、分割勘定に便利だったから。これは銅銭が不足続きの中国・東晋のころからはじまった慣習だった。

金は希少価値過ぎて、現在のダイヤモンドやプラチナなので通貨になりえない。銀はまあまあ手に入ったので手ごろな高級通貨。豊富にとれた銅が一番通貨に適していた。鉄器に負けた青銅器なんか腐るほど余っていたはずだし、潰せば銅銭(私鋳銭)に変えられる。

安曇氏、宗形氏、松浦氏、柿本氏、阿蘇氏・・を通して、鴻臚館で倭京大宰府とさかんに交易していた梁でも、短陌(たんぱく)といって、70文や80文を以て100文と勘定していた。梁銭も唐銭も宋銭も、銅製で規格サイズが同じ。真ん中にあいた四角の穴のサイズも同じ。銅銭不足つづき、少々ルーズでもたかが低価格の貨幣なので問題なかったのだろう。銅の成分分析やC14年代測定によると、皇朝十二銭といわれる銅銭の中の「延喜通寶」は、倭王・延喜帝の時代、倭国で鋳造され流通していたという米田良三説もある。倭国に嫉妬すれど貨幣の使い方を知らなかった大和朝廷が試験的に鋳造した「富本銭」や「和同開珎」よりも200年以上前の日本には、貨幣がすでに存在していた。

条坊制と大極殿をもつ大宰府に羅城があった。

羅城は商業都市の財宝と帝の生命を外敵から守るためにつくる。都市民の生命を守るだけなら、大規模工事の羅城ではなく、常備軍の駐屯地である、小規模工事の城で十分。軍を大きくしたければ、兵を食わせるための金銭を産む城下町が必要。

羅城内の商業活動は盛んだったことを示す。当然、物々交換では駄目で、通貨が存在していたはず。

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