綱(こう):政府のために物資の輸送を請け負う組織
綱司(ごうし):綱の長
中国商人が博多の唐房に定住したものを、博多綱首(はかたごうしゅ)と読んだ。
范陽節度使・平盧節度使 対奚防衛・対契丹防衛
朔方節度使・河東節度使 対突厥防衛
河西節度使・隴右節度使 対吐蕃防衛
ゾロアスター教を信奉し広大なソグドネットワークを誇ったソグド商人(イラン系)は、安史の乱で急速に衰退、ウィグル(トルコ系)やムスリムに追われるようにラクダからダウ船に乗り換えて、ムスリム商人に同化した。
ウィグルネットワーク
華北中原や江南では異形のソグド人狩りがおこなわれたが、華北辺境の節度使はご法度のソグド商人を庇護し、ウィグル商人と提携し、その財力を用いて華北中原に五代政権を樹立。江南の塩商人らは十国を樹立して海外交易や国内産業を発展させ五代に朝貢。剰余財産を貯蓄して繁栄を極めた。遼は燕雲十六州を五代から奪い、北ベトナム人の安南国(呉朝⇒黎朝⇒丁朝⇒李朝)が独立した。
秦・半両銭、漢魏晋南北朝・五銖銭、唐・開元通宝。
780年 徳宗 両税法。銅銭が不足した。
845年 武宗 会昌の排仏。銅銭を増鋳し、会昌開元とした。
宋・宋通元宝と太平通宝。北宋紙幣・交子、南宋紙幣・会子。
遼、西夏、金、高麗、日本、ベトナム、東南アジアでは、唐銭・宋銭といった銅銭が国際通貨として流通した。
モンゴル高原の遊牧民は、銀錠(バーリシ・銀の延べ棒)を財産として保有し、オルトク(特権御用商人)に貸し与えて交易を代行させた。銀錠は、コインにせずそのまま秤量貨幣として大物取引で使用された。オルトクの大半は、ムスリム商人やウィグル商人であったが、中には漢人商人やキリスト教徒も含まれていた。
女真が将来災いのもとになると考えた遼の耶律阿保機は、一部の女真を遼東半島南部に強制移住させた。これを熟女真と呼ぶ。土着し続けた女真を生女真と呼び、遼の征服を免れた。生女真と熟女真の往来を許された女真を、回伯(ふいぼ;回跋、回覇)と呼んだ。のちに金を建国する完顔阿骨打は生女真から出た。
遼東半島には遼によって強制移住させられた民族が多数いて、漢語が共通語であった。女真、渤海、鉄驪、吐谷渾、高麗、靺鞨、室韋、契丹、ウィグル、タングート、奚(けい;匈奴系)、兀惹(こつじゃく)など。
1019年 刀伊の入寇 耶懶(やらん)完顔部女真が高麗、壱岐、対馬、北九州を侵攻。女真は強力な水軍をもっており、海上戦を得意とした。
1004年 澶淵の盟 宋から遼へ銀と絹を歳貢
1044年 慶暦の盟 宋から西夏へ銀と絹と茶を歳幣
1141年 紹興の盟 宋から金へ銀と絹を歳幣
仁宗 北宋第4代皇帝(1022~1063)
節度使の武力を削ぐため、皇帝直属の枢密院下に禁軍を設置した。禁軍を率いたのが、仮面の将軍・狄青(てきせい)。西夏とよく戦い、儂智高の乱を平定した。
11世紀半ば、西夏に対抗する必要性から、西兵軍団を組織した。軍事力の中核兵をなしたのは、北宋に帰順したタングート・チベットの熟戸から編成された蕃兵であった。
渤海人としての誇りと製鉄技術をもつ胡里改(ふりかい)の烏春(兀称因;うちん)が、按出虎水完顔部の粛宗(頗刺淑;ばらす)を打ち破った。窮地に立たされた按出虎水完顔部は、東の野蛮な耶懶完顔部と親交を結び、按出虎水完顔部の完顔阿骨打は、耶懶(やらん)完顔部を帰順させ、西の鉄驪(てつり)と渤海を帰順させたうえで、遼に侵攻。
1116年 渤海人・高永昌(こうえいしょう)の乱。渤海独立を主張したため、金により処刑。渤海人・郭薬師(かくやくし)、金に復讐するため、遼の配下として戦った。渤海人・楊朴(ようぼく)は金の完顔阿骨打に帰順し活躍した。
1125年 金が遼を滅ぼした。北宋の常勝軍を率いた郭薬師、金に投降し北宋を裏切った。
1127年 靖康の変 北宋が滅亡。最強だった西兵軍団を西夏の不穏な動き、太原での戦いに引き付けておいて、開封へ応援に来れない戦略が成功した。西兵軍団を多方面に酷使したため、疲弊を招き滅亡にいたった。北宋の徽宗と欽宗が金に拉致され、後宮の女は遊女にされた。
1128年 南宋の楊応誠が、金から徽宗・欽宗釈放を依頼するため、高麗国王・王楷を仲介しようとしたが断られた。
1132年 遼滅亡から西方へ逃亡した耶律大石が西遼(カラキタイ)を建国。
1203年 チンギスハンがケレイト王国を滅ぼす。
1204年 チンギスハンがナイマン王国を滅ぼす。
1205、1207、1209、1218、1226年 チンギスハンが西夏遠征。1227年、チンギスカン死去直後、西夏滅亡。
1211年 チンギスハンが金に敗北。
1212年 トルコ系ナイマン部のグチュルクが西遼を滅ぼした。
1213年 咸平府で契丹の耶律留哥(やりつりゅうか)が東遼を建国。西遼の滅亡が契丹の独立意識を蘇らせた。1227年に滅亡。
1215年 遼陽で完顔部の蒲鮮万奴(ほせんばんど)が大真国を建国。
1218年 チンギスハンは、西遼を簒奪したグチュルクを殺害、トルコ系ナイマン部をモンゴルに組み込んだ。ナイマン部は、のちオイラートに従属した。
1219~1221年 チンギスハン、ホラズム遠征。
1234年 オゴデイ汗がトルイを起用して、大真国を滅ぼし、さらに南宋と挟撃して金を滅ぼした。
1236年 オゴデイ汗(太宗)が絲料制を布く。絲(絹糸)を納税させた。
1255年 モンケ汗(憲宗)が包銀制を布く。銀を納税させた。
元は、紙幣(交鈔)を通貨として、金銀の私的売買を禁止した。銅銭も禁止したが、例外として福建や広東など海外交易の盛んな地域では、交鈔より銅銭使用を黙認した。原則として、元は、金銀や銅銭の流出を厳しく規制管理した。
1276年 元は、南宋の都・臨安を包囲し杭州と改名。オルトクが南海貿易に直接参入した。つまり内陸商業資本と海上商業資本が直接つながり、陸上交易ルートと海上交易ルートが連環した。二大派閥が対立した。
シハーブ・ウッディーン(沙不丁、オルトク) with 楊氏(杭州の海商) *宰相サンガに贈賄して、ムングテイ(モンゴル人将官)を用心棒として行使
vs
朱清・張瑄(元になびいた宋人海賊) with サイイド・アジャル(オルトク) *董士選(漢人将官)を用心棒として行使
1291年 宰相サンガ誅殺事件
イル汗国は、キーシュ商人をオルトクに雇い入れ、軍事支援した。パーンディヤ朝に交易拠点を持っていたのが、キーシュ商人とホルムズ商人であったが、当時のホルムズ商人はキーシュ商人に雌伏した。
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