摂関政治
平安初期、摂政、令外官だった関白も定義が明確でなかった。ただ幼帝を補佐するのが摂政で、成帝を補佐するのが関白といったぼんやりとしたものだった。道長のときの摂関政治完成形(道長は関白ではなく内覧就任)に向かって徐々に定義づけが明確にされた。道長は氏長者として「大殿」と呼ばれ、律令制の流れを汲む文書「宣旨」ではなく、口頭や私信で嫡男の頼通に後一条天皇の摂政・関白を譲渡したことが、のちの院政の先駆的前例になったのだ。
摂政は良房、関白は基経にはじまった。
858年(天安2)良房、幼帝・清和天皇の摂政に就任。摂政は太政大臣の職掌から派生したが、外戚ミウチであることが最も重要であった。
876年(貞観18)基経、幼帝・陽成天皇の摂政に就任。基経は皇太后(国母)・藤原高子と不仲で、882年(元慶6)陽成天皇元服を機会に摂政を辞職することを申し出たが許されず紛糾した。
884年(元慶8)宮中殺人容疑の陽成天皇(891年死去)廃立、光孝天皇即位の際、基経を関白に任じ補佐を要請した。
887年(仁和3)基経、宇多天皇の関白に就任。阿衡の紛議で基経は、関白とは元摂政に与える名誉職ではなく実権を伴うことを明確にした。
醍醐天皇のとき、藤原時平と菅原道真が内覧に就任。幼帝・朱雀天皇のとき、忠平が摂政就任、成帝・朱雀天皇のとき、忠平は関白として続投。天皇が幼少のとき代行するのが摂政、天皇が成人のとき代行するのが関白という役割が明確になった。
967年(康保7)精神薄弱だった冷泉天皇を補佐すべく、摂政未経験の実頼が関白に就任。摂政経験者に対する優遇措置であった関白が資格として独立した。
986年(寛和2)右大臣の兼家が花山天皇出家の際、一条天皇の摂政に就任。上席に、関白の頼忠(死去するまで関白を務めた)、左大臣の源雅信がいた。前例として、陽成天皇の摂政に右大臣の基経が就任したが、上席に辞職要望の強かった左大臣の源融がいたが、これは基経が実質上の太政官トップだったから問題なかった。そこで詮子&一条天皇を動かして、「一座の宣旨」を発令。「摂政は、太政大臣、左大臣、右大臣より上の座次である。」
後三条天皇
1069年(延久1)延久の荘園整理令・記録荘園券契所
新立荘園を停止して、公領を増やし税収を増やす目的だったが、法の抜け道があった。武士団という暴力装置を所持する王家と摂関家の荘園は例外とされたため、王家や摂関家の庇護を得るため、荘園が次々と寄進されていき、鳥羽上皇にいたっては、「領域型荘園」と呼ばれ、開墾新荘園の周囲一帯根こそぎ自分の荘園に変えていった。
*戦時に必要な常備軍は、平時はただの穀潰し。一領具足の半農半兵では暇がもてず軍事訓練が脆弱なのだ。豊富な財力を持つ者だけが常備軍を持てるのだ。領内の商業を栄えさせて財力をつけてから常備軍(暴力装置)を雇い養成することが天下取りのための王道 by信長。
*コルシカ島の植民地人だったナポレオンは、国王とローマ教会の財産をすべて着服。失業で飢餓に苦しむ暇人を常備軍に徴兵して短期間即席に組織訓練する。戦うために必要だった、馬や手旗信号など迅速な情報技術、砲兵歩兵騎馬兵一体の戦術を進化させた。兵が敵前逃亡しないよう即位式だの法典だのプロパガンダによって愛国心を植え付ける。ロベスピエールはフランス=(ただの思い付きの)理性の神だったが、こんな妄想を破壊して、フランス=ナポレオン自身とした。常備軍を養う富が枯渇し兵が戦死したので、征服戦争によって外国から富と新兵を奪い取るしかない。こうして生まれた、ナポレオンのためのフランス陸軍は最強だった。チャンピオンとしてのプライドが高かったイギリス海軍がその前に立ちはだかる。
白河天皇が譲位し、幼帝・鳥羽天皇即位の際、鳥羽天皇の外戚(ミウチ)だった閑院流の公実が摂政を申し出たが、白河上皇が却下し、御堂流の師実を摂政に任じた。御堂流と呼ばれた代々摂関を務めてきた道長の子孫が摂関を世襲することになった。つまり摂政・関白を務めることを家業とする摂関家が成立した。さらに摂関の任命権は上皇がもち、上皇が摂関家の優位に立った。つまりミウチが崩壊し、王家と摂関家に分離させ、相互補完的に支え合う院政に突入した。公実・公通は鳥羽上皇に対し逆転を狙う。
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