いよいよスタート。藤原兼家がらみの話はカットされ、紫式部の母が、兼家の次男、乱暴狼藉者の藤原道兼に刺殺されるという衝撃シーンからのスタートだった。
天皇家、藤原氏の結婚は100%政略結婚だったことを忘れてはいけない。恋愛結婚ではない。だから浮気は公認されていた。
ミウチ(最高権力者たち) 現役の天皇が交代するたびに変化する
上皇 国母 天皇 外祖父 外叔父
外祖父や外叔父の身分が低いとか、上皇や国母が死んでいないとか、外祖父(関白)と外叔父(〇大臣)の仲が悪いとか。こういう場合は、天皇の力が弱くなる。つまり政治にならないため在位期間が短くなるしかない。
紫式部の父、藤原為時のように漢籍や中国史専攻の文章生では出世できず、身分が低かった。
兼家の妻として有名なのは、時姫と道綱母(蜻蛉日記作者)のふたり。ほかに妾が何人もいて、道綱母が時姫と共同戦線を敷いて兼家の浮気を止めようとして断られるという面白いエピソードがある。
桓武天皇は、6位までの貴族を残して、7位以下の下級貴族を家人として国家公務員から民間に委託した。貴族邸宅に侍っていた家人たちは曲がりなりにも元貴族ゆえ、喧嘩好きで荒んでいったのだろう。低身分であっても中国通の文官を登用した。皇族でなくても斎王になることができた。ところが10世紀には、門閥の寡占化が進行しており、文官の貧乏化が頻発するようになった。
823年 嵯峨天皇が淳和天皇に譲位、空海に東寺を賜る。
833年 嵯峨上皇が洛外の嵯峨院(のちの大覚寺)に住み、人工池(大沢池)を造設した。
835年 空海死去(嵯峨上皇が心の支えを失う)
842年 承和の変(嵯峨上皇崩御)
天皇の男女の子孫で皇統をつなぐという桓武天皇の構想を廃止。淳和天皇と嵯峨天皇娘(正子)とのあいだの恒貞親王を廃太子。藤原氏の娘が産んだ子供を親王・天皇にすると決まった。とても重要な事件だった。
10世紀にはいると、女官の高齢化が起こり、お手付き妊娠出産はかなうべくもなく、三種神器管理など役割が制限されていった。低身分の下級貴族が後宮の女房として雇われることが多くなった。これが文学サロン形成へとつながっていく。
*藤原伊尹(これただ)右大臣・関白(円融摂政を兼任)の構想
懐子(伊尹娘)を冷泉天皇の女御に入れた。ライバルの藤原兼家も負けじと超子(兼家娘)を冷泉天皇の女御に入れた。懐子は師貞(もろさだ)親王(のちの花山天皇)を産み、超子は居貞(おきさだ)親王(のちの三条天皇)を産んだ。
伊尹は、懐子(伊尹娘)を冷泉天皇に嫁がせたものの冷泉が狂気ゆえ退位を迫る。冷泉を上皇に、円融を一代主の天皇に、花山を皇太子(師貞親王)にして花山を正統に設定しようとした。しかし早逝してしまい構想が崩壊した。
兄・伊尹と弟・兼通は不仲だったので、伊尹と弟・兼家、兼通と親戚・頼忠がタッグを組んだ。
伊尹の死去で関白を握ったのは、ライバル弟だった藤原兼通。煌子(兼通娘)を円融天皇に入内させるも兼通ともども早逝。兼通は弟の藤原兼家(かねいえ)が大嫌い。遠縁の藤原頼忠に関白を譲った。さっそく遵子(頼忠娘)を円融天皇の女御にした。負けじと兼家も詮子(兼家娘)を円融天皇の女御にした。詮子は懐仁(やすひと)親王(のちの一条天皇)を産み、遵子に勝った。頼忠の早逝によってようやく兼家は関白に就くことができた。頼忠の長男、藤原公任(きんとう)が一発逆転を図って遵子を女御から中宮に昇級させたがなかなか子供が産まれず失敗。もし遵子が円融の男子を産んでいれば、藤原公任が兼家に逆転勝ちしていた。こうして兼家は超子が産んだ居貞(おきさだ)親王(のちの三条天皇)と、詮子が産んだ懐仁(やすひと)親王(のちの一条天皇)という2枚の出世カードを持つことができた。
歌のうまい公任 vs 歌の下手な道長with天才紫式部
*藤原兼家のこども
時姫(中正娘)とのあいだに、道隆、超子、詮子、道兼、道長。
蜻蛉日記作者(倫寧娘)とのあいだに、道綱。寵愛を時姫や妾に奪われトホホの人生。もう出家したいよーと泣き言を吐く。
忠幹娘とのあいだに、道義。ひきこもり後、多武峰寺に出家?
国章娘とのあいたに、綏子。居貞親王(のちの三条天皇)に入内するも低身分に終わる。
?とのあいだに兼俊。出家して、奈良の紅葉の名所・正暦寺を建立した。
698年 大祚栄が震国を建国し震国王と自称。
713年 大祚栄が唐に冊封、渤海群王に任じられた。
762年 安禄山・史思明のこども・遼に協力しなかった渤海を褒め、唐の代宗が渤海を懐柔するため、大欽茂を渤海国王に昇格させる。
810年代、九州や新羅が長雨など異常気象で不作飢饉。新羅海商が新羅・山東間で活動が活発化した。
絹織物、高麗人参、金銀細工品を輸出。鼈甲(玳瑁)、乳香を輸入。
張保皐(ちょうほこう)は奴隷貿易を取り締まるため、新羅に青海鎮を設置。武寧軍節度使が管轄する漣水新羅坊への航海路を確立した。
841年、新羅王朝と青海鎮が対立し張保皐が殺害された。平安朝廷は新羅との衝突を避けるため、新羅海商との官貿易を停止、民間貿易のみ認めた。新羅の海商たちは唐人を抱き込み「唐海商」と改称して日本と貿易を継続した。日唐貿易は新羅に寄港できなくなったため、山東から直接来日する遣唐使海路(東シナ海直行ルート)を利用することになった。唐海商を通じて、日本と唐のあいだで五台山・天台山留学僧や経典や唐滞在資金(砂金・真珠・水銀)が行き来した。
*新羅坊と新羅所のちがい
新羅坊は集団居住地、新羅所は自治機関。
新羅人が新羅館に集会していたように、渤海人も渤海館に集会していた。(円仁 入唐求法巡礼行記によれば)
914年、醍醐天皇が緊縮財政。官貿易は嗜好品購入が目的であって、関税もかけず貿易収益の頭が全くなかった。そのため、官貿易は縮小されていった。海商接待費節減のため、供給をやめ安置のみとした。民間貿易によって貿易価格が上がることを恐れ、官が公定価格で民間より先に必要品を買うという官司先買制を徹底した。残りの商品は価格競争を民間に任せて民間貿易に放り投げた。10世紀に陸奥で金鉱が発掘されても留学僧の唐滞在費(陸奥採掘金のなんと1/7!!)を上げるようなことはしなかった。
*安置と供給のちがい
安置は海商を日本国内に滞在させること。供給は海商に滞在用の衣・食糧を与えること。衣食住のうち安置は住、供給は衣と食。
915年 十和田湖大噴火
? 年 白頭山大噴火
926年 遼(契丹)によって渤海が滅亡
982年、関白藤原頼忠が円融天皇に上奏。「商品の代価が足りず帰国できないうちに海商が餓死している。」
*五代十国と日本の貿易
呉越 港は明州・台州・温州。 閩を滅ぼした後に杭州を開発。
高麗僧の義通が仏教復興に一役を買った。
閩 港は福州。
*日宋貿易
港は明州のみに一本化。市舶司を設置。
源信 日本で浄土宗「往生要集」、法相宗「因明論疏四相違略註釈」を著し、海商に託して宋で売り込んだ。
日延 陰陽師の賀茂保憲の命で、最新の暦を請来した。
寂照 道長と癒着。五台山の知礼(義通の弟子)と問答した。
成尋 道長・頼通と癒着、勅許を待ったが出ないので天台山・五台山に密航した。
1019年 刀伊の入寇。藤原隆家が女真人を撃退。
11世紀半ばに大宰府鴻臚館は廃絶され、海商は博多に居住区を形成して日宋貿易の拠点とした。
*南宋 1127~1279年
1080年代後半から1167年まで入宋僧が途絶えた。密航僧が続いていたにせよ。1166年、平頼盛が大宰大弐に赴任。入宋僧が一気に復活した。宋銭・陶磁器を大量に輸入した。
1167年 重源(源雅頼が援護)
1168年 栄西(平頼盛が援護)・唯雅(平清盛が援護)
1170年 覚阿・金慶
入宋僧がいったん途絶えるが、平家滅亡を契機に復活。平家や大宰府の目が届かなくなったので自由に宋へ航海できるようになった。
1187年 栄西
1189年 練中・勝弁
1199年 俊芿・安秀・長賀
南宋では日本人僧が歓迎されることはなく、栄西以降、禅宗など宋風文化をそのまま日本仏教寺院に持ち込んだ。宋かぶれ。
謝国明など宋海商は、材木提供、新たな禅寺建立などビジネスチャンスと考えて、大口取引ができる日本人禅僧とコネクションを広げていった。日本の禅僧たちはタニマチ(朝廷貴族や幕府武士)の留学費用をたっぷり持って天台山パックツアーでお気軽に留学し、伝法の免許をとって箔をつけて帰国する。禅宗フィーバーの日本にはおいしい就職口が待っている。貧民には乞食僧の辻説法で念仏が広まった。鎌倉のハイカラ禅僧は権力者と懇ろになっており、大金を持っていた。そこへ宋・元の海商たちがワーッと群がって、来日すれば禅寺を建立する。奴らは気に入れば酷吏に、気に食わなければいつでも倭寇になることができた。元末までに、宋人や元人の名僧がことごとく死去。日本禅僧が留学する口実がなくなってしまった。
新興宗教の白蓮教徒になって教祖様に貢いで鉄砲玉になるか?
南宋人の科挙合格就職難民がほそぼそと開いていた義塾で講義された朱子学を学ぶか?
さあ、どっちの大群衆につくか?
朱元璋は前者を裏切って後者に味方して、大明帝国を建国した。倭寇は日本を拠点として洪武帝抵抗運動を展開した。
高麗は明に協力的だったが、日本は非協力的で、倭寇に洪武帝反抗分子が亡命してしまい手を焼いていた。
洪武帝は数度にわたって粛清をおこない、日本に対し海禁とした。抜け道があって、捕虜返還という名目であれば奴隷でもなんでも入港が許可されたので、博多商人は偽の口実で貿易を続行した。1370年、邪教淫祠禁止令で、僧が南京に集められ洪武帝に逆らうとでっち上げの罪状で処刑された。1374年、明州・泉州・広州の市舶司を廃止。洪武帝は当初、日本僧を歓迎し、張士誠や方国珍残党の情報を得ようとしたが、ほどなく日本僧を南京寺に監禁し、帰国も不許可とするように変わった。多くの日本僧が雲南をはじめ、陝西・四川に配流された。1398年、洪武帝死去。1402年、靖難の変に乗じて、密貿易海商の肥富(こいとみ)の策略で、足利義満が朝貢貿易開始。足利義持は再び断交。
1281年 弘安の役
1292年 日本三征計画が発動され、日本に服属要求。
1294年 フビライ汗が死去。
1295年 日元交通が再開。
1309年、1328年、1335年 明州港で倭人暴動事件。
1335~1342年 日元貿易禁止
1342年 足利直義 天龍寺船
1350年 50年間留学から龍山徳見が帰国。足利直義が京都建仁寺住職に据えた。
1348年 台州で方国珍の乱。
1351~1366年 紅巾の乱。
1357~1366年 福州で亦思巴奚(イスパー)の乱。陳友定が鎮圧。多くのイスラム教徒が来日した。
*紅巾の乱から逃げ出した中国人僧
明州の禅僧 東陵永與
蘇州の禅僧 道元文信 ←張士誠支配の蘇州が朱元璋に攻撃された。永平寺の道元は日本人
蘇州の儒学教授 陸仁
*践祚と即位のちがい
践祚は天皇になること。即位はお披露目すること。
*九条家と小野宮家の争い
村上天皇に女御をそれぞれ送った。
兄(小野宮家) 藤原実頼(さねより) 述子 出産中に死亡
弟(九条家) 藤原師輔(もろすけ) 安子
憲平(のりひら)親王 →村上崩御で冷泉天皇践祚・即位
為平(ためひら)親王
守平(もりひら)親王 →村上崩御で冷泉天皇立太子
陰陽師としては、921年生まれの安倍晴明(はるあき)より、917年生まれの賀茂保憲(やすのり)のほうが出世が早く有名だった。
天文博士就任期間をみると、
賀茂保憲 960年(44歳)~977年(61歳死去)
安倍晴明 972年(52歳)~1005年(85歳死去)
安倍晴明に敵対したのが、958年生まれの民間陰陽師、蘆屋道満(あしやどうまん)。定子の兄、藤原伊周(これちか)の詮子に対する呪詛を担当して流罪となった。996年、長徳の変。伊周の従者が花山法皇を射撃未遂して伊周が播磨に流罪、定子は出家、一条天皇は泣く。
*兼家は詮子をなぜ花山皇太子(親王)に嫁がせなかったのか?
現天皇(円融)から嫁がせていくのが大原則だから。
*花山天皇のサポーター
忯子(しし・為光娘)女御
藤原為光
藤原義孝(早逝)・行成(義孝長男)
藤原義懐(よしちか) 紫式部の父・為時は義懐に接近して官職を得た
諟子(しし・頼忠娘)女御
藤原頼忠(早逝)・公任(頼忠長男)
986年、寛和の変。忯子が妊娠中に死亡。花山天皇を放置すると、為光、頼忠、義懐、行成、公任が力を持ってしまう。一条天皇の即位を急いだ兼家の意向を受けた次男・道兼が、花山天皇に出家を迫って退位に成功させる。
花山法皇は、播磨の倭国寺だった円教寺の性空上人に心酔しきっていた!
*一条天皇(980~1011)の妃たち
定子(道隆娘) 中宮→皇后(1000年、一帝二后)
彰子(道長娘) 中宮
元子(顕光娘) 女御→一条死後臣下とねんごろ
義子(公季娘) 女御→一条死後出家
尊子(道兼娘) 女御→一条死後臣下に払い下げ
*三条天皇(976~1017)の妃たち
綏子(すいし・兼家娘!!) 御息所 後宮政争に負け不運
娍子(せいし・右大臣済時娘) 女御→皇后 琴がうまい美女
妍子(けんし・道長娘) 中宮
道長は三条を小馬鹿にするし、三条は道長が大嫌いで仕方なかった。長生きした道長より無念の早逝。
*関白と内覧のちがい
関白 天皇への上奏前に太政官と神祇官の文書を扱える
太政官の会議に出席できない(だから忙しくない)
内覧 天皇への上奏前に太政官の文書しか扱えない
太政官の会議に出席できる(しかしめっちゃ忙しい)
道長は、左大臣・藤原顕光(あきみつ・兼家と不仲だった兼通の長男)をバカにしていたので、自ら太政官の指揮をとりたくて内覧のままで関白にならなかった。
菅原道真と(のち道真を左遷して祟られた)藤原時平が同時に内覧就任。
兼家も権中納言と内覧に就任。のちに内大臣と関白に路線変更した。
定子は1001年死去すると、清少納言も女房を解雇される。彰子と紫式部のタッグに、冷泉天皇の皇子たちと恋愛してきた和泉式部が女房として参入。和泉式部は父親のわからない子供を産み続ける。藤原保昌と再婚すると丹後に下向。丹後には、倭歌の名手、物部氏末裔の曽禰好忠(そねのよしただ)が開く歌会サロンがあり、和泉式部ともども大いに名歌を残した。百人一首勅撰の先駆者だった曽禰好忠は身分が低い故、歌会の後に「賢人右府」藤原実資と藤原朝光にフルボッコにされたことがあった。よって実資が賢人かどうかは疑わしい。
菅原氏、藤原氏、大伴氏、物部氏、蘇我氏、大江氏など、みんな知っていた倭王と藤原氏簒奪の歴史。当時の現役政治家を実名で源氏物語に登場させることはできるわけもなく、華やかなりし倭国の王たちを借りて、それと思わせぶりな記事を合成して書き綴ったものが源氏物語である。門外不出、口外厳禁だった倭国の歴史や倭歌が道長の時代に一気に解禁された。
最近のコメント