紫式部 「藤式部」と呼ばれていた。本名不明「まひろ」
行成と清少納言が仲良し。
実資と紫式部が仲良し。
弟の惟規(のぶのり)が姉の才能にコンプレックスを抱く。奔逸な乱交。紫式部の漢籍の才能はすぐれていた。
父の為時(ためとき)は、文章博士・菅原文時(道真の孫)に師事。大学に行く人間は高位高官出世コースからはずれた路線落ちだった。
996年、道長の口添えで平国盛を退け為時を叙爵(=従五位下に就任)。995年、宋国人が越前に来日しており(小浜港か博多港に来るのが来日ルート)、道長は漢詩ができる為時を選んだ。平国盛は播磨守に就任。為時が越前守に就任したため、式部も越前国府(京大日赤のたけふ市!OSK公演のたけふ市!!)へ行った。のち式部を京に置いて越後守にまで出世。
夫が藤原宣孝(のぶたか)。山城守のとき式部と結婚。道隆の口添えで六位、五位と官位が上がって、花山天皇退位後も検非違使になる。990年、受領・筑前守にまでなる。式部とは死別。式部の姉も死に、為時は後妻の家に入り浸り、式部は弟・惟規との二人だけの生活が続く。
宣孝の兄が説孝(ときたか)で、説孝の末裔が上杉氏。元々貴族から転落した丹波の武士。足利貞氏(尊氏の父)に嫁を出したことから一発逆転の出世。
藤原実資(さねすけ) 957年生まれ 「小右記」をかく 道長の倭歌を記したことで有名。
「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることの なしと思えば」
円融・花山・一条の蔵人頭。伊周も顕光も嫌いである。頼通が好き。道綱をバカにしている。
974年 右近衛少将
989年 参議
995年 権中納言 *権(ごん)=仮のという意味だよ 令外官
996年 中納言
1001年 権大納言
1009年 大納言
1021年 右大臣(65歳)
*顕光死去して、頼通左大臣、公季太政大臣、教通内大臣、実資右大臣
1046年 右大臣現職のまま死去(90歳)
藤原道綱(みちつな) 道長の異母兄 母は「かげろう日記」を著した。
996年 中納言
997年 大納言
1020年 辞任、出家
師貞(もろさだ)親王(のちの花山天皇) 権力基盤が脆弱!!
外戚が伊尹(これただ)だが早死にして、血縁関係のない頼忠が関白になっている。伊尹のこどもが義孝と義懐(よしちか)だが、義孝は早死に。為時は妻がいとこ同士という関係にある義懐を頼って出世。
冷泉皇統が嫡流、円融皇統は傍流である。
懐仁親王(のちの一条天皇)を立太子させることを条件に円融天皇が退位。花山天皇が即位。地位の低い義懐主導の新政がはじまった。
がしかし、・・・・・・・公卿が不満で、不参・遅参。政治が停滞。
986年、花山天皇出家入道。義懐と惟成も出家。為時は逼塞。
一条天皇即位 兼家が摂政
藤原道長の出世
995年、疫病で道隆と道兼が死去。
*内覧がないと天皇の暴走になりやすい。
詮子の口添えで、権中納言の道長に内覧宣旨。右大臣に就任。あり得ない昇級。道長30歳は病弱だったし、彰子8歳、頼通4歳と幼く、伊周22歳(これちか)にとって道長は脅威ではなかった。父の道隆は糖尿病で早逝。油断だね。道長と伊周が口論。伊周が女院(詮子)を呪詛。道長と隆家が七条大路で合戦。
*身分の上下関係: 女院>中宮=皇后 (女院は上皇と同じ身分!!)
中宮、皇后は、父が大臣であることが必要。
996年 長徳の変。
伊周・隆家の従者と、花山法皇の従者が乱闘、死人が出る。伊周が花山法皇の輿を射る。道長の関与・陰謀ではなく、一条天皇が道長・隆家を左遷。
一条天皇の中宮・定子が脩子(しゅうし)内親王を出産。焦る道長。元子が入内し懐妊。
*元子が皇子を産んでいたら、顕光が関白になっていた。道長罷免。
道長が左大臣に就任、道綱を大納言に据えた。異例の出世に、「小右記」を著した藤原実資(さねすけ)が大激怒!
997年 詮子の病悩により、伊周・隆家の罰が解かれ召還。
997年 高麗入寇。
998年 道長が腰痛。一条天皇に入道を勧められ関係が悪化。
999年 璋子を入内させる。
1005年 孟冬の旬政。道長の儀式案に実資が全面支持。
1019年 刀伊の入寇。女真族襲来。太宰府権帥・藤原隆家が撃退。
三条天皇即位
実資に対し、「密密に奏上せよ。」道長を通さず、実資に意見を求めた。実資は「影の関白」と呼ばれた。
1012年 妍子(けんし)を中宮、娍子(じょうし)を皇后とした。
1014年 心労から失明。道長が三条天皇に譲位を説得し続けた。
資平(すけひら)に対し、「道長が死んだら関白にする。」
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