平安時代
NHK大河は1年おきに観ており、来年はいよいよ「光る君へ」がはじまる。不思議と秀作・駄作の交代劇が続いている。一から全部観たのは、
「龍馬伝」「?」「平清盛」「?」「軍師官兵衛」「?」「真田丸」「?」「西郷どん」「?」「麒麟がくる」「?」「鎌倉殿の13人」「?」
平安末期に「治天の君」が現れるまでは、男女平等5人の合議制で政治は動いていた。糖尿病の道長ですら、独裁は許されず、こまめに根回しする日々。平安京のなかは、暴力貴族だらけで殺人が絶えず、まともな人間はとても住めたものではない。天皇が火事を起こし、武士がその横暴を阻止する。焼けた御所まで通うのがめんどくさくなり、都の外、宇治や鳥羽の別邸で政治をする。地方に暴力国司が派遣され、民は重税にあえぐ。古文で洗脳された王朝文化だが、現実はもうひどいの一言。
そんな平安貴族が抱いた夢がひとつあった。それが「倭国のような王朝を築きたい。」この思いが古今和歌集を産み、阿弥陀大仏の金色光に輝いた倭国の史実、すなわち源氏物語を産んだ。光源氏とは、白村江の戦いで日本のために戦死した倭王・中皇命のことである。万葉集第一巻いきなりの謎多き登場人物だ。倭国船団(御笠団)将軍は中皇命、扶桑国船団(遠賀団)将軍は中大兄。対唐・新羅共同戦線を約したはずの扶桑国・中大兄皇子(のち天智天皇に即位)に敵前戦線離脱され裏切られたのだ。「棚からぼた餅」策が民にばれるので簡単に即位できなかったろうし、そりゃ怒った倭国民に壬申の乱で倒されても当然だわ。中大兄は大化改新(乙巳の変)でも自らの即位に関しては慎重だった。
なんで柄にもなくバカでかい平安京を立てなければならなかったのか?羅城に囲まれた大宰府倭京をライバル視していたからだよ、百済系の桓武天皇とその皇子たちが。直参の武士・坂上田村麻呂も直参の仏僧・最澄も百済帰化人だった。心柱の耐震構造が完璧だった北九州の寺社仏閣を近畿にほぼ全部移築したよね。
自由な軽装で恋を謳歌した倭国時代と異なり、現実は堅苦しく身動きが取れない十二単、死体を火葬することも地中に埋めることも許されず清水寺に放置、怨霊やら鬼やら陰陽道やら方違えやら、暗い迷信が一気にはびこった。平安時代に元寇があったらフビライに乗っ取られていただろう。
中国側からこの時代を観てみるのもおもしろい。物々交換と貨幣経済の混沌、エネルギー革命が起きた唐末期、五代十国、北宋、南宋は特に面白い。あっ、平安時代の華北は廃墟やから江南だけ考えよう!
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