紅巾の乱、大明帝国、琉球王国、鄭和、マラッカ王国、イスラム化
1274年 フビライ南宋征討軍・総司令官バヤンが長江の襄陽から東上し南宋水軍を壊滅させた。
1282年 東シナ海の海賊だった朱清(しゅせい)と張瑄(ちょうせん)をバヤンが重用。江南の穀物を大都まで海運に携らせた。
元は、貨幣を一切禁止し、「交鈔」という名の紙幣に通貨統一。朱清と張瑄は海運関係者に渡す給料を払うため、交鈔を印刷する版木を与えられていた。
元は、科挙を廃止。立身出世の道を絶たれた旧南宋のエリートは浙江省の富農に雇われ、「義塾」をつくり、朱子学の後継者を養成した。これがのちの紅巾の乱の一派(非白蓮教徒派)をなした。
1302年 許可なく交渉を偽造した罪で、朱清と張瑄が処刑。海運はフビライ直営となった。
1330年ころ、中国でペスト大流行。
1334年 黄河大氾濫。
1348年 方国珍が後期倭寇を結成。各港を拠点とした部下を元帥に任命した。
*811~935年 新羅の入寇。
*1019年 刀伊の入寇。女真族が対馬・壱岐・北九州を襲撃。
*1223年 前期倭寇が高麗を襲撃。
1351年 右丞相トクトが黄河大改修工事。
*白蓮教 「弥勒下生、明王出世」
1351年 劉福通(りゅうふくつう)が白蓮教徒を率いて、淮河流域、安徽の穎州で紅巾の乱を起こした。
1352年 海賊の方国珍(ほうこくちん)が政府の海運輸送船を襲撃。
1353年 塩仲買人の張士誠(ちょうしせい)が江蘇の台州で反乱。
1354年 張士誠が大周を建国。
1355年 劉福通が宋を建国。
1356年 朱元璋が呉を建国。義塾の儒学者を招き入れ、大明帝国の建国のための理論武装をした。大明帝国は、「礼と法の帝国」となる。
紅巾軍に大運河を分断され海運を張士誠と方国珍に握られた元朝の領土は雲南だけとなった。
江北の乞食托鉢僧だった朱元璋(しゅげんしょう)は、白蓮教徒に身を置き、紅巾軍に参加。
1363年 劉福通が張士誠に敗れ、その部下だった朱元璋が鄱陽湖(はようこ)の戦いで陳友諒(ちんゆうりょう)を破る。
1367年 朱元璋が張士誠を破る。
1368年 朱元璋が大都を占領し大明帝国を建国。元朝が北へ逃亡。
1370~1372年 科挙を復活。
1373年 科挙を廃止、薦挙を施行。「南北更調の制」南の官僚を華北に北の官僚を江南に赴任させた。
明は、銀を用いず、現物交換とした。
1370年 開中法。塩を通貨とした。政府は予算を使わずに軍事物資を商人に運搬させることができ、遠征には一石二鳥の政策だった。
1371年 明が「海禁」政策を採用。沿海の民が許可なく海に出ることを禁じた。
1369年 日本、占城(チャンパ)、ジャワに朝貢を促す。
1370年 アユタヤ、真臘、三仏斉、ブルネイに朝貢を促す。
1372年 琉球に朝貢を促す。
*寧波 日本からの使節を応対する市舶司を設置
*泉州 琉球からの使節を応対する市舶司を設置
*広州 東南アジア諸国の使節を応対する市舶司を設置
1374年 市舶司を廃止。
1383年 アユタヤ王国、チャンパと勘合貿易。
*琉球王国の成立
1372年 中山王・察度が明に入貢。大型船舶を贈られた。
1380年 南山王・大里が明に入貢。
1383年 北山王・今帰仁が明に入貢。
1429年 中山王・尚巴志が南山・北山を統一し、琉球王国を建国。
元が支えた銀を根幹とする交易システムの周辺国は、中国から流出した銅銭を受け入れて、それぞれの国で個別の経済圏を築いた。元末のインフレ、明の海禁政策で、銅銭の流出がとまった。この激動に対処することに成功した政権が、各国の経済圏を統合することができた。
明に抵抗したのはマジャパヒト王国だった。その勢力下にあった三仏斉、ブルネイへ送った明の使節は拒否された。
マジャパヒト王国がパレンバン征服した際、マラッカに逃げた王族パラメスワラがマラッカ王国を建国。
1376年 空印の案。地方官を処刑。
1380年 胡惟庸(こいよう)の獄。宰相の胡惟庸をはじめ支持者15000人を処刑。
1381年 里甲制。「魚鱗図冊」「賦役黄冊」農民の行動の自由を制限した。
1381年 明が雲南を侵略。この戦いは苦労したね。
1384年 明が雲南を平定、土司を設置。多くの漢族が雲南に住むようになった。
1385年 郭桓(かくかん)の案。戸部尚書(財務大臣)粛清。「御製大誥(ぎょせいたいこう)」「聖諭六言」
1390年 李善長の獄。
1392年 南京から遷都候補地だった西安の視察に出かけた皇太子・朱標が過労死。
1393年 藍玉の獄。朱允炆(しゅいんぶん)、のちの建文帝に皇位がうつるよう、雲南攻略で功績をあげた藍玉をはじめ多くの雲南関係者が刑死。雲南で色目人として元に仕えていたムスリム鄭和も捕えられ去勢された。朱棣(しゅてい)、のちの永楽帝に献上された。
1398年 朱元璋死去。
1399~1402年 靖難の役。建文帝関係者が大粛清された。
*永楽帝
朱元璋や朱允炆によって官僚を排除され丸裸同然だった燕王・朱棣が頼りにできたのは宦官だった。
皇帝が私人として宮女や宦官と語らうのが内廷、皇帝が公人として官僚と語らうのが外朝。永楽帝は内廷に翻弄された。その一環が予算度外視の鄭和の大遠征。朝貢の見返りが多すぎた理由は、もともとこれら返礼品は税として集めた生産物なので、内廷にとって価値のない物産にすぎなかった。こんなただ同然の物産で、のどから手が出るくらいほしかった蘇木が入手できるのだから、内廷にとって十分満足できる交易であった。
1403年 永楽帝、李氏朝鮮に対し宦官の提供を命令。寧波・泉州・広州の市舶司を復活。
1404年 日本・足利義満と勘合貿易。
1407年 北ベトナムを占領し、安南を交阯と改称した。
1408年 ティムール配下のオルジョイ・テムルが北元を建国。
1409~1410年 北元タタールを大遠征したが敗北。
1411年 足利義持が日明国交断絶。
1421年 南京から北京へ遷都。
1424年 永楽帝死去。
1428年 黎利(れろい)が独立し黎朝を建国。
1432年 足利義教が日明貿易を復興。
アユタヤ蘇木→琉球→日本刀剣硫黄→明
1434年 オイラートがタタールを破る。
1449年 土木の変。明への朝貢を制止されたオイラートのエセン汗が、明の正統帝を拉致。
cf. 京大世界史 2022年出題
1267年、スマトラ島アチェに東南アジア最初のイスラム港市国家、サムドラ・パサイ王国が建国。
マラッカ王国の君臣関係は、マレー人王族と海民のあいだの双務的契約であった。海民は漁業と海賊を生業とし、王に税を納めず、戦時には無償で人員を提供する義務があった。サムドラ・パサイ王国のムスリムに勧められて改宗し、その文化を継承した。
マラッカ王国は、マジャパヒト王国に対抗するために、アユタヤ王国に朝貢。アユタヤ王国の領土侵略に対抗するために、さらに明に朝貢した。1408年、鄭和の軍事力を背景として、アユタヤ王国からの自立に成功した。マラッカ王国は、鄭和遠征艦隊に寄港地を提供し、鄭和は艦隊の拠点を維持するためにマラッカを支援した。1409年、永楽帝は宦官の張原をアユタヤ王国に派遣して、マラッカ王国侵略をやめるよう警告した。サゴ澱粉を主食としていたが、人口が増えるとジャワやシャムから米が輸入された。明に忠実なマラッカ王国が1450年ころから国際貿易の中心になると、マラッカに住むイスラム商人がジャワの港市に住みつく、内陸から住民を集めて自分たちの港市で稲作を行わせジャワ島海岸地帯の開拓がすすんだ。そして各地から集めた新住民に共通の帰属意識をもたせるために、イスラム改宗に努力した。こうしてバンテン王国やマタラム王国がイスラム化した。1511年、ポルトガルがマラッカ王国を占領すると、マラッカ王族はジョホール王国を再建し、イスラム教のグジャラート商人はポルトガルと紅海での利害対立があり、アチェやパサイやジョホールに移り住んだ。反対にヒンドゥー教のコロマンデル商人はポルトガルに協力的だったので、マラッカに寄港、関税率を軽減された。国際貿易港として一時マラッカに地位を奪われていたアユタヤの重要性が再び増した。1521年、ポルトガル領マラッカがサムドラ・パサイ王国を滅ぼすと、アチェ王国が再興し、アチェ王は貴族への報酬のためジョホール王国への海賊行為を奨励した。1629年、アチェ王国はオランダ東インド会社と友好関係を結び、ポルトガル領マラッカを攻略。ポルトガルはパハン王国とパタニ王国と連合してアチェ軍を壊滅させた。同年、マタラム王国はオランダ東インド会社領バタヴィアを攻撃したが敗北した。この二つの戦いは大きな意味があり、植民地の宗主国に対する抵抗が一気におさまった。1641年、オランダ東インド会社がポルトガル領マラッカを占領した。
1531年 貧困民戸が増え、都市無頼者や鉱山労働者や海賊になった。開中法と里甲制が立ち行かなくなり試験的に銀納の一条鞭法を布き、徐々に全国的に施行された。
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