大唐帝国シルクロードのまとめ
唐を理解するには、恐るべき程深い勉強が必要だった。
太祖は優柔不断でおとなしく、太宗が武闘派で彼が唐を実質建国した。太宗って貞観の治で褒められたいナルシストだったが、裏ではえぐい政治もやっていた。煬帝の皇后に、俺ってすごいやろと自慢したが一笑に付された。玄武門の変で即位を賭けて兄弟と戦った時、仏僧は兄弟に、道士は太宗に味方したので、太宗の仏教熱は冷たかった。これ、意外でしょ。玄奘(三蔵法師)が帰国した時も、一応歓迎はしたが、唯識の仏典などどうでもよく、天敵だった西突厥の軍事情報を外部に漏らさないよう陰で弟子たちを粛清した。そんな苦労が実って西突厥を滅ぼすことができた。649年、太宗が死ぬ。シルクロードのオアシス国家の酋長たちも殉死しようとしたが、きつく止められた。
ところが次の高宗はてんかん発作で政治困難となり、則天武后の世に突厥が息を吹き返した。女性が皇帝になる理由づくりに仏教を利用したくて捏造に次ぐ捏造。玄奘の法相宗ではだめだということで、法蔵の華厳宗をべたべた愛用。道教もしっかり愛用。男尊女卑、儒教色が強い長安が嫌いで、第4代皇帝即位後も洛陽に暮らした。突厥と吐蕃に唐は手を焼く。唐が周に変わったがなんとか則天武后一代で終わり、母に忠実だった娘の太平公主を自害に追い込んでスッキリ。内政がごたごたしているうちに、滅んでいたはずの高句麗が渤海として息を吹き返し、唐は内政から外征に目を向け念願の西域支配に乗り出す。西域に兵隊に駆られて行ったら帰ってこれないから、今この酒を飲んで酔っ払っていたいのだという、王翰「涼州詞」をみてね。
732~735年という年、日本は奈良時代、長屋王を殺害して藤原4兄弟の天下。唐は国際パワーバランスが目まぐるしく変わり、トルコ人突厥を倒して、新羅がその恩恵に預かり渤海と日本を蹴散らす勢い。渤海が新羅挟撃するため日本に朝貢を始めた。要するに唐は日本なんかにかまけている暇も体力もなかったのである。よかったね、百済残党をかばった大罪で攻めに来られたかもしれない。渤海は契丹をかばった大罪で唐に攻められた。
せっかく獲得した西域の国境警備最前線の節度使たちに兵糧だの給与だの送らないといけなくなり、均田制徭役として徴収された砂漠ド素人の漢人の人夫・馬夫では間に合わなくなった。そこで行商プロのソグド人に補給を全面依頼することになった。給料の絹糸を運ぶラクダの列が途絶えることなく長くて、唐詩でシルクロードよ、絶景かなと詠まれるほどだった。
シルクロードの通貨は、6~7世紀がササン銀貨、8世紀は唐の銅銭と絹に変わった!要するに多神教のペルシャを滅ぼして一神教のイスラム勃興でごたごたの西から、ソグド人のせいで拝金主義に変わった唐が征服統一した東へ繁栄の重心移動が起こった。
751年、アッバース朝(タラス河畔)、渤海(安禄山が敗将)、南詔国、の三方同時攻撃に大敗北。玄宗、よっぽど自信があったんだろうけれども兵力損失痛かったねぇ。
755年に安史の乱。ソグド人の安禄山と史思明が玄宗と楊貴妃に引き立てられ、楊国忠に殺されると悟った安禄山が準備万端で帝位を簒奪にかかった。安禄山の子供や史思明の子供にカリスマ性なし。玄宗は、長恨歌をみてね、楊貴妃を殺すしかなく四川の山奥まで逃げたが、乱を鎮圧。
8世紀後半、安史の乱で唐の西域軍事支配が後退。ソグド人も中華から一掃された。とはいっても河北軍閥として一部残って、875年黄巣の乱をひきおこすんだけどね。唐末、五代十国、北宋までワンセットで一気に流れを追わないと理解できない。
河南軍閥(後梁)⚔山西軍閥(後唐・後晋・後漢・後周)⚔河北軍閥(北漢・北宋)
ソグディアナはイスラム帝国に飲み込まれ、9世紀には絹の道(シルクロード)から、草原の道(ステップロード)に行商ルートの重心が変わった。9世紀はウィグル、10世紀は遼(契丹)がオアシス都市を支配。吐蕃がうまみ求めてちょっかいを出してきたけど。彼ら遊牧民は、8世紀に唐がシルクロードにもちこんだ驥尾州府や駅館(馬の駅伝制)をそのまま受け継いで利用した。行政文書管理や計算が得意な漢人やペルシャ人を拉致・誘致して官僚機構を機能させて大多数の定住民を治めた。イスラムに本拠地ソグディアナを奪われたソグド商人からウィグル商人へ担い手が徐々に変わっていった。13世紀にモンゴルの東西ユーラシア制覇がなされるお膳立てがこうして築かれていた!
「チンギスカンは一日にして成らず。前座の遊牧民たちが唐の官僚機構を真似してくれたおかげだった。」
東ユーラシア 西ユーラシア
ソグド商人 ソグド商人
ウィグル商人 アッバース商人
モンゴル帝国 モンゴル帝国
元・オゴタイ汗国 イル汗国・キプチャク汗国
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