中国貨幣の歴史
元はフビライのための私物化国家やったね。杭州から北京へぶっとい運河をつくらせて整備して、海賊を手なづけ、江南の物資を海と運河で運搬させて、皇帝たちは飲めや歌えや。冬は北京、夏は暑くて北京には住めずモンゴル高原でお暮し。そりゃお国公認じゃけん、ならず者集団倭寇もできまっさ。日本人倭寇は高麗だけのかわいいものでしたが、中国人が親分になると中国本土への本格的な襲撃になりました。華北は、相次いだ戦乱、ペスト、バッタ、黄河大氾濫で荒廃甚だしい。繁栄を極めた長安も洛陽も開封もボロボロ。
明も朱元璋と永楽帝のための私物化国家やったね。官僚が遠ざけられ宦官とのお話し合いで国家方針が決定。朝貢の返礼は、民衆の血税を放り投げるようにふるまった。価値もろくにわからないままに。
その間、民衆は銅銭が足りなくて物々交換だの木や土の貨幣だのを使用。すみません、宋、元から日本に腐るほど銅銭をいただきました。明の後半になってやっと銀貨でまともになった。日本とメキシコから大量に銀が流入して、今度はスーパーインフレ。
さてさて、金貨より金のほうが価値が高いと、金貨を溶かして金塊に変えるんだね。そうすると通貨がまわらなくなる。銅が足りないのなら、混ぜ物をして銅銭を悪化させて大量に作ればいいのだが、中国は意地でも銅銭の悪化をやらなかった。1銭=4g、銅6割以上。
*秦の始皇帝の貨幣統一。みんなの学習事項だけれども、秦が滅んでから王朝交代が激しすぎてグダグダになった。
*世界大戦中、軍人のあいだでは紙巻タバコが通貨になったよね。インドのグジャラート商人は日本銅から銅銭を改鋳した。室町・戦国時代の撰銭令で、粗悪な銭はインド西北部まで流通していた!
悪貨は良貨を駆逐する。中国では、良貨たる官銭が、悪貨たる私鋳銭を駆逐した。
中国は現地通貨に傾斜しやすい。たとえば、北魏の土銭、元の塩包紙・木牌など。しかも各土地で交換利率(相場)が異なった。これを郷価と呼ぶ。北魏は官製の五銖銭と太和銭を普及させようとしたが、私鋳銭が幅を利かせていてできなかった。
伝統中国における通貨の歴史の主役は三つ、
1 一文単位の銅銭(計数通貨)
2 高額通貨の紙製通貨(計数通貨)
3 秤量(しょうりょう)通貨として使われた銀貨
例外的に、金、計数通貨として使われた銀貨。
1236年、クチュが南宋遠征失敗。
モンケ汗はフラグを西方に派遣してアッバース朝を滅ぼした。フビライを東方に派遣してまず大理国を滅ぼしたところで慎重を期した。モンケ汗はフビライを解任して南宋を攻めたが四川で疫病にかかり、1259年死去。1260~1264年、フビライとアリク・ブケがハーンをめぐり内戦、フビライ汗となる。
1266年、大都を建設。
元はまず、銀を朝廷に集め、オルトク商人を通してユーラシア東西で交易を続けた。13世紀後半は「最初の銀の世紀」。民間では交鈔の使用が強制されたが、上層社会や国家財政は銀建てで動いていた。課税収入は、塩税と商税。
元の紙製通貨制度が崩壊し、それまで禁止されてきた銅銭使用が表面的に復帰した。地主、商人ら富裕層が多い江南では銀が各地から流入した。明は南北平等策をとり、金銀使用を禁じた。
1275年、大明宝鈔を発行。金銀使用の禁令。
1314年、科挙が復活。
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