銀次で関目君と飲み会
宝塚歌劇の人事が、生ビール飲み放題の肴。関目君の咲への忠誠心を改めて認識しました。
待ちに待ったキキお披露目宙組観劇はSS1回、S3回(うち井高野君と1回)。和希そら退団雪組観劇はS3回(うち関目君と1回、井高野君と1回)だが、4回目になる売布神社君・井高野君と貸切公演抽選結果発表は明後日。有沙瞳のいない星組観劇はどうするか思案中。
| 固定リンク
宝塚歌劇の人事が、生ビール飲み放題の肴。関目君の咲への忠誠心を改めて認識しました。
待ちに待ったキキお披露目宙組観劇はSS1回、S3回(うち井高野君と1回)。和希そら退団雪組観劇はS3回(うち関目君と1回、井高野君と1回)だが、4回目になる売布神社君・井高野君と貸切公演抽選結果発表は明後日。有沙瞳のいない星組観劇はどうするか思案中。
| 固定リンク
イケメンの極致、月城さんが、来年退団します。今回の月組公演、6回観ておいてよかった。
花組と月組の次期トップコンビがどうなるか、めっちゃ気になる。月組は、順当にいけば、鳳月杏さんで決まりだろうが、トップ娘役は、芝居の彩みちるちゃんか、ダンスの天紫珠李ちゃんか、歌の天彩峰里ちゃんか?
落下傘があるのか、ちなつの粘り勝ちになるのか?
| 固定リンク
16世紀以降、紅海、ペルシャ湾、南インド、東南アジア、南シナ海で、各国の商人たちが死に物狂いで港市都市の覇権争いをしているのをみるにつけ、いかに徳川幕府が既得権益にしがみついて、国防を疎かにしていたかがよくわかる。国会が親中派一色に染まった今にはじまったことではない。
ファインプレーはエラーの結果生まれる。草莽の志士や軍神に国防を頼るようでは幕府失格だ。
| 固定リンク
元はフビライのための私物化国家やったね。杭州から北京へぶっとい運河をつくらせて整備して、海賊を手なづけ、江南の物資を海と運河で運搬させて、皇帝たちは飲めや歌えや。冬は北京、夏は暑くて北京には住めずモンゴル高原でお暮し。そりゃお国公認じゃけん、ならず者集団倭寇もできまっさ。日本人倭寇は高麗だけのかわいいものでしたが、中国人が親分になると中国本土への本格的な襲撃になりました。華北は、相次いだ戦乱、ペスト、バッタ、黄河大氾濫で荒廃甚だしい。繁栄を極めた長安も洛陽も開封もボロボロ。
明も朱元璋と永楽帝のための私物化国家やったね。官僚が遠ざけられ宦官とのお話し合いで国家方針が決定。朝貢の返礼は、民衆の血税を放り投げるようにふるまった。価値もろくにわからないままに。
その間、民衆は銅銭が足りなくて物々交換だの木や土の貨幣だのを使用。すみません、宋、元から日本に腐るほど銅銭をいただきました。明の後半になってやっと銀貨でまともになった。日本とメキシコから大量に銀が流入して、今度はスーパーインフレ。
さてさて、金貨より金のほうが価値が高いと、金貨を溶かして金塊に変えるんだね。そうすると通貨がまわらなくなる。銅が足りないのなら、混ぜ物をして銅銭を悪化させて大量に作ればいいのだが、中国は意地でも銅銭の悪化をやらなかった。1銭=4g、銅6割以上。
*秦の始皇帝の貨幣統一。みんなの学習事項だけれども、秦が滅んでから王朝交代が激しすぎてグダグダになった。
*世界大戦中、軍人のあいだでは紙巻タバコが通貨になったよね。インドのグジャラート商人は日本銅から銅銭を改鋳した。室町・戦国時代の撰銭令で、粗悪な銭はインド西北部まで流通していた!
悪貨は良貨を駆逐する。中国では、良貨たる官銭が、悪貨たる私鋳銭を駆逐した。
中国は現地通貨に傾斜しやすい。たとえば、北魏の土銭、元の塩包紙・木牌など。しかも各土地で交換利率(相場)が異なった。これを郷価と呼ぶ。北魏は官製の五銖銭と太和銭を普及させようとしたが、私鋳銭が幅を利かせていてできなかった。
伝統中国における通貨の歴史の主役は三つ、
1 一文単位の銅銭(計数通貨)
2 高額通貨の紙製通貨(計数通貨)
3 秤量(しょうりょう)通貨として使われた銀貨
例外的に、金、計数通貨として使われた銀貨。
1236年、クチュが南宋遠征失敗。
モンケ汗はフラグを西方に派遣してアッバース朝を滅ぼした。フビライを東方に派遣してまず大理国を滅ぼしたところで慎重を期した。モンケ汗はフビライを解任して南宋を攻めたが四川で疫病にかかり、1259年死去。1260~1264年、フビライとアリク・ブケがハーンをめぐり内戦、フビライ汗となる。
1266年、大都を建設。
元はまず、銀を朝廷に集め、オルトク商人を通してユーラシア東西で交易を続けた。13世紀後半は「最初の銀の世紀」。民間では交鈔の使用が強制されたが、上層社会や国家財政は銀建てで動いていた。課税収入は、塩税と商税。
元の紙製通貨制度が崩壊し、それまで禁止されてきた銅銭使用が表面的に復帰した。地主、商人ら富裕層が多い江南では銀が各地から流入した。明は南北平等策をとり、金銀使用を禁じた。
1275年、大明宝鈔を発行。金銀使用の禁令。
1314年、科挙が復活。
| 固定リンク
1274年 フビライ南宋征討軍・総司令官バヤンが長江の襄陽から東上し南宋水軍を壊滅させた。
1282年 東シナ海の海賊だった朱清(しゅせい)と張瑄(ちょうせん)をバヤンが重用。江南の穀物を大都まで海運に携らせた。
元は、貨幣を一切禁止し、「交鈔」という名の紙幣に通貨統一。朱清と張瑄は海運関係者に渡す給料を払うため、交鈔を印刷する版木を与えられていた。
元は、科挙を廃止。立身出世の道を絶たれた旧南宋のエリートは浙江省の富農に雇われ、「義塾」をつくり、朱子学の後継者を養成した。これがのちの紅巾の乱の一派(非白蓮教徒派)をなした。
1302年 許可なく交渉を偽造した罪で、朱清と張瑄が処刑。海運はフビライ直営となった。
1330年ころ、中国でペスト大流行。
1334年 黄河大氾濫。
1348年 方国珍が後期倭寇を結成。各港を拠点とした部下を元帥に任命した。
*811~935年 新羅の入寇。
*1019年 刀伊の入寇。女真族が対馬・壱岐・北九州を襲撃。
*1223年 前期倭寇が高麗を襲撃。
1351年 右丞相トクトが黄河大改修工事。
*白蓮教 「弥勒下生、明王出世」
1351年 劉福通(りゅうふくつう)が白蓮教徒を率いて、淮河流域、安徽の穎州で紅巾の乱を起こした。
1352年 海賊の方国珍(ほうこくちん)が政府の海運輸送船を襲撃。
1353年 塩仲買人の張士誠(ちょうしせい)が江蘇の台州で反乱。
1354年 張士誠が大周を建国。
1355年 劉福通が宋を建国。
1356年 朱元璋が呉を建国。義塾の儒学者を招き入れ、大明帝国の建国のための理論武装をした。大明帝国は、「礼と法の帝国」となる。
紅巾軍に大運河を分断され海運を張士誠と方国珍に握られた元朝の領土は雲南だけとなった。
江北の乞食托鉢僧だった朱元璋(しゅげんしょう)は、白蓮教徒に身を置き、紅巾軍に参加。
1363年 劉福通が張士誠に敗れ、その部下だった朱元璋が鄱陽湖(はようこ)の戦いで陳友諒(ちんゆうりょう)を破る。
1367年 朱元璋が張士誠を破る。
1368年 朱元璋が大都を占領し大明帝国を建国。元朝が北へ逃亡。
1370~1372年 科挙を復活。
1373年 科挙を廃止、薦挙を施行。「南北更調の制」南の官僚を華北に北の官僚を江南に赴任させた。
明は、銀を用いず、現物交換とした。
1370年 開中法。塩を通貨とした。政府は予算を使わずに軍事物資を商人に運搬させることができ、遠征には一石二鳥の政策だった。
1371年 明が「海禁」政策を採用。沿海の民が許可なく海に出ることを禁じた。
1369年 日本、占城(チャンパ)、ジャワに朝貢を促す。
1370年 アユタヤ、真臘、三仏斉、ブルネイに朝貢を促す。
1372年 琉球に朝貢を促す。
*寧波 日本からの使節を応対する市舶司を設置
*泉州 琉球からの使節を応対する市舶司を設置
*広州 東南アジア諸国の使節を応対する市舶司を設置
1374年 市舶司を廃止。
1383年 アユタヤ王国、チャンパと勘合貿易。
*琉球王国の成立
1372年 中山王・察度が明に入貢。大型船舶を贈られた。
1380年 南山王・大里が明に入貢。
1383年 北山王・今帰仁が明に入貢。
1429年 中山王・尚巴志が南山・北山を統一し、琉球王国を建国。
元が支えた銀を根幹とする交易システムの周辺国は、中国から流出した銅銭を受け入れて、それぞれの国で個別の経済圏を築いた。元末のインフレ、明の海禁政策で、銅銭の流出がとまった。この激動に対処することに成功した政権が、各国の経済圏を統合することができた。
明に抵抗したのはマジャパヒト王国だった。その勢力下にあった三仏斉、ブルネイへ送った明の使節は拒否された。
マジャパヒト王国がパレンバン征服した際、マラッカに逃げた王族パラメスワラがマラッカ王国を建国。
1376年 空印の案。地方官を処刑。
1380年 胡惟庸(こいよう)の獄。宰相の胡惟庸をはじめ支持者15000人を処刑。
1381年 里甲制。「魚鱗図冊」「賦役黄冊」農民の行動の自由を制限した。
1381年 明が雲南を侵略。この戦いは苦労したね。
1384年 明が雲南を平定、土司を設置。多くの漢族が雲南に住むようになった。
1385年 郭桓(かくかん)の案。戸部尚書(財務大臣)粛清。「御製大誥(ぎょせいたいこう)」「聖諭六言」
1390年 李善長の獄。
1392年 南京から遷都候補地だった西安の視察に出かけた皇太子・朱標が過労死。
1393年 藍玉の獄。朱允炆(しゅいんぶん)、のちの建文帝に皇位がうつるよう、雲南攻略で功績をあげた藍玉をはじめ多くの雲南関係者が刑死。雲南で色目人として元に仕えていたムスリム鄭和も捕えられ去勢された。朱棣(しゅてい)、のちの永楽帝に献上された。
1398年 朱元璋死去。
1399~1402年 靖難の役。建文帝関係者が大粛清された。
*永楽帝
朱元璋や朱允炆によって官僚を排除され丸裸同然だった燕王・朱棣が頼りにできたのは宦官だった。
皇帝が私人として宮女や宦官と語らうのが内廷、皇帝が公人として官僚と語らうのが外朝。永楽帝は内廷に翻弄された。その一環が予算度外視の鄭和の大遠征。朝貢の見返りが多すぎた理由は、もともとこれら返礼品は税として集めた生産物なので、内廷にとって価値のない物産にすぎなかった。こんなただ同然の物産で、のどから手が出るくらいほしかった蘇木が入手できるのだから、内廷にとって十分満足できる交易であった。
1403年 永楽帝、李氏朝鮮に対し宦官の提供を命令。寧波・泉州・広州の市舶司を復活。
1404年 日本・足利義満と勘合貿易。
1407年 北ベトナムを占領し、安南を交阯と改称した。
1408年 ティムール配下のオルジョイ・テムルが北元を建国。
1409~1410年 北元タタールを大遠征したが敗北。
1411年 足利義持が日明国交断絶。
1421年 南京から北京へ遷都。
1424年 永楽帝死去。
1428年 黎利(れろい)が独立し黎朝を建国。
1432年 足利義教が日明貿易を復興。
アユタヤ蘇木→琉球→日本刀剣硫黄→明
1434年 オイラートがタタールを破る。
1449年 土木の変。明への朝貢を制止されたオイラートのエセン汗が、明の正統帝を拉致。
cf. 京大世界史 2022年出題
1267年、スマトラ島アチェに東南アジア最初のイスラム港市国家、サムドラ・パサイ王国が建国。
マラッカ王国の君臣関係は、マレー人王族と海民のあいだの双務的契約であった。海民は漁業と海賊を生業とし、王に税を納めず、戦時には無償で人員を提供する義務があった。サムドラ・パサイ王国のムスリムに勧められて改宗し、その文化を継承した。
マラッカ王国は、マジャパヒト王国に対抗するために、アユタヤ王国に朝貢。アユタヤ王国の領土侵略に対抗するために、さらに明に朝貢した。1408年、鄭和の軍事力を背景として、アユタヤ王国からの自立に成功した。マラッカ王国は、鄭和遠征艦隊に寄港地を提供し、鄭和は艦隊の拠点を維持するためにマラッカを支援した。1409年、永楽帝は宦官の張原をアユタヤ王国に派遣して、マラッカ王国侵略をやめるよう警告した。サゴ澱粉を主食としていたが、人口が増えるとジャワやシャムから米が輸入された。明に忠実なマラッカ王国が1450年ころから国際貿易の中心になると、マラッカに住むイスラム商人がジャワの港市に住みつく、内陸から住民を集めて自分たちの港市で稲作を行わせジャワ島海岸地帯の開拓がすすんだ。そして各地から集めた新住民に共通の帰属意識をもたせるために、イスラム改宗に努力した。こうしてバンテン王国やマタラム王国がイスラム化した。1511年、ポルトガルがマラッカ王国を占領すると、マラッカ王族はジョホール王国を再建し、イスラム教のグジャラート商人はポルトガルと紅海での利害対立があり、アチェやパサイやジョホールに移り住んだ。反対にヒンドゥー教のコロマンデル商人はポルトガルに協力的だったので、マラッカに寄港、関税率を軽減された。国際貿易港として一時マラッカに地位を奪われていたアユタヤの重要性が再び増した。1521年、ポルトガル領マラッカがサムドラ・パサイ王国を滅ぼすと、アチェ王国が再興し、アチェ王は貴族への報酬のためジョホール王国への海賊行為を奨励した。1629年、アチェ王国はオランダ東インド会社と友好関係を結び、ポルトガル領マラッカを攻略。ポルトガルはパハン王国とパタニ王国と連合してアチェ軍を壊滅させた。同年、マタラム王国はオランダ東インド会社領バタヴィアを攻撃したが敗北した。この二つの戦いは大きな意味があり、植民地の宗主国に対する抵抗が一気におさまった。1641年、オランダ東インド会社がポルトガル領マラッカを占領した。
1531年 貧困民戸が増え、都市無頼者や鉱山労働者や海賊になった。開中法と里甲制が立ち行かなくなり試験的に銀納の一条鞭法を布き、徐々に全国的に施行された。
| 固定リンク
午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階真ん中上手側。蒸し暑いので、劇場内で生ビール大と唐揚げをランチ。
花妃舞音ちゃん、一輝翔琉くんと、ホープ同士、けっこうダンスを組んでました。上手側で観て気づきました。一乃凛ちゃん、美海そらちゃん、目力が強い。朝香ゆららちゃん、プロポーション絶品、モデルもいける。きよら羽龍ちゃんは常にギラギラ、宙組トップ娘役にまっしぐら。
芝居の彩みちるか、ダンスの天紫珠李か、一騎打ちの結果発表が近い。
貫禄満点の海乃美月ちゃんのアイドルボーカルは二度と見れない吹っ切れぶりで、オペラグラスでドアップしつづけてます。
今宵の客席降りは、静音ほたるちゃん、毬矢ソナタくん。
鹿鳴館のシーンは大好物。真ん中の白鳥バレリーナたちに、トップまっしぐら花妃舞音ちゃん、ダンサー菜々野ありちゃんがいて、眼福の極み。ダンサー美海そらちゃんと彩音星那くんのデュエットダンスはキレイです。
東京の雑踏シーン、みんな主役を食ってますね。とくに白くまを付けた秋葉原コスプレ少女、八重ひめかちゃん。大階段から袖までちょろちょろするのだが、毎回オペラグラスで追っかけてます。
今回の鳳月杏の役どころは第1部、第2部ともに暗すぎ。もっと明るいちなつが観たいです。
| 固定リンク
北宋は、大理を許して、北ベトナムを許さなかった。燕雲十六州を譲渡された遼には泣き寝入りした。それぞれのうまみは、
大理 軍馬(遼・西夏からの駿馬輸入がストップした)
北ベトナム チャンパ米(江南で二期作実現)
遼(燕雲十六州) 石炭(火力激増のコークス発明)
遊牧民は広大な土地があってもわずかな人口しか養えない。農耕民の米は圧倒的にカロリー摂取が効率的で人口を増やせる。農耕民は、「性器崇拝」していた。鎌倉時代に樺太から北海道に入植した遊牧狩猟のアイヌの居住区を倭人が制限したため、人口が激減。
*中国と北ベトナム
BC214 秦・始皇帝が広東・広西を征討。
BC207 趙佗(ちょうた)が南越を建国。
BC111 前漢・武帝が南越を征討。
40年 徴(ちゅん)姉妹の反乱
2世紀末 中ベトナムに林邑が独立建国され、海上交易路をおさえるため北ベトナムを何度も侵攻。
248年 趙嫗(ちょうあう)の反乱。
446年 南朝宋・檀和之(だんわし)が林邑を侵攻し財宝を略奪。
544年 李賁(りーびー)=南越帝の反乱。
791年 馮興(ほんふん)の反乱。
939年 呉権(ごーくぇん)が独立。
968年 丁部領(でぃんぼりん)が独立。
980年 黎桓(れーほぁん)が独立。
*犂は早くから輸入されたが、中国の同化政策はなかなか進んでいなかった。しかし李朝になると、積極的に同化政策がすすめられ、禅宗を保護し、仏寺が建立されていった。
1009年 李公蘊(りーこんうぁん)が李朝を建国。首都をハノイ(昇竜タンロン)に置いた。
1044年 延祐寺(一柱寺)が建立された。チャンパを遠征。
1054年 李聖宗が大越に改号。
1069年 チャンパを遠征。
1075年 科挙制度導入。
1075~1076年 北宋の侵攻を撃退。
李英宗(りあいんとん)のとき全盛期を迎えた。
1174年 南宋から「安南国王」の称号が授与された。
重税、賦役、自然災害で暴動が頻発。
1226年 陳守度(ちゃんとぅど)が黎朝を滅ぼして陳朝を建国。
堤防・灌漑など紅河(ほんはー)デルタの開拓。1272年、黎文休(レーヴァンヒュウ)「大越史記」
1257年 チャンパに元寇
1274年 日本に元寇
1277年 パガン朝に元寇
1281年 日本に元寇
1282~1285年 チャンパに元寇
1284年 陳朝に元寇
1287年 陳朝に元寇、パガン朝に元寇
1292~1293年 ジャワ島に元寇。シンガサリ王国が滅び、マジャパヒト王国が興る。
1344~1361年 呉陛(ごべー)の反乱
1400年 胡李犛(ほくいりぃ)が陳朝を滅ぼし、胡朝を建国。
限田法(1398) 土地所有を制限
限奴法(1401) 奴隷所有を制限
チュノム(字喃)を導入
紙幣を発行
1406年 明・永楽帝が胡朝を滅ぼす。
1428年 黎利(れーろい)が黎朝を建国。
均田法 土豪や旧明官僚の土地を没収し、農民へ公田を支給した
社(さぁ)を設置 租税徴収をつかさどった
黎聖宗(れーたいんとん)のとき、全盛期を迎えた。
屯田制
地方軍の五班構成
洪徳条律(1483) 唐律にならって制定
「大越史記全書」「嶺南摭怪列伝(れいなんせきかいれつでん)」「家訓歌」
1471年 黎朝がチャンパを占領。
1527年 莫登庸(まくだんずん)が王位簒奪。
北ベトナム 鄭(ちん)氏が黎朝傀儡王を擁立し黎朝を再興、実権を掌握。
中ベトナム 阮(ぐぇん)氏が独立
南ベトナム チャンパが1832年まで健在
1771年 西山(たいそん)党の反乱
阮文岳(グェンヴァンニャク)
阮文呂(グェンヴァンルー)
阮文恵(グェンヴァンフエ)
1786年 西山朝が黎朝を滅ぼした。
1789年 清が、阮文恵を安南国王に封じた。
1802年 阮福映(グェンフックアイン)が西山朝を滅ぼし、阮朝を建国。
1804年 清が、阮福映を越南国王に封じた。
1824年 フランス通商要求を拒否。
1830年 キリスト教を禁止。フランス宣教師を処刑した。
1832年 阮朝が南北ベトナムを統一。
皇越律例 大清律令にならって制定。
阮攸(グェンズー)「金雲翹(キムヴァンキエウ)」
| 固定リンク
朝から、近畿自動車道、中国自動車道を走って、宝塚大劇場に行ってきました。現地で王寺君と合流。座席は2階最前列下手側でした。
月組のお羽は、これで見納めかと思いながらオペラグラスで追っかけました。
居酒屋では、月組初見の王寺君に、月城かなとさんのイケメン&美人ぶりを力説。宝塚歌劇初心者は月組から観てほしいと言いました。
話は来る雪組公演ベルばらの話へ。オスカル朝美絢の讃美しきり。朝美絢の十八番を説明しました。あれだけの器量だから女の子にもてまくる。しかし、ほんとうに愛している女の子はひとりだけ。普段は怪訝そうに扱うが、自分がピンチで弱っているとき、その子がひとり献身的に尽くし朝美絢に寄り添い、選ぶべき彼女はこの子だと朝美絢が悟る。その時見せてくれる優しさは天下一品だよと講義しました。そんな一途な片思いの可愛いい女の子を演じてくれたのは、彩みちるちゃん、野々花ひまりちゃん。
宝塚みやげは、SHICTのドーナッツ。しっとり生地でめちゃうま!!!
| 固定リンク
ビッグニュースだね。この先、風間とお羽の相性がどうかなと思っていたのでトレードは納得。
宙組娘役が空中大分解で、娘役層が薄くなっているので、お羽が山吹ひばりを抑えて、桜木みなとの嫁に就任するのかな。星風まどか、夢白あや、天彩峰里の1,2,3番手が組替えとは、宙組にいったい何があったのか。チョー異常事態。
じゅっちゃんが月組って、月娘十分すぎるほど足りているのだが。鳳月杏の嫁候補、彩みちる、天紫珠李に天彩峰里が割り込む。大激戦すぎ。和希そらが雪組から月組へトップ落下傘するかもしれない予感もするのだが。もうわからない。
| 固定リンク
いま興味がある中国史を聴講しました。
コークス 石炭を蒸して不純物を除き、これによって火力が激増した。
西洋ではイギリスのダービーが18世紀に発明していたが、中国では9世紀にコークスを発明しており、料理の火力が強く何でも食べた。ここから講義にはなかったが、人肉も好んで食べた。とくに875年黄巣の乱で中国南部での食人行為は史上惨憺たるものだった。なるほどコークスで火力が強かったので、火鍋で腐敗臭を幾分緩和し成しえた仕業だったのか。それまでは春秋戦国時代以来、塩・酒に漬けてから食べていたので手間暇がかかっていた。「羹(あつもの)」孔子や曹操も食べてたね。武漢でコウモリを食べてコロナウィルスがパンデミックしたし、迷惑この上ない。
漢字 漢字を用いたのが中国。
王朝が交代するたびに漢字の読み方がわからなくなった。征服遊牧民にとって漢民族農耕民の発音て知らんがなという話。だから漢字の読み方を逐一、テキストにして残していかなければならなかった。
革命 農村から革命が起きるのは中国だけの現象。
中国の農村は人口密度が高いから成しえる。毛沢東がはじめてそのことを明文化した。
第一次・第二次・第三次産業
農業から利益が出る時代の勉強をする。だから中国の均田制を学ぶ。日本は第二次・第三次産業で利益を得るので農業の重要性が低く、農業歴史勉強のサンプルになりえない。資本と労働力の勉強にとっては重要。
| 固定リンク
高知道、徳島道、神戸淡路鳴門自動車道、神戸7号線、中国自動車道を走って、宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階真ん中あたり下手側。
オペラグラスで、花妃舞音ちゃんを追っかけ。
客席降りは、麗泉里ちゃんでした。エトワールも務めてはります。
フィナーレ大階段、ちなつのコーナーはすごい。入り出からして貫禄満点のちなつが4人の娘役に囲まれるのだが、誰がトップ娘役になっていてもおかしくない、実力オーラ満載の娘役たちだ。
きよら羽龍 白河りり
鳳月杏
天紫珠李 彩みちる
ちょっと前まで、ここに詩ちづるが居て、すぐ後ろに花妃舞音&白綺華が控えていた。娘役の層が厚すぎ。
鳳月杏の2番手羽と月城かなとのトップ羽の真後ろド真ん中に、花妃舞音ちゃんが立っています。
| 固定リンク
高知といえば、モーニング。大阪と名古屋には負けるが、なかなか高知も安くてボリューム満点。はりまや橋でジャスト9時。有名なからくり時計を観ました。牛に引かれて善光寺。嫁に引かれて帯屋町。8:15ころ、男女中高生が帯屋町アーケードを猛スピードで自転車をすっ飛ばしていました。これも高知名物です。
ゆったりと高知城巡り。40年前に桜まつりに登城して以来かな。天守閣にのぼって風に吹かれて涼みました。1601年、掛川の山内一豊が市民総出で築城。子供も駆り出され、衣服に小石を包んで運ぶと駄賃がもらえたそうです。瓦は大阪から調達。たぶん石垣は長宗我部の城郭から移したのかな。
セット割引チケットで坂本龍馬記念館へ。2階喫茶店で2度目のモーニング。板垣退助の素行が悪く、ブラックリストが展示されていました。後藤象二郎と清岡公張(ともはる)の、「板垣退助が処刑されそうだから脱藩させたほうがいい。」といった書簡がほほえましかった。あとは、酔鯨・山内容堂の瓢箪の絵。
坂本龍馬記念館に立ち寄りました。展示品は複製が多かったが、河田小龍の本物の絵をみて感動。ここでしか見られない。あとは京都・霊山歴史館で本物を拝んでほしい。あとは、海援隊が勉強した英語テキスト。ジョン万次郎の英会話テキスト。
最後は桂浜で締め。坂本龍馬像から龍王岬まで歩きました。昭和55年、数え二十歳の時、京都の旧制三高理科乙類にもし落ちていたら、小津の旧制高知高校理科乙類に行きたかった。第一外国語はドイツ語。アメリカなんぞに負けてたまるかね。
九つとせ
この浜寄する大波は カリフォルニアの岸を打つ
そいつぁ豪気だね
早めの夕飯は、ひろめ市場で生ビール大&冷酒・美丈夫。アテは当然、のれそれ、明神丸の鰹たたき。のれそれは、高知でしか食べられない。ツルっとのど越しが快感で、酒のアテには最適。酒がすすむ。三翠園の露天風呂にゆったりつかってブログを書いています。
| 固定リンク
いつもどおり、朝から近畿自動車道を走り、阪大病院へ。阪大内科教授の外来を受診して、淡路島、高松道、高知道を、嫁と交代で走りました。SAで讃岐うどんを買いました。こんぴらさんの善通寺を横目に、高知へ直行。
帯屋町ひろめ市場で、生ビール大と冷酒・美丈夫、アテは、のれそれ、あん肝、明神丸の藁焼きカツオたたき。
山内容堂ゆかりの三翠園で、塩味の露天風呂につかりました。泉質は食塩。ひやい「ゆず茶」が飲み放題。
| 固定リンク
タイ人が大いに絡むローカルな雲南話題。東南アジアの陸路交易がおもしろい。
名古屋大学東洋史学研究室・林謙一郎准教授がご専門のようだ。食人や宦官や大量虐殺で阿鼻叫喚だった南漢。民衆が逃げるとすれば、安南都護府か南詔国。史料も少ないなか、研究成果に興味がある。
| 固定リンク
月氏⇒大月氏国⇒クシャーナ朝(ガンダーラ)
北匈奴⇒フン人⇒アッティラ帝国⇒マジャール人⇒ハンガリー
柔然?⇒アヴァール汗国(モンゴル系)
シャム族?⇒南詔⇒スコタイ朝(雲南系)
西突厥⇒ハザール汗国(トルコ系)
ブルガル人⇒ブルガリア帝国(トルコ系)
フン人アッティラ大王はローマ教皇レオ1世になだめられ懐柔されて、しかも早逝して終了!!
柔然は、突厥の軍事力に負けて空中分解。一部は北魏(鮮卑族)で粛清、一部は東欧で大帝国を築いた。
エフタルは、北魏に朝貢してへりくだるも、インド進出に色気を出したササン朝ペルシャに滅ぼされる。
有名なライバル関係は、
アヴァール汗国vsフランク王国
ビザンツ帝国はカネを渡してアヴァール汗国との全面衝突を避けた。だがしかし、ブルガル人とは血みどろの全面対決したね。
ブルガリア帝国vsビザンツ帝国
ハザール汗国とビザンツ帝国が蜜月だったのは最初だけ。黒海利権で対立した。
ビザンツ皇帝一覧
| 固定リンク
唐を理解するには、恐るべき程深い勉強が必要だった。
太祖は優柔不断でおとなしく、太宗が武闘派で彼が唐を実質建国した。太宗って貞観の治で褒められたいナルシストだったが、裏ではえぐい政治もやっていた。煬帝の皇后に、俺ってすごいやろと自慢したが一笑に付された。玄武門の変で即位を賭けて兄弟と戦った時、仏僧は兄弟に、道士は太宗に味方したので、太宗の仏教熱は冷たかった。これ、意外でしょ。玄奘(三蔵法師)が帰国した時も、一応歓迎はしたが、唯識の仏典などどうでもよく、天敵だった西突厥の軍事情報を外部に漏らさないよう陰で弟子たちを粛清した。そんな苦労が実って西突厥を滅ぼすことができた。649年、太宗が死ぬ。シルクロードのオアシス国家の酋長たちも殉死しようとしたが、きつく止められた。
ところが次の高宗はてんかん発作で政治困難となり、則天武后の世に突厥が息を吹き返した。女性が皇帝になる理由づくりに仏教を利用したくて捏造に次ぐ捏造。玄奘の法相宗ではだめだということで、法蔵の華厳宗をべたべた愛用。道教もしっかり愛用。男尊女卑、儒教色が強い長安が嫌いで、第4代皇帝即位後も洛陽に暮らした。突厥と吐蕃に唐は手を焼く。唐が周に変わったがなんとか則天武后一代で終わり、母に忠実だった娘の太平公主を自害に追い込んでスッキリ。内政がごたごたしているうちに、滅んでいたはずの高句麗が渤海として息を吹き返し、唐は内政から外征に目を向け念願の西域支配に乗り出す。西域に兵隊に駆られて行ったら帰ってこれないから、今この酒を飲んで酔っ払っていたいのだという、王翰「涼州詞」をみてね。
732~735年という年、日本は奈良時代、長屋王を殺害して藤原4兄弟の天下。唐は国際パワーバランスが目まぐるしく変わり、トルコ人突厥を倒して、新羅がその恩恵に預かり渤海と日本を蹴散らす勢い。渤海が新羅挟撃するため日本に朝貢を始めた。要するに唐は日本なんかにかまけている暇も体力もなかったのである。よかったね、百済残党をかばった大罪で攻めに来られたかもしれない。渤海は契丹をかばった大罪で唐に攻められた。
せっかく獲得した西域の国境警備最前線の節度使たちに兵糧だの給与だの送らないといけなくなり、均田制徭役として徴収された砂漠ド素人の漢人の人夫・馬夫では間に合わなくなった。そこで行商プロのソグド人に補給を全面依頼することになった。給料の絹糸を運ぶラクダの列が途絶えることなく長くて、唐詩でシルクロードよ、絶景かなと詠まれるほどだった。
シルクロードの通貨は、6~7世紀がササン銀貨、8世紀は唐の銅銭と絹に変わった!要するに多神教のペルシャを滅ぼして一神教のイスラム勃興でごたごたの西から、ソグド人のせいで拝金主義に変わった唐が征服統一した東へ繁栄の重心移動が起こった。
751年、アッバース朝(タラス河畔)、渤海(安禄山が敗将)、南詔国、の三方同時攻撃に大敗北。玄宗、よっぽど自信があったんだろうけれども兵力損失痛かったねぇ。
755年に安史の乱。ソグド人の安禄山と史思明が玄宗と楊貴妃に引き立てられ、楊国忠に殺されると悟った安禄山が準備万端で帝位を簒奪にかかった。安禄山の子供や史思明の子供にカリスマ性なし。玄宗は、長恨歌をみてね、楊貴妃を殺すしかなく四川の山奥まで逃げたが、乱を鎮圧。
8世紀後半、安史の乱で唐の西域軍事支配が後退。ソグド人も中華から一掃された。とはいっても河北軍閥として一部残って、875年黄巣の乱をひきおこすんだけどね。唐末、五代十国、北宋までワンセットで一気に流れを追わないと理解できない。
河南軍閥(後梁)⚔山西軍閥(後唐・後晋・後漢・後周)⚔河北軍閥(北漢・北宋)
ソグディアナはイスラム帝国に飲み込まれ、9世紀には絹の道(シルクロード)から、草原の道(ステップロード)に行商ルートの重心が変わった。9世紀はウィグル、10世紀は遼(契丹)がオアシス都市を支配。吐蕃がうまみ求めてちょっかいを出してきたけど。彼ら遊牧民は、8世紀に唐がシルクロードにもちこんだ驥尾州府や駅館(馬の駅伝制)をそのまま受け継いで利用した。行政文書管理や計算が得意な漢人やペルシャ人を拉致・誘致して官僚機構を機能させて大多数の定住民を治めた。イスラムに本拠地ソグディアナを奪われたソグド商人からウィグル商人へ担い手が徐々に変わっていった。13世紀にモンゴルの東西ユーラシア制覇がなされるお膳立てがこうして築かれていた!
「チンギスカンは一日にして成らず。前座の遊牧民たちが唐の官僚機構を真似してくれたおかげだった。」
東ユーラシア 西ユーラシア
ソグド商人 ソグド商人
ウィグル商人 アッバース商人
モンゴル帝国 モンゴル帝国
元・オゴタイ汗国 イル汗国・キプチャク汗国
| 固定リンク
自宅でまったりと観劇。
セルジオ 夏美よう 院長
ロザンナ 五峰亜季 院長夫人
ジーナ 愛すみれ 院長妾・婦長
アニータ 希良々うみ 院長妾・クラブママ
アントニーオ 咲城けい アニータの子・院長非嫡出子
ジョルダーノ 久城あす アニータの兄・放射線技師
フェルナンド 和希そら 多発性骨髄腫を患う名医
モニカ 華純沙那 フェルナンドの恋人・新人看護師
クラリーチェ 野々花ひまり フェルナンドの許嫁・院長令嬢
カタリーナ 莉奈くるみ フェルナンドの恋人・クラブホステス
ランベルト 縣千 フェルナンドのネーベン
サンドラ 千早真央 ランベルトの恋人・新人看護師
アマーリア 白綺華 先輩看護師・ボランティア歌手
政治家になるだけあって、セルジオの夏美よう、渋すぎ。星組組長時代から追っかけてます。
クラリーチェは免疫不全症かな。第二部で再生不良性貧血と判明。異母兄アントニーオの骨髄移植で救命。今なら自己臍帯血移植かな。
和希そら、なんでトップにしないのか。歌、ダンスが完璧なうえに、芝居の強弱を使い分け、男の色気だだもれ。
華純沙那は、ひまわりというより、椿。
白綺華は、牡丹。
野々花ひまりは、菊。
夢白あやは、白薔薇。
音彩唯は、ピンク薔薇。
赤薔薇は、星空美咲。十八番はカルメンっしょ。踊りはフラメンコ。
美羽愛は、百合。
ひまわりねぇ、やっぱり、潤花。
| 固定リンク
最近のコメント