ソグド・ネットワークは商業のみならず、外交や政治の迅速な情報伝達に用いられた。ソグド語が国際公用語だった。ソグド人集落の長を薩宝(薩保・薩甫)と呼んだ。その下の書記を司録と呼んだ。通貨はササン銀貨。信仰宗教はゾロアスター教(祆教)。
☆交易商品
奴婢・家畜・絹織物・絹糸・毛皮・金・銀・麝香などの香料・薬剤
☆オアシス国家
高昌国(こうしょうこく) トゥルファン 仏教を信仰
沮渠(そきょ)氏→闞(かん)氏→麴(きく)氏
焉耆国(えんぎこく) カラシャール トカラ語が公用語
龍氏
亀茲国(きじこく) クチャ トカラ語が公用語
白氏
疏勒国(そろくこく) カシュガル
裴(はい)氏
于闐国(うてんこく) コータン コータン語が公用語
尉遅(うっち)氏 特産は玉(ヒスイ)
桜蘭国(ろーらんこく)=鄯善国(ぜんぜんこく) ロプノール
漢の傀儡国家
☆国営売春宿「女市」
亀茲国(クチャ)
于闐国(コータン)
☆お経を読む日本人が知っておくべき大乗仏教僧侶
仏図澄(ぶっとちょう) 亀茲国出身。後趙で仏典翻訳。石勒・石虎が保護。
鳩摩羅什(くまらじゅう) 亀茲国出身。後秦で仏典翻訳。姚萇が保護。
鮮卑の配置図から。

*拓跋部の帝室十姓
拓跋(たくばつ) → 元(げん)
紇骨(こつこつ) → 胡(こ)
普(ふ) → 周(しゅう)
抜抜(ばつばつ) → 長孫(ちょうそん)
達奚(たつけい) → 奚(けい)
伊婁(いろう) → 伊(い)
丘敦(きゅうとん)→ 丘(きゅう)
俟亥(しい) → 亥(い)
乙旃(おつせん) → 叔孫(しゅくそん)
車焜(しゃこん) → 車(しゃ)
代(鮮卑拓跋氏)✌魏
代✌晋
386年 拓跋珪、代を北魏と改称。
387年 拓跋珪が、独孤部・賀蘭部・庫莫奚(こばくけい)・高車・柔然を破る。
391年 拓跋珪が、鉄弗部を破る。
395年 参合陂(さんごうは)の戦い。拓跋珪が、後燕の慕容部を破る。慕容部に従属していた宇文部も平定。宇文部は、北周のとき拓跋氏から帝位を簒奪することになる。
397年 拓跋珪、北魏の道武帝として即位。



407年 匈奴の赫連勃勃が鉄弗部から後秦に逃げ、さらに夏を建国。
429年 北魏・太武帝が柔然の大檀可汗に勝利。宰相は崔浩(さいこう)。
柔然配下の高車が北魏に亡命。そこで六鎮に移住させて、柔然に対する防衛に当たらせた。
(西)沃野鎮、懐朔鎮、武川鎮、撫冥鎮、柔玄鎮、懐荒鎮(東)
431年 太武帝が匈奴の夏を滅ぼした。
436年 太武帝が漢の北燕を滅ぼした。*漢族の北燕は羯族を抹殺していた。
439年 盧水胡族の北涼がソグド商人の自由な往来を絶ったため、太武帝が北涼を滅ぼした。
445年 仏僧が蓋呉(がいご)の乱に関与したことを契機に、排仏がはじまった。
450年 国史事件。漢族の崔浩が鮮卑族を侮辱したと判定されて死刑。
465年 孝文帝の時、文明太后の改革。俸禄制(官僚に給与を払う)、均田制、三長制を制定。部大人制を廃止。
466年 南朝・宋から淮水の北を奪い、国境警備に兵士の大量確保を要したために、雑徭が規定されている均田制を制定する必要が出てきた。
490年 孝文帝の親政・改革。皇帝に口を出す鮮卑の制限を行うため、胡語・胡服・胡姓の禁止など漢化政策を進めた。
493年 平城から洛陽に遷都。
520年 柔然の阿那懐可汗(あなかいかがん)が北魏の投降したが、523年、六鎮を荒らして柔然の可汗に返り咲いた。
523~530年 六鎮の乱。賤民扱いされた六鎮が怒った反乱。
528年 河陰の変。孝明帝が生母の霊太后により毒殺されたことに、羯族の爾朱栄(じしゅえい)が怒り朝廷の人たちを大量殺戮。
530年 梁の援助を得た元顥(げんこう)が洛陽占拠。爾朱栄が元顥を撃退し、孝荘帝を擁立して天柱大将軍になった。孝荘帝が爾朱栄を暗殺、爾朱氏の報復で孝荘帝殺害。爾朱栄の部下だった高歓が孝武帝を擁立して爾朱氏を撃滅。孝武帝は高歓を嫌って、爾朱栄の部下だった宇文泰のもとへ亡命。高歓は孝静帝を擁立して鄴(ぎょう)へ遷都し東魏を建国。長安にいた宇文泰は孝武帝を殺して文帝を擁立し西魏を建国。
548~552年 侯景の乱。侯景は爾朱栄の部下だったが、梁に亡命していた侯景が武帝を幽閉自害に追い込み、皇子を殺した。
爾朱栄 羯族出身
高歓 懐朔鎮出身
宇文泰 武川鎮出身
侯景 懐朔鎮出身
552年 トルコ系鉄勒の阿史那氏族長・土門(どもん)が柔然を滅ぼし、突厥第一帝国を建国した。伊利可汗(いりかがん)として即位。


柔然⚔北魏
南朝へは吐谷渾が仲介していた。柔然⇔吐谷渾⇔南朝 ルート1
柔然の豆崘(とうろん)が北魏を攻める際に、属国だった高車の阿伏至羅(あふくしら)に援軍を出すように命令。拒絶した阿伏至羅は西へ逃げ高車国を建国した。
583年 突厥が東西分裂。
北魏が分裂する情報はソグド商人によっていち早く柔然に伝わっており、柔然は東魏の高歓を選び、
柔然✌東魏 ルート2 (安吐根が仲介)
柔然⚔西魏
柔然✌梁 ルート3 (康抜達が仲介)
ソグド商人が梁皇帝から倭王武並みの高い官爵をもらっていた。
「使持節驃騎大将軍・開府儀同三司・涼甘瓜三州諸軍事・涼州薩保」
西魏は四川を梁から奪取してルート3を遮断した。そして柔然は滅び、突厥に代わった。突厥は西魏の宇文泰を選び、
突厥✌西魏 ルート4 (酒泉胡、別名・安諾槃陀が仲介)
東魏は漢人旧官僚が多く住んだので官僚文官主義、西魏は府兵制をはじめとする軍国主義。
「費也頭(ひやとう)」と呼ばれた匈奴がオルドスを治めており、東魏と西魏が費也頭を奪い合い、西魏が獲得。匈奴の紇豆陵(こつとうりょう)氏と西魏の宇文氏が姻戚関係になった。李淵の皇后は、紇豆陵氏と宇文氏出身のため、李氏も紇豆陵氏も、宇文氏から帝位を簒奪した隋の楊氏を恨んでいた。
河北・山東といった絹の産地を掌握した東魏に多くのソグド人が根付いた。ソグド商人の拝金主義が、「斉俗」と呼ばれる賄賂に結びついていった。のちに安禄山・史思明を輩出することになる。
東魏・拓跋氏は北斉・高氏に、西魏・拓跋氏は北周・宇文氏に易姓革命が起きる。

突厥の木杆可汗(むかんかがん)は北周と姻戚関係になったが、他鉢可汗(たはつかがん)は北周・武帝の廃仏を嫌って北斉に接近した。
589年 隋の楊堅の策が当たり、突厥が東西分裂。
599年 東突厥の突利可汗(とつりかがん)は楊堅から義城公主を降嫁された。東突厥は高句麗と軍事同盟!
614年 隋の裴矩(はいく)が東突厥に住むソグド人を虐殺。
615年 東突厥の始畢可汗(しひつかがん)が隋に報復。
隋末、唐の建国当初、ソグド人は府兵制の軍府を統率していた。商業活動を超え軍事にも介入していた!初代皇帝が李淵か李軌かを決める一大決戦にソグド軍団が関与していた!
李淵✌安興貴(兄)・史索巌(しさくがん)・史訶耽(しかたん)
李軌✌安修仁(弟)
さらに李淵は、匈奴・費也頭の紇豆陵氏から援軍を得ていた。
さらに李淵は東突厥の始畢可汗の臣下となり、馬と兵の援助を得た。ソグド人の康鞘利(こうしょうり)が突厥側の使者を務めた。
617年 西突厥の統葉護可汗(とんやぶぐかがん)が鉄勒を次々と併合。彼が玄奘を保護した!
西突厥は絹をふんだんに使った御殿に住まい、とんでもなく豪華絢爛な暮らしだった!
618年 李世民は、薛挙・薛仁杲(せつじんこう)を倒した。
619年 義城公主の意向が働き、東突厥の処羅可汗が劉武周を倒した。
621年 李世民は、洛陽で鄭を建国し即位していた王世充を倒した。さらに河北で独立していた竇建徳(とうけんとく)を倒した。
623年 李世民は、華北の劉黒闥(りゅうこくたつ)を倒した。
624年 唐・李淵は、隋・煬帝の大業律令を廃して、隋・文帝の開皇律令を模した武徳律令を発布。
*律(刑法) 令(行政法)
時代が進み古くなると詔勅をもって律令を修正し、詔勅がたまると明文化して、格(詔勅集)を発布した。式は律令を施行する際の細目。
625年 唐・李淵が東突厥に大敗。
626年 安元寿が玄武門の変で軍馬を供与し李世民を援助。このころから東突厥に対し、属国だった鉄勒が反乱。
仏教徒(仏僧)は、李建成を支持
道教徒(道士)は、李世民を支持
627年 西突厥・統葉護可汗(とうようこかがん)とビザンツ帝国・ヘラクレイオス1世が、ササン朝ペルシャ・ホスロー2世を宗主国とするイベリア公国・ステファヌスに対し、同盟戦争!コーカサスで抱き合った!西突厥は、デルベントを獲得。ビザンツ帝国は、トビリシを獲得。ビザンツ帝国は、西突厥を宗主国とするハザール汗国(西突厥可薩部)と同盟を結んで戦っていた。西突厥が唐に滅ぼされると、ハザール汗国は繁栄拡大し、ゾロアスター教からユダヤ教に改宗した。統葉護可汗は、高昌国・麴文泰(きくぶんたい)の紹介状を所持していた玄奘を歓迎した国王。
玄奘(三蔵法師)ご一行
高昌国・圓福寺の法雲
高昌国・侍郎の石弘基(ソグド人)

630年 李靖が、東突厥の頡利可汗(けつりかがん)を破り東突厥を滅ぼした。東突厥の保護下にあって隋の残存勢力だった簫皇后・楊正道・義城公主を撃破。太宗が天可汗(てんぐりかがん)を兼任した。突厥遺民120万人が大量に唐に侵入してきた。
635年 李靖(りせい)と薛万均(せつばんきん)が吐谷渾を撃破、属国とした。
639年 太宗暗殺未遂事件。突厥復興を狙った事件。阿史那思摩に命じて、突厥遺民を長安北方のオルドスからモンゴリア南部の故地へ強制移住させた。
640年 侯君集(こうくんしゅう)と薛万均(せつばんきん)が高昌国を滅ぼした。
645年 玄奘が帰国。「大唐西域記」の西突厥に関する記事を秘匿。玄奘の弟子・弁機が、「大唐西域記」の軍事機密を知っていたため、高陽公主(房玄齢次男の妻)との密通の咎で腰切断の刑死。高陽公主も、高宗の大逆事件に連座して処刑。
647年 鉄勒に燕然都護府を設置して驥尾政策施行。ウィグルなど鉄勒諸部族の不満が高まった。
649年 太宗死去。

651年 高宗、永徽(えいき)律令を公布。
651年 ササン朝ペルシャのヤズデギルド3世の皇子ペーローズを傀儡擁立して、波斯都督府を設置したが、ウマイヤ朝にあっさり滅ぼされた。
657年 蘇定方(そていほう)が西突厥の阿史那賀魯(あしながろ)=沙鉢羅可汗(いしゅばらかがん)を破り、西突厥を滅ぼした。
660年 百済を滅ぼした。高宗は風眩(てんかん)発作を起こし、則天武后に政事を託した。
661年 安西都護府を設置。徭役として駆り出された人夫・馬丁をソグド商人の指揮下におき、兵隊の給料(絹布)を運搬させた。
662年 契苾何力(けいひつかりき)が、鉄勒の反乱を鎮圧。
663年 吐蕃が吐谷渾を滅ぼす。白村江の戦いで倭も滅亡、扶桑(日本)に代わられる。
668年 高句麗を滅ぼす。
670年 第一次唐・吐蕃戦争
674~675年 唐・新羅戦争
676~678年 第二次唐・吐蕃戦争 新羅討伐を断念した。
679年 ハノイに安南都護府を設置。
682年 阿史那骨咄禄(あしなくるとく)が突厥第二帝国を再興。
683年 高宗死去。
684年 李敬業の乱
687~696年 第三次唐・吐蕃戦争 吐蕃と突厥第二が旧西突厥を侵略。
688年 越王の乱
690年 則天武后、周を建国。
696~697年 突厥が契丹を併合。
698年 粟末靺鞨の大祚栄が渤海を建国。
705年 則天武后死去。
706~710年 唐・吐蕃が神龍会盟・公主降嫁。中宗毒殺で、突厥包囲失敗。突厥は、突騎施・キルギス・ソグディアナを撃破。
727年 突厥のビルゲ可汗と和睦。唐は吐蕃に波状攻撃をかけ連勝。
730年 唐・吐蕃が開元会盟。突厥・契丹・奚・渤海の連合に開戦。
*玄宗 712~756年
732年 契丹が唐に敗れ、渤海と唐が国境を面したため、渤海は敵地先制攻撃、唐軍港の登州を襲撃した。
732年から735年にかけて、突厥のビルゲ可汗死去により国際関係が激変した。西域を唐が抑えたことで、属国ナンバー1を自負していた新羅が急に大きな顔をするようになった。藤原仲麻呂が新羅不敬事件で新羅征伐をしようと思うくらいに掌返しがひどかった。
奚・契丹は唐に帰順し、ソグド人の温床となり、安史の乱へと繋がっていく。
突厥は内紛で急速に衰退した。

せっかく獲得した土地の国境警備最前線の節度使たちに兵糧だの給与だの送らないといけなくなり、律令制徭役として徴収された漢人の人夫・馬夫では間に合わなくなった。そこで行商プロのソグド人に補給を全面依頼することになった。
シルクロードの通貨は、6~7世紀がササン銀貨、8世紀は唐の銅銭と絹に変わった!
742年 ウィグル、バスミル、カルルク連合軍が突厥第二帝国を滅ぼす。
744年 骨力裴羅(くとるくぼいら)がウィグル帝国を建国し、キョルビルゲ可汗に即位。突厥遺民が大量に唐に亡命し、唐はその対応に困った。
755年 安重璋は安史の乱で軍馬を供与し粛宗・代宗を援助。757年、安禄山との同姓を避けるために、李抱玉と改名。
安禄山を支援したのは、契丹と奚。
唐を支援したのは、ウィグル、ホータン、フェルガナ、トカラ、アラブ。
のちに西夏を建国するタングート(党項)が出てきた。
シルクロードは、吐蕃の襲撃をたびたび受け、戦場と化して安心して商売ができなくなってきた。唐軍も、手柄を立てたのに処刑されたりで、唐に献身する兵が激減していった。



*南詔国

烏蛮は漢語が通じない遊牧民。白蛮は漢語が通じる農耕民。
五尺道 前漢と南越を結ぶ道
零関道 蜀と身毒(インド)を結ぶ西南シルクロード
馬援古道 ベトナム・徴(ちゅん)姉妹を鎮圧した馬援が進軍した道

烏蛮の蒙(もう)氏が唐の援助で、土着豪族の爨(さん)氏を滅ぼして、雲南で建国した。
750年、南詔の閣羅鳳(かくらほう)が、姚州都督府を襲撃。
751~754年、玄宗の命令で鮮于仲通が南詔国を攻撃。南方特有の疫病がひどく、返り討ちに会って大敗。閣羅鳳は、漢人の捕虜だった鄭回を重用。鄭回は南詔に漢文化を伝達した。
752年、吐蕃と同盟関係になる。
760年ころ、南詔五代国王・閣羅鳳(かくらほう)が白蛮を征服。
779年、南詔・吐蕃連合軍が成都侵略したが、唐に撃退された。
794年、貞元会盟。吐蕃の南詔国への扱いが悪く重税を課したために、唐に寝返った。
829年ころ、南詔十代国王・豊祐(ほうゆう)がビルマ・驃(ぴゅー)国を滅ぼした。
842年 吐蕃滅亡。
859年、南詔十一代国王・世隆(せりゅう)が唐から独立して、大礼国と改号。
863年 南詔・世隆が、安南都護府を占領。
865~866年 安南都護経略使・高駢(こうべん)が南詔からハノイを奪還。
880年 交易ルートから外された安南都護府は、軍乱により廃墟と化した。
902年、鄭買嗣(ていばいし)が南詔国を滅ぼし、大長和国を建国。
928年、楊干真(ようかんしん)が趙善政を擁立し、大天興国を建国。
929年、楊干真自身が、大義寧国を建国。
*大理国
937年 南詔の廷臣・白蛮系の段(だん)氏が、大理国を建国した。北宋・南宋は北方異民族の対応に追われ、大理国と友好関係をつづけた。ベトナム・大越国と北宋・南宋は常に交戦状態だった。
北方からの軍馬提供がストップしたため、大理国から軍馬を購入した!
大理国は宋から、経典・仏具を購入した。

8世紀後半、安史の乱で唐の西域軍事支配が後退。ソグド人も中華から一掃された。ソグディアナはイスラム帝国に飲み込まれ、9世紀には絹の道(シルクロード)中心から、草原の道(ステップロード)に行商ルートが変わった。9世紀はウィグル、10世紀は遼(契丹)がオアシス都市を支配。彼ら遊牧民は、8世紀に唐がシルクロードにもちこんだ驥尾州府や駅館(馬の駅伝制)をそのまま受け継いで利用した。行政文書管理や計算が得意な漢人やペルシャ人を拉致・誘致して官僚機構を機能させた。ソグディアナを奪われたソグド商人からウィグル商人へ担い手が徐々に変わっていった。13世紀にモンゴルの東西ユーラシア制覇がなされるお膳立てがこうして築かれていた!
東ユーラシア 西ユーラシア
ソグド商人 ソグド商人
ウィグル商人 アッバース商人
モンゴル帝国 モンゴル帝国
元・オゴタイ汗国 イル汗国・キプチャク汗国
最近のコメント