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2023年4月30日 (日)

2023前半期の宝塚観劇予定

朝7時過ぎから、星組1789先着チケットを取りに行きましたが、すでにサイトに入れずじまい。

雪組「ライラック」 S席4回

花組「美羽愛・舞姫」 バウ1回

星組「ラストくらっち・1789」 S席2回

元星組「あーちゃん・She Loves Me」 八戸ノ里1回

元雪組「まあや・ファントム」 梅芸1回

チケット難が続いている。

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2023年4月29日 (土)

宝塚歌劇雪組「ライラックの夢路」「ジュエル・ド・パリ!!」をみて

朝から近畿自動車道、中国自動車道を走って、宝塚大劇場に行ってきました。心配しながら出発したGW渋滞もなく、拍子抜けの感あり。

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井高野君と待ち合わせ、座席は1階後方上手側の良席でした。キャトルレーヴで、妃華ゆきのちゃんのブロマイドを購入。

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第一部 ライラックの夢路

フランス革命で市民意識に目覚め、ナポレオン侵略戦争で国家存亡の危機を経験したプロイセンのお話。ラント(領邦)という分裂状態にあったドイツをなんとか一つにして強大な軍事・工業国家にしたいとプロイセン市民は願うようになっていた。

関税同盟 領邦間の関税を撤廃して工業原料を港から安く運搬してコストを下げ、良質の製品を港へ安く運搬して国際販売競争に勝ちたい。特に産業革命を果たした大英帝国に打ち勝ちたい。

国有鉄道の敷設 工業の発展に寄与するのは当然だが、ほんとうの狙いは東西横に長く伸びきっていた「Vaterland(ファーターラント祖国)」を鉄道でより早く行き来して、自分たちは一つだという民族意識を鼓舞したい。

プロイセンのユンカーと言えば、ビスマルクをまず挙げなければならない。

ドロイゼン家(ユンカー)

長男 ハインドリヒ 彩風咲奈 広大な領土領民の跡継ぎ

次男 フランツ 朝美絢 長兄に嫉妬するしがない役人

三男 ゲオルグ 和希そら 軍人

四男 ランドルフ 一禾あお 中央官僚

五男 ヨーゼフ 華世京 音楽家

国有鉄道敷設のための融資を募る努力が話の本筋。

音楽をたしなみ繊細なヨーゼフは母親遺伝の先天性心疾患を患っていた。英国のジギタリスのように、ライラックが強心配糖体と信じられていたのか、ライラックを煮て母親に飲ませていたが効なく早逝。

ネタバレになるので言わないが、孤児の鉄工ギルド職人アントン(縣千)が話の鍵を握る。鉄に不純物が混じると脆いのでレールとしては不適。コークス法といって鉄を石炭と一緒に溶かせば、簡単に不純物を除くことができる。銑鉄の大量生産にはもってこい。

クナイペ(Kneipe酒場)と言えば、ブルシェンシャフト(学生同盟)。当時、プロイセンの大学は世界最高水準といってよく、英語じゃなくドイツ語が学会公用語で、世界中から大学生が集まっており、出身地ごとに学生団体を結成して、喧嘩に明け暮れる輩も居て、メンズーア(Mensur決闘)というけったいな学生文化が栄えていた。

1830年過ぎ、ビスマルクは手のつけられない与太者の大学生であり、クナイペで酒に浸り決闘に明け暮れ、何度となく大学キャンパスの監獄に収容されていた。

今回、クナイペのシーンでは、ユンカーと鉄工ギルド職人しか酔っぱらっていなかったが、大学生も多数、「Die Gedanken sind frei(考えは自由だ)」を高歌放吟してビールとワインを飲んでぐだ巻いていたのが現実。いざという時、大学生が軍隊に志願して国家の担い手にもなった。若き日のビスマルクを登場させていても話がもっと発展できて面白かったのではないか。ビスマルクがプロイセンを一つにまとめるのだから。ちなみにギルド(親方徒弟制度&専売特許制度)って中世の古臭い足かせがまだまだ時代遅れのプロイセンには残っていた。

第二部 ジュエル・ド・パリ!!

上手側では、華純沙那ちゃんと白綺華ちゃんが並んで、ダンスにダブルトリオにと躍動してくれて眼福耳福。

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2023年4月22日 (土)

興福寺北円堂を特別拝観

午前診を終え、3年半ぶりに無著さんと世親さんに会ってきました。

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2023年4月19日 (水)

有沙瞳ちゃん退団

とても残念です。お疲れさまでした。星組観劇はしばらく休むかも。

エルベのシュザンヌ役が一番好きでした。

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2023年4月15日 (土)

第126回 日本小児科学会(ライブ配信)に参加して

日本専門医機構 小児科専門医更新

(ⅱ)単位 医療安全 2個ゲット。通算3個/1個以上

      感染対策 2個ゲット。通算3個/1個以上

      医療倫理 2個ゲット。通算3個/1個以上

       合計9個/3個以上10個まで

(ⅲ)単位 4個ゲット。通算7個/24個以上

(ⅳ)単位 1個ゲット。通算1個/6個まで

 (ⅱ)(ⅲ)(ⅳ)すべての合計17個/40個以上

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2023年4月12日 (水)

東南アジアの歴史

3つに分けて覚える。

1 仏領インドシナ(メコン川流域)

 北ベトナム、南ベトナム、カンボジア、ラオス

2 島嶼部

 マレー半島&スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島

3 イラワジ川流域

 ミャンマー(ビルマ)、タイ

*マレー半島とジャワ島とボルネオ島は一年中雨季の湿潤気候帯なので、ジメジメして暮らしにくい!あとはすべて、雨季と乾季がある熱帯季節風気候帯なので、まあまあ暮らしていける。

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福建省、広東省、広西自治区、海南島、雲南省はけっこう後世まで未開文化、野蛮の地であった。呉、蜀も兵力を求めて人狩りをやっている。

唐の時代の雲南は、南詔。宋の時代の雲南は、大理。この雲南に住んでいたタイ人が、モンゴルに敗けてモン人が7世紀に建国していたドヴァーラヴァティー王国を征服して、1257年にスコータイ朝を建国。

前3世紀、秦の始皇帝がこの地を遠征。広州に番禺(ばんぐう)という港が築かれていた。南インドの黄支国(ソーパトマ)を経由して、ローマ帝国(大秦国)まで海の道が通じていた。ギリシア人商人が担当。中国から青銅器・鉄器、ローマから金貨、中国・ローマへ東南アジア産の玳瑁やインド産の綿織物が運ばれた。

秦の滅亡後、前3世紀、郡県制で派遣された趙佗が北ベトナムに南越を建国。前漢は郡国制だが、呉楚七国の乱(前154)以降は実質的に郡県制に戻った。前111年、前漢の武帝が南越を滅ぼして南海郡・交趾郡・日南郡など9郡がおかれた。

後漢光武帝のとき、40~43年、徴(ちゅん)姉妹の反乱を最後に、北ベトナムは中国の属国化。唐の時代、安南都護府がおかれた。五代十国時代になってやっと、ベトナム人の李公薀は李朝(大越国)を建国できた。都は昇竜(現ハノイ)。中・南ベトナムでは、チャム人が早々と中国から独立を果たして、2世紀、チャンパーを建国。国名だけ、林邑(2~7世紀)環王(8世紀)占城(9~17世紀)と変わっていった。

1世紀、カンボジアに東南アジア最初の王朝である扶南(1世紀末~7世紀半ば)が建国。外港はオケオ!インドには大月氏のクシャーナ朝が成立していた。

3世紀、軍人皇帝時代のローマから金貨輸出が激減し、ギリシア人商人が撤退。南インド・サータヴァーハナ王国のインド人商人に取って代わられた。インド人商人は中国の金、東南アジアの玳瑁・錫・香木を求めた。東南アジアは鉄器を求めた。東南アジアでも金はとれたが、砂金程度でありインド人商人の期待に応えるほどではなかった。

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4世紀、グプタ朝が北インドに起こり、5世紀に建立されたナーランダ僧院の大乗仏教が伝播していった。のち肉体労働を蔑視し思索瞑想を好むバラモンがヒンドゥー教を伝播した。5~6世紀の南朝(宋・斉・梁・陳)も南海貿易に熱心で、マレー半島に港市国家が成立した。頓遜(とんそん)、盤盤(ばんばん)、丹丹(たんたん)、干陀利(かんだり)、狼牙脩(ろうがしゅう)。これらの港市国家はすべて扶南に服属していた!

4~5世紀、南朝(宋斉梁陳)の時代、扶南は後背地を運河・水路を巡らせて灌漑に成功、肥沃な田圃を開発し、持梨跋摩(シュリインドラヴァルマン)王、僑陳如闍跋摩(カウンディニャジャヤヴァルマン)王のとき、最盛期を迎えた。

5世紀、南北朝の中国は金が不足、貨幣経済が立ち行かなくなり現物交換に戻った。南朝は北朝に比べ安定で、絹織物を輸出し、金と香木を輸入した。インドでも金が不足し、金貨鋳造が停止してしまい、現物交換に戻った。都市住民によって支えられていた大乗仏教が衰退し、農村住民によって支えられたヒンドゥー教が勢いを増した。

5世紀、チャンパーが北ベトナムへ侵攻。446年、檀和之(だんわし)が反撃。939年、閩人の呉権がはじめて南漢(宦官の大量生産で有名)を破り独立。1009年、ベトナム人の李公李朝(大越国)を建国するとチャンパーを侵攻。1190~1220年、カンボジアのアンコール朝、ジャヤヴァルマン7世に敗れ一時滅亡。1226年、ベトナム人が陳朝を建国するとチャンパーに侵攻。1284年、モンゴル元の侵攻にゲリラ戦で耐え抜いた。チャンパーは強力な水軍と交易拠点ネットワークをもち一時逃亡して敵の猛攻をかわすことができた。

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スマトラ島の海賊の攻撃を恐れていたのか、マラッカ海峡は渡れなかったんだね。5~6世紀のスマトラ島には、食人族(バタク族)の毗騫(びけん)国があった。扶南に使節を派遣していた。グプタ文化を担っていたバラモンは、スマトラ島の湿潤気候になじまなかったので、未開であった!

5~6世紀のジャワ島には、耶婆提(やばだい)国があり、セイロン島から帰路、法顕が難破して耶婆提国に漂着している。仏教はまったくなく、ヒンドゥー教であった。マレー半島の港市国家に大麦を輸出していた。

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7世紀から、独立ラッシュ!!とくにスマトラ島の安定は国際交易にとって大きな出来事だった。

スマトラ島 7世紀、マレー人のシュリーヴィジャヤ王国 大乗仏教 のち分裂して、三仏斉になる。

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マレー半島 14世紀末、マラッカ王国 イスラム教 

 マジャパヒト王国侵攻から30人の海民(バジャウ)を率いて逃亡した王族、パラメスワラが建国。アユタヤ朝の攻撃を何度も受け隷属していたが、鄭和の南海遠征に協力して、国王本人が代々、明に朝貢。「虎の威を借る狐」明の軍力を背景にアユタヤ朝から独立を果たした。

 1509年、ポルトガル人セケイラが交易を求めたが、撃退。

 1511年、ポルトガル人アルブケルケが艦隊を率いてマラッカを占領。

 1641年、オランダ東インド会社がジョホール王国と同盟して、マラッカ王国のポルトガル要塞を占領した。

 

マレー半島 16世紀 ジョホール王国 イスラム教

 1528年 マラッカ王族が逃亡、アラウッディーン・リアヤット・シャーがプカン・トゥアに建国。

 イスラム商人はマラッカ王国のポルトガル人に苦しみ、パサイ、ジョホールに避難したが、やがてスマトラ島のアチェに集まった

 首都バトゥサワールとビンタン島のリアウは国際貿易の中心地になった。

 1641年、オランダ東インド会社がジョホール王国と同盟して、マラッカ王国のポルトガル要塞を占領した。

 1699年 マフムード・シャーが臣下に殺害されると、マレー半島やスマトラ島の支配権を失い衰退していった。

 

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スマトラ島 13世紀 サムドラ・パサイ王国 イスラム教

 東南アジア最初のイスラム国家。

 1345年 イブン・バットゥータ寄港。

 1521年 ポルトガル領マラッカによって滅ぼされた。

スマトラ島 14世紀 ミナンカバウ王国 密教からのちイスラム教へ改宗

 金を採掘し輸出!16世紀、アチェ王国が侵攻、金を奪った。

 1663年 オランダ東インド会社がアチェ王国を牽制して金貿易を独占。

スマトラ島 15世紀末、アチェ王国 イスラム教

 アリ・ムハヤット・シャーが建国。デマ王国を婚姻により吸収合併。1524年に、パサイのポルトガル要塞を占領。マラッカ王国に遠征したが奪回できず、ジョホール王国に遠征し財宝や捕虜をアチェに連行し傀儡の王を立てたがすぐに廃され、パタニ王国と貿易利権を争った。

 1629年、オランダ・アチェ王国(負) vs ポルトガル・マラッカ王国・パハン王国・パタニ王国(勝)

 アチェ王国イスカンダル・ムダが、ポルトガルの援助を得たマラッカ王国に敗北した。以降、外征を自粛するようになった。東南アジア人がポルトガルの軍事力恐るべしと思い知らされた事件だった。

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 イギリス東インド会社(EIC)

 East India Company

 

1685年 スマトラ島ブンクルにイギリス商館設置。中国の茶を大量に買うために、銀の大量流出に悩み、代わりにインド産アヘンで支払った。

1762~1764年 七年戦争に乗じて、スペイン領マニラを一時占領

1786年 シャム・バンコク朝(1782~)とビルマ・コンバウン朝(1752~1885)に朝貢や徴兵を強制させられたクダ王国に軍事支援すると見せかけてしないまま、EICがペナン島を強奪。

ナポレオンによってフランスがオランダを占領支配。オランダのウィレム5世がイギリス亡命と見返りにセイロンをはじめ蘭領・東南アジアをすべてEICが獲得した。

1802年 アミアン条約。イギリスはセイロンのみ獲得、あとはオランダに返還。

1811年 イギリス・ラッフルズが武力でオランダ総督ヤンセンスを破りジャワ島などオランダ領の大部分を獲得。

1816年 ウィーン会議によりラッフルズ罷免、イギリスが奪った領土はオランダに返還された。

1818年 ラッフルズがブンクル商館長に赴任。

1820年 ラッフルズがシンガポールに無断で侵入、ジョホール傀儡新王を置いた。

1824年、英蘭条約。イギリス領ブンクルとオランダ領ムラカを交換した。イギリスは、ムラカシンガポールを領有した。

イギリスのマレー半島領有、オランダのスマトラ島領有を互いに承認した。マラッカ海峡に境界線がひかれた。

イギリスは、海峡植民地(シンガポール、ペナン、ムラカ)を関税を課さない自由貿易港とした。オランダが攻めあぐねていたアチェ王国の貿易は、イギリス自由貿易によって衰退の一途をたどった。

1826年 バーネイ条約。シャムのクダ、トルンガヌ、クランタン領有を承認する代わりに、シャムでのイギリス貿易を承認させた。

1832年 海峡植民地の首都をペナンからシンガポールに移した。非イスラム教徒がシンガポールに避難してきた。

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1858年 東インド会社解散。イギリス国王に全権を委譲した。

1858~1863年 パパン継承戦争。ブンダハラ・アフマットがジョホール・リアウ王国から離脱、イギリスは1887年、パハン独立を承認。

1861年 錫鉱山で、恵州客家と広州客家が衝突。ペラ王家の内紛と連動して大騒動に発展した。

1870年代半ばからイギリス政庁がマレー半島経営に積極的に乗り出した。

1873年 英・海峡植民地知事アンドリュー・クラークがペラ王国王位継承に干渉。

1875年 ペラ王国の徴税権を武力で掌握。

1878年 イギリス人デントが北ボルネオ会社を設置。

1888年 スペインのスールー諸島における宗主権を認める代償としてスペインは北ボルネオから撤退。

1891年 英領ボルネオと蘭領カリマンタンの国境が交渉で決まった。

1896年 イギリスはマレー連合州を設立。ペラ、スランゴール、パパン、ヌグリスンビランの四か国をイギリス保護下に置いた。

1897年 イギリスはシャムとの交渉で、クダ、クランタン、トルンガヌをタイに与えた。

1899年 イギリス・シャム国境条約。

ドイツ、ロシア、アメリカ三国がクダ、クランタン、トルンガヌを奪ってきたため、

1909年 シャムからクダ、クランタン、トルンガヌを獲得。英領マラヤ成立。

 マレー人(ムラユ人) 海岸や農村部に住む

 華僑(中国人) 錫鉱山や都市部に住む

 タミル人(インド人) ゴム農園に住む。出稼ぎなので2~3年で帰国した。

  *ゴム生産 ブラジルやリベリアのゴム農園と競争した。

シンガポール売春宿

 広東人

 潮州人

 日本人

 

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ジャワ島(西) 8世紀、マレー人のシャイレンドラ朝 大乗仏教 のち古マタラム王国にジャワ島を追われシュリーヴィジャヤ王国に吸収合併。

ジャワ島(東) 8世紀、マレー人の古マタラム王国 ヒンドゥ教

10世紀、火山活動のため古マタラム王国が東遷、クディリ朝 ヒンドゥ教

13世紀、シンガサリ朝 ヒンドゥ教

 ケン・アンロクが建国。

 クルタナガラ王が最盛期で、ジャワ島全島制圧しシュリーヴィジャヤ王国に侵攻。

 元寇のとき、クディリ朝代官ジャヤカトワンがクルタナガラ王を殺害。

 クルタナガラの子ウィジャヤがマジャパヒトに逃亡。やがて勢力を増し、国王クルタラージャ・ジャヤヴァルダナと改称しマジャパヒト王国を建国。

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タイ 7世紀、モン人のドヴァーラヴァティー王国を建国。

カンボジア 7世紀、隷属していたクメール人が扶南を滅ぼして、伊奢那先(イーシャナヴァルマン)王が真臘(しんろう)(6~15世紀)を建国。ヒンドゥーを信仰。城市国家が分裂割拠していたため、港市国家として機能しなくなった。そのため海の交易ルートが変わった。

マレー半島の陸路横断が消えた。マラッカ海峡を通過して海路で行ったほうが楽。

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9世紀、クメール人のジャヤヴァルマン2世が分裂割拠したカンボジアを統一、アンコール朝を建国。ヒンドゥ教。12世紀にクメール帝国は全盛期を迎えた。

スールヤヴァルマン2世(1113~1152) アンコールワットを建造

ジャヤヴァルマン7世(1181~1225) アンコールトムを建造

*漢人高僧のまとめ

法顕 東晋→グプタ朝(チャンドラグプタ2世) 

   陸(西域南道)→海 

   目標はインド・セイロンの戒律

 「仏国記」

玄奘 唐→ヴァルダナ朝(ハルシャヴァルダナ) 

   陸(西域北道)→陸(西域南道) 

   目標はナーランダ僧院の仏典(唯識)

 「大唐西域記」

義浄 唐→ヴァルダナ朝末期→シュリーヴィジャヤ王国→武則天の仏授記寺 

   海→海 

   目標はナーランダ僧院の仏典

 「南海寄帰内法伝」 「大唐西域求法高僧伝」

 

*東南アジア大寺院のまとめ

8世紀 ボロブドゥール大塔 シャイレンドラ朝 大乗仏教

9世紀 プランバナン寺院 古マタラム王国 ヒンドゥ教

11世紀 バガン遺跡 パガン朝 上座部仏教

12世紀 アンコールワット アンコール朝 ヒンドゥ教

 

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13世紀 マジャパヒト王国 ヒンドゥ教

 ウィジャヤが元寇のモンゴル軍とともにクディリ朝を滅ぼし、そののちモンゴル軍をジャワ島から撃退した。1294年、クルタラージャサ王として即位。フビライ汗の死後、元に朝貢。

 ハヤム・ウルク王(1350~1389)のとき全盛期。宰相ガジャ・マダ。1342年バリ島征服をはじめ、1357年スンダのバジャジャラン王国征服でジャワ島ほぼ全土を征服。西部ジャワのスンダ人は完全には征服できなかった。スンダ人は13世紀から胡椒を栽培して中国へ大量に輸出していた。

 *スンダ人 西部ジャワに土着。ジャワ人やマドゥラ人と仲が悪く、ヒンドゥ教ではスードラ(奴隷身分)に比定された!

 1368年 明に朝貢。

 1404~1406年 東西王宮の内紛が起こり、鄭和の部下が東王の巻き添えを食って死亡。西王が東王の有力諸侯を処刑することで構想は解決した。西王は明に黄金を献上して謝罪。

 1456年 北元討伐に国庫破綻しそうだった明がマジャパヒト王国の朝貢を禁じた。

 十字軍の12世紀からヨーロッパで肉食がさかんになり、チョウジやニクズクなどモルッカ諸島の香辛料の需要が激増した。イスラム商人が香辛料を買い付けてカイロやヴェネツィアに運んだ。

 明の保護下にあったマラッカ王国に南海貿易を奪われ衰退。イスラム商人もヒンドゥ教のマジャパヒト王国からイスラム教のマラッカ王国に交易相手を変えた。

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15世紀 ジャワ島 ドゥマク王国 イスラム教

 明の朝貢貿易を禁じられたマジャパヒト王国から独立。1527年、マジャパヒト王国を滅ぼした。速攻でパレンバンを制圧。のちパレンバン王国となった。

 1526年、イスラム教徒ドゥマクが、同じイスラム教徒スナン・グヌン・ジャティを支援してバンテン王国を建国させた。

16世紀末 ジャワ島(西)バンテン王国 イスラム教 胡椒を栽培

      ジャワ島(東)マタラム王国 イスラム教

      バリ島 プランパンガン国(マジャパヒト王族が亡命) ヒンドゥ教

1579年 南方のヒンドゥ教国家パジャジャラン国をバンテン王国が併合。

バンテン王国アブドゥル・ファター(1651~1683)のとき全盛期を迎え、胡椒栽培を強制した。

1680年 オランダの支援でクーデタに成功したバンテン王国ハジ(1680~1687)はオランダの交易独占権を承認して従属した。

 

16世紀半ば マカッサル王国 ゴア王国とタロ王国が合併して建国。

 水田開発により米の生産に力を入れた。モルッカ諸島の香料の中継基地となり、米と奴隷を輸出して、白檀や海産物を輸入した。

 ポルトガル領マラッカのイスラム商人規制を嫌ってマレー商人やジャワ商人がマカッサルに集まっていた。関税は一切かけなかった。そこへオランダに追われたイギリス、フランス、デンマーク、のちにオランダ領マラッカに追われたポルトガルも加わって賑わった。

 1667~1669年、オランダがマカッサルを制圧した。

 マカッサルを追われたブギス人(マカッサル人を含む)は、ビンタン島リアウに亡命、ジョホール王国の実権を握るとオランダに対抗した。

 18世紀末、オランダの攻撃にジョホール王国も屈した。

 

 オランダ東インド会社(VOC)

Verenigde Oost-Indische Compagnie

初代総督 ピエテル・ボート

商館設置 1602年 バンテン

     1604年 アンボイナ、バンダ

     1609年 スカダナ(ボルネオ)

     1614年 ジャカトラ

イギリス東インド会社がジャカトラ包囲。オランダ東インド会社のヤン・ピエテルゾーン・クーンが、イギリス・バンテン・ジャガトラ軍を破った。

1619年 バンテン王国バタヴィアをオランダ東インド会社が拠点とした。ジャカトラをバタヴィアと改称。

VOC総督 ヤン・ピエテルスゾーン・クーン

1621~1622年 オランダ東インド会社がバンダ群島を略奪した。原住民を殺戮するか、中国人(クーリー)とともに奴隷としてニクズクを強制栽培させた。

1622年 マタラム王国アグン王が、VOCにバンテン王国征討に協力要請したが、VOCはマタラム王国から米を要求するだけで協力しなかった。

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特産物が重要!

マルク諸島 丁子(クローヴ)

バンダ諸島 ナツメグ(ニクズク種子)・メース(ニクズク種皮)

ティモール島 白檀

ジャワ島 米

 

アチェ王国、バンテン王国、マタラム王国、バリ王国だけじゃない。いっぱい王国が乱立してるじゃない。1460年くらいからみたい。

ジョホール王国、ミナンカバウ王国、ジャンビ王国、パレンバン王国、スカダナ王国、ブルネイ王国、コタワリンギン王国、バンジャルマシン王国、マカッサル王国、テルナテ王国、ティドレ王国。

1574年 テルナテ王国バーブラーがジハード(聖戦)の名目でポルトガルを追放。

1623年 テルナテ王国 アンボイナ事件 アンボンの虐殺

挙動不審だった日本人傭兵、七蔵を逮捕・拷問して、「イギリスのオランダ要塞奪取計画」が露見。アンボン島のイギリス商館長らを逮捕・拷問して陰謀を再確認した。オランダ守備兵がイギリス人10人と日本人10人を処刑した。新教国同士で仲の良かったイギリスとオランダの関係が急速に悪化した。

1629年、マタラム王国アグンが、オランダ東インド会社に敗北。東南アジア人がヨーロッパ人の軍事力恐るべしと思い知らされた事件だ。

ファン・ディーメン総督(1636~1645)

 1640年、VOCがポルトガルからセイロンを略奪。

 1641年、VOCがポルトガルからマラッカを略奪。

1646年、マタラム王国のアグン死去、マンクラット1世即位。

1652年、オランダ東インド会社はマタラム王国と条約締結。チタルム川を国境に定めた。

1659年、オランダ東インド会社はバンテン王国と条約締結。オントン・ジャワ川を国境に定めた。

1666年、テルナテ王国とティドレ王国で、オランダとスペインが何度も利権衝突したが、台湾の鄭成功がスペイン領マニラを攻撃する懸念が生じたため、スペインは東南アジアの市場から撤退した。

1667年、VOCは、ゴア王国を解体。1654年からVOCはモルッカ諸島の丁字を独占。航海に長けていたマカッサル人のゴア王国は、以前からモルッカ諸島と密貿易していたのだが、VOCの香料独占政策はゴア王国の利権を脅かすことになった。

1667~1669年、オランダがマカッサルを制圧した。

1696年、オランダ東インド会社は、コーヒーをジャワ島住民に強制栽培させた。それまでアラビア半島のモカがコーヒー産地だったが、オスマン帝国が占領して独占したのでオランダは撤退するしかなくなっていた

VOCが、マタラム王国の王位継承に介入して、領土を拡大していった。

1704~1708年 ジャワ戦争 旧チェリボン領、プリアンガン、スメネップ(マドゥラ島)

1718~1723年 ジャワ戦争 

VOCは華僑を駆使して、植民地の隅々まで侵入させて、住民からコーヒー・砂糖・米を搾取した。そのため住民の恨みは華僑に向けられた。

1740年 蘭領バタヴィアが中国人を虐殺。マタラム王国パクブワナ2世がこの機に乗じてVOCに反乱軍派遣。VOCはマドゥラ王国の協力でマタラム王国を制圧。

1743年 VOCがマタラム王国を保護国化。北海岸を奪うことで、マタラム王国は海から遮断され、貿易利潤が停止した。

1750年 VOCがマタラム王国を占領。

1750~1755年 ジャワ戦争 親VOCと反VOCの争いでマタラム王国が2分裂。

1752年 VOCがバンテン王国を保護国化。

1780~1784年 第四次英蘭戦争

 アメリカ独立戦争(1775~1783)の際、オランダは反英姿勢をとったことで勃発。1784年パリ条約で、イギリスがモルッカ諸島入港が承認された。VOCの香料独占が破れた。

1795年 フランス革命軍がオランダ侵攻。ネーデルラント共和国統領ウィレム5世はイギリスに亡命。バタヴィア共和国成立。海外植民地はイギリスの保護下に入るよう命じたがジャワだけは従わなかった。

1799年 オランダ本国は特許状更新を拒否しオランダ東インド会社を解散した。オランダ政庁を設置、政府直轄の蘭領東インドになった。

 オランダ政府がこれからの蘭領東インドの経営方法について論争

 進歩派 ファン・ホーヘンドルフ 租税をとってあとは自由に農耕させる

 保守派 ネーデルブルフ 強制労働させる

 土王(スルタン)や原住民理事官(レヘント)は原住民を強制労働させることで利益を得ている。進歩派の考えだと、彼らが失業してしまうことが問題となった。

 進歩派 ラッフルズ、ファン・デル・カペレン、デュ・ビュス

 保守派 デンデルス、ファン・デン・ボス

 

1801年 イギリスはセイロン、蘭領東インドを占領

1802年 アミアン条約 イギリスはセイロンだけ獲得して、あとはすべてオランダに返還した。

1806年 オランダ王国として、ナポレオン弟を王に据えた。

1807年 ナポレオンが旧ジャコバンクラブのデンデルス将軍を蘭領東インド総督に据えた。対仏大同盟の旗頭イギリスがジャワを占領しないようにするのが目的。

1810年 オランダをフランスに併合。デンデルス総督が罷免された。

1811年 イギリス東インド会社は艦隊を率いてジャワ占領。ラッフルズが副総督として地税を搾取した。

1816年 ナポレオン戦争終結をもって、イギリスはオランダにジャワを返還。オランダ王国はオレンジ公ウィリアム1世が即位。

1819年 不満のラッフルズは、ジョホール王国からシンガポールにイギリス商館を設置する許可を得た。

1819年 蘭領東インド総督ファン・デル・カペレン(1819~1825)

 私領地 外国人は入るな

 土王領 外国人に土地を賃貸して農耕させてよい

1823年 土王領も外国人賃貸を認めない。外国人損害分は土王が支払いなさい。この通達に土王が怨嗟・不満を抱き、ディポネゴロ戦争に発展した。

 オランダ貿易会社(NHM)

Nederlandsche Handel-Maatschappij

1824年、ハーグに設立。のちアムステルダムに移設。

1824年、英蘭条約。イギリスのマレー半島領有、オランダのスマトラ島領有を互いに承認した。マラッカ海峡に境界線がひかれた。

1821~1832年 スマトラ島 パドリ戦争

 ミナンカバウに籠るイスラム原理主義者の反乱。

1825~1830年 ジャワ島 ディポネゴロ戦争

 ジョグジャカルタ王子によるジハード。

1826年 総督デュ・ビュス(1826~1830)先進的自由主義者。外国資本で未開地を開墾して農業生産をあげる。収入をあげて小作農を自作農にして農奴から解放する。

1828年 ジャワ銀行設立。

1830年 総督ファン・デン・ボス(1830~1833)強制栽培制度。コーヒー・サトウキビ・藍・茶・胡椒を強制的に栽培させた。同年、ベルギー独立の損失を植民地からの収益で補填する必要に駆られていた。

1834年、ファン・デン・ボス、オランダに帰還して植民相に就任。子飼いのボード(1834~1838)が総督に就任。

 強制栽培制度後の弊害

1 レヘントの権力増大。

2 酋長のボス化。原住民の利害の代弁をやめてレヘントの犬となった。

3 政府の契約相手は酋長であって、政府と原住民の契約は存在しない。

4 強制栽培制度の拡大。

5 労働の強化。藍の栽培と、甘蔗を製糖工場へ運搬する労働が「人間地獄」を現出した。

6 強制労働と地租との二重収奪。

7 評価額のトリック。地租より引き渡し生産物評価額が多ければ、差額が原住民の物になるというが、評価額を下げて原住民の手取りを減らせる。

8 凶作負担の転嫁。凶作による損害は実際には政府は負担せず、原住民に転嫁した。

9 政府のための賦役、酋長のための賦役、村落賦役がさらに課せられた。

10 委託販売制度。NHMが一切の強制栽培生産物を収買・輸出・販売した。NHMはVOCの再来であった。

 

1843年 米まで強制栽培させ安価に買い上げた。そのため1850年にいたるまで餓死者が続出した。

1848年 1848革命により国王専制が制限され、責任内閣制となった。さらに植民地憲法が議会によって制定され、毎年、議会に「植民地報告」を義務付けた。

1854年 統治令(植民地憲法)制定 保守派パフドが起草。

 

*インドネシア民族抵抗運動

 1821~1832年 スマトラ島 パドリ戦争

 1825~1830年 ジャワ島 ディポネゴロ戦争

 ブディ・ウトモ 下級エリート層の教育・社会的向上

 サレカット・イスラム 華僑に対抗するイスラム民族主義組織

 カルティニスクール 女性地位向上のための女性運動家

 アブドゥル・ルファイ 新聞「ビンタン・ヒンディア」

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山田長政が国王に即位したパタニ王国の位置をしっかり覚えてください。

 

1860年代から自由主義の風がインドネシアに届くようになった!

ストウ夫人 1850年「アンクルトムの小屋」

デッケル 1860年「マクス・ハーフェラール」

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東南アジアの強制栽培制度の実態をオランダ本国の国民が知るようになった!

1863年 強制栽培の漸減、銀行の創設、会計法の制定(東インド財政管理を本国議会が行う)

 首相 トルベック

 植民相 ファン・ド・プット

 総督 ファン・ド・ぺーレ

1870年 農業法制定。

 政府直轄領 入会地(森林など)を含め、所有権が証明できない土地は国有地となり、国家が自由に処分できるとした。

 土王領 土王から農業租借権を買ったうえで、資本家は租借地と従属する現住農民の労働力を支配できた。

1870年 砂糖法制定。砂糖の強制栽培を禁止した。

1880年 クーリー条令。契約クーリーの逃亡・労働拒絶を厳罰に処した。

1882年 役人に対する個人賦役廃止。人頭税を代替えとした。

1893年 人頭税も廃止。村落賦役だけは存続した。

アチェ戦争により、オランダがアチェ王国を滅ぼした。(抵抗に手を焼いていたのでアチェ国王に年金をしばらく渡して退位後の生活を保障した)

1919年 コーヒー法。コーヒーの強制栽培を禁止した。コーヒー法が遅れた理由は、

 1 アチェ戦争(1873~1904年)の戦費がかさんだ。

 2 コーヒーは砂糖と異なり、現住農民の米作農業と競合しなかった。原住民の生活を直接脅かすことはなかった。

 

民族主義運動の核は3つ。

 イスラムで結束するか

 共産主義で結束するか

 華僑を排除して宗教を越えたインドネシア人で結束するか

 

1911年 サマンフディがサレカット・イスラム(イスラム同盟)を設立。1929年にインドネシアイスラム同盟党に改名。

1914年 オランダ人共産主義者スネーフリートが東インド社会民主主義連盟を設立。

1920年 インドネシア人スマウンが東インド共産主義者連盟を設立。コミンテルンに加盟。1924年にインドネシア共産党に改名。

1923年 ハッタがインドネシア協会を設立。

1927年 スカルノがインドネシア国民同盟を設立。翌年、インドネシア国民党に改称。

 二大巨頭が政争。

 スカルノ インドネシア党(パルティンド) フロレス島流刑

 ハッタ  インドネシア国民教育協会    上ディグル流刑

1935年 ブディ・ウトモとストモが、大インドネシア党(パリンドラ)を設立。

 

共通テストにこれら統計表が出題されそうだよ!!

19世紀後半、ブラジル・サンパウロのコーヒー栽培が急増

1870年 コーヒーの葉錆病がセイロン・スマトラ島・ジャワ島で流行

1882年 サトウキビの疫病(セレー病)がジャワ島で流行

1883年 ヨーロッパ農村でサトウダイコン栽培急増。甜菜(てんさい)糖が過剰生産

1884年 砂糖価格が大暴落

ジャワ製糖工場は、サトウキビの品種改良。栽培に関わる中小銀行はジャワ銀行からの融資を受けた。

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13世紀はモンゴルの世紀!

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マルコポーロが元寇の手引きをしてるやん!!1292年、フビライ汗の使節としてペルシャに向かい、ヴェネツィアに帰国。ジェノヴァに捕虜として収監。

13世紀からタイ人がうごめく。「タイ民族の大沸騰」タイ人の社会構造だが、稲作に使う水の配分(ファーイ:井堰)をめぐって小規模な共同体を形成する。この集落がいくつか集まって村落(バーン)をつくる。複数の村が統合されて小規模な地方政治勢力(ムアン)が形成される。

13世紀 スコータイ朝 上座部仏教。シャム人 バンコクに建国。

ラームカムヘン王のとき最盛期を迎えた。

13世紀 ラーンナー王国 上座部仏教。シャム人 チェンマイに建国。

 1288年 メンラーイ王 ワット・チェディ・リアム建立。

 1291年 メンラーイ王がチェンマイに建国。

 1296年 メンラーイ王 ワット・チェンマン建立。

 1345年 パーユー王 ワット・プラシン建立。

 1369年 クーナ王 ワット・プラタート・ドイ・ステープ建立。

 1391年 セーンムアンマー王 ワット・チェディ・ルアン建立。

 1477年 ティロカラート王 ワット・チェット・ヨート建立。

12世紀 パヤオ王国 上座部仏教。シャム人 

 1174年 シンハラート王が建国。のちラーンナー王国に併合される。

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14世紀 ランサーン王国 上座部仏教。ラオ人 ラオスに建国。

 1353年 ファーグム王がアンコール朝から独立してルアンプラバンに建国。漆・安息香・象牙・犀の角を輸出した。

 代々の王はラーンナー王国と政略結婚。16世紀半ばに全盛期。

 1563年 セーターティラート王 ビェンチャンに遷都。ワット・プラ・ケオ寺院建立。

 ビルマの侵略を受け滅亡寸前までいったが、

 1637年 スリニャウォンサー王(1637~1694)が再興。黎朝(大越国)と政略結婚。

 1707年 三国に分裂。

  北 ルアンプラバン

  中 ビェンチャン

  南 チャンパサック

 阮朝と国交を結び、アヌ王が失地回復を図ったが結局失敗、国民は捕虜として隣国へ拉致された。

 

14世紀 アユタヤ朝 上座部仏教。チャオプラヤ川貿易港として繁栄。東のクメール帝国を侵攻して滅亡させる。

ボロマラーチャー2世(1424~1448) 

 アンコール朝、スコータイ朝を滅ぼす。

トライローカナート(1448~1488) 

 サクディナー(位階田制)を定め中央集権化。

ラーマディボディー2世(1491~1529)

 1509年、ポルトガル人アルブケルケと最初に接触。マラッカを占領された。

 1569年、ビルマ・トゥングー朝がアユタヤ朝を滅ぼす。

ナレースエン(1590~1605)

 1590年、アユタヤ朝復興。

ソンタム(1611~1628)

 山田長政を重用した。

プラサートトーン(1629~1656)

 高官シーウォラオンがソンタム一族を粛清して、王権簒奪。山田長政をリゴール太守に任じて、パタニ王国を攻めさせる。パタニ王国を平定しパタニ王となった山田長政を1630年に暗殺し、日本人街を焼いた。

*パタニ王国

 13世紀に成立。イスラム教。1511年、マラッカ王国がポルトガル領になると、インド人ムスリムがパタニに集まり交易をおこなった。

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ナライ(1657~1688)

1661年 ビルマ侵攻で1632年以降閉鎖されていたイギリス商館再開。

1664年 アユタヤ使節団が英仏訪問。イギリスのチャールズ2世、フランスのルイ14世に謁見。

    フランス答礼使節団来訪。

1680年 フランス商館。イギリス東インド会社給仕から出世してタイ最高官位チャオプラヤーを務めていたイギリス人フォールコンの親仏政策の影響大。

1686年 フランス答礼使節団来訪。マカッサル王国の圧政からアユタヤに亡命していたマレー人が反乱を起こし、マレー人住民のほとんどが虐殺された。マレー人とシャム人の連合体であったアユタヤ朝が、シャム人の王朝になったのはこの時からだ。

1688年 プラ・ペトラーチャーがナライ王の外交政策に反発し、ナライ王の死後、フォールコンを殺害した。このあとビルマ・コンバウン朝によって滅ぼされるまで、キリスト教徒へ反動的弾圧がはじまり、多くのイギリス人とフランス人が凌辱処刑された。オランダ東インド会社が商館を設置することと、中国船の来航を認めるだけで、アユタヤ朝は鎖国した。

 

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ここからしばし、イラワジ川流域国家の話になる。ビルマとタイは似たもん同士、仲が悪く何度も戦ってるやん!

ビルマは、ビルマ人、モン人、シャン人の三つ巴の内紛がある!!

北 ピュー人 プロームに建国。

南 モン人 ペグーに建国。

この二国を、南詔が滅ぼすと、ビルマ人が「カヤイン」という集団居住村を基礎に国家を形成。

11世紀 パガン朝 ビルマ族 上座部仏教。

 ビルマ族の最初の王朝。

 アノーヤター王が建国、チャンシッター王のとき最盛期を迎え、アーナンダ寺院を建立。元によって滅亡。

13世紀 ペグー朝 モン人

 1539年 トゥングー朝に併合される。

 1740年 再興。

 1757年 コンバウン朝に併合される。

14世紀 ピンヤ朝 シャン族

     サガイン朝 シャン族

15世紀 アヴァ王国 シャン族 ピンヤ朝とサガイン朝を平定。

     アラカン王国 ラカイン族

16世紀 トゥングー朝 ビルマ族

 ビルマ族2番目の統一王朝。

 タビンシュエティー王がポルトガル人傭兵の援助を得てビルマ人統一国家を建国。

18世紀 コンバウン(アラウンパヤー)朝 ビルマ族

 アヴァ王国の後継者を自認して、アラウンパヤーが建国。ビルマ族3番目の統一王朝。

 1757年 アラウンパヤー王、ペグー朝を滅ぼす。

 1767年 シュビーシン王、アユタヤ朝を滅ぼす。清軍を4度撃退。

 1785年 バドン王、アラカン王国を滅ぼす。

 1824~1826年 ハジドー王 第一次英緬戦争

 1852年 パガン王 第二次英緬戦争

 1885年 ティーボー王 第三次英緬戦争 

 1886年 ビルマがインド帝国に併合され、英領ビルマになる。

 

トンブリ朝

 1767年、華僑のタークシンがコンバウン朝軍を追い払い、タイ国土を復興。

ラタナコーシン(チャクリ)朝

 ラーマ1世(1782~1809) 精神錯乱した暴政のタークシンをクーデタにより殺害。

 1785年、ビルマ大軍を撃破。

歴代国王はアユタヤ朝後継者を自負。米、チーク材、香料、樹脂、綿花、コーヒー豆、砂糖を輸出。

 1824~1826年 ラーマ3世のとき第一次英緬戦争 ビルマの脅威が遠のいた。

 1855年 ラーマ4世のときバウリング条約 イギリスに開国

 1856年 アメリカ・フランスと友好通商航海条約

 1868年 ラーマ5世 柔軟外交によりイギリスとフランスに国境の一部を割譲

 1896年、英仏条約(シャム中立保障協定)。タイを緩衝地帯として互いに放置することを申し合わせた。

 

あとは、葡、英、蘭、仏による植民地化と戦後の独立、核を振り回す世界の警察(アメリカ)、世界の厄介者(中国)とのお付き合いの話になる。

*日本とポルトガルの貿易商品

鉄砲の必需品:弾丸(鉛)、火薬(硫黄、硝石、木炭)、火縄(綿糸)

日本の輸入品:鉛、硝石、綿織物(鎧の汗吸い下着)、鹿皮(陣羽織)、鮫皮(刀の柄)

ポルトガルの輸入品:銀(中国で金に換金)、穀物、奴隷

 

ラストスパートは再びベトナム史。

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1428年 黎利が明の支配を逃れて黎朝(1428~1789)を建国。

1471年 黎思誠(聖宗)がチャンパを滅ぼして、はじめて南北ベトナムを統一。

1527年 莫氏が黎朝を滅ぼす。

16世紀 北ベトナム(ハノイ) 鄭氏

    中ベトナム(ユエ) 阮氏 広南王国を建国。

1771年 西山党の乱 鄭氏と阮氏の重税に耐えかねて。

1777年 阮氏黎朝が滅亡。

1778年 西山阮氏3兄弟が西山朝を樹立するも内紛。

1786年 阮文恵が、鄭氏黎朝を滅ぼした。

1788年 乾隆帝の清軍を敗走させる。

1788年 阮氏黎朝の後継者、阮福暎がコーチシナを奪還。

1802年 阮福暎がフランス人ピニョーの援助により阮朝(越南国)(1802~1945)を建国。ベトナム南北を統一した。

1804年 清の冊封体制に入る。

1833年 黎朝復活をめざして、黎維良の乱、農文雲の乱が勃発。

その背後に宣教師が関与しているとして、キリスト教禁止、宣教師を処刑。

1847年、1856年 フランス海軍がダナンを砲撃。

1856~1860年 アロー戦争

1858~1862年 仏越戦争

1858年 フランス人宣教師の迫害(凌遅処死)を仏ナポレオン3世が報復、インドシナ出兵。

 北 トンキン

 中 アンナン

 南 コーチシナ

1862年 サイゴン条約。仏領コーチシナ獲得。劉永福が黒旗軍を率いて抵抗運動。

 *劉永福 太平天国の乱・清仏戦争・日清戦争・辛亥革命・21か条要求の抵抗運動に関与。

1863年 カンボジア保護国化。

1883年 ユエ条約。トンキンとアンナンを保護国化。

1884~1885年 清仏戦争

1885年 天津条約。清がベトナム宗主権を放棄した。

1887年 仏領インドシナ 総督府ハノイ

1899年 ラオス保護国化。

 

*ベトナム民族抵抗運動

 維新会:阮朝を復活させて日本を模した立憲君主政をめざす

 ベトナム光復会:辛亥革命を模した共和政をめざす

ファン・ボイ・チャウ 維新会 日本に失望後にベトナム光復会

 梁啓超を介して、大隈重信や犬養毅と親交

ファン・チュー・チン ドンキン義塾

 阮朝復興(君主政)ではなく共和政をめざし、まずは文明開化を重んじ、慶応義塾を模したドンキン義塾で学問を教えた。

1905年 東遊(ドンズー)運動 日露戦争勝利の日本に留学。

1907年 日仏協約により日本がベトナム留学生を追放。

1912年 ファン・ボイ・チャウが広州でベトナム光復会を結成。

 

*アフリカ情勢が東南アジア情勢に影響を及ぼした!

1869年 フランスがスエズ運河完成

1875年 イギリスがスエズ運河株式会社の株を買い占めスエズ運河を所有した。

1881年 エジプト軍人ウラービー「エジプト人のためのエジプト」(ウラービー革命)

1882年 ウラービーをセイロン島に流刑、イギリスがエジプトを保護国化。

 

1840,1856,1866年 イギリス人リビングストン アフリカ探検

1872年 イギリス人スタンリー 失踪したリビングストンを発見

1882年 ベルギー国王レオポルド2世がコンゴ自由国を中央アフリカに建国。

原住民に象牙ゴム採集を、手足切断の厳罰をもって強制労働させた。

コンゴ川下流域に植民地を置くポルトガルとの関係が悪化した。

ポルトガル・イギリス vs ベルギー・フランス

1884~1885年 独ビスマルク ベルリン会議

紛争中の旧ポルトガル領はドイツ領とする。

モザンビーク、アンゴラを新たなポルトガル領とし、コンゴ自由国を国際承認した。

先占権:先に入った国が植民地のインフラに責任をもって管理する。

フランス孤立政策を推進するドイツが、アフリカ分割を仲裁した。

1885年 マフディーの反乱(ハルトゥームの戦い)

マフディー帝国ムハンマド・アフマドがイギリス軍と衝突。

イギリスは、太平天国で活躍したゴードン常勝軍を投入したが戦死。

1885~1898年 西サハラ(ニジェール)の戦い

サモリ帝国(のちのギニア共和国)サモリ・トゥーレがフランス軍と衝突。

アフリカ縦断政策のイギリスと、アフリカ横断政策のフランスがスーダンで衝突。

1898年 ファショダ事件 

スーダンでイギリス軍とフランス軍が衝突しそうになったが回避された。

1899~1902年 南ア戦争

ボーア人(オランダ人)領有のトランスヴァール共和国の金、オレンジ自由国のダイヤモンドを奪うため、英蘭戦争になった。

イギリス植民大臣ジョセフ・チェンバレンが勝利。

 

1683年 清、台湾の鄭氏政権を滅ぼす。

1684年 遷界令を廃止。広州を海外貿易港として開港した。

イギリス東インド会社 

 中国の高級茶、買いまっせ!

 イギリス本国で高う売れまっさ!

フランス東インド会社 

 中国の低級茶、買いまっせ!

 わてらコーヒーしか飲まへんので、イギリス大衆に安う提供しまっせ!(薄利多売)

オランダ東インド会社

 オスマンのせいでアラビア産モカコーヒーが買えなくなった。代わりにジャワコーヒーがめっちゃ飲みたい。ジャワ人に強制栽培させようっと。

 戦争に使う大砲鋳造のための銅が欲しいので、日本との貿易を続けるしかない。大砲鋳造のための錫が欲しいのでマレー半島で錫貿易を独占したい。

中国人商人、客家

 海産物干物(昆布・あわび・なまこ・ツバメの巣)がめっちゃ欲しい。欧米人が近寄ろうとしない未開地、ジョホール王国、ブルネイ王国、スールー王国の海民(海賊)との交易がさかんになった。

19世紀 アメリカで錫と鉛の合金(ブリキ板)が発明され、缶詰産業の発展により錫の重要性がさらに増した。マレー半島の錫の生産をイギリスは独占すべく奔走した。

 

時すでに遅し。スターリンの魔の手は、アメリカホワイトハウス、大日本帝国陸軍海軍参謀のみならず、蒋介石の中華民国、東南アジア全域に伸びていた。

 

英領マレー連邦 日本陸軍侵攻 司令官・山下奉文(陸軍)

        英領マレー司令官 パーシヴァル


蘭領東インド  日本陸海軍侵攻 司令官・今村均(陸軍)

        蘭領東インド司令官 ハイン・テル・ポールテン

 

英領マレーでは陸軍が華僑をシンガポールとボルネオ島で無裁判虐殺、市民弾圧主義瀬策で抗日ゲリラによって治安不良。マレー人と華僑の殺し合いも日本軍の責任になっている部分もありいまだに被害者数が不明。蘭領東インドでは海軍が平和的に統治と考えてよい。援蒋ルート撲滅が目的とかいうが、華僑5万人処刑をノルマに課した陸軍省は何者や?結局2万5千人が限界ですーと現場が悲鳴を上げたとは・・・。思想犯取り締まりの憲兵が、陸軍やり過ぎだと止めに入るくらいだったとか・・・。海軍甘い、もっと弾圧しろと陸軍が文句言ったとか・・・。絶句だ。

 

 

1939年9月 第二次世界大戦

1940年5月 フランスがナチスドイツに降伏。仏領インドシナはナチスドイツ領となった。タイがカンボジア失地回復に乗り出す。

1940年9月 日本陸軍「銀輪部隊」が無抵抗のインドシナ進駐。

1941年12月 マレー沖海戦で日本海軍がイギリス不沈空母プリンスオブウェールズを撃沈。

1942年1月 日本陸軍「銀輪部隊」が山田長政のパタニなど中立国タイに上陸、英領マレー進駐。ハリマオ(谷豊)の活躍がすばらしい。

1942年2月 蘭領パレンバンに日本陸軍「空の神兵」が落下傘奇襲。英領シンガポール陥落。シンガポール華僑粛清。バリ島沖海戦。準備万端、日本陸軍海軍ともに大量のキニーネ(抗マラリア薬)を所持していた。

1942年3月 バタヴィア沖海戦。ジャワ島陥落、オランダ降伏。

 

ジャワ島に「ろうそく病」と恐れられた性病が蔓延した。

石油は確保したけど、ガダルカナル・ラバウルでやられて戦闘機が残ってないやんけ!!

石油輸送船も空爆されるし。余った石油はジャングルで燃やされた。

敵はグアム、サイパン、硫黄島、フィリピン、沖縄へ

俺たち置いてけぼりかよ!

上官から死ね死ねと言われて、あとは特攻するしかないやんけ。

ちょっと集まれと言われて玉音放送。

俺たちは武装解除、捕虜収容所へ。

やっとの思いで祖国の地に帰ってきた。

田端義夫「かえり船」を忘れるな!

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」

日本をソ連にしようなんて、最初から言っといてもらわないと。

国は国民をすぐだます。

今も、中国に征服してもらえば、憲法第9条を守って戦争しなくて済むじゃんと考える政治家ばかり。

征服されたら、憲法どころか社会福祉なんか吹っ飛ぶ。国民の生命の保証はない。

敵地攻撃するしない、軍事作戦を国会で議論してどうする。敵にまるばれやんけ。

やってくるかもしれんという恐怖感が戦争抑止力として作用する。

地方に徴税権与えたら、ルームセルジュークやテマ制・ビザンツのようにあっという間に滅ぶで。

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2023年4月 8日 (土)

第237回 大阪小児科学会(ライブ配信)に参加して

日本専門医機構 小児科専門医更新

(ⅱ)単位 医療安全 通算1個/1個以上

      感染対策 通算1個/1個以上

      医療倫理 通算1個/1個以上

       合計3個/3個以上10個まで

(ⅲ)単位 1個ゲット。通算3個/24個以上

(ⅳ)単位 通算0個/6個まで

 (ⅱ)(ⅲ)(ⅳ)すべての合計6個/40個以上

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2023年4月 7日 (金)

黒海の歴史2

ビザンツ帝国が二つではなく四つに分裂していたことを初めて知りました。ラテン帝国、ニケーア帝国、トレビゾンド帝国、エピロス専制公国。

ビザンツ帝国の国力は衰退し、セルジュークトルコ撃退を十字軍に頼む状況。ヴァリャーグ皇帝親衛隊もロシア人からラテン人優位に転じていた。外敵を撃退するビザンツ軍隊も大半がラテン人傭兵部隊で占められていた。ラテン人好みのマヌエル1世(1143-1180)は、セルジュークトルコにも親交をもつも、ついに1176年にミュリオケファロンの戦いで敗北。1191年、第3次十字軍のリチャード1世(ライオンハート)によってキプロス島喪失。1202年、第二次ブルガリア帝国独立。

世界史教科書では、ビザンツ帝国がフランドル伯ボードゥアンとヴェネツィア商人に乗っ取られ、1204年にラテン帝国となり、亡命国家としてニケーア帝国を名乗って対抗したとしか学びません。ところが、第4次十字軍の前に、皇帝後継者争いでコムノネス家皇子アレクシオスとダヴィド兄弟がグルジア王国に亡命しており、タマラ女王が庇護。(宝塚歌劇星組ディミトリ参照、タマラ女王の子がギオルギ4世で、妹ルスダンを巡り後継争う)のちアレクシオスが成人して、侵略者セルジュークトルコから黒海南岸を奪還してトレビゾンド王国を建国していました。

ギリシア正教教会を破壊しつくす新皇帝ボードゥアンにビザンツ帝国民がドン引き。ローマ教皇インノケンティウス3世はこの殺戮行為を黙認。1205年、トラキアのビザンツ亡命貴族が第二次ブルガリア帝国のカロヤン王に救援依頼。カロヤン王はクマン人騎馬弓兵とともにボードゥアンを撃破捕捉し、手足を切断して3日間、鳥に肉をついばまれながら、ボードゥアンは在位1年足らずで絶命。弟アンリが皇位継承。その後、カロヤン王は「ローマ人殺し」と呼ばれるほどビザンツ帝国民共々、粛清を重ねていった。「ブルガリア人殺し」と呼ばれたバシレイオス2世への復讐仕返しだった。

モンゴル来襲を逃れてきたクマン人傭兵を取り込んで、1261年、ラスカリス家から皇位簒奪したパレオゴロス家のニケーア帝国がラテン帝国を滅ぼしビザンツ帝国を再建したのちも、トレビゾンド帝国は黒海北岸のクリミア利権をクリム汗国・ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国に奪われながらも政略結婚で存続し続け、1453年、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしたときも存続を果たし、1461年、ついに力尽きてトレビゾンド帝国が滅亡。主要なヨーロッパはローマ人国家が消滅し、ゲルマン人国家一色に染められました。マジャール人やフィン人やスラブ人など若干例外はあれ。

ローマ人が逃げるとき、西にはめっちゃ強いブルガル人やセルビア人がいてなかなか困難。そのまた向こうには、宗教対立していたゲルマン人やランゴバルド人(ローマ人とゲルマン人の混血)がいてとんでもない。そこで東のアナトリアに逃げることになるのだが、グルジア王国には挨拶してから逃げないとね。ところがトルコ人、そのあとモンゴル人が来襲。東に逃げるなんてとんでもない状況に陥った。

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2023年4月 6日 (木)

宝塚歌劇宙組「カジノ・ロワイヤル」(3回目)をみて

今朝、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階前方上手側の良席でした。キャトルレーヴで、「赤と黒」有沙瞳ちゃんと詩ちづるちゃんのブロマイドを買いました。

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1 真風涼帆さん、男役集大成を見納め。

2 トップ羽根を背負った潤花ちゃんのキレキレダンス見納め。

3 芹香斗亜さんの2番手定番のラスト悪役見納め。

観劇後に話し合った感想。要するにキャラ立ちの問題。

真風さんはMI6のジェームズボンドではなく、女好きのCIAにして当て書きすればよかったのでは。女王陛下に忠誠を誓っている紳士ボンドの真面目な一面が見えてこなかった。シナリオの問題。

CIAの紫藤りゅうさんは大雑把で楽観的なアメリカ人のキャラをもっと濃く出したほうがよかったし、DGSEの瑠風輝さんも、美辞麗句で口説き落とすフランス人のキャラをもっと強く出したほうが笑いをとるべきところで着実に笑いが取れたのでは。間がじょうずでアドリブが得意な芹香斗亜さんは役柄的にああでなくてはいけなかったし、助け舟を出すのはきびしいね。

ミシェル(桜木みなと)とアナベル(天彩峰里)は、キャラをしっかり出せていたので、おかしくて笑ったし、セリフも歌詞もはっきり聞き取れたので、とても好感が持てた。

戦闘シーンは、ハイローのほうが見やすくて躍動感があった。

KGBを「カーゲーベー」と呼んだのは、「エロイカより愛をこめて」アラフィフファンの好感を呼んだ。

ルシッフル(芹香斗亜)の護衛、ミロン(嵐之真)とイワン(真名瀬みら)、そしてジャン(優希しおん)のロシアンダンスが超絶にすばらしかった。

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2023年4月 2日 (日)

宝塚歌劇宙組「カジノ・ロワイヤル」(2回目)をみて

近畿自動車道、中国自動車道を走って、宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階やや後方やや上手側の良席でした。キャトルレーヴで、潤花ちゃんのブロマイドを購入。

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潤花ちゃん、天彩峰里ちゃん、花宮沙羅ちゃん、水音志保ちゃん、山吹ひばりちゃん、春乃さくらちゃん、どストライクの風羽咲季ちゃん、ポチャッと丸顔の渚ゆりちゃん、美脚の栞奈ひまりちゃん、美星帆那ちゃんをオペラグラスで追っかけました。パレードで羽根を背負った潤花ちゃんは、次回で見納め。ロケットとエトワール横上手側では、ダイナマイトバディの梨恋あやめちゃんをオペラオペラ。宙娘は美人が多くて大変だわ。

このシナリオ、どう見ても、天彩峰里・芹香斗亜次期トップコンビ仕様だわ。春乃さくらちゃんの出番が不自然に少ない。じゅっちゃんは、SM嬢のキツいキャラでこれからもやっていくのかな。ソニンの立ち位置だね。桜木みなと・天彩峰里が次のトップコンビになるはずだが、再演するなら「カルメン」でどうかな。

桜が春風に散り急いでいました。

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幕間のテラスから。

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2023年4月 1日 (土)

宝塚歌劇雑感34

「うたかたの恋」を愛華みれ&森奈みはるコンビで再演されたようで、観たかった。

ルドルフとマリーの貝合わせで、いろいろ動かして遊んでみました。ルドルフは高身長、小さな青い花マリーは下級生からで、どうしても宙娘が多くなってしまう。再演するなら、うたちorまのん。

ルドルフ   マリー

風色日向   詩ちづる

亜音有星   花妃舞音

礼華はる   渚ゆり

英かおと   湖春ひめ花

暁千星    藍羽ひより

侑輝大弥   七彩はづき

希波らいと  華純沙那

天華えま   静音ほたる

極美慎    楓姫るる

芹香斗亜   山吹ひばり

彩風咲奈   美星帆那

柚香光    風羽咲季

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