奈良時代
持統天皇が大津皇子を謀反の罪で殺害、草壁皇子を即位させようとしていた。律令に詳しい田辺氏で育った藤原不比等が持統天皇の信頼を受けることになった。702年、持統死去。
707年、文武死去により、幼い首(おびと)が成人するまでの繋ぎとして阿閇皇太妃が元明天皇に即位。反対派を抑えるため、不比等は授刀舎人寮(たちわきのとねりりょう)という天皇親衛軍を設置。
708年、平城京遷都を決意。藤原不比等体制。ただし、太政官一氏一人制が効いており、独裁には至らず。
造宮卿 大伴手拍(おおとものたうち)
造平城京司 多治比池守(たじひのうけもり)
大匠 坂上忍熊(さかのうえのおしくま)
714年、首が皇太子になる。
715年、氷高内親王が元正天皇に即位。旧官僚が次々と死去。太政官は藤原不比等と阿倍宿奈麻呂だけになった。房前を参議にする。麻呂を美濃介に任じて、瑞兆を報告させ元号を次々変えていくきっかけを故意に作らせた。武智麻呂を首の賛引役(導き役)に任じて側用人としてのちの聖武天皇の信頼を勝ち得るように根回しした。宇合を常陸国守に任じて、719年、按察使(あぜち)を設置して、安房・上総・下総の按察使を兼任させた。
718年、長屋王をナンバー2の大納言に任じた。
720年、不比等死去。皇親体制。
大納言 長屋王
知太政官事 舎人親王
知五衛及授刀舎人事 新田部親王
*長屋王派 房前・大伴旅人・阿倍広庭
*武智麻呂派 多治比池守
元明天皇と元正天皇は、長屋王と藤原房前を信頼。
首は、藤原武智麻呂を信頼。
722年、謀反の罪で、多治比三宅麻呂が伊豆に流刑、穂積老が佐渡へ流刑。
723年、三世一身法
724年、蝦夷討伐。大将軍・藤原宇合、副将軍・高橋安麻呂、鎮狄将軍・小野牛養。
724年、聖武天皇即位。長屋王は左大臣に。
728年、基皇子死去。
729年、藤原麻呂により、基皇子呪詛の罪で長屋王の変。藤原宇合が長屋王邸を包囲。武智麻呂が糾問。嫡男の膳夫王殺害が主目的。
*武智麻呂主導体制 県犬養橘三千代・房前と対立
光明皇后・舎人親王・宇合・麻呂・多治比県守・大伴道足
大惣管 新田部親王
副惣菅 藤原宇合
山陽道鎮撫使 多治比県守
山陰道鎮撫使 藤原麻呂
南海道鎮撫使 大伴道足
東海・東山節度使(蝦夷反乱用) 藤原房前
山陰道節度使(新羅来寇用) 多治比県守
西海道節度使(新羅来寇用) 藤原宇合
737年、第10次遣唐使第2船がもたらした天然痘で藤原四子死去。
*皇親体制
知太政官事 鈴鹿王
大納言 橘諸兄(葛城王)
中納言 多治比広成
参議 大伴道足
738年、阿倍内親王立太子
*阿倍内親王派 橘諸兄・光明皇后
*安積親王派 元正上皇・橘奈良麻呂・大伴家持
藤原広嗣が、橘諸兄・藤原宮子・光明皇后・藤原豊成・聖武天皇を誹謗中傷。広嗣と高橋安麻呂を大宰府へ左遷。石上乙麻呂を土佐へ流刑。
740年、大野東人・紀飯麻呂・楉田勢麻呂(しもとたのせまろ)・膳東人(かしわでのあずまびと)が広嗣と綱手を討つ。恭仁京に遷都。
嫁姑問題:
*難波宮遷都派 元正上皇・橘諸兄
*紫香楽宮遷都派 聖武天皇・光明皇后・藤原仲麻呂
741年、国分寺・国分尼寺
742年、阿倍内親王を誹謗中傷した塩焼王が伊豆へ流刑。
743年、墾田永年私財法
744年、安積親王が脚気で死去。
745年、平城京遷都
746年、東大寺大仏鋳造。造仏長官は国中公麻呂。仲麻呂、橘諸兄に圧力をかけるために授刀舎人寮と鎮撫使を再設。
749年、阿倍内親王、孝謙天皇に即位。実権が橘諸兄から藤原仲麻呂に移り、紫微中台を創設。
*光明仲麻呂体制
紫微令 藤原仲麻呂
大弼 大伴兄麻呂・石川年足
少弼 巨勢堺麻呂・肖奈王福信(しょうなのこしきふくしん)
756年、道祖王を後継とせよと遺言して聖武天皇逝去。
757年、道祖王廃太子。塩焼王・池田王・船王を排して、大炊王(おおいおう)を立太子。仲麻呂、紫微内相に就任して、軍事権を掌握。養老律令を施行。設令所を設置して、明法博士・山田白金に新令講書を命じた。橘奈良麻呂の変で多くの皇族・官僚が処刑された。兄の右大臣・藤原豊成を大宰府に左遷。減税の徳政令を敢行。
問民苦使(もみくし) 貧窮と疾病に苦しむ庶民を巡問・救済
平準署(へいじゅんしょ) 官稲を貯穀し米価の高騰下落によって得た利益を運脚夫の食料に充てる
僧綱(そうごう) 鑑真と良弁を大僧都に任じて戒律を徹底させようとした。寺の経済を監視し徴税した。
唐招提寺に瓦や食堂を献じて、藤原仲麻呂と鑑真は親密であった。
唐使 沈惟岳
新羅使 金貞巻、金体信
渤海使 楊承慶、高南申、王新福
律 刑法
令 民法・行政法
格 律令条文を修正・整備する法令
式 律令と格の施行細則
758年、大炊王が淳仁天皇に即位。孝謙から御璽・駅鈴が移譲。仲麻呂、恵美押勝と改名し、大保(右大臣)に就任。
760年、仲麻呂、大師(太政大臣)に就任。光明皇后死去。私鋳銭(贋金)が通貨の半分に達したため、開基勝宝(金貨)、大平元宝(銀貨)、万年通宝(銅貨)を鋳造。
761年、近江の保良宮(北京)に遷都
763年、藤原良継の変。佐伯今毛人、大伴家持、石上宅嗣と仲麻呂暗殺計画が発覚、大宰府と薩摩に流刑となる。
763年、鑑真和上崩御。鑑真は、4位13階の僧位制度を創設した仲麻呂と親交があった。
764年、仲麻呂の乱。孝謙上皇、山村王に命じて淳仁の御璽・駅鈴を奪取させる。坂上苅田麻呂・牡鹿島足に命じて久須麻呂を射殺。紀船守に命じて矢田部老を射殺。吉備真備・日下部子麻呂が勢多橋をブロック、物部広成が愛発関をブロック。藤原蔵下麻呂(くらじまろ)が藤原真先を斬殺、石村石楯(いわれのいわたて)が仲麻呂を斬殺、弟・巨勢麻呂や同行していた塩焼王も斬殺。
西大寺創建で国家財政が窮乏。道鏡を太政大臣禅師に任じた。藤原豊成を右大臣に任じた。和気王に命じて、淳仁天皇を廃位、淡路島に流刑。称徳天皇重祚。
765年、逃亡した淳仁廃帝を佐伯助と高屋並木が殺害。称徳天皇、呪詛の罪で和気王を絞殺。和気王に加担した式部大輔の粟田道麻呂、兵部大輔の大津大浦、式部少輔の石川永年を流刑。豊成死去の為、藤原永手が後任。開墾禁止令。
766年、道鏡を法王に任じた。鸞輿(らんよ:天皇が用いる輿)を許された。海龍王寺に仏舎利が見つかるたびに道鏡は昇位した。法参議の基真が偽作。
769年、称徳呪詛の罪で不破内親王、氷上志計志麻呂(ひがみのしけしまろ)が流刑。法均の弟・和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わす。道鏡が法均を備後に、清麻呂を大隅に流刑。由義宮を西京に定めた。
770年、称徳天皇逝去。藤原百川(雄田麻呂)、左大臣・藤原永手、内大臣・藤原宿奈麻呂らが白壁王を擁立して光仁天皇即位。皇位簒奪の罪で道鏡を下野に流刑。大納言・弓削浄人を土佐に流刑。
771年、藤原永手死去。藤原良継が後任となる。
772年、井上内親王(いがみないしんのう)廃后、他戸王(ふさどおう)廃太子。
773年、山部親王が立太子。
*蝦夷征討
大伴駿河麻呂
紀広純
藤原継縄
藤原小黒麻呂
坂上田村麻呂
777年、藤原良継死去。藤原魚名が後任。
781年、山部親王が桓武天皇即位。
782年、左大臣・藤原魚名を大宰府に左遷。
785年、藤原種継暗殺事件に死去したばかりの大伴家持と早良親王が関与。早良を淡路島に流刑。
782年、氷上川継が謀反で伊豆に流刑。
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