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2022年9月18日 (日)

宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part3

李鴻章

東洋のビスマルク」と称賛された。

父・李文安と曾国藩は進試合格の同級生!

郷試合格後、翰林院侍講学士であった曾国藩に学び、進試に合格。

春帆楼で日清戦争下関条約に出席

小山豊太郎によって左頬を狙撃されるも会議に出席

 

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乾隆帝は、治安維持のための海禁を解除。英国の茶輸入によって銀不足転じて銀収入が激増し、デフレ不況が大好況に転じた。大清帝国皇帝自身は通貨発行に関与せず、民間経済活動に関与せず、ただ税金だけを徴収させた。国がやらないので当事者同士が規則や罰則を取り決め、ばん、会、行(こう)を結成した。やがて会党によるアヘン密輸によって銀が流出した。

アヘン戦争に敗れた清は、広州以外に開港し、上海経由で貿易するようになり広州が衰退した。その広州から上帝会の蜂起が起こり、太平天国の乱に発展した。会党も太平天国に合流した。外国勢力は当初、太平天国に交易発展を期待したが、外国に対する尊大な姿勢に失望した。

湖南省を中心とする武装中間団体が、太平天国軍に付くか郷勇に付くか流動的であったため、曾国藩は審安局を設置して、太平天国に付いていると断定した敵対者を弾圧処刑し続けた。

1853年、呂賢基が咸豊帝に太平天国の防戦を建言し、それが受諾され、李鴻章とともに安徽軍司令官・周天爵に合流した。軍司令官がコロコロ変わる状況で、曾国藩の湘軍に移った。

1860年、蘇州が太平天国によって陥落。外国が上海在住の外国人を護衛するため、傭兵部隊を結成、これがのちの常勝軍となった。

曾国藩から清に推薦を受けた李鴻章が淮軍を新たに結成し、太平軍や捻軍との戦闘を後回しにして、上海紳士仲介でイギリス汽船に乗り上海上陸。天京(南京)を包囲する湘軍と、上海から進攻する淮軍&常勝軍の二方面に、太平天国の李秀成は兵を割かなければならなくなった。李鴻章は、呉煦(ごく)から上海資金を強奪した。もうひとりの上海ドンであった楊坊は常勝軍ウォードに資金提供しており、ウォードの戦死後、李鴻章は楊坊と呉煦を解任した。

用滬平呉(ようこへいご) 上海を活用して蘇州を平定した

常勝軍ゴードンと共闘した李鴻章であったが、太平軍将校の処刑を巡って意見対立し、ゴードンは常勝軍を解散した。李鴻章は曾国藩の洋務運動を引き継いだ。曾国藩は1864年天京陥落後、自ら創生した湘軍を解散し抵抗者を弾圧した。李鴻章は上海ドン・馮桂芬(ふうけいふん)を味方に付け根を張った。

西太后の命を受けた僧格林泌(せんげりんちん)が捻軍平定で戦死すると、1868年、李鴻章は淮軍を率いて捻軍を平定した。そのころの社会の風潮は、

教案 キリスト教に反感を抱き、クリスチャンを襲撃・迫害・殺害した。

清議 西洋を攘夷せよという論調

洋務 西洋を崇拝する論調

1864年、新疆、甘粛、陝西のトルキスタンが大反乱。

1865年、江南製造総局(上海)、金陵機器局(南京)を設立。

海防は洋務なので、自分が洋務か清議か態度を世に明らかに示す行為となったので、なかなか海防に踏み切れなかったのだ!!

1866年、左宗棠(さそうとう)が上海外国企業から借金して楚軍を率いてムスリム鎮圧(~1873)。

1870年、北洋大臣に李鴻章、南洋大臣に曾国藩。柳原前光(さきみつ)が国交を求めて天津に来訪、成林が応対した。

1871年、伊達宗城(むねなり)が天津に来訪。日清修好条規を締結。清が提供した条文がそのまま通った。その狙いは、日本の朝鮮侵攻を阻止することであった。ただし西洋と一戦を交える際には日本が役立ちそうなので味方に付けておくというものであった。

欧米列強に対する日清攻守同盟だという猜疑を晴らして、

1873年、副島種臣(たねおみ)が天津に来訪。日清修好条規を批准。台湾帰属問題を協議。

1874年、西郷従道(つぐみち)が琉球宮古島島民殺害に復讐のため台湾出兵。アメリカ公使ウェードの斡旋で日清戦争回避。

1875年、江華島事件。日本は琉球に対し、朝貢を禁じた。

1876年、森有礼が天津に来訪、平行線のまま、江華条約締結。

1877年、左宗棠が東トルキスタンを制圧、イリ地方をロシアと争う。

1879年、リヴァディア条約。崇厚(すうこう)が不平等条約を結び処罰を受けた。

1881年、ペテルブルグ条約。左宗棠の軍を背景にして、曾紀澤(そうきたく)が平等条約を締結。

1879年、琉球を沖縄県に編入した。

1882年、馬建忠が米朝条約を締結させる。狙いは日本の朝鮮に対する干渉を排除すること。アメリカが睨んでくれれば清にとって有利という勝算だった。

1882年、壬午変乱。大院君が日本大使館を襲撃。花房義賢(よしもと)が日本軍を率いてソウル入り。その直後、馬賢忠が淮軍を率いてソウル入り、大院君を北京に送致し、朝鮮軍を鎮圧。済物補(さいもっぽ)条約締結で日清戦争を回避。

1884年、甲申政変。独立党が日本公使館の武力を用いて事大党政権を倒した。3日後、袁世凱は淮軍を率いてクーデタ政権を倒した。1885年、伊藤博文と李鴻章が天津条約締結。

1882~1884年、清仏戦争。ベトナム領有権を巡って清とフランスが激突した。パリ条約で終戦。

1880年、天津水師学堂設立し、海軍士官を養成した。ドイツからハネケンを淮軍に招き、ドイツ式訓練を施した。

1888年、北洋艦隊を創立し、丁汝昌(ていじょしょう)を艦隊司令官に任じた。

1890年、旅順軍港完成。

1891年、北洋艦隊が長崎で示威行為。

1894年、東学党の乱。初期議会で日本は派兵不可能とみて、李鴻章の許可のもと袁世凱が朝鮮に出兵。陸奥宗光が日本軍をソウルに入城。

1895年、威海衛が陥落し、淮軍と北洋艦隊が壊滅した。下関条約。

英国は清を見限って、日本をロシア南下防壁とみなした。

ロシアは清を舐めて、南下を始めた。

李鴻章は下関条約の経過を逐一、ヨーロッパ諸国に電報で通牒し、三国干渉を促した

1896年、ニコライ2世蔵相ウィッテと李鴻章が露清密約を締結。ロシアと清が共同して朝鮮を守る。ロシアがシベリア鉄道を旅順まで敷設することを許可した!!

1897年、ドイツが膠州湾占領、ロシアが大連・旅順租借を要求。

変法運動 康有為・梁啓超が立憲君主制を主張。親露政策の李鴻章を解任した。西太后ら守旧派が復権し、光緒帝を幽閉。変法派を弾圧するため李鴻章を復権した。

1900年、光緒帝廃立に失敗した守旧派が山東省で義和団を結成し、クリスチャンを弾圧した(教案)。「扶清滅洋

西太后が列強に対し宣戦布告。日本の杉山彬、ドイツ公使ケテラーが射殺された。義和団事変に激高した列強は北京を支配し、西太后と光緒帝は西安に逃れた。上海洋務の代表だった咸宣懐は、広州の李鴻章と連絡。「東南互保」北京・天津で列強と交戦しつつ、長江沿岸の南方では列強と和解し、清の全面破局を防いだ。1901年、北京議定書、辛丑条約を締結。ロシアの強硬な要求を受けながら、李鴻章は大量喀血し死去。

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