« 宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part4 | トップページ | 宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習まとめ »

2022年9月19日 (月)

宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part5

袁世凱(えんせいがい)

淮軍将校の呉長慶と養父の袁保慶が兄弟の契りを結んでいた。

受験が苦手で科挙を受けていない。

二十一か条の要求 

中華民国大総統の袁世凱が勝って、加藤高明外相が敗れた。

侵略・日本のイメージが国際社会に根付いた。いったい日本がいつ侵略したというのだろうか?

 

1881年、呉長慶の慶軍に入隊。

1882年、壬午事変で慶軍とともに袁世凱が朝鮮出兵。

1884年、甲申事変。慶軍が清仏戦争に駆り出され、少数の軍を率いて日本軍と銃撃戦、朝鮮国王を奪回し日本人婦女子を凌辱して虐殺。金玉均ら独立党は竹添進一郎公使とともに日本へ亡命。

1885年、露朝密約が発覚。李鴻章が雇い入れたドイツ人メレンドルフが、朝鮮にロシア人軍事教官を招こうとしていたことが発覚し、メレンドルフが罷免された。ロシアを警戒していた英国が巨文島を占拠。

李鴻章は袁世凱を朝鮮総督に任じ、袁世凱は朝鮮朝廷に対し高圧的な態度で接した。

1887年、袁世凱は国王高宗を廃しクリスチャンを弾圧したため、アメリカ人顧問デニーと対立した。

1893年、朝鮮保護国化を主張した自由党・大石正己が朝鮮公使に就任。大石も粗暴な態度で臨み、戦争寸前までいくが、伊藤博文と李鴻章の連絡協調によって回避。北京公使の大鳥圭介が朝鮮公使を兼任。

1894年、東学教徒が袁世凱に援助を求め反乱を起した。袁世凱の朝鮮出兵を察知した杉村濬(ふかし)書記官が日本へ出兵要請。袁世凱は唐紹儀に指揮を預けて清に帰国逃亡した。大鳥圭介公使が最後通牒を朝鮮に突きつけ開戦。

洋務派 李鴻章

清議派 李鴻藻・翁同龢(おうどうわ)・栄禄

1895年、残存した淮軍をもとに、胡燏棻(こいつふん)が定武軍を組織訓練したが、ハネケンと馬が合わず更迭、袁世凱が後任についた。歩兵・騎兵を追加徴募して新軍を結成した。ドイツ軍を模範とした。段祺瑞(だんきずい)、馮国璋(ふうこくしょう)、王士珍(おうしちん)が袁世凱の部下となった。のちに北洋三傑と呼ばれた。

1896年、胡景佳(こけいか)・李鴻藻が袁世凱を弾劾したが、栄禄が保護した。

1895年、科挙試験中の康有為(こうゆうい)が下関条約調印の知らせを聞き、日本との停戦に抗議、内政・制度改革を政府に提出した。「変法」運動の始まり。梁啓超とともに、「強学会」「保国会」という団体を発足させ、「強学報」「時務報」という機関誌を発行した。下級官僚と知識人をターゲットにしたジャーナリズム運動。康有為は袁世凱と交流をもちはじめた。

1898年、光緒帝が戊戌変法を号令し、翁同龢(おうどうわ)を罷免、王文韶(おうぶんしょう)を後任とした。譚嗣同(たんしどう)を宰相に任じた。科挙を廃止して、京師大学堂(のちの北京大学)を創立した。無駄な「冗官」を廃止する行政改革であった。外相の李鴻章を罷免。明治日本を模範とし、日本との連携を模索し、光緒帝に謁見した伊藤博文を顧問に据えようとした。さらに譚嗣同は袁世凱を招致し、直隷総督の栄禄を処刑させ、頤和園に住む西太后を包囲攻撃させようとした。

袁世凱から報告を受けた栄禄は、西太后に謁見し、変法派が弾圧された。譚嗣同は処刑、康有為と梁啓超は日本に亡命した。

守旧派は、排外に旋回した。その外国排斥の社会風潮の一環で、義和拳というボクサー(拳匪)の秘密結社が山東省に生まれた。山東巡撫の李秉衡(りへいこう)はその結社を黙認していた。ボクサーがクリスチャンを襲撃し、毓賢(いくけん)が山東巡撫に後任となるも結社をまたもや黙認した。さらに「扶清滅洋」を掲げる団練として政府公認した。

栄禄が武衛軍を結成した。これは当時最大の軍で、配下には、

聶士成(じょうしせい)の武毅軍(ぶきぐん)

董福祥(とうふくしょう)の甘軍(かんぐん)

袁世凱(えんせいがい)の新軍

1899年、栄禄は列強に不人気だった毓賢を罷免し、袁世凱を山東巡撫とした。袁世凱は義和団を弾圧すると明言したため、暴動を起こし清朝軍と交戦。列強は公使館を守るため自国の兵を派遣上陸させた。西太后側近の剛毅は義和団を支持し義兵として参戦。董福祥の甘軍が日本公使館の杉山彬書記生を殺害した。

1900年、西太后は、反対派官僚を処刑して、列強に宣戦布告。列強連合軍は聶士成の武毅軍を破り天津を占領。北京に進軍して西太后と光緒帝は西安に逃亡。列強は「黄禍論」を唱えて殺戮をつづけた。

袁世凱の新軍は義和団を虐殺して外国人を保護した!栄禄は中立だったため処刑は免れたが、武衛軍は壊滅した。

1901年、李鴻章と慶親王(=愛新覚羅)奕劻(けいしんのうえききょう)が北京議定書締結。李鴻章が病死すると、

直隷総督兼北洋大臣 袁世凱

両江総督兼南洋大臣 張之洞(ちょうしどう)、劉坤一(りゅうこんいつ)

光緒新政 南洋大臣の二人が「東南互保」を経て本格的に洋務運動をはじめた。

北洋新政 北洋大臣の袁世凱も本格的に洋務運動を始めた。巡警(警察組織)を設置し西洋の刑法・民法で取り締まった。趙秉鈞(ちょうへいきん)と、日本警視庁の三浦喜伝が取り仕切った。天津に巡警総局を設置、北洋巡警学堂を創立した。

清国警察の推移 緑営→団練→巡警

外国貿易によって天津経済は活況となった。人口も膨張。

1902年、日英同盟でロシアを圧迫、満洲還付条約を結ばせるが軍を退去させなかった。

1904年、袁世凱が愛新覚羅の名で北洋六鎮を設置。江南に袁世凱子飼いの新軍を設置した。

第一鎮(北京) 北苑(ほくえん)

第二鎮(直隷) 保定(ほてい)

第三鎮(吉林) 長春(ちょうしゅん)

第四鎮(天津) 馬廠(ばしょう)

第五鎮(山東) 済南(さいなん)

第六鎮(北京) 南苑(なんえん)

1904年、日露戦争。袁世凱は局外中立を宣言。日露共倒れを期待した。

1905年、ポーツマス条約。日本が辛勝し、旅順・大連租借&東清鉄道経営獲得。北洋六鎮が直隷省で大規模な軍事演習。科挙を廃止したため、日本留学生が激増した。科挙合格者「紳士」が既得権益を守るため「文明抵制」を掲げ日本留学生に抵抗した。

1907年、第一次日露秘密協約。満洲北をロシア、満洲南を日本とした。それに対抗して、袁世凱が設置。

東三省総督 徐世昌(じょせいしょう)

奉天省巡撫 唐紹儀(とうしょうぎ)

吉林省巡撫 朱家宝(しゅかほう)

黒竜江省巡撫 段芝貴(だんしき)

1908年、西太后と光緒帝崩御。宣統帝溥儀が即位。列強視察団から袁世凱が非難されたため、新しく設置された陸軍部に第1,3、5、6鎮を移譲し、鉄良をトップに据えた。袁世凱は第2,4鎮のみ直轄した。

1908年、欧米日本を視察した大臣たちが憲法大綱を発布。

1909年、宣統帝溥儀の実父にして摂政だった載灃(さいほう)が袁世凱を罷免。養壽園で隠居生活を送った。

1910年、汪兆銘が載灃暗殺未遂、才能を惜しまれ死刑を免れた。

1911年、日本を模倣した内閣官制を開始。憲法大綱を口実にして、載灃の息のかかった人物が大臣を占拠。立憲派は大いに失望した。

立憲か革命か

梁啓超「新民叢報」を支持するか中国同盟会「民報」を支持するか

 

1905年、赤坂の坂本金弥邸で中国同盟会結成。満洲人支配を転覆し、漢人の政権を取り戻し、共和制を樹立する。機関誌「民報」を発行。広州に拠点を作って北伐する作戦だったが結局失敗に終わった。そこで長江流域に拠点を設け拡大する作戦に変更。

孫文 興中会

黄興(こうきょう)・宋教仁(そうきょうじん) 華興会

章炳麟(しょうへいりん) 光復会

汪兆銘(精衛)・胡漢民・章炳麟 中国同盟会

 

1911年、辛亥革命。鉄道国有化反対運動に政府軍が投じられた。革命派が武漢三鎮を制圧し中華民国湖北軍政府を樹立。反清に転じた立憲派の諮議局と、革命思想に染まった新軍も合流した。載灃が、陸軍大臣・癊昌に換えて袁世凱に鎮圧を要請。北京攻撃を回避するため、載灃は袁世凱を内閣総理大臣に任命した。

北京政府代表 唐紹儀(とうしょうぎ)

湖北政府代表 伍廷芳(ごていほう)

停戦協定を締結。

1912年、孫文を中華民国臨時大総統に選出して中華民国建国を宣言。南京臨時政府を樹立。

国民党 宋教仁

共和党 黎元洪

民主党 梁啓超

統一党 章炳麟

列強干渉と南北戦争を回避すべく、宣統帝溥儀退位を条件に、軍を持たない孫文は臨時大総統の座を袁世凱に譲り渡した。ところが、南京ではなく北京で内閣総理大臣に着任した袁世凱に南方革命派が猛反発。袁世凱は、国務総理の唐紹儀を罷免、趙秉鈞を任じた。

1913年、革命派の宋教仁が国民党を結成し、国会圧勝。宋教仁が国務総理に選出され、いずれ袁世凱を追い落とす計画だった。袁世凱は宋教仁を暗殺してしまった。革命派の武装蜂起を難なく鎮圧した。黄興、李烈鈞、胡漢民は日本へ亡命。国民党を解散させた。

1914年、国会を解散させ、袁世凱は「中華民国約法」を公布して、任期10年の大総統に就任。

1915年、二十一か条の要求に抵抗すべく共和制をやめ、袁世凱が皇帝に即位。祭鍔(さいがく)と李烈鈞(りれつきん)と唐継堯(とうけいぎょう)が率いる護国軍が帝政撤廃を求めて雲南省で蜂起。立憲派の梁啓超が加担した。

1916年、馮国璋の反発が効いて、袁世凱が退位、尿毒症で急逝。

|

« 宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part4 | トップページ | 宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習まとめ »