外交方針
洋務派 西洋かぶれと言われようとも、西洋に学べ
清議派 西洋を直ちに攘夷しろ。洋務派はもはや同胞ではない。クリスチャンを粛清するボクサー集団(=義和団)に発展。
1.清王朝体制側
曽国藩 洋務派。太平天国の乱(1851~1864)鎮圧で列強武力の凄さを目の当たりにした。
李鴻章 曽国藩を尊敬する洋務派。世論支持を得るため洋務派か清議派は明確にしたくない。ビスマルクのように多方面外交で乗り切りたい。さすがに西洋式海軍(北洋艦隊)を作っちゃうと清議派連中から洋務派と思われ同胞じゃないと言われるので海防が遅れ、虚勢を張ったけど戦争になり、日清戦争で日本に準備不足で完敗した。初期国会の紛糾でまさか日本が宣戦布告してくるとは思わなかったよ。デキル男だと買っていた袁世凱は朝鮮からとんで逃げてきたしね。下関条約では李鴻章が欠席する講和では話にならんと陸奥宗光と伊藤博文に言われちゃったし、老体でしんどかったけど出席した。ヨーロッパには逐一講和内容を打電して三国干渉をお願いしておいたからね。俺、ヨーロッパじゃ人気者だったし、ほんもののビスマルクと会談したこともあるよ。日本の動向は常に気にかけていたのにね。朝鮮の動向は若い袁世凱に任せて、朝鮮独立にうるさい日本を退け、ロシアの兵力を使ってでもなんとか属国を維持してくれ。(←ここ大事!日露戦争の要因は李鴻章がつくった!)
康有為が光緒帝に「公車上書」を奏上した。
日本の明治維新の政治を模範とし、
1 立憲君主制
2 国会開設 下情に通じる群才を集める。
3 富国政策(幣制改革と民間商工業の育成)
4 強兵政策(国民皆兵制の導入)
5 科挙と教育の改革(義務教育の導入)
6 旧俗の廃止(纏足、辮髪、旧服装の廃止)
1898年、光緒帝の変法運動後に分裂
(守旧派)栄禄
(光緒派)譚嗣同 ←康有為・梁啓超が支持を宣伝
*宰相・譚嗣同は、軍を掌握している袁世凱を信じて栄禄殺害を命じるが、栄禄とズブズブ関係だった袁世凱は、頤和園で我が世の春だった西太后に密告。西太后は、光緒帝ともども光緒派粛清をおこなう。
1899年、義和団事件 外国公使館員を大虐殺!
西太后 義和団を支持。義和団よ、その勢いで忌々しい列強をやっつけて。栄禄よ、義和団に加勢してあげて。
栄禄 義和団に関しては中立を保つも、列強8カ国に配下軍をボコボコにされる。
栄禄の部下・袁世凱 列強に味方して義和団を弾圧。列強は袁世凱を支持し、配下軍が残った。

1900年、孫文「南清独立計画」失敗。両広総督・李鴻章に独立支援するよう、日本・東亜同文会と台湾総督・児玉源太郎の協力を仰いだ。
ナンバー1は孫文であり、ナンバー2が黄興であった。孫文は外国から支持を出し、中国で闘うのは黄興だった。
1901年、西安に遷都した清朝政府は、義和団事変停戦後に北京議定書を締結。代表は李鴻章でほどなく死ぬ。
「庚子新政」政府機関を改革、科挙制度を廃止、留学を奨励、八旗軍をやめ日本の陸軍士官学校を卒業した留学軍人が中心となって新軍を形成した。
2.ジャーナリスト
孫文 異民族国家である清朝を革命で滅ぼして漢人国家を作れ。1914年に東京で中華革命党を結成。多くの日本人が支援するも中国に拠点がないためアメリカに拠点を置き、のちに中国共産党と同調する。(のちに国民党・蒋介石が孫文に猛反発するも、スターリン・コミンテルンにモスクワまで拉致殺害されかけ国共合作を強制される。)「党国体制」賢明な党が上から愚かな人民を救済する。
康有為・梁啓超 洋務派。清朝を残し、憲法と国会を作れ。皇室が変わることで上からの改革を目指した。守旧派は従来通りの皇室を維持する。
宋教仁 革命で清朝を滅ぼせ。武力に劣る孫文が清朝体制側の袁世凱に「中華民国大総統の座、どうぞどうぞ。」したことに怒る。
五四運動後の新文化運動、儒教批判
陳独秀 1903年に安徽愛国会結成。北京大学学長・蔡元培とともに暗殺団を育成し爆弾テロを計画する。自由で自立した人民が下から支える国家づくりを主張。孫文の「党国体制」を批判。国民の解放、国民の自由な権利回復を目指すのではなく、袁世凱から国家権力を奪い返すことを目的とした孫文の中華革命党をさらに批判した。アテネフランセでフランス語を学んだ。1915年に「新青年」執筆。民主主義と民権主義を主張した。多くの革命家のバイブルとなった。1920年にソ連コミンテルンのヴォイチンスキーが陳独秀に接近。ソ連の武力で社会主義革命を実現しろ。「マルクス主義研究会」を結成。のちスターリン主義を批判したため、中国共産党から抹殺された。
*毛沢東は初期の共産党活動には存在しない。途中から参加。陳独秀「新青年」をバイブルとし、1919年に「湘江評論」創刊。当初は独裁制を批判していたが、のちの文化大革命はなに????政敵をことごとく倒した独裁制ではないのか!
李大釗(りたいしょう)1918年にボルシェビキを紹介。ソ連コミンテルン・ヴォイチンスキーに、「自分より陳独秀のところへ行ったほうがいい。」と助言した。
胡適 白話運動。忌まわしき儒教用語を離脱して、自分の言葉で思いを綴った。
魯迅 狂人日記、阿Q正伝。中国人の欠点を羅列して強烈に批判した。そのなかに「食人文化」もある。
日本で「特高による赤狩り」が行われたというが、中国人マルキストの日本での活動は野放しだ。そりゃ日本人マルキストも後を絶たないわけだ。マルクスは英国産業の分析だけを行って資本論を書いただけで、ほかの国々はそれぞれ事情が異なり資本論を適用できない。いまの共産党は主権在民を捨て、新たな皇帝を作り上げただけだ。

興中会 孫文 広東省・広西省・華僑を基盤
1895年、広州蜂起に失敗し日本に亡命
華興会 黄興・宋教仁 湖南省を基盤
1904年、長沙蜂起に失敗し日本に亡命
光復会 陶成章・章炳麟・蔡元培 浙江省を基盤
1903年、満洲排斥・革命を主張した「蘇報」事件で日本に亡命
これらを孫文がまとめて、1905年、東京で中国同盟会を結成した。

孫文 清朝を倒せ!憲法・国会よりまず漢人政権樹立を!
梁啓超 清朝を存続させ立憲君主制にしろ!
1911年、辛亥革命後の中華民国大総統選挙
国民党 宋教仁
共和党 黎元洪
民主党 梁啓超
統一党 章炳麟
1912年、中華民国南京政府
臨時大総統 孫文(そんぶん)
臨時副総統 黎元洪(れいげんこう)
陸軍総長 黄興(こうこう)
教育総長 蔡元培(さいげんばい)
実業総長 張謇(ちょうけん)
外交総長 王寵恵(おうちょうけい)
1912年、中華民国北京政府
臨時大総統 袁世凱(えんせいがい)
*のち孫文は政権を袁世凱に譲渡したことを悔いたが、議会民主制にこだわり過ぎたために不測の事態を招いたことを悔いていた。今度こそは手段としての独裁制、独裁制を倒すための独裁制を強く主張するようになった。孫文自身への忠誠を部下に誓わせたため、彼自身が説く民権政治と矛盾していると部下たちから攻撃されることになった。孫文の心の底には愚民思想があった。愚かな民は自由を放棄して賢者にすべてを委ねるべきだと。
1913年、袁世凱討伐に失敗し、多くの革命派が日本へ亡命。孫文、黄興、李烈鈞、柏文蔚、陳炯明(ちんけいめい)。孫文が「中華革命党」をつくるも、孫文に絶対服従を求めたため、革命派が分裂し、反孫文派は「欧事研究会」を立ち上げた。
1914年、第一次世界大戦。日本がドイツに宣戦布告、日英同盟により英国と共同し山東占領。一気に反日運動が高まる。
1915年、加藤高明外相主導のもと、日置益・中華公使が袁世凱大総統に対華二十一か条の要求。
大隈重信首相は袁世凱帝政に不干渉、石井菊次郎外相は反対。袁世凱は第一次世界大戦に参戦することで列強から承認を得ようとした。日本は中華帝国が戦勝国になると山東利権が脅かされるので反対。
1916年、中華帝国皇帝・袁世凱死去後の軍閥割拠
英米の支援を受けた直隷派
日本の支援を受けた安徽派
段祺瑞は、対独宣戦を布告し、寺内正毅(まさたけ)内閣は、西原借款1億4500万円を段祺瑞に供与した。

大総統 黎元洪(れいげんこう)
副総統 馮国璋(ふうこくしょう) 北洋軍直隷派
国務総理 段祺瑞(だんきずい) 北洋軍安徽派
海軍総司令 李鼎新(りていしん)
北京政府の大総統・国務総理(ツートップ)
1916~1917年 黎元洪・段祺瑞
1917~1918年 馮国璋・段祺瑞
1918~1922年 徐世昌 (以後、国務総理を廃止)
1922~1923年 黎元洪
1923~1924年 曹錕
1924~1926年 段祺瑞(臨時執政)
1927~1928年 張作霖(大元帥)
1917年、中華民国軍政府(広東軍政府)樹立
大元帥 孫文 → 主席総裁 岑春煊(しんしゅんけん) *孫文1918年失脚
外交総長 伍廷芳
財政総長 唐紹儀
陸軍総長 張開儒
海軍総長 程璧光(ていへきこう) *孫文側近・朱執信が程璧光を1918年暗殺
交通総長 胡漢民
内政総長 孫洪伊
軍政府秘書長 章炳麟
総参謀長 李烈鈞
1919年、五四運動。日本から山東利権回収困難に反対した反日運動。
北京政府
直隷派 呉佩孚(ごはいふ)・曹錕(そうこん)
安徽派 段祺瑞(だんきずい)
奉天派 張作霖(ちょうさくりん)
広東軍政府
孫文が1920年に中華革命党を中国国民党に再編成「連ソ容共扶助工農」
孫文・陳炯明(ちんけいめい)・蒋介石・岑春煊(しんしゅんけん)
孫文は省自治を認めず大一統国家を作りたかった。
陳炯明は省自治を認めアメリカ式連邦国家を作りたかった。梁啓超・章炳麟・胡適が支持。
陳炯明が1922年にクーデタ起し孫文亡命。蒋介石が孫文を救命。
孫文がソ連軍資金を用い、雲南軍(楊希閔ようきびん・張開儒ちょうかいじゅ)と広西軍(劉震寰りゅうしんかん・沈鴻英ちんこうえい)を雇い入れ、陳炯明率いる広東軍を破った。雇った傭兵がアヘン・賭博・売春でみかじめ料を取り狼藉を働いた。広州市長・孫科が北伐のための軍資金を課した。広州商店と土地所有者の古くからの賃貸関係を一新抹消しようとして、ドイツから武器購入した商団軍が政府と対立。孫文は抗争が絶えない広州を見捨てて北伐に軍を動員しようとしたが、馮玉祥の北京クーデタ(裏切り)で奉直戦争に参戦できず。孫文は蒋介石の訓言もあり、広州をまともに戻すため、雲南軍・広西軍・湖南軍と、蒋介石校長率いる黄埔軍官学校生を用い、商団軍を虐殺した。
*ソ連コミンテルンの対中方針は、孫文政権に中国共産党を協力させるというものだった!!!
*陳独秀はソ連コミンテルンによる中国共産党への干渉を極力嫌った!孫文の武力革命も嫌い続けた!
雲南軍閥
唐継堯(とうけいぎょう)
広西軍閥
陸栄廷(りくえいてい)
1920年5月 上海 マルクス主義研究会 陳独秀 戴季陶(たいきとう)
1920年11月 上海共産主義小組
ヴォイチンスキー
1921年7月 中国共産党創立大会
マーチン、ニコルスキー
1924年1月 中国国民党第一次全国代表大会(一全大会)
ボロディン
第一次国共合作(孫文・陳独秀)
陳独秀はソ連コミンテルンに屈服したことに怒り、孫文は陳独秀を服従させたことに大満足だった。
*第一次国共合作(1924) 国民党>>>共産党
*第二次国共合作(1936) 国民党<<<共産党
1920年、安直戦争
直隷派が張作霖と共同して安徽派を破る。
1922年、第一次奉直戦争
直隷派が奉天派を破り、張作霖は滿洲へ逃れる。
1924年、第二次奉直戦争
曹錕が賄選で大総統に就任。張作霖が安徽派と、北伐を願い返り咲いた孫文の広東軍政府と結び、さらに馮玉祥が寝返って、直隷派を破る。
1924年、直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が反乱、曹錕を監禁、紫禁城の宣統帝溥儀を放逐した。
*三角軍事同盟政策:張作霖・段祺瑞・孫文
ソ連は馮玉祥と孫文を革命勢力とみなし武力提供した。
1925年、孫文、肝癌で死去。
1926年、蒋介石が汪精衛(汪兆銘)から主席を奪い、北伐。直隷派の呉佩孚、孫伝芳を各個撃破。
1927年、蒋介石が反共クーデタ、南京国民政府を樹立し、武漢の国民党に決別。陳独秀は敗北責任を問われ、共産党総書記を解任された。ソ連の軍資金援助を失った蒋介石が田中義一首相に軍資金援助を依頼。蒋介石「新生活運動」で日本を模倣し、ラジオ放送を用いて規律ある国民生活を強要した。
1928年、蒋介石、馮玉祥、閻錫山、李宗仁が北伐を再開。孫伝芳、張宗昌、張作霖を破り、北京・天津を平定した。済南事変と張作霖爆殺事件により反日感情が高まった。張学良が東三省を統治。
*蒋介石の国民党 党を以て国を治める
*陳独秀の共産党 民を以て国を治める
*(変節した)毛沢東の共産党 党を以て国を治める
1929年、ソ連トロツキーに共鳴しスターリン主義を批判した陳独秀が中国共産党を除籍された。
1930年、中原合戦。蒋介石が張学良の協力を得て反蒋派を撃破した。
1931年、蒋介石が胡漢民を幽閉し内紛。そのとき起きた満洲事変に対抗するため、孫科を首班とする南京国民政府が発足。すぐ倒れ、蒋介石・汪精衛が協力体制で復帰。

独裁を好む蒋介石についていけない人たちが反蒋派を形成し、三つ巴となる。やっぱり全国統一はすぐに瓦解した。
蒋介石
汪兆銘(汪精衛)
胡漢民
ここに、毛沢東率いる弱い共産党が加わって逃亡を繰り返す。

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