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2022年8月16日 (火)

室町時代のお勉強

応仁・文明の乱後、守護交代には将軍の意向だけではダメで、被官人(重臣)の意向も必要となった。

1483年、山名政豊が旧領だった播磨に侵攻。赤松政則が敗走。

浦上則宗は有馬澄則を支持、在田氏と廣岡氏は赤松大河内氏を支持。

1488年、赤松政則が山名政豊を撃退。

1493年、赤松政則死去。再び播磨が分裂。

浦上氏・別所氏・小寺氏・龍野赤松氏・薬師寺氏ら重臣の意見が分裂。浦上則宗は幼い赤松義村の執政をおこない、アンチ派の別所則治を牽制。

 

鎌倉時代のお勉強は、元寇がクライマックスだから、在郷の菊池氏と元寇後の九州探題(平季基・千葉常胤・今川了俊・一色・渋川)まで詳しく勉強しておきたい。

室町時代のお勉強は、南北朝天皇家、足利氏、斯波氏の目線を中心に勉強すればわかりやすい。三管領(斯波・細川・畠山)のなかでも斯波氏が別格にやんごとないようだから。キーパーソンは斯波。

足利高経は足利尊氏とともに六波羅探題攻撃。建武新政で越前守護になる。1334年、護良親王失脚に伴い、楠木正成の代わりに佐々木目氏の乱を鎮圧。湊川の戦いで楠木正成と戦い、金ヶ崎の戦いで恒良親王を捕縛。藤島の戦いで脇屋義助に敗れたが、1341年、越前を平定。観応の擾乱で直義・直冬方につき、北朝皇族を置き去りにさせて義詮を京から追放した。1361年、細川清氏失脚後に斯波義将を執事に、斯波義種を侍所別当にして一門で幕政を掌握。南朝方の大内弘世と山名時氏を幕府に帰順させ、義詮の三条坊門邸建設が遅れた赤松則祐の所領を奪い、五条大橋修理が遅れた京極道誉の代行をしてメンツをつぶした。

陸奥将軍府(義良親王・北畠顕家・北畠親房)は陸奥の武士に守護並みの権限を与えた。奥州総大将・斯波家長は箱根竹之下の戦い後、鎌倉の足利義詮の関東執事につく。西上する北畠顕家に敗れ、東上する北畠顕家に敗死。

*室町幕府は北畠顕家のような人物を出したくないために、奥州管領・奥州探題(大崎氏)・羽州探題(最上氏)や九州探題(一色氏)に大きな権限を与えなかった!

1366年、貞治の変で足利高経失脚、斯波義将は執事罷免。高経死後、義将は赦免され越中守護になった。1371年、直義派の桃井直常を破り越中平定。義詮正室の渋川幸子に接近し、細川頼之と対立した

1379年、康暦の政変で細川頼之を追放して、斯波義将が管領に就任。畠山氏が越中守護、斯波氏は越前守護に交換。斯波義種は加賀守護になる。義満は奉公衆を設置し管領の権限を軽減していった。

1387年、美濃・尾張・伊勢守護の土岐頼康死去。

1388年、美濃・伊勢守護に土岐康行を、尾張守護に土岐満貞を任じた。土岐詮直は土岐満貞を破り、満貞は京へ敗走。

1389年、土岐康行の乱。土岐頼忠・頼益に土岐康行を討たせ、土岐頼忠が美濃守護、土岐満貞が尾張守護、仁木満長が伊勢守護になった。

但馬・伯耆・備後・隠岐の守護だった山名時義が死去。山名氏之が伯耆・隠岐守護、山名時煕は但馬守護、山名義煕が備後守護、山名満幸は病弱な義幸から受け継いだ出雲・丹後守護のまま加増なしだった。

1390年、明徳の乱。出雲・丹後守護の山名満幸と、丹波守護の山名氏清が、山名氏之、山名時煕を破る。山名満幸が隠岐・伯耆・出雲・丹後守護、山名氏清が但馬・丹波守護になった。後円融仙洞領を横領した山名満幸と、義満を門前払いした山名氏清が義満を攻撃するも内野の戦いで敗死。山名氏之が伯耆守護、山名時煕が但馬守護、山名氏家が因幡守護となった。

1391年、足利義満が細川頼之の子・頼元を管領にした。

1392年、頼之死去。斯波義将は管領に復帰。

1399年、義満は九州探題・今川了俊を筑前から駿河・遠江守護に転封。渋川満頼を九州探題に任じた。大内義弘に渋川満頼加勢を命じ、少弐貞頼・菊池武朝を討つ。今川了俊の仲介で鎌倉公方・足利満兼を立てて堺で挙兵。大内義弘敗死。この応永の乱で斯波義将は尾張・遠江守護を兼任。山名時煕は但馬・備後・安芸・石見守護に加増、1412年に因幡守護も加増。

1408年、足利義持を将軍に推挙、太上天皇号を辞退させ、日明貿易は継続させた

1410年、義将死去で、足利義持は日明貿易を廃止した

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*細川頼之vs斯波義将

細川頼之 後光厳支持

斯波義将 崇光支持

 

1433年、山名時煕、硫黄密輸で失脚、家督を山名持豊に譲る。

1435年、山名時煕死去。

1437年、山名持煕が挙兵し敗死。山名持豊は、但馬・備後・安芸・伊賀守護に任ぜられた。

1441年、嘉吉の変で山名持豊が活躍。

山名持豊 但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護

山名教清 石見・美作守護

山名教之 伯耆・備前守護

 

斯波義重は、栄仁親王に有栖川別邸を献上し、管領・越前・尾張・遠江守護になり、清洲城を築城。

斯波義敦は、甲斐将久とともに日朝外交(宋希璟)を担当。畠山満家が訴訟調停の多い管領を辞めたがっており、足利義教が義敦に管領を任じた。重臣(甲斐・織田・朝倉)の反対も義教には届かず。

*義教の宿老(最高権力機関) 畠山満家、山名時照、満済

 山名時煕は義教に賛同し、畠山満家が義教に文句をつける。

*関東使対面問題

篠川公方・足利満直の構想では、義教と持氏を争わせたあと自ら将軍になりたがっていた。満直が義教に接近。義敦と親しい関東管領・上杉憲実が二階堂盛秀を義教に派遣。その対面のやり方で義敦ひとりが義教らに反対。九州で大内盛見戦士の報に義敦が無条件和睦を成功させる。

 

斯波氏歴代当主が早逝したため、ついに養子をとることになった。

1438年、永享の乱(~1439年)

鎌倉公方 足利持氏 

関東管領 山内上杉憲実 ← 足利義教、斯波義健(越前尾張遠江守護)、足利満直(篠川公方)、今川範忠(駿河守護)

1440年、結城合戦

結城氏朝・持朝が持氏の遺児を奉じて反乱。負けて永寿王丸(のちの成氏)のみ生きる。

1455年、享徳の乱(~1483年)

鎌倉公方 足利成氏 ← 斯波義廉、畠山義就(反上杉派)

関東管領 山内上杉憲忠 ← 足利義政、細川勝元

1458年、斯波持種・義敏と守護代・甲斐常治が戦闘。

堀越公方 足利政知

1459年、金ヶ崎城を攻め甲斐常治に敗北、落ち武者として大内教弘のもとに逃亡。足利義政は、斯波義廉に斯波家家督を継がせた。

1465年、斯波義敏が、伊勢貞親と細川勝元のおかげで赦免され上洛。京の戦乱を恐れた近衛政家が陽明文庫を岩倉家に遷した。一方、九条家の藤河文庫は焼失してしまっている。

1466年、関東探題・渋川義鏡が「関東執事(関東探題)」を自称し、扇谷上杉氏・山内璟上杉氏と対立し失脚。

渋川義鏡には近衛軍がなく、斯波義廉に兵力を頼っていた。

堀河公方ー渋川義鏡ー斯波義廉ラインから、奥州探題・大崎氏ー斯波義敏ラインに方針転換して、義敏に斯波家家督を継がせた。

義廉は山名宗全と姻戚関係を結ぶ。文正の政変で、伊勢貞親と季璟真蘂が追放され、義敏が失脚し、義廉が管領に就任。

1467年、上御霊社の戦い。畠山義就が畠山政長と戦闘開始。畠山政長は後花園上皇の院宣を受けた。朝倉孝景が斯波義種邸を攻撃。

斯波義敏(斯波持種の子) 東軍

斯波義廉(渋川義鏡の子) 西軍

西軍についた朝倉孝景が越前守護を所望。伊勢貞親と浦上則宗が安堵の約束をして朝倉孝景が、1471年、東軍に寝返った。

一条大宮(上京)の戦い

東軍 細川勝元 畠山政長 斯波義敏

西軍 山名宗全 畠山義就 斯波義廉

足利義政は東軍に付き、朝倉孝景の首と斯波義廉の首を要求。斯波義廉邸が徹底的に攻撃された。

相国寺の戦い

大内政弘が西軍に付いたが、畠山政長の総力戦もあって、形勢を東西互角まで戻した。

1468年、斯波義敏が越前制圧し、朝倉孝景が越前に下向。足利義政は、管領を斯波義廉から細川勝元に挿げ替えた。足利義視と足利成氏が和睦。

1471年、朝倉孝景が東軍に寝返り、東軍の兵糧が確保された。北陸から兵站が東軍に向けて豊富に輸送された。さらに西軍を率いた大内政弘が兵糧ルート(尼崎~兵庫の摂津)確保に兵をそがねばならなかった。

1471年、鯖江・新庄の戦い

朝倉孝景は甲斐八郎を破り越前を平定。甲斐氏は加賀に逃亡。

1472年、細川勝元と山名宗全が和睦。

1474年、細川政元と山名政豊が和睦。

1475年、甲斐八郎の裏切りで斯波義廉は越前と遠江を失った。甲斐八郎は、足利義尚と斯波義良の仲裁で朝倉孝景と停戦し、遠江守護代に就いた。

1477年、斯波義廉&織田敏広(織田伊勢守)を義政は「尾張凶徒」と名指しで攻撃。斯波義敏&織田敏定(織田大和守)が勝った。義敏の子らは尾張を織田に奪われ、遠江で甲斐氏、今川氏に敗れ没落した。山名氏は、但馬・因幡守護のみになってしまった。

 

*奉公衆と奉行人

奉公衆 軍事を担当する武官

奉行人 政務を担当する文官

足利義教は合議制をやめ、将軍専制を目指し、評定衆や引付頭人を将軍直属機関として設けた。義教自ら訴訟判決に加わる御前沙汰を主宰し、奉行人のなかから御前沙汰衆を選抜した。

足利義政は奉行人を配下に置き、足利義尚は奉公衆を配下に置いた。1487年、悪政の近江守護・六角高頼を義尚自ら征伐し、多くの奉行人を自分の配下に就けることに成功。陣中で酒池肉林に溺れ病気に臥せ1489年死去。同じく義政も脳梗塞で倒れ1490年死去。

将軍両立時代を終え、新たな政界再編が起こっていた。日野富子が義材を見限って香厳院清晃(のちの義澄)を後継者と定め、小川御所を義澄に譲った。義視・義材父子は、河原者を使って小川御所を破壊し、怒った日野富子は細川政元に接近した。

足利義材 畠山政長

日野富子 細川政元 畠山義就・基家 赤松政則 朝倉貞景

1493年、明応の政変 ←戦国時代の始まり

足利義材は、畠山政長、赤松政則、斯波義寛を率いて、畠山基家を攻略。

細川政元は、足利義澄を奉じて、大内義興と赤松政則を率いて足利義材を捕縛した。男色激しかった細川政元に後継者がなく、澄之と澄元を猶子とした。

1500年、後土御門天皇が窮乏化し葬儀できず。後柏原天皇は21年間即位できず。

1506年、澄元が阿波から三好之長を率いて入京。

1507年、澄之が香西元長、薬師寺長忠とともに細川政元を謀殺した。澄之は細川高国に討伐され、澄元が家督相続。

足利義材は越中に脱獄し、細川政元追討命令を守護に向けて乱発した。1508年、足利義材は義尹と改名し、大内義興と細川高国に擁されて入京、義澄を放逐して将軍に返り咲いた。澄之と澄元を放逐し細川高国が家督相続。1513年、義尹は義稙と改名。

1521年、細川高国は義稙を廃して、義澄の子・義晴を将軍に擁立した。

1526年、後奈良天皇。9年後即位、宸翰を販売。

1527年、細川晴元(澄元の子)が細川高国を破り足利義晴を追放し、堺公方・足利義維(義稙の子)を擁立。

1532年、細川晴元が足利義維と不和になり、足利義晴を再擁立。

1549年、三好長慶が細川晴元と足利義輝を近江へ追放。

1558年、三好長慶と足利義輝が和睦。

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