日本史を学ぶ上で考えなくてはならないのは、底辺の土地は平坦な更地ではなく、旱魃、長雨水害、飢饉、疫病が連続した凸凹の荒地だということ。大衆群集心理を突き動かすアクセルが文化なら、大衆を死に至らしめるブレーキが天災と人災(戦争)だ。歴史教科書にまず詳説すべき事実だろう。
世界史は宗教(文化のひとつ)と人災が大きすぎて、ほかはあまり問題にならない。
たしかに室町殿のように酒浸りで民政を顧みない不届き者もいたが、鎌倉殿のような為政者は黙って指をくわえていただけでなく、富者の貸し渋りを戒め足りない分は自ら補填し、餓死するくらいなら飢饉奴隷という仕事(寺社や内裏や橋のインフラ建造業)もあるよとお知らせしたり、大衆も地方よりは食物と仕事にありつける都市に毎年のように大量に流入した。それが烏帽子をかぶらず外をぶらつく異形の悪党文化になり、富者の土倉を破壊する土一揆文化になり、デフォルトを要求する徳政一揆文化になり、戦国の足軽文化になっていった。元寇で発達した戦闘技術は楠木正成など悪党のゲリラ戦術につながった。日本人奴隷はやがて倭寇とポルトガル商人を通じて世界じゅうに高値で売買されるようになった。秀吉と家康が禁止するまで奴隷輸出がつづいた。
源頼朝の構想
鎌倉殿の継承 1頼朝 2頼家 3公暁(やんごとなき源為朝の孫娘・辻殿と頼家のあいだの嫡男)
*実朝は鶴岡八幡宮別当にして、頼家に王法、実朝に仏法を担わせたかった。
京との連携 大姫、乙姫を後鳥羽に入内させる
執権の継承 1北条義時 2北条(名越)朝時(比企氏姫の前の嫡男・北条と比企の仲介役)
*執権後継を巡り、北条泰時・側室末裔と名越朝時・正室末裔の争いがつづく。
北条時政の構想
鎌倉殿の継承 1頼朝 2実朝
執権の継承 1江間義時 2北条政範(やんごとなき池禅尼の姪・牧の方の嫡男)
比企能員は、男子がいなかった比企掃部允の養子!
比企尼の娘(丹後内侍)の夫に二人いて、
1人目 惟宗広言or忠康 その子が惟宗忠久(島津忠久)!
2人目 安達盛長 その子が安達景盛
島津忠久は、比企能員の軍に加わり、近衛家島津荘の下司職に就任した。
北条義時
姫の前(比企朝宗娘)と結婚し、名越朝時、極楽寺重時を産むも、比企の乱で離婚。
姫の前は源具親と再婚し、源輔通、源輔時を産んだ。
源頼家の構想
鎌倉殿の継承 2頼家 3一幡

和田義盛が上総介任官を要求したが、後鳥羽上皇の北面の武士である藤原秀康が着任した。
1213年2月 泉親平の乱
信濃僧侶・安念が千葉成胤に謀反を誘ったため、千葉成胤が安念を義時に差し出した。信濃御家人・泉親平の名が挙がり、比企氏残党と思われる武士を次々に逮捕、肝心の泉親平は行方不明で追討せず。無名の御家人ごときに謀反の意志があったかは疑わしい。
1213年3月8日、逮捕者のなかに、和田義盛の子(義直・義重)と甥(胤長)がいた。和田義盛が実朝に対面し、義直と義重が赦免。
1213年3月9日、和田義盛は御所の大江広元と対面し、胤長の赦免を要求したが、重罪人という理由で拒否された。義時は、家人だった金窪行親と安藤忠家に命じ、縄で胤長を縛ったまま、二階堂行村に引き渡した。
1213年3月25日、犯罪人となった胤長の鎌倉屋敷地を、和田義盛が拝領願い。
1213年4月2日、慣例法に反し、義時が胤長所領を横領した。
1213年4月15日、和田朝盛が出奔したが、謀反を疑われたくない義直が連れ戻した。
1213年4月24日、和田義盛が、帰依していた伊勢の僧侶を(戦勝祈願のため?)追放した。
1213年5月2日、和田合戦。和田義盛が、150騎で挙兵。八田知重と三浦義村が義時に通報。和田義盛らは実朝を確保すべく御所を攻撃。和田方の朝比奈義秀が泰時を破り、御所に放火。実朝・義時・広元が法華堂に避難。義時邸が攻撃されたが、家人が防戦。実朝は酒で酔っており、御所攻撃は義時の想定外だった。三浦義村が義時方に寝返って、義盛が苦戦。
1213年5月3日、武蔵の横山時兼、波多野盛通、横山知宗、東相模の土屋義清が義盛方として参戦。数時間後、西相模の曾我・中村・二宮・河村が鎌倉入りしたが、実朝の命により義時方に付いた。由比ガ浜と若宮大路で激戦となったが、土屋義清、和田義盛、義直、義重が敗死。和田常盛、朝盛、横山時兼が敗走自害。
1213年5月5日、義時が義盛の侍所別当に着任、政所別当と兼任した。
1213年5月6日、金窪行親が侍所所司(次官)に着任。これは梶原景時が就いていた官職。
1213年5月9日、流罪の和田胤長が斬首。
1215年、幽閉中の北条時政が伊豆で死去。
1216年、実朝が権中納言に昇官。後鳥羽の院近臣であった大内惟信、源頼茂、源仲業を政所別当に加え増員した。
1217年、義時が右京権大夫に着任。在京義務はこの時期消失していた。
政子・実朝は公暁を実朝の猶子にして、園城寺で修業させた後、鶴岡八幡宮別当にする予定であった。
1218年、政子、時房が熊野詣、藤原兼子と対面し、頼仁親王を次期将軍として迎えることを約した。実朝が権大納言、左近衛大将、内大臣、右大臣と次々に昇官。政子が従三位、従二位と昇官。
1219年1月27日、鶴岡八幡宮にて右大臣拝賀を終えた実朝を、公暁が殺害。実朝側近の源仲章が巻き添えを食らい殺害された。三浦義村は公暁を見捨てた。
1219年2月11日、阿野時元の乱。駿河で起こったが金窪行親が鎮圧。
源実朝の構想
鎌倉殿の継承 3実朝 4後鳥羽天皇の頼仁親王
*頼仁親王を鎌倉殿にして、実朝は大殿として君臨する予定であった。
後鳥羽の構想
治天の君 後鳥羽
天皇→上皇 順徳
皇太子→天皇 懐成親王(仲恭)
*八条院領 鳥羽上皇→八条院→春華門院→順徳天皇
*長講堂領 後白河上皇→宣陽門院→雅成親王(順徳の弟)
白拍子の伊賀局亀菊がもつ領家領を広くするために、長江荘と倉橋荘の地頭(足利義時!)を罷免したいと後鳥羽が幕府に申し出たところ、幕府は怒り、鎌倉殿となっていた政子は北条時房1000騎を上洛させ後鳥羽を威嚇した。
1219年7月13日、大内守護・院近臣の源頼茂が鎌倉将軍に就こうとして反乱。後鳥羽が鎮圧、大内裏が焼失。
1219年7月19日、三寅(のちの九条頼経)が4代将軍として鎌倉入り。
1220年、戦火で焼失した大内裏の修理を、後鳥羽が一国平均役で賦課。源義時が拒否。
1220年4月14日、公暁に加担した嫌疑で禅暁殺害。禅暁の母を妻にしていた三浦胤義の助命工作も実らず。
1221年4月20日、順徳天皇が懐成親王に譲位、仲恭天皇即位。
1221年4月28日、後鳥羽の高陽院に近畿一円の武士1000騎が集結。
1221年5月14日、大江親広が後鳥羽方につく。幕府方の西園寺公経・実氏を監禁。
1221年5月15日、後鳥羽が義時追討の院宣を全国の守護地頭に発した。大内惟信と三浦胤義ら800騎が京都守護の伊賀光季85騎を討つ。

後鳥羽方
順徳 仲恭
大江親広 藤原秀康(西面の武士) 三浦胤義
義時方
土御門 西園寺公教 近衛家実(順徳の摂政)
大江広元 伊賀の方&伊賀光季(京都守護) 三浦義村
*順徳の男子たち
佐渡配流前に5人
尊覚法親王、覚恵法親王、懐成親王(仲恭天皇)、彦成王、忠成王(岩倉宮)
佐渡配流後に2人
善統親王(四辻宮)、成島王(千歳宮)
後鳥羽上皇ら京方の荘園を没収し、御家人を新たに地頭に任じた。1223年、新補率法。
1.田1段につき5升は新補地頭のもの。加徴米。
2.田畑11町のうち1町は年貢納入免除。免田。
3.山野河海の産物は領家と折半(1/2)。
1224年、北条義時が脚気で急死。六波羅探題の北条泰時が政子に鎌倉に呼ばれ、執権に就任した。北条時房を連署に任じた。
伊賀氏事件。政子は義時の正妻・伊賀の方を無視して事を運んだことに伊賀の方が不満。娘婿の一条実雅を将軍に据え、実子の幼い北条政村を執権に据え、実兄の伊賀光宗に後見させるという計画が露見。政子は、伊賀一族が屋敷に出入りしていた三浦義村と密談し、幕府方につけた。伊賀の方を伊豆に幽閉、光宗を信濃へ配流、一条実雅を越前に配流。延暦寺僧・京方院近臣だった尊長が1227年京にて捕縛。刑死前の拷問で、伊賀の方が義時を毒殺したと供述した。
執権 北条泰時
矢部禅尼(三浦義村娘)と結婚、北条時氏を産み、比企の乱後に離婚。
佐原盛連と再婚し、蘆名光盛、三浦盛時(宝治合戦後に佐原姓から三浦姓へ)、新宮時連(のち蘆名光盛の猶子となる)を産む。
評定衆
御成敗式目
四条天皇早逝後、土御門の邦仁王と順徳の忠成王(仲恭の弟)が後継候補となる。順徳の佐渡流刑が許されることを嫌い、邦仁王を押し付けて後嵯峨天皇即位。
1226年、出挙の利息抑制策
出挙米の利子 元本の2倍以下
挙銭の利子 元本以下
1231年、寛喜の飢饉
飢饉奴隷を許可した。
出挙米を貸し付けて、返済リスクは泰時が背負った。(出挙米の貸し渋りを禁じた)
北条時氏
泰時とともに承久の乱に参戦。
松下禅尼(安達景盛娘)と結婚し、北条経時、北条時頼を産んだ。外戚が三浦氏から安達氏に変わった。
六波羅探題に任ずるも糖尿病で早逝。
執権 北条経時
将軍 九条頼経
天皇 後嵯峨
反執権派:九条頼経、三浦康村、名越光時
1244年、飢饉難民が山野河海を利用しているのを荘園領主が締め出すことを禁じた。
九条頼経を解任。
執権 北条時頼
関東申次(幕府と朝廷の仲介役) 九条道家
大殿 九条頼経
将軍 九条頼嗣
関白 九条実経
治天 後嵯峨院政(朝幕協調)
天皇 後深草
関東申次を西園寺実氏に替え、反執権派の力を削いだ。
宮騒動で名越光時を配流。
九条頼経を京へ追放、反対派を粛清
宝治合戦で三浦泰村・千葉秀胤を討つ
引付衆
得宗
執権 北条長時
1259年、正嘉の飢饉
執権 北条政村
1264年、田麦に年貢をかけることを禁じた。
執権 北条時宗
二月騒動で名越時章・教時、異母兄の北条時輔を討伐
モンゴルは、「北は寒すぎて嫌や、南は暑すぎて嫌や。」と言って横に長い帝国を築いた!
南宋から日本へ
銅銭(南宋で米:銅銭=1:1、日本で米:銅銭=3:1)
陶磁器
日本から南宋へ
硫黄(軍事物資・火薬の原料)
材木(スギ・ヒノキ)
金・砂金
1268年、モンゴル親書(ジャルリク)「用兵夫孰所好」
返牒不可 関白藤原基平・鎌倉幕府
返牒主張 前関白二条良実・一条実経
1270年、モンゴルが高麗王と混血を進め、高麗・武臣政権の私兵である別抄に対し解散を命じた。
1271年、三別抄が、江華島から珍島に遷都し、日本にモンゴルと戦うための支援を要請してきた。三別抄を反乱軍と認識し、支援無視、異国警固番役を設置。フビライ汗が元を建国。
1273年、南宋の樊城が陥落、高麗の別抄が滅亡。
治天の君 亀山上皇
天皇 後宇多
皇太子 伏見
御恩奉行の安達泰盛が元寇で奮戦した。葛西殿と堀内殿は臨安の日元貿易に専念した。
荘園年貢の米納から銭納へ変化した!荘民が雑徭から解放された!!
港湾都市が発達。
紛争解決を武力に訴える悪党が出現。異類異形の悪党に発展。
領家や地頭の代わりに年貢を収納する代官が出現。
荘園領主が幕府へ悪党の取り締まり強化を嘆願すればするほど、悪党の倒幕運動につながっていった。代表は楠木正成。
1274年、文永の役
1277年、江南での銅銭使用を禁じた。交鈔(紙幣)を通貨に制定した。
1279年、南宋滅亡。
1281年、弘安の役
大覚寺統の亀山、後宇多、後醍醐が加持祈祷パワーを妄信して密教にかぶれた。
持明院統 和様の書体、琵琶
大覚寺統 唐様の書体、笛
1284年、弘安の徳政令
安達泰盛が主導。「鎮西名主職安堵令」で、元寇で守護に付いて功績を挙げたのに、鎌倉幕府と関係が認識されていなかった非御家人の領地を正式に鎌倉幕府が保証したのである。特殊合議訴訟機関が安堵令の実施にたずさわった。新御家人が大量にうまれた。
明石行宗(中央官職)・大友頼泰(守護)ペア 筑前・肥前・薩摩の訴訟管理
長田教経(中央官職)・安達盛宗(守護)ペア 豊前・豊後・日向の訴訟管理
二階堂政行(中央官職)・少弐経資(守護)ペア 筑後・肥後・大隅の訴訟管理
1285年、霜月騒動で安達泰盛が失脚。貞時の乳母父・平頼綱が九州に下向し着任。
1286年、平頼綱によって「鎮西名主職安堵令」が撤廃され、鎮西談議所が設置。鎌倉幕府中央が関知しない独立した4人の鎮西奉行が守護を超える権限を有した。
少弐経資、大友頼泰、宇都宮通房、渋谷重郷
霜月騒動で得宗専制が進行し、内紛で所領を没収されたり、所領を担保に借金する御家人が増えてきた。
1293年、平禅門の乱。平頼綱・飯沼宗祐親子の専制恐怖政治を、北条貞時が成敗した。

1293年、六波羅北方探題の北条兼時と名越時家が九州下向し、鎮西探題を設置。兼時も時家も、再度の蒙古襲来に備えて、異国打手大将軍として派遣されていた。北条氏、少弐氏、大友氏が担当。最終訴訟裁断権に加え、軍事統率権も有していた。
寺社荘園vs御家人 荘園領主に有利な判決を下した
御家人vs非御家人 御家人に有利な判決を下した
惣領vs庶子 惣領に有利な判決を下した
1297年、永仁の徳政令
1.所領の売り手が御家人であることに限って以下の法令を適用する。
御家人が買った所領は20年以上経過したものについては、売り手の取り戻しを認めない。
非御家人が買った所領は、売り手が取り戻せる。
2.越訴は禁じる。一審のみとする。
3.御家人の所領の売買および質入れを禁じる。
4.債権者からの債権取り立ての訴訟は一切受理しない。
「貸した金は自力で取り返せ。幕府は一切関知しない。」
この結果、債権者の貸し渋りが生じて、御家人の暮らしはさらに窮乏化していった。
1305年、嘉元の乱。執権が北条貞時から師時にうつったことを、北条宗方が無念に思い、手始めに連署・北条時村を討った。北条貞時は宗方を処刑。

1333年、尊良親王を奉じる菊池武時は、大友貞宗・少弐貞経と共謀して鎮西探題北条英時を討とうとしたが、大友貞宗・少弐貞経が裏切って菊池武時が敗死。六波羅探題、鎌倉幕府が相次いで滅亡すると、大友貞宗・少弐貞経・島津貞久が、北条英時を自害に追い込み鎮西探題が滅亡した。
尊良親王、中院定平、少弐貞経、相良頼広が大宰府をおさえ、九州武士の戦功を評定し、足利尊氏に対し注進した。
1336年、多々良浜の合戦
建武方 菊池武敏、阿蘇惟直
尊氏方 少弐頼尚、宗像氏範、千葉胤貞
足利尊氏が勝ち、大宰府を制圧した。一色範氏を九州探題に任じて、軍事指揮・訴訟調停させた。
1350年、足利直冬が大宰府に入り少弐頼尚に迎えられ、一色範氏に代わり鎮西探題(鎮西管領)になった。
1351年、正平一統により南朝・後村上天皇が直義・直冬討伐勅命。
1352年、一色範氏、征西府とともに直冬追討、直冬は長門に逃れ、一色直氏が九州探題になった。
1353年、針摺原の戦いで、少弐頼尚が一色氏を破り、征西府に寝返った。
1359年、大保原の戦いで、征西府の菊池武光が少弐頼尚・少弐直資・大友氏時・宇都宮冬綱を破った。少弐直資は敗死。
1361年、懐良親王が大宰府に征西府を樹立。菊池武光と少弐頼澄が補佐。「日本国王」を名乗り、日明貿易開始。
少弐氏南朝方 頼澄
少弐氏幕府方 頼尚・冬資
1372年、九州探題の今川了俊が征西府を倒した。少弐貞頼と菊池武朝が今川了俊に帰順した。
1374年、高畑城の戦いで、今川了俊が宇都宮冬綱・家綱を破る。大内義弘が豊前守護に任ぜられる。豊前守護代に杉氏がつく。
1395年、今川了俊が九州探題を罷免され、渋川満頼に交代した。渋川は、博多商人の宗金とともに日朝貿易に熱心であった。
少弐貞頼と菊池武朝は渋川に不満を持っており、服従と反抗を繰り返した。
探題方 渋川、大内、大友、阿蘇、詫磨
反探題方 少弐、菊池、大村、平井、渋江、後藤、波佐見
1405年、猪嶽合戦で、探題方が勝った。
1419年、応永の外寇で、対馬と朝鮮が通交断絶。渋川氏が仲介に入り、少弐満貞が宋希璟と外交交渉にあたった。
1425年、筑前守護の少弐満貞が渋川満頼を追放、渋川義俊が九州探題に。
1433年、室町幕府とともに大内持世が少弐満貞を殺害。少弐氏と九州探題は大内氏によって有名無実のものとなった。
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