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2022年8月25日 (木)

宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習

アヘン戦争・アロー戦争で敗北を喫した大清帝国は、同治帝のとき洋務運動を起こした。しかし旧態依然の国体のまま、日清戦争で日本に敗れてはじめて近代化に踏み切りました。1898年、変法派は政権を握り戊戌の変法。しかし西太后のクーデタにあい戊戌の政変。光緒帝は幽閉され、国の行く末を思う若き志士も、官僚や宦官をはじめ旧態依然の国体に押しつぶされ処刑されました。そんな悲劇の主人公・梁文秀は梁啓超がモデル。

光緒帝 11代皇帝 17歳で親政。

公羊学派(康有為・梁啓超)を重用。変法運動で、日本の明治維新に学び立憲君主制を目指しましたが、洋務派によって100日で弾圧処刑されました。「わが朝の変法、ただ日本を鏡とすれば、すべてこれ十分である。」

 

洋務派(曽国藩・李鴻章・左宗棠・袁世凱) 西太后が支持

洋務運動 1.専制を支持

     2.産業・軍事の近代化(中体西用)

 

立憲派(康有為・梁啓超) 光緒帝が支持

変法運動 1.日本に学び立憲制を導入(憲法と国会を)

 

その後の中国。

洋務派を中心とする軍閥で中国全土が分裂。ソ連から社会主義ファシストが侵略する隙を与えてしまった。皇帝を奉ずるほうがよく治まるランドパワー国家には似つかわしい国家体制なのかもしれないと冷ややかな歴史評価を与えておこう。言論思想の自由がない似非民主主義と、嘘つきが経営する似非資本主義と、農村に富を再分配しない似非社会主義、民族浄化を推進し倫理観など微塵もない儒教幻想をチャンポンにした新皇帝による非立憲・専制主義国家が超大国として隣に君臨し、恩人の日本に核ミサイルを向け続けている。日本は間違った歴史観を植え付けられ、精神的苦痛を与えた損害賠償と称する多額の軍事費を中国に奉納し続けている。

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上部・下部消化管内視鏡検査

今日は、upper endoscopyとcolonoscopyを、かかりつけ医で受けてきました。未病のうちに病の芽を摘む年1回ペースのイベント。

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2022年8月21日 (日)

鎌倉時代の足利氏

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得宗家に娘を嫁入りさせていたのが安達氏

足利氏は、得宗家から嫁を迎えていたのが、宝治合戦以後は北条傍流からの嫁入りに変わっている。

斯波氏 管領

渋川氏 九州探題

この二家の発祥がよくわかった。

 

新田義重は平重盛に接近し、上野の所領を安堵した。

矢田義清は義重の猶子となり、上野国八幡荘矢田郷を獲得、上西門院に仕え八条院近臣となり以仁王の乱で源頼政とともに敗れ、源義仲と合流し、下野の所領を安堵するも、水島の戦いで平教経に敗死。その子は足利義兼の猶子となり、細川氏や仁木氏になった。

足利義兼は源頼朝を頼って下野の所領を安堵しようとした。頼朝の御紋葉になった。

足利義氏は、和田合戦や承久の乱で戦功。

足利泰氏が九条頼経を将軍に立てて執権になるというクーデタが発覚。名越方の家氏は廃嫡され、北条方の頼氏が家督相続。

足利家時自害事件。外戚の佐介時国の騒動に無実を証明するため。

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2022年8月19日 (金)

宝塚歌劇雑感22

振り返ってみると、朝月希和ちゃんが一番輝いていたのは、マスカレードホテル、瀬戸かずやさんとのデュエットダンスだったと思う。音くり寿ちゃんのソロがすばらしすぎて。

なんの事情か知らないけれど、ここ5年くらい観ているが、男役に女装させるなど、雪組の娘役の扱いが雑すぎるのではないかと思う。

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2022年8月18日 (木)

雪組退団者2022発表

HPをみて、ほんとうにびっくりしました。

千風 カレン 副組長 お疲れ様でした
朝月 希和  トップ娘役 お疲れ様でした
羽織 夕夏  ビックリ!
花束 ゆめ  ビックリ!

花束ゆめちゃんは応援していただけに残念。103期首席で、豪快なラテンダンスが目立つので、月組とか花組に組替えかもと考えてた。月組なら、羽音みかちゃんとコンビ組むとか、花組なら、ことの&ゆゆ上昇気流に加わるとか。退団公演「蒼穹の昴」に配役がないというのはなぜ?どうしたのだろうか?

羽織夕夏ちゃんも、アリスと愛すみれとローテでエトワール、歌がうまいし、ダンスでは希良々うみちゃんと100期同期うまうまコンビで並ぶことが多かっただけに、雪組娘役の戦力ダウンは否めない。

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2022年8月17日 (水)

承久の乱(続)

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も比企氏が滅亡して佳境に入ってきました。ファイナルに向けて残るビッグイベントは、実朝暗殺が誘因となった承久の乱です。

私は、この辺の歴史をかなり詳しく勉強してきましたが、盲点を述べておられましたので記しておきます。

サービスする朝廷

承久の乱後、朝廷は「雑訴の興行」と「人材の抜擢」を打ち出します。武力を放棄した朝廷は国衙領や王家領荘園の住人を守ってくれません。朝廷の税収は激減し、荘園数が減ることで受領になるための4位5位クラスの貴族たちからの裏献金も減りました。

一方、新補地頭が立荘した荘園は、雑訴(土地争い)には幕府は忙しいので関知しない、当事者同士で解決しろというのが基本姿勢。そこで王家領荘園や国衙領はその辺のサービスいいでっせと宣伝して、働き手を集めたようです。キャリア上級貴族は京都内裏の有職故実や和歌や楽器には詳しいけれど、細かな計算・記録やトークが苦手。ノンキャリア下級貴族の下衆なお仕事と扱われてきました。そこで、細かな計算・記録や感じ良いトークが得意なブレインを地方に派遣して、幕府が嫌がる訴訟をしっかり解決します、安心快適な生活を保障しますと言ってきたわけです。

ここら辺、東大文系2次試験に出題されそうですね。

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2022年8月16日 (火)

室町時代のお勉強

応仁・文明の乱後、守護交代には将軍の意向だけではダメで、被官人(重臣)の意向も必要となった。

1483年、山名政豊が旧領だった播磨に侵攻。赤松政則が敗走。

浦上則宗は有馬澄則を支持、在田氏と廣岡氏は赤松大河内氏を支持。

1488年、赤松政則が山名政豊を撃退。

1493年、赤松政則死去。再び播磨が分裂。

浦上氏・別所氏・小寺氏・龍野赤松氏・薬師寺氏ら重臣の意見が分裂。浦上則宗は幼い赤松義村の執政をおこない、アンチ派の別所則治を牽制。

 

鎌倉時代のお勉強は、元寇がクライマックスだから、在郷の菊池氏と元寇後の九州探題(平季基・千葉常胤・今川了俊・一色・渋川)まで詳しく勉強しておきたい。

室町時代のお勉強は、南北朝天皇家、足利氏、斯波氏の目線を中心に勉強すればわかりやすい。三管領(斯波・細川・畠山)のなかでも斯波氏が別格にやんごとないようだから。キーパーソンは斯波。

足利高経は足利尊氏とともに六波羅探題攻撃。建武新政で越前守護になる。1334年、護良親王失脚に伴い、楠木正成の代わりに佐々木目氏の乱を鎮圧。湊川の戦いで楠木正成と戦い、金ヶ崎の戦いで恒良親王を捕縛。藤島の戦いで脇屋義助に敗れたが、1341年、越前を平定。観応の擾乱で直義・直冬方につき、北朝皇族を置き去りにさせて義詮を京から追放した。1361年、細川清氏失脚後に斯波義将を執事に、斯波義種を侍所別当にして一門で幕政を掌握。南朝方の大内弘世と山名時氏を幕府に帰順させ、義詮の三条坊門邸建設が遅れた赤松則祐の所領を奪い、五条大橋修理が遅れた京極道誉の代行をしてメンツをつぶした。

陸奥将軍府(義良親王・北畠顕家・北畠親房)は陸奥の武士に守護並みの権限を与えた。奥州総大将・斯波家長は箱根竹之下の戦い後、鎌倉の足利義詮の関東執事につく。西上する北畠顕家に敗れ、東上する北畠顕家に敗死。

*室町幕府は北畠顕家のような人物を出したくないために、奥州管領・奥州探題(大崎氏)・羽州探題(最上氏)や九州探題(一色氏)に大きな権限を与えなかった!

1366年、貞治の変で足利高経失脚、斯波義将は執事罷免。高経死後、義将は赦免され越中守護になった。1371年、直義派の桃井直常を破り越中平定。義詮正室の渋川幸子に接近し、細川頼之と対立した

1379年、康暦の政変で細川頼之を追放して、斯波義将が管領に就任。畠山氏が越中守護、斯波氏は越前守護に交換。斯波義種は加賀守護になる。義満は奉公衆を設置し管領の権限を軽減していった。

1387年、美濃・尾張・伊勢守護の土岐頼康死去。

1388年、美濃・伊勢守護に土岐康行を、尾張守護に土岐満貞を任じた。土岐詮直は土岐満貞を破り、満貞は京へ敗走。

1389年、土岐康行の乱。土岐頼忠・頼益に土岐康行を討たせ、土岐頼忠が美濃守護、土岐満貞が尾張守護、仁木満長が伊勢守護になった。

但馬・伯耆・備後・隠岐の守護だった山名時義が死去。山名氏之が伯耆・隠岐守護、山名時煕は但馬守護、山名義煕が備後守護、山名満幸は病弱な義幸から受け継いだ出雲・丹後守護のまま加増なしだった。

1390年、明徳の乱。出雲・丹後守護の山名満幸と、丹波守護の山名氏清が、山名氏之、山名時煕を破る。山名満幸が隠岐・伯耆・出雲・丹後守護、山名氏清が但馬・丹波守護になった。後円融仙洞領を横領した山名満幸と、義満を門前払いした山名氏清が義満を攻撃するも内野の戦いで敗死。山名氏之が伯耆守護、山名時煕が但馬守護、山名氏家が因幡守護となった。

1391年、足利義満が細川頼之の子・頼元を管領にした。

1392年、頼之死去。斯波義将は管領に復帰。

1399年、義満は九州探題・今川了俊を筑前から駿河・遠江守護に転封。渋川満頼を九州探題に任じた。大内義弘に渋川満頼加勢を命じ、少弐貞頼・菊池武朝を討つ。今川了俊の仲介で鎌倉公方・足利満兼を立てて堺で挙兵。大内義弘敗死。この応永の乱で斯波義将は尾張・遠江守護を兼任。山名時煕は但馬・備後・安芸・石見守護に加増、1412年に因幡守護も加増。

1408年、足利義持を将軍に推挙、太上天皇号を辞退させ、日明貿易は継続させた

1410年、義将死去で、足利義持は日明貿易を廃止した

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*細川頼之vs斯波義将

細川頼之 後光厳支持

斯波義将 崇光支持

 

1433年、山名時煕、硫黄密輸で失脚、家督を山名持豊に譲る。

1435年、山名時煕死去。

1437年、山名持煕が挙兵し敗死。山名持豊は、但馬・備後・安芸・伊賀守護に任ぜられた。

1441年、嘉吉の変で山名持豊が活躍。

山名持豊 但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護

山名教清 石見・美作守護

山名教之 伯耆・備前守護

 

斯波義重は、栄仁親王に有栖川別邸を献上し、管領・越前・尾張・遠江守護になり、清洲城を築城。

斯波義敦は、甲斐将久とともに日朝外交(宋希璟)を担当。畠山満家が訴訟調停の多い管領を辞めたがっており、足利義教が義敦に管領を任じた。重臣(甲斐・織田・朝倉)の反対も義教には届かず。

*義教の宿老(最高権力機関) 畠山満家、山名時照、満済

 山名時煕は義教に賛同し、畠山満家が義教に文句をつける。

*関東使対面問題

篠川公方・足利満直の構想では、義教と持氏を争わせたあと自ら将軍になりたがっていた。満直が義教に接近。義敦と親しい関東管領・上杉憲実が二階堂盛秀を義教に派遣。その対面のやり方で義敦ひとりが義教らに反対。九州で大内盛見戦士の報に義敦が無条件和睦を成功させる。

 

斯波氏歴代当主が早逝したため、ついに養子をとることになった。

1438年、永享の乱(~1439年)

鎌倉公方 足利持氏 

関東管領 山内上杉憲実 ← 足利義教、斯波義健(越前尾張遠江守護)、足利満直(篠川公方)、今川範忠(駿河守護)

1440年、結城合戦

結城氏朝・持朝が持氏の遺児を奉じて反乱。負けて永寿王丸(のちの成氏)のみ生きる。

1455年、享徳の乱(~1483年)

鎌倉公方 足利成氏 ← 斯波義廉、畠山義就(反上杉派)

関東管領 山内上杉憲忠 ← 足利義政、細川勝元

1458年、斯波持種・義敏と守護代・甲斐常治が戦闘。

堀越公方 足利政知

1459年、金ヶ崎城を攻め甲斐常治に敗北、落ち武者として大内教弘のもとに逃亡。足利義政は、斯波義廉に斯波家家督を継がせた。

1465年、斯波義敏が、伊勢貞親と細川勝元のおかげで赦免され上洛。京の戦乱を恐れた近衛政家が陽明文庫を岩倉家に遷した。一方、九条家の藤河文庫は焼失してしまっている。

1466年、関東探題・渋川義鏡が「関東執事(関東探題)」を自称し、扇谷上杉氏・山内璟上杉氏と対立し失脚。

渋川義鏡には近衛軍がなく、斯波義廉に兵力を頼っていた。

堀河公方ー渋川義鏡ー斯波義廉ラインから、奥州探題・大崎氏ー斯波義敏ラインに方針転換して、義敏に斯波家家督を継がせた。

義廉は山名宗全と姻戚関係を結ぶ。文正の政変で、伊勢貞親と季璟真蘂が追放され、義敏が失脚し、義廉が管領に就任。

1467年、上御霊社の戦い。畠山義就が畠山政長と戦闘開始。畠山政長は後花園上皇の院宣を受けた。朝倉孝景が斯波義種邸を攻撃。

斯波義敏(斯波持種の子) 東軍

斯波義廉(渋川義鏡の子) 西軍

西軍についた朝倉孝景が越前守護を所望。伊勢貞親と浦上則宗が安堵の約束をして朝倉孝景が、1471年、東軍に寝返った。

一条大宮(上京)の戦い

東軍 細川勝元 畠山政長 斯波義敏

西軍 山名宗全 畠山義就 斯波義廉

足利義政は東軍に付き、朝倉孝景の首と斯波義廉の首を要求。斯波義廉邸が徹底的に攻撃された。

相国寺の戦い

大内政弘が西軍に付いたが、畠山政長の総力戦もあって、形勢を東西互角まで戻した。

1468年、斯波義敏が越前制圧し、朝倉孝景が越前に下向。足利義政は、管領を斯波義廉から細川勝元に挿げ替えた。足利義視と足利成氏が和睦。

1471年、朝倉孝景が東軍に寝返り、東軍の兵糧が確保された。北陸から兵站が東軍に向けて豊富に輸送された。さらに西軍を率いた大内政弘が兵糧ルート(尼崎~兵庫の摂津)確保に兵をそがねばならなかった。

1471年、鯖江・新庄の戦い

朝倉孝景は甲斐八郎を破り越前を平定。甲斐氏は加賀に逃亡。

1472年、細川勝元と山名宗全が和睦。

1474年、細川政元と山名政豊が和睦。

1475年、甲斐八郎の裏切りで斯波義廉は越前と遠江を失った。甲斐八郎は、足利義尚と斯波義良の仲裁で朝倉孝景と停戦し、遠江守護代に就いた。

1477年、斯波義廉&織田敏広(織田伊勢守)を義政は「尾張凶徒」と名指しで攻撃。斯波義敏&織田敏定(織田大和守)が勝った。義敏の子らは尾張を織田に奪われ、遠江で甲斐氏、今川氏に敗れ没落した。山名氏は、但馬・因幡守護のみになってしまった。

 

*奉公衆と奉行人

奉公衆 軍事を担当する武官

奉行人 政務を担当する文官

足利義教は合議制をやめ、将軍専制を目指し、評定衆や引付頭人を将軍直属機関として設けた。義教自ら訴訟判決に加わる御前沙汰を主宰し、奉行人のなかから御前沙汰衆を選抜した。

足利義政は奉行人を配下に置き、足利義尚は奉公衆を配下に置いた。1487年、悪政の近江守護・六角高頼を義尚自ら征伐し、多くの奉行人を自分の配下に就けることに成功。陣中で酒池肉林に溺れ病気に臥せ1489年死去。同じく義政も脳梗塞で倒れ1490年死去。

将軍両立時代を終え、新たな政界再編が起こっていた。日野富子が義材を見限って香厳院清晃(のちの義澄)を後継者と定め、小川御所を義澄に譲った。義視・義材父子は、河原者を使って小川御所を破壊し、怒った日野富子は細川政元に接近した。

足利義材 畠山政長

日野富子 細川政元 畠山義就・基家 赤松政則 朝倉貞景

1493年、明応の政変 ←戦国時代の始まり

足利義材は、畠山政長、赤松政則、斯波義寛を率いて、畠山基家を攻略。

細川政元は、足利義澄を奉じて、大内義興と赤松政則を率いて足利義材を捕縛した。男色激しかった細川政元に後継者がなく、澄之と澄元を猶子とした。

1500年、後土御門天皇が窮乏化し葬儀できず。後柏原天皇は21年間即位できず。

1506年、澄元が阿波から三好之長を率いて入京。

1507年、澄之が香西元長、薬師寺長忠とともに細川政元を謀殺した。澄之は細川高国に討伐され、澄元が家督相続。

足利義材は越中に脱獄し、細川政元追討命令を守護に向けて乱発した。1508年、足利義材は義尹と改名し、大内義興と細川高国に擁されて入京、義澄を放逐して将軍に返り咲いた。澄之と澄元を放逐し細川高国が家督相続。1513年、義尹は義稙と改名。

1521年、細川高国は義稙を廃して、義澄の子・義晴を将軍に擁立した。

1526年、後奈良天皇。9年後即位、宸翰を販売。

1527年、細川晴元(澄元の子)が細川高国を破り足利義晴を追放し、堺公方・足利義維(義稙の子)を擁立。

1532年、細川晴元が足利義維と不和になり、足利義晴を再擁立。

1549年、三好長慶が細川晴元と足利義輝を近江へ追放。

1558年、三好長慶と足利義輝が和睦。

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2022年8月13日 (土)

「ドラえもん のび太の宇宙小戦争」をみて

小人のピリカ星人と心通う物語でした。ロシア・ウクライナ戦争が元ネタになっている感じがしました。スネ夫が3度くらいくじけて、しずかが励ますシーンが印象に残りました。しずかの入浴シーンは毎度定番ですね。

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2022年8月12日 (金)

徳政令

鎌倉時代に出された御成敗式目だが、ほとんどの人が後年追加された法令(式目)の存在を知らなかった。寺社と領地を争った地頭御家人ですら人づてに聞いて回るような有様だった。調停役の六波羅探題もそこまでの式目を知らず、双方が主張する式目をみて、眺めるだけであった。原告、被告自身が法令を探してきて提示しなければならないというのが鎌倉時代の訴訟調停の実態であった。

1.幕府の裁判は徹底して当事者主義を原則とし、証拠も自ら提出したものがすべてであった。

2.御家人と非御家人の区別は甚だ曖昧でしか幕府は把握していなかった。自ら御家人リストに先祖の名が書かれてある文書を提出して証明して見せなければならなかった。

*手紙というのは送り手ではなく受け手が保管するもの。送り手の幕府には写しすらほとんど残っていなかった。法令は手紙から推理するしかないが、誤植や改ざんが多いのだ。

法に上下なし。舌でも腕力でも、実力で相手を屈服させるのみ。

1284年、幕府追加法

1.引付頭人責任制

 審議漏達の罪は頭人の責任で処罰する。

2.所領興行法

 将軍から引付頭人に管轄を移す。古寺社修理を認め新造を禁じる。寺社領を回復し年貢用途をチェックし別当・神主の私用を禁じる。

 所領を知行する資格のない「非器の人(甲乙人)」から、所領を正当に知行できる「器量の人」に返す。

3.名主職事条々

 異国警固番役に従事した者の名主職を安堵し大量の新御家人を生んだ。

4.関東御領の回復

 非御家人が買った関東御領を御家人に取り戻した。

 

1285年、弘安8年法

亀山上皇が制定した公家法。「理屈」から「事実」へ。

律令制を鑑みて理屈をこねて、現実との格差があれば、新たな法で穴埋めするやり方を捨て、現実に即したやり方に変えた。公家が初めて庶民の生活に即した慣習法に目を向けた画期的な転換点であった。「旧例」「田舎の習」

神の物は神へ、仏の物は仏へ、民の物は民へ返すという大きな時代の流行がバックに存在した。これが徳政令の底に流れる「撫民」の精神となった。僧侶や神主の私物化を固く禁じた。

 

1297年、永仁の徳政令

ハレー彗星がきっかけとなって発令された。

1.所領の売り手が御家人であることに限って以下の法令を適用する。

御家人が買った所領は20年以上経過したものについては、売り手の取り戻しを認めない。

非御家人が買った所領は、売り手が取り戻せる。

2.越訴は禁じる。一審のみとする。

3.御家人の所領の売買および質入れを禁じる。

4.債権者からの債権取り立ての訴訟は一切受理しない。

「貸した金は自力で取り返せ。幕府は一切関知しない。」

 

訴訟ケース1

売り手A 田a+b → 買い手B

売り手A ← 金a 買い手B

徳政令によって金bは未払いなので売り手に田bを返す。

売り手A ← 金a+田b 買い手B

売り手A「金bをまだ受け取ってないので払え。」

つまり、「売り手A ← 金a+b+田b 買い手B」

買い手B「田bを返したのだから、金bは払う必要はない。」

幕府は買い手Bに軍配を上げた。売り手Aの二重取りを許さず。

 

訴訟ケース2

売り手A 人a → 買い手B

売り手A ← 金a 買い手B

幕府の裁定は、

人aが抵当(担保)なら売り手Aに返せ。

人aが入質なら個々の借用状の契約内容によって判断を下す。

 

訴訟ケース3

売り手A 田a → 買い手B

売り手A ← 米a、酒a 買い手B

幕府の裁定は、

買い手Bは田aを返す必要はない。徳政令は動産には適用しない。

 

1298年、徳政令の改正

御家人の所領の売買と質入れは認める。(建前を引っ込めて矛盾をなくす)

 

*馬借ネットワーク(運送ルート)

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1428年9/18、正長元年の徳政一揆

近江から醍醐に拡大。醍醐寺の満済が、

1.細川持元に醍醐寺警備を依頼

2.管領・畠山満家に状況報告

3.足利義教の許可を得て、侍所頭人・赤松満祐を山科に派遣

 *馬借や車借は当時のブラック企業であった。

11/2 近江の馬借が京に乱入。赤松満祐と対峙。

11/2 奈良・山城の馬借が奈良に侵入。興福寺僧兵と対峙。

11/6 播磨で徳政一揆。

11/17 赤松満祐、東寺に播磨荘園に守護不入権を犯して踏み込むことを通達。

京に徳政禁制を通達。

11/25 興福寺の徳政令

 伊勢で南朝・北畠満雅が挙兵する動きがあり、興福寺は板挟みを恐れた。

 1.債務の1/3の支払いでよい

 2.5年以上の債務は破棄

 3.年貢の未払い分は徳政の対象ではない

 

*中世の金融業者の本職は、荘園代官請負であった。

延暦寺下級僧侶公家雑役下人が担当した。

 12~13世紀 借上

 13世紀以降 土倉

延暦寺など金融業者は、承久の乱で、西遷御家人と新補地頭が大量に生まれ、好景気を迎えた。土地勘がない新補地頭に、代官(年貢徴収)代行しまっせと持ち掛けた。荘園年貢米保管のための耐火性にすぐれた土蔵を建造した。南北朝時代、一時的に不景気に陥ったが、すぐに景気回復した。

農民や公家・武家は秋10月にならないと収入がなく(年俸制)、5月ころに生活苦になったため、土倉からの貸付に依存していた。

13世紀末以降、土倉沙汰人(蔵預)は、地方に進出して合力銭(合銭)の運用を始めた。荘園領主相手に大きな取引をする都会の鞍預の進出で、地方の中小荘園代官がつぶれていったため。蔵預は荘園代官業をやめ、金融業に専念した。蔵預に運用資金を貸す「祠堂銭金融」が登場。祠堂銭金融は、民間銀行に金を貸す日本銀行と同じ存在であった。

 

足利義満

1.山名氏「六分の一殿」の勢力削減

2.南北朝合一。安心して商売ができるようになった。

3.土倉酒屋役。土倉と酒屋から幕府が税を徴収した。足利荘園からの税守護からの税(守護役)土倉酒屋役遣明船バブルが加わった。守護は京都で暮らすことが多くなったため、地方政治がおろそかになった。これがのちに下剋上の下地となった。

4.延暦寺雌伏。

 

足利義持

1.日明貿易中止で貿易バブルはじける。土倉酒屋役が幕府収入の頼みの綱になった。

2.祭祀儀礼の励行(五穀豊穣・戦勝祈願)

3.大飢饉

4.応永の外寇

5.日野栄子の浪費癖 年間20億円

6.1425年以降、民事訴訟は幕府が担当することに決めた。

 

足利義教

1.「諸人借物事」の制定。万里小路時房が起草。飯尾為種が中継伝達役となる。雑訴沙汰が担当した。

*奉公衆と奉行人

奉公衆 軍事を担当する武官

奉行人 政務を担当する文官

足利義教は合議制をやめ、将軍専制を目指し、評定衆や引付頭人を将軍直属機関として設けた。義教自ら訴訟判決に加わる御前沙汰を主宰し、奉行人のなかから御前沙汰衆を選抜した。

足利義政は奉行人を配下に置き、足利義尚は奉公衆を配下に置いた。1487年、悪政の近江守護・六角高頼を義尚自ら征伐し、多くの奉行人を自分の配下に就けることに成功。陣中で酒池肉林に溺れ病気に臥せ死去。同じく義政も脳梗塞で倒れ死去。

 

1441年8/28、嘉吉元年の徳政一揆

数万人が近江から京都へ伝播。馬借ネットワークが京都の情報を地方へ伝達した。侍所の兵は赤松満祐征討の為、出払っていた。侍所・京極持清が対峙。管領・細川持之は幕府軍編成に失敗。守護たちはみんな借金していたから一揆の様子を見守っていた。

9/10 室町幕府徳政令

1.永代売却して20年未満の土地は売り手に返す

2.寺社に寄進した土地、祠堂銭は返さない。

のち土倉や延暦寺が大打撃を受けるので猛反発。永代売買地は徳政令から除外された。

「徳政の大法」として後世まで、影響を及ぼし続けた。

 

1445年、分一徳政令

債務者に対し、負債額の一割を幕府に納める。奉行人はただひとりだけで、飯尾為数

1446年、追加法

幕府に債権の二割を納めれば、債権を保護してやる。債務破棄か債権保護かは早い者勝ちとする。

*幕府の主たる財源だった土倉酒屋役の収入が激減したので、この徳政令が編み出された。

*明は遣明船を制限したので、遣明船バブルは期待できなかった。

*犯罪人の住居を民間に売りに出して銭を稼ごうとまでしていた。

 

1455年、分一徳政改正令

1.分一銭は二割に引き上げる。

2.窓口は飯尾為数一人から20人に増員する。

3.すべて伊勢貞親の花押承認を要する。

義政の乳母父・伊勢貞親は、応仁の乱の最大の戦犯!!

 

1457年、土倉再建策、諸商売役

1.合銭(合力銭)に徳政を適用、返済無用となった。

2.諸商売役。土倉以外の商人に課税しまくった。

 

旧家臣団が京に潜伏、牢人となった。守護不入権をもつ京都近郊荘園に棲みつき、荘園住人たちと博打や飲酒に興じた。

1462年、寛正三年の徳政一揆

牢人が主導で、土倉と荘園の蔵を襲撃した。

1466年、文正元年の徳政令

応仁の乱直前で京に集まった兵が武具調達のために狼藉を働いた。罰すれば兵力低下になるので、土倉襲撃を承認した。荘園住人に対し、出陣すれば債務破棄を認めた。

*坂非人の徳政令

土葬が禁じられていた京中。遺体を車に積んで運んで清水寺坂に捨てていた坂非人が、その車をもらって販売して儲けていた。寺社が葬儀を担当するようになって坂非人は職を奪われたとして、寺社相手に徳政を要求。結局、勝訴して礼銭の形で寺社から銭を獲ることができた。

 

徳政令からの抜け道

誘取売券 永代売買地は徳政令の適用外。土地を貸したのではなく、売ったことにする契約書。

徳政指置状 徳政断念の礼として、最初から多めに金を払っておく証書。

徳政落居状 徳政の際、新たに金銭を払うことで当初の契約を再び確定する証書。

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2022年8月 9日 (火)

元寇後の九州武士の動向

元寇を戦ったのは主に九州の武士団でしたよね。恩賞がないことに不満で鎌倉幕府が倒れたと日本史教科書に記述があるのに、具体的にもっと詳しく載せないのはなぜだろう?ぜひ記載すべきだ。治天の君が加持祈祷し、男たちが弓矢と糞尿弾で戦っているあいだ、せっせと「てつはう」の原料、硫黄を元に輸出していたのが女院たちだった。

元寇後の歴史舞台は関東でもなく京都でもなく九州だった。

九州の武士団は、倭国時代からの古豪・海賊水軍、源平合戦の平氏落武者、鎌倉幕府から平氏落武者狩りで恩賞求めて派遣された東国御家人たちで成っている。非御家人というより誰かさんを中継して鎌倉幕府とは弱い御家人関係で結びついている武士が多かった。だから幕府のほうでも具体的に誰がどの程度元寇で戦功を挙げたのか把握できていなかったというのが正しかろう。「そんな奴いたっけ?ちょっと行って調べてこい。」

御恩奉行の安達泰盛が霜月騒動で殺害されたことは大きかった。殴り合って仲良くなった北条と名越の兄ちゃんがそのあと、のこのこ大宰府にやってきたのもまずかった。「ほら、やっぞ。」と、空腹で死にそうになっている武士たちに来るべき元寇に備え再動員命令。これは効いたね。そこへ後醍醐の親王が漂着した。あとは倒幕しかないっしょ。「尊氏、がんばって京へもどれ。」

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秀吉のif

もし秀吉が朝鮮ではなく台湾に出兵していれば、

明を征服していたかもしれない。

台湾で、土民の猛烈な抵抗と熱帯風土病で兵力が大きくそがれ、

ある意味、国内平和が早期に実現できたかもしれない。

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2022年8月 6日 (土)

国衆(国人)

国衆(国人)

1 郡規模の領主で、領民から「殿」と呼ばれる。

2 平時は、大名の介入を受けない

3 戦時は、大名に兵を提供する

4 大名と起請文を交換し、大名に人質を提出して、契約関係を結ぶ

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国衆から戦国大名になったのは4氏族のみ。私が好きな真田昌幸は大名直前で秀吉につぶされた。

 徳川家康

 毛利元就

 長宗我部元親

 龍造寺隆信

 

室町時代から、郷村が年貢納入の最小単位であった。国人は、本拠地以外の郷村を飛び地的に支配していた。享徳の乱、応仁の乱を経ると、守護は京を捨て地方の古巣に戻り、国人は他の国人に飛び地を奪われ、領地がまとまり国衆となる。他国から国衆を武力侵略してくるものが出現し、これを大名(戦国大名)と称する。

大名の立場でものを考えよう。国人をみんな家臣にしてしまうと、平時に飯を食わせるのに金がかかりすぎる。だから国人の自治を認めて平時は泳がせておいて(生意気な奴は道端でどつく)、戦時に兵を供出させればとても経済的、コスパがいい!裏切った国人には人質の処刑が待っている。実際にはそこまでせず、恨まれて敵に回られたくないし味方に付いてもらいたいので、来るもの拒まず、棟梁の首を挿げ替える程度で済んだ。自分の鎧兜刀を準備できない村人は、鎧兜刀をレンタルして足軽歩兵を形成した。当時は博打が流行っており、農村から奪うはずの物品や、敵から奪うはずの鎧兜を担保に借金していた足軽は、糞尿垂れ流しの全裸~半裸で奮戦したのである。さきの戦争でも、戦闘機搭乗員は機内に糞尿を垂れ流していた!敗れた落人は傍観見物していた村人に身ぐるみはがされて殺された。

室町幕府から追討・治罰を受けた少弐氏は、幕府の支援を受けた大内氏によって守護大名から転落した。しかし、少弐氏は守護職を剥奪されても、国人を配下に入れて、領国化を維持し続けた。室町幕府ー守護体制といった単純な概念では説明できない社会現象が起きており、守護大名は領国全体を均質に支配・掌握できておらず、領国内でも精粗があって、国人の領内への浸透は困難であった。

筑前の渋川氏、少弐氏、板倉氏、吉見氏、小早川氏は、(ときに対馬の宗氏を配下に据えながら)熱心に日朝貿易をおこない、薩摩の島津氏は熱心に琉球貿易をおこなった。大内氏、細川氏、大友氏、島津氏は日明勘合貿易にも熱心であった。

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2022年8月 4日 (木)

鎌倉時代のお勉強

日本史を学ぶ上で考えなくてはならないのは、底辺の土地は平坦な更地ではなく、旱魃、長雨水害、飢饉、疫病が連続した凸凹の荒地だということ。大衆群集心理を突き動かすアクセルが文化なら、大衆を死に至らしめるブレーキが天災と人災(戦争)だ。歴史教科書にまず詳説すべき事実だろう。

世界史は宗教(文化のひとつ)と人災が大きすぎて、ほかはあまり問題にならない。

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たしかに室町殿のように酒浸りで民政を顧みない不届き者もいたが、鎌倉殿のような為政者は黙って指をくわえていただけでなく、富者の貸し渋りを戒め足りない分は自ら補填し、餓死するくらいなら飢饉奴隷という仕事(寺社や内裏や橋のインフラ建造業)もあるよとお知らせしたり、大衆も地方よりは食物と仕事にありつける都市に毎年のように大量に流入した。それが烏帽子をかぶらず外をぶらつく異形の悪党文化になり、富者の土倉を破壊する土一揆文化になり、デフォルトを要求する徳政一揆文化になり、戦国の足軽文化になっていった。元寇で発達した戦闘技術は楠木正成など悪党のゲリラ戦術につながった。日本人奴隷はやがて倭寇とポルトガル商人を通じて世界じゅうに高値で売買されるようになった。秀吉と家康が禁止するまで奴隷輸出がつづいた。

 

源頼朝の構想

鎌倉殿の継承 1頼朝 2頼家 3公暁(やんごとなき源為朝の孫娘・辻殿と頼家のあいだの嫡男)

 *実朝は鶴岡八幡宮別当にして、頼家に王法、実朝に仏法を担わせたかった。

京との連携 大姫、乙姫を後鳥羽に入内させる

執権の継承 1北条義時 2北条(名越)朝時(比企氏姫の前の嫡男・北条と比企の仲介役)

*執権後継を巡り、北条泰時・側室末裔と名越朝時・正室末裔の争いがつづく。

 

北条時政の構想 

鎌倉殿の継承 1頼朝 2実朝

執権の継承 1江間義時 2北条政範(やんごとなき池禅尼の姪・牧の方の嫡男)

 

比企能員は、男子がいなかった比企掃部允の養子!

比企尼の娘(丹後内侍)の夫に二人いて、

 1人目 惟宗広言or忠康 その子が惟宗忠久(島津忠久)!

 2人目 安達盛長 その子が安達景盛

 島津忠久は、比企能員の軍に加わり、近衛家島津荘の下司職に就任した。

 

北条義時

姫の前(比企朝宗娘)と結婚し、名越朝時、極楽寺重時を産むも、比企の乱で離婚。

姫の前は源具親と再婚し、源輔通、源輔時を産んだ。

 

源頼家の構想

鎌倉殿の継承 2頼家 3一幡

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和田義盛が上総介任官を要求したが、後鳥羽上皇の北面の武士である藤原秀康が着任した。

1213年2月 泉親平の乱

信濃僧侶・安念が千葉成胤に謀反を誘ったため、千葉成胤が安念を義時に差し出した。信濃御家人・泉親平の名が挙がり、比企氏残党と思われる武士を次々に逮捕、肝心の泉親平は行方不明で追討せず。無名の御家人ごときに謀反の意志があったかは疑わしい。

1213年3月8日、逮捕者のなかに、和田義盛の子(義直・義重)と甥(胤長)がいた。和田義盛が実朝に対面し、義直と義重が赦免。

1213年3月9日、和田義盛は御所の大江広元と対面し、胤長の赦免を要求したが、重罪人という理由で拒否された。義時は、家人だった金窪行親と安藤忠家に命じ、縄で胤長を縛ったまま、二階堂行村に引き渡した。

1213年3月25日、犯罪人となった胤長の鎌倉屋敷地を、和田義盛が拝領願い。

1213年4月2日、慣例法に反し、義時が胤長所領を横領した。

1213年4月15日、和田朝盛が出奔したが、謀反を疑われたくない義直が連れ戻した。

1213年4月24日、和田義盛が、帰依していた伊勢の僧侶を(戦勝祈願のため?)追放した。

1213年5月2日、和田合戦。和田義盛が、150騎で挙兵。八田知重と三浦義村が義時に通報。和田義盛らは実朝を確保すべく御所を攻撃。和田方の朝比奈義秀が泰時を破り、御所に放火。実朝・義時・広元が法華堂に避難。義時邸が攻撃されたが、家人が防戦。実朝は酒で酔っており、御所攻撃は義時の想定外だった。三浦義村が義時方に寝返って、義盛が苦戦。

1213年5月3日、武蔵の横山時兼、波多野盛通、横山知宗、東相模の土屋義清が義盛方として参戦。数時間後、西相模の曾我・中村・二宮・河村が鎌倉入りしたが、実朝の命により義時方に付いた。由比ガ浜と若宮大路で激戦となったが、土屋義清、和田義盛、義直、義重が敗死。和田常盛、朝盛、横山時兼が敗走自害。

1213年5月5日、義時が義盛の侍所別当に着任、政所別当と兼任した。

1213年5月6日、金窪行親が侍所所司(次官)に着任。これは梶原景時が就いていた官職。

1213年5月9日、流罪の和田胤長が斬首。

1215年、幽閉中の北条時政が伊豆で死去。

1216年、実朝が権中納言に昇官。後鳥羽の院近臣であった大内惟信、源頼茂、源仲業を政所別当に加え増員した。

1217年、義時が右京権大夫に着任。在京義務はこの時期消失していた。

政子・実朝は公暁を実朝の猶子にして、園城寺で修業させた後、鶴岡八幡宮別当にする予定であった。

1218年、政子、時房が熊野詣、藤原兼子と対面し、頼仁親王を次期将軍として迎えることを約した。実朝が権大納言、左近衛大将、内大臣、右大臣と次々に昇官。政子が従三位、従二位と昇官。

1219年1月27日、鶴岡八幡宮にて右大臣拝賀を終えた実朝を、公暁が殺害。実朝側近の源仲章が巻き添えを食らい殺害された。三浦義村は公暁を見捨てた。

1219年2月11日、阿野時元の乱。駿河で起こったが金窪行親が鎮圧。

 

源実朝の構想

鎌倉殿の継承 3実朝 4後鳥羽天皇の頼仁親王

 *頼仁親王を鎌倉殿にして、実朝は大殿として君臨する予定であった。

 

後鳥羽の構想

治天の君 後鳥羽

天皇→上皇 順徳

皇太子→天皇 懐成親王(仲恭)

 *八条院領 鳥羽上皇→八条院→春華門院→順徳天皇

 *長講堂領 後白河上皇→宣陽門院→雅成親王(順徳の弟)

 

白拍子の伊賀局亀菊がもつ領家領を広くするために、長江荘と倉橋荘の地頭(足利義時!)を罷免したいと後鳥羽が幕府に申し出たところ、幕府は怒り、鎌倉殿となっていた政子は北条時房1000騎を上洛させ後鳥羽を威嚇した。

1219年7月13日、大内守護・院近臣の源頼茂が鎌倉将軍に就こうとして反乱。後鳥羽が鎮圧、大内裏が焼失。

1219年7月19日、三寅(のちの九条頼経)が4代将軍として鎌倉入り。

1220年、戦火で焼失した大内裏の修理を、後鳥羽が一国平均役で賦課。源義時が拒否。

1220年4月14日、公暁に加担した嫌疑で禅暁殺害。禅暁の母を妻にしていた三浦胤義の助命工作も実らず。

1221年4月20日、順徳天皇が懐成親王に譲位、仲恭天皇即位。

1221年4月28日、後鳥羽の高陽院に近畿一円の武士1000騎が集結。

1221年5月14日、大江親広が後鳥羽方につく。幕府方の西園寺公経・実氏を監禁。

1221年5月15日、後鳥羽が義時追討の院宣を全国の守護地頭に発した。大内惟信と三浦胤義ら800騎が京都守護の伊賀光季85騎を討つ。

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後鳥羽方 

 順徳 仲恭

 大江親広 藤原秀康(西面の武士) 三浦胤義

義時方

 土御門 西園寺公教 近衛家実(順徳の摂政)

 大江広元 伊賀の方&伊賀光季(京都守護) 三浦義村

 

*順徳の男子たち

 佐渡配流前に5人 

尊覚法親王、覚恵法親王、懐成親王(仲恭天皇)、彦成王、忠成王(岩倉宮)

 佐渡配流後に2人 

善統親王(四辻宮)、成島王(千歳宮)

 

後鳥羽上皇ら京方の荘園を没収し、御家人を新たに地頭に任じた。1223年、新補率法。

1.田1段につき5升は新補地頭のもの。加徴米。

2.田畑11町のうち1町は年貢納入免除。免田。

3.山野河海の産物は領家と折半(1/2)。

 

1224年、北条義時が脚気で急死。六波羅探題の北条泰時が政子に鎌倉に呼ばれ、執権に就任した。北条時房を連署に任じた。

伊賀氏事件。政子は義時の正妻・伊賀の方を無視して事を運んだことに伊賀の方が不満。娘婿の一条実雅を将軍に据え、実子の幼い北条政村を執権に据え、実兄の伊賀光宗に後見させるという計画が露見。政子は、伊賀一族が屋敷に出入りしていた三浦義村と密談し、幕府方につけた。伊賀の方を伊豆に幽閉、光宗を信濃へ配流、一条実雅を越前に配流。延暦寺僧・京方院近臣だった尊長が1227年京にて捕縛。刑死前の拷問で、伊賀の方が義時を毒殺したと供述した。

 

執権 北条泰時

矢部禅尼(三浦義村娘)と結婚、北条時氏を産み、比企の乱後に離婚。

佐原盛連と再婚し、蘆名光盛、三浦盛時(宝治合戦後に佐原姓から三浦姓へ)、新宮時連(のち蘆名光盛の猶子となる)を産む。

 

評定衆

御成敗式目

四条天皇早逝後、土御門の邦仁王と順徳の忠成王(仲恭の弟)が後継候補となる。順徳の佐渡流刑が許されることを嫌い、邦仁王を押し付けて後嵯峨天皇即位。

1226年、出挙の利息抑制策

 出挙米の利子 元本の2倍以下

 挙銭の利子 元本以下

1231年、寛喜の飢饉

 飢饉奴隷を許可した。

 出挙米を貸し付けて、返済リスクは泰時が背負った。(出挙米の貸し渋りを禁じた)

 

北条時氏

泰時とともに承久の乱に参戦。

松下禅尼(安達景盛娘)と結婚し、北条経時、北条時頼を産んだ。外戚が三浦氏から安達氏に変わった。

六波羅探題に任ずるも糖尿病で早逝。

 

執権 北条経時

将軍 九条頼経

天皇 後嵯峨

反執権派:九条頼経、三浦康村、名越光時

1244年、飢饉難民が山野河海を利用しているのを荘園領主が締め出すことを禁じた。

九条頼経を解任。

 

執権 北条時頼

関東申次(幕府と朝廷の仲介役) 九条道家

大殿 九条頼経

将軍 九条頼嗣

関白 九条実経

治天 後嵯峨院政(朝幕協調)

天皇 後深草

関東申次を西園寺実氏に替え、反執権派の力を削いだ。

宮騒動で名越光時を配流。

九条頼経を京へ追放、反対派を粛清

宝治合戦で三浦泰村・千葉秀胤を討つ

引付衆

得宗

 

執権 北条長時

1259年、正嘉の飢饉

 

執権 北条政村

1264年、田麦に年貢をかけることを禁じた。

 

執権 北条時宗

二月騒動で名越時章・教時、異母兄の北条時輔を討伐

モンゴルは、「北は寒すぎて嫌や、南は暑すぎて嫌や。」と言って横に長い帝国を築いた!

南宋から日本へ 

 銅銭(南宋で米:銅銭=1:1、日本で米:銅銭=3:1)

 陶磁器

日本から南宋へ

 硫黄(軍事物資・火薬の原料)

 材木(スギ・ヒノキ)

 金・砂金

1268年、モンゴル親書(ジャルリク)「用兵夫孰所好」

 返牒不可 関白藤原基平・鎌倉幕府

 返牒主張 前関白二条良実・一条実経

1270年、モンゴルが高麗王と混血を進め、高麗・武臣政権の私兵である別抄に対し解散を命じた。

1271年、三別抄が、江華島から珍島に遷都し、日本にモンゴルと戦うための支援を要請してきた。三別抄を反乱軍と認識し、支援無視、異国警固番役を設置。フビライ汗が元を建国。

1273年、南宋の樊城が陥落、高麗の別抄が滅亡。

治天の君 亀山上皇

天皇 後宇多

皇太子 伏見

御恩奉行の安達泰盛が元寇で奮戦した。葛西殿と堀内殿は臨安の日元貿易に専念した。

荘園年貢の米納から銭納へ変化した!荘民が雑徭から解放された!!

港湾都市が発達。

紛争解決を武力に訴える悪党が出現。異類異形の悪党に発展。

領家や地頭の代わりに年貢を収納する代官が出現。

荘園領主が幕府へ悪党の取り締まり強化を嘆願すればするほど、悪党の倒幕運動につながっていった。代表は楠木正成。

1274年、文永の役

1277年、江南での銅銭使用を禁じた。交鈔(紙幣)を通貨に制定した。

1279年、南宋滅亡。

1281年、弘安の役

大覚寺統の亀山、後宇多、後醍醐が加持祈祷パワーを妄信して密教にかぶれた。

持明院統 和様の書体、琵琶

大覚寺統 唐様の書体、笛

 

1284年、弘安の徳政令

安達泰盛が主導。「鎮西名主職安堵令」で、元寇で守護に付いて功績を挙げたのに、鎌倉幕府と関係が認識されていなかった非御家人の領地を正式に鎌倉幕府が保証したのである。特殊合議訴訟機関が安堵令の実施にたずさわった。新御家人が大量にうまれた。

明石行宗(中央官職)・大友頼泰(守護)ペア  筑前・肥前・薩摩の訴訟管理

長田教経(中央官職)・安達盛宗(守護)ペア  豊前・豊後・日向の訴訟管理

二階堂政行(中央官職)・少弐経資(守護)ペア 筑後・肥後・大隅の訴訟管理

 

1285年、霜月騒動で安達泰盛が失脚。貞時の乳母父・平頼綱が九州に下向し着任。

1286年、平頼綱によって「鎮西名主職安堵令」が撤廃され、鎮西談議所が設置。鎌倉幕府中央が関知しない独立した4人の鎮西奉行が守護を超える権限を有した。

少弐経資、大友頼泰、宇都宮通房、渋谷重郷

霜月騒動で得宗専制が進行し、内紛で所領を没収されたり、所領を担保に借金する御家人が増えてきた。

1293年、平禅門の乱。平頼綱・飯沼宗祐親子の専制恐怖政治を、北条貞時が成敗した。

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1293年、六波羅北方探題の北条兼時と名越時家が九州下向し、鎮西探題を設置。兼時も時家も、再度の蒙古襲来に備えて、異国打手大将軍として派遣されていた。北条氏、少弐氏、大友氏が担当。最終訴訟裁断権に加え、軍事統率権も有していた。

寺社荘園vs御家人 荘園領主に有利な判決を下した

御家人vs非御家人 御家人に有利な判決を下した

惣領vs庶子 惣領に有利な判決を下した

1297年、永仁の徳政令

1.所領の売り手が御家人であることに限って以下の法令を適用する。

御家人が買った所領は20年以上経過したものについては、売り手の取り戻しを認めない。

非御家人が買った所領は、売り手が取り戻せる。

2.越訴は禁じる。一審のみとする。

3.御家人の所領の売買および質入れを禁じる。

4.債権者からの債権取り立ての訴訟は一切受理しない。

「貸した金は自力で取り返せ。幕府は一切関知しない。」

この結果、債権者の貸し渋りが生じて、御家人の暮らしはさらに窮乏化していった。

1305年、嘉元の乱。執権が北条貞時から師時にうつったことを、北条宗方が無念に思い、手始めに連署・北条時村を討った。北条貞時は宗方を処刑。

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1333年、尊良親王を奉じる菊池武時は、大友貞宗・少弐貞経と共謀して鎮西探題北条英時を討とうとしたが、大友貞宗・少弐貞経が裏切って菊池武時が敗死。六波羅探題、鎌倉幕府が相次いで滅亡すると、大友貞宗・少弐貞経・島津貞久が、北条英時を自害に追い込み鎮西探題が滅亡した。

尊良親王、中院定平、少弐貞経、相良頼広が大宰府をおさえ、九州武士の戦功を評定し、足利尊氏に対し注進した。

1336年、多々良浜の合戦

建武方 菊池武敏、阿蘇惟直

尊氏方 少弐頼尚、宗像氏範、千葉胤貞

足利尊氏が勝ち、大宰府を制圧した。一色範氏を九州探題に任じて、軍事指揮・訴訟調停させた。

1350年、足利直冬が大宰府に入り少弐頼尚に迎えられ、一色範氏に代わり鎮西探題(鎮西管領)になった。

1351年、正平一統により南朝・後村上天皇が直義・直冬討伐勅命。

1352年、一色範氏、征西府とともに直冬追討、直冬は長門に逃れ、一色直氏が九州探題になった。

1353年、針摺原の戦いで、少弐頼尚が一色氏を破り、征西府に寝返った。

1359年、大保原の戦いで、征西府の菊池武光が少弐頼尚・少弐直資・大友氏時・宇都宮冬綱を破った。少弐直資は敗死。

1361年、懐良親王が大宰府に征西府を樹立。菊池武光と少弐頼澄が補佐。「日本国王」を名乗り、日明貿易開始。

 少弐氏南朝方 頼澄

 少弐氏幕府方 頼尚・冬資

1372年、九州探題の今川了俊が征西府を倒した。少弐貞頼と菊池武朝が今川了俊に帰順した。

1374年、高畑城の戦いで、今川了俊が宇都宮冬綱・家綱を破る。大内義弘が豊前守護に任ぜられる。豊前守護代に杉氏がつく。

1395年、今川了俊が九州探題を罷免され、渋川満頼に交代した。渋川は、博多商人の宗金とともに日朝貿易に熱心であった

少弐貞頼と菊池武朝は渋川に不満を持っており、服従と反抗を繰り返した。

探題方 渋川、大内、大友、阿蘇、詫磨

反探題方 少弐、菊池、大村、平井、渋江、後藤、波佐見

1405年、猪嶽合戦で、探題方が勝った。

1419年、応永の外寇で、対馬と朝鮮が通交断絶。渋川氏が仲介に入り、少弐満貞が宋希璟と外交交渉にあたった。

1425年、筑前守護の少弐満貞が渋川満頼を追放、渋川義俊が九州探題に。

1433年、室町幕府とともに大内持世が少弐満貞を殺害。少弐氏と九州探題は大内氏によって有名無実のものとなった。

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