皇族摂関家の内紛のお話がひたすらつづく。世界史で言うなら、フランク王国メロヴィング朝、イングランド七王国(ヘプターキ)みたいな煩雑極まりない歴史物語だ。日本だから道長のように計算通りに独裁できるが、海外は外敵が攻めてきて一掃して振り出しに戻るのでそうはいかない。日本史は世界史より勉強しづらい。
源平の戦いとは、河内源氏と伊勢平氏の戦い。
元々、位が高かったのは河内源氏であって、伊勢平氏はずっと位が低かった。ところが、前九年の役で源義家の出世が遅れてしまい、蔭位の制により、その子供たちの出世も下がってしまった。後三年の役で、河内源氏同士の内紛により、その鎮圧にあたった伊勢平氏の位がどんどん上がり逆転した。もう後がない源義朝は保元の乱で元の栄光を取り戻したが、平治の乱で三条公教の説得もあって平清盛によって義朝一族はほぼ滅亡してしまった。通説では平氏一門の頭、池禅尼が源頼朝と義経を助命したことになっているが、彼女はまだまだ非力であって、上西門院(統子)クラスの嘆願でやっと、源頼朝と義経が助命された。上西門院に仕える池禅尼は、崇徳上皇の重仁親王の乳母であったので、崇徳に負い目を感じていたので、上西門院の願いを断れず平清盛を説得した。
薬子の変をきっかけに嵯峨天皇が蔵人頭を設置。巨勢野足と藤原冬嗣。天皇の家政機関が蔵人所。昇殿できたのは、蔵人頭、五位六位の蔵人、四位五位の許可された者。
清和天皇のとき、王・公卿・蔵人・殿上人から成る小朝拝がはじまる。993年、朝賀廃止。
清和・村上と幼帝がつづくと、国家重要会議に天皇が出席しなくなった。内裏みたいな、カネばかりかかってすぐ火事で焼けるバカでかい所で会議しなくてもいいじゃないかという意見が摂関家から出されるようになり、内裏造営が軽視されるようになった。
藤原基経が、仲の悪い藤原高子を国母にしたくないため、陽成から光孝へ。基経の娘・温子を宇多に入内させるも男子生まれず。臣籍降下した宇多の男子・源定省を皇族復帰させて醍醐に。基経の娘・穏子を醍醐に入内させる動きに、国母の班子女王が断固反対。阿衡事件で橘広相失脚して橘氏外戚関係が崩され、班子女王の死を待って穏子が晴れて醍醐に入内、皇太子を生む。左大臣藤原時平が昌泰の変で右大臣菅原道真を大宰府左遷。宇多上皇が醍醐天皇を戒めることできず。道真の怨霊の祟りで要人死者が続出で宮中大混乱。
宇多天皇のとき、889年以降、藤原氏だけしか昇殿を許されなくなった。
三位以上の摂関家も天皇家の蔵人所のような家政機関を置くようになった。920年、藤原忠平が政所を私邸に設置。荘園管理の雑用を任じた。
幼帝朱雀と摂政藤原忠平が善政。戸籍が役に立たず人頭税から土地税へ転換、受領(国司)に徴税を命じた。受領は田堵から徴税。承平天慶の乱の平定で平氏と源氏が軍事貴族に変態する。受領に就任。朱雀・村上、藤原氏のほうから摂関家になる必要性を感じていなかったので、天皇親政が実現。奇行で冷泉が円融に譲位。藤原兼家が詮子を円融に、超子を冷泉に入内させ、それぞれ一条、三条を産む。一条の皇后・中宮に二人。
定子(藤原道隆娘) 3歳年上。清少納言など。サロンが楽しかった。一条と仲がよすぎた。
彰子(藤原道長娘) 8歳年下。紫式部・和泉式部など。サロンが暗く面白くなかった。一条の最期まで定子を立てた。
関白藤原道隆が糖尿病で死ぬと、定子以外の女御を入内させる動きが活発化。長徳の変(花山法皇襲撃事件)で定子の兄・藤原伊周&隆家、大宰府などに左遷。のち許され帰洛。伊周は律令はじめての内大臣(太政大臣・左大臣・右大臣以外の4人目の最高権力者)だった。
関白藤原道隆が糖尿病で悪化すると、(太政官に実権をもたない)関白を内大臣伊周に譲ろうとするも、一条天皇の許可が下りず、伊周は(太政官の実権を兼ねることができる)内覧に就任。道隆が死ぬと道兼が関白に就任するも、麻疹で急死。国母の詮子の一条への説得で、格下の権大納言道長に白羽の矢が立つ。
源頼光・頼親・頼信(←平忠常の乱平定)が道長に仕えた。道長が荘園(法成寺領)の集積をはじめ、頼通がさらに拡大。道長は法成寺、頼通は平等院。
1028年眼病の道長死去。道長娘の寛子が三条皇太子・敦明親王(小一条院)に入内したために離婚した藤原延子と、その父・藤原顕光に祟られる。平忠常の乱。頼通に女子が少なく入内による外祖父になれなかった。一気に権威喪失。
藤原頼通のとき、摂関家家政機関の政所に、侍所を加え、職員の勤務状況を管理させた。やがて荘園離反に武士という武力を用いるようになった。
後三条は藤原の血が濃い白河を冷遇した。源基子とのあいだの子、実仁親王と輔仁親王を厚遇していた。1069年、延久の荘園整理令と、記録荘園券契所の設置と、宣旨枡による度量衡統一。1045年以降の新立荘園を停止。荘園所在地・領主・田畑面積を朝廷に報告を命じ、土地台帳がはじめて作成された。それまでは、前任国司の真立荘園を後任国司が廃止しないように、前任国司が摂関家に寄進していた。だから摂関家の寄進地系荘園が爆発的に増大していた。荘園存続の判断を国司から太政官が取り上げる。摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。(法成寺造営と平等院造営の後回しにされていた)焼失した内裏造営の課税を、公領だけに負担するのではなく全国荘園にも一律に課してほしいと国司から申し出があったために、公領と荘園を明確に区別する記録荘園券契所が必要であった。後三条のときはじめて荘園制度が始まったと言える。


後三条の構想
治天の君 後三条
天皇 白河
皇太子 実仁親王→輔仁親王
白河の構想
治天の君 白河
天皇 善仁親王(堀河)
白河の構想(堀河崩御後)
治天の君 白河
天皇 宗仁親王(鳥羽)
皇太子 崇徳
白河の構想(崩御前)
治天の君 鳥羽
天皇 崇徳
鳥羽の構想
治天の君 鳥羽
上皇 崇徳
天皇 近衛
鳥羽の構想(近衛崩御後)
治天の君 鳥羽
上皇 崇徳
天皇 守仁親王(二条)
*体裁を整えるため、守仁親王の父(雅仁親王)を短期間だけ天皇に据えた。これが後白河天皇。
*崇徳上皇は不満。白河上皇から皇統が保証されていたはずだから。
崇徳の構想(保元の乱まで)
治天の君 崇徳
天皇 重仁親王
保元の乱で崇徳排除後、
上皇(のち二条に院近臣解雇され院政停止された) 後白河
天皇 二条
皇太子 六条
後白河の構想(二条・六条がたてつづけに急逝後)
治天の君(のち清盛を怒らせ院政停止) 後白河
天皇→治天の君 高倉
皇太子→天皇 安徳
皇太子 守貞親王
*安徳と守貞親王(後高倉)と三種の神器を平家に拉致された後は、天皇を後鳥羽に変えた。
後白河の構想(平家滅亡後)
治天の君 後白河
天皇 尊成親王(後鳥羽)
後鳥羽の構想(源頼朝死後)
治天の君 後鳥羽
上皇 土御門
上皇 順徳
天皇 仲恭(のちの九条廃帝)
鎌倉幕府の構想(承久の乱後)
上皇 守貞親王(後高倉院) 不登極帝、ほどなく崩御
天皇→上皇 後堀河
皇太子→天皇 四条
*自分が仕掛けた悪戯でころんで四条が早逝。土御門系の後嵯峨に白羽の矢が立つ。
後三条の国母・禎子内親王(陽明門院)と、後朱雀・後冷泉と姻戚関係を結んだ頼通・教通の仲が悪かった。白河の皇太子は、実仁親王から輔仁親王へ渡す予定だったが、白河は賢子を寵愛しその実子の善仁親王を皇太子に据えたため、禎子内親王は大激怒した。はやばやと善仁親王に譲位して堀河天皇とし、白河上皇になった。この時点では子・堀河天皇に政治を任せていたが、その堀河天皇が短命で、孫・鳥羽天皇も幼帝だったために白河上皇が院政を直接行い、治天の君(天皇家の家長)が誕生した。ただし大殿藤原師実には遠慮があった。関白藤原師通と堀河も良好関係だったが、師通が早逝し、忠実が若くまだ権中納言で摂関できなかった。鳥羽の外伯父藤原公実は経験不足として摂関を外された。白河上皇が摂関家の任免権を奪った。白河に白羽の矢が立った。永久の変(鳥羽暗殺計画)で輔仁親王失脚。鳥羽の即位ではじめて白河院政が確立した。泰子の鳥羽への入内問題で白河と忠実が不和となり、忠実の内覧を停止し自宅謹慎、忠通を起用。北面の武士を設置。
白河院政から、官司請負制はじまる。特定官司(宮廷行事などの雑用)を太政官から特定氏族に移管し、専門的知識に長けた特定氏族が代々請け負って、職(官司に付随する収入や所領などの利権)を得た。
弁官局 小槻氏独占
外記局 中原氏&清原氏独占
*清原武則は、蝦夷初の鎮守府将軍!
河内源氏の源頼義は格下の坂東平氏を配下に加え関東に拠点を設け、前九年の役。税金未納の安倍頼時を屈服させるも、安倍貞任・藤原経清に敗れる。頼義は清原武則・武貞を味方につけ安倍貞任・藤原経清を破った。
大和源氏の源頼俊が陸奥守に任ぜられる。1070年(延久2)、延久蝦夷合戦。後三条天皇の勅命により、源頼俊が、清原貞衡の与力で陸奥北端まで蝦夷を征討した。清原貞衡は、武則以来、蝦夷二度目の鎮守府将軍に就任した。頼俊の子・頼治は、関白藤原師通の命で強訴の比叡山僧兵に矢を放ち、師通早逝。恐れをなした朝廷は頼治を佐渡へ流罪、大和源氏は一気に没落した。
頼義に男子3人あり、義家、義綱、義光の仲がとても悪かった。源義家は藤原頼通・白河上皇に仕え、奥州に進出した。
清原氏後継者問題で、後三年の役。清原清衡・家衡・吉彦秀武と、清原真衡・成衡が争った。姻戚関係があった陸奥守の源義家が真衡・成衡を加勢して勝利。真衡早逝し、成衡が旧清原領をとり、旧安倍領を清衡・家衡で分割。不満の家衡が清衡を攻めたので、義家は清衡に付き家衡を倒した。命令許可なく戦ったので義家の恩賞が認められず、官物未納で正四位下陸奥守どまりで父親の地位まで出世できず。義家の子・義親と義忠の出世が阻まれた。
源義綱は藤原師通に仕え優位に立とうとした。師通は義綱を用いて比叡山僧兵を撃退させると、僧兵は師通を呪詛、師通が急死したので僧兵が恐れられるようになった。
源義親が九州で掠奪、太宰大弐・大江匡房の訴えで隠岐に流罪されるも、さらに出雲で目代を殺害したので、白河上皇に接近した平正盛が平定。その子・忠盛が正四位播磨守まで出世し、河内源氏と伊勢平氏の家格が逆転した。「偽義親」が都で流行。他方、藤原清衡・基衡・秀衡という奥州三代が繁栄した。
1100年、鴻臚館廃止。日宋貿易が国家管理から平忠盛の私的管理に変わった!白河院政から鳥羽院政への経済方針の転換が裏にあった。
源義光は、義家の子・義忠を殺したが、義綱が冤罪に問われた。義忠が平忠盛と親しくしたのが殺害理由。義光と、義親の子・為義が義綱を追討した。義綱の子はすべて殺害され、義綱自身は佐渡へ流刑。為義は白河院に嫌われ受領になれず、河内源氏の頭領とは言えない状態であった。為義は藤原忠実・頼長の家人となった。一方、平忠盛は白河院に可愛がられて、どんどん出世を重ねていった。
皇位継承権は、天皇、上皇、国母、外伯父、外祖父の合議制で決まっていたのだが、治天の君は一身に権限を集めた。治天の君の権限は、1.皇位継承権、2.摂関任免権、3.除目への介入。権門(王家と摂関家)が独立して、自分の荘園と武力を持つようになった。武家と公家は対立しておらず、文士(文芸の家)と武士(武芸の家)が並んで公家に仕えるという形をとり、これらを総称して貴族(心ある者、情ある者)という。その下に雑人・下臈と呼ばれた庶民(心なき者、情なき者)がいた。
院司(上皇と個人的関係を結んだ貴族たち)の出世コース。播磨・伊予の受領に任じられたのちに参議へ出世。
院の権限:天皇御所に自分好みの太政官を任じ、院御所に自分好みの公卿(従三位・左大将・右大将)と院近臣を任じ集めて政治決定を下す。院近臣を受領に任命し、院庁下文で領域型荘園を認定した。
一の院・本院 白河
新院(上皇に過ぎないから実権がない) 鳥羽
天皇 崇徳
鳥羽に中宮がふたり。
待賢門院璋子 藤原公実(太政官)娘 地下人と性関係乱れ、白河の寵妃?子が崇徳
美福門院徳子 藤原長実(白河院近臣)娘 子が近衛
鳥羽院政になると、荘園整理政策を否定し王家領荘園を集積する。
本院 鳥羽
新院 崇徳
天皇 近衛(鳥羽が治天の君で居続けるために崇徳の猶子になる)
*治天の君は現役天皇の父か祖父でないとなれない。皇太弟に皇位が移ると治天の君を辞めなくてはいけないのだ。辞めるとなんの権限もない貧しい上皇の暮らしが待っている。
*飛鳥時代の持統天皇のころは、上皇と天皇は同権だったが、薬子の変で平城上皇の権限を奪い取ったために、上皇はただのお飾りになった。
*孝謙・高野・称徳天皇の話になると、へぇー、ハハと歴史学者にせせら笑われるが、西大寺は称徳天皇に必死に付いてきて今もがんばっているのだ。その気持ちを逆なでるのはやめていただきたい。
近衛の中宮がふたり。
皇后 藤原多子 頼長養女
中宮 藤原呈子 美福門院養女・忠通養女

平清盛を頭領とする伊勢平氏の最終決定権は、藤原宗子(池禅尼)が握っていた。保元の乱で摂関家につくか天皇方につくか決めたのも池禅尼であった。
後白河天皇は皇位に付いていたので、(1)天皇の権威で動員できる公的な武力、(2)鳥羽院に仕えていた武力(源義朝・源義康・源頼政)の二種類の武力を総動員できた。対する崇徳上皇は、下に天皇がいないので公的な武力を動員することができなかった。摂関家に仕える武力(源為義・源為朝・源頼賢)だけであった。
ボーイズラブの藤原頼長は、家格が下の藤原家保と美福門院得子を憎んでいた。関白忠通と内覧頼長の内紛。近衛天皇、鳥羽法皇急死で忠通の推薦で後白河天皇践祚、保元の乱勃発、崇徳にも忠実にも武士が集まらず守仁親王(のちの二条天皇)に集まった。実の父との噂が高かった故白河の屋敷(白河北殿)に入り自分こそ治天の君にふさわしいと宣言した崇徳には源為義・為朝・頼賢、平正弘、源頼憲、平忠正・長盛、源為国くらいしか集まらなかった。鎮西八郎為朝も単騎ではいかんともしがたし。後白河は蔵人頭の藤原雅教に命じ、忠実・頼長が荘園から武士動員することを禁じる綸旨をふれ回らせた。蔵人の高階俊成と源義朝に命じて頼長の東三条殿と摂関家宝物を没収させた。平等院の勝尊に後白河を呪詛したというのが頼長の罪状。忠実は宇治邸で中立静観。崇徳の重仁親王の乳母をつとめていた池禅尼は平家を率いて自分に付いてくれると思っていたが池禅尼は崇徳ではなく勝ち目のある後白河に付いた。後白河は正統な天皇ではなくワンポイントリリーフと考えられていたので無力であった。崇徳上皇は自分の実父と噂高かった白河殿に入り我こそ正統な天皇なるぞとアピールし抗戦体勢を整えた。後白河は高松殿から警護がしやすい東三条殿に移動。源頼盛が護衛に当たった。皇族攻撃をためらっていた忠通は信西の説得で崇徳上皇を攻撃。
第一陣
平清盛300騎 戦う姿勢が消極的!(鉄弓の)為朝と激突し退散、戦功なし!!
源義朝200騎 頼賢・(鉄弓の)為朝と激突、負傷者50人出すも逃げず、白河殿隣接の藤原家成邸に放火、白河殿に延焼し、崇徳・頼長敗退が決定。
源義康100騎
第二陣(なかなか決着が着かないことに後白河が業を煮やし派遣した)
源頼政
源重成
源重貞 頼長を射て、逃げる為朝を乱後捕獲した!
平信兼
呪詛問題で崇徳が讃岐流罪、頼長が矢が当たり重傷死。頼長には興福寺僧兵を率いた信実の加勢という勝算があった。信西による戦後処理で摂関家が政治の場から撤退。後白河、高松殿にもどる。崇徳は東山如意ヶ嶽で剃髪出家し治天の君を降りた。為義は義朝に投降、為朝は逃亡したが近江で入浴中捕獲された。
崇徳は後白河天皇の兄であり、上皇ではあるが父院ではない以上、院政を行うことはできない。崇徳上皇は単なる「元天皇」に過ぎず、天皇と対立した場合に正統性はないのだ。
美福門院が、鳥羽院近臣であった信西に命じて、ワンポイントリリーフの後白河天皇を守仁親王に譲位させた。二条天皇即位。鳥羽上皇が二条天皇を作り出し、二条天皇を作り出すプロセスとして後白河が天皇になっているだけ。後白河はそれでも院政をしようとするが後白河院の権限に制限が設けられていた。
1. 二条天皇と姝子内親王に生まれる皇子を天皇にすること。(後白河は天皇を選べない)→二条と姝子内親王が離婚
2. 鳥羽の遺志を尊重する限り、貴族は後白河院政を支持する。→後白河は違反した。
鳥羽院政の構想(二条、六条、鳥羽の早逝で瓦解した!)
本院 鳥羽
新院 二条
天皇 六条
後白河院政(平清盛と蜜月関係を築くことで実現できた!)
本院 後白河
新院 高倉
天皇 安徳
*以仁王は後白河から親王にしてもらえなかった。八条院の猶子であった以仁王は、安徳天皇を引きずり降ろして自分が天皇になろうとして乱を起こしたので、後白河は以仁王に怒っていたのだ。以仁王は令旨を出せる身分でないのに、偽の宣旨を八条院領に垂れ流したのだ。
王家領荘園の行方。鳥羽→美福門院→八条院→春華門院→順徳上皇→鎌倉幕府→後高倉法皇(不登極帝)→安嘉門院→室町院(暉子内親王)→(大覚寺統・八条院領)亀山上皇→後宇多上皇
鳥羽→待賢門院→崇徳上皇→上西門院→(持明院統・長講堂領)後深草上皇
藤原頼長邸・土御門殿→後白河→宣陽門院→(持明院統・長講堂領)後深草上皇
(持明院統・長講堂領)後深草上皇→西園寺相子→陽徳門院
*室町院領を争う。式乾門院→室町院(暉子きし)大覚寺統と持明院統で折半した。
*後白河は財産がなかったので、頼長の荘園を奪い取った。これを基に全国荘園をかき集めていった。
*亀山上皇は密教に凝り、南禅寺に荘園を一部寄進した。そして元寇調伏を大祈祷した。
*後宇多上皇は密教に凝り、東寺に荘園を一部寄進した。

正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
源義家 正四位
源義親 従五位 いったん没落
源為義 従五位
源義朝の必死の大出世 保元前が従五位下、保元後が正五位下
関東での内紛で所領を失った源義朝は、なんとか失地回復しないといけないので必死だった。保元の乱で源氏の頭領になった。
保元の乱後、家格が下の藤原信西が偉そうにしているのに、どうも我慢がならなかったのが、藤原信頼であった。信頼手持ちの、源義朝率いる武士を少しお借りするだけで信西ごときは殺せると思っていた。平治の乱。
*反信西派
藤原信頼 後白河院政派 武蔵国知行国主
部下に、源義朝 下野守
藤原経宗 二条親政派 懿子の弟
*信西派
藤原信西 後白河院政派
*八条院直属の武士
源頼政 二条親政派
源光保 二条親政派
1159年12月9日、信頼・義朝が信西を攻めたが逃げられる。三条殿を焼き払い、後白河院と上西門院を三条殿から二条天皇の大内裏にうつす。
1159年12月13日、信西が自決し、首が晒される。
1159年12月14日、源義朝が播磨守になる。
1159年12月17日、平清盛が熊野から帰洛。信西が進めようとしていた鳥羽院構想を重んじる内大臣三条公教が清盛に反信頼派につくよう説得。
1159年12月25日、三条公教が二条天皇を六波羅にうつす。
後白河上皇には、「二条はここには居ませんよ。」とだけ告げて立ち去る。慌てた後白河はあたふたと大内裏から仁和寺に逃げる。
1159年12月26日、六条河原の戦いで、平重盛・頼盛が源義朝を破る。藤原信頼に付いていたのは、義朝・義平・朝長・頼朝と、三浦義澄・上総広常だけであった。清盛・時子が二条の乳父母になる。頼盛は八条院に仕える。清盛出家後、重盛が内大臣に任ぜられ頭領になる。
1161年、後白河が憲仁王(のちの高倉天皇)を立太子させる陰謀を二条天皇が察知し、院政派を解官した。平時忠・教盛・基盛、藤原成親・信隆。後白河院政停止。
二条親政に入る。まず平治の乱で軟禁されたことに後白河が怒り平清盛に命じて、藤原経宗が阿波に流罪となる。後白河の目の上のたん瘤であった経宗が排除されて後白河の息を吹き返した。池禅尼の嘆願というよりは上西門院(統子)の嘆願で、憲仁親王を皇太子に据えるのと交換条件で、上西門院の蔵人であった源頼朝を助命した。藤原基実を復権して摂関家を建て直した。後白河が憲仁親王を立太子させる動きに二条と清盛が反発した。二条早逝、六条即位、六条摂政に基実。六条早逝後、親二条派だった清盛が後白河に接近して憲仁親王を担いで高倉天皇即位。基実早逝でその子・基通(近衛家)を盛子(清盛娘)の猶子にする。多くの摂関家領が盛子の手中に入った。
平時忠「平氏に非ずんば人に非ず。」
1165年、二条逝去。六条が幼帝の為、清盛は後白河と和睦。
1168年、六条から高倉へ譲位。摂政に松殿基房。翌年、後白河と清盛が出家。
後白河院政に入る。清盛は、京を重盛・滋子(建春門院)に任せ、福原で日宋貿易に専心。建春門院が後白河と清盛の仲介パイプ役を担当した。清盛と親しくしていた藤原忠通の男子4人あり。
近衛家 基実→基通(清盛と親しい)
松殿家 基房(後白河と親しい)→師家
九条家 兼実(頼朝と親しい)→良経
出家僧 慈円
院近臣は、重盛・頼盛、藤原成親・師長(頼長の子)・静憲(信西の子)・澄憲(信西の子)。建春門院(滋子)早逝、鹿ケ谷事件で、清盛が院近臣を排除。重盛も気を重くして早逝。盛子早逝で、後白河は基実遺領を基房に与え、重盛遺領を自ら奪った。
1178年、源頼政が従三位になり参議に参画。言仁親王(のちの安徳天皇)が立太子。
宋銭流通促進派 平清盛・高倉天皇
宋銭流通規制派 後白河法皇・松殿基房(絹を通貨にしようとした!)
平重盛と盛子死去。平重盛の越前所領を惟盛に、盛子・近衛基実の家領を近衛基通に継がせることを、後白河が拒否。
治承3年(1179)の政変。清盛が福原から後白河を攻める。基房を追放、後白河を院政停止・幽閉、安徳即位、近衛基通を摂政に、高倉院政を布いた。
高倉院政
治天 高倉
天皇 安徳
高倉の厳島神社行幸に反対した園城寺、後白河・高倉奪取失敗。以仁王令旨が全国に拡散。以仁王は後白河が大嫌いなので後白河のために挙兵したのではない。以仁王挙兵に源頼政が付き、清盛を怒らせ、頼政討ち死に。
伊豆知行国主 源頼政から平時忠へ
伊豆守 平時兼
伊豆目代 山木兼隆(平時忠の部下)

九条兼実・中原親能を介して、平穏に伊豆で捕虜生活していた頼朝に令旨の行方の捜査が入ると三善康信から聞き、頼朝が追い詰められる。源頼政配下の北条時政・工藤茂光・源有綱・三浦義明をバックに源頼朝挙兵、山木兼隆を討つ。石橋山の戦いに敗れるも、富士川の戦いに勝ち、その後、東日本は頼朝、西日本は宗盛の分割統治を提案したが、頼朝滅ぼすべしという清盛遺言のため、宗盛が却下した。養和の大飢饉が起き兵糧不足に陥り、上野の源義広が頼朝転覆を図っていたため、木曽義仲と平家討伐を延期。
1183年(寿永2)、野木宮合戦。上野の宿敵だった源義広を源頼朝が破る。源義広は源行家とともに源義仲軍に合流した。
源義仲が入京、倶利伽羅峠の戦いに勝ち、平家を西国に追いやる。安徳天皇・守貞親王・三種の神器が都落ち。後鳥羽践祚。以仁王皇子の北陸宮即位を後白河に進言したのに、後白河が尊成親王(後鳥羽)を践祚させ院政を布いた。源義仲は水島の戦いで平家に敗れ京に戻り、後白河が摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の土岐光長、延暦寺僧兵を招集して義仲と戦い、法住寺合戦で義仲が勝ち後白河院政を停止、師家を後鳥羽摂政に据える。
頼朝が京へ範頼・義経を進軍させ、宇治川の戦いで義仲敗死。基通を更迭し、九条兼実・良経を起用。範頼・義経が一の谷の戦いで平家に勝ち、福原から平家を屋島へ追いやった。
1185年、壇ノ浦の戦いで安徳天皇入水、草薙剣紛失。
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