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2022年6月18日 (土)

「大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか」を読んで

雇用主により次々と転売された高齢の奴隷は、教会で食べさせてもらえるのはごく少数で、無職乞食をいやなくされ路上死する運命にあった。

P298

いつの時代もどこの国でも、侵略する意思のある国から国を守るには、相手が戦うことを断念せざるを得ない状況を作ることが必要である。

P280

幕府はここ(長崎)を窓口としてヨーロッパの文物を吸収するとともに、オランダ風説書によって海外の事情を知ることができた。

 

(これに私が付け加えさせてもらうと)

ただし、(徳川の御威光を信仰させるための)極秘事項を知ることができたのは、無責任かつ事なかれ主義の学歴貴族(公務員武士)だけであった。幕末の英露侵略危機の際も、体制維持を図ろうとするばかりでその知識を利かしきることが全くできなかった。

 

キリシタン大名たちは、武器弾薬購入のため、キリスト教布教を許可した。イエズス会宣教師は、信者を扇動し寺社仏閣を破壊焼失した。1578年(天正6)を皮切りに大友宗麟は敗北を重ね、豊国を支配した島津義久が降伏した領民を肥後と薩摩でポルトガル奴隷商人に売却した。

1565年(永禄8)、松永久秀は足利義輝を攻め滅ぼし、キリシタン宣教師を京から追放した。信長が京に宣教師を戻した際、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である。」と松永久秀は信長に進言した。

1567年(永禄10)、東大寺大仏殿の戦い。松永久秀vs三好三人衆・筒井順慶で東大寺大仏殿を焼いたのは三好方のキリシタン雑兵であった。

ポルトガル商人が日本人女性奴隷と性的関係を持ち、イエズス会がそれを批判するという構図ができあがっていた。ポルトガル商人もイエズス会も、日本人傭兵を利用して更なるアジア侵略を続けた。

ポルトガル人の黒人奴隷が日本人少女を安価に購入していた。

1523年寧波の乱以来、日本と断交した明は、マカオでポルトガル商人が日本人奴隷を明に入国させていた状況を正そうとしたがうまくいかなかった。

ポルトガル領マカオで、日本人奴隷が増えすぎたため、スペイン領マニラへ報復として、アルコール中毒者、強盗、犯罪者、癩患者らをマニラに送り込んだ。

日本人奴隷は人気で売買されたが、のちに凶暴化するので恐れられていた。植民地総督は日本人奴隷への警戒を怠ることなく続け、紛争が絶えなかった。

イエズス会やポルトガル本国が日本人奴隷売買を禁止しても、商品価値が高いので奴隷は増え続けたし、幕府がみせしめで処刑を繰り返しカトリックを禁止しても宣教師はマニラやマカオを拠点に違法入国し信者はうなぎのぼりで増え続けた。

鉄砲伝来がカトリック伝来に先んじた意味は大きかった。1年足らずで見よう見まねでネジの知識を吸収し国産鉄砲を量産するに至っていたおかげで、日本征服を図るイエズス会宣教師に銃を向けることができたからである。日本は作物不毛の地であり、無理に上陸しても兵糧不足に陥る。だから中国支配を先にすべきだとして。ザビエルは中国に帰還した。日本人をキリスト教に改宗させ、スペインが中国を侵略する際に、好戦的で優秀な日本人武士を使おうとしていた。

1587年(天正15)、秀吉が伴天連追放令を発布。イエズス会は締め出され、フィリピンから来たフランシスコ会が秀吉に取り入ろうとした。サンフェリペ号遭難の際、イエズス会がフランシスコ会の侵略の意図がある噂を秀吉に讒言し、フランシスコ会宣教師を殺すべく日本二十六聖人殉教事件を引き起こした。その後、イエズス会はキリシタン大名と同盟して中国を攻めようとしていた。

1598年、秀吉の死後、畿内布教が復活。

1600年、リーフデ号遭難。家康、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステン(耶楊子)を外交顧問として徴用。イエズス会の来日目的を知る。

日本人奴隷が(秀吉や家康の密命で)アジア植民地で独立運動を起こすのではないかという危機感が増して、日本人奴隷狩りが自粛され始めた。タイで山田長政が武力で戦功を挙げ活躍。

オランダ東インド会社(平戸商館)から持ち出された軍需物資は、

日本人傭兵

日本製鉄砲

日本刀・槍

銃弾・硫黄・硝石

1614年、広東省・広西省総督の張鳴崗、マカオから日本人追放を命じる。

1614年、幕府の伴天連追放令により、新たな日本人難民が宣教師とともにマカオに漂着した。宣教師が日本語を覚え日本に密入国し日本で違法に宣教しようとする目的で、日本語学校を設立した。高山右近や内藤如安ら日本人はマニラにも漂着した。日本人街がマニラに形成された。

1619年(元和5)、英蘭防御条約。スペイン・ポルトガル艦隊に対する共同防衛を約す。

1620年(元和6)、平山常陳がマニラからポルトガル人とスペイン人宣教師を同船させたところを英蘭艦船が拿捕。のち平山常陳と宣教師が火刑。

1624年(元和10)、スペイン領マニラ(フィリピン)と断交。スペインはマニラを拠点に違法の宣教師を日本に送り続けていたので。

1624~1632年、タイオワン事件。オランダ・ソンク総督との台湾貿易紛争。重税を課したノイツ総督を恐喝し交渉を続ける。

1636年(寛永13)、ポルトガル商館を出島に強制移住。

1637年(寛永14)、島原の乱。島原藩・松倉重政は、鉄砲に熟練した有馬直純・旧家臣と小西行長・旧家臣を弾圧(蓑踊り)したため、乱が勃発した。1611年に国外追放されたイエズス会マルコス神父が「善人」の出現を予言しており、天草四郎こそ善人だと、その予言を信じたため、一度は棄教したカトリックに復教した。一揆勢がポルトガルと繋がることを恐れ、幕府はオランダ軍艦に原城艦砲射撃を命じた。熊本藩・陳佐左衛門が天草四郎を討ち取る。天草四郎の首がポルトガル商館前に晒された。幕府が敵国と認定したポルトガルに対する同盟国として、オランダの通商だけは承認した。

1639年(寛永16)、ポルトガル断交。

1640年(寛永17)、ポルトガル使節団を出島で処刑。

1641年(寛永18)、オランダ商館を平戸から出島に強制移住。

オランダ東インド会社は、日本の良質な銅をインドで高くさばいて大いに儲けた。

大航海時代の日本人奴隷増補新版(中公選書)[ルシオ・デ・ソウザ]

Fitocadoi  掠奪して連れていく者

Fitoaqibito ヒトを売買する商人

Fitocaibune 奴隷を運ぶ船

casa   奴隷を収容する倉庫

rulo, rusumori 小舟を使って漂泊中のポルトガル船まで奴隷を運ぶ港湾労働者

Curobo  カフル人(黒坊)、黒人奴隷

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