鎮西武士団
京、関東だけでなく九州にも目を向けなければ、平安末期~鎌倉初期の武士を把握したことにはならない。
藤原保昌は、上総から日向へ下向。常陸・上総に住まうお貴族さんは平気で人を殺害する暴力団のボスであった。皇族から臣籍降下した貴族はほんとうに手が付けられない奴だった。平安京の藤原氏も牛車の喧嘩が絶えず丸腰の民はとても住めなかったと聞いていたが、納得できる話だ。貴族も武士も本質は暴力団でなんら変わらなかったとみるのが正しいだろう。「貴族の世から武士の世へ」はきれいごとで、本質は同じだったのではないか。どっちもどっち。
和泉式部も、橘道貞、藤原保昌と結婚した極道の妻であったようだ。朝廷サロン女子たちが憧れた男性は、人殺しを厭わない短気な武人。
治承寿永内乱以前
筑前 大蔵氏・原田(はるだ)種直
豊後 大神(おおが)氏・緒方惟栄
肥前 為方流平氏
肥後 菊池氏
日向 藤原保昌→季基流平氏
薩摩 季基流平氏→阿多氏
内乱以前に九州に割拠していた武士団のほとんどは、平家に味方したという理由で滅亡ないしは没落の運命をたどることとなった。そのあとには鎌倉幕府によって地頭が補任された。
治承寿永内乱以後
豊前・肥前・薩摩・大隅 千葉氏
北九州 武藤氏(のちの少弐氏)・大友氏
南九州 惟宗氏(のちの島津氏)
鹿島神宮は、藤原鎌足の出自と言われ、鹿島の鹿を奈良に連れてきたと伝えられている。常陸・上総の海は、水軍の一大拠点となっており、藤原氏が手放さなかった理由と思われる。
平安時代に入ると、平将門をはじめ平氏が関東に進出。藤原氏と利権を争うことになる。
奥州 ←砂金
常陸・下総
伊勢
博多 ←銅銭
大宰府
海で日本列島がひとつに結ばれていた。
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