鎌倉幕府と京朝廷と僧侶と仏師
災害があってはじめて、末法思想と新興宗教が流行する。
1180年 平重衡が東大寺・興福寺放火
1181年 養和の大飢饉
1183年 木曽義仲が京都で狼藉
1185年 寿永の大地震
1201年 京都の大火
1207-1208年 京都の大火
1213年 京都の大火
1218-1219年 京都の大火
1221年 承久の乱。切り込み隊長の北条泰時・時房が京都で狼藉。
1231-1232年 寛喜の大飢饉
法然(ほうねん)1133-1212
美作の漆間時国の一人息子。
延暦寺の天台宗出身。
称名念仏がもっとも大切。最も貧しき者、最も罪深きものを優先的に救済せよ。粥の施しをおこなった。
観想念仏ではダメだ。阿弥陀仏の名を唱えるという実践があってこそ救われる。
男に生まれ変わらなければ女は救われないという変成男子(へんじょうなんし)を否定し、女性に救いの門戸を開放した。
眼から光を発して読書した。九条兼実の妻の病気を癒した。などなど数々の超能力奇跡を起こした。
九条兼実・文盲大衆が帰依。
明恵(みょうえ)1173-1232 めっちゃイケメン!!
紀州の平重国の息子。
神護寺→仁和寺・東大寺の華厳宗出身。
菩提心(釈迦を愛する心)がもっとも大切。
念仏は補助行にすぎない。称名念仏より観想念仏のほうがすぐれている。
性欲をタブー視しない。高山寺の艶めかしい仏眼仏母像の前で自らの耳を切断した。
春日明神の託宣で、インド渡航計画を断念した。
夢みて肉体離脱、透視、予言などなど数々の超能力奇跡を起こした。
後鳥羽上皇・摂関家・北条政子・北条泰時が帰依。
親鸞(しんらん)1173-1263
京都の日野有範の息子。
法然に弟子入り。
1207年(承元1)越後の三善為教の娘・恵信尼と結婚。
重源(ちょうげん)1121-1206
大和の紀季重の息子。
南宋に3度留学。
1195年(文治1)大仏開眼。
栄西(えいさい)1141-1215
吉備の賀陽貞遠の息子。
天台宗に入信、南宋に留学し、臨済宗を持ち帰る。
1195年(文治1)博多の聖福寺建立。
鎌倉入りして寿福寺にて頼朝を弔い、頼家の庇護のもと、京都に建仁寺を建立。
(奈良仏師)頼助 → 康助 → 康朝と(慶派)康慶
康朝 → 成朝
成朝は、1185年に鎌倉に下向。
(慶派)康慶 → 運慶・定覚・快慶・定慶
運慶 → 湛慶・康弁をはじめ、源慶・静慶・運覚・康運・康勝・康円・運賀・運助
運慶は、1213年ころに鎌倉に下向。
源義経の動き
1185年3月 壇ノ浦の戦い。草薙剣を紛失してしまい、頼朝の怒りを買う。
1185年4月 平宗盛を生け捕りにして京入り
1185年5月 平宗盛を連行して鎌倉入り。腰越状は「吾妻鏡」のウソと考えられている。
1185年6月 近江で平宗盛を処刑し、首を持って京入り
1185年10月 源義経と源行家が、「頼朝追討の宣旨」を受け取る。後白河法皇が発給し、高階泰経を経由して九条兼実の手にゆだねられた。近国の武士がこの宣旨に従わず、義経と行家が逃亡。
1185年11月 義経・行家を成敗するために、北条時政が京入り。時政が権中納言・吉田経房を威圧して、守護地頭補任の勅許を得た。
1185年12月 源頼朝は九条兼実と後白河法皇に今後の政治構想メモを渡した。高階泰経は頼朝の激怒を受け、解官のうえ流刑に処せられた。九条兼実はなんとか頼朝の信頼を勝ち得た。兼実・頼朝を中軸とする朝幕関係が成立。
義経は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って亡命。
1187年10月 藤原秀衡死去。
1188年(文治4) 頼朝が重厄の年に当たるため殺生を禁じた。亡母供養のため五重塔婆を造営。
1189年(文治5) 頼朝は「泰衡追討の宣旨」を得て、奥州合戦。
東海道追討使 千葉常胤・八田知家
大手軍追討使 源頼朝
北陸道追討使 比企能員・宇佐美実政
戦没者の怨霊を鎮めるために、永福寺建立。その本堂は二階堂と呼ばれた。
源頼朝の動き
1192年(建久3) 「前右大将」から「征夷大将軍」の称号を求めて許された。
1194年(建久5) 征夷大将軍を辞した。「前右大将」と再び称した。
1202年(建仁2) 頼家が朝廷から「征夷大将軍」の称号を賜った。それまで征夷大将軍は不在だった。
1203年(建仁3) 頼家が失脚し、実朝が「征夷大将軍」を後継した。
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