1180年 石橋山合戦。梶原景時は寝返り、平氏方の主君・大庭景親に殺されかけた頼朝を救った。
1182年 亀の前事件。義時は時政・政子ではなく頼朝に味方する。
私の宮崎先祖である伊東一門の物語。伊東祐親(すけちか)は、弱小だった北条氏を制圧し、頼朝暗殺未遂している。工藤祐経(すけつね)の所領を剥奪。頼朝を利用したのが北条氏であり、石橋山合戦に敗けた頼朝を救ったのが三浦氏。
知承・寿永の乱で、工藤祐経は源氏方、伊東祐親は平氏方につく。工藤祐経が伊東祐親本人を殺せず、嫡男・河津祐通(すけみち)を殺してしまい返り討ちになって殺される。伊東祐親の孫、曾我兄弟が1193年、工藤祐経を討ち果たす。引き続き、頼朝の館に乱入しており、曾我兄弟仇討ち事件の実体は、北条時政が黒幕となった頼朝暗殺未遂事件である。
工藤祐経の子孫が日向伊東氏、伊東祐親の子孫が尾張伊東氏になる。源頼朝の弟・源範頼が曾我兄弟仇討ち事件に関与したとして伊豆へ配流。
1199年 源頼朝が落馬で事故死。
1200年 源頼家を支えるため、十三人の合議制。
実務官僚4人衆
大江広元、三善康信、中原親能(ちかよし)、二階堂行政
頼朝正妻・全成正妻・千幡(実朝)乳母系列
北条時政 娘の阿波局が阿野全成に嫁ぎ、千幡(実朝)の乳母となる。
北条義時(平氏)
頼朝乳母・頼家乳母・頼家正妻系列
比企能員(よしかず) 比企尼が頼朝乳母、その娘たちは頼家乳母となり、若狭局として頼家正妻となり、嫡男・一幡をもうける。
安達盛長
石橋山の合戦に敗けた頼朝を支持した最大の恩功武士
梶原景時(平氏) 歌に長じ武勇・弁舌に優れるも讒言多く嫌われた。源平合戦では義経配下を嫌い、範頼配下に入る。
三浦義澄
和田義盛
源平合戦の功労武士
八田(はった)知家
足立遠元
源義朝の男子
1 義平(悪源太) 母 三浦氏女
2 朝長 母 波多野氏女
3 頼朝 母・由良御前 ←神がかりの勢いで出世
4 義門 母・由良御前 ←早逝
5 希義 母・由良御前 ←1180年、平家により土佐にて殺害
6 範頼 母・遊女 ←1193年、頼朝により伊豆にて殺害
7 阿野全成(あのぜんじょう) 母・常盤御前
8 義円 母・常盤御前 ←1181年、墨俣川の戦いで平家に敗死
9 義経 母・常盤御前 ←1189年、藤原泰衡により平泉にて殺害
源頼朝の男子
1 千鶴丸
2 頼家
3 貞暁
4 実朝
北条時政の男子
1 宗時 源平合戦にて戦死
2 義時 一時、江間氏へ養子に出る
3 時房 一時、北条時政の嫡子となる。北条氏が比企氏に放ったスパイ。義時・泰時と二代に渡って支えていくイケメン。
4 政範 後妻・牧の方の実子。北条時政の嫡子となるが、1204年、実朝の正妻として坊門信子を迎えに行った京にて病死。義時が時政の所領を奪うための動機付けとなった。
源頼家の男子
1 一幡
2 公暁 実朝を鶴岡八幡宮大階段で殺害
3 栄実(千寿丸) 泉親衡(ちかひら)の乱に連座して、政子の助言で出家して栄実と名乗るも、幕府軍に攻められ自害
4 禅暁 公暁による実朝暗殺に連座
北条義時の男子
1 泰時
2 朝時(名越朝時)
3 重時(極楽寺重時)
4 有時
5 政村
6 実泰(金沢実泰)
北条時房の男子
1 時盛(佐介時盛)
2 時村
3 資時
4 朝直(大仏朝直)
5 時直
6 時定
7 持定
8 房快
9 忠源
1200年 梶原景時の変。侍所別当の奪い合いで対立していた和田義盛が黒幕となり梶原景時失脚後殺害。北条氏・実朝方が優勢になる。梶原景時は、平氏方武士と親密で源氏方武士の反感を常日頃から買っていた。梶原景時は源通親とも親交が深かったので、九条兼実の反感も買っていた。
1201年 城氏の乱。景時に救命された恩義がある平氏方の城長茂(じょうながもち)が、後鳥羽上皇に倒幕宣旨を求め小山朝政を襲撃。
1202年 朝廷の全権を握っていた源通親が死去。後鳥羽上皇が朝廷の全権を掌握した。時政の強い意向で、千幡(実朝)の正妻に、足利義兼の娘を別れさせて、後鳥羽上皇に接近すべく、坊門信清の娘に決定した。
1203年 阿野全成の変。全成は政子の妹・阿波局を娶っており、頼家を排して千幡(実朝)を将軍に据えようと計画していた。謀反の疑いで常陸に配流、下野で八田知家により殺害された。比企氏・頼家方が優勢になる。北条氏が劣勢になる。
1203年 頼家が安達景盛の妾を横奪。北条政子の調停で謀反を免れるが、安達氏が比企氏と袂を分かつ。
1203年 比企能員の変。頼家危篤の報で、幕府内で調停。一幡に日本国惣守護と関東惣地頭、千幡に関西惣地頭を与える。北条時政暗殺計画を知った北条政子が時政に通報、時政が大江広元を味方とし、天野遠景・仁田忠常に比企能員を暗殺させた。義時が一幡を殺害。頼家の意識が戻ると和田義盛・仁田忠常に時政暗殺を命じた。自ら刀を取って時政を殺そうとするのを政子が制止。和田義盛は時政に味方し、政子は頼家を伊豆に配流。仁田忠常は時政に味方するのを渋っていたのが咎められて加藤景廉により誅殺された。翌1204年、頼家が入浴中に絞殺。北条氏が逆転勝利。武蔵・上野・信濃は比企氏が木曽義仲の所領を奪い取って守護を務めていたが、
1204年 三日平氏の乱。牧の方の娘婿、頼朝の猶子だった平賀朝雅が、伊勢・伊賀に潜む平氏残党を討つ。
元来、武蔵は、寝返り頼朝に味方した河越重頼の所領だったが、娘を義経に嫁がせたため頼朝に敵視され誅殺された。その後、後妻に時政の娘を持つ畠山重忠が武蔵を治めるも、梶原景時・比企能員と対立。この両者が滅せられると、北条時政と対立することになる。
1204年 畠山重忠の乱。三日平氏の乱をおさめたばかりの平賀朝雅と、坊門信子を迎えに京に来た畠山重保が口論。時政が重忠が謀反したと嘘をつき、三浦義村に重保を討ち取らせ、義時と時房に重忠を討ち取らせた。重忠に謀反の意がないと悟った義時が重忠の首を持って時政を問い詰めた。時政死罪の身代わりとして、稲毛重成を首謀者として処刑。
1205年 牧氏の乱。時政・牧の方が一発逆転を狙い、時政の館に住む第三代将軍・実朝を殺し平賀朝雅を第四代将軍に擁立しようとした。政子が察知し、実朝を義時の館に遷し守らせた。実朝暗殺未遂に終わった時政・牧の方夫婦は伊豆へ隠遁。平賀朝雅は京にて射殺。
側近だった平賀朝雅が討たれたことに危機を覚えた後鳥羽上皇が、西面の武士を組織する。
北条政子だけが、緊急事態に将軍権力を代行できていたのが、この年を境に、義時が御家人筆頭の権力を手中に収めた。
1209年 従三位公卿に昇進した実朝が自ら政治を行うようになった。これを将軍親裁と呼ぶ。義時と実朝のあいだに軋轢が生じるようになった。
1213年 泉親衡の乱。源栄実を将軍に擁立して義時を討つ謀反計画が発覚。和田義盛の子、義直・義重、さらに甥、胤長が連座。罰を不服とした和田義盛が謀反、実朝を捕えに攻めるも、義時が回避。三浦義村の寝返りで義時が優勢となり和田義盛一族が戦死。
1218年 政子と時房が京入り。後鳥羽の乳母・藤原兼子と会談した。子供ができない実朝問題を論じあい、実朝を後見人に仕立てて後鳥羽上皇の親王を第4代将軍に据えることを計画。
1219年 公暁が実朝を暗殺。付添いの源仲章(なかあきら)も殺害。阿野時元が次期将軍職を要求して駿河で挙兵するも鎮圧される。政子の命で、時房が兵を率いて京入り、後鳥羽上皇の摂津地頭(義時)の解任要求を拒絶した。院近臣の源頼茂が将軍職を要求して謀反、後鳥羽上皇が鎮圧するも大内裏が消失。その再建のために全国荘園・国衙領に課税。
1221年 承久の乱。後鳥羽上皇が義時追討の院宣。送り先は、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村。親幕派の西園寺公経・実氏を監禁。比企氏一門、木曽義仲に縁のあった近江源氏や美濃源氏が上皇の味方に付いた。
北条政子の大演説、そのあと朝敵となることを恐れず、迎撃案を退け積極攻撃を決定する! すげえ!!
上皇方
藤原秀康(北面の武士)
大江親広(京都守護)
三浦胤義
大内惟信
佐々木広綱(西面の武士)
山田重忠
後藤基清(西面の武士)
加藤光員(西面の武士・検非違使)
渡辺翔(西面の武士・渡辺綱の子孫!!)
五条有範(検非違使・五条判官)
幕府方
北条時房
北条泰時
北条朝時
伊賀光季(京都守護)
三浦義村
大江広元
安達景盛
後藤基綱
流刑先
後鳥羽上皇 隠岐
土御門上皇 土佐 のちに阿波
順徳上皇 佐渡
上皇方の公家や西国御家人の所領を没収し、恩賞として東国御家人に与えた。新補地頭が取り立てを厳しくしたため、荘園領主や荘民と軋轢が増すばかりであった。1223年(貞応2)、新補率法制定。新補地頭の取り分を免田一町と段別五升の加徴米とした。
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