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2021年9月25日 (土)

海の道

アジアとヨーロッパを結ぶ商人をまず覚えましょう。

絹の道 ソグド商人

海の道 スィーラーフ商人

 

漢民族が気軽に行ける最南の地が洞庭湖あたりまで。それより南方の山深き地には山越と呼ばれる非漢民族が住み、野象が棲んでいた秘境の地であった。山越の特徴は低身長と畜蠱(巫女が用いる毒虫の飼育)。漢民族は南北朝時代から元時代にかけて少しずつ海港を征服していき、客家と呼ばれ山越から嫌われた。その南にはベトナム人のチワン族が住んでいる。

建康(南京) → 杭州 → 泉州 → 広州

海の道で、客家(はっか)とスィーラーフ商人が出会った。

 

751年 タラス河畔の戦い

 中央アジアで唐とアッバース朝が戦い、アッバース朝が勝ち唐が敗北した。

 これによって、内陸アジアを通る絹の道が途絶し、ソグド商人はラクダを捨て船に乗り換えて海の道に転職した。

755年 安史の乱

 ソグド人(安禄山と史思明)が唐の玄宗皇帝を殺して唐を乗っ取ろうとして失敗。

 中国全土に住む異形の顔を持つ者は皆、ソグド人だと疑いをかけられ徹底的に殺戮された。

 

*海の道の覇者

 スィーラーフ商人→クルド人→キーシュ王国(スィーラーフ系移民)→ティムール帝国→イエメン(ラスール朝・タヒール朝)→明(鄭和)→ポルトガル→オランダ→イギリス

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スンニー派アッバース朝の新都バクダードの外港として、スィーラーフはますます発展を遂げたが、シーア派やイスマーイール派による反アッバース運動がペルシャ湾岸におこり衰退、950年ころ、シーア派ブワイフ朝の支配下で繁栄を取り戻したが、986年の地震をきっかけに再び衰退した。スィーラーフ商人は街の再建をあきらめ、イエメンのアデン港など各地に移住していった。

バクダード⇔ペルシャ湾岸⇔インド洋沿岸 の航路から

エジプト⇔紅海沿岸⇔イエメン⇔インド洋 の航路に変更された。

エジプトは、ファーティマ朝→アイユーブ朝→マムルーク朝 と交代。

イエメンは、ラスール朝→ターヒル朝 と交代。

イタリア商人が十字軍に乗じて紅海進出しようとしたのを、アイユーブ朝が必死で死守した。

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その後、セルジュークトルコに負け離散したクルド人の一派シャバンカーラ族がインドやオマーン諸都市を攻撃して、貿易を独占。

12~13世紀、スィーラーフ商人カイサル家が貿易独占権を奪還、キーシュ王国の国王に即位。14世紀からサワーミリー家が王位を継承。ホルムズ王国と覇権争い。1323年、キーシュ島がホルムズ王国に併合された。ティムール帝国が一時、ホルムズ王国を併合。

1405~1433年、明の永楽帝の命で、鄭和のジャンク船団が南海遠征。カリカット、ホルムズ、アデンで明への朝貢を迫る示威行為

1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到着。

ドイツ商人とイタリア商人がポルトガル国王に出資して、なんとかポルトガルは国家公認の海賊行為を続けられた。

1509年、ディーウ沖海戦。アフリカを周回してアラビア半島を中継せずに直接インドに接近する航路をたどったポルトガルがインド洋覇権を握った。

 ポルトガル艦隊 vs グジャラート王国(インド)・マムルーク朝(エジプト)連合軍

1519年、ポルトガルがタマオ島占拠。

1521年、明がポルトガルに退去命令。ポルトガルは倭寇の王直との私的貿易に変更する。

1523年、寧波の乱。細川氏・堺商人 vs 大内氏・博多商人

1543年、明国船に乗船していたポルトガル人が種子島に漂着、鉄砲伝来。

1549年、スペイン・イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本征服を目的に明のジャンク船に乗り鹿児島上陸。まず手始めにカトリック布教。インド・ゴアで洗礼を受けていた日本人キリスト教徒アンジローが通訳。

1551年、大内氏滅亡で日明勘合貿易が廃止、海禁となる。倭寇かポルトガル人だけが日明貿易の仲介となった。

1557年、ポルトガル、地租支払いを条件にマカオを獲得。

1568年、オランダがプロテスタント弾圧問題でスペイン王フェリペ2世に反乱。

1581年、スペイン王フェリペ2世がポルトガル王を兼任。

1600年、イギリス東インド会社(EIC) マドラスの聖ジョージ要塞、カルカッタ要塞

1602年、オランダ東インド会社(VOC) 台湾のゼーランディア城

 植民活動には交通費や人件費や現地軍事費など多大な経費がかかり、利益をあげていくのは一苦労だった。本国からも予算のお荷物扱いされかねない状態。

*輸入品

 東南アジアの胡椒・香辛料

 中国の茶・生糸・陶磁器

 インドの綿織物

 ペルシャの生糸

 アラビアのコーヒー

 日本の銀・漆器・陶磁器

1604年、徳川家康が朱印船貿易。(~1635年)

1609年、平戸にオランダ商館設置。商館長ジャック・スペックス。

1615年、ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の仲介で、平戸のイギリス商館設置。商館長リチャード・コックス。

1619年、オランダ、ジャワ・ジャカルタを征服。

1622年、サファヴィー朝アッバース1世が、イギリス東インド会社の援助で、ポルトガルからホルムズを奪還。サファヴィー王国内のアルメニア人商人がイギリス東インド会社と連携。

1623年、アンボイナ事件を契機として、イギリス東インド会社が収益不良に怒り、平戸のイギリス商館を閉鎖、日本貿易から撤退。

1628年、福建出身の倭寇・鄭芝龍がアモイ占領。

1637年、島原の乱で、オランダ軍艦が原城を砲撃。

1639年、中国人の長崎居住を禁止。海商となるか帰化するか、選択を強いられた。

1641年、オランダ商館を平戸から出島に遷す。

1651年、イギリスのクロムウェルが航海条令を発布。オランダ中継貿易を禁止した。

1652~1654年、英蘭戦争

1656年、清が海禁令を出し、鄭成功と絶交した。

1657年、クロムウェルの特許状(イギリス東インド会社)

1661年、チャールズ2世の特許状(イギリス東インド会社)

東インド会社に、司法権、貨幣鋳造権、軍事権、違法貿易船検挙権が与えられた。

1661年、清が遷界令を出し、倭寇を内陸に強制移住させた。

1662年、鄭成功が台湾占領。

1664年、フランス東インド会社(CIO)

1674年、フランス、ポンディシェリを獲得。

1744~1761年、カーナティック戦争

 CIO総督デュプレクスがEICを破り拠点マドラスを占領するも、1753年、本社から勝利・征服より平和を評価していると手紙が届き、1754年、デュプレクスが総督を解雇され、フランス本国ルイ15世からの資金が枯渇してきた。

1757年、プラッシーの戦い

 ベンガル太守・スィラージュ・アッダウラがEIC拠点のカルカッタ要塞を占領。EIC軍人クライブが、カルカッタ要塞を奪還し、CIOとベンガル太守軍を破った。1759年、VOCがベンガルを攻撃したが、EICがVOCを撃退した。

1760年、ヴァンダヴァシュの戦い

 EIC軍がCIO軍を破り、CIO拠点のポンディシェリ陥落。1769年、CIOが活動停止した。

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