カタルーニャ・アラゴン連合王国 フェルナンド2世(夫)
カスティーリャ王国 イサベル1世(妻)
1469年、この二人の世紀の結婚によって、1479年、スペイン王国が誕生。めでたし、めでたし。
というわけにはいかなかった。
カタルーニャ・アラゴン連合王国 王権協約説 大商人・職人>封建貴族
「国王の勝手にはさせないよ。」
「いうことを聞かない貴族より、市民をたいせつにするわ。」
カスティーリャ王国 王権神授説 大商人・職人<封建貴族
「国王は神から与えられた絶対権力なんだから、お前ら逆らうなよ。」
「国王に仕える貴族も偉いんだぞ。市民は俺たちにも逆らうなよ。」
フェルナンド2世は、カタルーニャ・アラゴンの議会や商人・職人たちを嫌って、カスティーリャに肩入れしたのであった。
1486年、カタルーニャに宗教裁判所を設置。思想警察・秘密警察として絶大な権限を有した。
1486年、グアダルーペの裁定。ラメンサ(税)を廃止して、農奴を解放、自由農民とした。
1492年、グラナダ王国陥落。スペインからユダヤ人追放させ経済力が急速に没落した。コロンブスがアメリカ新大陸発見。
イサベル1世の遺言
「新大陸の征服と経営には、カスティーリャ・レオン王国出身者しか携わることができない。」
1778年まで、カタルーニャ・アラゴン王国出身者は蚊帳の外に締め出され、利益を享受できなかった。
1494年、トルデシリャス条約
スペインとポルトガルの征服地の境界線を定めた。

西ゴート王国が支配。アリウス派・西ゴート族20万人にはエウリック法典、アタナシウス派・ヒスパノローマ人500万人にはアラリック法典を適用した。
507年、ヴイエの戦い。西ゴート王国アラリック2世がフランク王国クローヴィスに敗北。ガリアを失う。以後、選挙王制の影響で短期間に国王が暗殺されていく。
568~586年、レオヴィギルド王がユスティニアヌス帝の東ローマ軍を撃退。アタナシウス派に改宗した長男ヘルメネギルドの反乱を鎮圧。加担したスエヴィ王国を併合。
589年、レカレド王がアリウス派からアタナシウス派に改宗。
612~621年、シセブート王、セビーリャ大司教イシドルスとともに文芸復興し、「西ゴート・ルネサンス」と呼ばれる。
654年、レケスウィント王が、西ゴート法典を発布。
694年、ユダヤ人の全財産没収・奴隷化。
ウマイヤ朝

ウマイヤ朝とアッバース朝

後ウマイヤ朝

711年、ウマイヤ朝がイベリア半島を支配。属州化した地はアル・アンダルスと呼ばれ、キリスト教徒はイスラム教に改宗していった。
718年、西ゴート王国貴族ペラーヨがバスク人居住区にアストゥリアス王国を建国。農耕が困難で、牧畜と略奪を生業とした。
732年、トゥール・ポアティエの戦い。ウマイヤ朝がフランク王国宰相カール・マルテルに敗退。
756年、アブド・アッラフマーン1世が後ウマイヤ朝を建国。
785年、フランク王シャルルマーニュ、ジロナ征服。
801年、フランク王シャルルマーニュ、バルセロナ征服。

878~897年、バルセロナ伯がフランク王国から自立世襲化し、ギフレー1世に即位。フランク王国への従属関係はつづく。
910年、アストゥリアス王国ガルシア1世がオビエドからレオンに遷都してレオン王国を建国。
912~961年、アブド・アッラスマーン3世
961~976年、アル・ハカム2世
この二代でアル・アンダルスが繁栄を遂げ、自然科学の水準も向上。
976~1009年、ヒシャーム2世。侍従アル・マンスールがアンダルス人から徴収した税で新たにベルベル人傭兵を募り、レオン王国を略奪。1031年、後ウマイヤ朝が滅び、カリフがイベリア半島からいなくなり、アル・アンダルスは小王国に分立した。
988年、ブレイ2世のとき、バルセロナ伯領が西フランク王国カペー朝から独立。
1029年、バスク人のナバーラ王国サンチョ3世がカスティーリャ王国併合。
1035年、サンチョ3世の長男ガルシア3世がナバーラ王国を継承。
1035年、サンチョ3世の次男フェルナンド1世がカスティーリャ王国を継承。
1035年、サンチョ3世の嫡子ラミーロ1世がアラゴン王国を建国。
1037年、サンチョ3世の次男フェルナンド1世がレオン王国併合。カスティーリャ・レオン王国となる。
1063年、教皇アレクサンドル2世がバルバストロ十字軍を提唱。アラゴン王国サンチョ・ラミレスがナバーラ王国を一時的に併合。
1085年、カスティーリャ・レオン王国アルフォンソ6世がトレド征服。教皇グレゴリウス7世から「皇帝」の称号を許可された。
1086年、サグラハスの戦い。ムラービト朝ユースフ・ブン・ターシュフィーンがアルフォンソ6世を破る。

1091~1110年、ムラービト軍がイスラム小王国を撃破してアル・アンダルスを支配下に置く。
1108年、ウクレスの戦い。アリー・ブン・ユースフがアルフォンソ6世を破り、サラゴーサ征服。
1118年、アラゴン王国アルフォンソ1世がサラゴーサを奪還。
1137年、カタルーニャ王国ラモン・ベレンゲール4世がアラゴン王国を併合し、カタルーニャ・アラゴン連合王国となる。
1143年、カスティーリャ・レオン王国「皇帝」アルフォンソ7世のブルゴーニュ家から出たアフォンソ1世が、臣従を条件にポルトガル王国を建国。
1151年、カタルーニャ王国ラモン・ベレンゲール4世は、「皇帝」アルフォンソ7世への臣従を条件にバレンシア・ムルシアを征服。イングランド王兼アキテーヌ公ヘンリー2世と同盟締結。
1179年、カソルラ条約で、カスティーリャ王国にムルシアを譲渡し、バレンシアの経営権を承認させた。アラゴン・イングランド同盟にカスティーリャを組み込み南仏の覇権を維持しようと画策した。
1188年、レオン王国アルフォンソ9世が身分制議会(コルテス)を招集。これは、世界初の議会であった。
1195年、アラルコスの戦い。カスティーリャ王国アルフォンソ8世がムワッヒド朝ヤアクーブ・マンスールに敗退。
1212年、ラス・ナバス・デ・トローサの戦い。アルフォンソ8世がムワッヒド朝ムハンマド・ナースィルを破る。



1209年、教皇インノケンティウス3世がアルビジョワ十字軍を提唱。フランス・カペー朝フィリップ2世の代理、シモン・ド・モンフォールが、カタリ派を匿うカタルーニャ・アラゴン連合王国を征討略奪し、ペラ1世が奪った南仏領オクシタニアを回復した。カタルーニャ・アラゴン連合王国は滅亡の危機にさらされた。
1218年、カタルーニャ・アラゴン王国ジャウマ1世がカタルーニャ議会を設置。
1229年、幼くしてテンプル騎士団で洗脳教育を受けたジャウマ1世がイスラム海賊からマリョルカ島を征服。
1232~1238年、ジャウマ1世がやっとの思いで良港バレンシアを征服。
1236~1248年、カスティーリャ・レオン王国フェルナンド3世による大レコンキスタ。1246年にナスル朝グラナダ王国ムハンマド1世を臣従させた。
1252~1284年、カスティーリャ・レオン王国アルフォンソ10世は貨幣・度量衡の統一、物価・賃金統制など国内政策に力を入れ、トレドの翻訳グループを設立し、十二世紀ルネサンスに多大な影響を及ぼした。トレドとセビーリャにて、アラビア語文献をユダヤ人やモサラベ協力者が肉声でカスティーリャ語に訳し翻訳者がラテン語、のちカスティーリャ語に書き写した。
科学知識の大移動によってヨーロッパ各地に大学がつくられていきました。
Gaudeamus igitur, Juvenes dum sumus!
Gaudeamus Igitur - André Rieu - YouTube
1265年、ジャウマ1世が百人議会を設置。
1269年、マリーン朝アブー・ユースフ・ヤアクーブがムワッヒド朝を滅ぼす。
1333年、マリーン朝アブー・アルハサンがアルヘシラスとジブラルタルを占領。
1340年、サラードの戦い。カスティーリャ・レオン王国アルフォンソ11世が、アブー・アルハサンを破る。
1344年、アルフォンソ11世がアルヘシラスを奪還。キリスト教徒がジブラルタル海峡を制することができてはじめて、ジェノヴァ商人が、イベリア半島西岸まで進出できるようになった。ジェノヴァ商人はナスル朝グラナダ王国とも交易をした。
1356~1369年、カタルーニャ・レオン王国ペラ3世とカスティーリャ・レオン王国ペドロ1世が長期戦争。
1366年、トラスタマラ朝の内乱で、カスティーリャ・レオン王国ペドロ1世がエドワード黒太子に軍事援助を求め、英仏百年戦争を深刻化させた。次のエンリケ2世はフランスと同盟し、カスティーリャ王位継承権をもつランカスター公ジョンの存在でイングランドと敵対。ドーバー海峡を封鎖されフランドル貿易に大きな障害をきたした。
*ジブラルタルと良港アルヘシラスは、地中海制覇にとって最重要地点なので、どの国が獲ったのか覚えることは大変重要なことです。
1369年、ナスル朝ムハンマド5世がカスティーリャ・レオン王国からアルヘシラスを奪還。
1372年、ラ・ロシェルの海戦。カスティーリャ海軍・フランス海軍連合軍がイングランド海軍を破り、ドーバー海峡制海権を掌握した。
1374年、ナスル朝ムハンマド5世がマリーン朝からジブラルタルを奪還。
15世紀後半以降、ジェノヴァ共和国の通達やグラナダ沿岸の治安悪化のため、ジェノヴァ商人がグラナダ王国から撤退した。
*ペスト流行
1348年、1362-63年、1371年、1374年、1381年、1396年、1410年、1429年、1439年、1448年、1457年、1465年、1486年、1493-94年、1497年
1410年、バルセロナ伯爵家断絶によってカタルーニャ・アラゴン連合王国国王が空位となる。地中海を制覇した栄光を持つカタルーニャ・アラゴン連合王国の貴族・富裕市民・大商人・職人にとっては既得権益を守り続けるために、アラゴン、カタルーニャ、バルセロナの国王候補を退け、あえてカスティーリャのトランスタマラ家から好都合な国王ファラン1世を迎えた。カタルーニャ・アラゴンの地では、国王といえど、「カタルーニャ議会」と「百人議会」の決定に従わなければならない。国王が法の下に支配されることが規定されていたのは、ジョン王以降のイングランドと、ジャウマ1世以降のカタルーニャ・アラゴン王国だけであった。1412年、アビニョン教皇ベネディクトゥス13世によってファラン1世が正式に承認された。しかし1414~1418年、神聖ローマ皇帝ジギスムント主催のコンスタンツ宗教会議で教会大分裂を終結させるべくアビニョン教皇ベネディクトゥス13世が廃位され、ファラン1世にも見捨てられてバルセロナ孤島に幽閉・悶死されることになった。
*フランス・アンジュ伯とのシチリア戦争
1282年、シチリア晩鐘事件に乗じてペラ2世がシチリア島を奪取。
1285年、ローマ教皇マルティヌス4世の命で、フランス王フィリップ3世がカタルーニャ討伐十字軍を派遣するも疫病により和平。
*ビザンツ帝国とのバルカン復讐戦争
屈強な軍団であったアルモガバルスが、ビザンツ皇帝アンドロニコス2世によって虐殺。
1311~1388年、アテネ公国・ネオパトリア公国を占領建国。
*ジェノヴァ共和国とのサルジニア・コルシカ百年戦争
ジャウマ2世の時代から1324年サルジニア島占領、さらにコルシカ島争奪を試みており、次のアルフォンス4世は地中海制覇を夢見て、海外遠征に明け暮れた。1449~1453年、ビガとブスカの内紛が増大した。
ビガ(輸入業者) 自由貿易・通貨高値安定を主張
富裕市民・大商人・中小貴族・僧侶
ブスカ(輸出業者) 保護貿易・通貨安値安定を主張
小商人・職人
1432年、ポンサ島海戦で敗北。
1442年、ナポリ王国を奪取。
1453年、ビザンツ帝国をオスマン帝国から救出しようと画策するも国内問題で海外遠征できず、ビザンツ帝国が滅亡。
次のジュアン2世は都市ではブスカを支持、農村ではラメンサ農民(農奴)を支持した。
1458年、ナバラ王国を併合。
1462~1472年、ナバラ国王継承問題(嫡子カルラスの処遇問題)で、国王と議会が内戦。国内は急速に荒廃した。
このあとすぐに登場する太陽の沈まない国スペイン、ハプスブルク家のカルロス1世&フェリペ2世の時代のお話は、世界史教科書にも太字で載っていますし、概観する場合は、この本がわかりやすいですので読んでみてください。

ヨーロッパ世界大戦ともいうべき、ガチの国際戦争が、
1701~1713年、スペイン継承戦争
1702~1714年、アン女王戦争
1516年にカルロス1世が即位して以来、スペインはハプスブルク家が支配してきたが、ついに断絶を迎えた。
フランス・カスティーリャ・バスク・ナバラ
vs オーストリア・大英帝国・オランダ・ポルトガル・カタルーニャ/アラゴン
1713年、ユトレヒト条約
1. ブルボン朝フェリペ5世のスペイン王位を認めるが、フランスとスペインの合併は禁止。
2. スペインは、ジブラルタルとミノルカ島をイギリスに割譲。
3. スペインは、シチリア島をサヴォイア公国に割譲。
4. フランスは、アカディアとニューファンドランドとハドソン湾地方をイギリスに割譲。
1714年、ラシュタット条約
1. フランスは、南ネーデルランドとナポリとミラノとサルジニア島をオーストリアに割譲。
1733年、第一回家族協約
1. スペインはナポリとシチリアを領有する。
1743年、第二回家族協約
1. スペインはパルマ公国を領有する。
最近のコメント