1326年(嘉暦元)嘉暦の騒動
3月13日、北条高時が執権を辞任、金沢貞顕が執権に就く。
これを不服とした高時と母・大方殿は、高時の弟であった北条泰家を出家させ、後追い出家する武士が続出。
3月26日、金沢貞顕が執権を辞任、赤橋守時が執権に就く。
1331年(元弘元)元弘の変
4月29日、後醍醐天皇の倒幕運動が幕府に露見する。
1332年(元弘2)3月7日、後醍醐天皇が隠岐に流刑。
1333年(正慶2)5月22日、北条高時ら北条一族が東勝寺にて集団自害。
将軍 守邦親王
執権 赤橋守時
連署 常盤茂時
六波羅探題北方 北条仲時
六波羅探題南方 北条時益
鎮西探題 赤橋英時
奥州惣奉行 平泉の葛西氏、多賀国府の伊沢氏
*生き延びた北条一族
北条泰家(高時の弟)
北条邦時(高時の長男9歳) 五大院宗繁が保護、1週後に新田義貞に斬首される
北条時行(高時の次男5歳) 諏訪盛高が保護
阿蘇治時(高時の猶子16歳) 京にて出家降伏するも翌年斬首される
近年の研究では、北条氏は内部で多くの家系に分かれ、その家系で相伝された守護職を所持し、また独自の経済基盤としての所領を保持するなど独自性を持ち、北条氏一門が得宗の一元的支配下にはなかったことが明らかにされている。
1333年(正慶2)10月、北畠顕家が義良親王を奉じて陸奥将軍府を設立。
1333年(正慶2)12月、足利直義が成良親王を奉じて鎌倉将軍府を設立。
1333年(正慶2)12月、名越時如(なごしときゆき)と安達高景(あだちたかかげ)が津軽持寄城にて挙兵。伊賀盛光によって鎮圧。
1334年(建武元)1月、規矩高政(きくたかまさ)が筑前帆柱城にて挙兵、糸田貞義(いとださだよし)が筑後堀口城にて挙兵。深掘明意・少弐貞経によって鎮圧。
1334年(建武元)10月、伊豆修禅寺再興を要求して顕宝と六十谷定尚(むそたにさだなお)が紀伊飯森山にて挙兵。楠木正成・三善信連(みよしのぶつら)・斯波高経(しばたかつね)によって鎮圧。
1335年(建武2)4月、北条高安が京にて挙兵。楠木正成によって鎮圧。
1335年(建武2)6月、西園寺公宗と北条泰家と日野氏光が光厳上皇を奉じて、京にて後醍醐天皇暗殺未遂。楠木正成・高師直によって鎮圧。光厳上皇は持明院統存続に執念を燃やしており、「持明院統の後醍醐」というべき存在であった。光厳上皇⚔後醍醐天皇
1335年(建武2)6月23日、諏訪頼重・時継が北条時行を奉じて、信濃にて挙兵。中先代の乱と呼ぶ。
北条時行方は、諏訪氏、滋野氏、四宮氏、保科氏、三浦氏。鎌倉将軍府の関東廂番であった、三浦時明・天野貞村・伊東佑持・那和左近大夫は、建武政権方から寝返った。
建武政権方は、小笠原貞宗、市河助房、岩松四郎、岩松経家、渋川義季、今川範満、小山秀朝、佐竹貞義、佐竹義直、足利直義。
1335年(建武2)7月24日、北条時行軍が足利直義軍に勝利をおさめ、鎌倉入り。鎌倉将軍府の成良親王が鎌倉を捨て帰京する。足利直義が北条時行と護良親王の連携を恐れて、鎌倉流刑中の護良親王を殺害。足利直義は足利義詮を警護して三河で足利尊氏を待つこととなる。
1335年(建武2)8月1日、後醍醐天皇は足利尊氏の願い出を却下して、成良親王を征夷大将軍に任じる。
1335年(建武2)8月9日、足利尊氏が征東将軍に就任。
1335年(建武2)8月12日、遠江にて名越式部大夫を破る。
1335年(建武2)8月14日、駿河にて尾張次郎を破る。
1335年(建武2)8月17日、相模にて三浦時明・時継を破る。
1335年(建武2)8月19日、鎌倉にて諏訪頼重を破り、北条時行が鎌倉を捨て逃走。
1335年(建武2)8月、名越時兼が北陸で挙兵。
1335年(建武2)11月26日、後醍醐天皇、足利尊氏の官職をすべて解任する。
1335年(建武2)12月11日、箱根・竹ノ下の戦いで、足利尊氏が新田義貞を破る。
1336年(建武3)1月、足利尊氏は京を制圧するも、北畠顕家に追いやられる。北畠顕家が鎌倉通過後、斯波家長が鎌倉を制圧して足利義詮を補佐した。
1336年(建武3)2月、摂津合戦で北畠顕家・新田義貞に敗れた足利尊氏が、元弘没収地返付令。それから室津軍議。
播磨 赤松円心
四国 細川和氏・顕氏
備前 石橋和義
備後 今川顕氏・貞国
安芸 桃井盛義
周防 (大将)大島義政 (守護)大内長弘
長門 (大将)斯波高経 (守護)厚東武実(ことうたけざね)
*前もって部下にご褒美を約束して立ち去った尊氏だが、これだけの部下を置き去りにして、裸同然で九州入りして多々良浜の戦い前に余りの味方の数の少なさに尊氏が自害しようとして、やってみないとわからんでしょうがと言われて自害を止められるというエピソードは笑える。大丈夫か、尊氏。
1336年(建武3)2月、足利尊氏は佐々木道誉の仲介で、光厳上皇の院宣を鞆の浦にて入手する。
1336年(建武3)2月15日、北条泰家が信濃にて挙兵。
1336年(建武3)3月25日、斯波家長と北条泰家が鎌倉合戦。吉良貞家が斯波家長を加勢し、北条泰家が敗退。
1336年(建武3)3月、筑前多々良浜の戦いで、足利尊氏が勝つ。
1336年(建武3)5月25日、湊川の戦い。楠木正成が足利尊氏に敗死。
1336年(延元元)8月15日、光明天皇践祚。(北朝の成立)
1336年(延元元)11月2日、後醍醐天皇が三種の神器を光明天皇に渡し、上皇に即位。成良親王が皇太子に立つ。
1336年(延元元)11月7日、建武式目制定。(室町幕府の成立)
1336年(延元元)12月21日、後醍醐天皇、上皇を辞して重祚。吉野に南朝を遷都。(両統迭立)
1337年(延元2)8月、北条時行が南朝に帰順し北畠顕家と新田義興と合流し、伊豆にて挙兵。
1337年(延元2)12月23日、北条時行、斯波家長を破り足利義詮を追い出し、鎌倉入りを果たす。
1338年(延元3)1月27日、北条時行、美濃にて高重茂を破る。
1338年(延元3)1月28日、北畠顕家、美濃にて土岐頼遠を破る。
1338年(延元3)5月22日、和泉堺浦の戦いで、北畠顕家敗死。
1338年(延元3)閏7月2日、越前藤島の戦いで、新田義貞敗死。
1338年(延元3)8月11日、足利尊氏、征夷大将軍に就任。
1338年(延元3)9月、後醍醐天皇の皇子を全国に派遣した。懐良親王を征西将軍に任じ、五条頼元に九州制圧を命じた。南朝系の「新葉和歌集」を編纂した宗良親王は遠江にて井伊氏に奉じられた。常陸親王は周防にて大内氏に奉じられた。
1339年(延元4)8月16日、後醍醐天皇崩御。義良親王が後村上天皇に即位。
玉骨は たとひ南山の苔にうづもるとも 魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ
1340年(興国元)6月、北条時行、諏訪頼重とともに信濃にて挙兵。小笠原貞宗によって敗走。
1345年(興国6)8月、後醍醐天皇の菩提を弔うため、天龍寺落慶供養。
1348年(貞和4)1月5日、楠木正行・正時、和田賢秀(かたひで)が四条畷の戦いにて敗死。
1348年(貞和4)1月28日、高師直・高師泰が吉野陥落・炎上。
1348年(貞和4)2月、懐良親王(征西将軍宮のちの日本国王)、肥後菊池城に入り、菊池武光に奉じられる。
1350年(観応元)10月、観応の擾乱
1351年(正平6)10月、正平の一統。南朝が京を制圧。
1351年(正平6)10月24日、足利尊氏・義詮が南朝に投降。
1351年(正平6)11月7日、北朝の崇光天皇と北朝系皇太弟の直仁親王(光厳上皇の皇子)を廃立した。
1352年(正平7)閏2月20日、足利尊氏が上野へ不在の隙に、新田義興・脇屋義治が北条時行とともに鎌倉入り。
1352年(正平7)閏2月23日、新田義興・北条時行は三浦高通(たかみち)と合流すべく鎌倉を出る。
1352年(正平7)閏2月28日、新田義興・三浦高通が尊氏方の石塔義基(いしどうよしもと)を鎌倉にて破る。
1352年(正平7)3月2日、足利尊氏が鎌倉に帰還。新田義興・三浦高通は鎌倉から逃亡。
1353年(正平8)5月20日、北条時行が鎌倉で捕縛され斬首。享年25。
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